・・・「おかあさんは かぞくのなかで わたしのことがいちばんきらいなんでしょ」・・・

                               ・・・・「おかあさんは こどもがきらいな おとなでしょ」・・・



                                   8歳になっていた あなたのせりふでした。

                                あの頃のお母さんは あなたにこんな風に言われても 

                               あなたの、悲しみを露わにした表情に混乱するばかりで

                                      何も言うことが出来ずにいました。

 
                                  どんなにあなたたちを傷つけているだろうとか

                                        なんて酷い親だろうとか

                                     心の片隅に感じてはいても、

                              小さな心を痛めながら生きているあなたたちを

                                  本気で見つめようとはしませんでした。             


  
                          こうして いろんな事を吸収して お母さんとして成長し始めた現在でさえ 

                              お母さんは あなたたちに「ごめんね」と 謝ることしかできません。

                 
                    
                                           「ほんとうにごめんね」      




                                              こんなひどいお母さんだったけれど

                                                   いつの日かきっと

                               あなたたちの 本当の意味での親になれる日が来ると思うから                          

      

                                     もう少しだと思うから     待っていてください・・・    
                  

     

 

 自分達の気持ちを整理すると言う目的で、

                  私達は此処に「子ども」「母親「親子」「夫婦」これらの関係を考えていきながら               

   少しづつですが、記録を残して行きたいと考てえいます。

これからお読みになられる方には “子どもを愛せる母親になろうとして頑張っている私ではなく、

より早く自分を愛せる人間になろうとしている私” を連想していただけると、嬉しく思います。 

なお、この中に書かれていることはあくまで私個人の主観で捉えた事実であり、

他のどなたの意見も必要とはしていません。


          2003.6.9            私は4人の子供たちを残して家を出ました。            

離婚しようと思い始めた頃、離婚しようと決断した頃、彼にその意思を伝えた頃、何れの時期も、

母親である私が子どもを置いていくなんて事は、想像もしていませんでした。                                                 

その頃には、自分は一人でも生きていけると思えるほどの、生きるための能力を持ち合わせているようにも思えましたし、

まして離婚の理由である、自分の傷を癒したいと言う事から考えても、

”子どもに傷を作ってまで・・”と言う思いが何処かにあったからです。

しかし、こんな考えとは別のところで、子供たちの親として生きる人格は異常な疲れを感じていました。

なにより本当は今でも、自分が子どもの頃の傷に怯えて生きていることをすっかり感じてしまった以上、

”母親”と言うこの二文字は、重く心に突き刺さるだけでした。

一度重たく感じてしまった役割は、その二文字を想像するだけで、

私達は死んでしまうのではないかと思うほどの息苦しさを感じるようになりました。

離婚を彼に掲示しても平行線のままだった、”子どもはどちらが引き取るか”と言う問題について、

私は彼と議論する事が出来なくなりました。

ただ苦しいのみでした。その苦しさの中で新たに発見した事は「私は本当は、

子どもを愛そうとしているだけで、実際には愛してなど居ないのだという事。

そして私が子どもに対して表現する”愛”は、

単に”自分の傷を隠すためのものなのではないだろうか”と言う、自分に対する疑問でした。

この頃には、私は親としても、一人の人間としても限界を感じていました。

常に痛む自分の傷を抱えたままであり、そして忙しさに傷を癒せない、

直視できないイライラを子どもにぶつけてしまう事が多くなりました。     

罪悪感と母親であると言う事の責任の重たさ、そしてイライラの繰り返し、

その中でかろうじて、動ける人格だけが頑張っている状態となり、

私の中の誰もが皆、”限界”を感じる日々となりました。

そんな日が何日か続いた頃、今の私にはこれ以上子どもは育てられないと、

心の底から感じるようになりました。育てられないと言うよりは、

子どもと同じ空間に居る事がことごとく辛くなってしまったのです。

こんな辛さを例えば子ども達の父親である彼に一言でも語る事が出来ていれば、

もう少し違った形があったのかもしれません。

けれど、私の中には既に何年も前から、彼には私の心の中の事は語れない、一言も・・。

と言う気持ちが存在していましたので、とても今になって、それも、

私の一番辛い部分を彼に話す気持ちにはなれませんでした。

つまりこの辛さを一人で乗り越えるか、または一人で放棄するか、

その時の私にはどちらかしか選べなかったのです。

何も言わない私に、彼のほうから子供の事を切り出す事はありませんでした。

理由を想像する事は出来ます。

彼の中ではもうずいぶん前から、

私という母親は子供を育てる能力に欠けている人間だったのではないでしょうか。

一人で家を出ると決めてから、私は残された子供たちが困らないように出来るだけのことをしました。

思春期間近の長女には、突然初潮が訪れたときの事を考えて、その為の準備をし、

長女に女性の体について私が知る限りの事を話して聞かせました。

子ども達の前からある日突然消えていくことは、私には考えられませんでした。

それでも、私がもうすぐ家を出ると言う事だけは変わらない事実。

それなら私が話せる限りの気持ちを伝えて行きたいと思いました。   

そして何よりも伝えておかなくてはならないのは、

「あなたたちは、母親に見捨てられたのではない」と言う事でした。

そして、自分達のせいで、私という母親が家を出たのではないと言う事だけは、

しっかりと子ども達の頭に焼き付けておきたかったのです。

私はタイミングを見計らっては、何度もその事について話して聞かせました。

何度でも話していく事は、私が自分の気持ちを確認する作業にもなりました。  

“私は子どもを捨てて家を出るのではない” 

「お母さんは少しでもあなた達の気持ちが解るお母さんになるために、遠くでお勉強してくるからね」

いつもいつも、この言葉が頭の中で往復していました。  

何度話してもまだまだ足りないように思いましたし、実際は無駄な事かもしれません。

何しろ、そう語っている母親が現に自分の前から居なくなるのだから・・・。

その事実を知ったとき、子ども達の悲しみと動揺がどれほどのものかと考え始めると、月日の経った今でも、

私は親として心を掻きむしられる感覚に陥ってしまいます。

「あなた達は愛されるに値する存在だ」と、私の口から伝える事が当時の私に出来る唯一の方法でした。

語っている私が辛くても、それだけは語っておかなければいけないとすら感じていました。

「誰が何と言おうと、自分の気持ちを大切にするんだよ」と子どもに語りながら、

私にはその言葉が、まるでこれから家を出ようとしている自分への言い訳のようにも思えました。

けれど、その言葉はもちろん自分にかけて上げても良い言葉であり、自分に対してそれが出来て始めて、

子ども達の事も、例えば彼の事も   母親や妻として「感じるままを感じてもいいのよ」と

心の底から伝える事が出来るのだろうと、

そんな小さな確信も、私は持ち合わせていました。

何かの出来事に対して、泣く事も正当に怒る事も出来ない私では、

どんなに小さな赤ん坊にさえ「泣いてもいいよ」と心から言ってあげることが出来ないのだと、

私自身が気が付く事が出来たからでした。

長女は布団の中で静かに涙を流しました。

少しづつ体が細くなっているのが、私の目にははっきりと解りました。

そんな長女の事も、他の子ども達のことも、私は直視できませんでした。

罪悪感と反対に必ず楽になって迎えに来るから・・という気持ちを心の中で操りながら、生活していました。

別れの朝はいつものように訪れました。

私は前日の朝と変わらず家族に朝食を作り、自分が仕事に出かける準備をしました。

私のわずかばかりの荷物は、前夜家族が寝静まった後に、車の中に運び込まれていました。          

不登校をしている長女の為におそらく彼は夕方まで帰っては来れないと想像した上で、

いつもよりたくさんの昼食を準備しました。

長女は不思議に思ったらしく

「お母さん、何処か行くの?今日、遠い所に行くの?」と聞いてきました。

娘の予感が的中している事は、私はどうしても言えませんでした。 

子どもに嘘は付きたくなかった。特にこんな酷い嘘は・・。

でも、自分の心に嘘を向ける事はそれ以上に出来ませんでした。

一人で家に残る長女にいつものように「一日楽しく過ごしてね!」と声をかけ、

それから「お母さんは今日はうんと遅くなるから・・」とだけ伝え、

体を抱きしめて扉を閉めました。

それから次女と3女をいつもの公園に送り出しましたが、

私はしばらくそこから動く事が出来ませんでした。

当然ですが、次女も3女も誰一人も、

母親が今日から家に帰ってこないとは、ほんの少しも思っていなかったでしょう。

長男と保育園での別れ際、いつものように握手する行為を、その日は窓の外から眺めている私がいました。

その後のことは殆ど記憶に無いのであまり書けませんが、

長男を保育園に送り届け半日の仕事をし終えるまで、

私は時々罪悪感に押しつぶされそうになりながら、

今はまだ何も考えてはいけないと言う感覚をにぎり締めていました。

と言うよりも頭の中は真っ白だったのだろうと思います。

子供を置いて家を出たと言うその事実と、まずは自分の心を守る事ができたと言う二つの気持ちと

さらに少しの安堵感を今そこで感じてもいいのかどうかも解らずに・・・。

そしてこの時点では、彼との生活を望み子育てに関わってきた別の人格は、

自分達の状況がこれほど変化していることを知りませんでした。

                                                                                              August.22.2003    Mamo.           

 

 

 

November.2.2003 

おそらくこの日、子ども達は父親である彼の実家に旅立ったと思います。 

・・・・私は子供たちをこれ以上傷つけないために此処へ来ました。

これまでの、自分にとって子どもの存在はとても大切なのものなのだと “思い込もうとしていた自分” から 

 心の底でそう思える自分に成長するために、およそ5ヶ月前、子どもを残して家を出ました。        

5ヶ月かけてゆっくりと感じ始めた人間としての感情、それは小さく覚えた安堵感が始まりでした。

とりあえず一人になれたことで、考える時間は作れるようになったのだ・・

コレからどうして行けば良いのかを私はゆっくり考えていける・・。

こんな考えの基にL.Aに飛び立った当時、私は自分を開放させてあげられた満足感の中に居ました。

L.A滞在中を含めて3ヶ月あまりの自分の生活と、

心の傷を癒すという作業の中に子供の事を思う日はだんだんと少なくなっていきました。

その理由として、私(Mamo)自身が、

自分が選択した道は間違っていなかったのだという確信を持ちたかったという事と、

そしてもうひとつ、母親の役割をしていたMinakoが陰に潜んだまま、

3ヶ月前に家を出たときと、それ程変わらない心の状態のまま

奥にもぐりこんで倒れていたという事があると思っています。つまり・・・考える事を辞めていた・・のです。

過去の私達はいつでも、本当に生きるか死ぬかの瀬戸際のところを歩いていて

明日には他の人格の手で私達は死んでしまうのじゃないかと

言うような酷い状態で子どもを何とかしようとしていました。

ですから、私たちが家を出た後の3ヶ月間、ただただ毎日、

過去の長い苦しみから抜け出し、

自分が今ここで生きている事を確認する為の作業を

本当に毎日、ひたすら繰り返していたのだろうと、今になって思います。

母親としてではなく、そして誰かの子どもでもなく、一人の人間として生きているのだという証、

それを決定的なものにしてくれる何かがが欲しかったようにも思えます。

そんな生活の延長で3ヶ月の終わりを迎えた頃には、私は就職活動を楽しむようになっていました。

楽しめる自分を素敵だと思いました。

そして何かを楽しめるという事は、それだけ心の余裕ができてきたという事で、

その余裕の隙間に、そろそろと、子どもの存在が入り込んでくるようにもなっていました。

外で見かける子どもの姿に、自分が暗闇に消えてしまう瞬間を何度も感じるようになりました。

その場に居たいと思っていても子どもの存在が傍に無い事を「辛い」と感じる上に、

その頃の私にはその辛さを見つめる事が出来ませんでした。

「母親が子どもを残して家を出る」・・・私はそれをやった人・・・そうしてしまった人・・・

外で親子の姿を見るたびに、私は罪悪感に駆られました。

誰かに責められているような気持ちさえしました。

「何度も考えた末の結果で今此処に居る、私は子どもを捨てたのではない」という、

始めの思いはいつの間にかどこかへ消えてしまい、

「本当にこれでよかったのかどうかがわからない」状態が続きました。

マイナスの中では考えても考えても・・答えが出せない。

だとしたら今は私が自分の事をやっていくしかないんだという事を、頭では解っているつもりでも、

そこから先に進めまないまま、深みに嵌って宙ぶらりんの気持ちをぶらさげたまま歩いていました。

宙ぶらりんを下げたままという事は、その重みの分だけ過去の癒しの作業が進まないという事で、

私は徐々に自分の辛さから視点をずらし、外を歩く他の家族に持っていくようになっていました。

誰に聞いても答えなど出るはずもないのに、私は事もあろうに過去の苦しみの中に生きている

彼から、自分は正しかったのだという答えを貰おうとしていました。

当然そんなことが出来るはずもなく

・・・(たとえ彼がそれらを表現してくれたところで、過去とは何も変わらないのに)

結果的に私は再び彼の言葉によって傷を広げ、

そして忘れていた彼への底つき感をリアルに思い出すことで、

しばしの間苦しむことになりました。

再び感じた苦しさの中で、私は否応なく「子どもの存在」というものについて考えることを始めました。

考えていかなければ、何時までも自分が辛いままだから。

・・・・子どもは預かり物・・・・

こんな言葉を、私は自分が子どもの頃から耳にしてたように思います。そして子供を産んだ後には頻繁に・・・

何度聞いても実感すら出来ずに、いつの間にか忘れていた言葉でもありました。

・・・・子どもは預かり物・・・・今この時期に、私がこの言葉を思い出したのは何故だろうと、自分で思います。

そして、思い出したというよりは、考えてきた結果の答えに辿り着いたと、

そんなふうに言えるのかな、とも感じています。。

・・・・私はつい何日か前まで、

「私」が子どもを産み、「私」が子ども達を育てていて、「私」が子育てをうまく出来なかったと、

そう考えて居ました。

ところが本当は違ってた・・・。

極端に言うと、私が子供に対してできた事は、子どもを作るという行為そのものだけ。

そこから先の全ては、子ども自身の“生きようとする力”ではないかと思えます。

どんなに小さな細胞も、自然の流れに乗って、

一つの命になるべく、細胞分裂を繰り返していく・・

(実際には、人の精子と卵子が受精する瞬間というのは、

とても神秘的なものだと、私はいつも思っています。)

私はというと、私の中の性を受け持つ人格が、

自分の生物学的な欲求を満たす行為をしたに過ぎないのでは・・。

(自分でSEXをしていないので・・此処らへんは何とも・・)

そしてそこに、結果的に私の子どもとなる“人の命”が出来上がった・・。

誰の力かと言われれば、それは子ども自身の力であるように思えてなりません。。

だからこそ子どもは、

自分の力で産道を潜り抜けて産まれ出てくるのではないかなと、そんな風にも思えます。

それを考えると余談ですが、

残念ながら「死」という形でこの世に出てきてしまった赤ちゃんの尊い命も、

それは赤ちゃんが選んだ結果の事であり、

例えばその事でご自分を責めるお母さんが居るとしたら、

私は心からそうではない事を伝えられたらいいなと思います。

(私自身は経験していないので、このことに関しては深くは言えません)

・・・子どもは自分の力で生まれてきた・・・

だとしたら、当然自分の力で生きていくに決まってる。

そうです。おそらく子どもは自分の力で生きていくのです。

他の動物の赤ちゃんがそうであるように・・。

もしもこの考えが当たりだとすると、

子どもは何処に居ても、自分の力で行きていくということになります。

たとえどんなに酷い状況の中でも。

そしてこの事を証明出来るモノとして、此処に私が存在する。

打たれても打たれても、どんなに否定されていても、

私は此処に生きてきて、そして今はこんな事を考えている。

人はいつでも生きて続けていくのですね。どんなに小さな命も。

もしも子どもがこれからも、自分の力で生きていくのだとしたら・・。

こんな形で子どもと離れてしまった今の私に出来ることは何だろうと考えます。

もう思いつくことは一つしかない・・・私はわたしの人生を生きていく事が一番ではないかと思えます。

コレだけで十分なのではないかなとも思います。

私が一人の人間として、より良く生きていく事を続けていれば、

“母親”ではない、“一人の人間”としての人生を楽しむ事が出来ていれば

きっといつか子どもに出会ったときに、

“子供の存在があるゆえ”に感じていた、死にそうなほどの辛さを、

懐かしいとさえ思えるのではないかと、そんな風に思います。

・・・と、そうであればいいなぁと、本当にそう思います。

何しろまだ途中経過なモノで、はっきりとした事は言えないのです。

ただ、こんな風に思えたことで、

私自身がとても楽になったと言うことだけは、確信を持ってお伝えしておきます。

そしてこの私がこんなにも楽になったという事は・・・

コレを読んで下さっている方の中に育児を辛いと感じるお母さんがいらっしゃるのならば、

私と同じにはならないとしても、オブラート1枚分くらいは楽になられる方もいるのかなーと思います。

空は繋がっていて、道も繋がっている、一つしかない地球は丸い、

歩いていればきっと何処かにたどり着く・・・・。

丸い地球を歩いていれば、丸いものが見えるようになって、

丸いものを視てる私の心も丸くなって、

そんな私が視るもの全てが丸く見えるようになってきて、

ついには丸い地球の裏側まで転がっていけるかもしれません。

「私は一人の人間として生きていけるように、成長したいと思います。

それからもう一度母親の役をやってみたいと思います。」

此処から、あなた達が旅立った日と同じ日から・・・

お母さんもスタートにしようと思います。私の人生としてのスタート・・。

そして・・・

こんなにたくさんの事について考える機会を

私に与えてくれた4人の子どもたちに、私は今感謝します。

今はまだ、感じ始めたばかりの小さな感謝の気持ちも、

これからどんどん大きく膨らんでくるのだろうと、

母親として、そんな風に思えます。

そしてこの言葉も今言わせてね・・・。

私を母親にしてくれて、選んでくれてありがとう。

それなのに、あんなにも傷つけていた過去を、

本当に本当に、ごめんなさい・・・。

      

 November.3.2003 雨降りの日 Mamo

 

 

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