私の子供時代の記憶は、ある時期は殆どかけているか、あっても断片的なものでしかありません。

最も、皆大人になると子供の頃のことなんて忘れてしまうのだろうと思っていたので、

子供の頃の記憶を鮮明に思い出せる人は、私は不思議な感じがしていました。

空白のままの隠れた記憶の部分は、私の中で他の誰かが抱えていました。


それぞれの人格は、私には無いパーソナリティーを持ち合わせ、私はあらゆる場面で他の人格に助けをかりながら生き延びていたようです。

「生き延びていた」という表現は、決して過大表現ではないと思っています。

もし、あの時 私が自分で痛みを感じていたら、気が狂って死んでいたかもしれない。 
もし、あの時 泣かない人格が居なくて、私が泣き叫んでいたら、私は今まで以上の恐怖を与えられたかもしれない。
もし、あの時 ・・・・
  
こんな場面が私には山ほどもあり、この人たちが居なければ、今の私は存在しなかっただろう,

そして、常に痛みや恐怖や不安を抱えた日常で生きなくてはならなかった私が選んだ「生きていくための手段」だったのだと、

おそらくそういうことだろうと、私の中でまとめることが出来るからです。


「解離性同一性障害」という言葉は


昨今、メディアなどで頻繁に取り上げられるようになりましたし、病院へ行けば、きちんと病名が付くことなのかもしれませんが

私はこの件で医師を尋ねたことはありません。 

何故診断を下してもらわないのかという理由についてお話しすると・・・

私は医療現場で働く立場に長く居ますが、その位置で経験した事、実際に身体の一部を痛めた患者の立場で経験した事、

そのどちらから見ても、私のメンタルな部分を打ち明ける為に、行動してみようと思うことが出来ないからです

(もちろん今の社会の医療を総纏めしているのではなく、私の経験した結果がこんな風になってしまっただけなのですが・・・)


そして もうひとつは、例えば病院で処方された薬をきちんと飲んだとしても、それはあくまで対処療法でしかないと思えます。

薬によって症状 (実は別人格の性格だと思うのですが) が軽減し、ある程度楽になったとしても、

私たちの場合の原因は 『泣いても叫んでも 時には怒りを表現しても 自分の周囲の何処にも危険は存在しないと言う

確信を得たい時期に まるで予期できない痛み 悲しみ 憤りを感じる虐待を受け 

そしてその辛さを一言も漏らしてはならない 泣いてはいけない 怒ってはいけない 

どんな辛さにも決して反応してはならないと言う 人間として生きていくにはあまりに過酷過ぎる状況が繰り返された事

であり、『苦しすぎてとても耐えられないから、別の人格を作り上げた』からなのです。

過去を整理して心の傷を癒さなくては (原因を取り除かなくては) 病気としての症状は消えても、

本来の姿である一人の人間になることは難しいのではないかと、私は思います。


私の中の別の人格たちは、皆それぞれが違う場面での傷を持っていて、出てくるたびに傷に関連する事ついて話しているようであり、

「話したくて、何か言いたくて、辛い気持ちを理解して欲しくて」私の中から出てくるようです。

ですから、とてもしつこいのですが、傷を受け止めていかなければ、別の人格たちと優合することは出来ないのではないかと・・。

そして、きちんと彼女達 (別人格) の傷も、自分の傷として整理することが出来れば、一人ずつ、ゆっくりとでも優合できるし、

過去が整理された事によって優合された人格は・・・

何となく優しくて、無理がなく、これまでの無意味な頑張りは何処にも必要ない状態で生きていくことが出来るのではないでしょうか?






「家族や周囲の理解」

私は、別の人格が存在するという 「特技」 をより多くの人に理解してもらいたいと思っています。

何故なら・・・

 『特技』 と言ってはいても、決して日常の生活の中で支障が無いわけではありませんし、

この状態のまま別の人格たちと生きる事は、私にとって楽なことではないからです

私の意志とは反対のことが行われていたり 突然道中でパニックになってしまったり・・。

それは仕方の無いですよね。誰も皆、何かを思い出したり、又は何かに傷ついてそれを表現したくなってしまったのだから。

その思いは聴いて見たいと思えますし、別の人格たちも一人の人間ですので、

誰かが聴き入れなくては安定することは出来ないのでしょう・・・。

ですが、別の人たちの訴えは私自身の記憶に無い過去が殆どなので、その内容によっては私達は再び過去に引きずられることもあり、

当然ですが、別の人格の語りを聞けない事もありまして・・。 

そんな時には他の人格たちもきっと、自分達以外の安心できる誰かを探していることだろうと思ってみたり、

何れは私のこととして受け入れざるを得ないのだけど、そんな風に思えない今現在の自分に、責任を感じてしまったり。

 

そこで、もし・・

・・・あなたの大切な人やお知り合いが、そんな設定で現れたなら・・・・・・

きっとあなたは驚く事でしょうけれど・・・あなたに『愛』があるならば、どうかひとつ、・・・

        ・・・その人たちの言い分に心から耳を傾けて下さい!・・・


それが、ばらばらになってしまった私達がひとりになる為の、エネルギーのひとつになり得ると思います。

 
もしも私を虐待した人たちが、ばらばらになった私を前に心の底から謝罪してきたら、

そして本当に、真実の懺悔の涙でも流していたら、

私は場合によってはすぐにでも優合できるかもしれません。長い間そんな願望を抱いていたのだから・・・



「優合する」とは、それぞれのキャラクターが その人の人生のどこかで必要だったのだと言う前提をしておいて・・・。

その人格が存在する理由はもとより、その人格が抱える“真”の辛さを、基本人格が受け入れる事が出来る、

そしてそれは、実は自分が無意識に抱えるとても深い辛さなのだと理解できたうえで、癒しの作業が進めば

融合ならぬ“優合”した人として存在する。

優合した人格とは、傷を癒し終え、肯定される事を知っている、優しく穏やかな、そしてとても自然な人格であり、

常に成長し続ける事が出来る・・・・という、私の経験を基にした解説となっております。(もちろん仮設ですが・・)

 
                                        

最後に・・・。

此処に書いてみた事はあくまで私の経験と主観のみで考えられた結果であり、加えて私はこのことに関して

再記になりますが、医療機関を利用した事がありません。

ゆえに、医学的、心理学的レベルでの保証は何も無い事をお伝えしておきます。

そして・・・。

もしあなたが、多重に人格を抱え持つ人であるとしたら・・。

例えば別人格の衝動を薬で抑えるという事をしないで、その人が存在する本当の理由をあなた自身が理解しようとする気持ちになれたら                                                                       

そして私が此処に書いた事、日々語っている思いに自分を照らし合わせて興味がもてたら、私はとても嬉しいと思います。

そう思えたら、次には自分達人格のことについて理解する心を持つ人を、出来るだけ多く探すと良いかもしれません。

そんな風に行動する事で、あなたが自分の過去について、こんな風になっている原因について、

心の底から理解しようとする気持ちとそれに反する日常の些細な衝動の間で揺れ動いてしまったとき、

そして、とても正面から向き合う事の出来ないような辛い過去が発覚してしまったとき、

私達はそれらを自分自身の力で対峙していけるのではないかな、と思います。

『肯定』と言う環境の中で・・・。                                                                                   

今の私は決して楽に生きているとは言えません。 

何時もいつも、自分の知らない所で自分についての何かが行われていると言う事に、私は何度でも混乱してしまいます。

それでも生きていかなくてはならない。

そして、より楽に生きるためには・・を考えながら、出来るだけ早くに、たくさんの傷を癒していく事を心がけて行く事より他に思いつかない。

何も思いつかないと言う中でも思いつく限りの事をやっているうちに、今では「生きて行きたい」と心のそこから思えるように成長している。

もしかすると、私たちの最終目標は,「優合」ではなく、「全ての傷を癒し終える事」なのかな,とも思います。

そうすることが結果的に全ての人格の「優合」につながるのかな、と。

 

「which will you choose?」  ・・・あなたはどれを選びますか?・・・統合?・・融合?・・優合?・・ 

私は気持ちの流れの中で、すこしだけ興味深い発見をしました。

仮に「統合」や「融合」がOkだとするならば、それは他者の力を借り、もちろん自分達が事実を知って認める必要がありますが、

少なくとも一人の人格が「Go」サインを出せば、別の人格とひとつになれるのですよね?!

詳しいことは勉強していないので、間違ってたら教えて頂けると嬉しいです。

そして、融合して初めて、ひとつの心でこれまでの傷に対する、未成長の部分に対する辛さを感じることになるのですよね。

これまで凍結させていた痛みも悲しみも、全てをひとつの心で・・・。

大変な作業だと想像し、私ならもう一度解離したくなるのではないかな、とも考えます。

何故なら、他の人格によって過去の事実を知らされた場合、人格が切り離されている時点であれば、

とても耐えられなければ、その人格の傷だと言う事にしてその事実も切り離しておく、または客観視しておく事が出来ますが、

人格がひとつになってしまった後では、引き受けたくない傷の辛さも、全て自分が引き受けるしかないのですよね。

どんなに辛くても・・そして辛いと思う分だけ、隠されていた年月の分だけ、痛みも辛さも増しているようにも思えます。

ですから、「こんな事なら解離していた方がましだった」と言う気持ちにまでなってしまう自分を想像したりもします。

逆にもしも「優合」を望んでいるとすると・・・。

それぞれ別の人格が、自分と言う人格が存在する事の意味を考え、

考えているうちに自分だけの傷に気が付き、そしてその傷をその人格自身で癒していく。

こんな風にして、それぞれの人格が、それぞれの傷を癒し、生きることに頑張りを必要としない人格に成長していく。

そしてそんな人格同士が、お互いに歩み寄り(この場合、どちらか一方から勝手にくっつくと言うのはありえないと思うのですが)

もしも、傷を癒し終えた人格同士が優合し、やがて、一人になれたら・・・

一人になった私の何処にも辛さは存在しないと思うのです。(あくまでも、“思うのです”なので・・)

傷を癒した人格は、おそらく傷を抱えたままの人に優合しようとすると・・・

自分も辛くなる事を知っていると思うので、相手に傷が存在する場合は片方の人格は拒否してくると思うのです。(私がそうですので・・)

いかがでしょうか?

「統合しようと「融合」しようと「優合」しようと、それは各個人の思いであり、何れも尊重されるべきだと思います。

ですが私は、この作業についての過去を考えていて、自分の成長度を振り返ってみて、まだ成長途中ではありますが、

自分の選んだ方法は間違ってはいなかったな、ということで、他の方にお勧めしてみてもいいかなぁと思うのです・・・。

重ねて記しておきますが、別の人格を持ち合わせる人々が、自分を見つめること、癒していくこと、一人の人格になる事に対して、

どんな方法を選んでも構わないのだと私は思っています。

単刀直入に言うと、それぞれの勝手であり、その人以外の誰にも関係の無い事なのですから。

そしてそれと同時に、此処に書いた内容を使って、他のどんな人のことも非難中傷しているのではないということを

改めて記しておきますので、思い違いの無いように読んでいただけると嬉しいです。

さらにもうひとつ・・。

私の事について、「あなたは解離性同一性障害なのですか?」と聞かれたならば、私はおそらく「解りません」と答えるでしょう。

そのような診断を受けていないということと、

別の人格がいるということが本当に障害なのかな、と言う所で常に小さな疑問が湧いているからです。

日常生活に今は不便を感じているとしても・・です。

                                             6・20・2003   Mamo

            

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じんかくのはなし