「腹」という言葉を人間の精神面にかんして用いるのは、日本人だけであるらしい。
日本人は、「腹のある人」、「腹の大きい人」、「腹のできた人」などというが、これらは全く精神的な意味でいうのである。「腹」は人間生命の本来的なもの、中心である。生理的、肉体的意味の中心というだけでなく、精神的な意味の中心であり、正確には、自然と一体たる意味の精神的中心である。
日本人は「腹」という言葉を、大地に即して生きるものとしての人間の中心的なもの、すなわち、人間全体としての自己把握、生命の統御力の意味に用いるが、「腹」の意義について知ることは、日本人だけでなくて、人間すべてにとって重要である。
これだけ読んだだけでも、何かをピリピリと感じさせられる。外国人にしては、じつによく研究し、深い認識に達したものと賛えるべきであろう。本家(?)の日本人が、腹について何も知らず、なんの感心も寄せないというのでは恥ずかしい。
外国人は自決するとき、頭か心臓をねらう。切腹をいう士にかたは、日本人だけのもののようである。こんなことからも、に日本人が腹にあたえている評価のほどが、理解できるような気がする。腹を生命の中心を思うからこそ、ここを切るのである。
日本人の急所は「腹」にある
日本人はまた「腹」という言葉をいろいろに用いて、人間の精神面を表現する。日常もっともよく用いられるのが、「腹をたてる」(腹がたつ)であろう。
「かれは腹の大きい人間だ」「年が若いのに腹ができている」などとほめる。「なんという腹の小せェ野郎だ」、「話にもならん腹なし男だったヨ」などとくさす。「腹のすわった人」もいるし、「すわらない人」もいる。
仕事に「腹をすえてかかる」という。胆力を中心とした自己修養のことを「腹づくり」といったりする。その修養の足りないのが、「腹のできていない人」である。
迷うばかりで決心のつかない人に、「おまえの腹できめるんだ」とハッパをかける。決心がついたとき、「ヨシ、腹を決めた!」などという。
「腹がきれい」「腹になにもない」人もいれば、「腹が黒い」、「腹に一物」という人もいる。人格の清濁を、このように表現するわけである。
「腹にしまう」、「腹におさめる」、「腹に呑む」こともあれば、「腹にすえかねる」こともある。「腹を割って話す」こともあるし、「腹をさらけ出してほしい」と頼むこともある。かくしごとのありそうな人を、「自分の腹に聞いて見ろ」と叱る。この世を渡ってゆくには、大なり小なり、「腹芸」という芸当が必要らしい。
こんなふうに日本人は「腹」という言葉を盛んに使う。たしかにこれらは日本独特の言葉づかいで、外国にはないものにちがいない。さてこそかのドイツの哲学者が、新鮮な驚きでもってこれを眺め、一書を著わさんとするまでに、強い好奇心にかられたのであった。
世界一感じやすい日本人が、「腹」を口にする唯一の民族でもある。この二つのことには、必然的な相互の関連があるのだろうか?
あるような気がするが、どうも私には、うまく説明づけることができない。どちらにしてもこの二つのことは、ともにおもしろい現象であるし、ともに、日本人のすぐれた才質を表現するものに違いない。だから、私はこのどちらにも、強い関心を寄せるのである。どちらか一つが書けても、日本人の本質は、まったく別のものになり果ててしまうように思われる。それほどまでにこの二つは、日本人の急所にかかわる特質であると言える。
「頭デッカチの腹なし」になるな
ここでいう疑問が生じるにちがいない。日本人が「腹、腹・・・・」というのは、たんなる表現にすぎないのか、それとも、その本来の意味である肉体の腹との関連において、これらが口にされるのか、ということである。言い方を変えれば、肉体の腹と人間の精神面(しかも、その中心的なもの)とのあいだに、必然的な関連があるのかどうか、ということだ。
もちろん、その関連はある。「ある」どころか、「あるもあるも大あり」であって、これがないなら、日本人の「腹・・」は、寝言同然になってしまう。関連のない二つのものに、同一の言語を用いるはずはないのである。
生理学も心理学もなかった時代に、精神の中心(あるいは基底)が腹にあることを見抜いていた私たちの祖先の直観力の鋭さに、私は驚嘆してしまう。感覚や勘がたぐいなく鋭敏なればこそ、このような生命把握ができたのである。肉体のなかに何があるかを、「感じやすい」という才能ゆえに、感じ取ることができたのだ。この才能が、もっとも大きく、もっとも創造的に発揮された一つの例であるともいえる。もしこれが個人の発明であったら、ノーベル賞を三つぐらいもらってもおかしくはあるまい。それほどにものすごい生命把握なのであって、感心する外国人がデュルクハイム氏ぐらいでは、もったいなくて泣けてこようというほどのシロモノなのだ。それほどに私は評価したいのである。
精神と肉体とを分けて考えるのは、思考上の方便にすぎない。この二つは二にして一、ほんとうは分けることのできないものである。一枚の紙の表と裏のようなものと思えばよいだろうか。だから日本人は「腹」を、肉体と精神の両面に用いてきたのである。
この二つが二にして一なるものであるなら、肉体の中心は即、精神の中心ということになるはずである。肉体の中心部に、精神の中心は宿るのだ。もし、頭が精神の中心であるなら、肉体の中心は頭部ということになる。
むろん、そんなバカなことはない。位置からいっても頭は体の先端であって、中心からはきわめて遠い。こういう頭部に宿る大脳あたりを、精神面の中心のように感覚する人が、現代人にはすくなくない。そういう倒錯的なとらえかたをするから、「頭デッカチの腹なし」になって、フラフラすることになるのである。
全血液の半分が「腹」にある
・・省略・・・(注:面倒なのでここからは重要と思われるところだけ抜粋します)
腹圧(横隔膜を下に押し下げる力)
・・省略・・
全身の血液の約二分の一=腹部
四分の一=頭部
四分の一=四肢
・・省略・・
生命の総司令部はヘソの奥にある
神経系統の面からみても、腹が中心であることは容易にわかる。
・・省略・・
生命現象は生理、心理ともに、根源的には自律神経(植物性神経)によって、支配、運営されているが、その自律神経の大元、いわば司令部のような場所が、太陽神経叢である。ヘソ(臍)の裏がわあたりに群がり、細かい無数の神経の先端が、放射線状にヘソをとりまく形になっている。ヨガが、生命活動の根元を太陽神経叢においてることは、周知のところだ。生命の総司令部がヘソの奥にある、というのである。
・・省略・・
です
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