インフルエンザウィルス
多様性生む大小の変異
水面に投げ込んだ小石が、波紋を作る。波紋は同心円を描いて大きくなる。インフルエンザは、地球という水面で、波紋のように広がっていく。日本でも毎年冬になると流行する。ワクチンは必ずしも有効ではない、ウィルスが変異を起こすため、前もって用意できないからだ。ウィルスの側からすれば、変異こそが免疫を逃れ、遺伝情報を伝える戦略の切り札であるらしい。
インフルエンザウィルスは、直径一万分の一ミリメートルのたんぱく質に囲まれた球である。内部にRNA(リボ核酸=遺伝情報を伝える物質)を持つ。球の外側には二種類のたんぱく質のとげが突き出している。内部タンパク質の違いからA,B,Cの三型に分かれる。このうち世界的に流行を起こすのはA型とB型である。A型はとげの組み合わせでさらにさまざまな亜型に別れ、感染予防が難しい。なぜこれほど多様な型が生まれるのであろうか。「ウィルスは自分だけで増えることは出来ない。必ずほかの生物に感染し、生きた細胞の中で増殖する。ここに多様性を広げる仕組みがある」。
ウィルスが宿主細胞に入ると、たんぱく質の殻が分解され、RNAがむきだしになる。細胞内に放たれたRNAは、大量に複製される。宿主細胞内で情報を伝え、ウィルスのたんぱく質を合成する。これを組み立てて新しいウィルスが誕生する。インフルエンザウィルスは自分のRNAを複製する時、ほかの生物よりも高い確率で、“コピーミス”を起こす。「RNAを作る物質の並び方が一個換わっただけで、ワクチンが無効になることもある」。こうした変異を「小変異」というが、インフルエンザウィルスはもっと大きな「大変異」を起こすことも知られている。遺伝子そのものが変わってしまうのだ。「同じ宿主の細胞に,同時に二種類のA型インフルエンザウィルスが感染すると,RNA同士が交じり合い,遺伝子情報がミックスされる。その結果,遺伝子の組換えが置き,新しい特徴を持つウィルスが生まれる」。
1968-69年の香港かぜ、1977-78年のソ連かぜなど、世界中で猛威を振るったインフルエンザは「大変異」の結果である。インフルエンザの流行がどこから始まるか正確なことはわからないが、有力な説は中国南部でこうした遺伝子組み替えが起きている、という考え方だ。なぜ中国なのか。ひとつは統計的に中国周辺からインフルエンザの流行が始まることが多いため。もう一つは家畜が多くアヒルや豚と人間の移住距離が近い、という条件が整っているためである。インフルエンザウィルスの自然宿主はカモなど水鳥の仲間といわれる。これらのトリはA型ウィルスのとげのバリエーションをすべて持ち、感染しても発病しないからだ。人の場合と違い、呼吸器ではなく腸で殖える。ここではウィルスと宿主の共生が成り立っている。とりのウィルスはそのままでは人に感染しない。人間の世界で流行を起こすには間に家畜、中でも“遺伝子組み替え工場”となるブタが入ることがポイントになる。
インフルエンザウィルスを持つ野生の渡り鳥は、シベリアなどから中国南部にやってきて、アヒルなど家禽類にウィルスを感染させる。とりとブタに共通して感染するウィルスはある。ブタと人に共通して感染するウィルスもある。アヒルなどを経由してブタの体内に入ったトリのウィルスは、人のウィルスと出会って遺伝子を組替え、人に感染する新しいウィルスを生み出す。やがて人から人への感染が始まる、というのが現在広く受け入れられている考え方である(参考:インフルエンザウィルスの宿主動物)。
新しく生まれたウィルスへの抵抗力は、地球上の誰ももっていない。拡がり始めると世界全体に広がる。こうした変異の多さはウィルスの生き残り戦略と考えられる。「遺伝情報を伝える物質としては、ヒトなどが持っているDNAのほうがはるかに安定している。ウィルスにもDNAを持つものがあるが、RNAウィルスは不安定さを積極的に利用している」。遺伝情報のコピーミスでたくさんの変異体を作り、宿主の免疫系の攻撃をくぐり抜けるウィルスを生み出す。あるいは両性生殖のように、別のウィルスと遺伝子の組換えを行う。これらは構造が変わりやすいRNAだからこそできることである。「ウィルスはわずかなたんぱく質と遺伝情報だけを持つ生命体で、余分なものをすべてそぎ落としている。自分の遺伝情報を伝えるのが生物だとするのなら、ウィルスのやり方は非常に合理的である。生物の終極の形と考えることも出来る」。人間にとってインフルエンザの流行は単に「かぜ」の一種が流行るだけのことかもしれなが、視点をウィルスの側に据えれば多くの生物を巻き込んだ複雑なネットワークのようである。