大果
サーヴァッティにて。
諸々の比丘よ、四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、大いなる果報と大いなる功徳を積む事が出来るのである。それでは、諸々の比丘よ、四つの神足をどのように修習し、どのように何度も繰り返して修行するならば、大いなる果報と大いなる功徳を積むことができるのであろうか。
諸々の比丘よ、ここに比丘があって、欲三昧勤行成就の神足を修習するとしよう。それは、このようにしたのである。私の欲は、退縮に過ぎるということはなく、精勤に過ぎるということはなく、内側に収まることはなく、外側に散らばることはないとし、前後に想があってとどまっていて、後は前のように、前は後のように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のようになった。このように、広大でまとわりつかない心によって、光り輝く心を修習するのである。
勤三昧勤行成就の神足を修習するとしよう。それは、このようにしたのである。私の勤は、退縮に過ぎるということはなく、精勤に過ぎるということはなく、内側に収まることはなく、外側に散らばることはないとし、前後に想があってとどまっていて、後は前のように、前は後のように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のようになった。このように、広大でまとわりつかない心によって、光り輝く心を修習するのである。
心三昧勤行成就の神足を修習するとしよう。それは、このようにしたのである。私の心は、退縮に過ぎるということはなく、精勤に過ぎるということはなく、内側に収まることはなく、外側に散らばることはないとし、前後に想があってとどまっていて、後は前のように、前は後のように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のようになった。このように、広大でまとわりつかない心によって、光り輝く心を修習するのである。
観三昧勤行成就の神足を修習するとしよう。それは、このようにしたのである。私の観は、退縮に過ぎるということはなく、精勤に過ぎるということはなく、内側に収まることはなく、外側に散らばることはないとし、前後に想があってとどまっていて、後は前のように、前は後のように、上は下のように、下は上のように、夜は昼のように、昼は夜のようになった。このように、広大でまとわりつかない心によって、光り輝く心を修習するのである。
諸々の比丘よ、このように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、大いなる果報と大いなる功徳を積むことができるのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、様々な神通を会得することができるのである。すなわち、一身が多身となり、多身が一身となり、あるいは姿を現わし、あるいは姿を隠し、断崖絶壁を通り過ぎても全く支障がないのは空中を行くようであり、大地に出没するのは水中を出没するようであり、水上を歩いても沈むことがないのは地上を行くようであり、空中を蓮華座で行くのは空飛ぶ鳥のようなものであり、大いなる神通と大いなる威徳がある、あの太陽と月とを手でつかみ、梵天界に至るまで、身をもって威厳を及ぼすのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、清浄であり人間を超えた天耳界にあって、遠くや近くの音、また天界や人間界の声を共に聞くのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、他の有情や他の人々の心を、自らの心で隅々まで明らかに知るのである。すなわち、貪りある心を貪りある心と知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心と知り、瞋りある心を瞋りある心と知り、瞋りを離れた心を瞋りを離れた心と知り、無智ある心を無智ある心と知り、無智を離れた心を無智を離れた心と知り、粗雑な心を粗雑な心と知り、錯乱した心を錯乱した心と知り、偉大な心を偉大な心と知り、偉大ではない心を偉大ではない心と知り、有上の心を有上の心と知り、無上の心を無上の心と知り、定のない心を定のない心と知り、定のある心を定のある心と知り、解脱していない心を解脱していない心と知り、解脱した心を解脱した心と知るのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、様々な過去世を思い起こすのである。それは、一生・二生・三生・四生・五生・十生・二十生・三十生・四十生・五十生・百生・千生・百千生・多くの壊劫・多くの成劫・多くの壊劫と成劫に及び、「私はあそこでは、名はこのようであって、姓はこのようであって、肉体はこのようであって、食事はこのようであって、苦楽を受けるのはこのようであって、寿命はこのようであった。そして、あそこで死んで、そこに生まれた。そこでは、名はこのようであって、姓はこのようであって、肉体はこのようであって、食事はこのようであって、苦楽を受けるのはこのようであって、寿命はこのようであった。そしてそこで死んで、ここに生まれた」と、以上のように、その行相と名称を伴った過去世を思い起こすのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、清浄であり人間を超えた天眼によって、有情の生死を見て、有情がそのなした業によって、劣っていたり優れていたり、美しかったり醜かったり、善趣に生まれたり悪趣に生まれたりする結果を受けることを知るのである。
「ああ、この諸々の有情は、身において悪行をなし、口において悪行をなし、心において悪行をなし、聖者をそしり、邪見を抱き、邪見の業を積んだ。そのため、その身が壊れ、その命が終わってからは、悪しき生であり、悪趣であり、随処である、地獄に転生した。ああ、またこの諸々の有情は、身において善行をなし、口において善行をなし、心において善行をなし、聖者をそしることなく、正見を抱き、正見の業を積んだ。そのため、その身が壊れ、その命が終ってからは、善趣である、天界に転生した」と、このように、清浄であり人間を超えた天眼によって、有情の生死を見て、有情がそのなした業によって、劣っていたり優れていたり、美しかったり醜かったり、善趣に生まれたり悪趣に生まれたりする結果を受ける事を知るのである。
比丘がこのように四つの神足を修習し、何度も繰り返して修行するならば、諸々の煩悩を滅尽し、それによって、無漏の心解脱や慧解脱を、現世において、自ら証知し現証し具足してとどまるのである。