あしあと(成育史)


昭和4*年、11月11日、三重県津市で生まれました。
生まれたときから小さく、2300グラムほどだったそうです。

(あてんしょんぷり〜ず……内容の都合上名前を出す必要があるので、
鈴木純子(瀧野さんが付けてくれた仮名)と名乗ります)


幼児期   小学校   中学校   高校   大学   出版案内(^^;)


●幼児期●                                                           

 いつも思い出すのは柿の木です。ほとんど記憶はありませんが、家は大きくはなかったでしょう(今は廃屋となって残っています)。その小さな家に、小さな庭がありました。そこには木が2本植えられていて、そのうちの1本が柿だったと思います。決して大きくはなかったはずのその木は、私の記憶の中では、いつも大木です。時折夢に出てきますが、やはり大木なんです。
 そこかどうかわかりませんが、物干し竿がありました。私はそこに干されたことがあります。
 すぐ下の弟が生まれたとき、私は3歳でした。弟は10月生まれで、私とちょうど3年(と一月)違うことになります。
 その弟の沐浴用に、たらいかベビーバスがありました(時代から考えて多分前者でしょう)。私はどうしてそんなことを思いついたのか、自分が弟をお風呂に入れてあげようと思って、 その中に入ってしまったんです。
 案の定、叱られました。そして、干されました(笑)。
 これぐらいしか思い出せないのに、私は柿の木が怖いのです。
 犬が苦手になったいきさつもよくわかりません。
 近所に、『シロ』という、巻き毛の犬がいました。
 私はよくシロの小屋に入りこみ、犬を追い出して寝ていたりしたものだそうです。追い出されたシロは、抗議をするようにヘリコプター(昔はよく宣伝ヘリが飛んでいました。比較的近くに自衛隊の基地があるので、そこのヘリかもしれません)に向かって吠えていたと言います。
 なのに、そこから隣町の久居市へ引っ越した後、私は犬が大の苦手になっていたのです。大人になった今ではなんともありませんが、
「噛まれたらどうしよう」
「狂犬病だったらどうしよう」
 と、犬に対して、恐ろしげなイメージすら持っていました。

 話は全然違いますが、私は殺されかけたことがあります。
 津市から久居市に引越して間もなく……下の弟(次男)を出産後、産褥期精神病というのですか……産後の錯乱状態(マタニティーブルーとは違う)に陥っていた母は、何を思ったのか、私の首を絞めた……らしいんです。そして私は、名古屋の叔父(正確には叔母。母の妹夫婦)に、長男は津市の伯父(これも正確には伯母。母の姉夫婦)にに、それぞれ預けられました。この間、父は何をしていたのか、次男はどうしていたのかはわかりません。この期間に触れることは、我が家ではタブーなのです。
 話を戻して。
 名古屋での最高の思い出は、東山動物公園への旅行でしょう。私は生まれてはじめて、地下鉄に乗りました。黄色い電車です。わりと最近まで走っていましたが、今はどうなんでしょう? 
 そのときの記憶はありませんが、写真はかろうじて残っていました。
 叔父が撮ったのでしょう。フラミンゴが写っていました。
 その写真は現存するのかどうか……久居市から一志町への引越しのときに捨ててしまったかもしれません。とにかく慌しい引越しでしたから、置いてきてしまったものも多いのです。
 まもなく叔父夫婦は交通事故で亡くなり、私は両親の元に戻ってきました。
 その頃から私は、鏡遊びが好きでした。映っているほうに別の名前をつけて遊ぶのです。私は鏡象のほうに訓読みの『すみこ』と名づけて、『にこちゃん・こまったちゃん(当時の幼児番組『ロンパールーム』のキャラクター。いい子の『にこちゃん』と悪い子の『こまったちゃん』がいて、無表情だとそっくりなのに、ちょっと表情が出ると本当に反対で、子供心にも面白かったのです)ごっこ』をしていました。本当に子供の遊びです。たったそれだけのことが、こんなとんでもない病理を引き起こすなんて、誰が思ったでしょう?

 その少し後のことです。私は梅雨の中、1匹の猫を拾ってきました。たった半年、そこにいなかっただけで、言葉は違うし、同じ年頃の友達も出来そうに在りませんでした。しかし、両親は飼うことを許してくれませんでした。「元のところに戻して来い」と言われたものの、土砂降りの雨が降っていて、あまりにも猫が可哀想でした。そこで私は自分で飼うからと頼み込み、絶対に家の中には入れないという条件で、その猫を飼い始めました。
 でも、当たり前のことですが、たった4歳の子供が、大人の援助なしに動物を飼うことなんて出来ません。父には内緒で、母が味方についてくれました。父のいない間、雨に打たれるのは可哀想だから、とほんの少しだけ中に上げたのですが…………。
 約束を守らなかった私に与えられたのは、その猫を目の前で殺すという『罰』でした。
 実際には父もおかしかったのです。でも、私にはそれが父の持つ病理のせいではなく、本当に罰だと感じられたのです。
 父の名誉のために断っておきますが、この人は決して非人間的な冷血漢ではありません。むしろ動物は好きなのです。しかし、このときは何かが違っていたのでしょう。でも父は、この事件を「覚えていない」「そんなことはなかった」と言うのです。これは何を意味するのでしょうか……。
 そのときあたりから、鏡遊びのメンバーが増えました。母の鏡はもともと三面鏡ですから、3通りの鏡象が得られます。
 『にこちゃんとこまったちゃん』は、『いい子』、『悪い子』、『可哀想な子』、『普通の子』に変わりました。前3者が鏡の中の私、最後の『普通の子』が、実際に鏡の前に座っている私。この、普通の子の役割は実況中継をすることでした。会話をするのは、もっぱら、鏡の中にいる3人(?)の役割だったのです。

 5歳の時の話です。
 久居市にももうすっかりなじんでいた私は、ある日の夕方、お使いを頼まれました。近所の酒屋さんへ行って、お醤油を買ってくるように母から言われ、そこに行って帰ってくる途中でした。いつも通る駅前に、いつものおじさんがいました。その頃私が住んでいた家は、駅のホーム沿いの細い道を入っていった、ちょっと分かりづらいところにありました。いちばん安全で、明るいのが駅前だったのですが……なぜ誰も助けてくれなかったのか分かりません。近くにはタクシーの車庫もあって、いつも運転手が車を洗っていたのに。
 おじさんは私を、近くの空家に連れて行って、『いたずら』をしました。子供へのわいせつ(性虐待)は、なぜ、こんな陳腐な言葉でしか報道されないんでしょう。
 その後、私は帰宅して、もう夏だからと言うので、水で洗われました。確かにお風呂を沸かす時間は長かったでしょう。おまけに、ウチには湯沸し機がありませんでした。でも、一言、こう聞いて欲しかった。
「あんた、なんかされたんとちゃうの?」と。「お醤油は?」ではなく。
 幼稚園は行っていたのですが、記憶がないのです。小学校の敷地内にある、公立の幼稚園でした。


●小学校●                                                        back

 小学校は自宅からすぐ近くでした。ちょっと説明すると、久居駅を中心に、私の家と小学校と病院(国立津病院。現在は移転して、取り壊された後です)が、ちょうどそれぞれ5分ぐらいの範囲に固まっていました。
 6年間の中の、3〜4年生のことだけが、すっぽり抜けています。死ぬほど苦手だったIくんと同じクラスになったことと、担任の先生は覚えている、と言うか、思い出したんですが、出来事はさっぱり覚えていません。
 5〜6年生は、別の意味で地獄でした。私はいじめのターゲットとなり、ずっと卑屈な子だったのですが、担任がまた……(汗)。
 彼女(担任のH先生)は私を「ひねくれ者」と呼び、背後にあるいじめのことなど知らぬ存ぜぬという感じでした。
 「嘘吐き」。「忘れ物の女王」。「宿題忘れの常習犯」。「遅刻魔」。当時の私を呼ぶ言葉です。
 なぜ忘れ物(宿題含む)をするのか。遅刻をするのか。それを考えてほしかった。「ひねくれた嘘吐き」と罵倒するより、子供の不適応、情緒障害の裏にあるものを探ってほしかった。嘘をつくのならなぜ嘘をつくのか。理由のない嘘などないのだから。
 私は死のうと思いました。こんなに人様に迷惑ばかりかけるのなら、生きていたって意味などないと。
 すぐ裏の私鉄は父の勤務先ですから、国鉄で死のうと思い、遺書をポケットに、自転車で30分ほどこいで、そこにあった線路の上に寝転がりました。しかし、そこで死ねるはずなどありませんでした。小学生の私は、やはり詰めが甘かったのです。そこは今で言うJR名松線、2時間に1度しか列車の通らない線でした。近くの人が私を連れ帰り、間もなく学校に報告が行きました。H先生は、「なんのあてつけや?」と私を詰問しました。あてつけもクソも無かったんですが……(苦笑)少なくとも、その場の私は本気だったんですから。
 そして、H先生はある日、道徳の時間に、こんな話をしました。
「裏にある病院にも精神病棟がある」。
 そして黒板に大きく『精神病院』と書き、そこにはどんな人が入るのか、気が狂うとどうなるのかを、「あんた見たんかい」的に話し始めました。そして最後に私の名を挙げ、「あんたみたいのが大人になったら精神病院へ行くんや。あんたの10年後が見える。あんたは鉄格子の中で、出してくれ出してくれと喚いて、一生を終わるんや」と言いました。この言葉は、そのときの級友の笑い声や彼女の言い方と一緒に、強烈に刷り込まれました。
 私を助けてくれなかった教師は、私にとんでもないマインドコントロールを仕掛けて、『将来キチ○イになる子』という暗示を与えたのです。
 この他にも彼女は、子供たちを侮辱することをしたり、言ったりしましたが、テーマは教育問題ではないので、ここでは割愛します。
 この間、私はIくんをはじめとするいじめグループに、暴力やシカト、揶揄などのしつこいいじめを受けていました。もしかしたら私がスケープゴートになることで、全体の均衡が保たれていたのかもしれない……そう思うこともあります。
 そして家では…………。
 父が私を待っていました。父もおかしかったのです。あの時点で我が家から本当に、精神病院に入るべきだったのは、実の娘に手をつけていた父でしょう。ですが、ここも書き出すと長くなるので、割愛です。


●中学校●                                                          back

 完全に持ちあがりの形で、私たちはH中学に上がりました。持ちあがりですから、私の名前などすぐに知られます。ここでも私を待っていたのはいじめでした。しかも、年齢が上がった分、陰湿になっていました。
 私は「自分がおかしいからいじめられる。私は正しくない人間で、生まれてきてはいけなかったのだ」と思うようになっていました。
 女の子からは村八分。男の子からは…………。リーダーのIくんは、私を体育館裏に連れて行っては、口では言えないことをしました。もし、今どこかで誰かがその様子をビデオにでも撮っていたら、『AV・中学生生本番』なんてアオリでよく売れるでしょう。
 心理学に出会ったのはこの頃でした。行く場所がなかったので、私はいつも図書室に隠れていました。その中に、タイトルは忘れましたが、精神分析に関する本があったのです。『心的外傷』という言葉を知ったのもこの頃ですし、フロイトやユングの名を知ったのもこの頃です。
 そして、自分の正体を知りたい、という欲求も強くなってきました。
 でも、この頃は、まだ、精神科の敷居は高く、H先生に植え付けられたおどろおどろしいイメージもあって、誰にも、何も言えませんでした。
 声を掛けることも、掛けられることもない日々が過ぎて行きます。私は空気でした。学年の人数の都合で、41人クラスなんかになったときには、いつも列の最後にはみ出していました。部活でもシカトされ、コーラス部をやめました。同じ部の同級生は、そのことでこぞって私を責めました。
 さらに、困ったことに、私には頭皮をいじる癖がありました。困ったときに頭を掻く、というあれの延長ですが、そのために頭皮にフケ状のかさぶたができました。それが気になって、さらにいじるので、いつまでたっても治りません。級友は、そんな私を見て、「あの子にはシラミがおる」と笑いました。ちなみにこの癖は、未だに治っていません(苦笑…誰か治す方法知りません?)。
 悪いことに、そんな毎日ですから、自分が人間であるという感覚が、段々薄れてきました。自分の体にも血が通って、骨があるのだろうか。胃腸は? えらではなくて肺で呼吸しているのだろうか?? 私は整形外科に通い始めました。実際、その頃左の膝がひどく痛んで、脱力するということがあったのですが、それを主訴にして行くと、年齢から骨腫瘍も疑われて、必ずX線撮影をされるのです。異常は見つかりませんでしたが、その骨の写真見たさに、私は足を引きずって、あっちこっちの整形外科を点々としたものです。卒業して、献血を始めるまで続きました。この痛みの原因は未だにわかりません。
 最後にこの頃受けていたいじめを書き出すと、悪口・陰口はお約束。性暴力。持ち物(教科書や参考書はもちろん、ペンケースや制服、靴まで、およそありとあらゆる)を隠される、あるいは捨てられる。トイレに閉じ込められる。制服を切られる。髪を切られる。椅子と机を外に出される。机の中にゴミを詰められる。ゴミ溜めに突き落とされる。よくこんなに考え付くもんだと逆に感心するくらい、不条理な目に遭っているのですが、お金を取られなかっただけ、まだましなのかもしれません。


●高校●                                                          back

 そんなこともあって、私はその過程(普通科)には知った相手がいない学校を選んで入学しました。中3の担任は、「もっと高レベルの…」と言ったのですが、頑張っていいところへ行って最下位に甘んじるより、1ランク落として中の上あたりにいたほうがいいと言って、T女子高校を選びました。女子校だから、男の子は来るわけないからです。
 しかし、そこでも私は集団に溶け込めませんでした。中学時代を『空気』としてすごしてきたために、「鈴木さん、一緒にご飯食べよう」という女の子達に、どうしても親和性を持てなかったのです。それでも最初の頃は、人と一緒にお弁当など食べていました。でも、なんだか居心地の悪さを感じて、自分から離れて行きました。周りにはそんな私の行動はいささか奇異に映ったのでしょう。ほどなく気安く話の出来る相手はいなくなりました。
 この頃から、計算に関する障害をひどく意識するようになりました。簡単な1桁の計算が出来ないのです。小学校の頃から算数は駄目でしたが、ちょうど図書室で『イディオ・サヴァン(白痴の天才)』という言葉を知った後だったこともあって、私は本当は知的障害があるのではないかと真剣に悩みました。本当は知的障害者で、たまたま、まぐれでここまで来たのではないか。すると、中学時代に感じていたよりもずっと、自分が異質な存在に思えてきました。
 やはり私はおかしいのだ。
 生まれてきてはいけなかったのだ。
 はじめてリストカットをしたのもこの頃でした。そういうことをする人がいて、それを『リストカット・シンドローム』と呼ぶのだということは、中学時代、既に本で読んで知っていました。私はその記事を、「そんな人もいるのか」ぐらいにしか思っていませんでした。まさか自分がやろうとは……。
 更に、同じ頃、『ミュンヒハウゼン症候群』のことも知りました。
 もしかして、中学時代の私はこれではなかったのか? と、背筋が寒くなりました。
 思えば、思春期特有の危なっかしさもあったのでしょうが、私は本気でした。
 津駅に近いある神経科に一度行ってみて、「嘘をつくんです」と訴えてみましたが、「嘘なんて誰だってつくんですよ。普通のことです。病気じゃありません」と一蹴されてしまいました。
 遺書を書き、久居駅を通過する特急列車を待ちました。それでもすんでのところで怖くなって逃げ出し、今思えばよく思いとどまったもんだ、と自分の頭を撫でてやりたいのですが、その頃の私は自分で自分を蔑んでいました。自分が大嫌いでした。自分がいなくなれば世界中が平和になるんじゃないかと本気で考えていました。世界中の諸悪の根源は自分だという気がしていたのです。
 1年生の後期に生徒会活動をしていて、生徒会会報に「あなたの長所と短所は?」という質問がありました。私はその解答欄に、『長所=なし。短所=全部』と書きました。更に、「好きなものと嫌いなものは?」と言う問いには、『好きなもの=猫。嫌いなもの=自分』と書いた記憶があります。
 3年間を通して、友達の記憶はありません。でも、3年生の終わりに、
「あんた、嘘吐きもええ加減にせんと承知せんに! 言うてもらえるうちが花やと思いな!!」と、小学校時代に言われたのと同じ言葉をぶつけられたのを覚えています。


●大学●                                                         back

 なんだかんだ言って、私も大学生になりました。解離の症状がひどくなったのはこの頃からです。
 進学の条件はただひとつ、『自宅通学できる所』でした。国公立では三重大学、私大では名古屋市内、地下鉄利用で乗換えが少なくて文学部のあるところ。1箇所しかありませんでした。でも、嬉しいことに、そこには心理学科がありました。私は両親に「心理学を学びたい」と告げました。ところが、帰ってきた返事は、「キチ○イの勉強なんかするな」でした。
 教育心理を名目にして、三重大学教育学部に合格しましたが、自分の義務教育時代を思い出して暗澹とした気分になり、せっかく受かった国立大学を蹴って、名古屋市内の私大を選びました。3年次での学科移籍を狙い、奨学金制度も利用しました。教員にならないと返還義務が残り、利息まで付く2種のほうでしたが、こっちも合格しました。
 最初の異変が訪れたのは1年生の夏でした。
 一緒に行動している友人が、映画のように見えたのです。これをきっかけに、今思えば青春期危機状態もあったのでしょう。離人感がひどくなり、ぼんやりすることが多くなりました。電車を乗り過ごすので、ヘッドホンステレオが欠かせなくなりました。朝はぼーっとして変な道を歩いたりするので、乗換駅までの1区間を歩くことにしました。頭痛がひどく、いつも耳元でセミが鳴いているようでした。
 そして2年生の夏、とうとう屋上から飛び降りようとしました。見知らぬ男の子が助けに来てくれたのですが、彼らによると、私は屋上から刃を出したままのカッターを落としたと言うのです。確かに、見ると手首にリストカットの後がありました。しかし私は覚えていなかったのです。今ではかなり細かく説明できますが、だらだら続く文章はかったるいので割愛します。
 私は保健室に連れて行かれ、そこから家に連絡が行き、養護講師の手を借りて、名古屋市内(千種区今池)にアパートを借りました。なんでも、遺書があり、「疲れました。約束は守れません」と書いてあったそうです(現存しない上に、このことはタブーになっています)。確かに疲労のため肝臓を壊しており、いい言い訳にはなりました。
 ところが、今池と言う所は名古屋の池袋と異名を取る所で、ちょっと行くとラブホテルが並んでいました。ホテルの隣に幼稚園があり、そのまた隣にピンサロがあるという、全くすさまじい所でした(苦笑)。引っ越してすぐ、空き巣に入られ、盗られたのは下着類だけというマヌケな事態になりました。被害届を出しましたが、ほとんど取り合ってもらえず、しかも隣室の住人がちょっとおかしい人で、私の部屋の前で「バカ、死ね」などと毎日言うのです。これらのお陰で『ぼんやり』は悪化しました。
 気がつくと知らない所にいて、それがホテルだったりする。隣にいるのは父ほどの年齢のおっさん……。
 電車の駅で全然違う名前で呼ばれ、馴れ馴れしく見知らぬ人が近寄ってくる。
 友達が私から見せてもらったと他学科のノートを持ってくる。さらに、他学科で代返のアルバイト(爆)をしている。
 とんでもない電車に乗って、とんでもない所へ行ったりする(知り合いなんか居ないはずの三河とか)。そして帰って来れない、とパニックになったかと思ったら、自宅の布団の中で気がつく。しかもちゃんと着替えている。
 見覚えのない、買った覚えももちろんない品物が増える。
 極めつけは、引いた覚えのない電話が引かれていて、それで当時出来たばかりのテレクラのサクラをしていたこと!(結構収入もあった…)
 精神病院へ行こう。大学の最寄駅のホームから、大きな看板が見えたことを思い出した私は、その大病院へ行くことを決めました。




出版案内                                 

ちょっとCM……(^^;)。ここまでのあらまし(特に幼児期の部分)はなんと、本になってます
瀧野隆浩著『純子と摩樹子・ふたりの多重人格者(講談社刊。ハードカバーです)
後は、治療録で触れる部分もあったりなんかする…ははは……
服部雄一著『多重人格者の真実(現在絶版、CD−ROMのみ)
私のだらだら文章を読むより、ずっとわかりやすいかも……です。CMでした。

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