病院遍歴その1


最初に行ったのは、大学の近くにある大病院でした。
以後、私は、『正しい診断を求めて=自分の正体を知りたくて』、
いくつもの精神科をめぐることになります。


●名古屋市・Y病院●

 最初に行ったのは、大学の最寄駅に大きな看板を出しているY病院でした。全く普通の病院と言う風情の待合で、「なんだ、精神病院なんて言っても、内科と同じじゃん」と思いました。 暫く待って、呼ばれたので、診察室に入ると、40そこそことおぼしき年齢の男性医師がいて、「どうしましたか?」と尋ねてきました。こう尋ねられるのは当たり前なのですが、私は一瞬戸惑いました。何を、何と言えばいいんだろう。頭痛のこと? 知らない持ち物が増えること? それとも妙な所からお金が入ってくること??
 暫く考えて、私は、頭痛と記憶の問題を話しました。頭痛がして、記憶が抜けるのだと。
 その医者は暫く何事か考えていましたが、やがて、こんな質問をはじめました。
 家族や親戚に同じような症状の人ないしは精神病の人がいるかどうか。自殺した人はいるのか。親との関係はどうか。
 そんなこと、当時の私は何も知りません。ただ、親との関係を聞かれたとき、『父に手をつけられている』ことは隠して、「父とうまく行かない」とだけ答えました。他は本当に知らなかったので、「付き合いがないから分からない」と答えました。それを聞いた医師は一瞬不思議そうな表情をしましたが、すぐに元に戻って、声が聞こえるかどうか、よく眠れるかどうかを尋ねました。
 それが『お約束』の質問だとは知らない私は、頭痛がするときはいつも聞こえる、うるさくて眠れない、と答えました。
 医師はその事には何も言わず、ただ、「薬を出しますから」とだけ、無表情に言いました。随分そっけない診察だな、と内心私は思いましたが、まあ、内科でもこうだから、そこは同じなんだろうと思い直して診察室を出ました。
 このパターンの診察は、それから数年後、入院するまで続くことになります。

 入院になったのは、平成元年の7月でした。その頃の私は、つまらない国文科の授業にすっかり辟易し、2年生からずっと授業を受けていないこともあって学科移籍もままならず、4年まで在籍していたのをばっさり経ち切って前年に退学し、某大会社の営業職についていました。それだけなら全く問題はなかったのです。
 しかし、幾ら飲んでも効かない薬に嫌気が差して服薬を止めた頃、そのツケがどっとやってきたのです。
 仕事中、子供がするように、椅子に逆に座ってみたり、私語が増えたり。おまけに幻聴も更に大きくなり、セミの声に混じって太鼓を叩かれているようでした。
 『素直な』私は、それらをすべて医師に告げました。すると一言、
「入院しましょうか」。
 私はその言葉の意味するところもよく分からないまま、はい、と頷きました。医師は卓上の電話を取り、病棟とおぼしきと頃に内線をかけ、女性がひとり入院になる、と受話器に向かって言いました。そして私に1通の紙を差し出し、ここに署名捺印して、と言いました。印鑑を持っていなかったら拇印でもいい、とも言いました。
 私は言われるままにサインをし、捺印して、医師の後に続きました。
 連れて行かれた所は分厚い鉄扉のある『西二病棟』というところでした。なんかすごい、と思いながら視線を巡らせた私は、ある一点でギョッとなりました。
 縦10センチ、横20センチほどの小さな窓から、大勢の患者さんがこちらをじっと見ていたのです。これを見た瞬間、なんだかすごい所に来てしまったと思った私は、医師に
「入院撤回に出来ませんか?」と尋ねました。が、返ってきた答は「サインした以上ダメ」でした。それならとこうも聞きました。「ここ、閉鎖病棟ですよね。開放病棟にしていただけませんか?」すると医師は、「最初はみんな閉鎖から」と答えました。そんなものなのか、と思いもしましたが、同時に「仕損じた」とも思いました。
 がやがて看護婦が現れ、患者たちをさっさとどかすと、私たちを中に入れました。
 私を中に入れてしまうと、医師は「じゃ、任せたから」と言うように、さっさとそこを出て行きました。看護婦は手馴れた様子で私をナースステーションに通し、ここではすべての持ち物に記名をすることと、危険物と病院が判断したものは預かるのだという説明をしました。
 私が、急に決まった入院だから、家族や会社に報告したいと言うと、看護婦は、ここには公衆電話がないので、病院の内戦を使うことになる、だからそういう連絡のたぐいはすべてこちらでする、と答えましたが、出勤時間が迫っていたので、このままでは無断欠勤になってしまうと食い下がり、「3分以内」ということで、会社に電話をかけさせてもらいました。本当は家にもかけたかったのですが、「新規入院者は1日1回3分まで」とよく分からないことを言われ、そのまま病室に連れて行くと言いました。
 看護婦は私を後に従えながら、トイレや洗面所のある場所を手短に告げました。ランドリーがないことに気づいた私が、洗濯はどこでするのか、と尋ねると、全部ヘルパーがするから気にしないように、と言われました。
 病室に案内する、と言った看護婦は、病棟の端まで行くと、おもむろにポケットから鍵を取り出し、突き当たりにあるドアを開けにかかりました。ここで病棟は終わりではないのか? とき尋ねると、「急に決まった人は、最初はみんなここです。病室がきちんと決まったらそこに案内します」とだけ言うとドアを開け、その端にある鉄扉の鍵を開けました。
 そこは6畳ほどの広さの、毛布しかない殺風景な部屋でした。私はそこに入れられ、腕時計は預かると言われてそれを外し、看護婦に渡しました。・・…と、ガシャン…ガチャガチャ……そうです。そこは『保護室』だったのです。内側からはドアは開かず、小さなのぞき窓があるだけ。そこからかろうじて通路が見えました。後ろを向くと、頑丈そうな鉄格子がはまっています。これが精神病院の中なんだろうか、と、私は途方に暮れてしまいました。

 保護室に入れられた私は、途方に暮れながら、呆然としていました。何もない部屋ですから寝るしかありません。仕方ないので寝た……はずでした。
 横になって暫くして、私は看護婦の声に起こされました。ハッと気づくと、先ほどとは違う看護婦が、私がくるまっていたはずの毛布を持って、怒りの表情で立っていました。 ああ、またやったんだ。あののぞき窓から出したんだろうな……しかしなんで1枚しかない毛布を放り出すんだろう……などと思っていると、看護婦が言いました。
「状態いいって先生はおっしゃったけど、とんでもない。今夜はここから出せません」。そう言って彼女は再びドアに鍵をかけ、さっさと行ってしまいました。
 そんなこんなで、そこには2週間ほど入っていました。毛布を出したことなど私は覚えていませんし、それが無くて困るのは自分なのに(他に何もないので床に寝ることになる)、入れても入れても出す、ということで、毎朝注射を打たれることになりました。これがまた痛い。腕だと痺れることがあるので、お尻にするのですが、しこりがいつまでも残って、歩くだけでも痛みました。お風呂は『ムトーハップ』の硫黄のにおいで分かります。他の患者さんが入った後、看護婦と看護助手が連れに来て、モノのように洗われ、見張られるようにして湯船に入りました。
 着替えは病院のものが用意されていて、それに着替えます。ジャージのようなものばかりでした。家族は私の入院を知っているのかいないのか、何も送ってきませんでした。
 やがて、毛布を出していた誰かさん(理不尽な対応に怒った愛子でした)が、このままではずっとここから出られないと悟ったのか、毛布を出すのをやめ、おとなしくするようになると、注射が終わりになり、その翌日には大部屋に移されました。
 平均年齢の若い、4人部屋でした。隣のベッドにいた役者のタマゴだというSさんとちょっと仲良くなりましたが、閉鎖病棟は恐ろしく退屈な所でした。
 まず驚いたのは、時計もテレビもないこと! どうしてないのかと看護婦に尋ねると、時間ばかり気にする人がいたり、テレビで自分のことを言ってると思い込む人がいるから、という返事が返ってきました。更に、スーパーで貰うレジ袋は底を切らなければなりません。かぶって死のうとする人がいるからです。タイツやパンストはご法度。首を吊ろうとする人がいるからです。私物としてラジカセを持ち込むことも禁止。これはテレビがないのと同じ理由でした。
 そんなの逆におかしくなるんじゃないの? と、頭の中で誰かが言いました。全くその通り、と、私と頭の中の声は初めてコミュニケート出来ました。この声の主が澄子でした。以後、彼女とだけは連絡が取れるようになり、不可解な現象も減りました。少なくとも、持ち物が増えるとか、頭の中でわあわあ言ってるとかいうたぐいのものは。
 澄子はここで大活躍し、主治医に「退屈で死にそうだ、却って悪くなる」と掛け合って、隣の『東二病棟』に移してもらうことに成功しました。そして、そこで2週間ほど模範患者を演じ、見事退院にこぎつけました。以来、私は、困ったことがあると澄子を呼び、彼女との二人三脚が始まったのです。

 ところが、です。物事というのは本当にうまく行かないもので、退院時に効果と副作用の説明をする服薬指導(今で言う服薬に関するインフォームド・コンセント)が全くなく、私は退院後3日で職場に復帰しました。多分これがまずかったのでしょう。舌がこわばってうまく喋れません。営業で、電話を使うのに、と思うと余計に緊張してどもってしまいます。足がむずむずし、じっとしていられません。それでも仕事はこなさなければならず、澄子に代わってもらってなんとか2週間ほどやりましたが、ある日、とんでもないことが起こったのです。
 副作用に辟易した誰か(これも怒り狂った愛子)が、薬を全部捨てたのです。不眠症のために貰っていた睡眠薬も、全部。私も澄子も眠れなくなり(睡眠薬を一定の期間以上常用していた人が急にそれを経ち切ると、『反跳不眠』といって、不眠がひどくなるのです)、日常が維持できなくなりました。更に悪いことに、薬を一気に切ったため、退薬症状=いわゆる禁断症状が出始めました。不眠が続き、不安がひどくなり、周囲の物の見え方が妙な具合に変わり、縄張りを誇示している猫の声が恐ろしくてたまらなくなりました。
 それでもなんとかしのいでいたある日、ついに決定的な事件が起こります。平成元年8月23日のことです。
 私は営業のため、同僚ふたりと一緒に会社の車でお得意様回りをすることになりました。もう朝からふらふらで、こりゃあキツイぞ……急で悪いけど後輩に代わってもらおうと思っていたのですが、ちょっと切り出したところ、その後輩が実にイヤそうな顔をしたのもあって、私と澄子は、「自分の仕事なのだから」と無理をして営業車に乗りました。それが間違いでした。
 『お得意様』を何件か回り、あとは会社へ帰るだけ、というとき。緊張の糸がプツッと切れたのでしょう。ちょっとした隙間から、愛子が飛び出しました。彼女は隣にいる運転手=同僚を見て、「知らないお兄さんたちの車に乗せられている」と勘違いし、ちょうど赤信号で停車していた車から飛び出し、「助けてー! 殺されるー!!」と、街中で叫んだのです。このとき、澄子は必死で愛子を抑えようとしたと言います。でも、もうヘトヘトで、どうすることも出来なかったのです。
 街を歩く人達が私=愛子を見、同僚は慌てて車から飛び降りて、愛子の口を塞ぎました。愛子はそれに抵抗してもがき、「助けて、殺される」を連呼しました。同僚は暴れる愛子を車に引きずり込み、発進させました。愛子はそれでもドアを開け、飛び出そうとしました。それを更に別の同僚が押さえ付ける……最悪の展開になりました。
 車は行き先を変え、Y病院へ向かいました。
 そして、その一部始終を見ていた近くの大学の学生が、あろうことか誘拐と間違え、110番通報してしまったのです。パトカーが4台も会社につき、大騒ぎになったそうです。
 そして愛子は再び西ニ病棟に連れて行かれ、最初に入った保護室に収容されました。私と澄子が気づいたのは、そこに入って何時間も経ってからでした。愛子はまたも毛布を外に放り出していて、ささやかな怒りを表明していました。まただよ……とため息をついていると、主治医と看護婦が現れ、「家族が迎えに来てるから」と、そこを出されました。てっきりまた入院になると思っていたので、私はホッとしましたが、母の話を聞いて、気絶しそうになってしまいました。すなわち―――
 住んでいるアパートから即刻退去と言われたこと。パトカーが会社に押しかけて、会社の名誉を毀損したというので退職願を書けと本社の上司が言っているということ。そして、それを回避しようとする直属の上司と本社との間で、会議が開かれているということ。
 とりあえずその日は三重の実家に帰ることにしました。その後、その日の夜遅くに、「やっと会議が終わった……でも、庇いきれなかったから、退職願を書いてくれ」と、直属の上司から電話がありました。
 アパートはどうやって退去したのか、はっきり覚えていません。業者を使った記憶はないので、多分、家族がやってきて搬出したのでしょう。ただ、
「ああ、これで私は本当におかしいんだ」と、ぼんやりと思ったことだけは覚えています。そして、お世話になりましたと挨拶に行ったときの大家さんの嫌なものでも見るような表情と、声をかけても返事もせずに足早に去って行く隣室の住人の背中が語っていた『恐怖』と。


 以後、私はその病院に通院し、どう言うわけか、どんどんおかしくなっていきました。道の真ん中で大声を上げたり、寝転んだり。そのうち、きっかけは忘れましたが、二回目の入院となりました。状態はかなり悪く、自分から入院したいと言い出しました。主治医が書類を書く間、私は何がおかしいのか、ずっとくすくす笑っていました。多分、誰か別の人格が笑っていたのでしょうが、今となっては思い出せません。というか、分かりません。当時まだ未分化だったカモメやネコかもしれません。
 連れて行かれた先はお約束の西ニ病棟でした。今度は保護室でなく、初めから8人の大部屋でした。その途中、もう11月だというのにサマーセーターを着た女の子が私に近づいてきました。
「ジュンコ、ジュンコじゃない」
彼 女は誰かと勘違いをしているらしく、「ジュンコ、会いたかったよう」と、私にしがみついてきました。そして、「あたしだよ、マユミだよ」と言いながら泣くのです。私はされるがままになりながらも、まだ若く可愛らしい彼女の不幸を思ったのか、泣いている彼女の髪をなで、「うん、ジュンコだよ、マユミ」と言いました。看護婦は驚きの表情でそれを見て、「知り合い?」と尋ねました。私はもちろん、澄子も彼女を知らなかったので、彼女に分からないように頭を振りました。それを見た看護婦は、マユミというその女の子を私から引き離し、「いい加減にしなさいよ!」と、マユミを一喝して、私を病室に連れて行きました。この日から、マユミと私との奇妙な友人関係が始まりました。
 しかし、今度の入院は退屈どころか、恐ろしく苦痛に満ちた日々になりました。マユミはそれこそ1秒ごとに気の変わる、予測のつかない行動を取り、同じ主治医のチエミは、私に脱走の計画を持ちかけたり、自分の不幸をひたすら嘆いたりで、このふたりには散々振りまわされました。
 そのストレスは、てきめんに消化器に来ました。神経性の下痢になり、1日中渋り腹で苦しみました。それを訴えても主治医は何もしてくれず、入院後たった1週間で5キロもやせたことを見かねた看護婦が主治医に掛け合って、ようやく下痢止めが出てきました。また、副作用もひどく、手が震えて字が全く書けなくなり、全身の筋肉がこわばるというパーキンソン症状が出、体が妙なふうに捻れたり、眼球が急に上を向いてしまうジストニア発作が起き、さらには全身がむずむずしてじっとしていられないアカシジアという症状も出ました。特にアカシジアは苦しい症状で、息は切れ切れ、それでも歩くことや走ることがやめられないのです。とにかくじっとしていられず、ひたすら廊下を徘徊していました。
 そして、最悪なことに、尿閉といって、尿が出なくなりました。踏ん張って踏ん張って、必死に腹圧をかけて、ようやく排尿できるという有様。それを告げると、主治医は利尿剤を出しました。利尿剤は効くどころか逆に頻尿をもたらし、私はトイレタイムが地獄タイムになりました。でも、トイレ以外には、マユミとチエミから解放される時間がないので、ずっとトイレに篭っているという、全くもって、とんでもない事態になりました。
 夜になるとマユミは私のところに来て、「誰かがアタシを殺そうとしてる…ジュンコ、守って」と泣きます。それを見たチエミは、「あんなキチ○イほっときなさいよ。それよりさあ…」と、主治医の悪口を言い始めます。
 そのうちにどういうわけか、朝、目覚めるときにニュースが聞こえるようになりました。本物のアナウンサーが何かニュースを読んでいる幻聴です。あ、ニュースだ、もっとよく聞こう……そう思うと目が覚め、ニュースは聞こえなくなります。もう限界でした。マユミはともかく、チエミには耐えられませんでした。薬で抑えられているので、私も澄子もクタクタのフラフラです。
 更に、何を思ったのか、主治医は「あなたたちは症状がよく似ているから」と、私とチエミの面接を一緒にやると言い出しました。それにチエミは激怒し、私に、アンタが何か言ったに違いない、と言いがかりをつけてきましたが、私は「もうどうにでもなれ、とにかくここから出たい」の一心でした。その前の診察で、「あと2週間」と言われていたこともあって、なんでもよかったのです。
 そして、主治医はそのとおりの事をしました。私とチエミを同席させ、その場で診察をはじめたのです。そして、一通り話を聞くと、まずチエミを外に出し、私に「今日の午後東ニ病棟に転棟して、それから2週間。そして保護者の許可が出たら退院」と告げました。やっと、外に出られる。あと2週間でこの苦痛から解放される。本当に全身の力が抜けてしまうようでした。
 これをどこかからか聞いたチエミは激怒しました。どうしてアンタだけなんだ、私のどこが悪いんだ。そう言って私をなじり、しまいには「色仕掛けでもしたんでしょ」。さすがに私も頭に来て、「するわけないでしょ!」と声を荒げました。それを聞いたチエミはキレ、柱に頭を激しく打ちつけはじめました。たまたまそばにいたマユミはパニックになり、看護婦が飛び出してきて、チエミを保護室のほうへ引きずるように連れて行きました。その間、チエミは私を罵り続けていました。
「どうやって先生をたらし込んだんだ、この売女! 裏切り者!!」
 保護室に通じる扉が、ガシャン、と音を立てて閉まると、マユミが看護婦の腕の中で泣いていました。そして、私のほうを見て、
「アタシのこと忘れないでね」。そう、静かに言いました。
 東二病棟では、アキコとユウコという友達が出来ました。隣のベッドのアキコはリスカの常習で、どこに隠しているのか、色々なもので自分の手首を切っていました。ユウコもクセの強いというかなんというか、アブナイ薬の話ばかりしているという有様。やがて、1週間が経ち、マユミが移ってきました。私たちはみんな歳が近く、すぐに仲良くなりました。東二病棟では、私物を持ちこんでよかったので、とりとめのない話をしたり、音楽を聴いたりで、西二病棟とは天と地ほどの違いがありました。
 そんな中で、今だからこそ気になることがあります。それは、マユミがよく「そんなこと言ったっけ?」「純子(この時点ではもう人違いだと認識できている)の思い違いじゃない?」などと、しょっちゅう言っていたことです。彼女の物忘れの激しさや、急に男の子のように粗暴になって言葉遣いまで変わったりするのは一体なんだろう、と思っていたのですが………。
 退院後、彼女が手紙に綴った言葉があります。
『私は根本的に愛に飢えている。3つのときに父は母と私を捨てた。母は私を放り出して愛人に貢いだ。私はずっと一人だったけれど、心の中のハジメが、私を支えてくれた。でも、クスリをやれというから今はあんまり好きじゃない』。
 これ以上の引用はやめておきましょう。『ハジメ』とは誰なんだろう? そういえば私は、マユミが独り言を言っていたり、粗暴な男の子のような事をして、そのときのことを覚えていなかったりするのを目の当たりにしています。一緒に入院していたマユミのお母さんが、「あの子はクスリをやってて……そういうときはまるで獣じみた男の子みたいで……」と言ったのも覚えています。これは一体何を意味しているんでしょうか。もう彼女との付き合いはないので、真相は藪の中です。


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