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名前 |
やや |
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年齢 |
19**年早生まれ |
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住い |
静岡県 |
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性格 |
自己中心 |
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家族 |
夫一人 |
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血液型 |
O型 |
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治療歴 |
本格的なのは2年 |
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不妊原因 |
プロラクチン値が高い |
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治療法 |
テルロン一日二錠 |
詳しいややのこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
誕生0歳。
冬に、初めての子供として産まれる
当時では珍しい立会い出産であった。
陣痛促進剤利用の為、真昼間に計画的に産まれた。
急激な力で持っての出産だったために、ややの首は曲がってしまっていた。
産まれてすぐ、通院が始まる。病名=右斜頚
斜頚とは=通常顔を左右に向けることができる首が、片側を向いてしまうこと
ややの場合は、右側を向いて産まれた。90度しか首を動かすことができない状態。
出産した医師が紹介した整形外科へ、共働きをしながら母親は通院をはじめる。
朝、6時に家を出て、電車バスを乗り継ぎ、通勤100分。
帰りは、病院へ娘を連れてから帰宅。大体夜8時過ぎ。
託児所のある会社だったのが救いとはいえ、産後3週間で仕事に復帰。
夫は、現場次第の仕事でいつ帰るかわからない。
育児ノイローゼになってみたいと思うほどの忙しさだった。
痛いことをされるというのが分るのか、病院へ近づくと、不安になるほどのおお泣き。
時には、熱も出していた。
整形外科での治療とは、簡単なもの。
体を固定して、首を機械的に曲げるだけで、「今日はここまで曲がった」の繰り返し。
それも、日曜日などの休みが挟むと、元に戻る。
3歩進んで2歩下がる〜♪まさに、そんな状態だった。
毎日、生後一月に満たない頃から、通勤などで人ごみに揉まれて、
感染症には、かぞえきれないほどかかっていた。
一時、このままでは脳に影響が出ると言われ、その時は退職を覚悟した母親。
しかし、当時で手取り2,3万の夢に向う夫を支える為に
母娘一丸となっていた。この頃の写真、何が面白いのか、ひたすら服の縫い目を眺める赤ん坊。
そんな生活が一年ばかり送ったころ、母は第2子の妊娠をする。
しばらくは、大きなお腹を抱えて、赤ん坊を抱いて通勤したが、
そんな無理は、そうそう続かない。
ある日、腎臓障害で倒れることになる。
1歳、しばしの蜜月
このままでは透析が必要になると言われ、やむなく退職した母親と
一時の水入らず期間を送る。
毎日、散歩に行き、旅行にも行く。写真のややはいつも笑っている。
熱ばかり出して、生きていけるのかと思われた、ややは、日増しに丈夫になる。
失業保険で食いつなぎ、その間に、父親も多少マシな給料を求めて転職。
11月、弟が生まれる。
母体は胎盤剥離により、500CCの輸血をする。
ややは、何が何だかわからない。
突然、母親と離れて、当時居候していた親の友人夫婦に預けられ
戻ってきたら、得体のしれない物体が一緒である。
あんなに優しい母親が、ややのものだった胸が、膝が・・・
その物体に占拠されている。この頃の写真、ややの口は、いつもとがってる。
母親が一人の時は、産後の肥立ちが悪かったのだろう、
いつも誰かがいた家で、その誰かに「ママは、おねむよ」とひっぺがされた。
この辺りから、かなり明確な記憶になっていく。
2歳、このうちの子じゃなくてもいい
寝るときに本を読んでくれたママはいない。
かわりにママの声を吹きこんだ、お話テープを聞きながら眠りにつく。
これだけは、ややの為のママ・・・すり切れるまで何度も聞いた。
持て余したのか、手が足らなかったからか、大阪に住む母親の甥がしばらく滞在。
半年以上一緒だったか、やや係として、四六時中側にいてくれた。
当時のファッションだったのか、自由人で、大学は留年しても平気と
あちらこちらを旅していた、22歳。親の干渉を逃れて、やや家に居候を決め込む。
展覧会や、本屋さん、大阪の万博公園など、思いつくままに連れていってもらう。
喫茶店を覚えたのもこの頃。この頃の写真、従兄かず兄ちゃんが、いつでも一緒。
デッサンが趣味で、ややモデルのスケッチブックは、何冊もできた。
育児問題で母親と決裂するまで、和兄ちゃんは親代わりだった。
初めて覚えた会話は、すべて関西弁。
父親は、いつも不在だった。たまに、おみやげ持ってくるオジサンだった。
ある日、兄ちゃんのいたずらで、寝ている父は、あれはにせものと吹きこまれた。
恐かった。すごく恐くて、出ていけと物差しを振り回していた。
和兄ちゃんがいなくなってから、次の親は、隣のおばちゃんだった。
相変わらず、母は弟が占拠している。
いつも足踏みミシンを踏んでるオバちゃんは、
残り糸で作った糸玉で、ボールを作ってくれた。内緒よと、お菓子をくれた。
魔法のように、次から仕上がる仕立物を見て、感動。おばちゃんはヒーローだった。
おばちゃん以外に、近所の工場の人達。道向こうのお姉ちゃんたち・・・
ややは、色んな人に育ててもらって、母恋いし時期を乗り切る。
どこでも生きていける!バケツを持って(なぜバケツか不明)大事な人形抱えて家出を敢行。
帰ってきて、得意げな顔のややが写真におさまっている。
3歳、ややはかわいくないんだ・・・
幼稚園に入る。初めて一人で、家から離れた場所へ行くのは嬉しかった。
そこは、遊具がたくさんあって、お友達もたくさんいる、遊園地のようなところだった。
でも、市内でも随一のマンモス幼稚園。
毎日、整列や気を付け〜がつまらなかった。何度も脱走を試みる。
成功したのは、一度だけ。大人が入りこめない、幼稚園の裏手に、仲良しさんともぐりこむ。
夕方、何食わぬ顔で外に出ると、腰が抜けた先生とママがいた。
そんな幼稚園生活は、わずか8ヶ月間で終わってしまった。
七五三が近づき、ママのお兄さんから着物が届く。
お飾りを見に行く。ややが主役!久々の主役!嬉しくて、毎日踊っている。
『***さんちが七五三』の噂を聞いた、ニッセイのおばちゃんが
お祝いにと、下駄を持ってきた。
よくサイズが・・・と思ったら、この前寄った時にコッソリ調べたのよという。
知らないぞ!!覚えがないぞ!!とキョトンとしている。出てきたのは・・・
弟の下駄だった・・・
当時は、数えと満年齢と家によって、七五三をやる時期に違いがあった。
それで、勘違いをしたのだけど、その下駄は赤い鼻緒がかわいい、ポックリタイプ。
そう、弟を女の子と間違えたのだ。
慌てて謝るニッセイのおばちゃんの口からは、ややのプライドを許さないことばかりでる。
曰く、下のお嬢ちゃんは、色白でかわいいと思って赤を選んだ。
曰く、まぁ、男と女と聞いてたから、お兄ちゃんだと思った。
曰く、逆だったらよかったわね〜。
傷ついた、ものすご〜く傷ついた。
ややは、かわいくないんだ、こんな物体がかわいいんだ。どうせ、どうせ、いいんだも〜ん。
以来、ニッセイのおばちゃんは大嫌いな人になった。
無事に七五三を送り、師走も間近な頃、ややは幼稚園を退園する。
素行が悪かったというのもあったが、父親がまたも夢を追いかけたために
母親が就職することになったのだ。今度は保育園に通うことになる。
こばと保育園に、初日は泣いてばかりいたけど、すぐに慣れた。
幼稚園よりも自由だし、幸子先生は優しかった。親友もできた。
クラスは30人ほど。色々な家庭事情の子供がいた。
でも、みんな毎日笑っていた。
4歳スノップな園児
保育園で、一番仲良しだったのはペタちゃんという女の子。
真っ赤なほっぺがかわいい、スカートの良く似合うこだった。
頭がよくて、字を覚えたてのややに、本を読んでくれたり
大騒ぎしている、他の子を、二人で冷めた目でみてたりした。
だからといって、全然遊ばないわけではない。
保育園では、毎日遊ぶことがたくさんあったのだ。
となりの田んぼは、稲の刈り取りが終わると、園児に開放してくれた。
切り口鮮やかな稲の根を踏むのは、丈夫な霜柱のようで、面白かった。
週に一度は、紙芝居やさんがくる公園まで散歩。
水あめが大好きになった。
春にはレンゲ摘み。秋には芋掘り。夏はザリガニ取り。
毎日が楽しくて仕方なかった。
ペタちゃんとは、今も手紙のやりとりが続いている。
アノ頃話した、将来の夢通り、医療関係者になった彼女と
これまた夢通り、お嫁さんやってる、やや。
ま、一応夢は叶ったか・・・とお互い笑う。
ぺたちゃんは・・・第2子を出産間近である。
以下、次回は小学生編