
第六巻
恥ずかしい写真である。『「病」者にも、障害者にも、子供を産めるのだ』とアピールしている藤原礼子。実際の生活は、ほとんど寝ていて、子育てと言うものはしていないようなものだった。ごかいと、保育園に任せきりだったような・・・
16号から18号までは、闘い盛んだったようだ。実調阻止、保安処分反対で東京集会へも行く。(自殺した二人の遺影を掲げて)中軸の片山富子も活躍。(木造の泉市荘時代からビルにかけての9年間ボケ?会長を務めることになるとは・・・)
藤原えり子の投稿
『私は待ちに待ったお産を終えてすっかり安心してごかいに毎日通っています。「まかせなさい」とまではいかないが、セレアキのおかげで不安心もなく、息子の成長を願っています。(1984年6月4日、誕生3,620g))』
よもだについての取り組みを考え出したころ。
1984年の正月に笠Dr倒れる。(3ヶ月)このころ健常者との摩擦が出始めた。
1984年7月25日に前々から練っていた「わしらの街じゃあ!」社会評論社より届く(出版)。第一回出版委員会より約1年かかった。反響は大きかった。あくまでマイナーだけど・・
ひがき号U(マツダファミリア)朝日で当たる。
1985年泉市荘を買い取り、棟梁の大北博視を中心にぶち抜き作業をした。若き私たちにはエネルギーが爆発した時期だった。(木造の泉市荘は5年間)
いろいろ派手な活動も元気あったが、毎日の夕食当番をはじめ、廃品回収、街頭カンパなど地道に続ける。
松原弘、西原信夫、山吉秀樹 2002年5月現役
田中八重子(がん死)今井悦子(自殺)
13年振りに越智玉栄さん退院。介護し合う。