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| 大阪市立大学付属病院の退院1年後結婚したものの赤ちゃんのことになると考えなくてはならないことも多々ありました。 子供がほしくなるのは自然なことでり病院で先生と相談をした結果、計画出産ということになりました。発病していない状態で、尚かつ薬の服用を半年以上止めている時が一番良いと言うことでその時期を見計らい基礎体温をつけ始めました。 その2ヶ月後に妊娠していることがわかり、妊娠7ヶ月ぐらいまでは、順調でした。 しかしお腹が大きくなるにつれ、腸への負担がかなりかかり、病気が再発。でも、お腹に赤ちゃんがいるので、プレドリンはつかえず、リンデロン座薬とビオフェルミンを服用しました。それでも病状は変わらず、1日に何十回とトイレに行くようになりそのうち下血もひどくなってきたので、赤ちゃんのことも考えて産科に入院となりました。 産科的には、特に問題はなく、赤ちゃんも順調でしたが、私の体が、かなりつらかった。 頬がこけてゲッソリし、歩くのもフラフラでしたが、なるべく自然分娩と言う病院側の方針で陣痛がくるまで待つしかなく、私はそれまで体が耐えられるのか、すごく心配でした。 産後は勿論赤ちゃんを育てなければならないし、その体力を残しとておかないと、また病状が悪くなって入院となってしまうと何ヶ月入院になるか分からないし赤ちゃん実家において入院もできないし、出産まで不安の毎日でした。が、予定日を5日過ぎてから陣痛がきました。 健康な人でも陣痛で苦しいのに、私は陣痛と、陣痛の間もトイレに行って下血・・・と言う苦しみでした。陣痛が進むにつれトイレに行けなくなり、下血の感覚も分からなくなり息んだとき血便が出たらどうしょうと不安になり看護婦さんにそのことを告げると「大丈夫。元気な人でもそういうことがあるから、分娩台はその処理ができるようにできているから」と言うことで安心しました。 いざ分娩台で息んでいると今まで居眠りしていた産科の医者がそばに来て「出てる血便!きたないな早くたずけろ」と言う声が聞こえすごくショックでした。もう産まれる・・・という状態で、それどころではなかったのですが、それでもこれは、私にとって一生忘れられない屈辱でした。 産科の先生ですので病気のことが分からないのかもしれませんが、もっとリスクを抱えて出産する人のことも考えてほしいと思いました。 私は無事2850グラムの元気な女の子を出産。 出産後は腸の圧迫がなくなったので、みるみるうちに自力で良くなり、母乳もしばらくあげれましたが、でも夜に寝れないせいか産後2ヶ月ぐらいで急激に病気が悪化し母乳をあげていてもトイレに行きたくなり、泣いている赤ちゃんをおいてトイレにこもる、ということが多くなりました。このままでは、また入院になると思い母乳をあげ続けたかったのですがそれを断念し、また薬を服用することにしました。 こういうこともあるかもしれないと粉ミルクを1日1回あげていたのですが、粉ミルクばかりになると赤ちゃんは、泣きわめいて飲んでくれません。しばらく泣いて、お腹がすききってから飲む、という感じでした。私は、赤ちゃんが泣いていると胸からお乳が溢れ出てきて服がビチョビチョになりました。もともと溢れるほど母乳が出ていたので、断乳はとても苦しかった。胸がパンパンになり、冷やしても痛くて一週間ほど大変でした。 それから長女が2歳半になったとき、まさかの二人目妊娠、それも発病中でサラドピリンとステロネーマー座薬を服用していたときで、どうしょうと思い主人と病院へ。内科と産科の先生と相談しました。先生は「薬の影響が赤ちゃんに出る場合は少ないし、なにかあれば赤ちゃんはすぐ流れるのだから、せっかく授かった命だから」と言われ主人も私も子供をおろすことはできないと思い産むことに決めました。あとは1人目と同じで、入退院を繰り返しました。 出産するまで赤ちゃんの奇形児で産まれてくるのでは・・・と心配でしたが、五体満足、しかも男の子を出産!! 出産後も一人目と同じで産めば体が楽になり病気も治るという感じでした。 でもよく考えると結婚して5年、再発を繰り返してはいますが、入院は妊娠の時以外は、ありません。 今は、子供2人に恵まれ育児に忙しいながらも幸せに暮らしています。 |