このページの目次

3.2「平和憲法を守れ」にあるバレバレな嘘 3.3サヨクの伝統的主張テンノーセーハンタイ
3.4話にならないサヨクとの論争 3.5社会主義は間違っている
3.1 終わっていない「南京大虐殺」でっちあげ問題
 「南京大虐殺」とか、「従軍慰安婦強制連行」なるものが、ことごとくでっちあげであることは関係者の努力により明らかにされた。ただ、筆者は、サヨク連中が行った嘘宣伝の論破完了により、でっちあげ問題が終わったとは考えない。

* なぜ終わっていないと言えるのか

終わったとは考えない理由の一:
 こういった嘘宣伝を行った連中が、謝罪も反省も行っていないからである。
 自分の嘘を省みずに臆面も無く、「広義の強制」とかに逃げ口上を用意するなど、まったく反省がない。われわれ国民がでっちあげを行った朝日新聞などサヨク連中に求めるのは、心からの謝罪と反省である。
 たった一人でも反省しないものがいるかぎり、われわれ国民がうけた心の傷は癒えない。
 とにかく徹底して自己批判させ、謝罪させないことには、連中は今後とも何度でも嘘を捏造するだろう。

終わったとは考えない理由の二:
 連中の嘘宣伝への、抑止策がなんらこうじられていないからだ。
 サヨクが対日戦争の可能性を少しでも高めるために行ったこういった反日嘘宣伝により、日本人への差別感情は円滑に熟成されている。特に外国在住の日本人への差別感情が増大している。もちろん、対日戦争の可能性も少しずつ熟成されている。(むろん、これがサヨクの目的なのだが。)
 こういった日本人、日本国民への莫大な不利益に、政府が傍観している有り様は信じがたい。
 政府は外国在住の日本人など、どうでもいいと思っているのであろうか。人種差別がどれほど恐ろしい結果を生み出すのか解かっていない。人種差別が生み出すのは、迫害、弾圧、戦争である。
 かつて、大東亜戦争中、アメリカにおいて、在米日本人は強制収容所に収監された。なんらスパイ行為をはたらいたわけでもないのに。
 人種差別の恐ろしさを政府や国民は甘く見すぎている。こういった政府の怠慢が、われわれ日本人をアウシュビッツに送らないとは言い切れないのである。

* でっちあげ問題を終わらせる方法
 サヨクに反省謝罪をさせ、なおかつサヨクによるさまざまな嘘、でっちあげを抑止するためには以下の処置が必要だと考える。

(1) でっちあげ宣伝者への証人喚問
 「南京大虐殺」とか「従軍慰安婦強制連行」でっちあげにより、国民へ莫大な不利益をもたらしたことについては、国会で証人喚問を行うべきだと考える。
 朝日新聞の記者、幹部、その他でっちあげを行ったマスコミ関係者は、誰が嘘をリークし、その情報に対してどのように裏をとり、誰が記事に採用したかなど、罪の全てを隠さず国民に明かすべきである。
 サヨクが何度でも嘘を捏造してこれたのは、嘘を捏造してもなに一つペナルティを科されなかったからである。今現在もまったく嘘つき放題の状況にあるのだ。
 サヨクは自らのでっち上げについて、誠実に国民に対して謝罪、反省するべきなのだが、そもそもサヨクにはそんな誠意はまったくない。となると、なんらかの制裁を加える以外にないのである。

(2) 嘘宣伝を抑止するための立法
 われわれ国民は、連中にこういった嘘宣伝を許してしまった反省にたち、サヨク嘘宣伝を抑止するための法をつくることが必要だ。
 その法とは、
「日本国、日本国民に対して差別感場を熟成する嘘宣伝を行う行為を禁止する刑法」
 である。
 特に外国に在住する日本人の身の安全のためにも、絶対必要な法だと考える。
 むろん、こういった法は言論活動への制限の可能性があり望ましいものではない。しかし、残念なことだが、もうこういう処置以外にサヨク連中による嘘宣伝を停止する方法はない。今なお、嘘でっちあげが数限りなく行われており、多くの日本人や罪も無い人々が報道被害の犠牲者となっている。しかも、朝日新聞など報道加害者は、現実になんら反省も謝罪もしていず、野放し状態にあるのだ。

* 狂信者への説得など無意味
 こういったさまざまな処置がなされないとこには、サヨクは今後ともあらゆる嘘、でっちあげを繰り返すだろう。それを従来どおり、ひとつひとつ論破していくのはさぞかし骨が折れることに違いない。サヨクによるでっちあげ、嘘、捏造、歪曲はますます巧妙になることだろう。
 またサヨクは、はっきり言うがおおむね頭が悪い。悪すぎるのだ。「南京大虐殺の証拠」と称して用いられた写真に、大量のでっち上げが存在することが発覚した。その後にも、「全ての疑惑が晴れたわけではありません」とか言いだし、でっち上げの事例に目を閉ざすことからも解るように、ほとんど狂信状態にある。大量のでっち上げが発覚という恐るべき胡散臭さから、残りの「実例写真」と称するものの胡散臭さを自分なりに推察するという能力が、根底から欠如している。サヨクの恐ろしさ滑稽さはのひとつは、考えないことにある。
 この有り様は「地球上全てのUFO出現例がことごとく偽物だと証明されていない。」→「よって、UFOは存在する。」という自称UFO研究家の論法と完全に同じだ。UFO否定論者もUFO写真の全てを調査できるわけがないのだ。
 サヨクへの実証的論理的指摘のことごとくが徒労に終わったことからも明らかなように、サヨクは狂人なのである。狂人相手に説得により反省を促すなど無意味である。強権を用いて反省を促す以外にない。

* サヨクによるでっちあげ問題の解決は、我々国民が対応していくべき事柄
 もう、報道被害者は疲れきっている。中には、御病気になられた元日本兵のご老人もいらっしゃる。サヨクという社会が生み出した狂人による犯罪への対処を、報道被害者のみに押し付ける段階は終わらせる必要がある。サヨク問題は、われわれ社会が取り組むべき問題だ。

 「(1)サヨクの嘘宣伝→(2)報道被害者など関係者が嘘を看破→(3)しかるにサヨクは、嘘宣伝になんら反省もなくペナルティもなし。日本人への誤解のみが残る。→再び(1)に」という、ばかげた繰り返しを停止する必要がある。

* 「南京大虐殺」に関する参考ページ:
 そんな馬鹿はありえないと思うが、今になってもでっちあげでないと盲信している人のために、一応参考ページを以下に記す。

@ 南京大虐殺はウソだ
 豊富な資料と実例により、「南京大虐殺」のウソを完膚なきまでに記したページ。とにかくわかりやすく具体的。
 字を読むのが面倒なら、このページの「南京大虐殺のウソ写真、証言」にある数々の「南京大虐殺証拠写真」を見てみるのもいい。写真と無関係な説明を付け加えた例、あからさまな合成写真を「証拠写真」と称する例、さらには映画からの転載画像を「証拠写真」と称する例など、あらゆる「南京大虐殺証拠写真」の捏造例がある。
 サヨクはこれだからダメなんだ。ウソをつく。でっちあげる。捏造する。騙す。こういった人としての誠意や良心を放棄した存在だから、筆者はこのページで批判しているのだ。また、こういった大量の捏造例がありながら、嘘を信じ続ける下級サヨクの救いがたい愚鈍さにもあきれはてる。
 また、このページには、「南京大虐殺」の関係図書が紹介されている。この一件に興味のある方は、購入なされてはいかがだろう。

@ あやしい調査団、南京へ南京大虐殺の館
 サヨクの聖地である、支那の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」という記念館への訪問記。社民党田辺氏が提案し、「総評」が建設費を出し建てた、いわいる「ナンキンダイギャクサツ」の記念館である。
 このページではその記念館が、いかにいかがわしく、おぞましい場所かが、実際に訪れたWebマスター氏により克明に報告されている。

 要人訪問者の名前を書いたリボンには、自民党の野中氏や社民党村山氏などおなじみの面々や、県教職員組合などが。
 サヨク組合の支配下にある学校では、ここが修学旅行のコースになる。はるばる支那まで支那共産党の嘘プロバカンダを受け、反日日本人となるための修学旅行。そんなものに父兄は高価な金を支払わされるのだ。

 それにしても人間の骨を展示する発想。我々日本人には考えられないものだ。例えばアメリカによる空襲の犠牲者の人骨の山を展示する「東京大空襲記念館」を思い浮かべてみればいい。東京各地にある墓をあばいて人骨を掘り出し、ポーズをつけて展示する「東京大空襲記念館」を。おぞましさに身の毛がよだつ悪趣味さ。
 人間の遺体をプロバカンダの展示物に用いる発想。これはまさに、人間をほとんど家畜程度にしか扱わない支那ならではの発想だ。(オーストラリアでも、白人に滅ぼされた原住民のミイラが近年まで博物館に展示されていたというが。)

 このおぞましい記念館は↓こういう公式を明瞭に証明している。

 「ナンキンダイギャクサツ」を盲信する人間=人間の大量の遺体を政治宣伝に用い「記念館」で展示するというおぞましい発想への嫌悪や疑念を感じない人間=社民党田辺氏村山氏自民党野中氏=サヨク。

 という公式である。
 こういう連中のみ集まってが政権を握ると、我々の骨も「テンノーシュケンタイセイの犠牲者の骨」という説明付きで展示される社会体制となるのだろう。その社会体制の狂的な弾圧により虐殺された後で。

 社民党田辺氏、自民党野中氏、社民党村山氏の骨も、ぜひここに飾りたいものだ。土下座ポーズをさせ「支那共産党への忠義をつらぬいた紅衛兵の骨」の説明付で。この提案、本人達は嫌悪するより案外喜ぶかも。

@ 南京大虐殺の虚構
 南京事件に関するかなり詳しい資料が掲載。

余談:「南京大虐殺」を盲信するサヨクにある、「殺される側の論理」の圧倒的な欠如
 「南京大虐殺」が多くの人々に知られるきっかけとなったのは、朝日記者本多勝一氏が朝日新聞に連載した「中国への旅」である。
 支那政府が「南京大虐殺」を朝日記者本多氏にリークし、朝日に「中国への旅」を連載した時期は、朝日が文革支那政府の子飼い状況にあった時期である。朝日が、唯一の支那特派員をもつ立場を保持するため、文化大革命という虐殺恐怖政治下の支那政府を賛美し、支那政府の政治宣伝を丸ごと紙面で宣伝し、おべんちゃらに終始した時期なのだ。(参考:朝日新聞報道年表

 この文化大革命時代の支那政府の恐ろしさは現在の北朝鮮よりさらにひどいと思えば良い。毛沢東率いる支那政府当局は、支那全土において数千万人以上の人間を虐殺した。空前絶後の恐怖政治の時代だったのだ。 (筆者が昔住んでいた場所の近くにあった支那料理屋の主人も、叔父を殺されたと語っていた。)

 サヨクは、この恐怖政治下における「民衆の証言」なるものを盲信する。馬鹿ではないか。「南京大虐殺」を疑問視するなど、政府見解と異なる意見を言えば即座に殺される社会体制に暮らす人々の恐怖や苦しみへの共感が全く無い。「殺される側の論理」を全く理解できないわけだ。
 と決め付けたいところだが、「南京大虐殺」を信じたサヨクのほとんどが、南京大虐殺に関する「民衆の証言」なるものが文化大革命という恐怖政治の下でリークされたものであることを知らない。いや、知らされない。サヨクマスコミの巧妙な宣伝により。つまり馬鹿ではなく無知に追い込まれているだけと言うほうが正しいかも知れない。

 人間は生きるためなら、俳優だろうが演技者だろうが何にでもなる。たとえば現在の北朝鮮で金正日について問うと全員が口をそろえて「金正日様のすばらしさ」を演じるだろう。こういった社会体制に暮らす人々の「証言」を聞いて「ううむ、金正日って素晴らしい人なんだなあ。」「南京でそんなひどい大虐殺があったのかあ。」と納得するようでは、ほとんど馬鹿である。
 恐怖政治下においては、当局に知られる可能性のある状況下での政治的な事柄に関する「民衆の証言」など全く信憑性が無いのだ。恐怖政治が終了し、恐怖と洗脳が解け、言論の自由が保証された社会になってようやく政治的な事柄に関する「証言」にある程度の信憑性が生じる。

 文革支那政府が「南京大虐殺」を流布した目的は、文化大革命という本当の大虐殺を誤魔化すためでもある。つまり、「南京大虐殺」を宣伝したり盲信したりするサヨクは、文化大革命という本当の大虐殺隠蔽に加担しているわけだ。
 「南京大虐殺」を徹底して喧伝する文革支那政府の監視下にある人々が、外国人記者に発する「南京大虐殺」に関する「証言」を盲信するサヨク。恐怖政治に苦しむ人々への共感が全く無いから、単純に盲信できる。「殺される側の論理」が全くない。
 とはいえこれはある意味無理のないことだ。日本史上そんな社会体制は存在しないからだ。筆者もまた産まれも育ちも自由主義国家日本であり、その恐ろしさを実感としては理解できない。
 自らの絶望的な苦痛すら表明できない陰惨な社会体制。これが社会主義体制であり真の言論弾圧なのだ。

 サヨクなど「南京大虐殺」捏造加担者は、社会主義体制で虐殺される人々に対し往々に圧倒的に冷酷だ。「殺される側の論理」を少しぐらいわかって欲しいものだ。

余談:「南京大虐殺」捏造に見るサヨクの冤罪捏造吊るし上げ体質
 「恐怖政治下においては、当局に知られる可能性のある状況下での政治的な事柄に関する民衆の証言など全く信憑性が無い。」という筆者による指摘。実際に恐怖政治下で暮らす人間の身になれば、当然のこととしか言いようがない。これに対してサヨクはこう言うだろう。

「証言が疑わしくとも、南京大虐殺が無かったことの証明にならない。」

 馬鹿ではないか。そもそも「南京大虐殺」を盲信した理由が「証言」にあったはずだ。「証言」が疑わしいのであるなら、「南京大虐殺」そのものも疑わしいということになるのだ。
 「証拠写真」の嘘は既に大量に証明されている。その上「証言」が疑わしいのであるなら、少なくとも「南京大虐殺」があったと断定できないはずだ。
 「君は人殺しでないとは断定できない。よって君は人殺しだ。」などと決め付けられるようなマネをサヨク自身がされたら嬉しいのか。「疑わしき?を罰する。」という発想である。

 こういうサヨクにある冤罪捏造吊るし上げ体質は支那など左翼全体主義体制に共通する体質である。旧ソ連スターリン時代や文化大革命においても「旧体制の手先」と疑われた人物は何一つ証拠なしに吊るし上げられ次々と殺された。

 「なかっとは言えない。」→「あった。」という論理。サヨクには、旧ソ連スターリン体制から続く恐るべき冤罪捏造吊るし上げ体質が今なお脈々と受け継がれているのだ。

余談:「南京大虐殺」捏造者=カンボジア大虐殺隠蔽者
 「南京大虐殺」捏造者が、捏造ぶりを看破する人々に対して頻繁に発する罵倒フレーズが「歴史修正主義者」である。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)政権下におけるユダヤ人虐殺を否定する意見と同一視する論法などにより。
 ところが他人を「歴史修正主義者」と罵倒するサヨク連中は、過去にとんでもない歴史修正を行っている。
 カンボジアにおけるポルポト共産主義政権による大虐殺の「修正」である。

 カンボジアにおいて行われたポルポト共産政府による数知れない大虐殺。これについては現在は疑うものはいない。
 この支那の後ろ盾を受けたポルポト虐殺政権に対して、日本のサヨクはヘロヘロに媚びた。

 大虐殺の事実を認めず、ポル・ポット派擁護の超党派運動に参画した政治家、著名な知識人、マスコミ関係者は、旧社会党(現在の社民党)の土井たか子氏(ポル・ポット派支援組織だったカンボジア国際会議日本組織委員会の顧問)、自氏党AA研のメンバー(故伊東正義外相ら)、総評の市川誠元議長、市川房枝氏などだ。
 田英夫氏(当時社民連指導者・参議院議員、カンボジア救援センター事務局長)、元べ平連指導者O氏(雑誌「世界」に、ポ政権擁護とカンボジアの主権確保連盟アピールを掲載)、アジア経済研究所(政府外郭機関)の上級研究スタッフなども、とにかくポルポト政権を擁護した。

 中でも恥知らずなのが「中国への旅」における「南京大虐殺」捏造でおなじみの本多勝一氏である。
 本多氏は雑誌「潮」(10月号)に発表された記事「カンボジア革命の一側面」の中でカンボジア大虐殺について、「アメリカが宣伝した 共産主義者による大虐殺などは全くウソだった」とのたまい、さんざんクメール=ルージュ政権を擁護した。ところが後に手のひらを返したように「検証・カンボジア大虐殺」、の中で、カンボジア虐殺隠蔽に加担してきた連中を徹底して批判しているのだ。おいおい、自分はどうなんだ。
 本多氏は『貧困なる精神4集』を第9刷増刷時(1990年)「カンボジア革命の一側面」におけるカンボジアに関する記述を改版毎にチマチマ修正している。修正をするなら、まず誠実に「過去の過ち」を認め、嘘を読まさせられた読者や、なにより虐殺されたカンボジア国民に対して謝罪するべきである。

 カンボジア大虐殺という歴史を「修正」しようと策謀に励んだサヨクが「歴史修正主義者」と罵倒とは片腹痛い。まあ、例によって「歴史修正主義者」と喚いて逆ギレすることにより、自らの歴史修正体質を誤魔化そうとしているのだろう。

 カンボジア大虐殺を隠蔽したサヨクは、支那政府による「南京大虐殺」捏造の積極的協力者でもある。朝日新聞などサヨクは今後も支那政府やその影響下にある人間などによる「証言」とかを持ち出し、あらゆる嘘を捏造するだろう。サヨクがもたらす情報は、二重にも三重にも眉に唾を付けて聞いたほうがいい。
 嘘つきは一貫して嘘つきであることは、既にサヨク自身が証明しているのだ。

 参考ページ:本多勝一研究会ホームページリンク集にある「カンボジア大虐殺否定問題」
 当時のサヨクがカンボジア虐殺を隠蔽、修正しようと吐き続けた大法螺の数々。それらを記述したページへのリンクがある。

追記:
 ●平成十二年二月七日執筆
 最近サヨクは懲りもぜずに、今度は支那政府当局によるチベット人虐殺の隠蔽や弁護を始めている。我々国民はどの媒体に誰がいつどんな言い草で支那政府によるチベット虐殺の隠蔽や修正、擁護を行ったか、監視し覚えておく必要がある。真相が明らかになり、嘘がバレた時のリアクションを楽しむために。
 支那政府当局がチベットに対して行っている植民地支配の現状については、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所人権を参照のこと。
 支那人がチベット人に行った(かつ今も行なわれているであろう)拷問の数々が報告されている。それは、年少者に対する拷問、空中吊り、冷気・熱気への身体のさらし、膣への電気棒挿入、信仰の対象である仏画の上で糞尿を運ばせる、犠牲者の口への放尿、血液体液の強制抽出など、目を覆いたくなる陰惨さだ。いつもながら支那人の拷問文化は、チベット人や我々日本人の想像をはるかに超えている。

3.2 「平和憲法を守れ」にあるバレバレな嘘
 戦後、日教組や日本政府内サヨクなどはバレバレな嘘を撒き散らしてきた。ここに特に有名かつひどい大法螺の具体例、憲法論を中心とした嘘八百を記す。どれも馬鹿らしいかぎりであり、教科書でもおなじみなものだ。これに騙される馬鹿っているのだろうか。実はいる。それはサヨクである。

嘘その一 「明治憲法は欽定憲法、昭和憲法は民定憲法」
 もっとも、「明治憲法は欽定憲法」という部分は必ずしも間違いでない。明治憲法を発布なされたのは明治天皇だからだ。問題は「昭和憲法は民定憲法」の部分だ。
 明治憲法同様、発布者をもって憲法を定めたものと規定するなら昭和憲法は間違いなく欽定憲法である。昭和天皇が発布なされた憲法だからである。
 逆に、実質的に定めた人間を○定憲法の根拠とするなら明治憲法は間違いなく民定憲法である。伊藤博文など国民の代表者が定めたものだからである。また昭和憲法はアメリカが作成した米定憲法とでもいうべき代物だ。

 つまり、
* 公布者(すなわち形式論)を根拠として○定憲法と規定するなら、
 明治憲法:欽定憲法
 昭和憲法:欽定憲法
 となり、
* 実質的な作成者(すなわち実質論)を根拠として○定憲法と規定するなら、
 明治憲法:民定憲法
 昭和憲法:米定憲法
 となるのだ。

 更に、両憲法については、以下の表現もそれぞれ正しい。

 昭和憲法は憲法についての素人アメリカ人が作成した「素人憲法」。明治憲法は専門家が作成したから「専門家憲法」。
 昭和憲法は占領下に日本側が従う以外にない形で投下されたことから「押し付け憲法」。明治憲法は日本人が作成したことから「自主憲法」。
 昭和憲法はアメリカ軍による占領永続を必要とせざる得ない結果とする戦争放棄条項や軍備保持放棄条項などが存在することから「占領憲法」。明治憲法は国防を前提とした内容であることから「独立憲法」。
 昭和憲法は英語の本訳文であり、文体がまともな日本語になっていないことから「翻訳憲法」。明治憲法は伝統的な日本語の一つの形を成していることから「日本語憲法」。

 つまり、右翼団体が拡声器で言っていることは、憲法論において完全に正しいのである。ちなみに、筆者は右翼団体だろうが左翼団体だろうが竿竹屋であろうが、拡声器はうるさいので大嫌いである。

嘘その二 「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」
 もっとも、この点についても「戦後は国民主権」という規定は間違いではない。嘘は「戦前は天皇主権」の部分である。
 そもそも、何の権利を有することをもって主権者と規定するべきか。それは政治参加の権利である。政治に参加できるものが主権者なのだ。
 下記に上記同様、憲法論(形式的な主権者)と、実際論(実質的な主権者)それぞれを考察する。

* 憲法による規定(すなわち形式論)による考察
 戦前の明治憲法において天皇の権利が規定されているのは、「第五条:天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」「第十一条:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」などの立法形式と軍事に関する部分である。これらのみを根拠に主権者と規定することはできない。軍事以外の行政権や司法権なども、あまりに重要な権力だからである。

 形式論(憲法上の規定)から見た主権者は
 戦前:立法権→天皇及び成人男子(協賛者)主権、司法権→成人男子主権、行政権→成人男子主権(ただし軍事のみ天皇主権)
 戦後:立法権→成人男女主権、司法権→成人男女主権、行政権→成人男女主権
 となる。

 つまり戦前は現在同様国民主権といっても間違いはないが、成人男子国民主権というほうがより正確である。戦後は成人国民主権という言い方がより正確である。
 誤解のないように記すが、筆者は別に子供に選挙権や立候補権を与えろと主張するものではない。

* 実質的な政治行為者(すなわち実質論)による考察
 戦前に実際に天皇自身が政治判断をされた事例は以下二例のみである。

@ 2/26事件を起こした将校への判断
 2/26事件とは、青年将校の一部が時の総理大臣などを次々暗殺しクーデターを企てた事件。昭和天皇は青年将校を反乱軍と規定された。当然の判断だ。総理大臣などを殺すような形で政策実現を目指す連中を認められるはずがない。
@ 大東亜戦争の終戦
 当時の日本政府は、終戦派と朝日新聞などが煽っていた徹底抗戦派に別れていた。結局政府は昭和天皇にご判断をお願いし、昭和天皇は終戦を決められた。

 双方、天皇自身が積極的に政治判断をされたものではない。手におえなくなった時の為政者から判断を求められ答えたに過ぎない。

 更に言うまでもないことだが、
@ 天皇が上記を除く行政を行なわれた例はない。
@ 天皇が法律を作られ天皇が可決された例はない。
@ 天皇が裁判を行なわれ判決を下された例はない。

 どこが主権者やねん。司法立法行政のことごとくを完全に行う権力を持ち、かつ実際に行う存在を主権者という。

 そもそも戦前も秘密選挙は保証され議会は機能していた。明らかに国民は立候補権や投票権をもっており、国民(正確には成人男子)は主権者だったのだ。ただし、軍隊は統帥権条項を楯に、議会に反発する場合があったといわれる。
 同様に戦後においては、日教組など独自の官僚組織が教育権と称するものなどを楯に民意の実現を妨害、遮断している現状がある。つまり、主権者の意向が必ずしも反映されない官僚支配の現状が今なお形を変えて存在するのだ。
 以上の事柄をかんがみると、だいたい次のような感じだろう。

 実質的な主権者は、
 戦前:成人男子主権。ただし軍隊は統帥権条項を楯に必ずしも主権者の意向に従うわけではない。
 戦後:成人男女主権。ただし教育などに関しては、日教組など民意の統制外にある官僚独自組織の意向が重視され、主権者の意向はないがしろにされる。
 という感じか。

 サヨクは上記のうち形式論のみを根拠に「戦前は天皇主権」と主張する。馬鹿げた見方だ。紙の上に何が書かれていたかなどより、実質的にどうだったかの方がはるかに重要なのだ。

余談:サヨクは憲法とか資本論とかを崇める「紙の国」の住人。
 ●平成十二年五月二十一日執筆
 実際にどうなっているかより、何が書かれているかとか何を話したとかにこだわるのは、サヨク一般の特徴である。

 紙(憲法)の上の規定:天皇による政治判断を認めるいくぶんかの規定が存在する。
 実態:天皇自身がほとんど政治的な判断をされていない。

 サヨクは戦前における↑こういう状態を「天皇主権」とまで強弁する。
 こういう強弁をする政党や政治家が万一政権を獲得したなら↓こういう状態を「国民主権」と強弁をすることもありうるだろう。

 紙(憲法)の上の規定:国民による政治判断を認めるいくぶんかの規定が存在する。
 実態:国民自身には、ほとんど政治的な権力が認められてない。

 戦前を「天皇主権」とまで強弁する政治家であるなら、我が国を↑こういう社会体制にしておいて、「国民主権」とまで強弁することも当然ありうる。例えばサヨクが愛する支那や旧ソ連などだ。こういった国々では憲法上では「国民主権」であり「言論の自由」「信教の自由」「集会の自由」が保証されている。しかし実態は完全に「共産党党首主権」であり、「言論の自由」「信教の自由」「集会の自由」など全く保証されていない。

主権者の定義A「憲法上でαに対し、いくぶんかの権力が規定されていればαは主権者と定義できる。αに実際に三権全てを行使できる制度があるかどうかとか、また実際に三権の行使をできるか、また行使したかどうかなどは、主権者の定義とは無関係だ。」
主権者の定義B「αに実際に三権を行使できる制度があり、また実際に三権の行使をできてこそαを主権者と定義できる。」

 定義Aの立場に立ってはじめて、戦前を「天皇主権」と結論ずけることができるのだ。

 現在の教科書を含むサヨクの「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか、「戦前は天皇主権」という総括は、ある意味一貫している。定義Aにもとづくものだという点で。
 「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」との言い草は、要するに日本を「全体主義」と規定し日本の敵国だった旧ソ連を「民主主義」と規定するものだ。旧ソ連の社会体制を「民主主義(国民主権)」と規定するには、定義Aのαに「ソ連国民」を代入した前提に立ってこそ成り立つ。「戦前は天皇主権」との言い草は、定義Aのαに「天皇」を代入した前提に立ってこそ成り立つ。

 もちろん一般的な「主権者」は定義Bのものだ。普通の民主主義者なら、当然前提Bの立場に立つ。よって、「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか、「戦前は天皇主権」という総括を嘘八百だと即座に理解できる。

 要するに、はっきり言って「第二次世界大戦は民主主義と全体主義の戦い」とか「戦前は天皇主権」などという総括は、「自分は定義Aを支持する立場に立っている。自分はまともな民主主義者ではない。」という自白に他ならないのだ。 結局、サヨクは「確信犯的に民主主義を瓦解させプロレタリアート独裁を目指す反民主主義者(筆者の言う上級サヨク)」か、「それに騙され踊る阿呆(筆者の言う下級サヨク)」のいずれかに他ならないということだ。

 更に具体的に言うなら、

 「実際に天皇が政治関与をしたかどうかなど、どうでもいい。憲法上でいくぶんかの天皇の政治関与が規定されていれば天皇主権なのだ。」 

 ↑こういう発想をする政治家や政党とは、↓こういう発想もしかねない政党や政治家に他ならないのだ。

 「実際に国民に政治参加の権利が認められているかなど、どうでもいい。憲法上でいくぶんかの国民の政治関与が規定されていれば国民主権なのだ。」

 共産支那がさまにこういう発想だ。こういう実態を無視し、憲法など紙の上の記述のみに執着する発想。↓この有り様にあって社会主義を信じ続ける発想と全く同じだ。

 紙(資本論)の上の記述:社会主義体制では人々は搾取から解放され幸せに暮らす。
 実態:社会主義国では、人々は共産党幹部や官僚に搾取されまくり、時に飢餓まで生み出す。

 時に実態に目を向けることが合っても、それは紙の上での記述にあてはまる側面、もしくはあてはまると歪曲できる側面に対してのみだ。

 サヨク政治家やサヨクマスコミが政治家を批判する場合、実際の政策内容などを無視し、ナントカ発言とかにやたら執着する。言葉じりを捕らえ、悪意ある上げ足取りに終始する。森総理による「神の国」という言葉へのいいがかり騒動に見られるように。また、ひたすら憲法とかを崇め奉る。
 そういった実態に思考停止して文面言説に執着する病理傾向。サヨクは、紙の上での記述(要はイデオロギーのこと)に忠誠を発揮し、実態(つまり実際の国民)をないがしろにする体質が染み付いているのだ。
 サヨクは「紙(憲法とか資本論とか)の国」に暮らしている連中なのだ。

余談:「天皇主権←→国民主権」という形で両者を対立要素として提起すること自体が嘘
 ●平成十二年五月二十一日執筆
 「戦前は天皇主権、戦後は国民主権」という嘘宣伝の目的は、言うまでもなくテンノーセーハンタイにある。こういう嘘宣伝をする人間は、要するに↓こういうイメージを国民に刷り込もうとしているのだ。

 戦前:天皇が支配して戦争をした悪い社会体制
 戦後:天皇の力が抑制されたおかげで良くなった社会体制
 だから天皇がいなくなればもっと良くなります。

 完全な革命史観やんけ。ロシア革命にあこがれた戦前の共産党レベルで意識が停止している。幼児向けヒーロー物テレビ番組並みの発想。こんなマヌケなイメージ操作にやすやすと引っかかるのは、下級サヨクの他にはおるまい。

 結局「天皇主権←→国民主権」という形で主権の対立要素として提起すること自体が嘘なのだ。
 天皇であろうが誰であろうが、特定個人が国民一人一人の「主権」なるものを抑制したり剥奪することなど実際的にできない。実際的にそれが可能なのは、国民一人一人に対して実質的に政策を行使する現場要員、つまり官僚である。
 国家体制を論じるにあたって主権者の所在を論じる観点となるのは「官僚主権←→国民主権」なのだ。実質的に政策を行使する現場要員、つまり官僚が「民意にもとずいた選挙で選ばれた主権代行者(行政の長や議会)に従わせる政治制度が確立しているかどうか。また実質的に従っているか。」が重要となる。

@ 政策行為者である官僚に対して、民衆が政策を押し付ることのできない社会体制(例えば江戸時代)
@ 政策行為者である官僚が、時に民衆の代表者に時に従わない社会体制(例えば日教組の存在する現代)

 こういう状態を、国民の主権が制限されている状態と言う。今現在、国民の主権が組合教師により制限されている現状にあるのだ。

 「天皇主権←→国民主権」という構図の喧伝は、「官僚主権←→国民主権」という本質的な主権の所在を示す構図を誤魔化す効果がある。組合官僚が国民の主権を剥奪している現状を誤魔化す効果が。

 我々国民はこういう誤魔化しに乗せられてはならない。「天皇主権←→国民主権」という構図の喧伝は、テンノーセーハンタイのプロパ効果があるのと同時に、サヨク官僚による国民に対する主権侵害の現状を誤魔化す効果があるのだ。

嘘その三 「昭和憲法の特徴は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」という歪曲
 昭和憲法の特徴は「国民主権」、「基本的人権」の尊重と規定するのは、必ずしも嘘ではない。議会や選挙の規定があることから、明治憲法同様に憲法上主権が国民にあるのは明らかだ。人権の定義が不明瞭だが、「基本的人権の尊重」と規定するのも憲法の内容を読むと、あながち間違いとは言い切れない。ただ、戦争放棄条項を「平和主義」と規定するのは間違いだ。日本が戦力の保持をやめても、外国から戦力がなだれ込み、平和でなくなる可能性があるからだ。戦争看過主義とか戦争放置(放棄でなく)主義とか言うほうが、まだ妥当である。
 とにかく以上の三点は、現在の憲法の性格を的を得て示すものではない。むしろ歪曲されている。現在の憲法を読めば一目瞭然だ。

 昭和憲法の特徴は、あえて三つあげれば、
* 天皇が日本の象徴であること。
* 国民に過大な権利と過小な義務が規定されていること。
* 内閣総理大臣を規定し、議会制度や司法制度をしいていること。
 というところか。

 これに、憲法第九条について付け加えるとするなら(この条文は、確かに諸外国にある普通の憲法には見られない異様な特色とは言える)、平和主義ではなく戦争放置主義というのが妥当だろう。むろん、日本への侵略戦争であっても放置するということであろう。国民の生命財産軽視主義とも言いうる。

 見ての通り、どれも少し調べればバレるあほ臭いばかりの嘘だ。とにかくサヨクは平気で嘘をつく。バレバレな嘘がほとんどだが、教科書上で記すなどあまりにもあからさまなので、気をつけないと騙されることになる。
 現在の憲法を聖典とする異様なサヨクが多い。外国に侵略されたら「ヘーワケンポーバンザーイ」と叫んで一億玉砕すればいいなどと考える人命軽視のド阿呆だ。外国侵略により死ぬのがサヨクだけなら別にいいんだけど。
 そもそも憲法など、国あってのものであり、民あってのものである。国や民より、憲法を大切にする憲法原理主義者とでも言うべきサヨクがこういう嘘をつく。

 ただ、仮にこれらの嘘が文部省の指導要領に入っているなら、これらの嘘を教えていることについて教師を責めるのは、理不尽である。我々国民の選んだ代表者である内閣総理大臣が任命した文部大臣に、官僚である教師が従うのは当然だからである。もし、これらの嘘が文部省の指導要領に入っているなら、責められるべきなのは文部大臣であり、それを任命した内閣総理大臣であり、それを選出した国会議員であり、それを選んだ国民である。

 下記に原文を記したアドレスを紹介する。まあ、とにかく読んでみてほしい。

参考資料
 明治憲法全文
 昭和憲法全文

余談:「第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦い」も嘘
 ●平成十二年四月二十八日執筆
 教科書では第二次世界大戦を「第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦い」などと今なお占領軍のお達しのままに総括している。いいかげんにしてもらいたい大嘘である。

* 民主的な社会体制だったのは、敗戦国側。むしろ戦勝国に非民主的な国が多かった。
 第二次世界大戦における、それぞれの国のうち主要な国の社会体制を以下に列記する。

@ 敗戦国側
  日本:秘密選挙制度が確立した社会体制(ただし参政権は成人男子のみ)
 ドイツ:秘密選挙制度が確立した社会体制(成人男女に参政権あり)

@ 戦勝国側
アメリカ:秘密選挙制度が確立した社会体制(ただし黒人には参政権なし)
 旧ソ連:当局に投票した内容を知られる選挙制度。その結果時に当局に殺される社会体制。
  支那:清王朝滅亡で混乱期にあり選挙どころかまともな政府すらない社会体制

 上記下記を比較してみて欲しい。「戦勝国側=民主主義、敗戦国側=非民主的」などとは全く言えないことが判るはずだ。
 こういった筆者の言い草に対して以下の反論がありうるだろう。

# 日本やドイツは戦争をしている→だから非民主的
 間違っている。
 戦争と民主主義は対立概念ではない。戦争をするかどうかと、民主主義うんぬんと直接関係ない。民主主義とは民意で政治を行おうという主義主張だ。例えば民意が戦争を支持するとはありうる。例えば当時の日本も、人々の圧倒的な支持があって戦争は開始された。
 戦争は政治制度ではなく政策である。民主制は政治制度にすぎない。

# ドイツはユダヤ人を虐殺している→だから非民主的
 間違っている。
 政府による特定民族虐殺政策と民主主義は対立概念ではない。虐殺政策を行うかどうかと、民主主義うんぬんと直接関係ない。民主主義とは民意で政治を行おうという主義主張だ。例えば民意が虐殺を支持するとはありうる。例えば当時著書演説その他で繰り返し反ユダヤ主義を主張してきたナチス党も、人々の圧倒的な支持を受けて与党となっている。
 ユダヤ人虐殺は政治制度ではなく政策である。民主制は政治制度にすぎない。ちなみに筆者はナチスドイツによるユダヤ人虐殺の政策を全く支持しない。

 我々はおうおうに政治制度と政策を混在させて論じる。特に民主主義とか全体主義を語る場合に。政治制度とは、為政者の選出方法、為政者の交代方法、為政者の権力組織関係(三権分立など)、などの規定をいう。政策とはそういった規定のうちで実際に行われる政治の内容をいう。

* 戦前の日本はファシズム国家ではない
 サヨクによる逆ギレ罵倒用語として知られる言葉、ファシスト。教科書その他によると戦前の日本はファシズム国家らしい。サヨクもまたそのように汗水たらして力説する。全く違う。戦前の日本はファシズム国家ではない。

 そもそもファシズムとは何か。広辞苑の記述をまとめるとファシズム国家の要件はおおむね以下である。

要件一:全体主義(国家などが個人に対して絶対的に優位とする思想)的
要件二:議会制度の否認
要件三:一党独裁
要件四:政治的自由の極度の抑圧
要件五:侵略政策

 戦前の日本について要件のそれぞれを検討する。

要件一:全体主義(国家などが個人に対して絶対的に優位とする思想)的
 戦前の日本は要件一にあてはまらない。
 実は戦前の日本は世界的基準から見て、公的な存在が個人より際立って優位とされたわけではない。徴兵、国体破壊言動の制限など、全て現在も普通の国ではなんら珍しくない。むしろ現在の日本が、世界的にもたぐいまれなほどに公的な存在に対し個人が優位となっている。戦前が世界一般普通のレベルであり、今が異常なのだ。
 逆に対日戦勝国に飛び入りした当時の旧ソ連は間違いなくこれにあてはまる。スターリンのウルトラ全体主義恐怖政治の時代だ。

要件二:議会制度の否認
 戦前の日本は要件二にあてはまらない。議会は立法し予算を承認するなど、行政と独立して機能していた。
 逆に対日戦勝国に飛び入りした当時の旧ソ連は間違いなくこれにあてはまる。共産党一党独裁下の議会であり、実施的に独裁政党の下請け状態だからだ。支那もこれにあてはまる。当時の支那は、議会どころか政府すらまともに機能していない。

要件三:一党独裁
 戦前の日本は要件三にあてはまらない。
 いうまでもなく戦前の日本も普通の多党制民主国家であった。戦時中は大政翼賛会に集約されたが、国家的危機にさいして各政党の自発的な意志で集約されたものだ。独裁政党が諸政党を弾圧して潰した結果ではない。
 逆に対日戦勝国に飛び入りした当時の旧ソ連は間違いなくこれにあてはまる。諸政党を弾圧して駆逐し、共産党のみを合法政党とする典型的共産党一党独裁体制だ。

要件四:政治的自由の極度の抑圧
 戦前の日本は要件四にあてはまらない。
 言論の自由はあった。各種新聞による政府批判も行われていた。治安維持法により制限されたのは、根本的に国体を転覆させることを目的とした言動(共産主義暴力革命思想など)である。これは普通の国ではほとんど制限されている。極度の抑圧などとは言えない。
 もちろん旧ソ連は要件四に当てはまる。
 また米国では当時黒人には参政権はなく、黒人の政治的自由は極度に抑圧されていた。

要件五:侵略政策
 戦前の日本は要件五にあてはまらない。
 大東亜戦争は侵略ではない。侵略政策を行い続けたのは、東南アジアなど世界中を数百年植民地支配しABCD包囲陣をしきハルノートを突きつけた欧米列強である。大東亜戦争はそれとの抗戦である。
 戦勝国側は全てが要件五に該当する。

 見ての通り戦前の日本は要件一〜五全てに該当しない。当時の世界の諸国情勢をかんがみた時、当時の日本はなんらファシズム国家ではないのだ。「教科書に日本はファシズム国家と書いてあった→だから事実」ではなく、このように時に自分で検証してみる必要がある。
 逆に戦勝国側にこそファシズムの匂いがぷんぷんする。特にソ連あたりから。

 ただしイタリアはまぎれもなくファシズム国家である(なにしろファシズムの語源となった政党が与党)。ドイツも同様である。

* 「第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦い」は占領軍の洗脳宣伝によるもの
 言うまでもないが、「第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦い」という構図は、占領軍の洗脳宣伝によるものだ。アメリカが占領軍必死で日本をもドイツ同様の社会体制であったことにして、原子爆弾投下など日本人への虐殺を正当化しようとしたわけだ。「戦勝国アメリカはセーギの見方。敗戦国日本はワルモノ。」という構図をさかんに喧伝することで。
 この戦勝国による虐殺を正当化するための洗脳は、占領終了後も組合教師文部省マスコミ(つまりサヨク)に明瞭に引き継がれている。「アメリカ様、憲法投下をありがとう。」
 もうこんな馬鹿げた洗脳から脱却する必要がある。

 ヨーロッパ大戦は、
  アフリカ植民地主義(イギリスフランス)と、新植民地主義(イタリア)の戦い。
  侵略主義(ドイツ)と、ヨーロッパ諸国の戦い。

 だが、

 大東亜戦争は
  植民地主義(欧米列強)と、虐げられてきた東亜諸国(日本及び大東亜共栄圏に参加した国々)の戦い。
  植民地主義と、虐げられてきた世界中の有色人種の未来を担った戦い。
  侵略主義(ソ連)と、日本の戦い。

  要は 大東亜戦争とは人種差別主義者と虐げられてきた有色人種の戦いなのだ。

余談:「戦前は独裁体制」もまた嘘
 ●平成十三年四月二十三日執筆
 日本がナチスドイツと同一の社会体制であったことにどうしてもしたかった占領軍は、「戦前はグンブ独裁体制だった」というプロバカンダを提灯マスコミを通じ戦後日本人に刷り込んだ。
 そのプロバカンダは今現在もサヨクの間で引き継がれている。更に支離滅裂になった形で。現在、サヨクは以下のような戦前独裁体制論を奏でるに至っている。

1:軍部独裁体制論
2:天皇独裁体制論
3:東条英機独裁体制論

* 軍部独裁体制論、天皇独裁体制論、東条英機独裁体制論を同時に主張する一部サヨクの愚劣
 特に程度の低いサヨクは上記を同時に主張していたりする。これの最もありがちなケースが、「天皇主権」と「軍部独裁」を同時に主張するケースである。教科書上でおなじみのケースだ。「戦前は天皇主権」などと表現してあたかも天皇が戦前の独裁者であったかのように表現しつつ、「軍部独裁」などと表現する有様。底なしの阿呆と呼ぶ以外に無い。
 独裁者とは政治権力を寡占的に手中に収めた存在を言う。Aが寡占的な政治権力を得ている状態とは、A以外の存在の政治権力が制限されているということに他ならない。つまり例えば「軍部独裁」なら「天皇」「東条英機(国民の代表者)」の権力が制限された状態ということに他ならず、「東条英機独裁」なら「天皇」「軍部」の権力が制限された状態ということに他ならないのだ。
 要するに「独裁」という言葉を罵倒用語程度に解釈して、軍部や天皇や東条英機に当てはめて喜んでいるというだけの話だろう。

 はっきり言って、上記のように「独裁者」とあてはめる存在が戦前独裁体制論者の間で多種多様であるという事実自体が、戦前が独裁体制でなかったことの証となるのだ。

* 共産党一党独裁国家支那との比較で明らかになる、戦前独裁体制論の馬鹿馬鹿しさ
 またもちろん上記1、2、3はそれぞれ単一の主張であっても間違っている。以下に間違いなく独裁体制と呼びうる共産支那と、上記1,2,3を比較する。共産支那と、上記1,2,3それぞれが全く異なることを理解してもらえるはずだ。

@ 司法権
 共産支那:共産党の支配下にある。司法組織は共産党の手足となって判決を下す。特に共産党中央に近いものは政治的失脚がないかぎり絶対に裁かれない。また共産党の最高幹部は政敵を政治犯にしたてあげ吊るし上げ裁判などをえて自在に殺すことができる。
 戦前の軍部:任務中の軍人自身の犯罪を除いて、なんら国民に対する司法権を持たない。なんら国民を裁き判決を下す権限をもたない。また軍人の行為が軍法会議で裁かれるのは、今現在の先進国においても一般的なことだ。
 戦前の天皇:一切国民に対する司法権を持たない。国民を裁き判決を下す権限をもたず、かつ裁き判決を下した事例もない。当然だ。
 東条英機:戦前も三権分立は機能しており、内閣総理大臣は一切国民に対する司法権を持たない。国民を裁き判決を下す権限をもたず、かつ裁き判決を下した事例もない。

@ 立法権
 共産支那:議会議員には共産党推薦候補のみが立候補することができる。与党共産党が唯一の合法政党であり、共産党以外の政党の結成は認められず弾圧の対象となる。議会は、全議員が共産党で埋め尽くされた完全な共産党の下請け組織である。共産党は思うがままに自在に法律を可決することができる。
 戦前の軍部:なんら法を可決する権力をもたない。なんら立法権を持たない。法案の可決は全て軍部から独立した議会が行っていた。
 戦前の天皇:憲法上では天皇に立法権が認められてあり、国民はその協賛者である。ただし、実際に天皇が法案を可決された事例は無い。
 東条英機:戦前も三権分立は機能しており、内閣総理大臣は立法権を持たない。

@ 行政権
 共産支那:国政から地方行政に至るまで完全に与党共産党の支配下にある。
 戦前の軍部:なんら行政権をもたない。ただし軍務については、必ずしも内閣総理大臣の指示に従うものではなかった。
 戦前の天皇:憲法上では天皇に陸海空軍の統帥権のみ認められているだけで、それ以外のいかなる行政権もない。更に、実際に天皇自身が行政を行われた事例は「二/二六事件に対する判断」「終戦の聖断」の二つのみである。しかもこれらは自ら進んで指示されたのではなく、為政者から求められて指示されたに過ぎない。
 東条英機:内閣総理大臣は行政の最高責任者である。

 見ての通りである。共産支那は間違いなく独裁体制である。しかし戦前独裁体制論など、全くのトンチンカンとしか言いようがないのだ。

 サヨク教師は「戦前は学校で嘘が教えられました。」などとプロバカンダする。いいかげんにしろ。嘘八百を教えているのはサヨク教師だろう。
 見てのとおり我々は学校であらゆる嘘八百を教わってきた。それゆえ、新しい教科書を国民の手で作ろうという機運が高まっており、かつ多くの人々に支持されているのだ。

 要するに教育に限らず戦後とはそもそもが嘘と虚構の上に成り立っているのだ。「明治憲法は欽定憲法、昭和憲法は民定憲法」などという嘘の上に。

3.3 サヨクの伝統的主張テンノーセーハンタイ
 自分をサヨクと分類されるのを嫌がるサヨクもいる。しかし、そういった連中も結局テンノーセーハンタイなどという最も伝統的なサヨク思想を支持していることを露呈し馬脚を現す。我々国民はこの馬脚に注目していればいい。

* 皇室の価値をサヨクが理解できない理由
 皇室がとてつもなく重要な存在だとうことを理解するには、ほとんど努力を要さない。いくぶんかの教養があればいい。それはいかなる様式の教養でもいい。文学、詩、戯曲、小説、絵画、服飾装飾、髪型、料理、建築、工芸、武道や格闘技、音楽、舞踏、演劇、宗教、神事司祭、政治など何でもいい。とにかくなんらかの日本の文化へのいくぶんかの教養があれば、いとも簡単に皇室の重要性が解る。
 しかし現在、こういった文化に恐ろしく無教養な人間が増えている。そして更に無教養な人間の中でも、自らの無教養さを認識できない人間もいる。すなわち、西欧のナニガシカのエライ人の口移しができることもって、自らを教養人だと勘違いする人間である。
 そういった無教養の権化の癖して、自らを教養人だと勘違いした馬鹿の中から、テンノーセーハンタイを連呼するサヨクが生まれる。

 ちなみに、筆者は世の中の人間全てが教養豊かである必要などないと考える。無教養な人間はいてもいっこうに構わない。無教養な人間にも、善良で勤勉な人は沢山いる。
 落語に出てくる熊さん八っつあんとサヨクは、双方無教養である。ただ両者には明らかな違いがある。
 落語に出てくる熊さん八っつあんは、自らが無教養であることを知っている。そこが賢い。平凡な職人である自分をわきまえているのだ。自らが無教養であることを認識できているなら、その人はある意味、教養のある人に他ならない。
 逆にサヨクは圧倒的に無知無教養な人間のくせして、サヨク史観をベンキョーすることにより自分を意識の高い偉い人などと勘違いしている。明治維新以前については、音楽の曲名を一曲も知らず、古事記や源氏物語や平家物語の内容も知らず、和歌のいくつかも知らず、能楽の謡をただの一つも知らず、着物の着方も知らず、武道の心得も無く、作法の心得も無いためひたすら所作が醜く無礼な人間。知っていること(というより刷り込まれたこと)といえば、「テンノーはセンソーをして人を沢山殺しましたー」とかボケた歴史観のみだ。
 つまり、サヨクは馬鹿の癖して、自分が馬鹿であることを分かっていない救いがたい馬鹿なのだ。

余談:教養とは何か
 ●平成十二年二月八日執筆
 筆者はさんざんサヨクを無教養とか毒づいているが、はたして教養とは何か。サヨクが思い込みがちな「教養」と、日本人にとって伝統的な意味からの教養を以下に記す。

* サヨクが思い込みがちな「教養」とは
 サヨクが「教養」と思い込みがちなモノを以下に列記する。

@ 西欧のナニガシカのエライヒトが記した晦渋な用語や言い回しの知識
@ 外国語の知識
@ 外国の情勢やマス情報の知識

 サヨクはこれらを「教養」と信じる場合が多い。そしてこれらの知識を大量に口移すことのできる人間(つまり、それにより自分を過大評価させる能力に長じた人間)を「教養人」と考える場合が多い。特にこういった「教養」に秀でた人間の中には、テレビや著作物で日本人や日本社会や日本政府を相手に、西欧人になりきって高飛車に説教する者もいる。「おそ松くん」に登場する、おフランス帰りを自慢する「イヤミ」のようなキャラだ。「シェー、チミたち遅れてるザンスねえ。おフランスでは..」
 その「教養人」はおおむね年長者にタメ口で(ホーケンテキな考えにシバラれていないから)、初対面の相手に足を組みながら「あんた、○なんだからさあ。」「おたくねえ」などとあきれ顔で首をすくめて話す。
 これに下級サヨクは「かっこいいなあ」などと思う。

 とはいえこういった俗物はサヨクに限らず多い。知識自慢の俗物君はあらゆる場所にいる。これはグッチやアルマーニを身につけることで虚栄心を満たす女と同じだ。グッチやアルマーニの代わりに西欧系の知識を身につけて虚栄心を満たしているというだけの話だ。空虚だがおおむね害は少ない。
 しかしながらサヨクとはこういった数ある俗物のうち、占領政策と冷戦により腐ってしまった種族なので有害極まりないのだ。

* 真の教養とは
 教養とは豊かな品性品格を生み出す素養だ。日本には豊かな品性品格を身につけることのできる様々な教養がある。以下のような。

@ 茶道:他人をもてなし見苦しくない所作を行うための心構え
@ 華道:他人に華やいだ場をもたらすための心構え
@ 和歌:他人に美しい言葉を発するための心構え
@ 武道:他人や自らを理不尽な暴力から守るための心構え
@ 神道:神(=祖先や自然。つまり他者)を尊び敬う人となるための心構え

 つまり他人とより誠実に接するための心構えが教養なのだ。その心構えを、より完全に緻密に身につけた人間を教養人という。これらの心構えを身につければ、なんら知識自慢で虚勢を張らなくとも品性品格がにじみ出て人を和ませる。

 人は誠実であればそれで人として十分だ。その点を直接鍛練する発想に立ったこれらの文化は、あまりに高度で偉大である。こういった文化は外国では見られない種類のものだ。人と誠実に接する技術が一つの文化となっているなど、外国での例を知らない。これらを軽んじてきた明治維新後以降特に戦後という時代を、実に残念に思う。誠意とか礼儀とかへったくれもない利害の権化である支那とか西欧の蛮族による侵略の危機にあっては、これらを捨てざる得なかったのは事実だが。

 ちなみに筆者は到底教養人などと言える人間ではない。筆者はそんじょそこらの下品なあんちゃんだ。ただ、下級サヨクが崇拝する「教養人」がただのニセモノであることを知っている。かつ真の教養人がもつ品性を感じ取れないほど愚鈍でもない。かつ真の教養人がもつ品性品格を妬み、自分並みのレベルに貶めようとするほど卑小ではない。という程度の人間に過ぎない。

* サヨクの存在が証明する皇室の重要さ
 皇室は異様な価値観の組織による独裁体制の台頭を阻止する。
 異様な組織とは、自分たちを世間の中心にすえ、世間はみな意識の低い馬鹿であり、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)のみが正しいと考える組織である。そういった組織は、おうおうにテロリズムに走る。意識の低い馬鹿など別に死んでもいいと考えるのだ。具体的には、サヨクとかオウムなどである。
 ただ、幸いなことにオウムは選挙で落選し、社民党も圧倒的に議席を減らした(共産党が台頭しているのは不気味だが)。特に社民党の凋落は著しい。戦後一貫して教育、マスコミ共に社会主義の犯罪を隠蔽し、サヨクの主張を事ある毎にプロバカンダしてきたにもかかわらずである。
 なぜ、こうなるのか。

(1)思い上がればテンノーセーハンタイ
 自分たちを世間の中心にすえ、世間はみな意識の低い馬鹿であり、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)のみが正しいと考える組織は、テンノセーハンタイに陥る。皇室は、自分たち以外の権威だからである。唯一正しいのが、自分たち(あるいは組織の指導者、あるいは組織の教えや主義主張)と考えるなら、テンノーセーハンタイは、当然の帰えつである。むしろ、自分たちが信奉する権威以外の権威は、憎しみの対象となるのみだろう。自分たちが信奉する権威が相対化され、場合によっては貶められる危険性さえあるからだ。
 これらの結果、サヨクもオウムもテンノーセーハンタイになる。

 ただ、サヨクの場合オウムより更に醜怪である。サヨクはオウムより、更に情熱を込めてテンノーセーハンタイを訴える。これはサヨクの本質的な目的「他人を困らせたり悲しませたりして楽しむこと」に起因する。
 サヨクによるテンノーセーハンタイにより、皇室を大切にする多くの日本人を悲しませることができる。これこそサヨクの目的なのだ。サヨクは、皇室を大切にする多くの日本人が嘆き悲しみだすと、「ケシシ、怒っとる怒っとる、悲しんどる悲しんどる。オモシレー。」と、楽しそうにおおはしゃぎする。特に、皇室を守るために(つまりは日本を守るため)大東亜戦争を戦い、数知れぬ戦友を失った元日本軍兵士の無念は計り知れない。これにもサヨクは、「うひゃひゃ、じじいが嘆いとる嘆いとる、悲しんどる悲しんどる。オモシレー。」という具合だ。
 つまり、他人が嘆き悲しむ有り様を楽しむために、他人の親に怪我をさせたり殺したりする鬼畜同様なのだ。

(2)テンノーセーはジンケンシンガイの馬鹿馬鹿しさ
 むろん、サヨクの中にはあたかも皇室に同情しているかのようなふりをし、テンノーセーはジンケンシンガイと主張する人間もいる。
 ばかげた意見だ。世界人口五十億人の中で皇室のみの人権に執着するところが既に偽物なのだ。身内に皇族がいるなら別だが。こういう連中は、おおむね今現在も存在する支那における莫大な人権侵害には、やたら無頓着だ。支那人は、北京の社会主義政府からどんなに人権が侵害されてもいいと考えているのだろうか。支那政府による莫大な人権侵害を不当と思うなら、ぜひとも支那大使館にでも抗議に向かってもらいたいものだ。
 まあ、抗議に行くわけない。サヨクの人権論など偽装であり、サヨクにとり支那政府に弾圧される支那人の人権などどうでもいいからだ。テンノーセーハンタイが本音であり、そして多くの人々を悲しませて楽しむことが本音なのだから。

(3)テンノーセーハンタイが生み出す大衆の乖離
 昭和天皇が崩御されるまえ、ご病気になられた時、誰も予想できなかった驚くべきことがおきた。大勢の女子高生がお見舞い記帳に訪れたのだ。さんざん、サヨク史観の授業を受けて育ってきたにもかかわらずである。
 大衆は皇室を支持している。
 それはなんら今も変わることはない。サヨクのおっさんは、何とかテンノーセーは時代遅れというイメージ造りに懸命だったが。皇室のように日本歴史以前から千年以上にわたる存在は、新しいとか古いとかいうレベルなど超越している。むしろ、ソ連、東欧は崩壊し、北朝鮮は飢餓国家となり、時代遅れなのはサヨク思想になった。

 ある意味、サヨクがテンノセーハンタイを主張している限り国民は安心していられよう。テンノーセーハンタイという主張自体、大衆は支持しないからだ。よって、付帯する様々なサヨクの主張も支持されないことになる。
 民衆はサヨクの予想より遥かに賢い。サヨクの醜怪な悪意など、筆者が指摘するまでもなく、とっくにお見とおしなのだ。というより、サヨクが人一倍馬鹿すぎるのだが。というか、人一倍馬鹿だからサヨクになったと言うべきか。

* 総括
 ●平成十二年三月二十四日執筆
 かつて旧ソ連チェルノブイリで原子力発電所の事故があった。全ヨーロッパを汚染し、多くの死者や放射線障害の患者を出した。彼らもまた、社会主義の犠牲者である。その時、「原子力の恐ろしさを知らしめることができたという点で、この原子力発電所の事故は意義があった。」などという阿呆が、旧ソ連にいた。(旧ソ連にシンパシーを感じていた日本のサヨクにも、きっとこういう言い草に賛同する阿呆はいたんだろうなあ。)
 こういう、泥棒の三分の理を過大評価する阿呆になりきってみると、サヨクにも意義があると言う論法もありうる。それは、どのような意義か。

 サヨクは、

1:大衆意識から逸脱し、自分たちの主張を絶対視する狂信集団(サヨクとかオウム)が現れる。
 ↓
2:その集団は、絶対視している主張以外の権威を認めないため、テンノーセーハンタイになる。
 ↓
3:大衆は皇室を支持しており、テンノーセーハンタイを支持しない。
 ↓
4:その結果、大衆意識から逸脱し、自分たちの主張を絶対視する狂信集団の台頭は抑止される。

 という有り様を明瞭化させることに役立っている。

 つまり、皇室の重要性を明瞭にしてくれているのがサヨクなわけだ。無論、こういったサヨクの意義は原発事故程度の意義だが。
 更にいえば、少なくともサヨクとかオウムのような存在があるかぎり、皇室は重要ということになる。大衆意識を逸脱した異様な独裁独善政治(もしくは宗教)組織が我が国を支配することを抑止するために。

 今後ともサヨクはテンノセーハンタイの呪縛から解き放たれることは無いだろう。それゆえ、大衆の支持は得ないだろうし、基本的には安心していいというわけだ。(だからこそサヨクはテンノーセーハンタイという主張をおうおうに隠そうとする。)
 ただし、公立学校というサティアンでカルト思想を刷り込まれる子供たちが増えた時、きわめて危険な事体になる。今、まさにそうなりつつある。恐ろしいことだ。
 サヨクカルトが支配するサティアンから子供たちを救い出さねばならない。既に我々の祖先を平気で毀損(ポア)する狂人が大量に生産されている。サヨクカルト教団日教組を、一刻も早く駆逐し、我々国民の手に教育をとり戻す必要がある。

3.4 話にならないサヨクとの論争
 サヨクは論争が大好きだ。論争をしたいがためにサヨクになったのかと思えるほどだ。サヨクとは実証を放棄して、言葉遊びに走った存在でもある。とにかく共産党の昔からサヨクはやたら論争が大好きだ。
 ところがそのくせ、その論争といえば「レッテルを張る」、「常套句スローガンを繰り返す」、「罵倒する」、「相手の言葉を遮る」、「相手の提起や質問に答えない」、「そのくせやたら質問が多い」、「わざとらしく笑う」、「怒鳴る」、「わめく」、「大袈裟に驚く」、「大袈裟に呆れて見せる」、「さくらを動員して相手を封じる」、「そもそも論議の場から反対派を除外する」というものだ。
 それが文章の場合は、「てにおはがおかしい」、「主語や目的語などの省略が多い」、「一つの文が長く冗長」、「一般性の無い用語を多用して虚勢をはる」などなど。
 内容については「嘘歪曲偏向」、「すり替え」、「いやみ」、「恫喝」、「無関係な個人情報あばき」、「威張る」という類だ。

 と言っても実はサヨクは論争そのものが好きなのではない。相手をやり込めたり困らせたりするのが好きなだけなのだ。言葉に詰まってうろたえる人間を見るのは、なんとも愉快ではないか。サヨクにとり、論争とは単にそのための手段に過ぎない。
 予算委員会で、賭けゴルフ疑惑について森総理に突っ込む、赤軍派の愛人をもつ社民党女代議士の嬉しそうな顔。吊るし上げ四人組裁判趣味のサヨク丸出しだ。こんなどうでもいいチマチマしたやり取りで、天下国家の予算の使い道を論じる委員会の時間を浪費するんじゃねえっての。
 討論番組で「えええ〜っつ!!」などと、わざとらしくのけぞって驚いてみせる社民党福島。漫画の読みすぎか。驚いたときに実際に「えええ〜っつ!!」などと言って驚くようなヤツは普通いねえぞ。しかもマイクに口を近づけて。この女は自宅にいる時でも、あわてた時は「あたふた、あたふた」とか言い、上機嫌のときは「るんるん」などと声を出して言ってそうだ。

 以上のようなサヨクの主張、論争に見られる病理傾向。そこからいくつかを抜粋し以下に解説する。

@ サヨクのレッテル罵倒常套句愛好癖
 サヨクは、テレビとかサヨク本などで吹き込まれたいやらしい常套句を良く使う。またサヨクはサヨクに反対する人間には、ひらすら罵倒、レッテル張りで応じる。こういう人間が、世の中にいるだろうか。

 幼稚園児ならいる。
園児「おまえのかーちゃんでーべーそー」→サヨク「おまえのじーちゃん 虐殺者ー」

 レッテル張りではないが、こういうのもある。
園児「せーんせーにーゆーてやろー」  →サヨク「支ー那政府に ゆーてやろー」

 とにかくサヨクには、気のきいた言語表現が全く見られない。いつもどっかで誰かの言ったセリフ、言い回しの目白押しだ。ひとしなみに、十把一からげに、常に同じセリフ、同じコピー、同じ論法だ。とにかく気持ち悪い。
 サヨクとは自分をサヨク思想に帰依した人間だ。その結果、その人間が本来持っていた面白さや個性を失い、サヨク金太郎飴になってしまっているのだ。
 正直に言うが、筆者は考え方が違っても魅力有る人間なら好きである。サヨクの嫌になるところは、とにかく凡庸でつまらない人間だという点だ。国営放送レベルの常套句は聞きたくも無い。サヨクと話すと必ず「またこれ(セリフ、言い回し、論法)か。」と思わさせられる羽目になる。
 サヨクが頻繁に用いる、いやらしいボキャ貧 罵倒 常套句を列記する。全て、毎年毎年サヨク流行語大賞にノミネート間違いなしのコピーだ。

* よしりん教徒、よしりん信者
 最近、これが多い。小林よしのり氏がサヨクに与えた影響は、ものすごいものがある。サヨクに批判的な人間は全員よしりん顔に見えるように、サヨクを退化させてしまった。
 要するに、この罵倒の目的とは、「小林氏と似ている主張をする人間が小林氏に盲従しているかのような構図をあてはめ、似ている主張を言わせないようにすること」にある。小林氏の主張と同じ内容を言われたら反論できず困るからだ。サヨクが得意とする毎度おなじみ雰囲気プロパだ。

 <○氏は戦後問題を提起する主張をした。→小林氏の著作に同じ提起があった。→○氏はよしりん教徒>。
 なんじゃ↑こりゃ。馬鹿丸出しやんけ。小林氏のサヨク批判(戦後問題の提起)は、本質的には昔からあったものだ。いずれにせよ「よしりん教徒」という罵倒は、戦後問題に関して小林氏の著作以外に、完全に無知であることの自白にしかなってないわけだ。

* 右翼
 サヨクを批判した。→だから右翼。
 国防の大切さを訴えた。→だから右翼。
 新憲法制定を訴えた。→だから右翼。
 皇室の大切さを訴えた。→だから右翼。

 なさけない。
 確かに全て右翼の主張だが、既に右翼のみが訴えている内容ではない。読売新聞の調査でも既に頻繁に憲法改正派が主流となっている。

* 軍国主義者
 サヨクに反対する人間は、おおむね確かに国防の必要性を主張する。しかし今の国防が、先進国では世界的レベルから貧弱極まりないのは事実なのだ。日本の国防費は高いが、物価も人件費も世界一高い。兵士一人当たりの人件費も兵器代金も滅法高い。
 防衛費が高い→軍事力が強い。
 などとは言えないのだ。ただ、支那のように物価も人件費も安い国の軍事力を意図的に過小評価したい人間は、「防衛費が高い→軍事力が強い」と宣伝するだろう。

 日本の防衛能力

 原子力潜水艦:なし
 空母:なし
 戦闘機製造能力:なし
 核ミサイル:なし
 核ミサイル防御システム:なし

 見ての通り丸裸で、おまけに機動力なしだ。

 更に
 自衛官官舎:貧弱

 防衛力を先進国一般のレベルにするべきであると考える人間→軍国主義者

 であるなら、先進国に暮らす全ての人間は、軍国主義者ということになる。これにそのとおりだと言われれば、なんとでも呼んでくれというほかない。
 筆者は先進国に暮らす人々が持つ、普通の常識があればそれでいい。

* 軍靴の響き
 サヨクには、日本のみの「軍靴の響き」が聞こえ続ける奇怪な幻聴体質がある。その一方、桁外れの軍拡を行い膨大な音量で鳴り響いている共産支那からの「軍靴の響き」については、全く聞こえない重度の難聴でもある。
 阪神淡路大震災では村山首相や現地知事からの自衛隊出動命令が立ち遅れたため、神戸や淡路で「軍靴の響き」が鳴り響き始めるのが遅くなり、膨大な追加犠牲者を生み出した。

* ファシスト
 全体主義者。昔、共産党あたりがよく使った罵倒用語だ。
 ファシストとは、例えば支那や北朝鮮のような全体主義国家に傾倒する人間だ。よって、サヨクはおおむねファシストなのだ。サヨクに反対する人間は、おおむね支那政府のファシズムに反対する。
 三島由紀夫は「サヨクの人のいうファシストとは、世間一般の人のいう馬鹿野郎などという意味。」という趣旨のことを言っている。まあ、そのとうおりだろう。

* テンノーシュギシャ
 何でも主義者とつければいいというわけではない。呼吸主義者、飯食い主義者、睡眠主義者、ああばかくさい。
 それにしても、サヨクってのはナントカ主義者とかいうレッテルを自分や他人に貼り付けるのが好きなんだよなあ。

* テンノーセー
 天皇制という言葉は共産党の造語だと言われる。何でも制度とつければいいというわけではないだろう。呼吸制、飯食い制、睡眠制、ううあほくさい。

* ナニナニ氏でも、こんなこといいませんよ。
 ナニナニを差別している。

* ナニナニの第五列
 書くだけで鳥肌がたつ。

* 広義のナニナニ
 「主張が破綻したので、私は言い逃れをしています。」という意味。

* 近隣諸国の懸念
 サヨクの言うキンリンショコクとは、ようするに支那韓国などの病的な反日国家である。
 支那韓国のような反日人種差別国家の「懸念」を騒ぎ立てるサヨクとは、例えて言うならこうか。黒人がキング牧師を弔うことに対しKKKが「懸念」。そのKKKの「懸念」を、おろおろ心配し、牧師を弔う黒人を口汚くのししる黒人みたいなものか。「KKKが懸念している。KKKへの配慮が不足している。」などと。むろんこんな狂った黒人は現実には存在しないが。

* 偏狭なナショナリズム
 支那韓国の史上最悪なまでの偏狭極まりないナショナリズムを背景とした厳命に従わない日本人を、サヨクは「偏狭なナショナリズム」の持ち主と規定する。公明党冬柴氏は「偏狭なナショナリズム」なるものが日本に存在すると、支那の政府関係者に泣きを入れていた。狂的なまでの反日人種差別ナショナリズム教育や政治宣伝を繰り返す支那にである。

* 歴史をきちんと見つめましょう
 そう言うおまえが見つめろ。戦争責任捏造の歴史を。

* 謝罪と反省
 そう言うおまえが謝罪と反省しろ。戦争責任の捏造をしたことや、無批判に信じたことを。

* 日本の戦争責任
 そう言うおまえが責任取れ。戦争責任捏造の責任を。

* 悪いことをしたら反省するのが本当の誇りです
 そう言うおまえが誇りある人間になれ。戦争責任捏造という悪事を反省して。

* 日本の戦争犯罪をごまかそうとしている
 そう言うおまえがサヨクの日本軍冤罪捏造という犯罪を誤魔化すな。きちんと見つめろ。日本軍冤罪捏造の歴史を。

* 日本の戦争犯罪を認めたくない人々
 そう言うおまえがサヨクの日本軍冤罪捏造という犯罪を認めたくない人々だっちゅーの。

* 歴史修正主義者
 ポルポトや毛沢東の虐殺を修正しまくり、その上ニホングンのギャクサツとかを捏造し歴史修正しまくったあげくの典型的逆ギレ。いいかげんにせいっつーの。

* 何やらきな臭い匂いがしてきた。
 先におまえ自身のアカ臭い匂いをどうにかしろ。

* 危うさを感じる
 そら、おまえやんけ。

* 殉国を美化するような
 文化大革命を美化した連中、またはその流れをくむ連中のくせしてタワケ過ぎだ。

* 後ろ向きの
* 逆行するような
 ひたすら後ろ向きに占領軍統治に今なお忠誠を発揮した冷戦時代に逆行しまくり何をほざくのやら。五十年前から現代社会に戻ってこい。少しは前向きになれ。

* 戦前への復古
 占領時代と冷戦への復古しまくりのくせしてホザくな。

* 腹をくくってご回答願いたい。
 そう言うおまえが腹を切って詫びろ。

* サヨク
 ...

* きちんと勉強してください。
 やたら高飛車で威張った言い回し。
 サヨクなんぞについて、誰が好き好んで勉強するかああ。いやがおうにも、気持ち悪いサヨク情報が入ってくるので、それについて書いてるだけじゃああ。このページのトップページを見ろおおお。

@ サヨクの論争手口(嘘つきっぱなしを許してはならない)
 サヨクは共産支那産朝日新聞直輸入などの嘘捏造情報の喧伝流布に恐るべき情熱を発揮する。時に支那産であることを隠蔽して。産地捏造悪徳スーパーマーケットかっての。
 サヨクが嘘情報を喧伝する手口は以下のものである。

(1) サヨクはまずとりあえず嘘をついて相手の様子を見る。(南京大虐殺数十万人とか。「この事実は保守の間ですら既に常識なんですよ」などのハッタリをかましつつ。)
 嘘を見破られなかった。→その数を既成事実化
 嘘を看破される。→(2)に

(2)数を減らしたり、別件にすり替えたりする。
 嘘を見破られなかった。→その嘘を既成事実化
 また嘘を看破される。→(3)に

(3)更に数を減らしたり、別件にすり替えたりするが、いよいよダメとなると広義の虐殺などに転化したり、数は問題でないなどと主張
 嘘を見破られなかった。→その嘘を既成事実化
 嘘を看破される。→「あくまで広義の話だ」「数は問題ではない」などとごまかす

 見ての通り、サヨクには一貫して誠意なしだ。

 こういうふざけた真似を許さないためには、(1)の嘘を看破した時点で決して相手を許さないことだ。嘘を看破して安心し終わってはいけない。
 サヨクの腐っているところはそもそも法螺吹きだという点であり、この部分を徹底的に批判していく必要がある。でないと、サヨクは何度でも嘘をつく。

 具体的には、(1)の嘘を看破した時点で以下のようにするといい。

(あ)サヨクに(1)を結論づけた文献を示させる。
 サヨクは文献を示した→(い)に
 サヨクは文献を示さない→根拠無しにデマを飛ばしたとみなし、(え)に

(い)誤りであることを示す文献をサヨクに示す。
 サヨクはその文献を無視をした→無視をする理由を問い、十分な回答が得られないなら、根拠なしとみなし、(え)に

(え)捏造、デマ飛ばし行為について徹底的に何度も謝罪要求を行う。謝罪文をかかせ、撤回するまで何度でも謝罪要求を行う。
 むろん、サヨクにはもともと謝罪する誠意はない(謝罪するくらいなら最初から嘘はつかない)が、ある程度の制裁にはなる。

 これを行う上で注意する点は、サヨクはなんとか(2)に進めて誤魔化そうするが、それに決して乗らないことだ。

3.5 社会主義は間違っている
 筆者はこのページを開くにあたって、伝統的サヨク思想である社会主義について論じるつもりなど当初はなかった。社会主義は間違っている。こんな話は、筆者がわざわざ論じるまでもなく、昨今あたりまえだと考えていたからだ。更に、今時大まじめに社会主義を信奉するなど、ごく一部の変わり者であり、特に論じる標的とする価値がないと考えたからだ。
 しかし、どうやらその限りでないことが判明した。少なくともネット世界では、いくぶんか社会主義を信奉する伝統的左翼が徘徊しているようだ。

 今更馬鹿馬鹿しいが、社会主義がなぜ間違っていると断定できるのかを、結果論と、論理的な観点の二点から考察する。読者はあくびをこらえて、読んでいただきたい。

(1) 具体的な結果からの社会主義考察
* 20世紀に社会主義者に殺された人は200000000人(戦争犠牲者の倍)
 20世紀中におこったあらゆる戦争により死んだ人間の数は、総合計一億人と言われる。一方、スターリン、文革支那政府、ポルポト、サダムフセイン、ヒットラー、金日成、チャウシェスクから、日本の共産党や中核派まで社会主義者が殺した人間の数の総計は、なんと200000000人(二億人)とも言われる。あらゆる戦争犠牲者の倍にも登る人々が社会主義の犠牲となっている。
 社会主義は、今世紀に行われた全ての戦争をあわせた量より遥かに恐るべき罪悪、絶望、恐怖、苦痛を全人類にもたらした。
 なおかつ支那や北朝鮮においては今現在も、もたらされている。これらの国々ではこれからも人々は社会主義者に殺され続けるだろう。

 結果から判断するなら、社会主義は地球上に存在する全ての宗教、全ての思想を圧倒的に凌駕して、飛びぬけて最悪の思想である。問答無用に、人類史上最大最悪の悲惨が社会主義によりもたらされている。

 以上のことから、普通の判断力があれば、社会主義はダメだと即断できる。しかし、社会主義が自分のアイデンティティーとなった狂信的社会主義者はぬけぬけと言うだろう。「やりかたが誤っていただけだ。」と。

* 飛び降り主義と階段歩行主義
 筆者は、高層ビルの上の階から下に降りる場合、階段やエレベータを利用する。いわば、階段歩行主義者とでも言うべき人間だ。
 一方、世の中には奇特な人がいる。高層ビルの上の階から下に降りる場合、窓から飛び降りる方が正しいと主張する人間だ。いわば、飛び降り主義者とでもいうべき人間だ。
 飛び降り主義者はさかんに訴える。様々な晦渋な数式などを用い、明らかに速度において飛び降り主義が秀でていることや、ひいては世の中のためになるということを。
 中には飛び降り主義者の訴えを真に受けて、飛び降りて怪我をしたり死んだりする人がいる。その有り様に、この飛び降り主義者は、飛び降りかたが良くなかったから死んだんだと言う。飛び降り主義そのものは正しいが、死んだ人間は「やりかたが間違っていたのだ」と強弁する。
 ところがこの飛び降り主義者、自分では絶対に飛び降りない。安穏と階段を歩行する。自らの主張を真に受けた多くの人々が死亡し、怪我をしている間も。

 この飛び降り主義者が社会主義者である。社会主義者の言い草を真に受けて、ソ連に飛び降りた人や、北朝鮮に日本人妻として飛び降りた人。こういった多くの人々が弾圧され、拘留され、死亡しているにもかかわらず、今なお「やりかたが間違っているだけ。」などと強弁する。
 一方、自分は絶対に飛び降りず、階段歩行主義国家日本で安穏と階段を歩行しつづける。満面に階段歩行主義の恩恵を受けつつ、なお飛び降り主義の正当性を盲信する。

 この圧倒的現実逃避無責任体質こそがサヨクなのだ。

(2) 論理的な社会主義考察
 論理的な考察は、狂的な社会主義者の絶好の逃げ場所である。具体論となると、社会主義の正当性など証明されようもない。しかし論理世界は、無責任な空論、言葉遊びのファンタジーだ。この世界は社会主義者の最後の逃げ場所である。
 しかし残念ながら、論理ファンタジー世界も社会主義者の逃げ場所にはならない。論理的にも、いとも簡単に社会主義は否定できる。

 社会主義=「生産手段の公的所有にもとずく社会体制」

 これがなぜ間違っていると言うことができるのか。簡単である。社会主義は一言で否定できる。

 「公的に所有された生産手段を管理する存在もまた搾取を行うから。おわり。」

 シャカリキに社会主義を何十年も勉強してきたおじいさんやおじさんには悪いが、これで終わりである。必死で理解した社会主義の数式や、晦渋な社会主義用語の暗記は、全て徒労だ。ご苦労様。
 社会主義の問題点は、以下に示すように、人間観において決定的な矛盾点が有る点だ。

@ 社会主義思想における生産手段を私的に所有する存在とは
 資本家。
 ひたすら私利私欲に走るブタ。祖国や他人の利益を何一つ顧みず、ひたすら金もうけに終始する。生産手段を私的に所有するという立場を利用して、労働者が生み出した利益を徹底して搾取する。

@ 社会主義思想における生産手段を公的に管理する存在とは
 労働者の政権:具体的には共産党や社会党、もしくはその下で働く官僚。
 ひたすら労働者や祖国の利益を考え、献身的に働くエライ人。公的に所有された生産手段を管理するという立場を利用して、搾取するなど全くありえない。

 という発想だ。これが間違っているのだ。人間観が定まっていないのだ。「資本家」と称する存在には、物欲の権化のような性悪説を論じる。しかしながら、「労働者の権力」と称する存在には、物欲のない神か仏かのような性善説を論じる。人間の本性についての価値基準が二重になっているところが、誤っているのだ。
 資本家だろうが、労働者の政権の構成員だろうが、どちらも人間であり、どちらも一概に悪人善人とは決め付けられない。それぞれに、人並みに誠実で人並みに姑息であろう。
 資本家のみが悪辣な搾取を行い、労働者の権力とやらは何一つ搾取を行わない、もしくは資本家による搾取よりも軽度だと誤解した点が、誤りなのだ。逆に、生産手段が公的に所有される社会では生産手段の公的所有を管理する存在に強大な権力が集中し、より悪辣に人々は搾取される。

* 筆者の主張を論破する方法
 サヨクは、筆者による単純な言い草に「不勉強」とか「馬鹿みたい(笑)」とか「アホか」、のししるに違いない。筆者は、社会主義の正当性を訴える社会主義用語にあふれた詭弁が、大量に存在することも知っている。こんな一言で論破可能なシロモノが、ソ連し支那で長年信奉されるわけがないと考えるに違いない。
 もし筆者の主張が間違っていると考えるなら、是非とも筆者の主張を論破していただきたい。筆者への感想などどうでもいいから、筆者の主張が否定できるという結論を、根拠とともに示してもらいたい。
 懇切丁寧に、筆者の主張を論破する方法を説明する。

 筆者の主張は以下。

提起「生産手段の公的所有にもとずく社会体制(社会主義)は、間違っているか。」
結論「間違っている。」
根拠1「公的に所有された生産手段を管理する存在もまた搾取を行うから。」
根拠2「更に生産手段の公的所有は権力の集中をうみ、より悪辣な搾取が行われるから。」

 以上の主張を論破する方法が、以下。

1 根拠を否定する。
 根拠が否定されれば、すくなくともこの根拠からの結論は瓦解する。
 「公的に所有された生産手段を管理する存在が、その立場を利用して搾取を行わない。」と証明できたなら、筆者の主張は崩壊する。
 全ての社会主義国では、公的所有を管理する立場の人間(共産党幹部から工場の監督者まで)は、ことごとく搾取し続けた。日本でも、政治家や官僚の汚職は多い。「労働者の政権」が大量に搾取し続けてきたにもかかわらず、なぜ「労働者の政権」が搾取を行わないと言い切れるのかを示して欲しい。示しきれたなら、1は完了し、筆者の主張は瓦解する。

2 根拠が結論に結びつかないことを証明する。
 根拠が結論に結びつかないことが証明されれば、少なくともこの経路からの結論は瓦解する。 公的に所有された生産手段を管理する存在が搾取を行うにもかかわらず、なぜこの社会体制が正しいと言えるのか証明して欲しい。
 しかし、2の証明はまあ無理だろう。1を証明するしかあるまい。

 以上のいずれかを為し得たなら、筆者の主張は崩壊する。
 逆に、なにひとつ為し得ないなら、「社会主義は間違っている」と証明されることになる。「社会主義は間違っている」と論理的に証明されたにもかかわらず、社会主義の幻想から逃れられない人は、筆者を「不勉強」とか「馬鹿みたい」とかのししることで、自分自身に「俺は正しい」とマインドコントロールし、どうぞ思考停止して暮らしてくださいとでも言っておく。
 こうなると、社会主義者というよりサヨクであり処置なしだ。

 社会主義者にしてみても、詭弁は好きなはずだ。「ホラ証明できました(笑)」とか、得意げに書いてみたくないか?だったらがんばって証明して見せて欲しい。証明が完了したなら、投稿枠に投稿して欲しい。

 なぜ、社会主義(生産手段の公的所有にもとずく社会体制)が間違っていると断定できるのか。「公的に所有された生産手段を管理する存在もまた搾取を行うから。おわり。」
 所詮、社会主義など一言で吐いて捨てることのできるシロモノなのである。

余談:社会主義者は勉強して馬鹿になった人間
 勉強すると賢くなる。
 人々は、そう思うだろう。むろん正しい場合が多い。しかし、馬鹿になる場合も有る。
 晦渋な数式や用語の暗記を著しく繰り返すと、人間は正常な感覚が麻痺してしまう。馬鹿みたいに何度も暗記し、集中して偏った思想を丸覚えしすぎれば、モノが考えられなくなる。
 過度な学習の繰り返しや丸暗記は、論理構築力を退嬰化させる。
 宗教には、意図的に馬鹿になる修行もある。たとえば、写経、経文の暗記や繰り返しである。これは馬鹿になるが、意図的に馬鹿になっているのであり間違いではない。賢くなることは、煩悩の増大に通じる。それを阻止するために、時に馬鹿になってみるのも良かろう。賢ければいいというものではない。正しいことこそが重要なのだ。

 中卒で若いときから働く人間に、理路整然とした的確な真理を話す人間が時折いる。論理的で、創意工夫にたけた人間。若い時に学習能力を訓練する機会を得ることが無く、思考能力に長けた人間だ。松下幸之助氏や、田中角栄氏のような。
 逆に大学でミョーな詭弁と思想を吹き込まれ、それの再現を極めて的確にこなすが、ほとんどまともな論理を構築できない人間もいる。学習能力に長じ、思考能力に劣る人間だ。ほとんどのサヨク学生などがこれだろう。
 前者はいわいる学校での勉強をしなかったから賢者となった。後者は学校の勉強をたらふくやって、馬鹿になった。
 勉強をしすぎると馬鹿になる。子供のころの勉強は、程々がいい。勉強しすぎないと入れない学校には、入らないことだ。無茶な勉強をしなくとも合格できる学校を受験すればよい。

余談:とにかく勉強しなけりゃ解らないのは馬鹿
 サヨクはここで記している「社会主義は、公的に所有された生産手段を管理する存在もまた搾取を行うからだめ。おわり。」という、単純な言い回しを何一つ検証せず(すなわち思考停止し)、筆者をフベンキョーとかのししるだろう。実は、このフベンキョーという指摘は正しい。筆者は社会主義はもとより、サヨクについてすら専門的に学んでいない。本ページ自体が、嫌がおうにも入ってくるサヨク情報と、いくぶんかの著書から論じたものにすぎない。
 かといって、勉強しないとサヨクや社会主義について論じることはできないといえるか。そうではない。サヨクや社会主義について論じることは可能だし、間違っていると断定もできる。
 それはなぜか。

 例えば、筆者は、オウムの教えについて詳しくは知らない。にもかかわらず、オウムは間違っていると断定する。これは筆者に限ったことではない。多くの民衆もオウムの教義など知らないが、筆者同様にオウムは間違っていると断定する。
 なぜ、筆者を含む多くの民衆には断定が可能か。それは多くの民衆には、普通の人間がもつべきあたりまえの常識があるからだ。
 オウムに入信しなくてはオウムの価値は分からないなどと考えるのは、馬鹿だ。入信しなくとも、いかがわしい宗教であることは分かるのだ。物事全てにおいて専門的にベンキョーしないと解らないなどと考えるのは、底無しの愚者だ。専門的にベンキョーなどしなくとも、常識のある人間なら、くだらないものはくだらないと一瞬で判断ができるのだ。
 鼻糞丸め学とか、なべのフタ重ね日本一とか、キャベツの薄切り名人とか、オウム真理教とか、社会主義とか、こういったシロモノを常識のある人間なら一瞬でくだらないと判断できる。いちいち鼻糞丸め学を何年も勉強などしなくとも。
 この判断を可能とするのが、常識なのだ。サヨクに欠如しているのは、まさにこの常識なのだ。

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