いのちを見据えた治療法



        (2)熱 寒 湿 燥 風の体に及ぼす影響について


 人が病になるきっかけは、《熱寒湿燥風》この五つの影響を受けて病になっていくのでないかと思えます。風の気を受けると風邪になります。そして悪寒がする、熱がでる、鼻水が出る等の症状が現れたところで治療をうけます。その症状に対処することによって治すので対症療法となります。それでほとんど治っていくから対症療法でよいということになります。しかし体はそうならざるを得なかった原因があると思うのです。風の持っている性質、働きの影響を受けて、そうならざるをえなかった原因があるはずです。
            
人の性格などにおける熱 寒 湿 燥 風

《いのち》あるものは 熱い 冷たい 湿っぽい 乾いている《熱寒湿燥風》などに反応しながら生きています。生きて活動しているということはこれらを 今という瞬間に直に知覚して反応行動していくことです。命あるもの無いものみんな《熱寒湿燥風》の性質をもっています。人でも冷たい人、暖かい人、じめじめした人、からっとした人、爽やかな人(さわやかな風のような人)など、また怒りはメラメラと燃えるようなと表現されるように火の性質がある、不安や恐怖は冷や汗をかくというように冷たい、悲しみは涙をさそうように湿っぽい、心が乾燥するとギスギスした感じになる、心に潤いがあると暖かい、過去にとらわれることがなければ風のようにさらりとしている。ストレスなどは火に水をかけた時のようにブスブスとそこに湿と熱が交錯する。

食べ物における熱 寒 湿 燥 風

また食べ物の調理においても、火で焼く、水を加えて炊く、蒸気でもって蒸す、冷やす、もっと冷たく氷らす、冬の寒中に乾燥さす(切干大根などは風と寒と太陽の熱を利用)魚の干物(熱 風を利用)などすべてがこの五つの絶妙な組み合わせで行われています。食材そのものに《熱寒湿燥》の性質があるので、たとえば冬にトマトやキュウリは体が欲しがらないです。(体が温度調整をするので、もし欲しがる人は体がなにかそういうものを欲しがる状態にある)。

春夏秋冬それぞれその時期に採れるものが美味しく頂けるのは、自分の体が持っている《熱寒湿燥風》と外界の《熱寒湿燥風》と食物の持っている《熱寒湿燥風》などが、生命を快適に維持していく為に調整し合っているといえます。

この自然界は「あるところに一定に保とうとする働き」あるいは「調和」のもとに動いています。宇宙のすべてのものと関係し合いながら変化していっているというのがこの世界です。誰一人としてどんなものとてこれから外れることはできません。調和をしたくないと言う人は諦めるしかないです。調和の世界に生まれてきているのだから、反発しようものなら宇宙から反撃をくらいます。それがガンであり病といえます。

そして病になるのは正常なところへ戻そうとするために一時的に反対方向へ傾いたということです。その反動を利用して正常に戻そうとする働きです。だから病は健康になるために現れてきたということになります。


農業においての熱 寒 湿 燥 風

また農業においても同じです。草木は《熱寒湿燥風》の影響を受けて育っています。作物を作るときには肥料をやるということは常識になっています。育ちが悪いとまず肥料と考えるでしょう。しかし窒素 燐酸 カリの三大栄養素と微量要素のみで育っているのではないのです。

成長過程において多大な影響を受けるのは時節だと思います。種子の発芽は《時節》=《熱寒湿燥風》によって決められています。種の蒔き時からなにからなにまで時節を読み取らないと楽な栽培はできません。生命は生き延びていけないのです。作物と共に生かされているのですから、 種の蒔きどきをよみ 湿気で雨を感じ 洪水を予測し  冬に備えて保存する生存の為の知恵として《熱寒湿燥風》を知覚できるように仕組まれているのです。自然界も《熱寒湿燥風》の変化、人も《熱寒湿燥風》の変化なのです。これを自分の(いのち)が感じるのです。

春がくれば だれでも春がきたと感じます、外界をみて桜の咲いたのを見て、また気温が高くなり、そう感じたり思ったりします。自然は《いのち》の営みです、四季を巡らし生死を巡らし今の一瞬に現れて消えての繰り返しをしています。私もその一部です。私の(いのち)が春を感じるのです。

栽培における熱 寒 湿 燥 風
    
有機農法がいいという常識(食べる人の思い込み)から肥料に糞尿入りの堆肥を使います。家畜糞尿堆肥と木の落ち葉のみで作った堆肥を比べると前者の法が《熱》性が強いと思います、木の落ち葉の堆肥より草や野菜屑などの葉っぱで作った堆肥を比べると前者の方が《熱》性は高いと思います。これらのことが作物の育ちに影響しているのです。

たとえば夏に育つ作物は体の体温が下がるようにしないといけません。日除けをしたりなどの対策をするのは、植物も人も動物も同じです。人は季節によって食べ物が微妙に違います。植物も季節等によって食べるものは違うはずです。肥料とするものにも《熱寒湿燥風》の要素が備わっていますからなんでも与えて良いというこにはならないのです。

医療における熱 寒 湿 燥 風

体の壊れる原因が《熱寒湿燥風》からくるものと観察洞察できるなら予防法や治療法は見えてきます。熱ければ冷ます、冷たければ温める、水分が多ければ出す、乾けば潤す、ということです。(いのち)のめぐり変化の中での故障であるので、治るのも変化です。変化することが治癒ということになります。

食べて着て住まうという生活の中で《熱寒湿燥風》の調整がうまくできれば健康といえます。このことはこの宇宙がそうなっているのだから私の心も体もそうなっています。すべては一体の営みをしているゆえに例外はないのです。宇宙自然界はひとつの営みをして調和を保っています。私の心や体が冷たくなれば必ず温めようとするはたらきが起こります。宇宙のすべてからの働きかけです。この星のどこかにそういう人あるいは植物動物昆虫鉱物細菌などが存在して助けてもらえるのです。

すべてのものは私一人のために存在しているとも言えます。もちろん私という人が60数億いると言うことです。存在するものはどんなものでも本来、善悪美醜長短高低などはありません。ただそれぞれ《熱寒湿燥風》の働きを持っていて、それぞれが必要とした時にいつでも使ってもらえる用意がいつもあるということです。人だけがそうできずに環境を破壊し続けているのです。人はすべてをよくよく観察洞察できる知恵に目覚めないと観念妄想の餌食となってしまいます。



いのちを見据えた治療法

                   (3)病が治るという心



私は昨日 自分の心が 《自分のガンは治る、死ぬことはない》という心に置き換わったのに気がつきました。

闘病においては否定的な見方 考え方はよくないです。《諦める》とか《なにをやっても駄目に決まっている》というような否定は解りやすいですが、でもそこへはまり込んだら人に指摘してもらうまで気が付かないものです。

そしてさらに その心の下に薄く霧がかかったように、少し暗くイヤな感じの不満 あせり 怒りのようなものがあります。《生き延びたい》という強い思いと《死の覚悟》の交錯した状態です。

生き延びれるという時には死を否定しています、死を覚悟する時は生き延びるということは考えません。ほんとに死期がせまれば《死の覚悟》それだけなのですっきりするとおもいます。生き延びられるとはっきりしている時は私が死ぬなどとは思いもしないでしょう。このように死の直前にいる時と、あるいは死からはるか手前にいる時は問題ないのです。

しかしこの両方が入り混じって混乱した状態の時は非常に苦しいです。そしてこれが心の中で最も多量で長い時間を占めるようになるとよくないです。

私もたぶん後2〜3年だろうという思いと、もしかしたら このまま10年くらい大丈夫かもしれないという思いとが交じり合っていて、それから目をそむけるようにして生きています。不安と安心が交互にやってくるのです。

治るために薬や健康食品を飲みますが、心は反対のことを考えている。こんなの飲んでも気休めにしかならないというように、《マイナスの思い》を持ちながらやっています。心と体が一致していません。

逆に肯定的に考えようとして、《自分は治る》とか《大丈夫だ》とか自分に言い聞かせようとします。しかしその裏には治らないのを認めて上での言葉だから、ますます治らない自分を強く確認してしまうことになります。肯定的なことを力をいれて強く 「言う」 「思う」 「強気になる」 とかは返って、その出どころが手ごわい相手をやっつけようとしてのことだから、逆に自分の弱さを確認することになってしまいます。

たとえば風邪をひいたとか、足を骨折したなどの場合は、やがて治るのははっきり分かっているから、否定も肯定もない 少し不便なくらいでなにもない。心は気にもしない、治って当然なのです。

これと同じ心の状態をガン治療にも用意するべきだと思います。自分がガンだったなんて知らなかったというような、まるで人ごとのような出来事にします。

なんて私も強気なことを言っていますが、夜 電気が消えて暗くなればそれはそれはむしょうに寂しくなる時もあります。強気なのは明るいうちだけです。

ところで、こんなことは誰にでも分ります。しかし理解じゃ役に立たないのです。つまり体験として経験いないと駄目だということです。体験は大きな力になります、考えはいつかは変わります、消えていくので役に立ちません。それではどうやればそれを体験することが出来るのかということになります。

まずは探すのをやめることかもしれないです。あるとき突然に直感的に感じることがあります。フッと自分の考えとは思えないようなことがひらめく時があります。そういうもので生きていく事が大事なのでないかと思います。軽い気持ちで実行してみる事から始めるということでないかと思います。

どんな療法をするにもその心はプラスαとなるような心を用意してあげる必要があります。健康食品などの場合はこのプラスαの方がより大事とも思えます。《α》ってなんなのかです。 なにかを持ってくることではないと思います。むしろ《持っているもの》を《いらないもの》を離すことにあると思います。治る邪魔をしないことが唯一できることでないかと思います。そこに以前からあるものでいいのです、骨折や風邪のときのような心の在り様です。

なにかを否定するのもでない、肯定するのでもない、それらの下で否定と肯定を支えるもので生きる、それは病などが存在しない世界です。そこへいくことが治癒への近道なのだと思います。

そこに立ってみると、それまでは混乱していたのだなと気がつきます、そうすればその時にはもう混乱から抜け出ています。

                      3月8日


(19)心を強調するのではない
  私は精神や心を強調するのではないです。○○主義というのは良くないと思います。病になったのはあなたの心が悪いからですよ。私の心のせいですと、心に原因があるとする考え方です。

 各種治療者はお金儲けが目的ですから、彼ら彼女らは、宗教家なら感謝が足らんから、お布施をしなさい、霊媒士ならあなたには何かが取り付いているから除霊をしないと治らない、水を売る人はあなたの飲み水が悪いからこれを買って家の蛇口に取り付けなさい、、外科医ならここを切り取ろう、内科医なら良い薬がでているからそれを試して見ましょう。と儲けの手段が原因のすべててあると言います。

 これと同じことで、患者も心の面にとらわれて他のことが見えなくなることがあります。

しかし生命はひとつの働きをしていますから心が体に影響をあたえることも、体が心に影響を与えることもあり、どちらが先だといえないと思います。便秘をすると気分がすっきりしないとかは体→心です。しかし出張などで便秘になったりするのは心→体ということになります。しかしそれらは刻々に変化しているのであり、一瞬前の状態が今の状態を産み、今の状態が次の状態の原因になっていきます。

 でも私はどちらかといえば体の方が先にあるように思います。私は食事療法で肉体がだんだんと痩せていき、体力もなくなっていきました。そうすると、たとえばお風呂の中で洗面器を落としたりしたときに、カコーンと響く音がします。自分に勢いがあり元気なときには、なんでもない音ですが体が弱っている時にはビックリして硬くなってしまうのです。また子供とか勢いのある大人のそばに寄ると、そのパワーに押されて自分の身の危険を感じるのか、落ち着かないのです。もちろん彼らは私に危害を加えようとしているわけではありません。肉体が弱いと肉体的に強いもののそばを避けたくなります。お年寄りの近くなどでバランスがとれています。飼い犬なんかも弱っている時はうっとしく感じます。

ですから肉体を健全に健康に建て直すということが大事になります。病になって痩せていることが格好悪いと言う人がいますが、それは肉体が先だということです。格好よければ心にも体にもいい影響を与えますから、病になっても格好をつけるのは大事なことです。

心を直すよりも肉体を治すほうが簡単ではないかと思います。私は体が弱った時にひきこもりになってしまいました。ひきこもる子供がいるらしいですけど、彼らはその前兆として体の変化はなかったのでしょうか。今もなにか体に故障をかかえていないのでしょうか。よくみてやって欲しいと思います。

転勤 転校などでついていけない人たちも心の問題にしないで、食べ物 飲み水 住居 運動量などが変わり体が適応できなくて、ひずみを生じていると見えないでしょうか。それが積み重なり硬くなり故障していきます。

できることなら一緒に山登りをするとか運動をするとかして、体力がついてくると、外へ出て他の子と対等に付き合っていけるようになるのではないでしょうか。

不治の病や原因不明の病になると占い士や霊媒士そして心理カウンセリング、信仰などを求めてしまいます。しかし私はまず肉体への働きかけをしてみるべきだと思います。

でもほとんどの人はこの体がゆうこと効かない、この体がと思っています。そこでこの私がなんとかしようとでしゃばってきます。私は偉いけどこの体は駄目なやつになります。そして悪徳超能力者の餌食になり、いのちの世界から離れていきます。

このいのちや体を正しくみていないのです。いのちや体の可能性を正しくみてあげる必要があります。生命力のすごさはみんな知っていると思います。(私が)という自我には可能性はないです。いのちとしての肉体や心の力ははかりしれません。そこにしっかりと目を向けて見るのです。

何物かに頼らないといけない自分がいるのかどうかです。自らを拠り所とすればいいのです。