(15)草抜き

 私は農業をやっていた時、忙しいなかで毎日、朝夕30分ずつ日常の仕事を離れて草抜きをするようになった。毎日のやるべきことをしないで今はやらなくてもよい草抜きをするのです。

仕事上でどうしていいかわからない、判断しかねるという時がよくある、私はそういう時によく草抜きをした、姿勢を低く下を向いてやらないとできない作業なので、作物であるトマト等を見ないで草ばかりを見ることになります。そしてしばらくやっていると必ず懸案の答えがでるのです、はっきりとどうするかということが見えてくるのです。トマトを見ていると見えないことが、草をみているとトマトのことが見えてくるという面白いことが起きてくるのです。

これから農業ををやろうという人は、人から指導を受けてある程度勉強してから始めるというやり方、親が農業で一緒にやることで学ぶ、あるいはすぐに一人で実践しながら学ぶなどの方法になると思います。すぐにトマトや作物に手を触れる、判断をくだす、実利につながるというやり方です。

それともうひとつのやり方は、最初の1年くらいは作物の周りの草を抜くとか周りの仕事を中心にやるというやり方です。このような方法は普通はやらないしできないと思います。

たとえば2年後には栽培方法を学んだ方はキチンと結果を出してきます。利益が出せます。草抜きばかりしていて栽培のことを勉強しなかった方も、実は全てを理解できていて同じ結果をだすことができます。
しかしこの両者には基本的なところで大きな違いがあるのです。それは仕事の理解の仕方が違うということです、あるいは物事の理解の仕方が違ってくるのです。

前者は教える、教えてもらうというという解り方で、分析していくという方法で一般的な解り方です。分別出来ることが大事なことになりますので、私とあなた、自然と自分等の分離感が生じてしまうのです。ここから病気や争いがおきて来ます。これが現代の教育方法なのです。

後者の方はそこにいただけで栽培の方法が全て理解できた、解る、悟るという解り方です。真理や真実を直接に悟ってしまうということになります。全体を解ってしまうのです。存在がひとつであるのを見てしまうのです。人類はひとつであり。植物動物もみな繋がっているのを知るのです。この解り方を今の人は子供に伝えることが出来ません。

そして全体は繋がっていると真に理解できるときには、苦も楽も繋がっていると理解できるのです。人類は車の両輪のように、助け合いながら生きている同時に、苦しみを与えながら迷惑をかけながら生きているのです。それは、屠殺場での牛や豚や鶏の悲鳴を聞いただけでも解ることですが、このようなどうにもならない頚木のなかでしか生きることができないのです。そう理解できたときに人は真実の愛や親愛の情というのが真実事実の領域から出てきます。

しかし今はその仕事にかかわる人たちを除いては動物を殺すところを見ることも想像することもできないようにしています。それは誰かによって仕組まれています。人が助け合って生活したり、愛情をそそいだりしたら困る人がいるのです。一部だけをみて生活するように仕組んでいるのです。店頭にならぶ綺麗な肉のパックや、刺身にされた魚のパックなどが見るすべてです。もっといえば調理された状態でしか知らないこともあり得ます。つまりハンバーガーしか見たことがなくて、その背景にある、牛や豚、さらにその背景にある、牛が食べる飼料をつくるための環境破壊、焼畑による森林破壊など想像もつかないのです。産業から利益を得る人たちによって隠されてしまい多くの人はその実態を知ることができません。

私も自分の目で見たわけではないです。しかしそんなことはだいたい想像がつきます、ほんとかどうかはわかりませんが、でも欲望から出てくることはどんなことをするのかくらいは解ります。私も同じ欲を持っていますから。人々を甘く酔わせておくことが、利益を生むのです。

みんなで酔ってしまえば、酔っていることにも気がつきません。幸福感がこの世を覆ってしまいます。全体を見る知恵が育ってないから部分で満足、自分で満足してしまうのです。全体が見えたら悪に走るということはできません。苦がみえたら人に対して、動植物に対して苦しみを与えることは出来なくなります。

理解の仕方を学ぶことが大事だということになります。草のことを知ることができれば、全体が見えてきます。我々は草が存在しないと生きていけません。草がなければ大地は乾燥して砂漠となります。草の生命力を感じ、草に生かされている事実を知るのです。野菜も草なのです。草は大事にしないといけません。草を目の仇のように思っている人がいますが、ぞの考えからは「私にとって亡き者にしたいものがいる」という心が潜在意識の中に巣食ってしまいます。

草は一見役に立たない、邪魔者のようなものですが、そのホントの価値を知らないといけないのです。
人や物みな同じです。


(16) 家畜糞尿循環農業はよくない

 私は今の農業でもっとも最悪なのが家畜の糞尿を畑に入れる動植物循環型の農業じゃないかと思っています。糞尿の処理場として堆肥という名目で畑に撒き、そこで育った草やとうもろこしや麦で動物を育てる、又人が食べる野菜も糞尿を肥料として育てるという農業です。

野菜にとっては糞尿はいらない、家畜糞尿で育った野菜は食べたときに糞尿の臭いがします。入れ過ぎなのです。葉色が濃く大きい野菜で生命力があるなどと思い込んでいます。たんに収穫が遅れただけで大きくなり過ぎたのです。肥料が多過ぎ異常に膨れた肥満体なのです。

糞尿の処理場として畑にいれるから、当然肥料過多になります。獲れた野菜は硝酸態窒素が多く含まれます。硝酸窒素はハムなどの発色剤として利用されています。これが発ガン性があるといわれています。また野菜産地やお茶の産地の地下水は硝酸態窒素が異常に多く溶けこんでいます。つまり、我々はハムなどを食べない、飲み水に気をつけるということをしても、食べてる野菜に大量に含まれているのだからなんにもならないのです。

牛や豚がたくさん飼われているということが地球環境を悪くしているということに気が付かないのでしょうか。それは簡単に理解できることです。地域の川にその糞尿の栄養分が流れ込んでいきます。ここから破壊が進みます。ハンバーガーを一個食べれば地球のどこかで1u砂漠化するといわれています。

わずかな肉を取るためにどれだけのとうもろこしや小麦を必要とするかということです。牛や豚や鶏を飼わないで、その飼料である穀物を飢えで亡くなる人々に回してあげるだけで、世界中の食料問題は解決されるといわれています。

また人間にとって肉を食べる必要があるのかということです。必要としてないけども美味いから食べるということです。肉は美味しいですから、食べないということはできないでしょう。私はほとんど菜食だから(菜食主義ではないです)たまに食べるとホントにうまいです。なにか事情のある人とか主義に陥った人を除いては肉はやめられないでしょう。

そして酪農産業は利益を産んでいきます。その裏では畑や環境は困ってしまうことになる⇒そして人が困る⇒病気が増える⇒牛や豚は虐待される⇒悪循環型産業を基盤としているので、生命が住める地球環境でなくなっていくということです。

No Milkということがいわれています。我々日本人は牛乳が健康のもと、丈夫な骨を作るというのが常識になっています。これは間違っているという人たちがたくさんいるのです。牛乳の中にはたくさんの乳糖が含まれています。この糖分が体に吸収されるためには、それを分解する酵素が必要になります。日本人の7割の人にはこの酵素が充分にないといわれているのです。私も牛乳を飲むと下痢をするのですが、これらの症状が乳糖不耐症です。そして下痢をするときに牛乳の栄養分と腸内の他の栄養分も一緒に出ていきます。

牛乳は吸収がよいからカルシウムの摂取によいといもわれています。生体恒常性という体の成分を一定に保とうとする働きがありますので、過ぎた分は体外へ排出します、このときに他のミネラルビタミン類も一緒に排泄されます。骨租の原因が牛乳のとりすぎであるといわれているのは今や常識です。たまに飲むくらいでいいということになります。牛も多くは飼わなくていいのです。

私たちにとって危険な野菜とはどんな野菜でしょうか。
それは日曜市や直売所で売られている、地元のおばあさんやおじいさんが育てた野菜です。お年寄りが小銭を稼げるというので、一生懸命につくります。この人たちは農薬のことも肥料のことも理解していません。私たちプロは農薬使用基準を守ります。使ってはいけない農薬、使用回数などは厳しく守ります。生活がかかっていますので無茶なことはできません。肥料などもできるだけ少なくします。しかしおばさん達はそんなこと関係ありません。小銭に目が眩み、いままで病院通いをしていた人でも、こんなことしてられないと急に元気になり畑にセッセと通います。始めは無農薬でやっていても一度農薬を使うともう離れられません。農薬の切れ味はすごいですから。あげくには農薬いっぱいの野菜を無農薬だといって売ります。欲の前では自分がなにをしているかもわかりません。

こんなことは一部だと思いますが、私たち消費者は新鮮で地元の人が作っているというので信じ込んでしまいます。作っておられる元までいって確認するべきです。それが出来ない人はスーパーで買われるほうが安全だということになります。中国からの輸入野菜は食べられないと言う人がいますが、もっとひどい国産野菜もあるということです。

よくよく気をつけていて、そして目覚めないといけないということです。有機栽培、堆肥、直売所、顔の見える関係、生産者名、牛乳=カルシウム、などの言葉に惑わされないでよく観察しましょう。


(20)時節の変化にそって生きる

 野菜の作付時期を早くやり早く収穫しようとします。気候の温暖化で春先にはだんだんと早く植えれるようになってはきました。しかし時節に逆らい種蒔きなどをすると労力が多くかかります。よけいな仕事が増えてきます。それで早く取れるかといえば、ほとんど収穫時期は変わらないのです。

 作物は時節によって育ちます。実りは積算温度によって決まってきますので温度の低い春先は成長は遅そく、また高温期の夏も成長は乱れます。トマト胡瓜さえ真夏に適した体をしていません。5月〜6月くらいを適温としています。

万物の変化は、生は春がもたらし、長は夏がうけもち、収は秋がしからしめ、蔵は冬が司ります。

秋に蒔く野菜は3日遅れたら実の成長に大きな差がでます。百姓にとっては晩夏、初秋の一日は絶対にはずことの出来ない適期の連続なのです。知らない人からみれば今日も「権兵衛が種蒔きしているわい」としか見えません。しかし晴れを待ち雨に合わせ、飯も食わないでひたすら動きます。昨日やっておけばよかったという言葉は百姓にはないのです。そんなことを平気で言うのは趣味の園芸ならぬ趣味の百姓です。

秋から冬は収め蔵する時節であり、実りから収穫へは早く過ぎていきます。種の蒔き時は大事です。しかし春から初夏にかけては育つ時節なのです。種蒔きが少しくらい遅れてもみな同じように時節の恩恵にあずかり成長させてもらえます。

いずれにしても育つのは私の小賢しい頭で考えたり感じたことでなくて、季節 時節によって育てられているということです。

それが見えない人はひたすら攻めていきます。植物に対して攻めていくのです、やれ肥料が足らんだの水がたらんだの、ゴタクを述べてきます。総攻撃です。やり過ぎて枯れてしまう野菜もでてきます。野菜はもううんざりしています。「ほっといてくれや」「かまわんといてくれや」という声が聞こえないでしょうか。

野菜だけはないのですが・・・

人も玄米がいいと聞けば、一年中玄米を食べまくります。

そして「玄米食べて体の調子がいいのよ・・でもね・・目が・・白内障でだんだんと・・見えにくいのよ・・・」

それでも「あなたは玄米食べ続けるでしょね」、「だって体の調子いいんですものね」

「それじゃ目は何故よくないのですか、腰痛は何故ですか」

「目は体じゃないのですか、腰は体じゃないのですか」

「玄米食べているのが原因かもしれませんよ」

「そうそう体を攻めないでくだい」

と言いたくなります。   

*注*玄米食が原因で白内障、腰痛になるということではありません*

万物の変化は、生は春がもたらし、長は夏がうけもち、収は秋がしからしめ、蔵は冬が司ります

春には春の食べ物、夏には夏の食べ物、秋には秋の食べ物、冬には冬の食べ物があります。

この体も万物のひとつです、春夏秋冬によって生かされいるのです。それを無視してはいけないのです。私たちは夏にはそうめんなどが美味しくいただけます。ご飯は食べれないけどそうめん、うどんなら食べれるということもあります。それは春にとれる麦を夏に食し、秋に獲れるお米は冬に食すというように、自然界は時節によって必要なものを用意していると言えます。

私の体が春になる 私の体が夏になる 私の体が秋になる 私の体が冬になる
季節が春になる   季節が夏になる  季節が秋になる   季節が冬になる
全てが春になる   全てが夏になる  全てが秋になる   全てが冬になる

人はこの変化を観察するだけでよっかたのです。なにかしようとするより落ち着いてただ変化を眺めるのです。

季節が見えてくるとみんなが楽にいきられるように思います。

・・・季節を時節を自然を・・・

・・・もっともっとやさしくやさしく大切に大切に・・・

・・・見てあげる 感じてあげる 思ってあげる 助けてあげる 助けてもらう・・・

・・・自然を 草木を 大地を 空気を 空を ・・・隣の人を・・・

・・・最小限に 無限に少なく・・・お手伝い・・・

・・・最大限に 無限に大きく・・・受けていく・・・

・・・・・・・無理しないで 無駄にしないで、ゆったりと・・・・・・・

                                           百姓閑話