(17)事実ということについて 1

ホントに事実ということが解っているのだろうか

たとえば大事な花瓶が壊れていたとしよう。だれも私が壊したと言う人がいない。そこでなんとしても壊したのが誰であるかつきとめたいと思う。私は事実が知りたい、人を責めているわけではない、ただ事実が知りたいだけなのだと。

この真犯人がはっきりすることが事実がはっきりすることだと思っている。警察官や裁判官ならそれでいいが真理や真実に生きようとする人にとっては少々お粗末な話である。あるときは警察官になり、ある時は裁判官になり、またある時は弁護士になり、ある時は証人となり、ある時は無関心になる。そして人を事柄を裁く、事実という言葉を上段にかざし、一太刀できって捨てようとする。そして自己満足、してやったりと有頂天になり自己を見失う。こんな生き方でいいのか。

事実とはそんなことではない、真犯人探しをするようなものではない。もっと正確に見る、聞くと言うことが出来なければ事実は見えてこない。現象としての事実はある、(○○さんが手から花瓶を落として、床に落ち、花瓶は割れた)という事実だ。警察官ならこれで給料は貰える。しかしもっと他にホントの事実がある。これとは別に真実の世界が展開しているのだ。私のいう事実とはいのちの世界のことだ。いのちの世界は私心や欲があれば、その姿は見えることはない。上記の下線部の問いは「あなたに私利私欲はなかったですか」と自分へ向けられることになる。これが理解できないと幸福にはなれないし、社会もよくならない。


(18)事実と思いを仕分ける 2


太陽 人に指摘してもらう
  ↓
外面 肉体

  ↓
(A)ワンワンという鳴き声
  ↓
(B) うるさい 
  ↓
(C)怒り嫌悪
  ↑
   内面 心
  ↑
内なる光 気づく 意識する


ついでに事実と思いを仕分けるをいうことについて

私はAとBを仕分けることを分離だと思っていた。

Aで終われば、「犬の鳴き声」で終わる。

Bまでいけば「うるさい」と思ったという事実がある。

この思い(B)とワンワンという(A)事実を分けるというレベルだ

しかしうるさいと思った時にはその裏側に怒り嫌悪感ががくっついているのがわかる

実はこの(C)と(A)または(B)をしっかりと分けなければ

いつまでも心の不快はなくならない

それは裏側にピッタリとくっついていているものだから内からの光で照らせば簡単に落ちる

内なる光とは、怒っている、嫌っていると気づくこと

そしてうるさいと思っていると気づく

あるいはワンワンとい音を聞いたと気づく

そしてすべてが消えて、なにもかもなくなる

もともとあったものと出会う

これで私の人生にケリがつく

それで終わりだ

(8)過去の事実を書き換える 


 83歳で一人暮らしをしている父から3日間ほど入院するという電話がありました。入院期間の3日間をいれて父と5日間過ごしました。今回は一人で行ったので(いつもは妻子と一緒)父と直に向かい合えることができ、非常によかったので、すこしまとめて整理しておこうと思います。

 父とは子供の時から意思疎通がうまくできてなっかたように思います。父は自分からみて尊敬できるようなところはなく、好きになれるところもなく、嫌ってばかりいました。私のことをまったく分ってくれない、自分勝手な人だと思っていました。

 でも自分をよくみると自分も同じ愚かなことを延々と繰り返してきています。父のことをあうだこうだと言える自分ではないのです。

 でもどうして自分はこうも愚かなのか。愚かゆえに苦しみ傷ついてきた、いったいどこに原因があるのだろうかと思いました。

 思い至れることは、私が心で繰り返してきた 「嫌悪 怒り 恨み 憎しみ」 などです。それを思い続けたことによってホントのことが見えなくなったのです。こういうよくない思いがあると物事が正しく判断できなくなります。自分の馬鹿さと父とはまったく無関係なのです。今の自分は私の頭の中で作りあげたものです。使った言葉どうりのことが現象として表れてきたのです。こんなことを長いあいだ知らずにやってきたのです

    「自分がまちがっていたということはよくわかる」
    
 自分は父母や周りの人に対して取り返しのつかない間違いをしてきました。やってもらった事実が見えないで、してもらえなかったことに対する不満、足りないことに対する不足ばかり見ていました。不足や不満は存在しないものです。思であり観念であり妄想なのです。事実としてあるのでなくて頭の中での出来事なのです。こんな妄想の中で生きているのだから物事を正しく見ることも、正しく判断できることもできるはずはありません。

たとえば兄は10cmのケーキを私は5cmのケーキをもらったとします。私のは半分だ⇒小さい⇒不満⇒怒り⇒恨み⇒と連鎖的に反応していきます。

これのどこが間違っているのでしょうか。それは私のは半分だというところです。これは事実ではないのです。私は5cmのケーキをいただいたというのが事実です。(もっとよく見たらこれも事実とはいえないですが、普通にはこう見えたら客観的な事実だといえます)

この5cmのケーキというのをそのまま見ることができたらよかったのです。半分とか少ないとか見ないで、ありのままに素直にみることができたらいいのです。

ここが私の間違いだったのです。いくら反省や懺悔しても過去をかえることはできません。しかし過去をキチンと整理することはできます。これは絶対やっておかなければならないことです。ここをないがしろにして先へは進めません。

《あの時私は5cmのケーキをいただいた、兄は10センチのケーキをもらった、母は自分は食べないで子供たちに食べさせてくれた、美味しかった》

このように見た時に私の中でもともと存在しないものであるところの、妄想、不満、怒り、恨みというものが霧が晴れるように消えていきました。蓋をされて隠されていた過去が整然と整理されてしまったのです。そして感謝の心が出てきたのです。

どこをとっても感謝できるのです。ケーキだけのことでなくて、今日までのすべてが、父母のことだけでなく私と関係のあったすべての人に対してのことまでが解決してしまったのです。

 ところで病気というのはどういう現象なのでしょうか。やはり、ないものを執拗に見ることによって作りだしたのでないでしょうか。ガンも頭の中で作りだしたと言えるのではないでしょうか。

すべてを整理整頓して、いらないものつまり存在しないものを捨てる、事実に焦点があってくると存在しないものは自然に消えていくようになっています。ガンも消えていくと思えるのです。捨てようとすることも放そうとすることも修行も反省も説教も話し合いもいらないのです。今の瞬間の事実が見えたら無いものは勝手に消えていって有るものだけが残ります。

また父の身の回りの世話をすることで自分が病気だということを忘れてしまいました。病人は人に世話されたら治らなくて、人を世話することでいつのまにか癒やされていくということになります。ここにも頭で作り出すという構造が見えます。

すこし話の角度を変えて、ここにいたる過程を少し書いておきたいです。自分が犠牲者のようなみかたに陥っていたけど、違うのではないかということをです。

私は農業をやっていました。たくさんのいい野菜が獲れてもちっとも嬉しく思いませんでした。野菜は綺麗でみずみずしく輝いていました、でも自分は嬉しくなかったのです。本来喜べるはずのことが喜べないのです、これは不幸でした。こんな状態を長く続けてしまったことを残念に思います。

 その時は、自分はなぜこんな気持ちになるのかは自覚できませんでした。しかし《いのち》のことを知るようになって始めて理解ができるようになりました。

発病から1年6ヶ月後のことです。《いのち》が苦しんでいた、嫌がっていたのかと気がついたのです。売れる野菜を作るには農薬を使はないとできません。小さな虫たちの「いのち」を殺す殺虫剤は、確実に人の命も脅かしてくるのです。人が考えうるどんな理念や考えを用意しても役には立ちません。みんな自己の命を削って農薬散布をしているのです。農薬が好きな人など誰もいないのです。

人の考えの関与できることでないのです。《いのち》そのものが感じることです。《いのち》の訴えを私は無視してきました。それを考えでねじ伏せてやってきたのです。採れた野菜をみても野菜たちの「いのち」のうめきが感じられてしまうし、自分の命が苦しんでいるのもみえてしまうから喜べないのです。

でもこの時点では自分の《いのち》が苦しんだという、私の方からしか見てなかったです。自分中心的な見方でした。

そしてさらにここから1年後に農薬で死んでいく虫や除草剤で枯れていく草の苦しみはどれほどだったろうかということが見えてきました。自分が他の「いのち」あるものに対して与えてきた苦しみがどれほどであったろうかと思わない日はありませんでした。あたえただけの苦がこんどは私のほうに洪水のように押し寄せてきました。

人にたいする不用意に発する言葉にも、どれほど毒が含まれていただろう、自責の念に苦しみました。まさに他の苦しみが私の苦しみになってしまったのです。

生まれてから生きるために他の「いのち」をたくさん奪ってきました、それは私がガン治療で針を刺されたりする時と、子供の時に海で、銛で魚を突いて遊んでいた光景がまったく同じなのです。自分が魚にしたのと同じことを、今この体が受けているのです。

自分が苦しみを受けたと思っていたのですが、反対にそれの何百倍ものことを他の「いのち」あるものに対して私がやっていたのです。自己嫌悪になってしまいました。

 さらにこの時期から1年後 私のなかで感謝の念が湧き上がってきているのが感じられるようになってきました。どんな事も感謝で受けることができれば、それらは存在しなくなりました。

感謝で見れるというのは教えや考えでなくて事実の世界がそうなのです。そこには静かな落ち着いた世界が展開していました。

 このようなことがあって父に対しては、どうみても非は父にあると思いこんで、私のことを振り返ることはしてこなかったのです。非難しているうちは自分のことは見えないです。そして自他ともに苦しんだという構図が見えてきます。

生かされているということが見えないと事実を正しくみることはできないのでないでしょうか、なぜなら生かされているというのが事実だからです。事実の上に立たないと事実はみえない、ごく当たり前のことです。

                             3月24日