いっらしゃい 瞑 想・座 禅 の時間ですよ

自己を知る・自分探しで梵<天>・我<地>一如行法などで、直勘・霊感を開発
創造的な暮らしの真の幸福が得られると想う

静かに瞑想・自分を見つめ・自分探しで自問自答は宇宙意識への目覚め

瞑想で空の思想なり・日々の暮らし祈りは哲学が必要と思う。自己を見つめて自己研鑚の上に神仏の加護を願う祈り。
無意味に・眼くら的に・棚からぼた餅式に頂く事ばかりを願う祈り・それは自己の努力なしに、依頼心の祈りが多すぎる 。
仏道は自己を習うことから、自の弱さを知り、自の愚かさを知り、自の内部を見つめる瞑想から自己を向上させよう。

今は惑星が並んでいる状態・・惑星からのエネルギーと共に大いなる宇宙のエネルギーを受け・・慈悲なる心で受け止めて自分をみつめましょう。まさるは瞑想で惑星のエネルギーを身近に感じているところですよ。そこに感性という心の眼でみて体で感じる瞑想が古代よりあるんですよ。そう云う瞑想を伝えることでヒーリング元気村を・・

人のうらみをかうことは止めましょう・・・・・悪因悪果でいいことはないですよ・・・・・ 人から感謝されることをしましょう・・・善因善果で神仏の道で・人の道です夜 ・・・・・悪いことも良いことも、輪廻の如く、地球が廻っている如く、自分にはね返りますよ  ★オンメイギャシャニエイソワカ  臨・兵・闘・者・皆・陳・裂・在・前  ●オンアロリキャソワカ ●ナウマクサンマンダヴァーザラダンカン ●オンコロコロセンダリマトウギソワカ 

 健康も先祖供養も自灯明・法灯明   幼少より瞑想行法   香道十徳  気付きで・霊感・直勘    座禅・瞑想の方法と内観法


座禅・瞑想の方法と内観法

瞑想は過去から現在・未来を見つめ如何に、この世を過すのかを自問自答すること。

自己を見つめるとは、自分探しであり、自己に宿る神仏との出会いであり、宇宙意識に目覚めることであります。その為の具体的な修行法の一貫として座禅・瞑想行法が古代より伝えられているのです。故に瞑想は修行の奥義であり基本中の基本であります。

朝の朝日を見つめることも一つの瞑想行方です。夕べの夕日も又しかりです。森羅万象をみつめる行法も瞑想です。

お釈迦さんがなされた方法でもある。難行苦行だけでは悟れない。そこでブッダガヤの菩提樹のもとで静かに瞑想されました。

明けの明星の時に悟られたと経典に説かれています。空海「弘法大師」も四国の室戸岬で明けの明星が体内に入り宿ったと伝えられている。

禅宗では行住坐臥すべてが禅であると云う。座禅だけが禅ではないのですよ。ミャンマーでのメディテー-ションセンターではウオークメディテー-ションとシッティグメディテー-ションを学んで来ました。

・動禅としての気功法では、八段錦など様々な訓練法があります。  ・歩行禅としての気功法は、歩くことに意識を集中して呼吸法とともに行う方法です。

・静禅としては、ヨガのポーズ法などに様々な訓練法があります。  ・座禅としては、静かに座り自己を見つめる訓練としての修行法です。

過去世で学んだ多くの事柄を今の世でいかにして活用するか・・・・・!

現世での学びをどのように活用するか・・・・・まさにこのことに尽きるのが今に生き・今に生かされている姿ではないでしょうか!

自己責任としての生命を観つめるためにも、瞑想行法があると思います。

例えば、マンダラ、仏画、仏像、鏡、花、樹木、色、ろうそく、線香など様々な物が存在します。

これらは、あくまでも瞑想対象物であります。大切なことは、瞑想対象物を見つめて、集中力を養い、一体化する方法を学ぶことにあると思っています。

禅寺での大接心会では、無言、座禅、経品、警策「居眠りのときに目覚める為の肩へビシー」等々を一週間だけであったが、様々なことを体験学習してきました。

例えば、食事のときはたくあんで食器を洗い、たくあんさえも音を出さない食べ方、食物への感謝の仕方などです。

自分をみつめる行法に内観法もあります。

自分の立場を基本に親、家族という縦の社会、学校、職場などの横の社会と捕らえると、縦と横の社会の接点が本人となります。

これを図形にしたのが、十字架、卍、マンダラなどの形というシンボリックで表します。

1、縦と横の社会に対してお世話になったことを自問自答。

2、お世話になった人への恩返しをどれだけしたかを自問自答。

3、これから如何にしていくのがベストなのかを自問自答。

この様な、過去から現在と未来をみつめる自問自答の瞑想行法も一つの方法です。

私は、この様な一つの瞑想行法を行う為には、強く調和のとれた健全な肉体と精神と霊的な三蜜一体化の相好関係を基本としてます。

平面に書かれている胎蔵界マンダラの前に座りマンダラ瞑想を行ずると、私の場合は立体的にマンダラが観えて来ます。それから、マンダラに囲まれた多くの仏達が観えてきます。

瞑想の初めは、観つめる事に焦点を合わせます。

次にその焦点と一体化するすることです。

最後に焦点化された方から私自身を観つめる行法となることです。

これは、一つの幽体離脱といえるかもね。

この様な幽体離脱かするときに悪霊とも云える自分以外の霊が入ってくることになる。

それを防止する為にも、禅では警策「居眠りのときに目覚める為の肩へビシー」が瞑想者に与えられ目を覚ますことで悪霊からの防止となると想っていますので、指導者のもとに行うことが大切です。

もし悪霊が自分の留守の間に入ってしまえば人格が変わることになるからです。

強く鍛錬された健全な肉体と健全な精神が必要になることが基本といえるのがご理解できると想います。

一緒に瞑想しませんか。メール待ってますよ。

自分への気付きで、独創的・霊感・直勘

瞑想は勘を作る・・瞑想より勘を働かせる。その為に心身の鍛練が要求される。武士の道も禅なるところから。剣禅一如。

クリエイテイブ的に生きる為には、他とは異なる強靭な個性が必要です。しかしながら、日本は個性が出れば排除の作用が起こります。

みんなと同じ事をし、同じ生活がいい市民となります。これでは、創造的な独創社会は生まれません。

この世は、十人十色といわれているように一人一人の異なる人生であり、異なる生活方法があることを認めて許容することが大切であると思っています。

初めは、書物などからの知識。次に先生「師匠」からの知識。最後に自分の知識を発見することです。

このことを、守の時代、破の時代、離の時代で自己自身のオリジナルが生まれるんです。

自分の知識を得るために、多くの体験と多くの失敗から生まれてくると想っています。

詩などを書いていくのも、他にない私の直勘で書いています。

そのことは、今までの体験学習と瞑想が基本になっています。独創的なアイデア-は、何事も閃きによるものであります。故に、私は瞑想を多くの人に訴えているのです。

また、瞑想は自分を知るための基本的な行法と想っています。それ故に、調和のとれた健全な肉体と精神と霊的な三蜜一体化の相好関係による総合的なものが大切であります。

 

香 道 十 徳

1鬼神を感応させる。     2:心身を清浄にする。     3:毒を除く。     4:眠気を覚ます。

5:独り居の友となる。     6:忙中に閑をとる。      7:少量でも用を満たす。

8:永く保って朽ちぬ。     9:常用して害なし。       10:衆人に好感を与える。

人々に十徳を及ぼし、さわやかな薫風を漂わせて様々な香を楽しみ暮らしに活用して生きたいものです。

ジャスミンの香り  疲労感を和らげる。

ヒノキの香り    集中力を高める

ペパーミントの香り ー眠気ざましの働きがある。

レモンの香り    眠気ざましの働きがある。

ラベンダーの香り  気分をリラックス、ストレスを緩和を緩和させる働きがある。

●香を焚くことによって悪気を去り、心身を浄め、意識を清浄にする。なぜならば、気の調和をはかる為の道具として香のもつ意味合いにおいても、自己を穏やかにさせてくれるからです。

○良き香りを持つことは人として大切なことです。

 例えば、食事の時に与える香りが食欲をそそることは御存じのこととおもいます。また、不動明王の祝詞のなかに、「香のけむりはかすかなれども天に通じて天下らせ給へ」と説かれているように、香の道も私は、悟りの道と想っています。

香道も仏道の様に人が人として道を極めることで人の生き方としての心の在り方が問われています。皆様方の健康と幸福が安らかに訪れると想います。

自然のなかで自然の香りとともに生かされていることに感謝です。

私の教室においては、瞑想の時に用いる香のかおりで共存共栄の精神をシンボリックとして表現し、お互いを尊重と麗しい気持ちのなかに、心を安らぎの方向へと導くことになります。

幼少より瞑想行法

私は人一倍心身ともに弱いことで、心の暗い世界でも生かされていることに深い意味があることを学んでいたのです。

孤独で居ることは、何よりも寂しいもので、当時としてはトラブルメーカーと心身虚弱の日々だったように記憶しています。

この様な理由から私の潜在意識にインプットされた考え方に人間とは所詮、一人生まれ一人去ることの自覚と孤独に耐えるトレーニングを積んで来たように思われます。

この訓練が今では大いなる無形の財産になっています。

孤独なる寂しさを癒すために、私はいつもひとり夕焼けの太陽、夜の星と月、朝日の太陽などをジート見つめていると、何故かは解りませんがとても心が安らいでいました。

今では、意識的に瞑想行法として毎日なにかしら行動しています。

ある時、虹が掛かれば非常な感動を憶えて虹を何時までもみていました。

虹は、新約聖書に天と地との掛け橋といわれているようにとても感動を与え、私の感性も磨かれてくれるものです。

また、名前さえ解らない路傍の道草にも美しい花の彩りなどに感動して、大人(親など)に話をすると、何時も愚か者あつかいでした。

庭の雑草にしても大人から見ればただ単なる雑草で役に立たない草の一種だから早く抜き取って庭を綺麗にしなさいと云う事でしょう。今でも兄弟から同じ事を指摘されています。

しかし私は、すべてが薬草に見えてくるのです。薬草も雑草の中から収穫しています。

そもそも薬とは、草を楽しむと書きます。よく日本語の意味を熟慮して下されば実に味わい深いものであります。

そこで私は草を楽しみ薬として頂いています。これが所謂、漢方薬となり、ハーブ(私はスコットランドのフインドホーンで体験)となるのです。 

漢方にしてもハーブにしても雑草と言う薬草からお茶などのように飲んでいるのに、その薬の意味と語源において私は、雑草から薬草への知恵に頼るところから来ているのです。

如何に自然の恵みを殺して、科学的に生産されたもののみが薬と言うのか無知なる人の思考回路の気持ちが解りません。

それは平然と田んぼの雑草にしてもゴルフ場などの雑草にしても、其の中で私がとても恐れているのは神社などの広場等にも農薬などを使用して、雑草を排除している人たちの心のあり方が根本的に間違っていると想います。それは地下水として流れて、飲めなく生っている事情からしても、この様な行為から理解に苦しんでいるのは私だけでしょうか。

農薬と称して田んぼなどに撒けば、地下水となって有害物質が溶け込んでいる為に、今では井戸水が飲めない状態になっている。

幼少の頃より誰にも教わってなくても無意識に自己の平安を求める方法として、外見的にはボートした状態なので愚か者呼ばわりでしたが、今では教えを乞わないと教えてくれない瞑想行法なのです。

その瞑想行法とは、体を動かさないで凝視する最初の段階なのです。

つまり、目だけをいつもある一点の方向で見つめ体を動かさずにジート見つめている愚か者呼ばわりの無意識の経験が、本格的に瞑想行法を学んだことで、何よりもまして瞑想行法への道だったことを肌で感得しました。

その当時(心の拠り所として無我夢中の時代)と今では表裏の関係であることが解りました。

この様な幼少時代の出来事は、今では気功、ヨガなどの本にも多く書かれているように列記とした一つの瞑想行法であるのです。

私の瞑想行は、無意識に経験していくことで自覚に無い段階から神仏の導きで会ったことに深い感銘を受けて生ます。

人生には人それぞれの学ぶ事柄の時期とゆうのがあるので、私にとっての幼少時代は善き師に付いて学んでいく準備が出来ていなかったのです。

私の子供時代は、虚弱体質で運動らしき運動をしていません。

また学校にもまともに行っていません。それで運動も勉強も苦手そのものでした。学校を卒業してから無知なることの恐ろしさを知りまして一人雑学と健康法と精神修養を重ねて、人間は死ぬまで人生勉強であることを体得しました。

今の私が想う人生とは、霊界へ帰るための準備期間であり、その間に人それぞれの役割を全うすることで、人格の向上と進化を促す道場であります。

故に人生道場における人生修行のために人として生かされこの世に誕生したのです。

人それぞれのハードル(個別に与えられた人生のテーマ)をクリヤーする為に食物、仕事、人間関係など様々な事柄が神仏より与えられているのです。

別の表現では、神仏よりこの世の事柄総てが日々試されているのです。楽でないのが当たり前です。

学校の試験、資格試験などの試験でも人それぞれの学び方などが有るように、人生の試験も人それぞれの、学校とか資格試験があり学び方も人それぞれの方法があるのです。

楽にして遊んで、自己の好みだけで過ごせるわけが無いことを自己認識して下さい。

人生と言う学習道場において、個性がるように人それぞれの学習の道があります。

早くから、人生のいろは・・に目覚めた人もいれば、遅くなって目覚めた人もいる。

ここで重要なのは、時期でなく、自己の人生は自己自身で判断と決断のもとに行動していることなのです。

故に、自己責任が伴なうことです。いくら、他の人(親、兄弟、友人など)のアドバイスを受けても、そのための行動は自己の責任の上で決定されたことに目覚めることです。

健康も先祖供養も自灯明、法灯明

私は、体操法、気功法、瞑想法などを行っていると、健全な肉体に健全な精神が宿り、健全な霊魂に健全な神仏が宿ることを体得したこととで、この世の生活態度をワンセットとして捕らえ、行法と哲学が一体であることを確信しております。

現代の健康感覚においては、健康法にしましても健康認識にしましても個別に捕らえる傾向があるように思われて仕方がないことを憂わしい限りです。

何故ならば、人間として見つめれば五体満足と云われているようなものです。

頭だけ、首だけ、胴体だけ、手だけ、足だけ、のような個別的な健康法はありません。また、身体だけの健康、精神(心)だけの健康、霊魂だけの健康と云うこともありません。

私たちの身体は、現代科学においてDNAで証明されているように、DNAのなかに先祖と共に今の私たちが存在しています。

先祖が陰ならば、今の身体は陽となり、陰陽一体の調和で健康となります。

例えば、先祖供養といえば仏壇、お墓、お寺などで線香、ろうそくなどをあげて経典を読誦することだけならば、型で落ちと想えてなりません。

真の供養は、自己に宿っている神仏を供養するのであって偶像を供養する事ではないのです。

仏陀の時代は、仏像仏画など皆無であったのです。

仏陀の最後の教えである涅槃経に次のように説かれています。

仏陀は、弟子に対して私を頼ってなんになる。私は涅槃に入らなければならない。自灯明、法灯明の大切さを説かれています。

自灯明とは、自分自身を頼り、自分自身で明かりをつけ、自分自身を灯していきななさい。

法灯明における法とは、自然の法則であり、善因善果、悪因悪果であり、自業自得の法則であるが故に、この世の法を頼り、この世の法に従い自ら明かりを灯しなさい。

仏陀さえ自灯明、法灯明を説いて、私(仏陀)を頼るなと、最後の教えである涅槃経に在ることを深く認識して下さい。他に依存することの愚かさを戒めておられるのです。

人は、病気の時の薬にしろ、神社仏閣などのご祈祷による癒しとお清めにしろ、即効性の魔法を求めているから困り者です。臨機応変で時には、ご祈祷による癒しとお清めによる癒しが良いときが在るかもしれません。しかしながら、基本的には他への依存症からの脱却で自立心によることが肝要に想います。

今ではこの様な他に依存する所が人々で一杯です。薬への依存、親への依存、医師に依存など自からの出来事は自ら癒す自然の癒す力を忘れていることになる。

自己責任に基ずく自業自得としての自然の摂理に基ずく、仏陀の最後の教えを忘れておられるようです。

この様な観点から健康問題を考えてみると実に心身共に不健康生活者で他に依存することで、自己は何もしないで魔法の薬などを求まる人、としか想えない人達が多い事は、ひとえに神仏の教えに反しているとしか想えてなりません。

先祖供養といえば仏壇、お墓、お寺などで線香、ろうそくなどをあげて経典を読誦することだと錯覚されているように思えます。

一連の儀式が終われば自己のことだけで、他を省みない自己中心的な人達が多いために、この世が乱れて争いが多くなるのです。俗に云う世も末じゃ、で困ったものです。

例えば、神社仏閣、仏壇などで、一連の儀式(祈祷祈願など経典を読誦する)が終わり、場所が変われば人の悪口などを平気で云ったり、美味しい食事を食べ残したり、他を省みないで神仏に自己の都合だけをお願いしたりしているのが現状ではないでしょうか。

如何なる経典にお互いに悪口を言ってののしり合ってでも、自己の主張を貫き通しなさいと説かれているの出すか?

慈悲の心で労わりあいなさいでしょう。

また、食事の時お皿に盛るにしても残すほどに多く取り食物としての立場を無視しなさいと説かれているのですか?

満足に食事を得ることさえ出来ない人達が同じ地球上に居るのですよ。

私は神仏の存在を感得したことで「天知る地知る我知る」の意味合いが深く脳裏に焼きついて離れません。それ故に、正直になることの素晴らしさを人々に伝えているのです。

神仏より、この世の仕事(役割)を真っ当することで、解脱への道を歩かんが為に生かされているのです。それ故に生命の肉体を与えられ修業が出来るのです。

私達は、自己の仲を覗いて見て此れが神仏であることを認識出来ません。それ故に、この世の方便で仏画、仏像などが存在するのです。 

現代は、方便としての仏画仏像などが主たる目的の様に扱われて成りません。

このような仏画仏像などを活用することで自己に宿る神仏との出会いの仲から自利行と自他行の一体化を歩かれんことを希望しています。

このような自己の欲求だけを求めて、他の人達の都合、立場などを考慮しないから、お互いに争いが生じることになるのではないでしょうか。

争い(自己自身の葛藤、自己と他人との揉め事)のなかに欲求不満が生じてストレスの原因となり病気という、気の病となりなかなか治り難いのが現実問題だと想います。

この様な、気の病の人を私は“気の毒な人”と呼んでいます。

争いの無い、穏やかな日々で過ごせたら、健康的な暮らしが出きると想います。気の毒な人に、成らないようにしましょう。

トータルヒーリング健康道場の目的でも在る瞑想行法を行う為に、様々な心身の健康法があるのです。

瞑想行法は、自己自身を知るための手段であるから古代より多くの人たちが実践されてきました。

自己に宿っている霊魂(神仏)に目覚め、人格の向上で解脱へと導くことが可能であるからです。

瞑想による霊魂的な修行法は、先祖から受け継いだ先天の気と自己の改造によって自己自身に目覚める後天の気との結合、において一致させることが肝心かなめであるからです。

天の気と地の気を結ぶ為に瞑想行法があり、これによって霊感、第六勘が芽生えることになるからだと想っています。

故に、感謝、慈悲、愛、奉仕などの意味合いと必要性がわいて来ると想われます。

私がインドを旅しているときに夢枕などの霊感を受けました。一人の子供が私のところに近づき手を差し出すのです。私はいくらかのお金で布施の行法が出来ることに感謝して差し上げると、なんと驚いたことに今の今までは貧弱な乞食の子供と想っていたその子が突然、地蔵菩薩に変わってしまいました。

このような、お布施の心が、生きた地蔵菩薩への供養であることを思い知らされました。

以後、インドを旅しているときは縁あるたびに僅かではあるが、生きた地蔵菩薩と想って供養させていただきました。駅での供養のときに私に与えてくれた子供の微笑みは、今でも私の脳裏に焼きついて離れません。

人間としての知恵は、瞑想を行うことで閃きのような方法で授けてくれます。

禅のように座って行う瞑想(静禅)が一般的ですが、歩いて行うウオーキング瞑想(動禅)などもあります。歩く瞑想は、ミャンマーの瞑想センターで学んできました。

身体を動かして色々な動作としての気功法、ポーズ法としてのヨガも動禅を兼ね備えた方法で行うことが大切であると想っています。その為に、身体の中心線としての背骨を整えることが要求されます。其れを支える為に筋肉の鍛錬が必要となる。

そして、エネルギーとしての気を高める為に下丹田としての腹筋が必要となる。

中丹田は、感情と心のあり方調和させる為にも、呼吸法が必要となります。自律神経は、呼吸法と関係しているからです。

上丹田は、眉間、又は第三の目を活性化させることが自然発生的に関係してきます。第三の目によって、霊感などが働いてきますので自己コントロール法も活性化してくることになります。

故に、類は類を呼ぶの譬えの様に同じ心の想いによる波動で集まり集団化します。

超能力を求めての瞑想は、同じような超能力を求める人たちで集団化します。すべては、自業自得の自己責任です。

私は、副産物的に潜在能力としての能力を霊感又は霊気等として感じております。それで、慈悲と愛による奉仕行法としての瞑想行法を縁在る人に伝えているのです。

このホームページもその為の通信手段であると想っています。

関心、興味ある方は電話でお知らせ下さい。

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