世的全托

 

世的全託について                       東海支部・伊藤孝司


ラテハンと世的生活

世的全托で注意すべき事


神の意思を知ること

世的全托の神髄

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ラテハンと世的生活


バパがよくトークで「
……だからラティハンをしなさい」と言われた言葉が大変印象的で私は座右の銘としています。ですから、迷ったり、悩んだりしたときは「……だからラティハンをしなさい」と自分に言い聞かせてラティハンの世界に遊ぶのが常です。

 スブドはこの言葉(ラティハン)に尽きます。スブドはラティハンが土台となって成りたっています。スブドでラティハンを蔑ろにして、他にいくら良いことを言っても、それは砂上の楼閣でむなしい限りです。

ラティハンに対する私の姿勢は「神様お邪魔します」と挨拶をして神域に入れて貰う感覚です。ラティハンに入ればすぐに痛いほど神からの力が伝わってきます。(現実に痛いのです)ただし痛快的痛みで,快い痛みです。時にはあっ痛いと思わず叫ぶこともあります。

俗物の私でもラティハンをすれば神様はお相手をしてくれます。勿体ない話です。

ですからラティハンをとても大切にしています。スブドはラティハンに尽きると言っても過言ではありません。これほどラティハンで強い力が流れてくるのですから実生活・世的に活用しないという法はありません。ですから、バパが世的生活にラティハンの活用を提案されたのです。その一つがスブドのエンタープライスです。

服部先生は35年前に「スブドとは神の指示によって生きることである」という啓示を受けられました。

ですから本当に生きるには「真摯にラティハンをすること。生活の中にラティハンを持ち込むことです」すなわち「ラティハン(霊的礼拝)と(神の指示に従って生きること、すなわち神の意思に従って生きることで,いわゆる)世的全託」が必要ということです。世的全託とは神の指示によって生きることです。

ラティハンによって魂が浄化されていなければ指示は受けられません。ですから、先ずラティハンでしっかりとした基盤を築き、その基盤の上に世的全託の成果を築くべきです。分かりやすく(10年計画で)表せば8年がラティハン、後の2年が世的全託という順序または配分となります。


世全托で注意すべき事

このように考えて来ますとビギナーにはスブドで一般的に言われている
世的全託は無理です。危険です。強いて強行すれば思わぬ副作用が発生します。

ですから最初はラティハンオンリーに専念し、全託するのはラティハンの時だけに限定し 社会生活では智情意を使って生きるべきで生す。生活の中にラティハンを持込む代わりに社会生活では心を静めて行動をするのがベターです。より良い生き方であると考えます。

 「出来るだけ生活の中にラティハンを持ち込むこと」ということは、どのようなことか述べてみたいと思います。このような言葉をバパも仰しゃったことはありました。このことは、ラティハンをしっかりやって内部の浄化が出来た人には何の困難も伴わないと思います。しかし、
バパのお言葉ですが(正しい助言ですが)、凡人には抽象的過ぎて具体的にどうすればよいか、よく分かりません。

早い話が霊的な全託すなわちラティハンは、目をつむってラティハンを始めますが、そこでのトラブルは精々人に接触する程度です。しかし、世的全託となれば話は別です。

ビジネスの中にラティハン的全託を持ち込んだとしたらという程度では、私の危惧する事柄が的確に、簡単明瞭に表現が出来ませんから、下記のような馬鹿げた全託の例え話をして説明します。

例えば交差点に差し掛かったときラテハンを受けたとします。このとき、ああ青信号だな、あるいは、黄信号だなと感ずるだけで、思考はストップの状態ですから何の反応もしません。また、自分の意思で行動はしません。そんなことをすればラティハンは止まってしまいます。ただ、見ているだけです。すべては神のご意志次第と全託状態のままに行動は神に任せます。

しかし、現実に自動車を運転していた最中にラティハンが起こっているのですから、そのとき青信号なら助かる可能性もありますが、赤信号の場合は、ああ赤信号だなと受けるだけで、思考はストップのまま、成り行き任せに(車に)全託していれば交通事故は必至です。酔っ払い運転より格段と危険度は高いのです。正に自殺行為です。

ですから、世的全託の定義ということの意味するものを知らず、仕方を知らず、あるいは、間違った認識の世的全託をするとトンデモナイ失敗をします。生命の危険、怪我、失業、破産の不幸につながり兼ねません。神に世的全託して礼拝したつもりの結果がこれでは、やり切れません。


神の意思を知ること

世的全託に思いを巡らしたとき、4年前に世的全託を悟ったと思ったが、まだ少し読みが浅かったと気がつきました。
 
それは「世的全託」の本質は【「神の意思を知る」あるいは「神の指示を受ける」「神から行動の基本的指示を受ける」】ことが重要なことで、その後は、その指示に従って行動を起せばよいのです。行動は智情意を使い、すなわち、頭を使って行動をすれば済むことです。ビジネスや作業中にまでラティハンを持ち込む必要はありません。

将来を大きく左右するような重大事項で神の意志を聞かなければならないようなことは1月に一度あるなしです。通常の重要度での意思決定の必要なのは1週間に一度乃至二度です。それなら仕事中にラティハンまがいの世的全託を持ち込む必要はありません。適当な時に適当な場所でラティハンをして神の意志を聞けば済むことです。後述に出てくる「意志を捨てよ………云々」という全託的啓示を一日中守って意思を捨てている必要はありません。(預言者・覚者に近いほど浄化された方はこの限りにあらずですが)

その代わりとして、日常生活に於いて絶えず神の意志を内部に尋ねながら暮らせば良いのです。これも一つのラティハンです。その具体的方法を説明すれば「何かあったとき」「何かするとき」そのような時、「神様は何と思われるか?」と考えたり、「神様の考えはどうかな?」と自問自答的に内部に尋ねれば、考えが浮かんできます。それでよいのです。そのように絶えず神の意志を確かめながら暮らせばやがて神の意志は如何なるものか

分かって来るようになります。このように「頭の浄化をしながら神の意志を聞く」一石二鳥で良いではないですか。これなら誰でも失敗なしに「ラティハンを生活の中に持込む.」ことが出来ます。


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「ラティハンを生活の中に持込む」とは、「日常生活の中で、できるだけしばしば自分の中でラテイハンの存在を思い出しそれに近い状態に立ちかえるということ」ということだとすると、これは難題です。


世的全托の神髄

私は17年か20年前からラティハン中に(服部先生の口を通じて)社会的な実際的な事柄も「(尊天)クマラに任せなさい」と絶えず世的全託をすることを命じられました。

霊的な全託はラティハンをすれば済みますが、世的となると話は別です。任せよと言われても、どのようにお任せすれば良いのか皆目見当がつきません。神に任せて遊んでいては申訳ないと行動を起こせば次の集団ラティハンで(先生の口を通じて)「お前に何が出来るというのだ。何も出来ぬではないか、お前は自分の力だと思っているが、お前の力などありはしない。それはクマラの力だ。クマラに任せなさい。馬鹿!」と叱られるのが常でした。

服部先生の遺稿「スブドの世的教示」の啓示の一節【意思は捨てよ、意思を使うのは、絶えず内部の流れに注意を向けることのみに、意思を使うべきでありは、それ以外に意思を使うべきではない。そうすれば内部の流れが意思、頭を使い,この身を動かすだろう。それが本当の生き方である】を読みまして「神に任せるとは、神の意志に任せること、すなわち、神の意志による指示に従って行動すること」と悟ったのは今から4年前です。随分とドヂな話です。私の鈍才もさることながら世的全託の真髄を悟るということは、これほど難しいのことです。悟ってしまえばなあ〜んだと言うほど簡単なことですが。

世的全託の真髄を把握したうえで「実際の生活の中にラティハンを取り入れなさい」というのなら難なく理解されます。世的全託の真髄を把握していれば、世的全託はどのようなことか、具体的に語り合い実行することができます。


最後に1968911日に服部先生の口を通じて受けた啓示を公開してこの話を終わりとします。恥ずかしいけれどそれは私に対する注意です。いわく

「この頭の中にあるものは物質を物質を……この頭の中で動いているものは、物質に対する欲望と執着である。その欲望が貴方の行動をいろいろに決定している。けれど、我々ラティハンに従うものは欲望に従って行動をするのではない。神の意志に従って行動をしているのである。それは単にラティハンのみならず、実際生活ににおいても神の意志を尋ねる心がなければならない。お前はこの欲望のみの命令によって動いているのである。欲望のみで物事を決定しているのである。もっと、神の意志を聞くような気持ちがなければ、この頭の浄化はなかなか困難となるのである。我々は神の意志を聞く心がなければ頭の浄化はなかなか困難となるのである。神の意思をもっと聞きなさい。神の意志をもっと心を鎮めて聞きなさい。そうすればあなたの内部で神の意志が何であるかが、分かってくるようになるのであります。そういうことを何もしないで、ただ、欲望によってあなたはあらゆることの決定を行っています。それがこの頭の状態であります。クマラの話を終ります。次は会員全体に対する啓示です。

「欲望によって、我々は実際生活に於いても、欲望によつて物事の決定を行ってはなりません。ラティハンに従うモノは、絶えず神の意志がどういうものであるか、ということを内部に尋ねながら暮らしてゆくのが必要であります。それも一つのラティハンであります。内部に神の意志を尋ねながら暮らしていることなくして、ただ、欲望の命令に従っていては、何時までたっても頭の浄化は起こらないでありましょう。その人を動かすものは、何時までたっても欲望に過ぎないでありましょう。もっともっと神の意思を聞きなさい。神の意思を内部で聞きなさい。もっともっと聞きなさい。そうすれば、やがて神の意志が内部で分かってくるようになるのであります。そのために我々はラティハンというものが与えられているのであります。実際生活に於いても、また神の意思を尋ねるという気持ちが働かない限り頭の浄化はなかなか起こらないでしょう。

この世の力はすべて欲望によって支配されているのでありますから、その力に頭は支配されてしまうでありましょう。そういう支配を受けないためには、いつも神の意志を尋ねるという気持ちがなければなりません。ですから我々はそういう可能性を得るためにラティハンに努めているということを忘れてはなりません。ラティハンの終局は、神の意志を自分の内部で受け取るということのために行っているのであります。

 自己を浄化してもらってその浄化した内部で神の意志が分かるようになるのがラティハンの終局の目的であります。

以上は東海の支部の会場に密かにテープコーダーを設置して録音したものです。)

以上の教えを体験した結果、頭の浄化の為に神の意志を尋ねることは、すなわち、世的全託の実践と同じであることが分かりました。神の意志を尋ねながら暮らすことはその気になれば誰でも出来ます。これがもっとも簡単な世的全託の極意す。

 ですから、これからは絶えず神の意志を尋ねながら暮らせばよいのです。

それから、もう一つ「……だからラティハンをしなさい」を心がけ内部の浄化に努めれば神のご意志に沿った最も幸せな生涯が保証されています。

                   記・20001129