HP・MLに関するニュース と個人的な日記
↑こっちが大事、日記はどうでもいいです・・

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プレゼント無しのクリスマス
今年のクリスマス、私は娘1号の枕元にはプレゼントを置かなかった。十分に物持ちだから(でもゲーム類が無いのはクラスの中でウチだけらしい)。その代わり、夜中に起きてパソコンで手紙を作った。

「日本国○○県○○市・・・・○○様。 クリスマスおめでとう。今年も良い子だったと小人たちから聞きました。双子の妹たちの世話も頑張りましたね。しかし申し訳ないのですが、このごろは食べるものやおもちゃが無い国の子供が増えたために、工場で作る分が間に合わなくなり、あなたの分をそちらに使わせていただきました。そのかわり今日から3日間自分の願った夢を見られる魔法をかけました。」(抜粋)

翌朝起きて手紙を読んだ娘は「たしかに世界中にはこまった人がたくさんいるからね」と妙に納得していた。そして昨晩、私は何とか早く帰宅して(平日自宅で食事出来るのは週1回程度だけど)ベッドに一緒に入り、どんな夢がいいか話してもらった。家族全員で自転車でピクニックに行く(2号3号の乳母車も自転車の後ろにつける)話から、それがハワイ旅行になり、神様が1年間も遊んでいいんだけどその間世の中の時間は止まっているからパパママの仕事はたまっていないんだよ・・と私も楽しくなるような内容だった。
あんまり話が長くて、普段から睡眠不足の私は気絶しそうになったけど、娘の心の中には楽しい事がたくさんつまっているんだなぁと再確認する良い時間で、子供に必要なのは物より時間と心だよと感じた夜だった。
そして今朝は予想した通り「本当に夢見た!」と感激していた(暗示に弱い)。

ますます可愛いヤツだと思う気持ちが娘から私へのプレゼントかな?
2000年12月26日 21時56分57秒


コンテンツの一部削除しました
私が運営に参加しているK3−NETが花咲く小径の役割の多くを果たして下さるようになり、花咲く小径ゲストブックは発展的解消(勝手に解釈)して、企画案もK3−NETにお任せする事にしました。

このサイトが出来たばかりの頃は、女性研究者が自由に参加出来る場所が無かったので、生物系だけではなく多くの方がここを訪れて下さいました。皆さんとの交流は楽しかったのですが、私と個々のゲストの放射状のつながりだったものが横のつながりになり、自分の手を離れていく中で、このサイトのコンテンツも一部縮小するのが良いと考えました。

・・とは言え、全く終わった訳ではなく私個人の(変な?)カラーが出ているサイトとしてまだまだ続けるつもりですので、皆さん宜しくお願い致します。
2000年12月05日 23時14分39秒


研究は無差別級
10月から本格復帰した私は自分の仕事が思うように進まない事にかなり苛立っている。「子供も産んで仕事もなんて無理」と慰めてくれる人もいるけど、それは違う問題なのだ。
私の指導教官の言葉で「研究は無差別級」というのが心に残っている・・というか、刺さっている。「研究は無差別級の勝負だ。小さなラボだろうが、女性だろうが、正しい結果を出した者が勝つ。その代わり自分の環境を言い訳にする事は出来ない。一生懸命努力しても成果が出なければタダのバカ。実験量が少ない人にひらめきで負ける事もある。勝負はデータのみだ。」
私は今までたくさんの回り道をしてきたし、仕事の中で精神的に痛めつけられるような事も多かった。その中には自分が女でなければ避けられたかも知れない原因もたくさんある。今は雑務と学生の教育に時間が取られている。時々それらを理由に「もう十分頑張っているじゃないか」と自分を甘やかしたくなる時がある。しかしプロ研究者になりたいなら、勝負の無情さも受け入れなくてはならない。
疲れたり落ち込んだりする事を自分に極力許したくないのに、実際の自分は全く思い通りにならないのでなおさら苛つくのだ。
2000年11月06日 21時12分16秒


金は使ってこそ
娘2号・3号の保育園のお迎えと娘1号の学童のお迎え(自力で帰れるけど変質者が怖い)に私は到底間に合わない。実家の母1人で両方のお迎えは出来ないし、帰ってから食事の支度も子供の世話もするのは無理だし、母も仕事をしているので間に合わない事もある。
そのため先に紹介した生協のサービスの他、義理の妹や母の友人達が日替わりでサポートに入っている。平日6日のうち相棒が早退する1日と相棒が休みの土曜を除く最低4日は2時間ずつ入ってもらい、1時間に800円〜1300円払っているので週あたりの支出は1万円弱だ。実家にも食事の世話になっている分も合わせて月に6万円払っている。家事サービスの月3万円弱と合わせると月に12万円くらいは育児と家事のために払っている計算になる。
ちなみに保育園は2人で7万円、学童は1万円・・全部合わせるとすごいけど、娘達がたくさんの人に助けられて育つのはいい事だ。貯金は年を取ってから本気になればいいと思う。
2000年10月24日 21時48分02秒


疾走!乳母車
出産一ヶ月後くらいから実家などに頼んで半分くらい出勤し、2ヶ月ですぐ保育園に入れた。行ってしまえばこっちのものだけど行くまでが大変・・朝、ダンナは早く出るし娘1号は実家で朝食食べて学校に行く(パラサイト一家と呼ばれている)ので娘2号・3号しか手間がかからないはずなんだけど、起きてから保育園に着くまで2時間くらいかかってしまう。

自分の支度して朝食食べる→部屋の簡単な片づけ→<2人に>授乳・ゲップ・オシメ替え・着替え・検温→保育日誌<2冊>記入→着替え・オシメ・ガーゼのハンカチ・汚れ物を入れるビニール袋など<2人分>を<巨大>マザーズバッグに入れる→乳母車を外に出す→<2人を>運んだら急いで戻って戸締まり→乳母車で保育園へ→<マザーズバッグをパソコンバックを背負っている背中に重ねて背負い(ほとんど夜逃げか泥棒)>→<手提げは肩にかけて2人を両脇に抱える>→<保育園の階段を上るが、園児逃亡防止の柵2つを開閉するのが至難の業>→部屋に入ったら2人をまず床に下ろす→引き出しの中身を確認(大抵何か足りない)→保母さんが<2人分の>検温をするのを待ちながら体調など伝える→<2人を>ベッドに入れる→汚れ物用のビニール袋をかける→登園記録に記入

<>が双子ならではという部分。
これに1人の熱が高めなので誰がお迎えに来られるようにしておいて言われあちこちに電話する・・というアクシデントがあった日はセミナーの時間に遅れてしまい(というか色々ありすぎて頭から抜けた)落ち込んだ。二人ならアクシデントも2倍・・病気パレードが始まる生後6ヶ月が怖い。

2号・3号の運搬には二人乗りベビーカーではなく車+取手だけの乳母車を使っている。ベビーカーだと開いて組み立てて2人を座らせてベルト閉めなくてはいけないけどズボッと突っ込んですぐ発進出来るので便利。急いでいる時は時代劇の早籠みたいに「どいた!どいた〜!」という勢いで走っているので近所では評判らしい。
2000年10月24日 20時58分55秒


すごいぞ!専業主婦
「育児も家事も研究も頑張ってますね」などとたまに言われるが、育児は少ししかしていない。そして家事はほとんどしていない。

私は生協の相互援助サービスを利用している。利用者と援助者が登録し、条件の合った場合に家事や育児をお願い出来るシステムで、家事一般一時間1000円で、援助者の報酬は800円、差額の200円が援助者が物を壊したり怪我をした場合などの保険としてプールされている。

うちは40代の主婦Nさんに週2回3時間ずつ、そうじ・せんたく・皿洗い・靴洗い・風呂掃除・古新聞紙の梱包など家事の殆どをお願いしている。Nさんの来る日は食べた皿が流しに、洗濯物がかごに溢れかえっているのに、帰宅するとすっかり片づいている。流しのぬめりを落としたり、コンロを磨いてくれたり仕事がとても丁寧だ。冷蔵庫の汚れはこの洗剤で取れるとか、使ったふきんは流しの横に干しておくんだとか、家事の常識も教えてもらっている部分がある。
考えてみれば専業主婦とは主婦業を専業にしているのだからその知識と手際の良さは素晴らしい。
Nさんにとっては都合の良い時間に来られて(合い鍵を預けている)曜日変更も自由、子連れで来るのも構わないという点が良いらしく、1年近くお付き合いが続いている。
しかし学童の母親仲間に勧めたところ「汚い部屋を見られるの?」(汚いから来てもらうのに)「下着も洗ってもらうの?」(ネットに入れてるよ)・・と否定的だった。
でも相棒と二人で頑張っていた時は家事がたまってくるとお互いにやれよ〜とオーラを飛ばし合って険悪になったりしていたのが、ずいぶんと気持ちの余裕が出来たので本当に有り難いと思っている。
2000年10月21日 23時28分45秒


ちょいと笑った
娘1号は「お母さん大好き」と素直に甘えられるタイプで、いじらしいお世辞まで言ってくれる。
私の母が「お前も3人の子持ちには見えないねぇ」と珍しく誉めてくれた時、1号も「本当にそうだよ、私初めてお母さんに会ったとき20代かと思ったくらいだもん。」・・本当に20代だったんだよ、あんたが産まれた時は・・思い出す度にちょいと笑える。
2000年10月21日 20時30分48秒


ちょいと悲しい
*この日記から娘達の区別を1号・2号・3号とします。

昨晩終電で帰って寝たのが3時なのに7時に娘1号に起こされてお弁当を要求された(彼女は小学校が終わった後、直接学童に行くので)のは辛かった。保育園に入れてから仕事量は以前のペースに戻り、子供と一緒に夕食を取れるのは平日は1回程度になっている。

そんな中、ちょいと悲しい事が2つあった。

その1:1リットル/日も出ていた母乳が枯れた。搾る場所と時間が無かったから当然だ。娘2号・3号は特に母乳好きという訳ではないので独立栄養状態に入った。もう自分は必要ないような気がしてちょっと疎外感。

その2:泣いている娘2号・3号に1号が「お母さんが恋しくても我慢しなくちゃいけないよ。あんた達も寂しいかもしれないけど、あたしなんか産まれた時から今までず〜っと寂しいんだからね。」と言い聞かせていたそうだ。ちょっと切なくなった。
2000年10月21日 19時35分40秒


インターネットさまさま
私は20代の妊娠ではつわりも殆ど無く、出産3日前まで実験をして、出産後一ヶ月半で復帰した。復帰直後も激しく働き、子供をおぶって実験する姿を今でも覚えている人が多い。30代に入ってまた子供を作ろうと思った時、前回と大体同じペースで仕事が出来ると考えていた(ちょっと無謀)。

妊娠が分かった時、教授にはすぐに「出産前後で2ヶ月のお休みを戴きます。極力仕事に響かないように頑張ります。」と伝えた。非難する言葉は無かったが、おめでとうの言葉も無かった。出産で休む割んだからこそ仕事をやりだめなくてはいけない、そのくせ今の君はたるんでいる・・というような小言を言われた。ごもっともだ。
しかしその直後から息切れがひどく、何より腹痛が激しくなった・・まさか流産?と思いつつ受診するとジイさん先生がタバコふかしながら「あ〜こりゃ双子だ」・・その瞬間、私の口はパッカリ、顔にはちびまるこちゃんのような縦線、頭は真っ白になり「仕事は?私の研究は?!・・」というセリフがエンドレスで回り続けた。
息切れは貧血、腹痛は普通の妊娠よりお腹の大きくなるスピードにあったらしい。

私はしばらく考えてから教授に「申し訳ありませんが3ヶ月休みます。極力仕事に響かないように頑張ります。」と伝えた。でも3ヶ月で済まないかも知れない、確実に仕事には響くだろうなぁ、入院なんてしたら教授がお見舞いに来て枕元で小言言うんだろうなぁ、と思った。一体どのような経過になるのか分からなくなり、とても不安になった。

最大限仕事をするために何か出来るはず・・まずは情報収集だと思いつき、双子に関するサイトを調べ、双子メーリングリストにも入った。双子の母にも頑張って働いている人もいて私の相談にたくさんのアドバイスをくれた。病院選び、必要なもの、あると便利なもの、早産の兆候、体力温存の方法、いつまで働けるか・・どれも本当に役に立った。

もう一つ情報と言えば、予定帝王切開になった私は麻酔が怖かった。なぜなら子供の頃に吸入麻酔で全身硬直をした経験があるからだ。特異体質の可能性があるとかで手術後にまた採血をされて暴れた思い出は鮮烈なのだが、一体何が悪かったのか記憶に無いのでまた事故が起きたらどうしようと思った。
この不安には花咲く小径が縁で知り合い、掲示板サポーターをして下さっているおざわよさんが医者の立場から適切なアドバイスをくれた。また、彼女が病院内で編集を進めている麻酔パンフレットの原稿も送ってくれた。

情報の力はすごい。知っている、理解しているという事で不安は少なくなり、適切な判断が出来るのだ。
という訳で、私にとっての今世紀最大の発明はインターネット!
花咲く小径もこれにお世話になっているんだ。
2000年10月15日 00時51分48秒


出産カミングアウト
突然の報告ですが、私はこの夏に出産しました。

なぜこの件を伏せていたかと言うと・・
最大の理由:双子妊娠だったから。流産・早産・妊娠中毒症などの率が高い、妊娠40週のうち28週以降は入院する人が多い、出産時の大量出血などで救急病院に転送される人もいる、産まれる子供は小さいため集中治療室で長期入院する事もある、成長や発達のトラブルも多い・・と調べれば調べるほど怖い話ばかり。おまけにマル高=高齢出産。いつダメになるか分からなかったので公開出来なかった。
2番目の理由:母親としてのアイデンティティーに乏しいから。私は女優が「妻として、母として2足のわらじをはきながら・・」なんて紹介されているのを見ると、母親である事をウリにしているようで不愉快に思うタイプなのだ(ダンナとして、父として、というのはあるかい?と突っ込んでしまう)。それに子供を意識し過ぎると「子供がいるから仕事が遅れていい」と自分を甘やかしてしまいそう。また、実際に母親らしい事はあまりしていないし自覚も足りない。
3番目の理由:自分には嬉しい妊娠であっても、他人様にはどうでも良い事(もしかして迷惑)なので、うかれた姿をさらしたくなかった。

な〜んて、世の中を斜めに見ている部分もある私です。職場にも友人関係にもあまり大っぴらにしませんでしたが、希望した妊娠だったので陰では”ヤッホーヤッホー”と喜んでいました。
妊娠中はビクビクしていましたが、双子妊娠にしては順調過ぎる経過で、健康に産まれ、すくすくと育ち、産休明けから保育園に行っています。今となっては得した気分です。
2000年10月08日 02時46分10秒


コンテンツの見直しをします
最近更新をさぼっていてすいません。
昨年の春に開設した花咲く小径は生物系の女性研究者を主に対象にしていたのですが、当時はそれに近いサイトが無かっただけに、他分野の方にも子育てやよろず相談で参加して戴くなど広いフィールドで作ってきました。
その後Rさんはじめ様々な仲間との出会いがあってK3−NETやまんまる倶楽部が始まり、K3−NET掲示板タウンも盛り上がってきました。私もK3−NETの主宰者の1人としてそちらの仕事の方が中心になっていました。
現在は女性研究者・技術者向けの統合サイトとしてのK3−NETの存在が大きくなってきたので、花咲く小径は先発のサイトてはありましたがK3−NETの一部としてコンテンツの組な直しをしたいと考えています。
具体的にはリンク集をK3−NETに任せ、花咲く小径ゲストブックを閉じて、全体にコンパクトな作りにしたいと考えています。最近書いていない日記はPTAや学童の話など書きかけの話題の始末もつけてもう少し力を入れたいと思います。作りっぱなしのページも見直すつもりです。
・・・とは言え、本業の傍らなので動きが遅い事を御容赦下さい。
2000年08月29日 16時24分39秒


こうして内定を戴きました
1986年夏、コネ無しの就職活動は何かとぶつかりつつ、私は飼料会社でありヨー○卵”光”で知られるN社だけ内定をもらう事が出来ました。その経緯は今の学生さんの参考にはななりそうもないです。
私はそこでも筆記試験の成績が良かったらしく、朝一番でグループ面接に呼ばれました。そこにはあと2人の女子学生がいて、1人は筆記が高得点だったようですが、もう1人は某研究室からのコネでした。どんな話が出るんだろうと期待して臨んだのですが、面接官の初老の男性はコネの彼女と話し始めました。「○○先生、元気?」「はい、××所長に宜しく、とおっしゃっていました」・・ほとんど2人の世間話を聞かされている状態で、残りの二人には最後に短い質問があったと思ったら「では、お帰り戴いて結構です」と言われました。
ここで私は怒り爆発!
「ちょっと待って下さい、これがグループ面接と言えるんですか?」「今日、私は志望動機や将来の夢など色々聞かれると思ってあれも言おう、これも言おうと一生懸命考えた上でこの席についていました。それなのにさっきから2人だけで喋っているじゃないですか。これで私の事分かるんですか?」
私はもう1人の女性に「あなただって言いたい事いっぱいあるでしょ!」と声をかけたところ「え?えぇ・・その・・」とシドロモドロになっていました(当たり前)。
しかしコネの彼女ではなく私が最終面接に進んだので、グループ面接はあまり意味が無くて雰囲気を見るだけだったのかも知れません(でも私は問題アリと思われたはずだけど)。重役達に「最近頑張っている事はありますか?」と聞かれてうっかり「就職が決まらなかったら他大学の大学院に入ろうと考えて受験勉強しています」と答えてしまったのに、内定をもらいました。もしかすると筆記試験とか学歴(その会社では当時国立大卒は珍しかった)だけで決めたんじゃないか、と考えたりもします。
ちなみに私が文句をつけた初老の男性は、その後配属された中央研究所の所長でした。しばらくイビられました。でもそこで勤めた4年間は私の人生にとって本当に貴重な体験だったと思います。
2000年06月23日 19時54分35秒


就職活動の思い出
学生さんは就職活動まっただ中のようです。うちの研究室は企業にコネが無く就職の紹介が出来ないので、みな自力で頑張っています。私が出来るのはOBのメールアドレスを教えたり、応募書類の記入のアドバイスをするくらいです。こんな時は会社員経験も少しは役に立っているようです。
特に女子学生は厳しいらしく、30社以上回ったなどという話も聞きました。最近はインターネットなどで応募の機会が増えた分、競争も激しくなったのかも知れません。
自分の1986年当時、大学4年生での就職活動の思い出を少し書いてみます。バブル前で今よりは少し景気は良い程度、4大卒でも研究職に配属される会社もある時代でした。
私は自分の大学から外に出たいという気持ちが強く、T大の修士の入学試験の準備と就職活動を並行して進めていました。おかげで当時の頭脳は冴えていて、どの会社でも筆記試験はトップクラスでした。面接官にも積極的だと誉められる事も多かったのですが、女性差別がはっきりしていた時代だったので合意に至らない場合が多かったです。
製薬の日本Cミファ:
面接官「実は大卒女性は特定研究室以外はあまり採用した事が無いんですよ」
診断薬のDイナボット:
面接官「研究補助職として是非採用したい」
私「研究職じゃダメなんですか?」
面接官「うちは女性は補助職と決まっています」
私「お互いのタメにならないのでお断りします」
スパゲッティで有名なS和産業:
面接官「結婚しても働くのですか?」
私「もちろんそのつもりですが」
面接官「フーン・・あなたと結婚する人やあなたの子供は大変ですね〜」
私「あなたと結婚する訳じゃないですから、そういう予測をされる筋合いはありません」
→未だにこの会社の製品は買わない
当時から生意気だった私は、それでも某飼料会社から内定をもらい、4年間勤めました。会社の思い出はまたの機会にします。
2000年05月27日 07時30分05秒


何でこんな時間に書き込みをしているのかというと
枕元においてあるPHS宛に明け方いたずら電話があって、目が覚めてしまったからです。朝からH電話はやめてくれ〜
話変わって、私は夢の内容を良く覚えているタチです。今日の夢はコンタクトを落として周囲が良く見えないのに夜の大学構内を歩かなくてはならない、そこに野犬が来たのでビール瓶を手に威嚇しながら何とか正門を出た、カルト宗教撲滅のための内偵活動をしなくてはならないのにコンタクトが無いのは不安だ・・という重苦しいものでした。これは何を意味するんでしょう?私の仕事が忙しいから相棒がもう一人奥さんをもらう、なんて分かりやすい夢もあります。「掃除・洗濯とか面倒な事は彼女がしてくれるから気にしなくていいよ」「bloom さん初めまして。仲良くやりましょうね。」という二人の姿にはうなされました。なぜか相棒の夢は良く見るんですが、子供はあまり登場しません。頭の中で今一つ抜けているんでしょうかねぇ?
下らない事を書いていたら眠くなってきました。おやすみなさい〜
2000年05月18日 05時22分10秒


いつの間にか誕生日
このサイトを立ち上げたのは1999年の5月15日でした。アンケートの集計とHTMLの勉強に苦労しながら「こんなサイトを必要としている人がいるはず」という一念で始めましたが、サポーターの皆様とゲストの皆様の御協力で1才の誕生日を迎える事が出来ました。
この中で多くの方との出会いがあり、まんまる倶楽部、K3−NETなどの姉妹サイトの設立にも関わる事が出来ました。今後も皆さんに役立つ情報と掲示板を提供したいと考えていますので、宜しく御願い致します。
本当は、こういうメッセージはジャスト誕生日に書くのがシャレているのですが、15日はゼミ担当で、その前2日がほとんど徹夜だったため、帰宅するなり爆睡でした。
2000年05月18日 05時02分50秒


倉庫が少し充実しました
連休中、仕事関係も私生活も色々やろうと考えていた事はあったのですが、半分も出来ませんでした。とりあえず倉庫が少し充実しました。掲示板の過去ログがたくさん入っています。
2000年05月08日 15時13分12秒


新学期
最近の私の頭の中は、進まない実験の段取りが7割、ネット関係の悩みが1割、その他が2割・・ここに家事とか育児とか夫婦関係とか公共料金の支払いなどが入っているので、行き届かないのは当然。
昨晩も実験のため自分は午前様で、娘は実家に泊まっていた(というか、最近の彼女にとっては実家が本宅のよう)。朝「○○ちゃ〜ん、学校行こう!」の近所の子供の声に驚いて起きる。「えぇ?まだ春休みじゃなかったの?」慌てて居間にある学童の予定表を見ると「5日:始業式」と書いてある。実家に駆け付けてみると娘は学校の支度もばっちり、おばあちゃんの弁当を持って出かけるところだった。私ひとりがちょっと間抜けだった。
2000年04月05日 17時25分43秒


K3−NETの危機
花咲く小径に寄ってくれた事が御縁で化学系のRさん・医学系のジブリさんと始めた「女性研究者/技術者のためのサイトK3−NET」に危機が訪れました。利用していたレンタルサーバー会社が不採算部門のため撤退します・・と連絡してきたのです。詳しい事はK3−NET緊急ミラーサイト(http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/2399/)に書きましたが、花咲く小径の掲示板も使えなくなるかも、という事態になりましたが、主宰者一同+サポーターのみなさんの御尽力で何とか夜逃げをして仮店鋪で営業をしています。掲示板のURLが変わってしまいましたが、引き続き御利用を御願いします。
本来はここでもっと早く報告するべきでしたが、引っ越し後の稼動確認や関係各所の連絡に手間取ってしまいました事をお詫び申し上げます。
そんな訳で、日記とニュースの更新も滞りがちですが、折りを見て学童の話、PTAのその後など報告していきたいと考えています。
2000年03月23日 20時42分29秒


学童の苦労(1)
私は学童の役員を休業する事にしました。理由は肉体と精神の限界にきたからです。昨年の春に入所して以来、この日記には良い面ばかり書くように心掛けてきましたが、実は夏頃から辛いと思っていて、12月の新ききみみずきんでシャウトした時は辞める覚悟が出来ていました。みんなに何が辛いのか聞かれて、あまり他人の悪口や制度の悪口を書くのは良くないとも思ったのですが、子供を持つ人にとって大きい関心事であるので自分の失敗を報告する事にしました。

最初に学童の仕組みについて説明します。学童保育は働いている親達が放課後の小学生を預ける場を作る運動に由来するようです。最初は親が資金を出し合い、建物と指導員を探すという共同学童形式が多かったのですが、行政側も必要性を認める中で補助金が出るようになり、最近では行政が直営する公設学童に移行する地域も増えています。また、保育園などを運営する法人による法人学童もあります。
3つの運営形態のおおまかな長所と短所を上げると
共同:小コミュニティで運営されるので保護者の要望が反映されやすい。運営業務・資金集め・行事などで保護者の負担が大きい。保育料は補助金によっても変わるが、公設よりは高い傾向がある。指導員は保護者が探す事が多い。
公設:行政が施設や指導員を確保するため保護者の負担が小さい。公共性・均質性が求められるので融通が利かない面がある。保育料は無料〜1万円と幅があり、指導員の身分も自治体より常勤職員・非常勤職員(週当たり労働時間に制限あり)と異なる。
法人:保護者の要望にも柔軟に対応する場合が多いが、共同・公設より保育料が高い傾向がある。
公設化された地域でも障害児保育や夜間保育など公設の不足する面を補う形で生き残る共同学童や法人学童もありますので、一つの地域に必ずしも一つの運営形態しか無いという訳ではありません。
詳しく知りたい方は学童保育のホームページ(http://jca.apc.org/gakudo/)を参考にして下さい。ここにはメーリングリストもあり、私もずいぶんと運営上の悩みを相談させて戴きました。

私が所属していたは共同学童で、3校の小学校区をカバーしています。このエリアには法人など他の学童は無く、保護者は共同という形態を選んで入ったという感じではありません。私が一年生の保護者として入所した昨年は自治体で2000年春から学童保育を公設化して各小学校区に1つずつ設置する事が決定され、保護者の期待が高まっていた頃でした。

思えば私の苦闘の歴史は最初の役員決めに始まっていました。高学年の保護者は会計などの他の役員を早々と決め、低学年に会長と副会長の仕事が残りました。入所直後の保護者には荷が重いと言ったのですが、みんなの「形だけだから」という言葉に私と三年生の母親が副会長を、一年生の父親が会長を引き受けました。しかしそれは上の学年の保護者と指導員さんがうまくいっていない証拠だったのです・・(つづく)
2000年01月18日 20時11分49秒


おめでたい
おめでと〜ございまぁ〜すっ!!(染ノ助・染太郎風)
新年にふさわしいおめでたい話をひとつ・・
私は自分の娘は良く出来た子供だと思っている。人一倍(三倍くらい)丈夫だし、見た目もまぁイケてるし、社交的で、ギャグのセンスもいい。相棒も良く出来た配偶者だ。見た目もとっても好みだし、性格も温厚で家庭的、仕事においては勉強家で、分析力は私より優っている。二人とも「あ〜なんて素敵なの〜」と思わず見つめてしまう事も多い。
しかし、そう思っているのは多分自分だけだろう。私は自分の車もiBookもベストチョイスだと思っている。つまり自分が選んだ物が一番いいと一人でいい気分になっている「おめでたい人」なのだ。
この話にはオマケがある。私の母が「この間、アンタの新しいダンナに会った○○さんが”二枚目ね”って誉めてたわよ」と言いだした。そして得意になっている私に「一体あの人のどこが格好いいのかね〜ハンサムって言ったらうちのパパに決まっているじゃないの」と続けたのであった・・つまり、おめでたい性格は遺伝という事である。
2000年01月05日 19時56分31秒


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