信 行 要 文A
第六回法華講夏期講習会
御法主日如上人猊下御講義(抜粋)
十如是事
我が身頓て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕はし給ひける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。かく覚りぬれば無始より已来、今まで思ひならはしゝひが思ひの妄想は、昨日の夢を思ひやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚りて如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり。かく信ずるを如説修行の人とは申すなり。(御書一〇五頁)
この御文の前には、
「されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば」(御書 一〇五頁)
とありまして、そのあとに「我が身頓て法華経にて」と続くのであります。つまり「我が身」、私達の父母所生の肉体、父母から生まれた凡夫の身体、この我が身が、実は妙法蓮華経という、すばらしい当体なのだということをおっしゃっているのです。そのことを知るならば、「我が身頓(やが)て法華経にて」、つまり我が身がそのまま法華経そのものであるということになります。
続いて「法華経は我が身の体をよび顕はし給ひける仏の御言にてこそありければ」とありますが、法華経は何かというと、妙法蓮華経の当体たる我が身を呼び顕してくださるところの、仏様の尊いお言葉であるという意味です。
そうであるから、「やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり」、我が身が「本覚の如来」、仏様と同じだとおっしゃっているわけであります。
ここに「三身即一の本覚の如来」とありますが、法身・報身・応身の三つの身を三身と言うのであり、それが一身に具わっていることを三身即一と言います。
勉強なさっている方はお解かりかと思いますけれども、仏様には、三身がバラバラではなく、全部一つにまとまって、分離しないで一身に具わっている、つまり仏様は三身即一のお身体をなさっているという意味があるのです。
まず一つ目の法身とは何かと言いますと、これはいわゆる所証の真理、つまり悟られたところの真理という意味です。
それから報身というのは能証の智慧で、その真理を悟るための智慧が報身ということになるわけです。
それから応身というのは、応とは応現、すなわち応じて現ずることですから、衆生救済のために相手の色々な様相に応じて変現する千差万別の仏様の力と用(はたら)き、これが応身なのです。
仏様はそのとき、そのときによって様々な形を現じて衆生を救うということがあるのです。
仏様はこの三つの身を、バラバラではなく、全部を一身に具えていらっしゃるのです。我々凡夫も南無妙法蓮華経と唱えていくと、そのようになるということをここではおっしゃておるのです。
この「本覚の如来」とは何かと言いますと、本覚とは始覚に対する言葉で、元々、本来覚っているという意味があるのであり、始というのは始めて覚るということであります。
つまり一切衆生は、我々もすべて、本来的に仏様の命が具わっているということです。 これは十界互具の上から言いましても当然、そうなるわけであります。ですから、自分達のような荒凡夫であっても一人ひとりが妙法蓮華経の当体であって、すばらしいのだということを、我々はしっかりと自覚していかなければならないのであります。
|