五蓋の第一に挙げられる「貧欲蓋」とは、飽くなき欲望のことです。 |
人間には、眼、耳、鼻、舌、身という五根が働いて起こす、「きれいな物を見たい」「良い声を |
聞きたい」「良い匂いを嗅ぎたい」「おいしい物を食べたい」「柔らかい物に触れたい」という五つの |
欲望が本能的にありますが、これがさらに高じますと、あたかも池田が世界の勲章を欲しがるように、 |
物質欲や名誉欲や支配欲が出て、色々な悪事を働くようになるのです。 |
この欲に支配されますと、地道な生活ができなくなり、やがて悲惨な状態に陥るようになるのです。 |
次の「瞋恚蓋」とは、怒りの心に支配されて心にフタをしてしまうことを言います。普段は冥伏して |
いる瞋恚の心が、自分の思いどおりにならないと頭を持ち上げ爆発するのです。 |
また、異体同心の団結を破る怨嫉も、この瞋恚蓋の現れなのです。怨嫉は、自分を中心にした |
考えに執着するところに起こるものです。 |
怨嫉を起こすときは、自分の信心が弱くなっている証拠なのです。信心が弱くなると、それに |
ならって生命力も弱くなり、逆に貪瞋癡という煩悩が頭を持ち上げてまいります。そのために |
責任の一端は自分にあるのにそれに気が付かず、他人のせいにしてしまうのです。 |
自分を省みることを忘れ、責任を他人のせいにしている間は、いかなる問題も解決いたしません。 |
自分の信心がしっかりしているときは、人の良いところを見習って信仰に活かしているものです。 |
人の悪口や噂話が出たとき、話題を明るいほうへ転換できる人が賢明な人なのです。 |
次の「睡眠蓋」とは、起きているのに心身ともに眠ったような状態で常に精気がなく、 |
御本尊の前に座ると決まって眠くなるというのがこれです。 |
信心をする目的は、御本尊に具わる仏力、法力をいただいて功徳に浴した毎日を送る |
ことにあります。 |
したがって、仏力、法力をいただくためには、それを引き出す強情な信力、行力が伴わなければ |
なりません。信心が弱くなると御本尊に向かう姿勢は、どうしても横着になります。この怠惰の |
心がフタになって、御本尊の仏力、法力をいただくことができなくなるのです。 |
しょうげがい
次の「悼悔蓋」とは、常に心が落ち着かない状態を言います。悼悔蓋の「悼」には跳ねるという |
意味があるように、この垢に覆われますと、ちょうど池田が檀上で見せるように、常に落ち着き |
なく身体を動かしたり、目的もなく動き回ったりするのです。そして、些細なことに悔い憂い、 |
ぐち
愚癡が多くなって正しい信心ができなくなるのです。 |
仙崖が、老人を読んだ六歌に、 |
しわ ほくろ
一、皺が寄る 黒子ができる 腰がまがる 頭がはげる ひげ白くなる |
二、手は振れる 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる |
ずきん えりまき おんじゃく
三、身に添うは 頭巾 襟巻 杖 眼鏡 たんぽ 温石 しびん まごの手 |
四、くどくなる 気短になる ぐちになる 出しゃばりたがる 世話やきたがる |
五、聞きたがる 死にとうながる 寂しがる 心はまがる 欲深くなる |
六、またしても 同じ話に 子をほめる 達者自慢に 人はいやがる |
とありますが、人間はだれしも老境に達すると、多かれ少なかれ、こうした傾向が出てくるよう |
ですから、日頃の信心によって、できるだけこうした垢を付けないようにすることが大事です。 |
次の「疑蓋」とは、何事にも疑いを持つ心で、これがまた大きな障りになるのです。 これには |
自分を疑い、師を疑い、法を疑うという三つがあります。 |
まず自分を疑うというのは、自分自身に正しい教えに対する信念がないために、何事にも |
不安を感じ、最後には自分を死に追いやることもあるのです。 |
また、こうした疑いの心が強いと、「この仏法で本当に救われるのだろうか」と仏様の法をも |
疑うようになり、 |
「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからず」(御書 669) |
との御金言に背いて、凡夫の浅はかな心で仏法を批判するようになるのです。こうなると |
完全に真理が得られなくなり、やがて地獄の境界に陥る原因を作ってしまうのです。 |
このように「五蓋」に覆われますと、貪瞋癡という煩悩に支配された狂った一念で物事を |
見るようになりますので、謗法に謗法を重ね、それが因となって、いよいよ地獄の泥沼から |
ぬ
脱けられなくなるのです。 |
いわゆる、今の邪教創価学会の池田のように、本門戒壇の大御本尊を単なる物体と見下し、 |
「曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない(中略)『久遠元初の法』 |
を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける」(平成五年五月五日付聖教新聞) |
などと、恐るべき天魔外道の邪義を嘯くようになるのです。 |
日寛上人が『当流行事抄』に、 |
まさ
「久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益したもう(乃至)応に久遠元初の |
三宝を信じ奉るべし」(六巻抄 195) |
と仰せのように、人法一箇の大御本尊を離れて、久遠元初の法などあろうはずはないのです。 |
さらに、池田は血脈法水を紹継あそばされる御法主上人に対し、学会員を扇動し、あらん限りの |
ひきざんぼう
陰険な手段をもって誹毀懺謗しておりますが、こうした発想は、まさに五蓋に覆われた頭破七部 |
の迷妄によるもので、この大謗法の悪心と同時に、その心には無間地獄に堕ちる業因が内臓 |
されるのです。 |
五蓋を取り除く方法 |
まかしかん
さて、この心のフタとなる「五蓋」を取り除く方法について、天台大師は『摩訶止観』に、法華経 |
ごしゅほっし
の五種法師を根本に「二十五方便」をもって心身を調えることを教えておりますが、天台大師が |
出られた像法時代の人々は機根が勝れておりましたので、各々の観念観法によって五蓋を取り |
除くことができたのです。ところが、末法の衆生は機根が下劣で、貪瞋癡の煩悩が強いために、 |
自分の力では五蓋を取り除くことはできません。 |
そこで末法には、久遠元初の自受用報身如来が日蓮大聖人の御身をもって御出現あそばされ、 |
人法一箇の本門戒壇の大御本尊を顕されて、末法の一切衆生に聞法下種されるのです。 |
故に『新池御書』に、 |
たと そうろ
「縦ひ世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども、此の経にあひぬれば、衆罪は霜露の如くに |
法華経の日輪に値ひ奉りて消ゆべし」(御書1456) |
いしんだいえ
と仰せのように、この御本尊を真剣に拝し、自行化他にわたる信心に精進するならば、「以信代慧」 |
の功徳によって、五蓋に覆われた眼、耳、鼻、舌、身、意の六根は、自然に清浄になり、煩悩を |
断ずることなく、凡夫の身そのままの姿で成仏することができるようになるのです。 |
自行化他の信心 |
自行の中心は、なんといっても朝夕の勤行にあります。 勤行とは、勤めて行うということで、 |
信心修行の根本です。この勤行をきちっと励行することによって、生命に内在する仏界という |
最高の力が発揮され、障魔に紛動されることのない功徳に満ちた境界を築くことができるように |
なるのです。 |
したがって、その大事な勤行をやったりやらなかったりでは、力強い生命力を発揮させることは |
できません。生活の根本となる勤行の姿勢がいい加減であれば、その結果として、現実の生活 |
は狂い、行き詰まりが生じてくるのは当然のことです。 |
総本山第九世の日有上人は、勤行の姿勢について、 |
かお
「一、当門徒の御勤めの事一大事也(中略)勤めの時目つかいにより貌の持ち様、手の持ち様、 |
いわん
ひざのくみ様にても其の人の余念を顕すと御沙汰候、況や外見これ有るべからず、余事余念 |
なくして唱る処の題目を事行の妙法蓮華経と申し、即身成仏の当体と仰せられ給い候」 |
(歴代法主全書一巻 334) |
と御指南なされています。 |
いわゆる勤行の時、合掌ができなかったり、目をつぶっていたり、だらしのない格好をしている |
ことは、雑念が顕れている証拠で、それらを正して題目を唱えなければ即身成仏の因とはならな |
いと仰せなされているのです。 |
この自行を励行すると同時に、さらに大事なことは化他行の実践です。日蓮大聖人は |
『寂日坊御書』に、 |
「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘む |
べきなり」(御書 1394) |
と自分と同様の折伏を展開せよと厳命なされています。 |
日蓮大聖人の御生涯は『立正安国論』に終わると申されますように、正法を樹立して平和 |
おこた
な国家社会を建設する広宣流布を目的とされるわけですから、折伏を怠る者は日蓮正宗の |
信徒とは申せません。 |
また、日寛上人は、折伏を忘れることは謗法につながることを『如説修行抄筆記』に、 |
「心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を |
言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわざれば、身が謗法に |
同ずるなり」(日寛上人文段集767) |
と仰せなされています。 |
折伏は難事中の難事でありますので、折伏を行ずる者の功徳は極めて大きいのです。 |
それを大聖人は『上野尼御前御返事』に、 |
「法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり」 |
と仰せなされています。(御書 1574) |
このように大聖人の仰せのままに自行化他の仏道修行に精進するならば、五蓋はたちどころに |
ばんじゃく
消えて、あらゆる宿命を転換し、成仏の境界を磐石に築くことができるようになるのです。 |
成仏は正しい仏道修行によって決定されるのですから、五体が満足に動く今こそ五蓋を |
取り除き、現当二世の成仏を築く絶好の機会であるととらえ、総本山への登山参詣はもとより、 |
所属の寺院に参詣して御本尊に手を合わせ、自行化他にわたる信心をしっかりすることが大事です。 |