2002/02/32−パゾリーニ
私は映画はスポーツと同じくらい嫌いなんですが、勉強と思って懸命に我慢してパゾリーニ作品をざっと観て、ついでにパゾリーニ関連の 書物も少しは目を通してみました。大変でしたが、まあ、パゾリーニの「ソドムの市」は面白いような気がするね。内容面のグロさはともかく風景構成が倒錯の場から糞の場く わえて血の場に至るというゲーテ神曲型基盤の上に対称図法が全編に貫かれ場面変化の結節点には語り部の流れに徐々に死す べき無音に至る音楽が乗せられて展開されていくという構図はほとんど完璧に近いのではないでしょうか。なるほど 後期資本主義の重要なファクターである情報社会化と消費社会化の大波小波に人間の内面心象が圧倒的なヘゲモニーの下に 蹂躙されていく新左翼運動の挫折以降において生の三部作的な作品展開が既に失効しているという事実を深刻に 受け止められたところから造られたバフチン的なグロテスクさの検知器を振り切った死の饗宴を描いていく手法は戦略的には 鋭敏そのものとしか言えない物です。確かに生の三部作にあるような前近代への郷愁、と言っても、カルヴィーノが総括的に 批判したような古き良きイタリアへの郷愁ではなく、イタリア国家というフィクションがダンテが焦点化したトスカナ語を母なる 国語として実体化することで成立していく以前の多様な言語文化の錯雑たる対話的関係を生きていた想像界的な農村社会の 直接性や自然性への偏執じみているものであって、そこにはカルヴィーノ的なイタリア共産党御用達文学者が想定するような 前近代という伝統的表象への郷愁ではなく伝統そのものが多様な関係論的世界の中で生成変化しながら複雑に絡み合っていくリゾーム的世界のあり方への郷愁が働いて いるのであり、それはパリゾーニが詩人として母親が生まれ育った辺境の方言言語を使用して詩人たろうと したことからも十分に推測できることだ。それにしても生の三部作が性と生の欲望が近代の監視装置にも前近代の共同体的戒律にも 抑圧されることなき過渡期において様々に絡み合っていた光輝なるカーニヴァル的様相を描いていた「デカメロン」や「カンタベリー物語」とか 「アラビアンナイト」辺りの作品にはバフチン的なポリフォニーに失われた生の愉悦を肯定的に見出そうとする貴種流離する郷愁が 色濃いのは確かだが、そういった善悪の彼岸で弾ける生の無垢なる欲望の過剰さが同時に資本主義のリミットを打ち砕く超出 的契機ではなく、そこに再編成されて場所を許されたに過ぎない内在的な代補に過ぎないのではないかと思い始めるとこから生の 三部作なんかを撤回して急にソドムの市に旋回していくわけだから、六十八年以降に活発化するラカン−アルチュセールラインの左翼団体や ネグリなんかとは全く異なるのも同じくらい確然としているな。多分単純化して言えば「ソドム」で描かれている光景って生の三部作にある 善悪の彼岸にある無垢さの過剰と放埒そのものが実はプロテスタントの合理性の禁欲精神に支えられた資本主義の精神によって 巧い具合に開発され促進され簒奪されていく類の 、内部に対して設定された外部という文化人類学的な共同体装置の一環を 担わされているに過ぎないんじゃないかという疑問から来てるんじゃないのかね。どっかの馬鹿が「ソドムの市」での食事内容が微妙に倒錯していくのは消費社会型の後期資本主 義が必然的に堕落していくことを示したかったんじゃないかとかほざいていたが、 それじゃなんでパゾリーニは生の三部作を撤回したんだよ。 まあこういった馬鹿の誤読を引き寄せるところも魅力の証ではあるんだろうが、しかしパゾリーニが共産党から除名されたが 終始一貫して左翼だったってことが分かってるのかね。そんな解釈は初期マルクスを純粋にエコロジー思想家として読みましょうと 言っているような愚劣さと紙一重だよ。 あそこで示されているのは純粋に他者の欲望に方向付けられる消費社会化された近代的主体が自らの剰余として排除するアブジェクト なるものを結果的に追求することで生そのものを減衰させていく過程を示しているだけだろうが。 パゾリーニって凄い作品造ったらしいよというコンスタティブな言明に感化されてそれじゃそれを観ようと言う人間 は消費社会の欲望に踊らされている事態と同じもんなんだよ。 そもそも消費社会とは欲望の根拠が 自分から他者一般に移ったという事実性に端的に要約される事態のことだが、更にマルクス的な図式を援用すれば資本が自らの外部にある 労働過程を内的な力として孕み込み、個々人の利益追求という具体的な労働内容を国家の一般利益へと組織化し、抽象化し、再編成していく 形式的包摂の段階にあった国家が技術革新を通して古き労働過程を破壊し、新しい労働過程を純粋に内的なスパイラルの中で産出していく 実質的包摂の段階へと移行していったところのモノなわけだが、ここで初めて俗に言われる資本の自己運動、つまり資本家と労働者の 対決構図が弛緩し、労働者の位相から乖離した次元で資本が自己を展開していく様態が実現されていき、その下で労働は アンテ・フェストゥム的に繰り返される。これが社会が消費中心型へと飽和していく資本主義の過程だ。近代とはまずもって欲望対象を 自ら意志的に労働により獲得しようとする神経症的なモデルに支えられていたが、徐々に欲望対象を否応なしに獲得しなくてはならない というもう一つの欲望に突き動かされはじめる分裂症的なモデルへと変化し始め、それが消費社会と言われるところのものとなる。 つまり資本主義がその運動を徹底化していけば、象徴的欠如を想像的に構成する欲望対象へと 神経症的に反復強迫する主体の近代的モデルは純粋な欲動の自己完結的回路へと脱主体化されることになる。 つまり他者の欲望という常識のまなざしとの関係で自己形成をすることから常識に介在されない純粋な 自己充足的な欲動の大海の中へと投げ出され分裂症化することになり、おぞましきものを美的と判ずる侵犯行為が侵犯としての快楽という目的を失い、 手段そのものが目的化される他者性に包まれる無関心さの境界へと至ることになっていく。そしてそれこそがファシズム的な 世界像、ファッショという言葉が元々バラバラだったものを束にまとめる統一性への志向を示すように、他者性という 不気味なるものに統一されながらもその不気味さをほとんど知覚しない、意識することを禁じられた世界に至るという過程が 象徴的に描かれているんだよ。例えば「テオレマ」の作品世界はまさに異者の到来による 共同体的内部の根源的な変化及び再編成を描いているように見えるが、 なるほど「テオレマ」自体はブルジョワは異者の到来により崩壊し、プロレタリアの女中さんだけがその到来を創造的変化として受け取るみたいな視点があるのは 確かなのよ。こういったことも踏まえると、「ソドムの市」以前のパゾリーニはやはりモードとしての 疎外論に多かれ少なかれ依拠しているように見えるんだよな。まあブーム化した疎外論的マルクス主義とは一線を画したところに パゾリーニはマルクスを見据えていはしたが、ここから大きな変化を迎えることになり、その第一作が「ソドム」でしょ。 実際「ソドム」で行われてるような陰惨は後期資本主義で潜在的に各々に成されてるわけであり、。ただそれは 顕在化しない又は全く性と暴力の構図を採らないだけで別のカタチで反復されている。それをジジックみたいに 主体定立のために欠かさざるべき条件なんだからまあ享楽すればイイじゃんなんて言ってる奴もいるけど、 とても享楽なんぞはしてられない阿呆くさいものであることに間違いはない。確かにこういったことが観る側に 明確に共有されたらとてもじゃないがこの作品は成立しないことになるだろうな。 一種の謎かけだとはパゾリーニ自身も言ってるがそれは多分正しいんだろう。 しかしパゾリーニ作品は観ると虚脱させられるタイプのものだねと思いました。 次はゴダールとかを観ようと思いますが、しかしまあ作者の思想、 作品の内容から遡及された穿った作者解釈だけに終始するのもいやなので、映画技法はと考えてみれば、まあ、 パゾリーニはドゥルーズ的に言えば経験的自己と超越論的自己との絡み合い、登場人物とカメラ視線の絡み合 いが産み出す第三の位相としての主観でもなく客観でもない次元といったところぐらいからしか思いつかない。 確かにそういったものへの変遷はパゾリーニ作品に刻まれてる痕跡ではあるんだろうけど。有名な自由間接主観ショットとか。 つーか、この手合いの撮影方法はまあ何というか石川忠志が吉本に見出す現在の雑種性そのものが含む可能性の肯定みたいな論理と同じ位相に あるというのは面白いな。しかし映画作品を 観賞するよりその監督が書いた論文や発表テクストに時間を割かれるのは面倒だ。でもこういった面倒を 省くと映画オタクの自主制作品によくありがちな見当違いさから逃れられないからな。まあ俺の解釈が見当違いじゃないとは思わないけど。 そりゃ確かに小津は良い作品を造ってるよ、まあしかし映画ってのは共同作業であって監督者や脚本家だけを特権的な固有 名として扱うのはどう見てもオカシイと思うけどね、なんだら監督制作とかそういったのとかさ、だってその論理で言ったらリュックベ ッソンなんて単なるペド好きのロマン主義だろ。つーか、ペドマニアで銃器オタの極左的ロマン主義者の一例だろが正確な表現か。 宮崎は手塚的な漫画=記号論的パラダイムを支える講壇的契機から手を切って描画エクリチュールの次元で作品を動態化させたとは 「もののけ姫」以降なら言えるだろうけどやはり少女のロマン派的無垢さに拘泥するペド野郎ということになりますか。まあ、よく知らないが 面白かったね。
2002/02/28−祭り例えばこう考える。今まで書いてきた文章から誇張というものを除いたときに、一体何が残るか。誇張が若年期の特権であってみても、妙に不快な気分に見舞われる。 考えるということが大抵において鏡の中の弁証法になるのも人は表象の世界でしか生きられないからだとしても、いつまでも目の前にぶら下げられた人参を追い掛け続ける 慰戯の堂々巡りにはいい加減うんざりしてくる。だからといって誇張を除かれた文章に何も残っていないわけがない。むしろ実際的に記された諸々の内容を含めた 全て以上のことが除かれた最後の剰余の中には残っているぐらいだ。言うまでもなく言表と言表行為が異なるのと同じように、文章は書かれた内容にではなく書くという行為 そのものに本当の意味が隠されているわけだが、言と文を国語的コードの裡に相互媒介する透明性の共通尺度を支えるところの俗語革命以降に浸透したような歴史的に 百年にも満たない想像力の圏域に毒された馬鹿にはそのような歴史性が自明性の前提として転倒されたところにのみ見られているのだから如何ともし難い。例えば文学の 範例で言えば、言語表象と対象表象との不透明な結合関係を共同体的想像力に容認されるようなコードへと固定化させることで言葉にあたかも先験的に意味が一義的に 内在しているように錯覚させられ、言葉の使用とは何らかの具体的対象やイメージという指示対象と密接に結びついた相互疎通の媒体として簡便化されなければならない とでもいうような常識的な考えが作中の諸事象に内面的に共感し鏡像的に転移する読書の神経症的体験を保証させる近代文学の現前装置との共犯関係の上に成立した 歴史的な誤認であるのみならず、複数の言により異質混在的に形成されていた前近代的な共同体秩序を新聞や文学といったメディア媒体を通した中央公用語の浸透により 切り崩し、再度単一の国語の下に縫合していくことで生じた単一の国語を歴史的に継承してきた一つの民族共同体という幻像を国家という位相にまで飛躍させていく国民国家の 美学装置の一端を担わされているという事実性にすら自覚症状のない七生報国的な愚劣さの顕揚にはほとほと辟易してしてくる。三島のイロニーが何の指示対象にも短絡しない 言葉の装飾的過剰を実践することで近代の愚劣さを嘲笑しながら、その極点ですらある天皇制に惜しみない頌歌を延々と捧げ続けたところにあることを考えれば、こんなことは 誰でも分かると思うんだけど。具体的な対象表象に結びつかない言語使用に 大抵の人間が苛つくのは要するに相手の言葉の中にその相手の内面的な実体という仮構を彫刻しそれとの転移関係を実現することによりそれを鏡像が無限反射する想起の閉域 の裡に回収することを通して内面的な深みを微温的に培養しようとする神経症患者の反復強迫の足掻きの一表徴に過ぎないが、個々人の足掻きを背後で支える構造こそが 大衆社会と近代国家の相互協約が各人の性格構造の奥深くに刻印した有用性への衝動という肛門期以降の徴候であり、更にこの衝動はいずれにせよヘーゲル的な意味での 労働への頌歌として分岐していくことになる。しかし労働の終着点は空虚さの開示でしかありえない以上、ここで出来る限り自らが同一化し内面化しその意志を実現する労働を 生きることにより生の鏡像性を終わりなく賦活させてくれる父の無限更新が起こり始める。このような主人を絶えず取っ替え引っ替えしていく奴隷の悪循環が様々なロマン派的 詠嘆を産み落とし、それこそが生の本質だとでも思いこむプロテスタントの憂愁を量産していく。要するに日本人の大半はプロテスタントの労働倫理とロマン主義の憂愁の二つから 分泌された雑種じみたナショナリズム的な精神体質に無自覚に浸りきっているわけだが、とてもじゃないが個人的には踊ってられない茶番劇の陰惨にしか見えてこないね。 俺は鏡の前で自分の首を絞めたり緩めたりするお遊戯が自分の真正さを保証していると妄信できるほどお祭り好きでもないから。
2002/02/26−美学化されない退屈さ
くるりの新譜。ところで日本において明治以降の近代化が共同体的秩序を単一の時間性の裡に貫いてきた間主観的前提たる運命性という垂直軸の 詩的根拠を世俗的時間の連続性という平面的世界へと疎外していく散文化の荒波をそのまま含んだ上で、その散文化という契機がかえって動態化された社会的現実の 変動の中でたまたま浮かび上がってきた諸個人の耐えられない生の軽さ、つまるところ自由であるという呪われたサルトル的運命につねに知らぬ間に投げ出されている己の 無根拠な生を十二分に意味づける詩的根拠の重錨を要請してくるという逆説的事態に直面させたという事実はよくよく知られているが、例えば散文的契機が各人にもたらした 詩的根拠への欲動が明治期初頭には立身出世的な書生主義という福沢イズムやキリスト教への帰依というカタチを諸々に採っていきながらこれらの課題も結果的に日清日露戦争 以降に浸透していった民族の運命性を国民の連続性と混同させる共同性の位相の言文一致的な回復として一般的に 実現されていくことであたかも近代の欲望装置は一つの完了を迎えることになる。敗戦後の一から近代化のやり直し作業はこの路線の延長上に展開され極端に過熱していく過程で 経済の中心が生産から消費へと移行し労働の終焉がうそぶかれる消費社会が国際的な内外諸事情との相関関係を通して七十年前後に到来することにより花開いた俗称ポストモダンの 無重力空間は生を労働に呪われた楔から解放され一過の消費の享楽に浮かれる欲望する 諸機械の断片性へと変質していくにはいったが消費社会の幻像を現実化させていた福祉主義とリベラリズムの折衷混合型たる戦後民主主義の政策経営は自らを支えていた 母胎基盤でもある米ソ二元構造の世界風景が当の昔に崩落していたという眼前に拡がる不良債権にしっかり小気味よく復讐されることになる。全てを一様に等価な商品として 並列させ、商品が陳列される経済市場から失われた原風景を自らの欲望の動きに合わせて再建し直そうとするプロテスタンティストの憂鬱なる勤勉さは全てがあって何もないという 中村一義的テーゼが示すような商品生産の弁証法というベンヤミンが記述するところの都市大衆的社会の極度の爛熟のさなかに失効し、故郷をつねにすでに失っていた後発世代の暗澹にとって自らの最終的な よすがとなるような故郷は不気味な故郷喪失の相貌を呈した都市の現実そのものへと変化し、全ての行為選択が同列的に数値化された生の様相は自らの質的位相たる故郷を 回復する方法自体がそのまま量的な媒体を通してしか実現されないという不可能事を神経症的に濫費していく不幸せな笑顔に楽しく歪んでいくことになる、と。日常的現実を支える 小さな物語が世界史的現実を支える大きな物語からエネルギーを備給され意味づけられていた近代という青春、又は労働という呪縛に対して異議申し立てが出来る幸せな時期は終点を 迎え、労働の終焉による消費の享楽は当然のように生の揺曳点を見極めさせる美的強度をもたらすわけもなく、そこには生と性の物語という質的位相が商品価格の数値へと還元された 単調冗漫で起伏も何もない平板な世界で生きることを強いられる虚脱を謳歌できないゾンビ世代のバイブルも流行ることになる。極限性というロマン派的な高揚感の不在という事態を 一種の極限として軟体動物的に生かされるというより、むしろ生きることを選んだ茫漠感に関する粗雑な描写は特に岡崎京子に顕著だが、このような顕著さが既に日常風景の一つの 生存格子にまで成り下がった最近今日この頃、ポッピーな音楽市場で流行る形態は周知の通り以下の二つ、つまり欲望の欠如を代補する世界という表象を改めて何度でも再措定し、 そこに向かってアポリアな自己実現を七転八倒な健気さの中で無限反復していく多幸な陰気さに咽び泣く浜崎的パターン、そして欲望の欠如、ということは欲望それ自体の他動詞的性格、つまり特定他者又は他者一般に つねに媒介され方向づけられた生の欠如を想像的に隠蔽した自閉空間で私があなたで、あなたが私の双数関係を何らかの極限性の風景をバックにしながら切り結んでいく陽気な陰鬱さに溺れていく宇多田ピノコ的パターン、 加えて手持ちの可能的な切り札を好きなように組み合わせては雑種的に掛け合わせていくことで生じる表象性の記号論的差異の戯れに身を淫していく痴呆的な脳天気さに大喜びするモー娘。。。的なパターン、この三つが主な主流派を占めているわけだ。 前者二つが禁欲的か、放蕩的かの微小な相違を除けばそのロマン主義的な性向において通底している一方、後者が極めて日本的なナルシシズムを表しているのはともかくとして、このような典型から逃れ得る 切り札を見つけようとするのはなかなか大変だ。当然、ぶりりあんとぐりーんも浜崎対応型、Tommy February6は差異の戯れ派です。とにもかくにもこの三つのパターンはそもそもが大抵の近代人の性格構造をそれぞれ 規定している通奏低音の極端な現れ方に過ぎないわけだし、各々の類型は男性アーティストに見出そうとすれば、最近パクリ疑惑で何かと喧しいドラゴンなんとか、グレイ、B'zの諸々が象徴的に体現している。 そんな中でくるりの何が面白いかと言えば、日常そのものを徹底的に日常的に捉える潔癖さ。生−性の物語性が解体した悲喜劇をケレン味たっぷりに描こうともせずに、だからといってそこから空想上の愉悦へと 自閉しようと淫しもせず、あるいはある単一性の力動に貫かれた多様性の演出を物欲しげにただただ眺望する小児性の濃密さへと退行することもなく、ひたすら日常の日常性がロマン主義的な臭味を極力排していこうとする禁欲さの中で 少しづづ顔を覗かせてくこじんまりとした繊細さが逆にどうしょうもない緊張感で全体を縛り付けていく風景を構築させていく、この巧みさ。退屈を充実として、又は充実を退屈として語るのは易しい。それは容易に美学化の抽象を許すクダラン詩に過ぎないからだ。 更に充実を充実として語るのは高揚の陶酔がどこまでも語りを加速させるがゆえに余計に易しい。しかし退屈を退屈の微温の中で何も手放すことなく語ろうとする試みは なかなか難しく、そしてその難しさこそがくるりの音を特徴付ける基調を形成している。
2002/02/25−ドラマ版「漂流教室」の酷さ
最近テレビをボーヨーと観流していればやたらとダイジェスト版が目に付く漂流教室ドラマ版の酷さと言えば何とも言い難い酷烈さを孕んだ惨たらしい甘ったるさに血涙の憫笑を禁じ得ないとは正にこのこと以外の何ものでもないとすら言えるほどだな。 まあ単一の時間的継起の流れの中での複数の出来事を単線的に束ねていく物語形式はともかくとして、円滑な再生産が機械的に適用されない非資本的外部に寄生することで初めて成立される資本主義の自己運動によって数量的物質 として骨抜きされ商品化され食い尽くされていった自然及び自然資源の枯渇が必然的にもたらしていく黙示録的非日常へと突然に疎外された登場人物達が最近流行のエコ思想による現実批判の含意を反芻しながら、物質的にも精神的にも 極限状態に媒介された世界の中で各々に強いられる生と性の濃密なドラマを分裂的に繰り返していく過程を通して徐々に失われた日常を再度取り戻そうというヒューマニズム的目的へと連帯と労働が個々人における孤独と絶望を含みつつも迂回的に 再び統合化されていくというような物語形式の紋切り型は、要するに恐慌という最後の審判を遅延させるための終わりなき技術革新により労働−開発の過重責務を自然の上に深く刻印していった資本の時間性がもたらしたところの黙示録的光景を 乗り越えるために、なんと無=死への恐怖を永久無限に遅延させるために未来の目標を絶え間なく改変していく労働の美学に圧迫される近代的な自己意識の賦活によって応じようとする倒錯へのススメといった感じだというところにどうしょうもない 虚脱感を覚えざるを得ない。そもそもが恐慌を回避しようとする資本の反復強迫と死への恐怖に規定された頽落へと転がり込む労働の自己運動に突き動かされた自意識の反復強迫が同一線上で親和する関係にあるという事実はウェーバーを 引用するまでもなく、通俗マルクス言うところの下部構造による上部構造の規定という神話を一瞥すれば瞭然だが、資本の暴力を批判しながらその実資本により強いられる形式性の上で発奮し、踊っているのか踊らされているのかすらも 分からないまま空想上の勝利を噛みしめて意気揚々とする現代の阿Q正伝には茶番劇の醜悪さしか感じられないのが良識人の性だろうよ。何度も書いた気がするが、テレビは資本制経済の現実を安定的に循環させる労働力商品を 再生産させるような、つまり、労働力商品たる子供を産み出す家庭という場を作りだすように導き、 父権的−社会的−国家的価値を内面化された自己責任的な主体という市民−国民の理念形をその子供へ注入していくことによって正しき労働者の肖像を教育的に再生産するためのイデオロギー装置だというのはアルチュセール云々以前に分かり切ったことなので別にどうでもイイんですが、しかし、日常からの疎外、葛藤と連帯、孤独と友愛、生と性、死と再生、 そして疎外の超克、という手垢まみれな近代の構成要素の乱発ぶりには何とかならないものか。まあだからといってこのドラマの旨みがほとんど主役級二人がある種の極限表象を通して私があなたで、あなたが私の双数関係を 切り結んでいく恋愛アポカリプスに焦点を絞っているかぎりはその風景を形成する諸条件はほんの御慰みにしかなっていないこともいい加減に分かるんだが、しかしイライラする。第一に「こんな世界にしたのは誰だ、私達だ」と叫ぶ 登場人物の科白には国内的な又は国外的な諸関係を複合的に結ばれ、且つ結んでおり、更に結び続けていく資本制経済が何としようが他者を結果的に手段として労働し、且つ、自分の幸福さ、当然そんな科白を今さらながらに 吐ける脳天気さの幸せも含めた幸福が他者の現実的な不幸の上にのみ成立していた、且つ成立しているし、更に成立し続けるしかないという自明な事実が想像的に忘却されているに加えて、その忘却を「私達人間がこんな世界にしたんだ」 なんぞという「人間」という概念の歴史性を自明性へと転倒することで想定されるところの普遍性の位相を代行−表象する記号の尤もらしい曖昧さを殊更顕示することで 取り繕うとするイヤラシイ欺瞞が端的に滲み上がっており、これに吐き気を覚えない奴の方がよっぽどオカシイ。「人間」という記号により世界の諸相を概念化の網目へと還元していく手つき、単純に言えば、このような「人間」で全てを 代理表象させていこうとする教養主義的発想の愚劣さは技術革新的な差異に方向付けられた進歩の美辞麗句の下に自然をやりたい放題に破壊しつくし、その恩恵を特権的に享受してきた先進国の人間達が自らの負債によって今まさに崩壊しかかっている自然の現状を見やって、急に自然擁護を 手のひらかえしたように唱えだし、その唱道をやりたい放題に蹂躙されてきた後進国の側にまで強制しようとする安易な政治思想的なエコロジー趣味に端的に表れているものだろ。テメエの享楽の裏側に沈積してきた負債処理が 目前に迫ってくると慌てふためき、その享楽に構造的に与れなかった人間にまで事後処理の問題意識を何らかの大義名分のモトに急に押しつけ共有させていこうとするイヤラシイ低劣さ、自分が今まで手を汚してきたことをすっかり 健忘し、その健忘に平然と開き直れる面の皮の厚さ、醜劣俗悪ここに極まれりだ。漫画版の「漂流教室」には読み手の過剰な転移をひたすら弾いていく淡々と乾いた筆致が物語をほとんど深みを欠いたまま揮発性の空間として 織りなしていく鬼気迫る禍々しさが安直な社会学化を拒むような執拗さの螺旋を描いていたが、それもドラマになれば単なる湿っぽい郷愁の演歌に変質するのだから、まあ、かえって面白いのかもしれないがツマラナイことに変わりはない。 要するに酷すぎ。それにしても窪塚?とか言う芸人は頭にボウフラ涌いてそうだな。というか涌いてるのか。
2002/02/22−肛門期以降の笑い
それにしても伊集院のUP'Sリスナーな3・3・7ビョーシ!とかいう漫画家は言語ゲーム的現実の共同主観的アーカイブに準拠 したメタ現実的な視点から既に用意された一定の表象を予定調和で脱臼させるところにしか笑いの素地を形成できないコールリッ ジ的空想優位の発想形態は案外惨又惨たるものがあるな。 いやあれは既に用意され凝固した一定の想像的余白を準備された表象を弄くり廻すことで脱臼作用を見出そうとするメタ物 語の笑いを多分に含んでいるけど、まあしかしこのような想像力の貧寒さという事態は最近の深夜番組によくよく顔を出してる若手芸人の大抵がテレビ業界をあ る時間性の感覚の裡に貫く間主観的前提に準拠したメタ現実的視点からしか笑いをもたらす表象に接近できない事態と近い症状を 示しているよな。まずもって笑いの核を形成する原因が表象として設定され、そこから笑いという結果が透明に顕現してくるという 表出因果性を主調にした及び腰の芸人がまあ如何に最近多いことか。 物語として既に視聴者に共有されている線条性の統一的表象を構成するところの染みつき諸要素を面状性のズレを通して新 しく相互関係付けていく異化作用を通してしか笑いを実現させられない中川家系芸人の生ぬるさは尋常ならぬ平板さを否めない感 じがしまくりなんだがね。例えば松本が徐々にごっつ晩期で迷走していく過程にはある共通コードの時間性に常に既に媒介された表象をお約束で脱 臼させるところに笑いを神経症的に見出していく予定調和の紋切り型を排して、そのような笑いをもたらす表象がその現前性の裡に は常に圧殺している生成過程にまで遡行し、その根源から不安定に生成変化してい表象の不定型な運動を通して表象としての笑いの根拠が発生されていく諸々の痕跡を一からなぞり直そうとする意志があ ったわけだろ。それにも関わらずダウンタウンルネッサンス以降の若手芸人が先駆者の足跡を全く黙殺しそこから表象のお遊びへと退 歩したところに芸風を創り出そうとしている貧困な愚鈍さには血涙の憫笑を禁じ得ない貧寒な愚鈍さがあるよな、お決まりの現前的 イメージに便乗するのではなく、そのイメージが如何に生成され現前されていくのかという自意識の運動と一体化する過程の中で 分泌され散種されていく笑いの本質を一回的に見極めていく過剰さへの意志はまあ単なるクラスの人気者が背負うにはあまりに 重い十字架でもあるんだろうけど。ある対象表象を支える時間性の円環を内部的に分裂生成させ無時間的−多時間的な 生成空間へと切り結ばせていくような、笑いの原因を結果から遡行的に見出していく構造因果性の笑いは 大抵がシュールという免罪符によって寛容に見逃されるけど、この笑いの形態自体はネタの企投そのものを 何の外在的な規範や基準も介さない裸出性の混沌から始め、その混沌に無造作に羅列されたネタそのものと一回的に関わっていくという点で案外において倫理 的な動きを示してもいるんだがそこでは笑いをもたらす差異への緊張に関する感性の運動それ自体が問われる危うさが常に伏在し てるからな、まあ芸人の多数がそこから逃げようとするのも分かるんだが、ある里程標以降 においてこの現状から逃れるのは単なる退行以外の何ものでもないと思うけどな。 まあ松本自体はこのある種の分裂症的な企図に挫折して痛々しいほどに徐々に退縮して笑いの 本域からドンドン追放されていってるけどまあその意志自体が芸人としては 至極真っ当なものだからこれは名誉の負傷みたいなもんだしな。そもそも笑いは感性的な作用−反作用ではなく、 対象表象と言語表象とのズレに対する距離の取り方と緊張感から生じてくるものだろ。バタイユは笑うことは思考 することだと言ったが、この言葉が示される地点はある意味笑わない笑いという反語的なとこだからな。 しかしツマラナイ芸人が多すぎ。というか、口にしたネタを突っ込まれる時にテメエで言ったことにテメエでのうのうと笑えるボケが多すぎ。 ホントにボケてるんじゃねえのか。
2002/02/19−物語について
主語−繁辞−対象語に支配された物語の三角形が主体−媒介者−目的対象に構成された欲望の三角形へと投影されるように、生の諸相は多かれ少なかれ説話論的装置につねに分節化された時間性にあるとはヘーゲルが 精緻に論証して見せたところだ。平たく言えば、生は物語に各々従って生きており、それなしでは生きられないということだが、この重力圏はたかが意識的になったところで容易に逃れられない現実性を持って日々の雑事にまで 浸透していることは言うまでもあるまい。例えば欲望主体と欲望対象の双数関係がその関係を超越した第三者により媒介され方向付けられているというジラールの物言いが欲望主体を子供に、欲望対象を母に、媒介する第三者を父に 割り当てる家族小説の構造から延長されたものであるように、生の物語における欲望の方向はまずもって何らかのかたちでの「父」によって規定されているわけだ。この場合、「父」とは家庭内の具体的な父である必要はなく、 命を賭けた承認をめぐった闘争の中でその子供を敗北させ奴隷へ身を窶れさせるような強権者を指しているかぎり、消費社会における「父」が顔の見えない消費者一般であるようにどれにでも該当する。そしてこの闘争の敗北により 自分が認識の浅い甘チャンだと自覚させられ、奴隷の身分を強いられた子供が父という偉大なる認識者−超越者の意志を内面化させられることにより自らの主体性を自己意識というかたちで確保し、 そこから意志の実現の手段として採用される労働が自己意識の深みを生の物語として構成していくことになっていく。その労働による父の意志の実現、つまり自己実現の最終目標が 父殺しに行き着くことは簡単に想像されるに加えて、物語化された私の意識とはつねに何らかの「父」を殺そうとする労働により規定されていることも当たり前といえば当たり前だ。そんな物語化された私は様々な出来事を自らの 成長−実現のための媒介的契機として単線的に束ねていく時間性を生きており、全ての行為は労働という一点にのみ集中していくだけになる。言うまでもなく、ここでは全ての他者が「父」の審級にある者の意志を実現せんとする 自己意識−自己愛の労働へと回収されていく現場なので、そこではつねに自己愛に回収され得ない他者の他者性が失われることになる。何故失われるのかと言えば、父への服従 subjectにより自らを外的現実の具体的変動に 影響されない主体 subjectへと定位することは同時に父として一義的に確定されるまえの不透明な他者との諸関係において経験されていた無数の受動的契機という事前の出来事を主体の能動性の中で全て事後的に正当化−合理化 させる単一のパースペクティブを獲得することでもあるからなんだが、その単線的過程の中ではそこから逸脱する、というより本来的に逸脱した性格を帯びているような、体験の剰余性が経験の鏡像的閉域へと還元されることにも なるわけだ。要するに物語化された私とは差異を吸収することでそれを鏡へと再構成していく精神の消化運動のことだ。物語とは差異への貪欲さに貫かれた志向性に規定されているが、その差異は物語の内部にとっては何とか自らの 代補として想定された鏡像的な外部へと変容されなければならないとでも言うようなモノとして迫ってくる。この差異という外部性を内部との共犯関係を結んだ外部へと溶解させようとする衝動は生の不可避性であると同時に 不可能性でもあるのは自明のことだ。そもそもが体験の剰余性は物語の経験にとってアブジェクトなるものだから。そしてこの経験の現実性を支える条件が対象への転移という鏡の国のリアリティーに過ぎない かぎり、岸田も言うようにそんな物語も幻想に過ぎないわけだ。しかし前提に過ぎないことを結論めいて言うことの愚は誰にでも分かっている。ここで要求される位相が物語の自意識それ自体に関わる自意識、話すように 書くことではなく、書くように書くことであり、自意識を形成する多種多様な受動的契機を単一の受動性への認識の裡に還元することではなく、受動性への認識それ自体を受動的に捉えるような、自意識のぶれそのものをぶれの中で 体験することで経験の余白を消尽させてしまうような意志のあり方だ。それが物語の消失点であり、そこにおいて初めて倫理が生じる。ところで、そのような実践がどのような事態をもたらすか、またはもたらしてしまうかについて考える 必要があり (中絶)
2002/2/18−開始
頓死。
このページは です 無料ホームページをどうぞ