2002/02/36−運動する離接性、またはTommy February6の気怠さ
例えば「トミーフェブラッテ、マカロン」の一節に以下のような歌詞がある。
会いたくて〜会いたくて〜( ゜Д゜ )ですよ
しかし、この歌詞にも関わらず、実際本人の心情においては 会いたくなどはないという背反こそが重要なのだ。ラカンが 象徴化作用の及ばない剰余享楽という無の現実性を自己言及性の 身振りの裡にほのめかす身振りとして女性の化粧を定義したのは有名だが、 この表徴に貫かれた面貌に眼鏡という物質的契機が被さることにより欲望の 虚焦点として実体化された経験的対象への固着は自意識にとっての空虚性を 堂々巡りする鏡の中での弁証法に過ぎず、欲望対象において欲望されるのは その実在的対象ではなくその対象表象の背後に隠された無の牽引力で あることが暴露されることになる。つまりここにおいて聴き手の欲望はTommy February6という実体に 向かっているのではなく、その実体性によって隠蔽された空集合としての存在の周囲を多様に縁取っていく 欲望する視線の乱反射それ自体に向かっており、そのような倒錯性こそが眼鏡という物質的契機を通して 意図的に導出されると同時にその導出自体の底意をも暴露するダブルバインドを視聴者に強いる視覚装置 として機能している。女性的存在の本質である空集合をあたかも実体的に縁取っていく、というよりむしろ 縁取らせていく欲動の倒錯性をもたらす境位、これこそがラカンの言うところの「存在しない女」の効用というものであろう。
ラカンによれば父の名による原抑圧を蒙った主体は常に既に象徴界の中に被投され、その被投性において我々は父の名=一なる徴を 媒介にしたファルスを中心にしてシニフィアンの連鎖結合が意味の方向に向かって分節化していくことにより、自らの欲動を象徴界に おいて神経症化された欲望する主体を繋ぎ止める対象aとの関係の中で相応に活かさせていくことになるが、ここで問題なのは ファルス優位の象徴的−社会的契約の世界において主体とは必ずファルスの核を共有する男性的存在としてしか記述されないことである。 要するに女性は象徴界という男性的原理が支配する位相空間において自らを積極的に記述すべきシニフィアンを有しておらず、 したがって自らを否定形としてしか記述できない。このような意味において「女は存在しない」わけだが、更に男性が自らを ファルスを媒介項にした全体性の幻想を閉鎖集合的に構成するのに対して、女性は全体性を開放集合的な不安定さの中でしか 構築できない。何故なら自らを積極的に指示するシニフィアンを欠いた存在を語ろうとするとき、我々はその存在をめぐる諸特徴を 加算的に逐一列挙するしかないからであり、その加算的総合は限りなく遅延されざるをえない。簡単に換言すれば、男は意味の 中心点であるファルスを共有する、といっても妄想的に共有しているに過ぎないのだが、まあ、その共有の強度において自己を 表象する能力を持ち、ゆえに男性一般を仮定できることになるが、女性はその全体性に関わる表象能力を欠いているがゆえに、 女性一般というものをポジティブに提示することはできない。ゆえに「女は全体ではない」。そしてここにヒステリーの原因、つまり表象する能力に関する自らの欠如を 男性的存在に見出し、それを通して相手の不能性を看破してしまう女性的態度の一因がある。 要するにファルスという核を有さないがゆえに、表層意識と深層意識との明確な因果性が欠けたまま表層のみが自律的に 機能していくところに女性的な存在のラカン的特性があるということを踏まえよう。そしてこの表層性とは記述する男性的 存在にとってそのまま女性身体の視覚表象へと連接していくことになる。つまり女性的なものに対面した男性的存在の記述範囲は 必ずその対象表象を可視化させる視覚優位の能力に限定されることになり、ここにおいて記述する側は女性の表層性という本質に 内面的な深み−−ファルスに支えられた因果関係−−を想像的に想定することによってしか、相手を欲望対象へと措定することが出来ない。 この表層に深みを一方的に仮構することでしか発情の出来ない男性の想像的な閉域がいとも簡単に破断される事態を男性性なら 案外に体験してきた過去があるだろう。市場経済は貨幣を介した売買関係に支えられるところにその独自の批評機能を含意している。 売れる−売れないの市場的な交換原理は貨幣という超越的な媒介項を通してのみ実現されるという点で、否応なしに貨幣というコードの強制力を 受容することになる。この強制力の男性的圏域を背景にしながら、開放集合的な空集合、実質を欠いた表層、空虚さそのものの演出を自らに 装飾していくという構えは一体どのような戦略を孕み、どのような美的効果を孕んでいくのだろうか。
近代とは諸事象に関する認識論的視点を懐疑していく可能性及び必然性が導き入れられる事態を意味している。 つまり共同体に所属していた諸個人を根拠付ける単一の意味を浮遊させ、且つ浮遊させなければならないという事態が召喚された。 近代は共同体を不合理に覆っていた前近代の魔術的遺制を追放し、人々に自由をもたらしたが、その遺制が人々にもたらしていた安楽が疎外され、 別の意味での不自由をもたらした。濁った河川に棲息していた魚が急には透明な浄水の中に住めないのと同じことだ。従来の意味の重圧からの解放は 同時に人々を意味を求める離散者へと変容させ、各々個人の意味に拘泥する姿勢を不可逆的に取らされることになる。過去において共同体の 宗教や祭儀が担っていたものを個々人が担わなくてはならなくなるということ、いわゆる近代の神経症的主体というモデルの登場だ。散文化という 透明さへの志向は同時に詩性という不透明な密室を各々の中で育ませることになり、この両者は存在の耐えられない軽さという散文と存在の耐えられない重さという 詩との対立という構図の中で相補的にお互いを切り結んでくことになる。この双方の位相が野合したところに、近代以降の意味に関わる言説が生産されることになる。 したがって意味に関する言説は多かれ少なかれ宗教的である。欲動の自閉性が共通感覚的なコードとの関わりの中で欲望の社会性へと転換されたところに 意味の言説が生まれた。各身体の局所に潜在する欲動の蠢きが個体化の原理を付与されることになり、自らの疼きを欲望として語り出すことになるわけだが、 ここには一つの転倒が潜んでいるのは言うまでもあるまい。欲動の分裂症的性格が父の名という男性的原理の暴力的介入を通して自らを欲望する神経症者として 語り出すように、欲望は常に既に男性的原理に支えられた社会的コード−−資本の時間性が最後の審判を遅延させようとする直線的な運動である父の時間(クリステヴァ)に 貫かれているように−−により変形を受けている。例えば我々が本能を排除し、社会性を受け入れる段階として指示される 父の名という去勢の祭典はエディプス・コンプレックスという性的コンテクストを背景に構成されているが、ここにおいて人は自らの単独性と欲望を同時に獲得する。 単独性とは主体がある対象を欲望するものと名付けるための基点のことである。このような欲望の起源に潜在するものが極めて性的文脈に貫かれている という事実性が欲望を性的なものとして男性的存在に錯視させる真因の一つである。この転倒の上に立って初めて、男性は各々が相互の単独性を求め合う 恋愛の現場を性器的な欲望の舞台へと飛躍させうるような粗雑さも犯せるのである。欲望は常に他者性の刻印というトラウマに介在された性的様相を帯びている。 そしてそのトラウマ的体験を隠蔽するためにファルスの論理が人々の視界を支配していくことになるだろう。そしてその欲望の律動は極めて社会的なものとして 容認され、奨励され、社会の時間性−−資本の時間性−−へと結果的に組み込まれていくだろう、子供という労働力商品を隠喩的にめぐった対幻想の神話として。
ところで欲望する(というより欲望させられている)近代的な男性的自意識にとってその運動は必ず隠された暗部を暴露することに”のみ”目的を置いた直線的志向に貫かれている。 ニーチェが批判した真理の男根モデルのように、近代の欲望モデルは魔術的な陰影に隠された暗部を自らのものとして回収し、再編成し、支配していく時間的過程の謂いである。 つまり、男根は女陰の背後に隠された真理を勝手に想定し、そこに向かって突進し、到達=射精した瞬間に、自らがあれほど希求した対象の神秘が自己の空虚性を裏返しに 投影したものに過ぎないことを骨髄至るまで自覚させられるわけである。しかしそれを自覚したくないものは更に真理という女陰を四方八方に想定し、発奮と虚脱を堂々巡りする 同型の茶番劇を延々と繰り返すことになる。このようなドン・ファン的空回りをここでは疎外論的ナルシシズムと便宜的に名付けよう。失われた愉悦と安息の楽園から自分が常に既に 疎外されているという被投性の認識から始まり、世界内を超越したナルシシズムの代理表象に過ぎない真理=神=女陰に向けて反復強迫を繰り返す擬似プロテスタントの郷愁派である。 そしてこのような疎外論的ナルシシズムという近代の欲望パターンは前述したようにファルスを欠いた女性身体の表層性にありもしない内面的な深みを一方的に仮定し、その深みを 全面的に汲みつくそうとすることを課題としている。そこで汲みつくされようとしているモノは深みと連動する意味の深度である。しかし、Tommy February6においてこの欲望の男根モデルは つねにすでに破産宣告を下されている。あの眼鏡という物質的膜こそがファルス優位の象徴界における空集合としての表象機能の不在を我々に間接的に伝達しているのだ。 バルトのストリップ小屋での下世話な妄想を思い出そう。舞台上の女は衣服を一枚一枚と脱いでいくことで、自らを脱性化していく。それならばここで眼鏡は自らをその不在にも関わらず、 というよりむしろ、その不在故に敢えて性化しているというわけだ。
この性化された不在という欲望の渇きに裏付けられた視聴者の衝動は単なるその渇き自体の享楽という位相へ反転されることにより、 被視聴者がまとう自らの表象が誘発するところの視線の反復強迫は一つの遊戯へと自らを変容させることを通して、 終わりなき渇きを癒すためにひたすら垂直的に深まっていく視聴者の欲望の焦点移動は欲望対象との接合点を見失った 水平性の運動へと横滑りさせられていくことになるだろう。ここにおいて表象する−欲望する主体としての視聴者は 自らの表象機能という重みを記号が水平的に戯れあう諸関係のぬかるみへと失っていくことによる快楽を感受することになる。 言語の法に分節化されたシンボルの意味連関が支配する象徴的−社会的な空間が表層性の律動を通して一時的に破壊され、そこに 隠蔽されてきた非−意味としての欲動の自閉的悦楽という位相を切り開いていくわけだ。このような非−意味としての欲動こそが疎外論的ナルシシズムが 最も嫌う類のモノだ。何故ならここにおいて欲望それ自体を可能にさせる主体の名付けというパフォーマティブな行為が失効するからだ。 近代的主体は視線により世界を鏡像的に構成する視像型の世界を生きている。視線は名付ける、そして世界の実存範疇を開示し再構成する。 しかし、Tommy february6の世界において視線は名付けないし、表象できない。ここでは視線は名付ける能力を失い、思考論理は瓦解することで、思考なき イメージが我々の全体を満たしてゆくだろう。そして日常的意識においては相互媒介的に連繋されていた視線と思考の両位相は全く分離したまま 分裂的に共存し、我々は何かを視ているはずなのに何ものをも視ていないという奇妙な意識の空白に犯されていく。この位相において我々は初めて 「名付けえないもの」を享受することになる。Tommy february6という対象を視る視聴者の意識空間が徐々にぼやけ始めると同時にその対象のみが 禍々しいほどの明晰さで迫ってくる事態の享受とは、しかし、Tommy february6を視線という介在項を通して鏡の空間に措定せざるをえない視聴者の 欲望の位相を対象それ自体の空虚さの開示によって破砕しながらも、その破砕された欲望の定点から我々をその空虚の淵源を掴ませようとする行動へと 駆りたたせていく。宮川淳のイマージュ論と共鳴するかの如くな、対象との遠近法上の定点を失った視線をその対象との叶う事なき邂逅へと終わりなく 漂流させようとさせる契機をこそTommy Feburary6の身振りは導入してくる。実際的に空集合の空虚さにありながらも、その対象との直接的な遭遇の 瞬間を視聴者に夢想させ、且つ、その夢想自体の悪弊をも同時に宣告すると同時にその夢想へと終わりなく惑溺させるような、この関係性の招来は 我々を「ゴッホ的な不幸」(丹生谷貴志)へと投げ入れるような境位を切り開いていく。
しかし、この「不幸」は決して 一般的な意味での不幸とはならない。対象との遭遇という事態は表象の世界でしか生きられない我々には到来することのない享楽だからである。 表象の世界において対象の享楽はラカンも言うように享楽の欠如としてのみ体験され、それが欲望を無限循環の裡に環流させることで生そのものを デットエンドに陥らせることなく安定化させていく。単純に言って人は現実と現実性を混同することで初めて欲望の位相を維持することでしか 生き得ない存在として運命付けられている。しかし、このような欠如としての欲望そのものが無化する契機は常に既に我々の下に生成−贈与されているのだ。 むしろその贈与を隠蔽することで欲望は自らの自立性の仮象を世界内的に想像的に仮構しているに過ぎない。このような欲望の明滅を見据える 認識において生は欠如そのものへの 漂流という快楽(バルト)の反転を蒙ることになるだろう。
われわれを幻惑し、われわれから意味を与える能力を奪い去り、おのれの感覚的性質を捨て去り、世界を捨て去り、 世界の手前に引き退き、われわれをそこへ引き寄せるもの、このものはもはやわれわれにおのれを開示しない。だが一方、 それは時間における現在とも空間における現存とも無縁な、ある現存のうちでおのれを断言している。この分離が先には 見ることの可能性であったのだが、今や視線の直中で不可能性へと凝固するのだ。(中略)この視線においては盲目も また視覚の働きだ、もはや見る可能性ではなく、見ぬことの不可能性としての視覚の働きだ、この不可能性は終わること のない視覚の働きの中で己に見させる−−常にまた常に−−執拗に見させ続ける。つまりそれは死んだ視線だ、永遠の 視覚作用の幻となった視線だ。(M.ブランショ 『文学空間』 「本質的孤独」)
そしてこの反転こそは「不幸」を、孤独を、「幸福」へと転化させる瞬間でもあるのだ。この幸福において 視線は死滅し、対象のみが運動する。そこにおいてその両極は常にすれ違いながらも、尚かつ、結ばれているという奇妙にねじれた関係性を 生きることになるだろう。そして視線の欲望と対象の運動とがつねにすれ違いながらも、その両相が絡み合うことなく分裂的に共存していく情態が肯定される関係とは、まさに対象と絶望的に離れていながらも、その対象がまさに我が身に接するように 現前しているような状態を到来させる離接的なそれに他ならない。したがってTommy february6を特徴付ける基本モードは「運動する離接性」と言えるだろう。
このようなファルス優位の意味空間における「存在しない女性」の効用−高揚を逆手に取り、欲望する主体をその神経症的悪循環から 断ち切り、欲動の自己完結性へと脱主体化させ、視線の運動と対象の動きを連動させることなく分離したまま即融させていく離接性の関係を 導入させることにより快楽のぬかるみを産み出していく運動の軌跡にこそTommy february6の魅力の精髄があると言えるだろう。 そしてその欲望しない運動がアルバム発売に関する欲望の泥沼へと引きずり降ろされたとき、Tommy february6はその根底から自らの 身体性を崩壊させていくことになったとかなんとか。
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