砂の間に間に……。

第一章 一幕

 絶え間なく流れる風の音にまぎれて遠雷が二度、ダルの耳朶を打った。反射的に西方を見やるが、傾きかけた太陽が紅砂をさらに赤く染めているだけだ。
 それでも、長年培った飛行経験と天与の勘が危機の到来を告げていた。酒で鈍った脳髄が考えるより数段早く、灰色の飛行服に包まれた身体が動いていた。操縦綱を口にくわえしっかと奥歯で固定すると、両の篭手(グローブ)を脱いで身体の脇でしめた。
 次いで、相棒である砂飛竜の灰がかった真珠色の胴体を踵で叩いた。いざというときは本能で飛ぶように、という命令を下したのだ。
 この先の飛行(ドライブ)は、掌の微妙な感覚が生死を左右する。汗で適度に湿った両手で再び操縦綱をとったとき、すでにダルの心と身体は危機に対する準備ができていた。
 妻がいなくなる前の彼は、何度もこの死線を潜り抜けてきた男だった。ただ、自然と笑みが浮かんだのは、なぜだか自分でもわからなかった。
「久しぶりの仕事でこれか?」
 つぶやいた後、ダルは竜遣いの守護神、天空の鷲バルディス神の聖句を唱える。
 ――ああ、俺はよっぽど、カマリーダ神に好かれているらしいな。
 これは自身の心の内に留めておいた。裏切りと絶望の神の名など、竜座にある人間が口にすべきではない。
 おいおい、あいつはまだ気がつかないのか?
 黒い髪を風に流し前方を飛行しているのは、まだ年若い青年竜遣いだった。鼻歌でも唄っているのだろう、砂飛竜の細い身体までもが左右に揺れている。
 ああ、ヤツの頭ン中は女房と子供のことだけか。
 順調に飛べば夜半には、エドスナ村に着くところだ。竜座にくくりつけられた袋には、家族への土産が詰め込まれているのだろう。
 竜座脇に据えられていた水筒をひっつかみ、花の香りをつけたシャイ(茶)をひと口含むと、ダルは竜座から前方を行く仲間に声をかけた。
「シャルラーシカ、おいおい砂嵐がやって来るぞ!」
 と、聞こえるはずもないことを思い出し、首にかけた竜笛で警戒音を作った。
 砂飛竜の背骨で作られた竜笛は、何も野生竜の調教時のみに使われるわけではない。荒くれた風にも負けない優れた音色は、飛行時の竜遣い同士の伝達にも役立っている。
 振り向いた顔が遠目にも青白いのを認め、
「――シャットシャットッ(急げ)!」
 ダルは砂飛竜の速度を上げた。動揺の激しい仲間の砂飛竜の隣りにつけると、
「これからは俺が先にいく。しっかりついて来い、これなきゃ竜に任せろ」
「…………なんてこった。ナナルには来月に子供が生まれるっていうのに……」
「心配するな。数は複数だが、それほど大きい嵐じゃないはずだ。高度を上げれば、やり過ごせるかもしれない」
 さらにその土産を捨てる気があれば、もっと効率よく生き残ることができる、とは思ったが、ダルは黙っていた。
「近頃の砂嵐は、病までもたらす不吉なものなんだ。ダルさんは知らないのか?」
 ダルからすれば見当違いの方向を向いて、青年は「嵐は怖い」と唇を震わせた。
「ああ、知らないね。とにかく、硝子は危険だから飛行眼鏡(ゴーグル)は捨てろ。操縦綱は素手で持て」
 ダルにとって、この竜便は四年ぶりの竜遣いとしての仕事だった。その間(かん)、村の外はおろか、自分の部屋から一歩も出たこともなかったのだ。朝夕に安い地酒をあおっていたことを考えると、今、空を飛んでいること自体が奇蹟に近い。
 竜便の同行者となった青年には悪いが、墜落せずに仕事を敢行できたことだけで、ダルは自分の残りの人生に満足している。
 これで、ようやくノマリーの許にいけるかもしれないしな。
「シャルラーシカ、落ち着け。子供なんてモンは、親がいなくてもちゃんと育つさ」
 青年の美しく波打った黒髪を見つめ、ダルは自慢のひとり息子を思い浮かべる。
 ああ、そうだ、ヤツならきっと一人でやっていける。何しろ、俺の息子だからな。
「――ダルさんっ!」
 予想していた通り、西後方から二つ、砂嵐が近づいていた。金と赤に彩られた砂を巻き上げ、驚異的な速度でダル達に迫ってくる。
 逃げる、という意識は初めからなかった。ダルは恐怖におののく砂飛竜を叱咤すると、垂直に舞い上がった。やはり突風に遊ばれ、二転三転と竜が宙返りをする。
 篭手はとうに飛ばされていたが、命を握る操縦綱だけは掌中央に食い込んでいた。
 竜は前に横に斜めに回転を繰り返す。このような遊戯飛行こそ、ダルの真骨頂だ。遣い慣れない砂飛竜ではあるものの、さすがの綱さばきで的確に嵐の風力範囲から徐々に逃れつつある。
 操縦綱を握るのが久しくとも、やはりダルは竜遣いのエドスナ村で最も腕の立つ遣い手だ。砂飛竜に乗るために生まれた男だった。
 ――それが裏目に出た。余人の技量をはるかに上回る綱さばきに、青年の砂飛竜がついてこられない。
「高度を上げるんだ、上げろッ!」
 眼下の砂飛竜に怒鳴った。竜自身はダルのように上昇したいのだが、遣い手はそれが理解できていない。風の抵抗が強い上ではなく、よろめきながら横に逃げ道を探しているらしい。
「この若造がっ!」
 危うく舌をかみそうになりながらも、毒づかずにはいられない。砂嵐はときに重なり、ときに分かれながら、二頭の竜を追い詰めている。
 直接、風に巻き込まれずとも、飛び散る砂に引き裂かれれば致命傷になることぐらい解りそうなものだ。
 あのままでは、いつか目をやられてしまうぞ。
 波打つ黒髪の青年が砂と風の神につかまる。無情にも四肢を引きちぎられ、臓腑は紅砂漠にばら撒かれてしまうだろう。そんな光景は、今まで腐るほど見てきた。
「――アーシャン!」
 嫌がる砂飛竜を制御して、ダルは嵐と嵐の間隙に身をすべりこませた。咆哮を上げる砂飛竜の竜座から青年だけを抱え、もう一度、上昇しようとしたとき衝撃が来た。

 荒れ狂っていた風神がその手を止めていた。どうやら、砂嵐の無風地帯となる中心部に吸い込まれたらしい。
 ダルの右手にはしっかり操縦綱が握られており、その先に砂飛竜が乗竜できる姿勢で待っていた。
 この場合も、バルディス神に感謝を捧げないといけないのか?
 上半身を起こすと、すぐに声がかかった。
「ダルさんッ!」
 天空神バルディスの幸運は、シャルラーシカにも等しく注がれたらしい。いや、無傷の彼の方に比重が置かれているようだと、ダルは苦笑した。右足が石のように重く動かないと思えば、足首から先がなかった。
「ああ、早く血止めをしないと。何か……」
 何かを探すため辺りを見回して、ようやく青年は事態の悲惨さと己の幸運に気がついたらしい。今、二人と一匹の砂飛竜を取り囲むようにして、強い風砂が流れている。厚く高い風壁は触れるものには、容赦ない制裁を加えるだろう。
「俺のことはいい。それより、早く乗竜の準備をしろ」
 大量失血と低酸素状況のため、ダルは急速に意識を失いつつあった。なんとか操縦綱を青年の胸元に押し付け、「カイワル(竜座へ)」と命じた。竜遣いの条件反射で竜座に飛び乗ったシャルラーシカは、直後、羞じたように顔を赤らめた。
「シャルラーシカ、いいか、見ろ。この風壁は渦を巻いたまま、少しずつ移動しているんだ。わかるな? いつまでも、このままではいられないんだ。
 あと、数秒か? それとも、数分後かに上空がぽっかり開く。そのときをおいて脱出の好機はないぞ」
「そんな、そんなことできません! ダルさんも早くこちらに……」
 青年は竜座の上から、均整のとれた腕を伸ばしてくる。経験の浅い彼にはわからないのだろうか? たとえ、この場を切り抜けたとしても、失血の激しいダルは村の土を踏むことはできないというのに。
「無理だ、二人も乗ったら速度が落ちる。風に負けちまう。わかったか、若造? わかったら、早く行けっ!」
「駄目です。ダルさんにも奥さんが残された息子さんがいるじゃありませんか。あなたがいなくなったら、彼は一人ぼっちです」
「お前には生まれてくる赤ん坊がいるんだろう? 子供には親はいらないが、赤ん坊には親が必要なんだよ、たぶんな」
 精一杯の虚勢を張っている、と思われるのは心外だった。真の砂の民は死を恐れない、砂から生まれ、砂に還るだけだ。こんな大砂原のど真ん中――だと推測される――で果てるのなら、竜遣いとしても本望ではないか。
 同じ村出身の若者は、ダルの気持ちを汲み取った証に「わかりました」と頭を下げた。
「……すまないが、アーシャンに約束を破ったことを謝っておいてくれないか? それから…………俺は竜座からの滑落死でいい」
「そんなっ!」
 竜座からの滑落は、竜遣いにとってこれ以上ない無様な死に様だ。しかし、自分の最期はそれでいいと思った。
 竜遣いの息子だからといって、己の飛行術をすべてを託した遣い手だからといって、同じ道を歩む必要はないのだ。
 どうやら、風の匂いが変わったらしい、砂飛竜が目に見えてそわそわし始めた。大きな丸い瞳が何度もダルの顔を見やり、鼻先でボロ切れにも等しい飛行服を突く。
 ダルは眠る前にもうひと働きしなければならない。相棒の身体を支えに立ち上がると、
 お前には世話になったな、ありがとよ。
 心の中でつぶやいた。
 そして、空のふたが開いた!
「さあ、行け! 風に負けるなよ!」
 最後の力を振り絞り、ダルは砂飛竜の横腹を蹴り上げる。
 ――ギュオンという哀しい咆哮と共に、相棒と同僚は風壁の中心に開いた夜空に向かって舞い上がった。
 ……そうだ、まっすぐに飛べ。アーシャン、お前は自分の道を行けばいい。
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