クリスチャン それは、数年前は気にもかけなかった。
僕は今高校一年生です。でも、としは18歳ですから、普通の人とは3年ぐらい遅れています。それは、僕が、病気だからというのが一番だと思います。
でも、心の病気だから、人生は希望がないとは、いまでは、ほとんど思いません。
なぜなら、神様が僕を、守って下さっていて、どんな事も、最善を、なしていてくださっていると確信しているからです。
僕は、バプテスマ(洗礼)を17歳のときに受けたので、聖書根本主義(クリスチャン・ファンダメンタリズム)の教会に、属しています。北海道 札幌市の札幌大通キリスト教会のメンバーです。
さて僕がどうして、暗いつらい躁うつ病とともに、共存していけているのか、短く拙い文章ですが、証を、させて頂きたいと思います。
僕は1983年4月8日に、札幌市に生を授かりました。(家族は事情があり今は、母と二人暮しです。)そして、普通の子供と同じように、保育園、小学校、中学校と歩んでいきます。ところが、小学校6年生のとき、ちょっとした悪口から、ひどく自分は愚かなもので、
生きている価値のない人間だと思い始め、気分は真っ暗になりました。(今では、それが躁うつ病のきっかけだったの思います。)そして、児童会の副会長の重圧もあり、どんどんひどくなっていきました。とってもつらい時期でした。
それから、中学校に進むわけですから、大変な重荷を負っていました。
いまは、僕は、クリスチャンですから、聖書からある御言葉を思い出します。
“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”マタイによる福音書11章28節
でもそのころはクリスチャンではなかったのですから、重荷は一人で負っていくことになります。でもここで、原罪ということに心の目が向きます。自分を必要以上に責めるのは、聖書の語っている御言葉から、明らかにはずれていると・・・
聖書には“あなたは、高価で尊い”とあり、神様が、イエスキリストをこの世に遣わして下さいました、イエス様は、母マリアの胎に、聖霊によって、宿り、さまざまな癒しの奇跡をなさり、聖書の示すとおりに、十字架につけられ、死にて葬られ、三日目によみがえられ、使徒たちや、パウロにも現れてくださり、そして復活の後の40日後に、天に昇られたと語っているのです。この中で特に十字架というところに、人類のすべての罪と死の呪縛から解き放ってくださるすばらしいメッセージなのです。それは。この文の終わりに証しします。
さて、中学校では、心の中が、時々ひどく不安になり、それが、一週間や二週間も続くようになりました。そのうつ状態が時々あるので、うつが無いときでも、いつまた不安に駆られるのかと心配で、心から喜ぶことができないのです。そうして中学校3年生の夏には、もう学校に行っていませんでした。つまり登校拒否になっていたのです。
それから1年半は、生きているのがつらくて、死のうとは一度も思いませんでしたが、とにかくつらかったです。物を投げて壊すということもしてしまいました。そして1999年の冬、電話帳でプロテスタントの教会を、さがしていまの教会に導かれました。そのときは、この心のつらさ、空しさを解決するには外国の文学にも、出てくるキリスト教しかないと、すがる思いで捜していたのを、いま優しく思い出しています。
早速、聖書の学びを、一対一ではじめてくださり、少しずつ神様のことを知り、そして信じることができました。信じるまでは、進化論の間違い、イエスキリストの神様であり人間でもあった(地上生涯のとき)その神秘、それらがわかるまでは、時間がかかりました。そして何より自分が罪人であるということが、聖書にはっきり書いてあるとおり、わかることができたのは、まさに、神様の奇跡であったと思います。
人は生まれながらに罪人である。そして神様に背を向けている。神様の怒りが信じないすべての人の上に、とどまっている。しかし、神様を第一にし、神様中心になる生活。つまり神様と和解させていただける、ゆういつの道がある。それはイエスキリストの、十字架を受け入れることである。
僕の視点から見ますと、イエスキリストは僕を愛し、僕の罪すべてを一身にうけおって、僕の罪の、当然支払うべき死とのろいの罰を身代わりに、受けて死んでくださったのです。そして死を打ち破り、復活なさったのです。いまは天におられます。そして生きて働かれているのです。
このことを信じることができたとき私は救われたのです。
そして2000年の八月にバプテスマを授かりました。
つづく