心の秋とそこからの救い

雪の降る、さびしい川沿いを一人で歩くとき

空気はさびしいのに心は暖かく

心を強めてくださる何かがそこにおられる、

その力を心に秘めて一人歩く。

孤独ではないのだ。  

 

遠くの山々が僕とへだてている空気をこえて

僕に示す。もう冬だと。苦しくもあるし、嬉しくもある

その季節が来たのだと。

雪を頭にかぶせて、その姿は美しく力強い、

そこに神の栄光があるようだ。

 

かつてこの地はこの僕は秋だった

一見、木の葉は黄色く生き生きとして

栄華を極めているようだが、それもつかの間、

その背後には冬がせまっているのだ。

 

僕の心にとってその冬はつらいものではない。

それは、心の冬はイエス様によって変えられたのだ。

かがやかしく。

心のさびしい秋は変えられたのだ。

イエス様の愛によって、かがやかしく

 

心の秋は、僕をおおっていた はかない栄華は

今でも時々過去ののこしたものとして思い出される。

それはまわりを雰囲気としておおっていただけでなく

心にしみてきた寂しさ、空しさだった。

 

かろうじてその寂しさが僕の心を狂わせなかったのは

一筋の後ろ盾のある、そこへ導く音楽だった。

音楽は、その時はベートーヴェンの交響曲だった。

一時は、いや今でもその音楽は励みになり少しの力を 

与えてくれる。

 

その後ろには神がおられる。

なぜなら音楽をつくられたのも神様だからだ。

神のつくられた音楽は、それを音符にし、音色にすることを作曲者に許す。

そして作曲者が信仰を持っていなくても、

自然に、神の愛が出てくると思う。

 

心の秋は、もうやってくることがないと思いたい。

でもそれが本格的には、やってきてほしくないと、いうことであり

小さなさびしさと、(今では)大きな希望を伴ってくるのであれば、

僕はそれを拒みはしない

 

光は大きな希望で、癒しで、喜びである

その光が一つの文学作品で示されたことも忘れまい。

そこには、一つの聖書の御言葉が示されており、

神様の赦しの、救いの、感動が示されていた。

その時、まだ秋にいた僕も、それを読んだだけでは

分からなかったけれども、確かに、僕を神様のほうへ

引っ張っていったと、今思い返してみると分かる。

 

けれども、音楽も、文学も今では、聖書の次にくるものだ。

今思い返すと、好いともであった音楽も文学も

一番の僕の心の支えである、聖書に比べれば

本当に小さなものなのだ。

 

トップページへ