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| ずっと更新していなかった |
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いったい、どの位更新していなかったのだろう。
なかなか、送信しても書き込めなかったので、 やめてしまっていたのだが、 もうそろそろ、混雑が解消されたのでは。 |
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2002年11月09日 15時21分44秒
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| 区切り |
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明日からは、専務が特別顧問になる。
上田さんはいない。 かわりに、溝口さんがいる。 僕はいろんな仕事が遅れているのに加えて、 新しい仕事もしなければならない。 また、新任の溝口さんに出来ない部分を、 僕がやらなければならない。 僕の仕事に対する姿勢について、 大きな区切りとしなければならないかも知れない。 僕は今まで、自分はリーダーの器ではないと思っていたので、組織というものを無視して、 専務の役に立つということだけを目的にして働いていた。 しかし、ここ一年で、僕の仕事は量も種類も増え、工場との直接のやり取りも増えてしまった。 すると、一人の能力で全てをこなすことは出来なくなった。 上田さんは、その意味では、僕の至らなさの犠牲になっていたとも言えなくないのだ。 僕は今後、どうしても、リーダーとしての仕事のやり方を身に付けなければならない。 その区切りが、今だ。 |
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2002年06月02日 23時30分16秒
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| こ、更新できた |
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2002年06月01日 10時26分24秒
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| 二週間もログインできない |
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どういう訳かしらないが、
ホームページの更新が出来ない。 日記も全く書き込めなかったが、 今回はどうだろうか・・・。 二週間も、描いた絵がアップロードできないので、困ってしまった。 |
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2002年06月01日 10時24分51秒
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| 自由とは何か |
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自由とは、可能性のことである。
「自由が欲しい」というとき、 それは何か具体的な目標を達成することを望んでいるのではない。 可能性とは、障害物を越えて何かを行ないうる能力のことである。 自由が欲しいとは、万能人になりたい、ということなのである。 すなわち自由は、永遠に到達できない、究極の欲望である。 |
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2002年05月19日 23時55分33秒
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| お見舞いの日 |
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今日は母、妹と一緒に、瑞浪の祖母に会いに行った。
先日風邪で倒れて入院したが、治って、老人ホームへ戻っていた。 僕が前回祖母に会ったのは平成六年の夏だったと思う。その時持っていった角川文庫の「若い人々のために」(ニーチェ)の発行日で、だいたいわかる。その時はまだ、明治時代に建ったという古い木造の家に一人で住んでいた。 老人ホームに訪ねるのは、僕ははじめてだった。 しかし会ってみると、僕は何も話すことがなかった。 僕は無口なうえに、人に同情を示すのは苦手である。 祖母も、同情されて喜ぶタイプではない。 「せっかく来ても、何もしゃべらんな」 「もう話とうないもん」 などといわれた。 母はにぎやかにしゃべりつづけ、妹は同情心を発揮していた。 新幹線で日帰りだったので、一時間しか居ることはできなかった。 僕の性格をどうこう言ってもしかたがない。 僕と祖母が顔をあわせた、それだけでいい、 と僕は思っている。 |
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2002年05月19日 23時44分40秒
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| 黒い流れ星 |
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今日もペインター・クラシックで絵を描いてみた。
ペイントとの違いは、色面で絵を描けるということだ。 ペイントでは、線で絵を描いて、色はあとで流し込む。 ペインター・クラシックでは、最初から色を塗りつつ絵を描いていくことができる。 今日描いたのは、宇宙空間を色とりどりに染めて、そこに星をばらまき、黒い流星が落ちてくる、という絵だった。 発想する時に、ペインター・クラシックを意識していたわけではないが、それでなければ描けない絵だった。 毎日絵を描くということは、 ちょっとしたアイデアを気軽に絵に描けるので、 気分がいいものだ。 |
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2002年05月18日 00時03分54秒
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| ペインター・クラシックで描く |
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昨日から、絵をペインター・クラシックで描いて、アップロードしている。
まだ使い勝手がよくわからない。 それで、適当にやって出てきた筆で気ままに描いている感じだ。 ペイントで、カッチリした絵を描くのもいいが、 ペインターでは本当の筆で描くのに近い「テキトー」な感じが出るのが面白い。 今日は、何を描くのか決めないままパソコンを開き、(絵の具箱を開き、でないのが面白い、)テキトーに線を引いていったら、「ためいき」という絵になった。 |
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2002年05月16日 00時40分05秒
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| 自己説得と神秘主義 |
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爾思考は現実化する」という題名の本がある。 これは、原題の意訳のようであるが、ちょっと見ただけではすごく怪しげな題名である。 何か神秘主義的な題名に見えるのである。 著者の名前が「ナポレオン・ヒル」で、ナポレオンなどというのも、こけおどしに見えるのである。 それで今まで本屋で見かけても触れることはなかったのであるが、 今回、その本を買ってみた。 思考は現実化する、というのは、つまり、人は自分で考えたような人に成長する、ということなのである。 言い換えると、人は自分で考えたような人にしかならない。 自分は駄目だ、と思っている人は、駄目な人にしかならない。 だから自信を持って、自分は成功するんだ、と思っている人だけが、成功できる。 そこで、成功できるとただ思っているだけで成功する、となってしまうと、神秘主義になってしまうのだが、 そう言っているのではい。 成功するためにはいろんな努力をすることになるが、 努力するためには、自分にはできるんだという心構えが必要だ、ということなのだ。 要するに、「自己説得」が必要だ、ということだ。 それが、この本の核なのだと思う。 (自己説得というのも、訳者の意訳らしいが、自己暗示というよりは、ずっと良い。) 自己説得というのは、自分に対するリーダーシップなのだと思う。 自分に対するリーダーシップを自分で取る、という意味では、 あまりカセットテープなどに頼りすぎるのは考えものだと思う。 本の内容を一人で反芻するほうが、ずっと効果があがるはずだ。 とはいっても、もしも安く手に入るなら、 ナポレオン・ヒル・プログラムというのを聞いてみたいと思わないわけではないのだが・・・。 自己説得は、宗教と似たところがある。 自分に何かを思い込ませ、それで行動を起こすからである。 しかし異なるのは、思い込ませることの内容である。 宗教では、神の存在とかを思い込ませる。 自己説得では自分はどういう人間であるかについて、自分のありたい姿を自分に思い込ませる。その際、神秘は関係しないのである。 ついでに言えば、僕は宗教が嫌いである。とくに団体宗教は嫌いである。 |
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2002年05月11日 15時42分44秒
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| モチベーション、リーダーシップ |
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前回絵を描いてから、もう二週間以上も経ってしまった。 その間、どうもにもならずシゴトが忙しく、休日も何も無かった。 その上、モチベーション上にも問題があって、シゴトが進まなかったのである。 僕のシゴトは会計であって、コツコツと地道に正確に進める必要があるので、 モチベーションだの気分だのに左右されてはならないのである。 しかし、僕の性質として、興味がなくなると一所懸命できないというところがある。 がんばる必要性を自分でヒシヒシと感じていないと、駄目なのである。 今までは、専務が僕にモチベーションを与えてくれていたと思う。 専務が話すのを聞いていると、よし、僕も専務の役に立とう、という感じになった。 ところが、専務の後任として入ってきた取締役は、ほとんど僕にモチベーションを与えない人なのだった。 職場の目標とか、個々の仕事の価値とかについて、何の意思も表明しない。 すると、僕は今までのように、自分のモチベーションを上司に頼ることが出来なくなってくる。 そこで、「自己説得」という、自分に対するリーダーシップを自分で取るような方法が必要になってきたのである。 有能ではあるが、リーダーシップを発揮しない上司。 これは、「失敗の本質」に出てくるミッドウェーでの山本五十六とか、ノモンハンでの中央部のようなもので、 部下が上司の意図を正確に知る努力を怠った場合、組織の失敗を引き起こすのである。 リーダーシップとは、論理的な目的を部下に与えるだけではなく、 その行動を起こすための情熱をも引き出すものでなければなるまい。 僕はそのようなリーダーシップを、取締役に持ってくれということは出来ない。 そこで、何が目的なのかをこちらから訊ねて明確にし、 モチベーションについては自分で自己説得する、という方法をとることになる。 それから大切なのは、僕の部下に対する、僕のリーダーシップであろう。 僕は今まで主任という肩書きでありながら、部下というものを持たなかった。 それが、三年前からは派遣社員が、僕の手助けをしてくれることになった。 ところが、僕は派遣社員な対して、自分がリーダーであるという意識を持たなかったので、 シゴトは頼むが、組織としての目的や、そのシゴトの価値を言ってあげることがほとんど無かった。 それは、僕が上司である取締役の、僕に対する態度と似ていた。 僕は「失敗の本質」を読んで、 天皇の大本営に対するリーダーシップのあいまいさが、 大本営から軍の末端までのリーダーシップのあいまいさにそのままコピーされていると考えている。 それと相似形のことが、僕の上司と僕、僕と派遣社員、という関係に当てはまるのである。 今の派遣社員は、五月末で辞めることになっているのだが、 その理由は、あまりにも欠勤や遅刻が多いことにあった。 それは、病弱であるという、本人の原因に基づくものではあったが、 僕が派遣社員に対してリーダーシップを発揮せず、 派遣社員のモチベーションが下がってしまったのではないか、という自責の念も、僕にはある。 そんなわけで、今回の決算では相当に時間がかかってしまった。 まだ完全に終わったのではないが、8、9割は終わった。 これを機に、この会社の中での自分の役割をもう一度考え直そうと思っている。 それ無しには、モチベーションもリーダーシップもあり得ないからだ。 |
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2002年05月11日 15時41分04秒
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| 「失敗の本質」 |
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「失敗の本質」を途中まで読み進めている。 ノモンハン事件も、ミッドウェー海戦も、共通した失敗原因があるようだ。 それは、リーダーが部下を指揮できていない、ということだ。 そして、それは主に、リーダーが部下を指揮するために必要な、明確な意思表示をしていないことに原因があるようだ。 ノモンハンでは、中央部は関東軍の行動に対して、一貫して反対していながら、はっきりと止めろと命令しない。遠まわしに、反対の意向を伝えるだけで、関東軍が真意を分かってくれることを期待するのである。 これはどうも、天皇と軍の関係に似ているような気がしなくもない。 天皇は、国家の最高の意思決定者のようでもあり、そうでないようでもあった。 だから、天皇には戦争責任があるようでも、ないようでもあった。 戦争を始めたのも、終えたのも、天皇の意思決定によったようでもあり、そうでないようでもあった。そのような天皇的な支配方法を模倣したのが、中央部の関東軍に対する支配方法だったのではないか。 ミッドウェーでは、山本五十六司令長官は航空決戦思想の持ち主で、したがって、アメリカ空母に対して奇襲攻撃を行い、殲滅するという考えだった。 しかし部下の南雲司令官は、艦隊決戦思想の持ち主で、したがって、向うから来た敵を迎え撃てばいいという邀撃(ようげき)主義だった。 ところが、山本司令長官は、南雲司令官どころか中央に対してさえも、自分の意図をはっきり言わなかったので、ミッドウェーまで行く目的が不明となって、作戦は失敗した。 この二つに共通しているのが、リーダーが部下へ明確な指揮をしなかったことだ。 |
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2002年05月08日 00時26分53秒
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| 自己説得について |
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シゴトのやる気が全然出なくて、 しかし客観的にはどうしてもやらなくてはならなくて、非常に困っていた。 本屋で「なぜ、あの人はうまくいくのか 自己説得の驚くべき威力」というのを買って読んでみた。 ここに書いてあることには、ほぼ全面的に賛成だ。 僕はシゴトでミスしたりすると、自分はこのシゴトに向いていない、などと考えてしまう。 その考えを繰り返し自分に言い聞かせていると、本当にやる気がなくなるのだ。 一方、シゴトがうまくいっていて、「僕にまかせなさい」なんて思っていると、やる気は持続する。 そういう経験があるから、この「自己説得」の本には、頷けた。 早速、声に出して読んで見たりした。 おかげで、昨日と今日は、シゴトを進めることが出来た。 そうでなければ、いまだにグッタリしていたに違いないのだ。 ビジネス書には、リーダーシップの本などはよくある。 「自己説得」というのは、いわば自分のリーダーシップをとるということだ。 僕の今の上司は、あまり僕にモチベーションを与えてくれない人なので、自分で自分にそれを与えなければならない。 それが、「自己説得」だ、と考えている。 今後の僕にとって重要なことだと思う。 |
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2002年05月07日 00時22分31秒
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| うらやましい「日本国民」 |
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ゴールデンウィークが今日で終わった。 しかし、僕は全く休み無く、シゴトだった。 土日も出勤。 ひとりで出勤。 もともと、国民の休日には出勤する会社なのだが、 おまけに決算作業が遅れて、このとおり。 二週連続、日曜出勤。 「国民の休日」が休みでない会社というのは、流通とか販売ではあるのだろうが、・・・ いやー納得できないなぁ。 製造業でもあるのかなぁ。 「国民の休日」に休まないということは、「非国民」じゃないの。 或いは、イスラム教の「ラマダン」の日に爆撃するアメリカみたいなものか。 テレビなんかで、大型連休と言っている時に、僕は一年で一番忙しいみたいな事になっている。 おかげで、毎日描いていた絵も、中断している。 「日本国民」はいいな〜。 |
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2002年05月07日 00時04分10秒
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| セロニアス・モンク、メランコリック |
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渡辺満理奈の影響で、セロニアス・モンクを聴いていることを前に書いたが、 これをいつも聴いていると、かなりメランコリックな気分になることに気づいた。 僕はCDを聴いていないときでも、例えばシゴト中などに、頭の中で気に入った曲を思い出して流していることがよくあるのだが、 最近は、そのせいか、ちょっとユウウツなのである。 別に、暗い気分なのではない。明るいメランコリー。 しかし、全然攻撃的ではない。前進的ではない。 もう癖になっているから、今もCDで聴いているのだが・・・、 モンクの音楽は、革命とか変革とか革新とか、前進とか攻撃とか闘争とか、破壊とか暴力とかとは関係がない。 関係がないというか、レベルが違うと言ったほうがいいのか。 モンクを聴いていると、世はすべて事もなし、それで良し、という感じになってくる。 戦いとかとは別の、もう一つの世界の見方を提示してくれる音楽。 だから、シゴトという戦いの最中にずっと心の中で聴いていると、チョットミスマッチしてしまうのかも知れない。 シゴトに合うのは、僕にとっては、レッド・ツェッペリンの初期の曲かもしれない。 これは、全く飽きもせずによく思い出している。 最近はモンクに押されていたけれども、 ツェッペリンに回帰してみようか・・・。 |
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2002年05月06日 23時51分12秒
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| 「やる気」と「論理性」 |
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単に興味があってする行動には、「やる気」などというキーワードは無縁だろう。 興味というのは、自分の生命の危険とは無関係のところで発生する。 ところが、興味が無くても「やらねばならない」ことがある。 それは、生命の危険と関係があるところで出てくる。 しかし、日常的に生命の危険と直面しているわけではない。 生命の危険に到るまでの、不安定な地点に、日常はある。 この状態にあって、生命の危険を出来るだけ遠くへ追いやっておくための日々の行動こそが、<やるべきこと>である。 そして、その<やるべきこと>を実際にやるための前提としての心理状態が、「やる気」を持つという状態である。 では、その「やる気」を持つのはどんなときか、といえば、<未だそこにはない危機>と<やるべきこと>を結ぶ「論理性」である、と僕は感じている。 単なる興味、好奇心というものは、危機感などと全く関係なしに、自然に発動する。 また、<今そこにある危機>には、それに対処しようという心理は自然に(かつ強烈に)発動する。 ところが、<未だそこにない危機>に対処するには、<未だそこにない>を<今そこにある>に繋げ、結び付け、引き寄せるための「論理」が必要なのである。 つまり、「論理」によってバーチャル<危機>に直面し、恐怖心から「やる気」を発動するのである。 ということは、「論理性」の無い人間には、日常的には「やる気」が発動しないということである。 このことは、僕自身に照らし合わせて言えることなのである。 (僕の血液型はB型なのだが、以上のことはA型には当てはまらないこともあり得る。A型は、自分の内部の論理ではなく、社会的な義務感とかで動くらしいからである。) 僕がシゴトを一所懸命にやるのは、自分の中に「危機感の論理」が働いているときである。 資金繰り表等のパソコン化をしたのも、専務の仕事を軽減しないと専務が辞めてしまうと思っていたからだし、 工場の作った中期計画を批判して、中期経営計画の作成を主張し、実際に作って見せたりしたのも、 設備投資起案での考えの甘さを指摘したりしたのも、このままではカイシャは潰れるという論理を、様々な情報から組み立てていたからなのだ。 一方、「危機感の論理」が働かなくなると、僕の「やる気」のボルテージは急落する。 専務のやる気がなくなって、後釜の取締役を迎えて、僕のシゴトと取締役の仕事がダブったときや、 僕の主張する「危機の論理」を専務や取締役に否定されたり、 などなどといった、僕の危機感を取り下げて、保守的な日常の中に押し込もうとされると、ものすごく「やる気」を阻害されるのである。 あるいは、先日の昇給で、僕のシゴトに対する評価としての昇給が3,500円なのに、東京勤務であることの地域手当を20,000円積み増すことにした(しかもこのご時勢で、昇給の無い人もいるのにである)、と知った時なども、僕は取締役の前で思わずガックリ頭を垂れてしまった。 3,500円が高いのか低いのかには興味ないが、評価してくれたことには感謝すべきだろう。しかし20,000円を地域手当の名目でつけたのは何故なのか。僕は人件費を減らすべきだと言っているのに、20,000円をつけるというのは、取締役達に経営に対する危機感が無いことの現れではないかと思えてならなかったのである。僕は地域手当など、今欲しくないのである。 僕が、趣味以外で読む本は、小室直樹、一倉定、立花隆、リチャード・クーなど、論理が明快で、かつ、危機感を増幅するものが多い。 いや、論理が明快だからこそ、危機感を増幅する。 そして、「やる気」物質が脳内に分泌されるのを感じるのである。 |
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2002年04月27日 22時08分33秒
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| B型の性格 |
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僕の特徴のひとつ。 何かに興味を持つと、その他のことに興味がなくなる傾向がある。 僕の興味ある分野というのは、 絵、音楽、文学、シゴト、などである。 そのうち、シゴトは興味があろうと無かろうとやるわけだが、 今、絵に興味がいっているせいだろうか、シゴトへの興味がすごく薄れている。 シゴトは今、滅茶苦茶忙しいハズなのだ。 決算処理中であるから当然だが、前回の税務調査で厳しく絞られたこともあって、ハズレの無いようにキッチリ決算しなければならない。 これは会計担当者の義務である。 しかし、上司からは、特になんの指示もないし、指針も示されない。 で、僕としてはカナリやる気が落ちているのである。 どうも僕は、シゴトについては使命感が必要で、しかもその使命が上司に理解され、ハッパを掛けられているのでなければやる気が出ない、という性格なのである。 しかし、シゴトを放っておくわけにもいかない。 それで、今日はカイシャへ行かなければならなくなりそうだ。 この時期だというのに、僕の元には、イレギュラーなシゴトがどんどん入ってきている。 しかも急ぎのものばかりなので、決算事務と衝突してしまい、これもまた僕のやる気をそいでいるのである。 しかしやらねばならないから、人知れず休日出勤する。 もうガックリなのである。 |
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2002年04月27日 13時06分02秒
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| 寝不足、栄養不足 |
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寝不足している。 毎日5時間ちょっとしか眠っていない。 僕の適正睡眠時間は7時間だ。 昼間も頭が働かない。 夜になってもお腹が空かない。 朝は食べる時間が足りない。 これらが重なって、 一日頭が働かない。 気候も暖かい日が続いたあとに、 寒さが戻ってきた。 今日はもう眠るのが良かろうる |
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2002年04月26日 23時38分17秒
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| セロニアスモンク、渡辺満里奈 |
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このところセロニアス・モンクにはまっている。 きっかけは、渡辺満里奈の、スポーツセンターのポスターを見たことだった。 その渡辺満里奈は、不思議な表情をして正面を見ていたり、ウエイトリフティング(?)をしたりしていた。 その表情というのは、リラックスしているが、奥深くで集中しているような。 はじめてそのポスターを見たときは、アイドルの渡辺満里奈だとはわからなかった程だ。 それで、渡辺満里奈について知りたいと思い、インターネットで検索したら、一年ぐらい更新されていない公式ホームページがあって、 そこに、セロニアス・モンクが好きだという本人の文章が載っていたのだ。 そこで紹介されていた「ソロ・モンク」というCDを買ったが、地味な期待しか持っていなかった。 ところが聴き始めてみると、ものの5秒ほどで、こんなのがありか、というような演奏に強烈に引き込まれてしまったのである。 近頃にないことだった。 それとともに、このCDと渡辺満里奈のイメージとがぴったりと重なってしまったのである。 それが多分一ヶ月くらい前のことで、 以後、モンクのCDを4枚買って、そればかり聴いている。 また、渡辺満里奈の本を古本で買って読んでみたりと、いう感じになっている。 |
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2002年04月25日 23時22分16秒
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| 血液型人間学 |
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さいとうたかおの、「ゴルゴの血液型人間学」という本を読んでみた。 血液型によって、人間のキャラクターが異なるという説は、僕にはとても説得力があると思える。 なぜ異なるのかという答えは出ないながら、異なるという事実は争えないという気がするのである。 僕について言えば、B型なのだが、この本に書いてあることはほとんど僕に大当たりなのである。僕が自分で長所だと思っていることも、短所だと思っていることも、両方とも、B型の長所・短所として書いてある。 そして、僕にはどうしても理解出来ない行動パターンは、A型、O型のキャラクターとして書いてあるのである。 この本によれば、僕はかなりB型の特徴が強く出ている。対外的には、それを押さえているつもりではあるが、それでも、頭隠して尻隠さずといったところだ。 しかし、自分の弱点としてずっと長いこと悩みつづけてきたことが、実は血液型という基本的なところから拠って来るものだったということになれば、僕の悩みは相当軽減される。 というのは、その弱点は、自分の努力が足りないからとか、育ち方とかのせいではなく、持って生まれた先天的なものということだからである。 つまり、それは僕の「前提」なのであって、僕は自分の存在の前提について何か争うつもりなどないからである。 だってそれは争えない。 僕はB型が好きだし、他の血液型がいいといって輸血したら死んでしまうのである。 それは冗談じゃない。 だから、僕はこの本を読んで、自分の前提がますます明らかになり、努力する範囲というか方向が、ますます明確になってきたような気がするのである。 今日は、仕事から帰ってから、昨日に引き続いて花を描いてみた。 スプレーカーネーション。 |
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2002年04月25日 22時51分29秒
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| アイリス |
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僕は部屋に花を飾るなんてことは全くないのだが、絵に描こうと思ってスーパーで買ってきた。 花を絵に描いたのは、7、8年も前にパステルと水彩で描いて以来だ。 |
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2002年04月25日 00時07分08秒
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| 岡本太郎「青春ピカソ」 |
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今会社では決算作業の真っ最中なのだが、 S専務とO取締役が四国へ旅行中なので、 台風の中の静寂という感じだ。 決算中だというのに、横からドンドン仕事が入ってくる。しかも急ぎのやつばかり。 昨日は疲れてしまって、日記を書くことが出来なかった。いや、夜遅すぎて、回線が込んでいたのか、サーバーに接続できなくて、根気が続かず諦めたのだ。 今日は早めに帰って来て、飯を食ってから絵を描いた。 題は「垂直起立運動」。 面白いと思うがな〜。 どうなんだろう、他の人が見たら。 毎日、小さな絵を一枚描くというのは、健康上もとてもいい。 毎日描くならば、それがほんのちょっとしたアイディアでも、気軽に絵に描ける。 毎日描けば、アイディアを一日以上覚えておくという苦しみもない。 もし、アイディアがない日は、なんでもスケッチしておけばいい。 「青春ピカソ」(岡本太郎、新潮文庫)には、ピカソが一日に二、三枚の絵を仕上げ、半年で数百枚描く、とある。これはまたすごい。 「作品とは日記を書くようなものだ」(43ページ)、との言葉もある。 ちなみに僕の、このホームページの題は『日記画廊』。一応、ピカソが毎日描いたというのを思い出してつけたのだが、こんなぴったりなことを言っていたとは思わなかったので、ここに引用しておく。 |
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2002年04月23日 23時56分01秒
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| 毎日描くという意味 |
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思いついた絵は、その日に形にするべきだ。 できれば、その場で絵に描くのが一番いい。 なぜかというと、 思いついてから一日以上、絵を描くことの出来ない状況にあるとすると、そのアイディアを、一日以上も覚えておかなければならない。 すると、そのアイディアを一日中何度も思い出さなければならなくなる。 そうすると、その間、ほんとうだったら世界に目を向け、思いついたであろう他の絵が、思いつかれることなく過ぎ去られてしまう。 思いついた絵を描かずに覚えておくというのは、重労働なのだ。 今日アップロードした「春」という絵は、4月20日の夜、母の処へ向かう途中で思いついたのだが、それから21日の夜、つまり今夜、帰ってくるまで覚えておいて、先刻描いて、アップしたものなのだ。 何度も思い出すうちに、アイディアに枝葉がつく。しかし、その枝葉は、結局描くときには切り捨てた。余計な意味が付いていって、当初のアイディアから離れてしまうからだ。 |
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2002年04月22日 00時53分07秒
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| ベラベラへの憧れ。 |
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今日は雨だった。 溝の口の本屋へ行き、仕事の本のほかに、 「ベラベラブックVol.1」という本を買った。 先週母、妹とテレビを見ていて、妹が偶然にチャンネルを止めたのが「ベラベラステーション」という番組だった。そこでアイドルやタレント、俳優などが、英語の単語や慣用句の問題に答えていくのだが、ショックなことに皆成績がいい。 近頃の若者は、いや、中年も含めて、出演者は結構英語ができる。 その事実を知った番組だった。 その番組から出来た本を今日買ったのだった。 早速、最初の40問を覚えてみた。 僕にも、結構覚えられそうだったので、うれしくなり、母と妹にも勧めた。 近頃の若者に追いつかなくちゃならん。 |
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2002年04月22日 00時37分10秒
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| パソコンで絵を描くということは |
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パソコンで絵を描くということは、 絵を略式に描くということではあるまい。 しかし、 世で流行しているコンピューターグラフィックスによる絵には、何故か略式の印象を感じる。 美しいCGが、単なる鉛筆画よりもインパクトが無い。 何故だろうか。 僕が思うには、 絵というのは、人間の脳が描くものだ。 絵の隅々まで、描いた人間の脳による判断が行き渡っていると、それが見た人間にも届くのだ。 鉛筆で描いたものは、人間が全部手で描くから、当然、脳で考えたものが直接出てくる。 では、CGではどうか。 CGソフトでは、いろんな表現が「自動化」できる機能がついている。 どういうことかというと、 描く人の脳が判断すべきところを、コンピュータソフトが判断してくれる機能がついている、ということだ。 この機能を使った場合、出来上がる絵には、描いた人の脳の特徴が出にくくなる。 僕は日経新聞の土曜版に載っているCGをいつも楽しみにしている。ここに乗るのは、たぶんCG作家でトップの人たちだろうと思うからだ。色彩的に美しい絵が多い。3DCGなどもあり、すごい技術を使っていると思う。しかし、インパクトを感じる絵は一年に一枚あるかどうかだ。 僕はこのホームページで、自分でCGを使って描いた絵を主にして、展示していきたいと思っている。 僕のスタンスは、まず僕にとってCGは目新しいので使いたいというのがある。 また、描くスピードが速まるというのも良いし、描いたらすぐにホームページに載せることができるし、自分のパソコンで見ている画質を損なわずに誰でも見れる、という利点があるので、使いたいと思っている。 しかし一方で、CGソフトにある、自動的に画質を変える機能とかは、あまり使うべきではないと思っている。 CGは、絵のマチエールが無い。でも僕は、もともと油絵を描いても、マチエールで表現するのは苦手だったから、その辺は気にならないどころか、有り難いくらいなのである。 そんなことで、出来るだけ自分の脳をおもてに出す、というスタンスで、絵を描いていきたい。 日記帳のほうも、似たようなスタンスで、書いていくつもりだ。 今日は、また一枚、絵をアップロードした。先刻描いたばかりの、コーヒーカップのデッサン。 |
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2002年04月20日 14時54分00秒
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| 新しい絵を描いた。 |
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昨日、絵をホームページにアップロードできるようになったので、大変喜んだ。 それで早速、今日新しい絵を描いて、またアップロードした。 「歩くひと(walk-mann)」という題をつけた。 できればこんなふうにして、毎日小さな絵を一枚描きたい。 な〜んて言って、 いままで毎日絵を描いていたことなんて・・・ いや、あった。 小学校の高学年から大學までは、描いていた。 油彩だったり、漫画だったり、ノートの端の落書きだったりしたけれど。 それをこのホームページを使って、再開しようというわけ。 |
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2002年04月19日 22時59分35秒
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| HPに画像を送ることができた! |
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今日はちょっとうれしい。 ホームページに自分のつくった絵を置くことができた。 といっても高度な方法を使ったのではなく、ジオシティーズのツールにある「フォトアルバム」という機能を使わせて頂いた。 つくづく、このジオシティーズというのは有り難い場所だと思った。 とりあえず、2枚の絵を置いて、リンクを貼り付けた。 この方法で、今後全部の絵を置いていくとなったら大変かもしれないが、とりあえずは、絵が置けた、ということで満足だ。 しかしどうだろう、ちょっと面白い絵だと、自分では思っているのだが・・・。 今はまだ、このページを見てくれる人もいないんじゃないかと思うけど、 そのうちきっと、良いホームページになっていくんじゃないかなぁ。 |
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2002年04月18日 23時58分14秒
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| 前期的資本、キリスト教、近代資本主義 |
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近代資本主義は、資本主義に徹底的に反対する環境でしか生まれなかった、という。 これだけ聞くと混乱してしまうが、次のような意味だ。 キリスト教は、貪欲を否定し、隣人愛を肯定する。 一方、お金を発明した人間たちは、お金儲けをしたくてならない。 お金儲けは、貪欲さの現れ゛あるとして、キリスト教では否定されていた。 しかし、市民社会の発達でお金の流通が一般的になると、キリスト教といえど、お金儲けを否定しきれなくなった。 そこで、お金儲けは貪欲さの現れではなく、隣人愛の現れである、という説明をつけて、これを認めたのである。 なぜそのようなことが出来るかといえば、 キリスト教は、内面の信仰のみを問題にし、外面的行動については規定しない。だから、金儲けという外面的行動も、それが貪欲さという内面の現れだったら否定されるが、隣人愛という内面が現れたものだったら肯定される、ということになる。 そして、貪欲による金儲けを前期的資本といい、隣人愛による金儲けを資本主義という。 |
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2002年04月18日 23時05分30秒
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| 困ったこと |
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会社で、派遣の人に手伝って頂いているのであるが、 この人が、非常に休み・遅刻が多い。 ある時は、頭が痛い。ある時は、熱がある。ある時は、風邪をひいた。ある時は、貧血。ある時は、喉から血が出た。ある時は、めまいがする。 こうして、ほぼ毎日、遅刻または休みなのである。 遅刻というのは、午後からの出勤である。 本人が主張する、遅刻等の理由を否定することはできない。 嘘だということは出来ない。 というのが、この二年間の僕のスタンスだった。 しかし、それはそれとして、もういい加減うんざりした。 もしもこれまでどおり働きたいなら、個人として、会社に対して頭を下げるべきである。 派遣社員であるからそんな必要ない、と思うなら間違いである。 それなら僕は派遣会社に対して、彼女のことを口を極めて批判するまでのことだ。 また、もしもここで働くのが嫌なら、さっさと別の派遣先へ移りたいと、派遣会社へ自分で言うべきだ。 僕は、他人に対して非常に寛大であるが、それは、来る者は拒まず、去る者は追わずという考え方があるからだ。 僕は他人が失敗しても、非難することは全くない。前向きにしか考えないのである。 しかし、相手が僕に対し敵対心を持っているとわかった瞬間、僕の態度は一変する。 論理的に徹底して叩き潰す。 もちろん、相手の敵対心が一時的なものにすぎないとわかっている場合は、全く手加減するが、それでも相手が理解し後悔するまでは止めない。 去る者は追わず、ではあるが、攻撃されれば攻撃し返す。 彼女がどう考えているのか、結論を出してもらう時期だ。 |
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2002年04月16日 22時53分54秒
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| 因果律について(続) |
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ところで、 「予定説」というものはあるとされているが、 キリスト教の経典の中に、本当にそれはあるのだろうか。 旧約聖書の中で、確かに神は人間にとってものすごく勝手な行動をとる存在である。 それはあくまで「人間にとって」ということであって、 神にとっては筋がとおっているのである。 ヨブの話では、信仰心の篤いヨブに対して神が苦難を与えるのはいかにも理不尽にみえる。 だが苦難に耐えて信仰心を持ちつづけたヨブに対して、神は救済を与えた。 ここには因果律がある。 また、バベルの塔の建設の話では、人間が思い上がって高い塔を作ろうとしたので、罰として言語を攪乱した。 これも因果律である。 ソドムの町の大火、ノアの大洪水の話も、神を忘れて浮かれ騒ぐ人間に対して、罰が与えられたものだ。 町に住んでいる人間にしてみれば、そんなに皆殺しにしなくても良いではないか、町の中には、ノアたち以外にも神を敬う人間がいたかも知れないのに、 十把一絡げで殺してしまうのは、ひどいではないか、ここには因果律などない、「予定説」だ、と思えたかもしれない。 しかし、神の立場からみれば、彼らは神にたいして不敬だからこそ、罰を与えたのである。 つまり因果律があるのである。 エレミヤの悲劇はどうか。 神は堕落した人間たちに警告を与えるために、エレミヤを使った。 人間たちは警告を聞かず、エレミヤは非業の死を遂げた。 そこで、神はその人間たちを滅ぼした。 ここにも人間が神を信じなくなった、または堕落した、だから滅ぼした、という因果律がある。 だがエレミヤに着目すれば、エレミヤの悲劇の死は、エレミヤにとってはどうにもならないので、因果律が成り立たないのではないか、と思うだろう。 しかし、もしエレミヤが神の命令どおりに人間たちに警告を与えることで、人間の、神への信仰を取り戻すことができていれば、死ななくてすんだはずである。 死んだのは、エレミヤの力が及ばなかったからである。 したがってここでも因果律は働いている。 だいたい、もしも神が世界を作る以前に、救済する人間と救済しない人間を決めている(これが予定説)とすれば、 わざわざエレミヤに命じて人間たちを信仰に復帰させようなどとしただろうか。 人間が何度も神に背き、それに対して神は罰を与えるのであるが、「予定説」が成り立つなら、神はいちいち、そういう人間に罰を与える必要もない。 つまり聖書をすなおに読めば、「予定説」というのは出てこない。 またマックス・ウェーバーはキリスト教の「予定説」が資本主義を生んだと考えるわけだが、 それも論理的におかしい。 「予定説」では、人間が現世で何をやっても、やらなくても、救済には関係ないと考える。 それならば、「隣人愛」を実践しようとしまいと、救済に関係ないはずなのである。 人間にはもともと、勢力を拡大したいという欲望があるが、それが商業で成功したいとか、利潤を得たいとか、金利を得たいとかいう形であらわれる。 その欲望を、隣人愛という概念に結びつけることで、プロテスタントは資本主義を認めたといえる。 そこには「予定説」など必要ない。 「予定説」を前提にするならば、隣人愛の実践などは救済と関係ない。したがって隣人愛の実践としての利潤の獲得も、その発展としての資本主義も、救済とは関係ないことになるはずである。 資本主義はあくまでも因果律の世界である。 それを隣人愛と結び付けたいならば、隣人愛も、因果律の枠内にあるのでなければならない。 |
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2002年04月16日 22時50分21秒
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| 因果律について |
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因果律というものは、宗教の世界では、もともと「現世」では適用されないものらしい。 というか、「現世」で因果律が適用されにくいからこそ、宗教というものが発明され、 「来世」「あの世」「神の国」「天国」「極楽」などというものを想定するようになったのだろう。 そして、「現世」での努力は「来世」で結果を得られる(イスラム教、仏教)となったのだろう。 ユダヤ教とキリスト教は「現世」で努力しても「来世」でも結果は得られない。 しかしキリスト教は、資本主義を認めたことによって、宗教としての本質を逸脱したのではないか。 つまり、「現世」という枠の中での因果律を認めたことになるからだ。 この世がままならぬからこそ発明されたはずの宗教が、この世が「ままなる」ことを認めたということではないだろうか。 それは言わば、この世とあの世が接続されたようなものだ。 地獄も天国も、この世にある。 すると、あの世とか来世とかの意義としては何が残るかといえば、「死の恐怖の解消」の役割である。 良い人生とは、努力をし、結果を手に入れる人生であると僕は考える。 もし、様々な障害によって最終的な目標を手に入れることが出来ないとしても、それに到るまでの各段階における結果を手にし、それで人生が終わったならそれで良しとするのである。 個人の人生としてそうあるべきだと思うし、 そういう人生を皆が送れるような社会が良い社会だ、と思う。 人生は理不尽なものであるが、そんな中でも、個人の意思が因果律を作り出していく。 いや、 すべて世界は個人と関係ない因果律で動いているのだ。個人の視点でみれば、因果律が無いように見えるだけだ。 その中で、個人は意思の力で、自分の因果律を作っていこうとするのだ。 そこには、「現世」しか存在しない。 ところで、ヨーロッパは歴史的にイスラムのおかげで文明国となれたのに、十字軍によってイスラムを攻撃した。 それが、イスラムにとっての「十字軍コンプレックス」となった、という。(小室直樹著「日本人のためのイスラム原論」) このことと、日本が中国・韓国・朝鮮にその文明を負っていながら、逆に征服しに行ったことで、今でも恨みを買っていることと、全く同じ形になっている。 これはよく考えなければならないことだ。 |
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2002年04月16日 22時47分12秒
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| 部屋の中が異常に汚い |
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今日は父に会うために妹と北千住の喫茶店へ行った。 父ははじめ黒々と黙っていたが何か変わったことは無いかと問うと、 智ちゃんが引っ越したと云った。 智ちゃんとは僕の生まれて最初の友達だ。 小学校以来疎遠になっていた。 僕はもう、昔の友人とは全く付き合いがなくなり、孤独と言えなくも無いが、 元来寂しがりやではないので苦にならない。 とは言え、最初の友達の消息がわからなくなったことは少しは寂しくもある。 今日は父と別れた後、一人で池袋のジュンク堂書店へ行き仕事の本二冊、HPの本一冊、モンクのピアノ譜一冊を購入。 母の所で夕食を頂き(うなぎ)、帰った。 帰ってみたら部屋の中が異常に汚い。 僕の部屋の汚れる原因の第一番は古新聞だ。 整理整頓の苦手さが簡単に現れる。 今日夕食中にテレビを見ていたら、スマップやモーニング娘。や優香が、英語の問題に答えるゲームをしていた。 ぼくより出来ていた。 僕は最近英語の勉強をする必要性を感じることが多く、「一番簡単な英語の本」なども読んでいたが、今日のテレビを見ていて自分に英単語が全く不足していることがよくわかった。 今日買ってきたHPの本というのは「ジオシティーズ公式ガイド」である。 一週間ほど前にジオシティーズの住人になって以来、ファイルマネージャを使って日記帳だけは付けていたのだが、 試行錯誤していて仲々HP作成が前へ進まなかった。 今日公式ガイドを買ってきたので、グッとスピードが上がるだろう。 僕はこのHPを使って、自分の個人的な可能性を試したり、伸ばしたりする場にしたい。 絵を描いたり、英語の勉強をしたり、日記や読書録を書いたりする場にしたい。 HPは人様に見ていただくのが、勿論前提ではあるが、最初からそんな完全体のものが出来るとは思っていない。 野口悠起雄氏が、たしか最初は自分が利用するためだけのHPで良い、と書いていた。 それに気を強くして、僕もやってみようと思っている。 |
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2002年04月15日 00時15分49秒
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