あいおい よしたろう【相生 由太郎】
1867. 5.31(慶応 3. 4.28) 〜 1930. 1. 3(昭和 5)
◇実業家。福岡県生れ。
_1896(明治29)東京高等商業学校(現:一橋大学)卒業。日本郵船・教員を経て三井物産に入社。1907(明治40)南満州鉄道大連埠頭事務所長。1909(明治42)大連市に埠頭荷役業の福昌公司(コンス)を設立。1916(大正 5)大連商工会議所会頭に就任。関東庁市制調査会委員・関東庁経済調査会委員。
あいおいがき かじん【相生垣 瓜人】
1898. 8.14(明治31) 〜 1985. 2. 7(昭和60)
◇俳人。本名は貫二。兵庫県高砂町生れ。東京美術学校卒業。
あいかわ かつろく【相川 勝六】
1891.12. 6(明治24) 〜 1973.10. 3(昭和48)
◇内務官僚・政治家。佐賀県生れ。
_1919(大正 8)東京帝国大学卒業。内務省に入り、警視庁刑事部長・神奈川県警察部長などを歴任。1934(昭和 9)警保局保安課長となり第2次大本教(オオモトキョウ)弾圧などを指導。1936(昭和11)の二・二六事件の責任をとり朝鮮総督府警務局外事課長に転出。1937(昭和12)以来、宮崎・広島・愛知各県知事を歴任。大政翼賛会実践局長・内務次官を経て、1945(昭和20)小磯内閣の厚相として労務行政を強化。
_1946〜1951(昭和21〜昭和26)公職追放。1952〜1972(昭和27〜昭和47)衆議院議員・自民党治安対策特別委員長。
あいかわ としたか【相川 俊孝】
1889.12.24(明治22) 〜 1940.11.18(昭和15)
◇詩人。
あいかわ はるき【相川 春喜】
1909. 8.15(明治42) 〜 1953. 4.29(昭和28)
◇技術史家。本名は矢浪久雄。新潟県生れ。
_1929(昭和 4)学生ストで第四高等学校文科を中退。1936(昭和11)検挙(コム・アカデミー事件)、翌年釈放。1937〜1940(昭和12〜昭和15)岩波書店校正部嘱託。
_1944(昭和19)召応。1945(昭和20)ソビエト軍に投降しシベリアに抑留され、1949(昭和24)帰国。
_1950(昭和25)日本共産党に入党。選挙活動中に死去。
あいかわ よしすけ【鮎川 義介】《あいかは よしすけ》
⇒鮎川義介
あいざわ さぶろう【相沢 三郎】《あひざは さぶらう》
1889. 9. 6(明治22) 〜 1936. 7. 3(昭和11)
◇陸軍軍人・中佐。宮城県生れ。父は仙台藩士兵之助、母は仙台藩士羽田善助の娘まき子。妻は米子。
_仙台陸軍幼年学校を経て、1910(明治43)陸軍士官学校卒業。
_1910(明治43)仙台歩兵第29連隊に配属、東久迩稔彦(ナルヒコ)親王が中隊長であった。1918. 6.(大正 7)中尉として台湾歩兵第1連隊に転勤。1920(大正 9)戸山学校教官。1926. 8.(大正15)熊本の歩兵第13連隊中隊長。1927. 7.(昭和 2)少佐となり東京の歩兵第1連隊付。1931. 5.(昭和 6)青森の歩兵第5連隊大隊長、このころから憲兵にマークされる。1932. 8.(昭和 7)秋田の歩兵第17連隊付。1933. 8.(昭和 8)中佐として福山の歩兵第41連隊付。
_皇道派と統制派の抗争から狂信的な皇道派だった相沢は、真崎教育総監罷免直後に上京し、1935. 7.19(昭和10)統制派の中心人物の軍務局長永田鉄山少将に辞職を勧める。 8.12永田鉄山を陸軍省内で斬殺(永田事件)。
_1936. 5. 7(昭和11)第1師団軍法会議で死刑となり、 6.30陸軍高等軍法会議で上告棄却。 7. 3、二・二六事件の反乱将校らとともに銃殺刑。
(+)『検索!二・二六事件』 雄山閣出版 1993年 8月 1日印刷 田々宮英次郎:著 1993年 8月20日発行
_中佐は明治二十二年九月九日、父の任地である福島県白河町に生れたが、本籍は仙台市東六番町にあった。
あいざわ しげあき【相沢 茂明】
1910. 3.15(明治43) 〜 1981. 6.28(昭和56)
◇労働運動家・政治家。神奈川県生れ。
_1929(昭和 4)東京鉄道教習所専修部修了し、同年東京鉄道局に入る。
_太平洋戦争後、神奈川県労働金庫理事長・1948(昭和23)国鉄労働組合中央執行委員。
_1953(昭和28)組合闘争の責任を問われ解雇、同年参議院選挙の神奈川地方区から社会党公認で立候補し落選。1954(昭和29)総評副議長。1955(昭和30)神奈川知事選挙にも落選。1956(昭和31)参議院選挙で初当選、1962(昭和37)再選。
_1967(昭和42)収賄容疑で起訴され、有罪判決を受けその上告中に病死。
あいざわ せいしさい【会沢 正志斎】《あひざは せいしさい》
⇒会沢安
あいざわ ただひろ【相沢 忠洋】
1926. 6.21(大正15) 〜 1989. 5.22(平成元)
◇考古学者。東京生れ。
_1937(昭和12)夜間の青年学校を卒業。
_日本で最初の旧石器の発見者。
あいざわ やすし【会沢 安】《あひざは やすし》
1781(天明元. 5.25) 〜 1863(文久 3. 7.14)
◇江戸後期の学者。名は安、字は伯民、通称は恒蔵、号は憩斎・正志斎(セイシサイ)。常陸国久慈郡諸沢村生れ。水戸藩の下士。
_藤田幽谷に学び、幼少の徳川斉昭(ナリアキ)を指導。斉昭の長兄の水戸藩主徳川斉脩(ナリナガ)に子がなく、藩内に第11代将軍家斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があったが、藤田東湖(トウコ)(幽谷の子)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら下士改革派と斉昭を擁立、1829(文政12)斉脩の死去により斉昭が第9代藩主を継ぐ。これにより東湖らとともに藩政改革に参画。
_弘道館教授。彰考館総裁。
(4)生年は1782。
(6)生年は1782。
(16)生日は1781(天明1. 5/25)。
(26)生年は1782。
あいじま きょこう【相島 虚吼】
1867(慶応 3.12.19) 〜 1935. 4. 4(昭和10)
◇ジャーナリスト・俳人。本名は勘次郎。
(?)相島 巨吼(あいしま きょこう)。
あいしんかくら ふぎ【愛新覚羅 溥儀】
1906<光緒32>(明治39) 〜 1967(昭和42)
◇中国、清朝最後の皇帝。姓は愛新覚羅、名は溥儀。醇親王(ジュンシンオウ)載(「三水」偏+「豊」:補助4083〔_〕)(サイホウ)の子、溥傑(フケツ)の兄。
_清朝第12代皇帝、宣統帝(在位:1908〜1912)。辛亥革命により退位するが、皇帝の称号と年金を受ける。
_1924(大正13)馮玉祥(フウ・ギョクショウ)のクーデタで紫禁城を脱出し、日本の保護を受ける。1932(昭和 7)日本軍部に擁せられ満州国の執政、1934(昭和 9)皇帝(康徳帝)(在位1934〜1945)。
_日中戦争後、ソ連に抑留される。1950(昭和25)中国で戦犯となり、1959(昭和34)特赦で一市民となる。
_著書は『わが半生』。
◎ラストエンペラーと呼ばれる。
あいず やいち【会津 八一】
⇒会津八一
あいだ やすあき【会田 安明】《あひだ やすあき》
1747(延享 4) 〜 1817(文化14.10.26)
◇江戸時代の和算家。幼名は会田重松安旦、字は子貫、号は自在亭。出羽国(山形県)村山郡前赤石生れ。
_23歳のとき江戸に出て幕臣鈴木家の御家人の株を買い鈴木彦助安旦となり、治水工事に従事。1787(天明 7)浪人となり再び会田算左衛門安明。
_関(セキ)流と20余年に渡り論争、最上(モガミ)流を立てる。
あいだ ゆう【会田 由】
1903. 4. 3(明治36) 〜 1971. 2.27(昭和46)
◇スペイン文学者。
あいづ やいち【会津 八一(會津 八一)】
1881. 8. 1(明治14) 〜 1956.11.21(昭和31)
◇美術史家・歌人・書道家。号は秋艸道人(シュウソウドウジン)・渾斎(コンサイ)・八朔郎(ハッサクロウ)。新潟市古町通生れ。
_1906(明治39)早稲田大学英文科卒業。早稲田大学教授、英文学・東洋美術史を講義。
◆八一忌(秋艸忌・渾斎忌)[11.21]。
あいづや はちえもん【会津屋 八右衛門】
生年不詳 〜 1836(天保 7)
◇江戸末期の廻船問屋。石見(島根県)の人。
_竹島の所属・来歴を調べ渡航を企てる。幕府に探知され、死罪。
あいみつ【靉光】
1907(明治40) 〜 1946(昭和21)
◇洋画家。本名は石村日郎、画名は靉川光郎。広島県生れ。
_1924(大正13)大阪の天彩画塾で学ぶ。1925(大正14)上京、太平洋画会研究所に入所。1939(昭和14)美術文化協会の創立に参加。1942(昭和17)新人画会の会員。
_上海で戦病死。
あえば こうそん【饗庭 篁村】《あへば くわうそん》
1855(安政 2. 8.15) 〜 1922. 6.20(大正11)
◇小説家・演劇評論家。本名は与三郎(與三郎)、号は竜泉居士(龍泉居士)・太阿(タイア)居士・竹の屋主人・竹の舎(ヤ)主人。江戸の下谷竜泉寺町生れ。
_1874(明治 7)読売新聞に入社。1886(明治19)『当世商人気質』。
(4)別号は竹の屋主人。東京の生れ。
(6)竹の屋主人の号で……。江戸生まれ。
(16)別号竹之屋主人.江戸日本橋呉服商の子.
あえば とうあん【饗庭 東庵】
1615 〜 1673
◇江戸前期の医者。
(*)1615(慶長20,元和元)、1673(寛文13,延宝元)。
あお いえつぐ【青 家次】
生年不詳 〜 没年不詳
◇室町末期の鏡師。天正年間(1573〜1592)に活躍。
あおうどう でんぜん【亜欧堂 田善】《あおうだう でんぜん》
1748 〜 1823(文政 6. 5. 7)
◇江戸後期の洋風画家。本名は永田善吉、略称は田善。岩代国須賀川生れ。
_月僊(ゲッセン)・谷文晁(タニ・ブンチョウ)に学ぶ。さらに長崎の蘭学者から洋風画や銅版画を修得。
(4)没年は1822。
(6)没年は1822。
(*)1748(延享 5,寛延元)。
あおえ しゅんじろう【青江 舜二郎】《あをえ しゆんじらう》
1904.11.26(明治37) 〜 1983. 4.30(昭和58)
◇劇作家。秋田県生れ。1929(昭和 4)東京大学印度哲学科卒業。
(5)本名は大嶋長三郎。
(8)本名は大島長三郎。
あおえ みな【青江 三奈】《あをえ みな》
1945. 7. 7(昭和20) 〜 2000. 7. 2(平成12)
◇歌手。本名は井原静子(イハラ・シズコ)。東京都江東区生れ。
_クラブ歌手。
_1966(昭和41)『恍惚のブルース』でデビュー。
_膵臓(スイゾウ)ガンで死去。
_ヒット曲は1968(昭和43)『伊勢佐木町ブルース』・1969(昭和44)『池袋の夜』・『長崎ブルース』・『新宿サタディナイト』・『国際線待合室』など。
◎『港町ブルース』を歌った森進一とともにハスキーボイスで知られる。
あおき いわお【青木 巌】
1900.10. 5(明治33) 〜 1973. 1.11(昭和48)
◇西洋古典学者。
あおき おきかつ【青木 興勝】
1726(享保11) 〜 1812(文化 9)
◇江戸後期の蘭学者。旧姓は百野、通称は次右衛門、字は定遠・季方、号は五竜山人。福岡藩士。
あおき げっと【青木 月斗】
1879.11.20(明治12) 〜 1949. 3.17(昭和24)
◇俳人。本名は新護、号は小学校時代に図書、十七歳のとき月兎(ゲット)、1907(明治40)夏から月斗、晩年は山水老人。大阪市東区南久太郎町に生れ、若くして父を喪ない、家業の青木新護薬房を継ぐ。1894(明治27)大阪薬学校に入学したが中退。1900(明治33)に妹しげ江(茂枝)が河東碧梧桐(カワヒガシ・ヘキゴドウ)の妻となり、1908(明治41)には実子を碧梧桐の養女とする。1920(大正 9)俳誌「同人」を創刊。
(5)「月斗」では妹茂枝(シゲエ)。
(8)妹しげ江(茂枝)、「河東碧梧桐」では妹繁栄(シゲエ)。
(11)「河東碧梧桐」では妹茂枝(シゲエ)。
(13)三水老人の別号がある。
◆月斗忌[ 3.17]。
あおき けんさく【青木 健作】
1883.11.27(明治16) 〜 1964.12.16(昭和39)
◇小説家。本姓は井本、青木は旧姓。山口県生れ。東京大学美学科卒業。
あおき けんせい【青木 賢清】
1580(天正 8) 〜 1656(明暦 2)
◇江戸前期の修験者・宮司。肥前国佐賀の人。長崎でキリスト教の排撃をする。1624年、長崎奉行所の援助により長崎諏訪神社を復興し、のち宮司となる。
あおき こんよう【青木 昆陽】《あおき こんやう》
1698(元禄11. 5.12) 〜 1769(明和 6.10.12)
◇江戸中期の儒学者・蘭学者。名は敦書(アツブミ)、字は厚甫、通称は文蔵、号は昆陽。江戸日本橋の魚問屋に生れる。
_伊藤東涯に師事。与力加藤枝直が昆陽の『蕃薯考』(1735<享保20>)を町奉行大岡忠相に推挙、忠相の知遇を受ける。1739(元文 4)御書物御用達。第8代将軍吉宗の内示により蘭学を修める。のち書物奉行。
_オランダ語の初歩を修め、前野良沢に教える。
_没後、甘藷先生と称される。
◎東京都文京区の小石川植物園の甘藷試作の地に青木昆陽碑がある。
あおき しくんろう【青木 此君楼】
1887. 4.13(明治20) 〜 1968. 2.20(昭和43)
◇俳人。本名は茂雄。
あおき しげる【青木 繁】
1882. 7.13(明治15) 〜 1911. 3.25(明治44)
◇明治期の洋画家。日本神話を描く、挿絵もある。福田蘭童(ランドウ)の父。東京生れ。
_肺結核のため、麻布中学を中退。1904(明治37)東京美術学校を卒業。
_結核により福岡松浦病院で死去。
(2)1899(明治32)久留米中学明善校を3学年で退学、洋画家を志して上京、不同舎に入る。翌年東京美術学校に入学、……。
(4)久留米生れ。
(6)久留米生まれ。1899年上京,小山正太郎の不同舎に入る。1904年東京美術学校西洋画科選科卒。
(16)福岡県久留米の人.小山正太郎の不同舎に学び、のち東京美術学校に入学,1904(明治37)年同校洋画科選科を卒業.
あおき しげる【青木 茂】
1897. 3.30(明治30) 〜 1982. 3.27(昭和57)
◇児童文学者。
あおき しゅうすけ【青木 周弼】
1803(享和 3) 〜 1863(文久 3.12.16)
◇江戸後期の蘭方医。名は邦彦、号は月橋。周防国大島生れ。初め漢医方を学び、のち長崎に出てシーボルトから蘭医方を学ぶ。1838(天保 9. 6.)毛利藩に出仕。種痘を藩中に施術する。
あおき しゅうぞう【青木 周蔵】《あおき しうざう》
1844(天保15. 1.) 〜 1914. 3.16(大正 3)
◇明治期の外交官・政治家。長州藩出身。
_1873(明治 6)駐独外務一等書記官。
_1889(明治22)第1次山県内閣の外務大臣、1891(明治24)第1次松方内閣の外務大臣、1891(明治24)大津事件で辞職。
_1894(明治27)イギリス公使として陸奥宗光外務大臣に協力して日英通称条約の改正に成功。
_晩年、枢密顧問官。
あおき しゅくや【青木 夙夜】
生年不詳 〜 1789頃
◇江戸中期の南画家。名は俊明、字は夙夜、韓国の余章王の後裔余夙夜と自称、号は士風・大雅春塘・八岳山人。池大雅に学び、二世大雅堂とも称する。
(*)1789(天明 9,寛政元)。
あおき そうほう【青木 宗鳳】
生年不詳 〜 1765(明和 2)
◇江戸中期の茶人。号は几鳥・紫雪庵・水蒲・一統子。
あおき としひこ【青木 敏彦】
1900(明治33) 〜 1956.11. 9(昭和31)
◇俳人。
あおき ながひろ【青木 永弘(青木 長広)】
1656(明暦 2) 〜 1724(享保 9. 1.10)
◇江戸前期の吉田流神道家。本姓は藤原。長崎の諏訪神社の神官。
あおき まさる【青木 正児】
1887. 2.14(明治20) 〜 1964.12. 2(昭和39)
◇大正・昭和期の中国文学者。号は迷陽。京都大学卒業。山口県生れ。
_1920(大正 9)京都で小島祐馬・本田成之らと雑誌「支那学」を発行。1924(大正13)東北大学教授、1925〜1926(大正14〜大正15)北京に留学。1938(昭和13)京都大学、1949(昭和24)山口大学、のち立命館大学教授。
_中国留学中に『北京風俗図譜』を著す。
あおき もくべい【青木 木米】
1767(明和 4) 〜 1833(天保 4. 5.16)
◇江戸後期の陶工・南画家。幼名は八十八、別号は百六散人、通称は木屋佐兵衛、中年以後聴力を失い聾米と称する。京都の人。
_奥田穎川に陶法を学ぶ。粟田に窯を開き、のち金沢に春日山窯を開く。
_晩年、清国人朱笠亭の『陶説』を翻訳。
あおき ろすい【青木 鷺水】
1658 〜 1733(享保18)
◇江戸中期の俳人・浮世草子作者。
(*)1658(明暦 4,万治元)。
あおち りんそう【青地 林宗】《あをち りんそう》
1775(安永 4) 〜 1833(天保 4. 2.22)
◇江戸後期の蘭学者・医者・物理学者。名は盈(エイ)、字は子遠、号は芳滸(ホウコ)、字(アザナ)は林宗。江戸の人。松山藩主の侍医快庵の子。
_初め漢方医学を、のち杉田玄白について蘭学を修め、長崎に遊学。
_のち江戸に帰り、幕府の訳官馬場佐十郎(サジュウロウ)に天文学を学び、幕府の司天台訳員となり洋書の翻訳に従事。1825(文政 8)日本で最初の物理学書『気海観瀾(キカイカンラン)』1巻を著述。1826(文政 9)『輿地誌略(ヨチシリャク)』7巻を訳述。ロシア人ゴロブニンの『日本幽囚記(ユウシュウキ)』を馬場佐十郎と共訳(『遭厄(ソウヤク)日本紀事』)。他に『格物綜凡』など。
_1832(天保 3)水戸藩医。
_江戸で死去。
(4)生年は1784。
(6)生年は1775。
(16)生年は1823(天保 4):誤。
◆墓は浅草の曹源寺。
あおと つなよし【青砥 綱義】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸中期の養魚家。通称は武平次。越後国村上藩士。宝暦年間(1751〜1764)領内の三面川で種川制度(タネカワセイド)という鮭の人工孵化法を初めて試みる。
あおと なみえ【青戸 波江】
1857(安政 4.10. 8) 〜 1929.12.10(昭和 4)
◇明治・大正期の神職・典礼師範。売布(メフ)神社祠官青戸建庭の4男。
あおの すえきち【青野 季吉】《あをの すゑきち》
1890. 2.24(明治23) 〜 1961. 6.23(昭和36)
◇大正・昭和期の文芸評論家。幼名は儀一郎、4〜5歳頃に忠吉、中学入学前頃に季吉と改名。新潟県佐渡郡沢根村生れ。
_1915(大正 4)早稲田大学英文学部卒業。同年、読売新聞社に入社、争議を指導し解雇。1923(大正12)「種蒔く人」同人。「文芸戦線」で活躍。1938(昭和13)人民戦線事件に連座し、転向。
あおや げんえもん【粟生屋 源右衛門】
1792(寛政 4) 〜 1858(安政 5)
◇江戸後期の加賀九谷焼の陶工。時々、父源兵衛の号である「東郊」の押印を用いた。1822(文政 5)加賀小松に開窯。
あおやぎ きべい【青柳 喜兵衛】
1904. 1. 1(明治37) 〜 1938. 8.28(昭和13)
◇画家・詩人。
あおやぎ せいせい【青柳 菁々】
1901. 7.16(明治34) 〜 1957. 1. 1(昭和32)
◇俳人。本名は正二。
あおやぎ たねのぶ【青柳 種信】
1766(明和 3) 〜 1835(天保 6.12. 6)
◇江戸後期の国学者。通称は勝次、号は柳園。筑前の人。
_本居宣長に師事、名声が上がり藩士になる。
_1812(文化 9)伊能忠敬(タダタカ)が筑前を測量した時、藩命により協力。
あおやぎ みずほ【青柳 瑞穂】
1899. 5.29(明治32) 〜 1971.12.15(昭和46)
◇詩人・フランス文学者・美術評論家。山梨県生れ。慶応義塾大学仏文科卒業。
あおやぎ ゆうび【青柳 有美】
1873. 9.27(明治 6) 〜 1945. 7.10(昭和20)
◇評論家・随筆家。本名は猛(タケシ)。秋田県生れ。同志社普通学校卒業。
あおやぎ ゆたか【青柳 優】
1904. 2. 1(明治37) 〜 1944. 7.30(昭和19)
◇文芸評論家・詩人。長野県生れ。早稲田大学英文科卒業。
あおやま あきら【青山 士】《あをやま あきら》
1878. 9.23(明治11) 〜 1963(昭和38)
◇磐田市中泉生れ。
_帝国大学工学部土木工学科、卒業。
_1904(明治37)自費でパナマ運河工事に従事。測量の見習い技師から始めて、次第に実力を認められ、大西洋側のガツン閘門の重要部分の設計を任せられるが、運河は米国の機密事項であるとして外される。
_帰国後、荒川改修の荒川放水路と岩淵水門に従事。信濃川の大河津分水路を完成。
あおやま かげみち【青山 景通】
1819(文政 2) 〜 1891.12.11(明治24)
◇江戸幕末・明治維新期の国学者(平田派)。美濃苗木藩士。青山直道(ナオミチ)の父。
_平田篤胤(アツタネ)に学ぶ。
あおやま かそん【青山 霞村】
1874. 6. 7(明治 7) 〜 1940. 2.(昭和15)
◇歌人。本名は嘉二郎、別名は草山隠者。
あおやま くまじ【青山 熊治】《あをやま くまぢ》
1886(明治19) 〜 1932.12.11(昭和 7)
◇洋画家。兵庫県生野生れ。
_1904(明治37)東京美術学校入学、同校卒業。
_1910(明治43)『アイヌ』白馬賞を受賞。1914(大正 3)渡欧、1922(大正11)までパリ在住。
_帰国後、帝展審査員。1926(大正15)帝展で『高原』、1928(昭和 3)帝展で『黄昏』を発表。
_1932(昭和 7)九州大学の壁画製作中に客死。
(6)東京美術学校中退。
あおやま すぎさく【青山 杉作】
1889. 7.22(明治22) 〜 1956.12.26(昭和31)
◇演出家・俳優・俳優教師。本名は達美。新潟生れ。早稲田大学中退。
_1917(大正 6)村田実らと踏路社(トウロシャ)を創立。1924(大正13)築地小劇場同人。松竹少女歌劇団の養成・指導。1944(昭和19)俳優座を結成。
あおやま ただとし【青山 忠俊】
1578(天正 6) 〜 1643(寛永20. 4.15)
◇江戸初期の老中。字は藤九郎。忠成の子。武蔵国岩槻藩主。1586(天正14)徳川秀忠に仕え、関ヶ原の役・大坂の陣に従軍。家光の代に土井利勝(ドイ・トシカツ)・酒井忠世(サカイ・タダヨ)とともに寛永の三輔といわれる。諌言(カンゲン)により家光の勘気に触れ、1623(元和 9)上総大多喜城二万石に減封、のち蟄居(チッキョ)、相摸国今泉で死去。
あおやま ただなり【青山 忠成】
1551(天文20) 〜 1613(慶長18)
◇江戸初期の関東総奉行。徳川譜代の青山忠門(タダカド)の子、忠俊(タダトシ)の父。
あおやま ただみち【青山 忠裕】
1768(明和 5) 〜 1836(天保 7)
◇江戸中期の老中・丹波国篠山藩主。下野守。1804年、老中となる。1789年、光格(コウカク)天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を奏上しようとした事件を老中松平定信が拒み、これを解決する。
(*)1804(享和 4,文化元)、1789(天明 9,寛政元)。
あおやま たねみち【青山 胤通】《あをやま たねみち》
1859(安政 6. 5.) 〜 1917(大正 6.12.24)
◇医学者。美濃の人。
_1882(明治15)東京大学医学部卒業。ベルリンに留学。1887(明治20)東京大学教授・伝染病研究所所長・宮内省御用掛。1901(明治34)癌研究会を創立。
あおやま なおみち【青山 直道】
1846(弘化 3) 〜 1906(明治39)
◇明治維新期の藩政改革者。青山景通(カゲミチ)の子。
あおやま のぶゆき【青山 延于】《あをやま のぶゆき》
1776(安永 5) 〜 1843(天保14. 9. 6)
◇江戸後期の儒学者(水戸学派)。通称は量介、字は子世、号は拙斎・雲龍。水戸藩士。延彝の子、延光の父。
_立原翠軒(タチハラ・スイケン)に学ぶ。彰考館および弘道館総裁。
あかい かげあき【赤井 景韶】
1859(安政 6) 〜 1885(明治18)
◇明治初期の自由民権運動家。
_スパイの密告によって、1883. 3.(明治16)新潟県の頸城(クビキ)自由党員赤井らが大臣暗殺・内乱の陰謀ありとして、新潟県高田での北陸七州自由党懇談会に出席した36名が一斉検挙。証拠がなく釈放されたが、赤井だけは重禁獄となる。のち脱獄するが、内乱罪で死刑。
あかいわ さかえ【赤岩 栄】
1903. 4. 6(明治36) 〜 1966.11.28(昭和41)
◇評論家・牧師(新教)。愛媛県生れ。
_社会主義運動に参加。『キリスト教脱出記』を著す。
あかお とうし【赤尾 兜子】
1925. 2.28(大正14) 〜 1981. 3.17(昭和56)
◇俳人。本名は俊郎(トシロウ)。
あかがわ ぶすけ【赤川 武助】
1906.12. 6(明治39) 〜 1954. 3.17(昭和29)
◇児童文学者。
あかぎ かくどう【赤木 格堂】
1879. 7.27(明治12) 〜 1948.12. 1(昭和23)
◇歌人・俳人・政治家。本名は亀一。岡山県生れ。衆議院議員。
あかぎ こうへい【赤木 桁平】
1891. 2. 9(明治24) 〜 1949.12.10(昭和24)
◇評論家・政治家。本名は池崎忠孝、旧姓は赤木。岡山県生れ。東京大学独法科卒業。
あかぎ さかえ【赤城 さかえ】
1908. 6. 3(明治41) 〜 1967. 5.16(昭和42)
◇俳人。本名は藤村昌(サカエ)。
あかぎ しょうぞう【赤城 正蔵】
生年不詳 〜 没年不詳
◇出版人。1914(大正 3)、一年間に百余冊の「アカギ叢書」を刊行、文庫本出版の先駆者。
あかぎ ただはる【赤木 忠春】
1816(文化13) 〜 1865
◇幕末の神道家・黒住教創建者の一人。名は宗一郎。美作(ミマサカ)の地主出身。
_1845(弘化 2)開祖黒住宗忠(クロズミ・ムネタダ)に入門。宗忠の死後、京都で布教し、1862(文久 2)京都神楽岡に宗忠神社を建立。晩年、黒住教に復古神道を導入したため、1864年、破門になる。
(*)1865(元治 2,慶応元)、1864(文久 4,元治元)。
あかざわ ぶんじ【赤沢 文治】《あかざは ぶんぢ》
1814(文化11) 〜 1883.10.10(明治16)
◇金光教の教祖。幼名は香取(カンドリ)源七、本名は赤沢文治。教祖名は金光大神(コンコウ・ダイジン)。備中国占見村(現:岡山県金光町)生れ。
あかし かいじん【明石 海人】
1901. 7. 5(明治34) 〜 1939. 6. 9(昭和14)
◇詩人・歌人・画家。癩病患者のため本名・出生地は不詳。
(1)生年は1901(明治34)。
(3)生年は1901(明治34)。
(5)生年は1902(明治35)。
(8)生年は1901(明治34)。
(11)生年は1902(明治35)。
あかし かくいち【明石 覚一】
生年不詳 〜 1371(<南>建徳 2,<北>応安 4. 6.29)
◇南北朝時代の琵琶法師。足利氏の一族、検校(ケンギョウ)。
あかし しがのすけ【明石 志賀之助】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸初期の力士・初代横綱。宇都宮出身。
_身長七尺五寸(2.3メートル)といわれ、寛永年間(1624〜1644)に活躍。京都に上り仁王仁太夫を倒し、朝廷より日下相撲開山(ヒノシタカイサン)の称号を受ける。
あかし じゅんぞう【赤石 順三】
1889. 7. 1(明治22) 〜 1965.11.14(昭和40)
◇宗教家(キリスト教)。
あかし じろう【明石 次郎】
生年不詳 〜 1679(延宝 7. 9.20)
◇江戸前期の明石縮の創始者。姓は堀、名は将俊。播磨国明石の人。越後国小千谷に移り、越後縮を改良し明石縮の製作に専念、寛文年間(1661〜1673)に創製。
あかし としお【赤石 敏夫】
1897. 6.11(明治30) 〜 1970.10.10(昭和45)
◇小説家。
あかし もとじろう【明石 元二郎】
1864 〜 1919(大正 8)
◇陸軍大将。
_幼年学校・士官学校を経て、1894(明治27)ドイツに留学。日清戦争で近衛師団参謀。日露戦争中、欧州で諜報活動に従事。1908(明治41)朝鮮駐箚(チュウサツ)軍参謀長兼憲兵隊長として朝鮮併合に尽力。参謀本部次長・第六師団長。1918. 6. 6(大正 7)第7代台湾総督就任。1919. 8.20(大正 8)初代台湾軍司令官就任。
(*)1864(文久 4,元治元)。
あかし もりしげ【明石 守重】
生年不詳 〜 没年不詳
◇安土桃山の武将。掃部(カモン)頭守重、号は全登。
_1595(文禄 4)キリシタンになる。宇喜多秀家(ウキタ・ヒデイエ)に仕え、関ヶ原の役では豊臣方として戦い、敗れて筑前国秋月に潜伏。1615年、大坂の夏の陣で奮戦したが、敗れて潜伏。1617(元和 3)特赦を受けるが、やがて病死する。
(*)1615(慶長20,元和元)。
あかぞめ えもん【赤染 衛門】《あかぞめ ゑもん》
957(天徳元)頃 〜 1041(長久 2)以降
◇平安中期の女流歌人。右衛門尉赤染時用(トキモチ)の娘、一説に母の前夫平兼盛(カネモリ)の娘とも。大江匡衡(オオエノマサヒラ)の妻。
_藤原道長の室倫子に仕える。
_梨壺五歌仙・中古三十六歌仙の一。歌で和泉式部と並び称される。
あがたいぬかいのたちばなのみちよ【県犬養 橘三千代】
生年不詳 〜 733(天平 5. 1.11)
◇奈良時代(天武〜聖武朝)の女官。別称は橘三千代・県犬養宿禰(スクネ)三千代・橘氏大夫人(ダイブニン)・県犬養宿禰命婦(ミョウブ)・県狗養宿禰命婦。県犬飼宿禰東人の娘。
_はじめ美努(ミヌ)王に嫁して葛城王(カツラギオウ)(のちの橘諸兄<モロエ>)・佐為王・与漏女王を生む。
_文武天皇のお守役として宮中に勢力を得、 708年橘姓を賜る。
_のち藤原不比等(フヒト)に嫁して安宿媛(アスカベヒメ)(光明子,光明皇后)・多比能(のち諸兄夫人)を生む。
(*) 708(慶雲 5,和銅元)。
あかつか じとく【赤塚 自得】
1871(明治 4) 〜 1936(昭和11)
◇漆芸家。代々平左衛門を名乗る。
_父に蒔絵(マキエ)を、狩野久信・寺崎広業に日本画を、白馬会研究所で洋画を学ぶ。
あかね たけんど【赤根 武人(赤彌 武人)】
1839(天保10) 〜 1866(慶応 2)
◇幕末の志士。通称は幹之丞、旧姓は松崎、赤彌とも書く。周防国阿月の赤根雅平の養子。1863(文久 3)高杉晋作の後をついで奇兵隊総督になる。しかし晋作と意見を異にし、新選組に加担、長州藩恭順派に内応して捕われ、斬首。
あがの きぞう【上野 喜蔵】
生年不詳 〜 没年不詳
◇安土桃山時代の肥前上野焼・肥後八代焼の陶祖。朝鮮人尊益の子で名は尊楷、和名は上野喜茂高園。文禄の役の時、細川忠興(三斎)に従って帰化し、肥前国田川郡に窯を開く。1632(寛永 9)細川藩とともに肥後に移り、八代郡奈良木村に窯を開き、八代焼(高田焼)を始める。
あかば がんけつ【赤羽 巌穴】
1875. 4. 5(明治 8) 〜 1912. 3. 1(明治45)
◇社会思想家。本名は一(ハジメ)。長野県生れ。東京法学院(現:中央大学)卒業。農民運動に従事し逮捕され、千葉刑務所で獄死。
あかばし ひでとき【赤橋 英時】
生年不詳 〜 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5.25)
◇鎌倉幕府最後の九州探題。北条英時、赤橋は鎌倉の地名。
_時久の子、執権赤橋守時(モリトキ)の弟。
(16)「あかばし」、「北条英時」の項では「あかはし」。
あかばし もりとき【赤橋 守時】
生年不詳 〜 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2. 5.18)
◇鎌倉幕府最後の執権。北条守時、赤橋は鎌倉の地名。
_時久の子、九州探題赤橋英時(ヒデトキ)の兄。
_新田義貞と州崎で戦い、敗れて自刃。
(16)「あかばし」、「北条守時」の項では「あかはし」。
あかばね げんぞう【赤埴 源蔵】
⇒赤埴重賢
あかばね しげかた【赤埴 重賢】
1669(寛文 9) 〜 1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻役、禄高200石、江戸詰め。通称は源蔵(ゲンゾウ)、戒名は刃名広中剣信士。吉良家の探索中の変名は高畠源五右衛門(タカハタ・ゲンゴエモン)。
_討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、中村角太夫(カクダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。
◎浪曲などでは「赤垣(アカガキ)源蔵の徳利の別れ」で有名。
あかまつ うじのり【赤松 氏範(赤松 氏則)】《あかまつ うぢのり》
1330(元徳 2) 〜 1386(<南>元中 3,<北>至徳 3. 9. 2)
◇南北朝時代の武将。赤松則村(ノリムラ)の第4子、範資(ノリスケ)・貞範・則祐(ノリスケ)の弟。
_父の死後、兄弟との不和で一人南朝(吉野方)につき、北朝側の兄たちと播磨の清水に戦って敗れ、自刃
あかまつ えんしん【赤松 円心】
⇒赤松則村
あかまつ かつまろ【赤松 克麿】
1894.11. 4(明治27) 〜 1955.12.13(昭和30)
◇社会運動家。山口県出身。
_東京大学に在学中、新人会を創立。卒業後、日本労働総同盟幹部。日本共産党の創立にも参画。のち転向して総同盟右派・社会民衆党書記長。1932(昭和 7)脱党して日本国家社会党・日本革新党などを結成。1940(昭和15)大政翼賛会に参加して企画部長。
_第二次世界大戦後、戦争協力により公職追放。
_著書は『日本社会運動史』・『日本労働運動発達史』など。
あかまつ こさぶろう【赤松 小三郎】《あかまつ こさぶらう》
1831(天保 2) 〜 1867(慶応 3)
◇幕末の洋式兵学者。名は友裕、号は宇宙堂。信州上田藩士。佐久間象山から兵学や数学を学ぶ。京都東洞院五条通で暗殺される。
あかまつ そうしゅう【赤松 滄洲】《あかまつ さうしう》
1721(享保 6) 〜 1801(寛政13. 1. 8)
◇江戸中期の儒学者(折衷学派)。名は鴻、字は国鸞、号は滄洲。播磨国三日月藩の人。舟曳通益の子、赤穂藩の医官大川耕斎の養子。
あかまつ そくゆう【赤松 則祐】《あかまつ そくいう》
⇒赤松則祐
あかまつ のりすけ【赤松 則祐】
1314(正和 3) 〜 1371(<南>建徳 2,<北>応安 4.11.29)
◇南北朝時代の武将。法号は妙善、赤松律師ともいう。赤松則村(ノリムラ)の3男、範資(ノリスケ)の弟、義則(ヨシノリ)の父。
_はじめ出家して延暦寺に居り、帥律師妙善と称する。
_元弘の乱で、村上義光とともに十津川に匿れた護良(モリナガ)親王に従い、親王が吉野に兵を挙げると父則村に勧めて後醍醐天皇の倒幕挙兵に加わる。
_のち足利尊氏に属し、父の没後に播磨守護職を継ぎ、備前・美作(ミマサカ)の守護職も兼ねる。
(16)赤松則祐(ノリスケ)の項:生年は1314(正和 3)。
(19)赤松則祐(ソクユウ)の項:生年は1311。
あかまつ のりすけ【赤松 範資】
生年不祥 〜 没年不祥
◇南北時代の武将・七条赤松家の祖。幼名は太郎、法名は世範。赤松則村(ノリムラ)の嫡男、貞範・則祐(ノリスケ)・氏範の兄。
_元弘の乱に父則村とともに南朝方に味方して戦い、左京亮大夫判官。
_1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏(アシカガ・タカウジ)の挙兵に応じて室町幕府の確立に尽くし、摂津守護職。
あかまつ のりむら【赤松 則村】
1277(建治 3) 〜 1350(<南>正平 5,<北>貞和 6. 1.11)
◇南北朝時代の武将。名は則村、初名は次郎、法名は円心(エンシン)。茂則(モチノリ)の子、範資(ノリスケ)・貞範・則祐(ノリスケ)・氏範の父。
_元弘の乱に反幕府軍として護良(モリナガ)親王に従い播磨で挙兵し、杉坂山を守り山陽・山陰の両道の連絡を絶ち、ついで山崎・桂川の戦いに北条勢を破って上洛し、東寺に布陣。北条氏が滅亡して後醍醐天皇が隠岐から還幸した時、兵庫に迎える。功により播磨守護職に任じられ、建武中興の功臣であったが間もなく朝廷より職を免ぜられ、播磨国佐用庄を領有するのみとなる。
_1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏(アシカガ・タカウジ)の挙兵とともに北朝に投じ活躍して、尊氏から播磨守護職に任じられる。尊氏が九州に走った時、播磨白旗城に拠って新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)の追撃を阻止。1338(<南>延元 3)尊氏の東上に当っては湊川で楠木正成(マサシゲ)らを破る。
◎室町幕府開創を助け、赤松氏繁栄の基礎を築く。
◎1337(<南>延元 2,<北>建武 4)雪村友梅を開山として法雲寺を建立。
あかまつ ひろみち【赤松 広通】
1568(永禄11) 〜 1600(慶長 5)
◇安土桃山時代の武将。名は広秀・広英とも、姓は斎村とも。赤松正秀の子。
_関ヶ原の戦でははじめ西軍であったが、亀井茲矩(コレノリ)に誘われて東軍に加わる。
あかまつ まさのり【赤松 政則】
1455 〜 1496(明応 5. 4.25)
◇室町中期の武将。幼名は法師丸。性存の子、満祐(ミツスケ)の甥。
_1441(嘉吉元)赤松満祐の嘉吉の乱で没落していた赤松氏の遺臣が、1458(長禄 2)南朝側から神璽を奪って幕府に献上し、赤松氏の再興が許される。応仁の乱では妻の父細川勝元に味方する。
(*)1455(享徳 4,康正元)。
あかまつ みつすけ【赤松 満祐】
1381 〜 1441(嘉吉元. 9.10)
◇室町中期の武将。法号は性具。教康(ノリヤス)の父、義則(ノリヨシ)の子、則祐(ノリスケ)の孫、則村(ノリムラ)の曾孫。
_播磨(ハリマ)・備前・美作(ミマサカ)の守護職にあり、幕府の侍所頭人を勤め幕政に寄与。一時所領没収の風説で幕府に反抗。
_のち将軍足利義教(ヨシノリ)が一族の赤松貞村に播磨守護職を与えようとしているの知り、1441(嘉吉元)義教を結城合戦平定の祝賀と称して京都の自邸に招き、長男教康に弑(シイ)させる。領国に帰った満祐は、幕府に遣わされた山名持豊(宗全)・細川氏に城山城を攻められ、教康を脱出させて一族は自害する(嘉吉<カキツ>の乱)。
(*)1381(<南>天授 7,<北>康暦 3;<南>弘和元;<北>永徳元)。
あかまつ よしのり【赤松 義則】
1358(<南>正平13,<北>延文 3) 〜 1427(応永34)
◇南北朝・室町初期の武将。則祐(ノリスケ)の子。
_明徳の乱に功があり旧領美作(ミマサカ)を回復し、播磨・備前・美作3国の守護職、幕府の侍所所司。
_また、四職家の一つとなる。
あかまつ りんさく【赤松 麟作】
1878. 1.20(明治11) 〜 1953.11.24(昭和28)
◇洋画家。岡山県津山生れ。
_1899(明治32)東京美術学校西洋画科選科卒業。
_1901(明治34)『夜汽車』で白馬賞、受賞。北沢楽天の「東京パック」の成功に刺激されて1906. 9.(明治39)「大阪パック」(月二回刊)を創刊し弟子たち(赤松洋画研究所)に漫画を描かせる。
_1908(明治41)大阪に関西女子洋画研究所を開設。1936(昭和11)関西女子美術学校教授、1941(昭和16)同校校長。
あかん【阿観】
1136(保延 2) 〜 1207
◇僧侶。
_承安年間(1171〜1175)に金剛寺(現:大阪府河内長野市天野<アマノ>町)を再興。
(*)1207(建永 2,承元元)。
あきずき たねざね【秋月 種実】
⇒秋月種実
あきた うじゃく【秋田 雨雀】
1883. 1.30(明治16) 〜 1962. 5.12(昭和37)
◇劇作家・小説家・童話作家・社会運動家。本名は徳三。青森県南津軽郡黒石町生れ。1907(明治40)早稲田大学英文科卒業。
_島村抱月に師事し芸術座に参加。のち社会主義運動にも参加。
(1)誕生日は 1.30。
(3)誕生日は 1.30。
(5)誕生日は 1.31。
(8)誕生日は 1.30。
(11)誕生日は 1.31。
(13)誕生日は 2. 2。
(16)誕生日は 1.30、没日は 5.17。
あきた さねすえ【秋田 実季】
1576(天正 4) 〜 1659(万治 2.12.14)
◇江戸初期の常陸宍戸藩主。幼名は安東太郎。愛季の子。
_はじめ出羽檜山城に居り豊臣秀吉に属したが、関ヶ原の戦には東軍に加わり、宍戸城に転封される。
あきた しげる【秋田 滋】
1908. 7. 5(明治41) 〜 1943.10.15(昭和18)
◇フランス文学者・翻訳家。
あきた みのる【秋田 実】
1905. 7.15(明治38) 〜 1977.10.27(昭和52)
◇漫才作家。本名は林広次(ヒロツグ)。大阪生れ。東京大学支那哲学科卒業。1934(昭和 9)吉本興業文芸部に入る。
あきづき たねざね【秋月 種実】
1545(天文14) 〜 1596(文禄 5. 9.26)
◇戦国時代の武将。幼名は黒帽子丸、通称は修理大夫・筑前守、号は宗(「門」構えに「言」:補助6204〔_〕)(ソウギン)。筑前秋月城主秋月種方の次男。
_1557(弘治 3)種方が大友義鎮に敗死して、家督を継ぐ。毛利氏を頼り、しばしば大友氏と戦う。1587(天正15)豊臣秀吉の島津氏征伐で、島津氏を援けて大隅城を守るが、敗れて軍門に下り諸城を没収される。
あきば たろう【秋庭 太郎】
1907. 5.19(明治40) 〜 1985. 3.17(昭和60)
◇近代演劇・文学研究家。東京生れ。1930(昭和 5)東洋大学大学院卒業。
あきば としひこ【秋庭 俊彦】
1885. 4. 5(明治18) 〜 1965. 1. 4(昭和40)
◇ロシア文学者・俳人。東京生れ。早稲田大学英文科卒業。品川東海寺にはいり沢庵和尚(タクアンオショウ)三代をつぐ。
(3)誕生日は1884. 4. 7(明治17)、没日は 1. 5。
(5)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は 1. 4。
(8)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は 1. 4。
(11)誕生日は1885. 4. 5(明治18)、没日は記載なし。
あきひと しんのう【彰仁 親王】《あきひと しんわう》
1846(弘化 3) 〜 1903(明治36)
◇伏見宮第19世邦家親王の第8王子。
_1870(明治 3)分家して東伏見宮を創立、のち1882(明治15)小松宮と改称。
_議定・軍事総裁として鳥羽伏見の戦などに従軍。のち参謀総長。陸軍大将・元帥。
あきひろおう【顕広王】
1095(嘉保 2) 〜 1180(治承 4. 7.19)
◇平安後期の神祇伯。花山源氏の出で顕康(アキヤス)の子、母は筑前守藤原敦憲の娘。
_1165年、神祇伯となり、王(白川伯)と称する。
(*)1165(長寛 3,永万元)。
あきもと しょういちろう【秋元 正一郎】
1823(文政 6) 〜 1862(文久 2. 8.29)
◇江戸後期の国学者。名は安民、のち正蔭、通称は正一郎。姫路藩士秋元右源次の子。
_大国隆正(オオクニ・タカマサ)・伴信友(バン・ノブトモ)に師事。播磨国三木の開墾に従事。同藩の国学寮教授となる。安政年間(1854〜1860)江戸で洋式帆船の構造を研究。晩年、京都で勤皇運動に携わる。
あきもと ふじお【秋元 不死男】
1901.11. 3(明治34) 〜 1977. 7.25(昭和52)
◇俳人。本名は不二雄、旧号は地平線・東(ヒガシ)京三。横浜市本町生れ。劇作家秋元松代(マツヨ)の実兄。
(11)生年は1905(明治38)。
(13)生年は1901(明治34)。
◆不死男忌[ 7.25]。
あきやま ぎょくざん【秋山 玉山】
1708(宝永 5) 〜 1763(宝暦13.12.11)
◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。名は儀、通称は儀右衛門、字は子羽、号は玉山・青柯。豊後国鶴崎の人。中山定勝の子。
_細川家の医員の叔父秋山需庵に養われ、医業を継ぐ。かたわら水足屏山・三浦梅園に学ぶ。肥後藩主細川氏に従い江戸に出て、昌平黌に入り林鳳岡(ホウコウ)に学ぶ。帰藩し藩校時習館を設立、祭酒(校長)になる。
(2)生年は1702(元禄15)。
(16)生年は1708(宝永 5)。
あきやま さねゆき【秋山 真之】
1868(慶応 4) 〜 1918(大正 7)
◇明治・大正期の海軍軍人・中将。伊予国(愛媛県)松山生れ。松山藩士秋山平五郎久敬の子、秋山好古(ヨシフル)の弟。海兵17期生。
_日露戦争では東郷平八郎指令長官の幕僚として連合艦隊の作戦参謀。日本海海戦に、「舷々相摩す」・「天気明朗なれども波高し」などの語を作る。第一次世界大戦では軍務局長。
あきやま しゅうこうりょう【秋山 秋紅蓼】
1885.12.24(明治18) 〜 1966. 1.19(昭和41)
◇俳人。本名は鉄雄。
あきやま ていすけ【秋山 定輔】
1868 〜 1950(昭和25)
◇明治・大正期の政治家。岡山県出身。東京大学卒業。
_1890(明治23)法制局試補に任ぜられる。1893(明治26)大井憲太郎・神鞭知常(コウムチ・トモツネ)らと大日本協会の機関誌で報道中心の日刊新聞「二六新報」を創刊、社長となる。1895(明治28)不振りで休刊となり、1900(明治33)再刊、大衆的新聞となる。1902(明治35)代議士。日露戦争のとき、スパイ「露探」の嫌疑を受け、1904. 3.(明治37)辞職。1905(明治38)日露講和条約反対の日比谷焼打事件に関係する。黎明期の労働運動を支援。のち宮崎滔天(トウテン)らと親交を重ね、孫文の革命運動を支援し、大陸問題で政界の黒幕的存在となる。
(*)1868(慶応 4,明治元)。
あきやま まさか【秋山 正香】
1903.11.24(明治36) 〜 1966.10.31(昭和41)
◇小説家。
あきやま やすさぶろう【秋山 安三郎】
1886. 3. 9(明治19) 〜 1975. 6.19(昭和50)
◇演劇評論家・随筆家。東京浅草生れ。
あきやま よしふる【秋山 好古】
1859(安政 6) 〜 1930(昭和 5)
◇明治・大正期の陸軍軍人・大将。通称は信三郎。伊予国(愛媛県)松山(現:歩行町2丁目)生れ。松山藩士秋山平五郎久敬の3男、秋山真之(サネユキ)の兄。
_1875(明治 8)大阪の師範学校を卒業し、名古屋で小学校教員となる。1877(明治10)陸軍士官学校旧3期生、1883(明治16)陸軍大学校に進み、騎兵科卒業。1887(明治20)旧藩主久松定謨の補導役として4年間フランスに留学。
_日清戦争では騎兵第一大隊長。戦後は陸軍乗馬学校長。
_日露戦争では騎兵第一旅団長。騎兵監・師団長・軍事参議官を歴任。
_1916(大正 5)大将。1923(大正12)退役。
_北伊予中学校(現:松山北高校)校長。
あきやま ろくろうべえ【秋山 六郎兵衛】
1900. 4.11(明治33) 〜 1971. 8.23(昭和46)
◇ドイツ文学者。
あきら さだよし【秋良 貞温】
1811(文化 8) 〜 1890(明治23)
◇幕末の尊皇攘夷派志士。通称は敦之助。周防国熊毛郡阿月村生れ。長州藩浦靱負の家臣。家老となり、ペリー来航後尊皇攘夷を藩主に建言。江戸で諸藩の志士と交わる。維新後は藩の政事堂に出仕、のち教部省諸官などを経て、神道教院少教正に任ぜられる。
あくたがわ ひろし【芥川 比呂志】
1920. 3.30(大正 9) 〜 1981.10.28(昭和56)
◇俳優・演出家・随筆家。東京生れ。芥川龍之介の長男。
_慶応義塾大学仏文科卒業。
_1948(昭和23)文学座に参加。
あくたがわ よしお【芥川 徳郎】
1886. 3.20(明治19) 〜 1969.11.30(昭和44)
◇歌人。号は葭穂。
あくたがわ りゅうのすけ【芥川 竜之介(芥川 龍之介)】《あくたがは りゆうのすけ》
1892. 3. 1(明治25) 〜 1927. 7.24(昭和 2)
◇大正時代の小説家。辰年辰月辰日の辰の刻の生れにちなみ龍之介と命名された、初期の筆名は柳川隆之介、号は澄江堂(チョウコウドウ)主人・寿陵余子(ジュリョウヨシ)・我鬼(ガキ)(俳句)、旧姓は新原(ニイハラ)、芥川は母の姓。東京市京橋区入船町8丁目1番地(現:中央区明石町10〜11番地)生れ。新原敏三の長男、母はふく。新劇俳優芥川比呂志(ヒロシ)・作曲家芥川也寸志の父。
_実母ふくが彼の生後九ヶ月ごろから発狂したため、その実家(本所区小泉町:現在の墨田区両国3丁目)の伯父芥川道章に養われ、のち12歳のとき養子となる。養母は細木香以(サイキ・コウイ)の姪の儔である。
_1916. 7.(大正 5)東京帝国大学英文科卒業。卒業後、海軍機関学校の英語教官となり鎌倉に住み、1919(大正 8)辞職して上京。のち大阪毎日新聞社社員。
_1914(大正 3)在学中、菊池寛・久米正雄らと第三次「新思潮」を発刊。『鼻』が夏目漱石に認められる。歴史に題を取る小説が多い。田端の自宅で睡眠薬(ヴェロナール)自殺。
_1935(昭和10)龍之介を記念して文藝春秋社が無名または新進作家に贈る芥川賞を設ける。
_作品は『地獄変』・『羅生門』・『河童』・『或阿呆の一生』など。
◎1927. 3. 7(昭和 2)東京朝日新聞に北原白秋監修の『日本児童文庫』(アルス)と菊池寛・芥川龍之介責任編集の『小学生全集』(興文社・文藝春秋社)の広告が同時に掲載され、互いに誹謗しあい訴訟にまで発展。龍之介は白秋と菊池の板挟みとなり、自殺の遠因となったといわれている。
_養家には母ふくの姉ふきがおり、龍之介はこの伯母を慕っていた。
_龍之介の長姉は夭折。次姉ハツは再婚し、その相手西川豊は莫大な保険金をかけた家が焼け放火の疑いで、龍之介の自殺の半年前に鉄道自殺。
◎生家は耕牧舎という乳牛の牧場で、父敏三はそこの経営者。
_この地は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩の上屋敷跡でもある。
◆河童忌(我鬼忌・龍之介忌)[ 7.24]好んで河童(カッパ)の絵を描き、小説『河童』から。
あけがらす はや【暁烏 敏】
1877. 7.12(明治10) 〜 1954. 8.27(昭和29)
◇僧侶・歌人・評論家。
あけち ひでみつ【明智 秀満】
1537(天文 6) 〜 1582(天正10. 6.14)
◇安土桃山時代の武将。初名は三宅弥平次。明智光秀の弟。
_明智光秀の丹波平定後、丹波福知山城主。1582(天正10. 6. 2)早朝の本能寺急襲の先鋒となる。変後、安土城を守っていたが、 6.13光秀の山城大山崎での敗戦を聞き、光秀の軍に馳せ参じようと城を出る。大津で羽柴秀吉の部将堀秀政の軍と遭遇、敗れて小船で琵琶湖を渡り、近江坂本城に脱出。翌日、攻囲されて、光秀の妻子を殺し城に火を放ち自刃。
(2)生年は1557(弘治 3)。山崎合戦で敗北し,……。
(4)生年は1537。左馬介と称。安土に敗れて大津から馬上湖水を渡って城に入るも、包囲され自刃。
(16)生年は1537(天文 6)。俗説にいう左馬助光春.羽柴秀吉の将堀秀政の軍と大津で遭遇,敗れて小船で琵琶湖を渡り……。
あけち みつはる【明智 光春】
⇒明智秀満
あけち みつひで【明智 光秀】
1526(大永 6) 〜 1582(天正10. 6.14)
◇安土桃山時代の武将。通称は十兵衛、法名は宗岳・宗先。丹波亀山城主。美濃国生れ。明智光綱または光隆の子。細川ガラシヤの父、明智秀満(ヒデミツ)の兄。
_斎藤道三(ドウサン)の死後、諸国を歴遊。越前朝倉義景に仕える。さらに1558年、織田信長に仕え要職につく。1568(永禄11)足利義昭(ヨシアキ)を奉じて上洛する信長に従い、京都の仕置きをなす。
_信長の部将滝川一益(カズマス)に従い北国を伐ち、丹波・若狭攻略に活躍。1571(元亀 2)近江国滋賀郡5万石と坂本城を与えられる。1573年、一向一揆の拠点である近江の石山・堅田を攻め、越前朝倉氏の滅亡後、同国の政務を行う。1575(天正 3)信長から九州の旧族惟任(コレトウ)の称号を与えられて日向守に任ぜられ、丹波一国29万石と亀山城を与えられる。
_1579(天正 7)丹波の八上城を攻め、城将波多野秀治と光秀の母を人質に和睦、秀治を安土城に送る。しかし、信長は秀治を殺したので、母は城中の者に殺され、信長を深く恨むに至ったという。1580(天正 8)信長の検地に当る。
_1581(天正 9)甲州征伐に功を立て徳川家康の接待役を命ぜられる。その準備中に羽柴秀吉の中国征伐援助を命ぜられ、丹波亀山に赴いて挙兵する。また織田信長も秀吉の要請で中国地方に向かい、途中、本能寺(ホンノウジ)に宿泊する。1582(天正10. 6. 2)光秀は早朝の本能寺を急襲、信長を自殺せしめる(本能寺の変)。 6.13秀吉を山城国乙訓大山崎村に迎え討って敗られ(山崎の合戦)、近江の坂本城へ敗走する途中、山科の小栗栖(オグルス)で土民に殺される。
(2)1526(大永 6)。
(4)生年は1526。
(6)生年は1528。
(16)生年は1528(享禄1)。
(*)1528(大永 8,享禄元)、1558(弘治 4,永禄元)、1573(元亀 4,天正元)。
◎光秀を竹槍で刺殺した土民は小栗栖の長兵衛と伝えられている。
あげまきのすけろく【総角 助六】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸前期の侠客。京都島原の遊廓を舞台に名をあげた伊達男。助六の恋人である島原の遊女が、殺された助六の仇討ちをして有名になる。もともと総角はその遊女の源氏名(ゲンジナ)。多分に伝説的である。
_歌舞伎では曾我五郎が名刀友切丸を探すため、侠客花川戸助六と名乗り吉原に出入りし、愛人三浦屋の揚巻(アゲマキ)に横恋慕する髯(ヒゲ)の意休に喧嘩を仕掛け、ついに意休を切って刀を取り返すという筋である。
あけら かんこう【朱楽 菅江】《あけら くわんかう》
1740(元文 5.10.24) 〜 1798(寛政10.12.12)
◇江戸中期の狂歌人・戯作者・幕臣。本名は山崎景貫、通称は郷助、字は道甫、俳号は貫立、別号は朱楽館・准南堂・漢江・芬陀利華庵。江戸四谷二十騎町生れ。御先手与力の子。
_明和年間(1764〜1772)初代柄井川柳(カライ・センリュウ)と交わる。唐衣橘洲(カラゴロモ・キッシュウ)・四方赤良(ヨモノアカラ)(大田南畝)とともに天明調の狂歌三大家と呼ばれる。
_墓は江戸青山久保町の青原寺(現在東中野に移転)。
_妻「まつ」は幕臣小宮山氏の娘で、節松嫁々(フシマツノカカ)と号し、狂歌に巧みであった。
(2)生年は1740(元文 5)、没日は1800(寛政12.12.12)。節松嫁々(フシマツノカカ)。
(4)生年は1740、没年は1800。
(5)誕生日は1738(元文 3.10.24)、没日は1798(寛政10.12.12)。
(6)生年は1740、没年は1800。節松嫁々(フシマツノカカ)。
(11)誕生日は1740(元文 5.12.12)、没日は1800(寛政12.12.12)。
(16)誕生日は1740(元文 5.10.24)、没日は1800(寛政12.12.12)。節松嫁々(フシマツカカ)。
あさい じゅうざぶろう【浅井 十三郎】《あさゐ じふさぶらう》
1908.10.28(明治41) 〜 1956.10.24(昭和31)
◇詩人。本名は関矢与三郎。
あさい すけまさ【浅井 亮政】《あさゐ すけまさ》
生年不詳 〜 1542(天文11)
◇戦国時代の武将。通称は新三郎のち備前守、号は休外。浅井直政の子、久政(ヒサマサ)の父、長政(ナガマサ)の祖父。
_1516(永正13)近江に小谷(オタニ)城を築いて城主になる。1523(大永 3)守護京極高清(キョウゴク・タカキヨ)とその長子高延に味方し、次子高慶を立てようとした老臣上坂信光らを失脚させる。1525(大永 5)、1531(享禄 4)と六角定頼(ロッカク・サダヨリ)の北征に敗れ、越前の朝倉氏・美濃の斎藤氏の援助を受ける。1532年、高清の調停で六角氏と和議を結ぶ。1534(天文 3)京極氏に代って近江北半部を支配。
(2)生年は異説1546。浅井賢政の子。略系図では直政─亮政─久政─長政。「浅井長政」の項、はじめ賢政と称す。
(16)没年には異説もある.「浅井長政」の項、のち一時賢政と称した.
(*)1532(享禄 5,天文元)。
あさい ちゅう【浅井 忠】《あさゐ ちゆう》
1856(安政 3. 6.21) 〜 1907.12.16(明治40)
◇明治時代の洋画家。号は黙語・木魚。江戸の佐倉藩邸生れ。
_少年時代、佐倉藩の画家黒沼槐山に日本画を学ぶ。1875(明治 8)国沢新九郎の彰技堂に入る。1876(明治 9)工部大学付属美術学校に入学し、イタリア人アントニオ・フォンタネージの指導を受ける。フォンタネージの帰国後、小山正太郎・松岡寿らとともに退校、十一会を結成。1889(明治22)小山正太郎・松岡寿らと明治美術会の創設に参加。1895(明治28)、日清戦争に従軍、翌年第4回内国勧業博覧会に『旅順戦後の捜索』を出品。1898(明治31)東京美術学校教授。1900(明治33)フランスに渡り、1902(明治35)帰国し、京都工芸学校教授。1903(明治36)聖護院町に研究所を開設。1906(明治39)関西美術学院長。文展審査院長。
_門下生に安井曾太郎(ソウタロウ)・梅原龍三郎・津田青楓(セイフウ)らがいる。
(2)帰国後京都に移って京都高等工芸学校教授。
(6)02年帰国後京都工芸高校の教授となり,……。
(16)誕生日は 3.21、没日は12.19。京都工芸学校教授,……。
あさい ながまさ【浅井 長政】《あさゐ ながまさ》
1545(天文14) 〜 1573(天正元. 8.27)
◇戦国大名。幼名は新九郎、一時賢政。浅井久政(ヒサマサ)の子。お市の方との子は長男万福丸・長女茶々(のち淀君)・次女初(京極高次の室)・三女達(小督,徳川秀忠の室)・次男幾丸。近江国(滋賀県)小谷(オタニ)の城主。
_はじめ織田信長の妹お市の方を娶(メト)り勢いが盛んになる。1568(永禄11)信長と組み六角義賢(ロッカク・ヨシカタ)を追い払い近江の大半を領した。信長が足利義昭を奉じて勢いが増大し、越前の朝倉義景(ヨシカゲ)と対立。信長が浅井家に連絡なく義景の本城一条谷を攻めると、不安になった長政は義景に応じて信長に対抗。
_1570(元亀元. 6.)信長が浅井家征伐の援(タスケ)を徳川家康に求めた。長政は越前朝倉氏に援兵を求め、小谷城を出て近江姉川(アネガワ)に陣取り信長軍を優勢に攻めたが、朝倉軍を破った家康が加わり敗北、小谷城に籠城(姉川の戦)。朝倉氏・石山本願寺・比叡山と結んで争ったが、1571(元亀 2. 9.)比叡山を焼き打ちされる。しかし武田信玄が上洛のため出陣との噂(ウワサ)と義昭の態度により信長は征伐を中止する。
_1573(天正元. 8.26)再び信長軍の羽柴秀吉に小谷城を攻められ、お市の方とその子らを逃がして自刃。しかし、長男万福丸(10歳)は、信長の命により秀吉により串刺しにされる。
あさい りょうい【浅井 了意】《あさゐ れうい》
1612(慶長17) 〜 1691(元禄 4. 1. 1)
◇江戸前期の仮名草子作者・僧侶。別号は松雲・瓢水子(ヒョウスイシ)・羊岐斎、了意は法名で真宗大谷派の住職。
_流浪の末、出家し京都二条本性寺昭儀坊(ショウギボウ)の住職になり、三嶋江の本性寺を再興。唱導僧としても成功。
_内典・外典に通じ、仏書の註釈に従事。かたわら、中国の怪異小説を翻案し『伽婢子(オトギボウコ)』を著す。
_著書は『可笑記評判』・『東海道名所記』・『浮世物語』・『堪忍記』など。
(2)生年は1612(慶長17)。(生)京都((異)江戸)。京都二条本性寺(真宗大谷派)昭儀坊の住職となる。
(4)生年は1612頃。
(6)生年は?。80歳前後で没。
(16)生年は1612(慶長17)。京都の人.号は松雲・瓢水子・昭儀坊など.
(?)父は摂津国三嶋江の本性寺の住職であったが、故あって宗門から追放。
あさいな ……【朝比奈 ……】《あさひな ……》
あさいの そうずい【阿佐井野 宗瑞】《あさゐの そうずい》
生年不詳 〜 1532
◇室町末期の儒医。屋号は野遠屋。和泉国堺の人。阿佐井野婦人医と称され、婦人科の治療にすぐれていた。
_1528年、明(ミン)の『医書大全』を翻刻し、医書出版にも尽力する。
◎死後の1933(昭和 8)清家本『論語集解』刊行されるなど、阿佐井野版と呼ばれる。
(2)生年は1532(天文元)。阿佐井野婦人科と称された。1528(享禄 1)明(中国)の熊均の著作「医書大全」を翻刻し、日本最初の医書を刊行した。
(16)生年は1532(享禄 4):誤。阿佐井野婦人医と称せられた.1528(享禄 1)年明の能宗立の「医書大全」を復刻公刊し,わが国医書板刻の嚆矢といわれる.
(19)生年は1531。
(*)1532(享禄 5,天文元)。
あさおか おきさだ【朝岡 興禎】
1801 〜 1856(安政 3. 4.27)
◇江戸後期の美術史家。初名は信義、通称は三之助・三次郎。
_狩野栄信の子で画法を父に学ぶ。1820(文政 3)朝岡興邦の嗣子となり興禎と改名。将軍徳川家慶(イエヨシ)に仕え、1853(嘉永 6)隠居。48巻52冊に及ぶ画家辞典『古画備考』を著す。
(*)1801(寛政13,享和元)。
あさか ごんさい【安積 艮斎】
1791(寛政 3. 3. 2) 〜 1860(万延元.11.21)
◇江戸後期の儒学者(朱子学)。名は重信(シゲノブ)、字は恩順、通称は祐助、別号は見山楼。神官安藤親重の子。
_幼くして二本松藩儒今泉徳輔に学ぶ。十七歳で江戸に出て佐藤一斎の学僕と・化10)昌平黌で林述斎に学ぶ。1814(文化11)神田駿河台に私塾見山楼を開設。1831(天保 2)詩文『艮斎文略』を著す。1836(天保 7)二本松藩儒。1843(天保14)二本松藩校敬学館の教授。1850(嘉永 3)幕府儒員に登用され昌平黌の教授。
(2)(系)神官安藤親重の子。(生)陸奥国安積郡郡山。字は思順……。
(4)岩代の人。
(6)奥州郡山の人。
(15)字は思順.奥州二本松藩安積に生れる.
(16)安藤親重の子。岩代二本松の人。字は恩順…….
あさか しげのぶ【安積 重信】
⇒安積艮斎
あさか たんぱく【安積 澹泊】
1656(明暦 2) 〜 1737(元文 2.12.10)
◇江戸中期の儒学者(朱子学)。名は覚、字は子先、通称は覚兵衛、号は澹泊・老圃・老圃常山など。水戸藩儒。常陸国水戸の人。父は水戸藩士安積定吉、祖父正信以来水戸藩に仕える。
_朱舜水について学ぶ。1683(天和 3)彰考館に入り、藩主徳川光圀の『大日本史』の編修に努める。1693(元禄 6)彰考館総裁。
_水戸藩史学の基礎を築く。
_著書は『大日本史賛藪』など。
(2)生年は1655(明暦 1)。
(4)生年は1656。
(6)生年は1656。
(16)生年は1656(明暦 2)。
◆墓は常磐共有墓地。
◎『水戸黄門漫遊記』で黄門のお供をした「格さん」のモデルとされる。
あさかわ かんいち【朝河 貫一】
1873(明治 6) 〜 1948(昭和23)
◇歴史学者。福島県生れ。東京専門学校卒業。
_1901(明治34)エール大学教授、1942(昭和17)名誉教授。
_日本と欧州の荘園を比較・研究。
あさかわ ぜんあん【朝川 善庵】
1781(天明元. 4. 8) 〜 1849(嘉永 2. 2. 7)
◇江戸後期の儒学者(折衷学派)。名は鼎、字は五鼎、号は善庵・学古塾。片山兼山(カタヤマ・ケンザン)の末子。父を幼時に失い、母の再婚先の医者朝川默翁に養われる。
_十二歳で山本北山に折衷学を学ぶ。1798(寛政10)から京坂・九州各地を遊歴。幕府の招きで下田に漂着した清国船と筆談応対する。
あさくら きくお【朝倉 菊雄】
⇒島木健作
[1]あさくら たかかげ【朝倉 孝景】
1493 〜 1548(天文17. 3.22)
◇戦国時代の武将。通称は弾正左衛門。越前一乗谷城主。貞景の子、義景(ヨシカゲ)の父。
_10代将軍足利義稙(ヨシタネ)を扶けて近江の佐々木定頼を討ち、12代将軍義晴(ヨシハル)を扶けて三好氏討つ。後奈良(ゴナラ)天皇の践祚(センソ)に当っては大礼の資一万疋を献上。また京都の兵乱を避けて寄寓した清原宣賢(ノブタカ)・飛鳥井雅綱らを庇護し、これに儒学を学ぶ。
(16)1493(明応元):誤。
(*)1492(延徳 4,明応元)、1493(明応 2)。
[2]あさくら たかかげ【朝倉 孝景】
⇒朝倉敏景
あさくら としかげ【朝倉 敏景】
1428(正長元) 〜 1481(文明13. 7.26)
◇戦国時代の武将。幼名は小太郎、敏景のち政景・孝景(タカカゲ)、通称は孫右衛門・弾正左衛門尉。戒名は英林宗雄。本姓は日下部(クサカベ)氏。越前国坂井郡黒丸城の国人領主。守護斯波(シバ)氏の三老臣の一人。
_斯波氏の内紛に乗じ、斯波氏の守護代甲斐常治(カイ・ツネハル)と結び勢力を伸ばす。
_応仁の乱ではじめ西軍に属したが、細川勝元から越前の守護職の約束を得て東軍に寝返り、1471(文明 3)守護職となり、足羽川上流一乗谷に築城、家臣を集めて本拠地とする。次いで甲斐常治を倒して越前を収める。
_本願寺の蓮如に1471(文明 3)吉崎道場を開かせる。晩年、戦国大名分国法の先駆となる家訓「朝倉敏景十七箇条」(「朝倉孝景条々」とも)を制定し、国人・地侍の塁館建造を禁止し、一乗谷への移住などを規定した。
(2)「朝倉孝景」の項。没年は1481(文明13)。(系)朝倉為景の子。
(4)没年は1481。
(6)「朝倉氏」の項。没年は1548。
(16)没年は1481(文明13)。家景の子。
あさくら のりかげ【朝倉 教景】
1474(文明 6) 〜 1555(弘治元. 9. 8)
◇室町後期・戦国時代の武将。名は小太郎、号は入道後宗滴。朝倉敏景(トシカゲ)の子。
_朝倉氏の家督争いで、惣領朝倉貞景・義景(ヨシカゲ)を補佐する。1503(文亀 3)越前の一向一揆を鎮める。1527(大永 7)12代将軍足利義晴(ヨシハル)をたすけ阿波公方足利義維を破る。上洛し細川澄元と争う。1552(天文21)加賀に兵を進める。加賀一揆との戦いの陣中で死亡。
あさくら ふみお【朝倉 文夫】《あさくら ふみを》
1883. 3. 1(明治16) 〜 1964. 4.18(昭和39)
◇明治〜昭和期の彫刻家。大分県生れ。
_1907(明治40)東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業。母校の教授。朝倉彫塑塾を主宰。芸術院会員。1948(昭和23)文化勲章を受章。
◎アトリエが1967(昭和42)朝倉彫塑館として一般公開された。
あさくら よしかげ【朝倉 義景】
1533(天文 2) 〜 1573(天正元. 8.20)
◇戦国時代の大名。初名は延景、通称は左衛門督。[1]孝景の子。
_1566(永禄 9)松永久秀に逐われた足利義昭を越前国一乗谷に迎え、幕府回復を企てる。しかし1568(永禄11. 7.)義昭は織田信長の許に去り、擁立されて入洛。
_義景は上洛を拒否し信長と対立、浅井長政と結んで対抗する。1570(元亀元. 6.)姉川の戦で信長軍の徳川家康に大敗し一時講和する。
_のち信長の越前侵攻に敗れ、一族の朝倉景鏡の謀叛により自殺し、朝倉氏は滅亡する。
(2)生年は1533(天文 2)。幼名孫二郎。
(4)生年は1530。
(6)「朝倉氏」の項。生年は1533。
(16)生年は1533(天文 2)。幼名は孫次郎.
あさだ ごうりゅう【麻田 剛立】《あさだ がうりふ》
1734(享保19) 〜 1799(寛政11. 5.22)
◇江戸中期の天文学者・医者。名は妥彰、本姓は綾部、号は正庵・璋庵、通称は庄五郎。豊後国速見郡杵築(キツキ)生れ。
_1763(宝暦13. 9.)の日食を予言して世に知られる。家は代々杵築の藩医で、1767(明和 4)藩の侍医となる。1770年ころ、天文・暦学を研究するため脱藩、大坂に出て名を麻田剛立と改め、医師をしながら観測・研究。
_1795(寛政 7)幕府に召されるが、弟子の高橋至時(ヨシトキ)・間(ハザマ)重富を推挙。
_墓は大阪市天王寺区の浄春寺。
(4)綾部絅斎の次男。
(6)綾部絅斎(アヤベ・ケイサイ)の四男。
あさだ そうはく【浅田 宗伯】
1813(文化10) 〜 1894. 3.16(明治27)
◇幕末・明治時代の漢方医。名は直民のち惟常、字は識此、号は栗園。信濃国(長野県)筑摩郡栗林村の人。せきどめの「浅田飴」を創製。
_高遠藩で医学を修める。京都を経て江戸に出、剃髪して宗伯と称する。1865年、フランス公使の病気を治療し、幕府より賞を受け、大奥の侍医となり法眼に叙せられる。維新後は一時隠居し、のち東宮侍医。1879(明治12)漢方医家を糾合して温知社を組織し、「温知医談」を発行。
(2)生年の異説は1815。
(6)生年は1813。
(*)1865(元治 2,慶応元)。
あさぬま いねじろう【浅沼 稲次郎】《あさぬま いねじらう》
1898(明治31) 〜 1960.10.12(昭和35)
◇社会運動家・政治家。東京都三宅島生れ。
_早稲田大学在学中から無産運動に参加。三宅正一・稲村隆一らと農民組合運動を始める。1925(大正14)普通選挙法が成立すると、農民労働党を結成、書記長になるが即日禁止。1926(大正15)労働農民党結成に参加。党の分裂後は日本労農党・日本大衆党・全国大衆党・全国労農党に属する。1933(昭和 8)東京市議会議員。1936(昭和11)・1937(昭和12)と衆院議員に当選。
_戦後、日本社会党代議士。1948(昭和23)日本社会党書記長。1960(昭和35)中央執行委員長となり、日米安全保証条約改定の反対闘争を指導。日比谷公会堂の三党主立会演説会で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺される。
(2)早大卒業。
(4)早大卒。
(16)早大中退。
あさの じゅんいち【浅野 純一】
1902. 6.20(明治35) 〜 1976. 3.28(昭和51)
◇歌人。本名は喜一。
あさの そういちろう【浅野 総一郎(初代)】《あさの そういちらう》
1848(嘉永元. 3.10) 〜 1930.11. 9(昭和 5)
◇明治・大正期の実業家。幼名は泰治郎・惣一郎。越中(富山県)出身。
_医師の家に生れたが、二度養子に行き、1871(明治 4)上京し砂糖水売り・薪炭商などを営む。
_横浜のガス事業創業による廃物に着眼、そのコークスを官営深川セメント工場に売り込み、王子製紙総裁の渋沢栄一に見出される。渋沢の後援で1881(明治14)同工場を無償で借り受け、1883(明治16)白煉瓦製造所とともに払い下げを受けて浅野工場を設立、発展の基礎をつくる。
_1898(明治31)渋沢・安田善次郎などの出資を得て浅野セメント合資会社(現:日本セメント)を設立、1912年、株式会社とし、1915(大正 4)北海道セメント、1923(大正12)浅野スレート・日本カーリット、1924(大正13)木津川セメント、1927(昭和 2)浅野超高級セメントなどを設立または合併。
_1918(大正 7)浅野同族会社を設立、セメント・造船・海運・鉱業・築港埋立・電力などの経営に乗り出し、浅野財閥を築く。
(*)1912(明治45,大正元)。
あさの だいがく【浅野 大学】
⇒浅野長広
あさの たくみのかみ【浅野 内匠頭】
⇒浅野長矩
あさの たもつ【浅野 保】
1887. 8. 1(明治20) 〜 1955. 8.30(昭和30)
◇歌人。
あさの ながあきら【浅野 長晟】
1586(天正14) 〜 1632(寛永 9. 9. 3)
◇江戸初期の武将。幼名は岩松、通称は右兵衛佐・但馬守。若狭国小浜生れ。広島藩主。浅野長政の子、幸長(ヨシナガ)の弟。妻は徳川家康の娘振姫。
_幼時から豊臣秀吉に近侍し、秀吉の没後、家康に仕える。1613(慶長18)兄幸長が没し、家督を継ぎ紀伊国を領する。大坂夏の陣では塙直之(バン・ナオユキ)を討ち取る。1619(元和 5)福島正則が禁を犯して広島城を修築し所領を没収され、その安芸及び備後半国を拝領し広島城に移封される。
(2)没年は1617(元和 3)。
(16)没年は1632(寛永 9)。
あさの ながたけ【浅野 長武】
1895. 7. 5(明治28) 〜 1969. 1. 3(昭和44)
◇美術史家。
あさの ながのり【浅野 長矩】
1667(寛文 7) 〜 1701(元禄14. 3.14)
◇江戸前期の大名。幼名は又一郎、通称は内匠頭(タクミノカミ)。父浅野采女正(ウネメノショウ)長友(ナガトモ)の嫡子で、1675(延宝 3)家督を継ぎ、播磨国赤穂(アコウ)藩主(5万3500石)。
_兵学者山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)に教えを受ける。
_1701(元禄14. 2.)歳賀の勅使(大納言柳原資廉<スケカド>)接待役にあたり義礼の指導を典礼に詳しい高家(コウケ)筆頭の吉良上野介(キラ・コウズケノスケ)義央(ヨシナカ)に仰いだとき、賄賂を贈らなかったことから指導を受けられず、侮辱されて 3.14江戸城中(殿中松廊下)で義央に刃傷(ニンジョウ)に及び、居あわせた梶川与惣兵衛(ヨソベエ)に後ろから羽交い締めで制止される。騒ぎは側用人柳沢吉保を通じて将軍綱吉(ツナヨシ)に知らされ、田村右京大夫(ウキョウノダイブ)建顕(タテアキ)の邸(芝愛宕下<シバアタゴシタ>)に預けられ、同日庭先で切腹を命ぜられた。一方、義央は御役御免のみであった。
_辞世の句は「風誘ふ 花よりも尚(ナホ) 我は又(マタ)/春の名残(ナゴリ)を 如何(イカ)にとやせん」。
◎長矩の妻は備後国三次(ミヨシ)城主浅野因幡守長治(ナガハル)の次女阿久里(アグリ)。⇒瑤泉院
_三次浅野家は赤穂浅野家と同じ芸州浅野家の支藩・同族である。
◎浅野大学長広(ナガヒロ)は長矩の実弟で、長矩に子がないため長矩の養嗣子。
_『仮名手本忠臣蔵』では「塩谷(エンヤ)判官」。
(2)生年は1665(寛文 5)。
(4)生年は1667。
(6)生年は1667。
(16)生年は1665(寛文 5)。
◎吉良の浅野いじめの原因は、新式の製塩技術を吉良に教えなかったことに対する報復という説がある。
あさの ながひろ【浅野 長広】
1670(寛文10) 〜 1734(享保19)
◇江戸中期の幕臣。通称は大学(ダイガク)。赤穂二代目城主浅野長友(ナガトモ)の二男。浅野長矩(ナガノリ)の実弟で養嗣子。
_1694(元禄 7)兄長矩より赤穂藩領のうち3,000石の分知を受けて独立し、幕府に召し出され交替寄合(コウタイヨリアイ)となる。しかし、長矩に子がなかったため養嗣子となる。
_1701(元禄14. 3.14)長矩が江戸城中で刃傷(ニンジョウ)事件を起したので、翌日閉門させられる。翌年七月、浅野家の宗家松平安芸守綱長(ツナトモ)に預けられる。
_1709(宝永 6)将軍綱吉が没して家宣(イエノブ)が継ぎ、 8.21長広は江戸に召還される。翌年 9.16、安房国500石を与えられ、交替寄合に復帰する。
_墓は高輪(タカナワ)泉岳寺(センガクジ)。
あさの ながまさ【浅野 長政】
1544(天文13) 〜 1611(慶長16. 4. 7)
◇安土桃山時代の大名。幼名は長吉、のち弥左衛門・弥兵衛。尾張国安井重継の子、朝野長勝の養子、幸長(ヨシナガ)・長晟(ヨシアキラ)の父。豊臣秀吉と相婿。代々織田家に仕える。
_1583(天正11)近江国大津・坂本の2城とともに2万300石を領する。1585(天正13)秀吉の信任が厚く、五奉行首座となる。1587(天正15)若狭国1国を与えられ、小浜城主。1588(天正16)従五位下、弾正少弼となり、太閤検地に活躍。1592年、文禄の役に軍監として朝鮮に渡る。1593(文禄 2)甲斐に移封され21万5千石を領し、また秀吉の渡鮮を諌止する。秀吉の没後、石田三成と不和になり、家督を幸長に譲り、武蔵国府に隠居する。関ヶ原の戦では幸長とともに徳川秀忠に従い西上。1606(慶長11)養老料として常陸国の真壁・筑波両郡5万石を、さらに1609(慶長14)近江国神崎郡5千石を与えられる。晩年は江戸に住む。
(2)生年は1544(天文13)。'87若狭国1国を与えられ、小浜城主。
(4)生年は1547。
(6)生年は1547。1587年若狭小浜の城主,……。
(16)生年は1544(天文13)。1585(天正13)小浜城主となり、……。
(*)1592(天正20,文禄元)。
あさの ばいどう【浅野 梅堂】
1816(文化13) 〜 1880(明治13)
◇幕末・維新期の旗本・学者・文人画家。名は長祚、字は胤卿、号は梅堂・池香・蒋潭。江戸の人。播州赤穂浅野家の支族。禄高3,500石。
_浦賀奉行のち、1852(嘉永 5)京都町奉行。1867(慶応 3)致仕して江戸に帰り、書画・学問に専心。
(2)(名)長祚,字は胤卿,別号を池香・蒋潭。京都町奉行。
(16)名は長.字は胤.号は梅堂・池香など.京都所司代などを歴任したが,…….
あさの ひょうきょ【浅野 馮虚】
1874. 8.13(明治 7) 〜 1937. 2. 3(昭和12)
◇翻訳家・心霊研究家。本名は和三郎。
あさの よしなが【浅野 幸長】
1576(天正 4) 〜 1613(慶長18. 8.25)
◇安土桃山・江戸初期の大名。幼名は長満・長慶、通称は左京大夫・紀伊守。浅野長政の長子、長晟(ナガアキラ)の兄。和歌山城主。
_幼時から豊臣秀吉に近侍し、1590(天正18)小田原征伐に加わる。1592年、文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に出陣、ついで父とともに朝鮮に渡り、慶尚南道西生浦に築城。1595(文禄 4)帰朝。石田三成の讒言で能登に流されるが、1596年赦されて、翌年再び渡鮮。明(ミン)の大軍に襲撃され蔚山城に籠城、加藤清正の援軍を得るが苦戦し、1598(慶長 3)さらに援軍を得て脱出、秀吉の死で帰朝。関ヶ原の戦では東軍の先鋒として戦功をたて、紀伊国37万6千余石を与えられる。
(*)1592(天正20,文禄元)、1596(文禄 5,慶長元)。
あさはら ためより【浅原 為頼】
生年不詳 〜 1290(正応 3. 3.10)
◇鎌倉後期の武士。名は八郎、甲斐源氏、小笠原氏の一族。
_群盗の罪で誅せられることになったので、1290(正応 3. 3.)子の光頼・為継とともに伏見天皇を殺害しようと寝殿に闖入(チンニュウ)、天皇は女装して難をのがれ、失敗した為頼父子は討手の兵に囲まれ紫宸殿に自刃。この事件は両統迭立(テツリツ)問題に関連し亀山天皇(大覚寺統)の依頼によるといわれ、鎌倉幕府はさらに持明院統に接近する。
あさはら ろくろう【浅原 六郎】
1895. 2.28(明治28) 〜 1977.10.22(昭和52)
◇小説家。また鏡村の筆名で童謡・少女小説を書いた。長野県生れ。1919(大正 8)早稲田大学英文科卒業。
(1)誕生日は 2.28。
(2)浅原 六朗。誕生日記載なし。
(3)誕生日は 2.22。
(5)誕生日は 2.28。
(8)誕生日は 2.22。
(11)誕生日は 2.28。
(13)淺原 六朗。誕生日は 2.22。
あさひ ぎょくざん【旭 玉山】
1843(天保14) 〜 1923(大正12)
◇明治時代の工芸家。幼名は富三郎。江戸浅草生れ。
_はじめ僧籍にあったが、24歳で牙彫(ガチョウ)師となる。髑髏の彫刻を得意とする。のち東京美術学校教授・皇室技芸員。
あさひ へいご【朝日 平吾】
1890(明治23) 〜 1921. 9.28(大正10)
◇国粋主義者。
_安田善次郎を刺殺し、その場で自殺。
あさひこ しんのう【朝彦 親王】《あさひこ しんわう》
1824(文政 7. 1.28) 〜 1891.10.25(明治24)
◇江戸幕末・明治維新期の宮廷政治家。久邇宮(クニノミヤ)の第1代。初名は熊千代・富宮、青蓮院宮・中川宮(ナカガワノミヤ)・賀陽宮(カヤノミヤ)などとも称する、法号は尊融法親王。伏見宮邦家親王の第4子、久邇宮邦彦(クニヨシ)・東久邇稔彦(ヒガシクニ・ナルヒコ)・賀陽宮邦憲王・梨本宮守正王(4男)の父。京都生れ。
_1836(天保 7)仁孝(ニンコウ)天皇の養子。1837(天保 8. 8.)親王宣下して成憲と改名。
_1838(天保 9.閏4.)得度。1852(嘉永 5)青蓮院に入室、尊融法親王と改名して天台座主となり、粟田宮とも称する。
_1863(文久 3)還俗して中川宮朝彦親王。翌年、賀陽宮と改称。
_公武合体派として活躍し、1868(慶応 4. 8.)反政府運動の嫌疑により親王の宣旨を奪われる。
_明治維新後、広島に閑居し、1872(明治 5)再び宮を称することが許され、1875. 5.(明治 8)一家を立てて久邇宮と改称。
_伊勢神宮祭主となって神儀の復興につとめる。
◎「ともよし(朝彦)」と読む場合もある。
あさひな さぶろう【朝比奈 三郎】《あさひな ふざらう》
⇒朝比奈義秀
あさひな そうげん【朝比奈 宗源】
1891(明治24) 〜 1979(昭和54)
◇臨済宗の僧・円覚寺派管長。号は別峰。静岡県生れ。
あさひな たかし【朝比奈 隆】
1908. 7. 9(明治41) 〜 2001.12.29(平成13)
◇指揮者。東京生れ。
_旧制の東京高等学校中学部でバイオリンを始める。
_京都帝国大学法学部在学中、京都帝国大学交響楽団に参加。
_1931(昭和 6)阪神急行(現:阪急電鉄)に入社。2年後、京都帝国大学文学部に再入学し、一方で大阪室内楽協会を結成。
_1939(昭和14)指揮者としてデビュー。
_1940(昭和15)新交響楽団(現:NHK交響楽団)を指揮。
_太平洋戦争中、上海・満州でハルビン・新京交響楽団などの指揮者を務める。
_1947(昭和22)関西交響楽団(現:大阪フィル交響楽団)を設立。
_1949(昭和24)関西オペラグループ(現:関西歌劇団)を組織。
_1989(平成元)文化功労者。
_1994(平成 6)文化勲章、受章。
あさひな ちせん【朝比奈 知泉】
1862(文久 2. 4.25) 〜 1939. 5.22(昭和14)
◇明治・大正期の新聞記者。別号は珂水懶漁・珂南(カナン)・禄堂(ロクドウ)。水戸藩士の家に生れる。
_水戸師範卒業後、郵便報知新聞記者を経て、東京大学法科入学、1887(明治20)中退。在学中から「東京新報」の主筆として政治評論を行う。1892(明治25)伊東巳代治(ミヨジ)の「東京日日新聞」の主筆になる。条約改正・遼東半島還附問題などで政府側を代弁。
_新聞記者として陸羯南(クガ・カツナン)・徳富蘇峰(ソホウ)と並び称される。
(2)没年は1939(昭和14)。
(4)朝比奈 知泉(あさいな ちせん,…ヒナ)。没年は1939。
(5)没年は1939. 5.22(昭和14)。
(8)没年は1939. 5.22(昭和14)。
(11)没年は1939. 5.22(昭和14)。
(16)没年は1939(昭和14)。
(?)1938(昭和13)。
あさひな やすひこ【朝比奈 泰彦】
1881(明治14) 〜 1975(昭和50)
◇有機化学者。東京生れ。
_1905(明治38)東京大学薬学科卒業。1909(明治42)ヨーロッパ留学。
_帰国後、東京大学教授。漢薬の化学成分を研究。1923(大正12)学士院賞、受賞。1930(昭和 5)ビタカンファーを発見。
_地衣類その他各種植物の成分を研究し、分類学的研究に業績をあげる。1943(昭和18)文化勲章、受章。
_著書は『地衣研究』など。
あさひな よしひで【朝比奈 義秀】
1176(安元 2) 〜 没年不詳
◇鎌倉前期の武将。通称は三郎。和田義盛の3男、母は巴御前、和田常盛(ツネモリ)の弟。
_勇猛で豪力無双と伝えられる。
_1213(建暦 3. 5.)父義盛が北条氏を攻めて一族が滅亡(和田合戦)した時、奮戦したが安房に逃れ、以後不明。
◎伝説が多く、その武勇は小説・演劇・舞踊などの題材にされている。
あさぶき えいじ【朝吹 英二】
1849(嘉永 2) 〜 1918(大正 7)
◇実業家。豊前の人。大隈系の黒幕。
_慶応義塾に学び、三菱商会支配人・貿易商会取締役。
_中上川彦次郎(妻の兄)の招きで、1891(明治24)鐘淵紡績専務。のち三井の工業部専務理事・三井合名参事。
あさみ けいさい【浅見 絅斎】
1652(慶安 5. 8.13) 〜 1711(正徳元.12. 1)
◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。初名は順良のち安正、通称は重次郎、号は絅斎・望楠楼。近江国高島郡太田村の人。
_はじめ京都で医者をしていたが、浅見氏を継承、28歳で山崎闇斎の門に入る。崎門(キモン)三傑の一人といわれたが、師の神道説に服せず破門される。南朝正統論を述べる。中国の忠孝義烈の士の文章を集めた『靖献遺言(セイケンイゲン)』を著し、維新の志士に大きな影響を与える。
◎浅見絅斎(ケイサイ)・三宅尚斎(ショウサイ)とともに崎門(キモン)三傑の一人。
あさみ ふかし【浅見 淵】
1899. 6.24(明治32) 〜 1973. 3.28(昭和48)
◇小説家・評論家。学生時代の筆名は浅見夕煙。神戸市生れ。1926(大正15)早稲田大学国文科卒業。
あさやま いりんあん【朝山 意林庵】
1589(天正17) 〜 1664(寛文 4. 9.21)
◇江戸初期の儒学者(朱子学派)。法名は素心、字は藤丸。京都の人。朝山久綱(入道怡斎)の子、朝山日乗(ニチジョウ)の孫。
_八歳のとき孤児になり、五山の僧に学び出家。1609(慶長14)朝鮮来聘使李文長について朱子学を修める。1610(慶長15)より三年間、豊前の細川家に仕える。寛永年間(1624〜1644)徳川忠長に仕え駿河に赴く。のち京都に帰り、1653(承応 2)後光明天皇の招きを受け中庸を講ずる。
あさやま にちじょう【朝山 日乗】
生年不詳 〜 1577(天正 5. 9.)
◇戦国・安土桃山時代の僧侶(日蓮宗)。俗名は善茂。
_出家する際、後奈良天皇より朝山日乗の名を賜る。1569(永禄12)織田信長の面前でイエズス会宣教師ルイス・フロイスと修道士伊留満ロレンソとの宗論に敗れる。
(16)正しくは日乗朝山(チョウザン)で,朝山は姓ではない.
あさやま ぼんとうあん【朝山 梵燈庵】
1349(<南>正平 4,<北>貞和 5) 〜 1427(応永24)
◇室町前期の連歌師。俗名は小次郎師綱(モロツナ)。出雲国(現:島根県)多文郷惣領地頭で足利義満(ヨシミツ)の同朋衆(ドウボウシュウ)として仕える。和歌を冷泉為秀に、連歌を二条良基に学ぶ。40歳過ぎに出家。
(?)あさやま ぼんとう(朝山 梵燈)。
(2)あさやま ぼんとうあん(朝山 梵燈庵)。没年は1448(文安 5)。本名記載なし。
(16)あさやま ぼんとうあん(朝山 梵燈庵)。没年は1427(応永24)。本名は朝山修理大夫師綱という.
あし とうざん【蘆 東山】
1696(元禄 9.11.23) 〜 1776(安永 5. 6. 2)
◇江戸中期の儒学者(朱子学派)。名は徳林、字は世輔、通称は幸七郎、号は東山・玩易斎。陸奥国磐井郡東山の人。
あしかが いえとき【足利 家時】
生年不詳 〜 1289(正応 2)頃
◇鎌倉時代の武将。名は太郎、通称は式部大夫。頼氏の子、母は上杉重房の娘、貞氏の父、尊氏(タカウジ)の祖父。
_足利氏に伝えられていた源義家の「我が七代の孫に吾れ生れ替りて天下を取るべし」という置文があり、家時はその七代目にあたる。しかし北条氏の打倒は実現できそうになく、「我が命をつづめ三代の中にも天下をとらしめ給へ」と八幡宮に願文を捧げて切腹する。(今川了俊「難太平記」)
(2)生年は不詳、没年は1289(正応 2)?。
_「足利貞氏」の項。足利家時の子,母は北条時茂の娘,尊氏・直義の父。
(16)生年は1283(弘安 6)、没年は1317(文保元)。足利氏に慣例の北条氏との婚姻を絶ち,新田朝氏の烏帽子親になるなどして一族の強化を計ったが,……。
(*)1317(正和 6,文保元)。
あしかが うじみつ【足利 氏満】《あしかが うぢみつ》
1359(<南>正平14,<北>延文 4) 〜 1398(応永 5.11. 4)
◇南北朝時代の武将。幼名は金王丸、通称は第2代鎌倉公方(関東管領)、法号は永安寺殿璧山道全。基氏(モトウジ)の長男、満兼(ミツカネ)の父。
_九歳で父が死に、第2代の関東管領となり、上杉憲顕(ノリアキ)の補佐を受ける。1368年、憲顕とその子憲春(ノリハル)に武蔵国平一揆を平定させ、同年能憲(ヨシノリ)・憲春兄弟に新田義宗・義治らを信濃・上野に討たせる。1369(<南>正平24,<北>応安 2)元服、将軍義満の偏諱(ヘンキ)を受けて氏満と改名。1378(<南>天授 4,<北>永和 4)管領細川頼之排斥の騒動(義満の失政)に乗じて、義満に代り将軍になろうとし、憲春の諌死により思い止まる。そのため義満の嫌疑を受けるが、禅僧義堂周信(ギドウ・シュウシン)らの斡旋で事なきを得る。1380(<南>天授 6,<北>康暦 2)小山義政らの叛乱を鎮圧。1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)明徳の乱後、義満から陸奥・出羽の管領を受ける。
_義堂周信に帰依し、政治の要諦を聞き、海蔵寺を建立。
◆墓は鎌倉の瑞泉寺。
(*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)。
あしかが さだうじ【足利 貞氏】
1273(文永10) 〜 1331(元弘元. 9. 5)
◇鎌倉後期の武将。名は三郎、法号は義観。足利家時の子、母は北条時茂の娘。妻は上杉頼重の娘清子(キヨコ)、尊氏(タカウジ)・直義(タダヨシ)の父。
_1311(応長元.10.)北条貞時の死に殉じて出家する。
あしかが しげうじ【足利 成氏】《あしかが しげうぢ》
1434(永享 6) 〜 1497(明応 6. 9.30)
◇室町中期の武将。名は永寿王、通称は古河公方(コガクボウ)、法号は乾享院殿久山道昌。持氏の第4子、安王丸・春王丸の弟。
_1439(永享11)永享の乱で父持氏が敗れの自刃後、僧昌在に保護されて信濃の大井持光を頼る。翌1440(永享12)安王・春王の叛に遺臣らと加わり結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)の下総国結城城で挙兵(結城合戦)。1441(嘉吉元. 4.)落城し、捕われた兄二人は殺されるが、永寿王は京都に送られ土岐(トキ)持頼に預けられる。
_1449年許されて元服し成氏と改名、鎌倉公方(関東管領)になる。1454(享徳 3)上杉憲実の子憲忠を殺したため、再び関東が内乱となり、上杉一族および幕府軍と戦う。1457年、鎌倉を去り下総国古河に移り、幕府から成氏討伐を命じられた伊豆の堀越公方(将軍義政の弟政知)と対立。1478(文明10)上杉顕定と、1482(文明14)幕府と和睦。
(*)1449(文安 6,宝徳元)、1457(康正 3,長禄元)。
あしかが たかうじ【足利 尊氏】《あしかが たかうぢ》
1305(嘉元 3) 〜 1358(<南>正平13,<北>延文 3. 4.30)
◇室町幕府の初代将軍。初名は高氏・又太郎高氏、戒名は等持院仁山妙義・長寿院。清和源氏足利流の惣領。足利貞氏の二男、母は上杉頼重の娘清子(キヨコ)で、足利義直(タダヨシ)の同母兄。
_1331年、家督を継ぐ。元弘の変で鎌倉幕府の命を受けて大仏貞直とともに上洛し後醍醐天皇軍を討つ。乱平定ののち鎌倉に帰る。しかし源氏復興の野心を抱いていた高氏は、1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)密使を伯耆の後醍醐天皇に送り、4月丹波篠村で幕府に叛旗を翻し、5月赤松則村・千種忠顕らと京都を攻撃し六波羅探題を陥れる。
_建武中興の功臣となって後醍醐天皇(諱:尊治<タカハル>)より「尊氏」を賜り、武蔵・常陸・下総の守護職と北条氏の所領を与えられ、正三位参議となる。しかし、征夷大将軍に任命されなかった不満から建武政権に協力せず、護良親王(モリナガ・シンノウ)と対立する。1334(<南>建武元,<北>建武元.11.)天皇に親王の逮捕を強要し、親王の身柄を鎌倉に送り、弟足利直義のもとに幽閉する。
_1335(建武 2. 6.)北条時行が美濃で挙兵し鎌倉に侵入するや、直義を救援するため東下し、8月時行を鎌倉から追放する。11月新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)討伐と称して兵を集め、建武政権にそむいて箱根竹ノ下の戦で義貞に勝利し京都に上る。1336年、北畠顕家(アキイエ)・新田義貞の軍から兵庫に逃れ、楠木正成(クスノキ・マサシゲ)に敗れて九州に敗走。途中、光厳院(コウゴンイン)の院宣(インゼン)を受けて賊名を避ける。同年2月筑前国多々良浜で菊池武敏を破り太宰府に入り、人心を收攬(シュウラン)し勢力を盛り返して兵20万・船師7千隻をもって東上し、5月兵庫湊川に楠木正成を敗死させ、新田義貞を破って6月再び京都に入る。後醍醐天皇は比叡山に逃れ、名和長年(ナワ・ナガトシ)ら天皇方の将士が戦死する。尊氏は賊名を避けるため豊仁(ユタヒト)親王を奉じて光明天皇(北朝)を擁立する。11月僧是円玄慧に命じて『建武式目』を定めさせ、幕府を開く。
_1338(<南>延元 3,<北>建武 5. 8.11)征夷大将軍となる。1339(<南>延元 4,<北>暦応 2. 8.)後醍醐天皇が吉野で死去し、尊氏は天皇のため盛大な法要を営み、天竜寺を創建する。
_1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)弟直義が尊氏の執権高師直(コウノモロナオ)と争うと、尊氏は師直を支持し、子の義詮(ヨシアキラ)を鎌倉から呼び寄せて直義の諸権限を与える。1350(<南>正平 5,<北>観応元.10.)直義は南朝に降り、師直討伐の軍を起し、翌1351(<南>正平 6,<北>観応 2. 2.)師直・師泰を殺害。ついに室町幕府は尊氏・義詮派と直義・直冬派とに分かれ抗争する(観応擾乱<ジョウラン>)。1352(<南>正平 7,<北>観応 3. 2.)尊氏は直義を鎌倉で毒殺する。
_六年後、中国・九州に勢力を奮う直義の子直冬(タダフユ)(もと鎮西探題)を討つため九州への遠征を計画するが、果たさず病没。
(*)1331(元徳 3,元弘元)、1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。
あしかが たかつね【足利 高経】
1305(嘉元 3) 〜 1367(<南>正平22,<北>貞治 6. 7.)
◇南北朝時代の武将。幼名は千鶴丸、通称は尾張孫三郎、法号は道朝、斯波(シバ)氏を称する。家貞(宗氏)の子、母は大江時秀の娘。右馬頭から従四位下修理大夫となり、尾張守を兼ねて越前守護となる。
_足利尊氏(タカウジ)に従って戦い、1337(<南>延元 2,<北>建武 4)高師泰(コウノモロヤス)とともに越前国金崎城を攻めて新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)を敗走させる。
_その後足利直義(タダヨシ)・直冬(タダフユ)に属して尊氏と戦い、1356年、尊氏に降る。
_二代将軍義詮(ヨシアキラ)は、南朝に降った執事細川清氏に代って高経を登用。高経は幼い我が子義将を執事に推し、後見役として実権を握る。諸国守護を圧迫、越前寺社領を半済(ハンゼイ)施行し家人に給するなどで諸将の反感をかい、興福寺は神木を担ぎ出して強訴し、義詮の寵臣佐々木高氏は北朝へ讒言して高経を排斥しようとした。
_1366(<南>正平21,<北>貞治 5)高経は自邸を焼いて越前に戻り、杣山城を拠点にして幕府軍と対抗するが、病没し、子の義将・義種らは許されて上洛した。
(2)生年は1305(嘉元 3)。
(16)生年は1305(嘉元 1):誤。
(*)1303(乾元 2,嘉元元)、1305(嘉元 3)、1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)
あしかが たかもと【足利 高基】
1485(文明17) 〜 1535(天文 4. 6. 8)
◇室町後期の武将。初名は高氏、第3代古河公方(コガクボウ)。足利政氏(マサウジ)の長子、晴氏(ハルウジ)の父。
_山内・扇谷両上杉氏と結ぶ父政氏・弟義明と対立し、下総国関宿ついで下野国宇都宮にいたが、1509(永正 6)和解して古河に帰る。のち父を隠退させ、子晴氏に北条氏綱の娘(芳春院)を娶らせ、公方家の存続と勢力の回復を図る。
(2)没年は1539(天文 8)、異説35。
_「足利高基」の項。1520(永正17)父を隠退させ、……。
_「足利政氏」の項。'19武蔵国久喜に隠棲し,その地で没した。
(16)没年は1535(天文 4)。
あしかが ただつな【足利 忠綱】
1164(長寛 2) 〜 没年不詳
◇平安末期・鎌倉初期の武将。別名は田原又太郎。足利俊綱の子。百人力で、歯の長さが一寸、声は十里に響いたとして有名。
_かつて父俊綱が讒言で没収された所領を、平重盛の計らいで忠綱に還付され、それ以後平氏に従う。しかし、1180(治承 4)以仁王(モチヒトオウ)の挙兵の際、宇治川の先陣の功を立てながら、一族の者の訴えで恩賞が受けられず、平氏を離れ源頼朝の挙兵に応じる。これにより上野六郡を安堵されたが、頼朝の重臣小山朝政との不和から、1183(寿永 2)志田先生義広の謀反に加担し、朝政に敗れて西海に逃れる。
(2)平清盛から上野6郡の大介を与えられたが、一族の反対により取り返されたという。
(16)功を立てながら族人の訴えで恩賞が受けられなかったのを不満として平氏を離れ、頼朝の挙兵に応じて功をあげた.これにより上野6郡を安堵されたが、……。
あしかが ただふゆ【足利 直冬】
1327(嘉暦 2)頃 〜 1400(応永 7)頃
◇南北朝時代の武将。法名は道昭。尊氏(タカウジ)の庶長子、母は越前局、直義(タダヨシ)の養子。
_母の身分が賎しいため尊氏は子とせず、幼少より東勝寺に入り喝食(カツシキ)となる。尊氏に紀伊討伐を命ぜられたが、養母の讒言から、僧円林に伴われて直義を頼り、偏諱して直冬と改名。1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)長門探題。高師直(コウノモロナオ)排斥で尊氏に叛いた直義を援けて、高師直に敗れ九州に走る。このため、九州の諸豪族は幕府方(尊氏)・直冬方・宮方(南朝)に三分される。尊氏と直義が一時和した1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)鎮西探題となり人心を収める。しかし尊氏が直義を暗殺すると、九州から中国地方へ転進、一時南朝に帰順し、1355(<南>正平10,<北>文和 4)山名時氏らを率いて入京、尊氏・義詮(ヨシアキラ)父子を近江に追い払う。まもなく尊氏方に京都を奪回され、中国地方に逃れ、やがて義詮に降ったらしい。
(2)やがて義詮に屈服したらしい。
(16)のち将軍義蜜に降った.
あしかが ただよし【足利 直義】
1306(嘉元 4. 2.26) 〜 1352(<南>正平 7,<北>観応 3. 2.26)
◇南北朝時代の武将。幼名は高国、別名は錦小路殿、法名は慧源。足利貞氏の子、母は上杉頼重の娘清子(キヨコ)で、足利尊氏(タカウジ)と同母弟。直冬(タダフユ)の養父。
_元弘の乱では兄尊氏と行動をともにする。建武中興で左馬頭兼相摸守となり、成良親王(ナリナガ・シンノウ)の執事として鎌倉に随行。1334年、鎌倉に流された護良親王(モリナガ・シンノウ)を二階堂千ヶ谷東光寺に幽閉。北条高時の子時行が鎌倉を攻めた際(中先代<ナカセンダイ>の乱)、淵辺義博を使わして親王を弑する。援軍の尊氏の軍とともに建武政権に叛き、新田義貞の軍を敗って京に上る。いったん敗れて九州に下り、勢力を盛り返して尊氏とともに陸路東上し、再び入京。室町幕府開府に功があり、政務を任され、尊氏とともに両御所と称された。その後政治方針が鎌倉幕府の踏襲・公家神社勢力との妥協など保守的であったので、1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)尊氏の信任した執事高師直(コウノモロナオ)と対立し、同年末出家する。翌年京都に脱出し、南朝に通じて兵を集め尊氏と戦い、京都を占領。一時尊氏と和し、子直冬は鎮西探題に任じられる。1351(<南>正平 6,<北>観応 2)再び不和となり、北陸を経て鎌倉に下るが、翌年鎌倉で尊氏に毒殺される(観応の擾乱)。
(*)1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武元)。
あしかが ちゃちゃまる【足利 茶々丸】
生年不詳 〜 1491(延徳 3)
◇室町後期の武将。第2代堀越公方。足利政知(マサトモ)の子。
_父との不和から父は異母弟潤童子(ジャンドウシ)を後嗣とする。1491(延徳 3. 4.)父の死後、幼い弟潤童子とその母を殺し家督を奪うが、讒言を信じ老臣をも殺したため家臣は心服せず、伊豆国内が内紛となる。これに乗じて駿河の興国寺城主伊勢長氏(イセ・ナガウジ)(北条早雲<ホウジョウ・ソウウン>)に攻め込まれ、茶々丸は願成就院(会下寺)で自刃、堀越公方は滅びる。
あしかが はるうじ【足利 晴氏】
生年不詳 〜 1560(永禄 3. 5.27)
◇戦国時代の武将。幼名は亀王丸、第4代古河公方(コガクボウ)。足利高基(タカモト)の子、妻は北条氏綱の娘(芳春院)。[2]足利義氏(ヨシウジ)の父。
_1538(天文 7)氏綱とともに小弓御所足利義明(叔父)・里見義堯(ヨシタカ)を下総国府台に破る。氏綱の没後その子氏康と対立、再び上杉氏と通じる。1545(天文14)上杉憲政(山内家)・上杉朝定(扇谷家)の誘いに応じ武蔵国河越城を囲み、1546. 4.20(天文15)氏康の援軍に囲いを破られる。1554(天文23)再び氏康を撃とうとして、逆に古河城を奪われ、相摸国波多野に幽閉される。
_1555年、氏康に擁立された義氏に家督を譲り、下総国関宿に隠退。
(*)1555(天文24,弘治元)。
あしかが はるおう【足利 春王】
1429 〜 1441(嘉吉元. 5.16)
◇室町中期の武将。別称は春王丸。鎌倉公方足利持氏の子、安王・永寿王(足利成氏<シゲウジ>)の兄。
_1439(永享11)永享の乱で父持氏が上杉憲実に敗れて自殺した後、安王とともに日光山に逃れ、常陸の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)に迎えられる。翌年、氏朝の結城城で挙兵(結城合戦)。1441(嘉吉元. 4.)落城し、氏朝は討死。兄弟は捕えられて京都へ送られる途中、春王・安王は将軍足利義教(ヨシノリ)の命により美濃国垂井の金蓮寺で斬首。永寿王は京都の土岐(トキ)持頼に預けられる。
(2)生年不詳。兄安王・弟成氏とともに……。
(16)生年は1429(永享 1)。弟安王と共に……。
(*)1429(正長 2,永享元)、1441(永享13,嘉吉元)。
あしかが まさうじ【足利 政氏】
生年不詳 〜 1531(享禄 4. 7.18)
◇室町後期の武将・第2代古河公方(コガクボウ)。戒名は甘棠院道長吉山。足利成氏(シゲウジ)の長男、高基(タカモト)・義明の父。
_父の死後、1497(明応 6)古河公方となり、従四位下左馬頭に叙任される。山内・扇谷両上杉氏と結び1506(永正 3)以降、子の高基と対立し関東各地で転戦、1509(永正 6)上杉顕定・長尾景春を介して和解。
(2)「足利高基」の項。1520(永正17)父を隠退させ、……。
_「足利政氏」の項。'19武蔵国久喜に隠棲し,その地で没した。
◎埼玉県久喜市の甘棠院は隠居後の館を寺にしたもの。
あしかが まさとも【足利 政知】
1435(永享 7) 〜 1491(延徳 3. 4. 3)
◇室町後期の武将。堀越公方・堀越御所。将軍足利義教(ヨシノリ)の第三子、八代将軍足利義政(ヨシマサ)の弟。
_はじめ天竜寺の僧、香厳院となる。1454(享徳 3)関東公方足利成氏(シゲウジ)が管領上杉憲忠(ノリタダ)を誅殺し、1457年古河に走った際、成氏追討のため義政の命で還俗し、上杉・幕府方の総帥として下向したが果さず、伊豆堀越にとどまり古河公方成氏と対抗する。憲忠の弟上杉房顕(フサアキ)らに擁せられたが実権がなく、1482(文明14)幕府・成氏の和睦に際し、伊豆が領国として与えられる。病死。
_政知の死後、その子茶々丸(チャチャマル)は駿河から侵入してきた伊勢長氏(イセ・ナガウジ)(北条早雲<ホウジョウ・ソウウン>)に滅ぼされる。
(2)生年不詳。
(4)生年は1441。その子茶々丸(チャチャマル)に殺されたとの説もある。
(16)生年は1435(永享 7)
(*)1441(永享13,嘉吉元)、1457(康正 3,長禄元)。
あしかが みつかね【足利 満兼】
1378(<南>天授 4,<北>永和 4) 〜 1409(応永16. 7.22)
◇室町前期の武将。第3代鎌倉公方(関東管領)。戒名は勝光院康岳道安。足利氏満(ウジミツ)の長子、満貞(ミツサダ)・満直(ミツタダ)の兄。
_1398(応永 5)管領となったが三代将軍足利義満(ヨシミツ)と不和で、1399(応永 6)中国地方の守護大内義弘の叛(応永の乱)に応じ、第4代将軍義持(ヨシモチ)に代ろうとして上洛を企て、武蔵国府中に出陣したが、上杉朝宗(トモムネ)・憲定の諌止と、義弘の堺での敗死の報で鎌倉に帰る。同年、弟満貞・満直に奥羽・出羽を治めさせる。それを不満とする1400(応永 7)[1]伊達政宗(ダテ・マサムネ)が会津の蘆名(アシナ)義盛とともに叛したので、1402(応永 9)上杉氏憲らを派遣して討伐させる。
(2)1398(応永 5)第3代鎌倉公方となり、……。
_「伊達政宗」の項。1402上杉氏憲らの大軍に攻められて降伏した。
(16)1398(応永 6)年管領となったが…….:年号が誤。
_1404(応永11)年伊達正宗が義満と通じて叛したので、上杉氏憲らを派遣して討伐させた.
(*)1398(応永 5)、1399(応永 6)。
あしかが みつさだ【足利 満貞】
生年不詳 〜 1440(永享12)
◇室町前期の武将。通称は篠川御所(ササガワゴショ)。鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)の子、満兼(ミツカネ)の弟、満直(ミツタダ)の兄、持氏(モチウジ)の叔父。
_1399(応永 6)第3代鎌倉公方(関東管領)満兼の命により安積郡篠川に下向する。それを不満とする1400(応永 7)[1]伊達政宗(ダテ・マサムネ)が会津の蘆名(アシナ)義盛とともに乱を起したときは鎌倉方に立つ。しかし1416(応永23)上杉禅秀(氏憲)の乱ではこれを利用しようとし、さらに第3代将軍義満(ヨシミツ)と管領満兼の不和に乗じて勢力を拡大しようとする。第6代将軍義教(ヨシノリ)も第4代鎌倉公方持氏・満直の排斥に利用しようとする。永享の乱(1438〜1439)で持氏・満直が自殺し、1440(永享12)反上杉勢力が持氏の遺児を擁して下総国結城城に結集した時(結城合戦)、これに応じた南奥の諸将に殺される。
(*)本によって満貞を稲村御所、満直を篠川御所とし、逆の説もある事を紹介している。⇒足利満直