あしかが みつたか【足利 満隆】
生年不詳 〜 1417(応永24. 1.10)
◇室町前期の武将。通称は新御堂殿。足利氏満(ウジミツ)の三子、満兼(ミツカネ)の弟、持氏(モチウジ)の叔父。
_1416(応永23)養嗣子持仲とともに上杉禅秀(ゼンシュウ)(氏憲)と結び、千葉・岩松・那須・武田氏らの豪族を結集して挙兵、甥の鎌倉公方持氏・管領上杉憲基らを小田原に追放し鎌倉を制圧(上杉禅秀の乱)、禅秀に政務を管領させる。翌年、幕府が持氏を支持し、駿河の今川氏・越後の上杉氏らが出兵、禅秀方の将士の離反が相次ぎ、武蔵国世谷原の合戦に敗れ、鎌倉に攻め込まれて鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で持仲・禅秀らとともに自刃。

あしかが みつただ【足利 満直】
生年不詳 〜 1439(永享11. 2.10)
◇室町前期の武将。通称は稲村御所(イナムラゴショ)。鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)の子、満兼(ミツカネ)・満貞(ミツサダ)の弟、持氏(モチウジ)の叔父。
_1399(応永 6)第3代鎌倉公方(関東管領)満兼の命により岩代国岩瀬郡稲村に下向する。満貞が第4代鎌倉公方持氏に叛意を抱き幕府側についたのに対し、1424(応永31)持氏から宝剣を与えられ、永享の乱(1438〜1439)では持氏に従い、鎌倉永安寺で持氏とともに自殺する。
(*)本によって満直を篠川御所、満貞を稲村御所とし、逆の説もある事を紹介している。⇒足利満貞

あしかが もちうじ【足利 持氏】《あしかが もちうぢ》
1398(応永 5) 〜 1439(永享11. 2.10)
◇室町前期の武将。幼名は幸玉丸。第4代鎌倉公方(関東管領)。足利満兼(ミツカネ)の長子。
_1409(応永16)関東管領となり第4代将軍義持(ヨシモチ)の一字を賜り、持氏と改名。1416(応永23)上杉禅秀(氏憲)の乱により鎌倉から小田原に逃れるが、幕府の援助を受けて翌年鎮定する。これを機に鎌倉府の強化をはかり、関東の諸将を討ち、幕府としばしば衝突する。1428(応永35. 1.)義持が没し、義教(ヨシノリ)(義持の弟)が還俗して第6代将軍に就任したので、これを不満とし「我尊氏(タカウジ)の胄(カブト)を以て管領の職を享(ウ)け、曾(カツ)て又義持と父子の契約あり。今の時征夷の任に居るべきもの、我を措(オ)きて果して誰ぞ。奚(ナン)ぞ膝を青蓮院の僧に屈せんや。」と言い、幕府と対立する。持氏の執事上杉憲実(ノリザネ)は和解に務めたが、かえって持氏と対立する。1437(永享 9)憲実は鎌倉を出奔し領国上野に帰り、1438(永享10)持氏を討とうと兵を動かす。将軍義教はこれを口実に憲実を援け鎌倉を討伐する(永享の乱)。持氏は敗れて、武蔵国金沢で剃髪し謹慎(キンシン)する。憲実が持氏を弁護したが、義教が許さなかったため、翌年持氏は鎌倉永安寺で自殺する。
(*)第5代将軍義量(ヨシカズ)はすでに1425(応永32)病死している。
_義教は青蓮院の僧であった。

あしかが もとうじ【足利 基氏】《あしかが もとうぢ》
1340 〜 1367(<南>正平22,<北>貞治 6. 4.26)
◇南北朝時代の武将。幼名は亀若・亀若丸、通称は入間川殿・瑞泉寺殿、法名は道(「日」偏+「斤」:補助3392〔_〕)。初代鎌倉公方(関東管領)。足利尊氏の4子、母は北条久時の娘登子。
_はじめ左馬頭のち左兵衛頭。1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)兄義詮(ヨシアキラ)の上京と引き換えに初代関東管領として鎌倉に下向する。上杉憲顕(ノリアキ)を執事としたが、観応の擾乱(ジョウラン)で足利直義(タダヨシ)(尊氏の弟)を支持した憲顕をしりぞけ、1353(<南>正平 8,<北>文和 2)畠山国清(クニキヨ)を執事に登用する。南朝方の新田義興(ニッタ・ヨシオキ)・義宗(ヨシムネ)兄弟らを率いる直義方を武蔵野合戦で撃破し、室町幕府の関東での基礎を固める。関東武士の支持を失った執事畠山国清を追放し、1363(<南>正平18,<北>貞治 2)伊豆で討ち滅ぼす。越後に落ちていた上杉憲顕を関東に復帰させ執事とし、越後・上野を宇都宮氏綱(ウジツナ)から奪い憲顕に与える。また宇都宮の守護代芳賀禅可の叛乱を鎮圧するなど、公方・執事(上杉氏)の関東支配体制を完成させる。
(2)足利尊氏の3男,……。
(6)尊氏の第四子。
(16)尊氏の4子.
(*)1340(<南>延元 5,<南>興国元,<北>暦応 3)。

あしかが やすおう【足利 安王】
1430(永享 2) 〜 1441(嘉吉元. 5.16)
◇室町中期の武将。別称は安王丸。鎌倉公方足利持氏の子、春王の弟、永寿王(足利成氏<シゲウジ>)の兄。
_1439(永享11)永享の乱で父持氏が上杉憲実に敗れて自殺した後、春王とともに日光山に逃れ、常陸の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)に迎えられる。翌年、氏朝の結城城で挙兵(結城合戦)。1441(嘉吉元. 4.)落城し、氏朝は討死。兄弟は捕えられて京都へ送られる途中、春王・安王は将軍足利義教(ヨシノリ)の命により美濃国垂井の金蓮寺で斬首。永寿王は京都の土岐(トキ)持頼に預けられる。
(2)生年は1429(永享 1)。弟春王とともに……。
(16)生年は1430(永享 2)。弟安王と共に……。
(*)1441(永享13,嘉吉元)。

あしかが よしあき【足利 義明】
生年不詳 〜 1538(天文 7.10. 5)
◇室町後期の武将。俗名は右兵衛佐、通称は小弓御所・雪下殿、法号は八正院空然。第2代古河(コガ)公方足利政氏(マサウジ)の次子、高基(タカモト)の弟。
_父と合わず陸奥を流浪、のち還俗して上総の武田氏に迎えられ、下総国小弓に拠城する。安房の里見義弘(ヨシヒロ)と結んで第4代古河公方晴氏(ハルウジ)(高基の子)と対立する。1538(天文 7)晴氏の舅(シュウト)北条氏綱・その子氏康と下総国国府台に、里見義堯(ヨシタカ)とともに戦い、義明は敗死。
(2)上総の武田氏に迎えられ,……。
(16)下総の武田氏に迎えられて……。

あしかが よしあき【足利 義昭】
1537(天文 6) 〜 1597(慶長 2. 8.28)
◇室町幕府の第15代将軍。法名は覚慶、法号は昌山。第12将軍足利義晴(ヨシハル)の子、母は関白近衛尚通の娘。
_はじめ奈良の興福寺一条院の門跡(モンセキ)、覚慶と号する。1565(永禄 8. 5.)兄の第13代将軍足利義輝(ヨシテル)が三好義継(ヨシツグ)に殺された際、松永久秀(ヒサヒデ)に同院に幽閉され、七月細川藤孝(フジタカ)(幽斎)に救われて近江(オウミ)に和田秀盛の許にのがれ、翌年還俗(ゲンゾク)し義秋と称する。1567(永禄10)越前の朝倉義景(ヨシカゲ)を頼り、4月元服して義昭と改名。1568(永禄11)織田信長に迎えられて美濃に入り、擁立されて 9.28京都に入り10.18従四位下征夷大将軍になる。信長の勢力が増大するにつれて不和となり、武田信玄・毛利・朝倉・浅井・本願寺など反信長勢力を糾合し、1573(元亀 4)京都で挙兵したが、敗れて和睦。同年宇治の槇島城に拠って挙兵するが、陥落。三好義継の居城の河内国若江に移され、すべての官位を奪われて室町幕府は滅亡する。諸国を流浪し、1576(天正 4)紀伊から備後国鞆津に移り、毛利元就(モトナリ)を頼り幕府再興をはかるが、これが信長の中国攻略の原因となる。1587(天正15)全国統一した豊臣秀吉に迎えられ、1万石を給される。1588(天正16)出家して昌山と号し、大坂で没する。

あしかが よしあきら【足利 義詮】
1330(元徳 2) 〜 1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12. 7)
◇室町幕府第2代将軍。幼名は年寿王、のち坊門殿。初代将軍足利尊氏(タカウジ)の第3子、母は北条久時の娘登子。第3代将軍義満(ヨシミツ)の父。
_1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)元弘の変において4歳で尊氏の名代として新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)の鎌倉攻めの軍に加わる。尊氏の叛後、1343(<南>興国 4,<北>康永 2)京都に上り、足利直義(タダヨシ)に代って政務をとり、後光厳院を奉じ、1358(<南>正平13,<北>延文 3)尊氏の後を継いで征夷大将軍になる。
_将軍就任1358(<南>正平13,<北>延文 3.12. 8)、退任(死亡)1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12. 7)。
(2)幼名は千寿王,のち坊門殿。足利尊氏の次男,……。
(4)尊氏の第三子。
(16)幼名は年寿王,のち坊門殿。足利尊氏の3子.

[1]あしかが よしうじ【足利 義氏】
1189(文治 5) 〜 1254(建長 6.11.21)
◇鎌倉中期の武士。名は三郎、法名は正義。足利義兼の第3子、母は北条時政の娘。
_北条泰時の娘を娶り、1213年和田の乱、1221(承久 3)承久の乱では泰時に従い、美作(ミマサカ)の所領を加賜される。1247(寛元 5)三浦氏の乱では上総権介平秀胤の所領を与えられる。その後、蔵人・検非違使・武蔵守・陸奥守・左馬頭を歴任、正四位下に叙せられる。
(2)足利義兼の長男,……。蔵人,検非違使,武蔵・相摸守を経て,左馬頭,正四位下にすすんだ。
(16)3子であるが,嫡子に選ばれて家をつぎ,……。蔵人・検非違使・武蔵守・陸奥守・左馬頭を歴任,正四位下に叙せられた.
(*)1213(建暦 3,建保元)。

[2]あしかが よしうじ【足利 義氏】
生年不詳 〜 1582(天正10)
◇戦国時代の武将。第5代古河公方(コガクボウ)。足利晴氏(ハルウジ)の子。
_父晴氏が北条氏康に敗れて、父子ともに相摸国波多野に幽閉される。翌1555年、氏康に擁立されて家督を継ぎ、傀儡(カイライ)となる。嗣子がなく、古河公方は断絶する。のち足利義明の嫡孫国朝が豊臣秀吉の計らいで古河公方のあとを継ぎ、下野喜連川に移り、喜連川(キツレガワ)氏を称する。
(*)1555(天文24,弘治元)。

あしかが よしかず【足利 義量】
1407(応永14. 7.) 〜 1425(応永32. 2.27)
◇室町幕府の第5代将軍。第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の子、母は裏松資康の娘栄子。
_1417(応永24)元服。1423(応永30)父の出家により将軍に就任、在任三年で病死。
_義量に子がなく、義持にも義量の他に子がなかったため、1428(応永35. 1.)義持は臨終に際し継嗣問題を管領以下の諸大名に委(ユダ)ねる。
_将軍就任1423(応永30. 3.18)、退任(死亡)1425(応永32. 2.27)。

あしかが よしかつ【足利 義勝】
1434(永享 6. 2.) 〜 1443(嘉吉 3. 7.21)
◇室町幕府の第7代将軍。幼名は千也茶丸。第6代将軍義教の長子、母は裏松重光の娘重子(シゲコ)。
_1441年、嘉吉の乱で父が赤松満祐に殺されたため、管領細川持之らに擁立されて8歳で家督を継ぎ、義勝と改名。翌年元服し征夷大将軍となり畠山持国の補佐を受ける。在任1年足らずで赤痢を病み死亡。
_将軍就任1442(嘉吉 2.11. 7)、退任(死亡)1443(嘉吉 3. 7.21)。
(*)1441(永享13,嘉吉元)。

あしかが よしかね【足利 義兼】
生年不詳 〜 1199(建久10. 3. 8)
◇鎌倉前期の武将。名は三郎兵衛尉・足利蔵人、法号は義称。源義家(ヨシイエ)の曾孫、義康(ヨシヤス)の第3子。母は熱田大宮司範忠の娘で源頼朝(ヨリトモ)の従母姉妹、または熱田大宮司季範の娘で頼朝の叔母。
_1180(治承 4)源頼朝の挙兵に応じ、源範頼(ノリヨリ)(頼朝の弟)に従って西海に平氏を討つ。1189(文治 5)奥州藤原氏征伐で戦功を立て、遠江守。1190年、大河兼任の乱を平定。頼朝の信任があつく、頼朝の命により北条時政(トキマサ)の娘(政子の同母妹)と結婚する。
_のち東大寺において出家。
(2)平氏を討ち,功により上総介。
(16)下総介.従四位下.
(*)1190(文治 6,建久元)

あしかが よしずみ【足利 義澄】
1480(文明12.12.) 〜 1511(永正 8. 8.14)
◇室町幕府の第11代将軍。堀河公方足利政知(マサトモ)の第2子、母は藤原隆光の娘。第八代将軍義政(ヨシマサ)の養子。初名は義遐・義高。
_政知が弑された後、遠江(トオトウミ)の今川氏親(ウジチカ)に拠っていたが、1487年天竜寺に入り香厳院清晃と称する。1493(明応 2)管領細川政元に擁立されて還俗、義遐ついで義高と称し、第10代将軍義稙(ヨシタネ)を幽閉し政元とともに戦い、翌年将軍となる。1502(文亀 2)義澄と改名。1508(永正 5)義稙と大内義興(ヨシオキ)の軍に攻められ、近江の六角高頼(ロッカク・タカヨリ)を頼り朽木谷に逃れ、義稙に官位を剥奪され、まもなく近江の山岳で没する。
_将軍就任1494(明応 3.12.27)、退任1508(永正 5. 4.16)。
(2)生年は1479(文明11)。義遐(よしとお)。
(4)生年は1480。
(16)生年は1480(文明12.12.)。義遐(よしか)。
(*)1487(文明19,長享元)

あしかが よしたね【足利 義稙】
1466 〜 1523(大永 3. 4. 9)
◇室町幕府の第10代将軍。初名は義材(ヨシキ)のち義尹(ヨシタダ)・義稙。足利義視(ヨシミ)の子、母は日野富子の妹、第8代将軍足利義政(ヨシマサ)の養子。
_幼時に武田信賢(ノブカタ)に、のち山名持豊(モチトヨ)に頼る。第9代将軍義尚(ヨシヒサ)が六角高頼(ロッカク・タカヨリ)攻めの陣中で没すると、父義視とともに上洛し、翌1490(延徳 2)征夷大将軍に就任、畠山政長(マサナガ)を京に迎える。1493(明応 2)畠山義就(ヨシナリ)の子義豊が河内国誉田城に挙兵、細川政元をはじめ山名・一色ら諸将がこれに呼応し、政長は敗れて自刃、義稙は捕われる。足利義澄(ヨシズミ)が征夷大将軍に就任。越中に逃れ、1497(明応 6)越前の朝倉貞景を頼り京都回復を図って敗れ、1499(明応 8)周防の大内義興(ヨシオキ)のもとに走る。
_1508(永正 5)大内義興・細川高国(タカクニ)に奉ぜられて上洛し、将軍義澄その擁立者細川澄元(スミモト)を追って将軍職に復帰。1518(永正15)義興が周防に帰国。1521年、高国と対立し淡路に出奔、流れ公方・島公方と呼ばれる。同年、高国は足利義晴(ヨシハル)を迎えて将軍にする。
_のち阿波国撫養(ムヤ)に移り没する。
_将軍就任1490(延徳 2. 7. 5)、退任1521(大永元.12.25)。
(*)1466(寛正 7,文正元)、1521(永正18,大永元)。

あしかが よしつぐ【足利 義嗣】
1394 〜 1418(応永25. 1.24)
◇第3代将軍足利義満(ヨシミツ)の子、第4代義持(ヨシモチ)の弟。
_1416(応永23)上杉禅秀(ゼンシュウ)(氏憲)の叛乱計画に加担して、近江の六角氏らと挙兵を企てるが露顕し、相国寺林光院に幽閉される。1418(応永25)放火し脱出をはかるが失敗し殺される。
(*)1394(明徳 5,応永元)。

あしかが よしてる【足利 義輝】
1536(天文 5) 〜 1565(永禄 8. 5.19)
◇室町幕府の第13代将軍。幼名は菊童丸、初名は義藤、戒名は光源院(コウゲンイン)道円融山。第12代将軍義晴(ヨシハル)の長子、母は関白近衛尚道の娘、第15代将軍義昭(ヨシアキ)の兄。
_父とともに近江国坂本に戦乱を避ける。1546(天文15)征夷大将軍に就任。1548(天文17)京に帰り、細川晴元(ハルモト)を管領とする。晴元と三好長慶(ミヨシ・ナガヨシ)・細川氏綱(ウジツナ)との抗争を避け、1549(天文18)晴元とともに京を追われ再び坂本に、さらに1550(天文19)比叡山に逃れる。1552(天文21)長慶と和を結んで京に帰り、氏綱を管領に任ずる。しかし長慶とその家臣松永久秀(ヒサヒデ)の勢力が強く、将軍は有名無実であった。1554(天文23)氏綱に代えて晴元を召還しようとし、長慶に近江国朽木に追われ、義輝と改名。1558年、長慶と和し京に戻るが、1564(永禄 7)長慶の死後、政権の奪還を企てたが、翌年、久秀らに攻められ討死。
_将軍就任1546(天文15.12.20)、退任(死亡)1565(永禄 8. 5.19)。
(2)'54氏綱に代えて晴元を召還しようとして長慶に追われ、晴元とともに近江国朽木に逃れて、義輝と改名。
_「三好長慶」の項。'53義輝を近江国朽木に追う。
(*)1558(弘治 4,永禄元)。

あしかが よしのり【足利 義教】
1393(<南>元中10,<北>明徳 4) 〜 1441(嘉吉元. 6.24)
◇室町幕府の第6代将軍。足利義満の第4子。室は裏松重光の娘重子(シゲコ)。
_初め青蓮院に入り、義円と称し天台座主(ザス)となる。兄義持(ヨシモチ)の死後、1428年還俗(ゲンゾク)して家を継ぐ。1429(正長 2. 3.)将軍となり(傍系相続)、義教と名乗る。1438(永享10)関東公方(クボウ)足利持氏(モチウジ)の反乱を鎮圧(永享の乱)、鎌倉足利家を滅ぼす。幕威伸張を図り守護大名の相続問題に干渉し、1440(永享12)一色義貫(イッシキ・ヨシツラ)・土岐持頼を殺したことから反感を招き、赤松満祐(ミツスケ)に暗殺される(嘉吉<カキツ>の乱)。
_将軍就任1429(正長 2. 3.15)、退任(死亡)1441(嘉吉元. 6.24)。
(2)生年は1394(応永 1)。
(4)生年は1393。
(6)生年は1394。
(16)生年は1394(応永 1)。
(*)1394(明徳 5,応永元)、1428(応永35,正長元)。

あしかが よしはる【足利 義晴】
1511(永正 8) 〜 1550(天文19. 5. 4)
◇室町幕府の第12代将軍。幼名は亀王丸。第11代将軍義澄(ヨシズミ)の長子。
_播磨の赤松義村(ヨシムラ)の許で成長。1520(永正17)細川澄元(スミモト)に奉ぜられて細川高国(タカクニ)と戦い、敗れて播磨に逃げる。1521(大永元)第10代将軍義稙(ヨシタネ)を追放した高国と六角定頼(ロッカク・サダヨリ)に迎えられて上洛し将軍となる。
_1528年、丹波の波多野稙通らに呼応して叛いた三好元長に追われて、近江の朽木(クツキ)稙綱を頼る。1531(享禄 4)澄元の子細川晴元(ハルモト)は元長を和泉国堺で攻め滅ぼし、1532年、晴元に擁せられて帰洛。1536(天文 5)晴元を管領に任ずる。
_将軍の実権がなく、1546(天文15)晴元に追われて近江国坂本に逃れ、子の義輝(ヨシテル)に将軍職を譲り、その後各地を流転し、近江国穴太で没した。
_将軍就任1521(大永元.12.25)、退任1546(天文15.12.20)。
(*)1528(大永 8,享禄元)、1532(享禄 5,天文元)。

あしかが よしひさ【足利 義尚】
1465(寛正 6.11.) 〜 1489(長享 3. 3.26)
◇室町幕府の第9代将軍。のち義煕(ヨシヒロ)。第8代将軍義政(ヨシマサ)の子、母は日野富子(トミコ)。
_はじめ義政に子がなく、弟義視(ヨシミ)を1464(寛正 5)還俗させ後嗣とするが、翌年義尚が生れる。母富子は義視の後見である細川勝元と対抗できる山名持豊(宗全)を頼り、義尚擁立を策する。この義視と義尚の係争と畠山・斯波家の家督争いから応仁の乱が引き起きる。
_1473(文明 5)将軍に就任し、幼少のため政務は父義政がとる。1479(文明11)義尚がはじめて政務をとる。幕府の権威回復のため、1487年、近江の六角高頼(タカヨリ)(佐々木高頼)を攻める。1488(長享 2)義煕と改名。1489(長享 3)近江国鈎(マガリ)(勾里)の陣中で病没。
_将軍就任1473(文明 5.12.19)、退任(死亡)1489(長享 3. 3.26)。
(*)1487(文明19,長享元)

あしかが よしひで【足利 義栄】
1540(天文 9) 〜 1568(永禄11. 9.)
◇室町幕府の第14代将軍。初名は義親。阿波生れ。足利義維(ヨシツナ)の長子、母は周防の大内介の娘。第11代将軍義澄(ヨシズミ)の孫。
_1549(天文18)三好長慶(ナガヨシ)ら三人衆に迎えられて四国の阿波から入洛。1564(永禄 7)第13代将軍義輝が松永久秀(ヒサヒデ)に殺される。1566(永禄 9)義栄と改名し、1568(永禄11)将軍に就任。同年、織田信長が足利義昭(ヨシアキ)を奉じて入京すると、摂津国富田に逃れて病死。
_将軍就任1568(永禄11. 2. 8)、退任(死亡)1568(永禄11. 9.)。

あしかが よしまさ【足利 義政】
1436(永享 8) 〜 1490(延徳 2. 1. 7)
◇室町幕府の第8代将軍。幼名は三春のち義成・義政。東山殿。戒名は道慶喜山慈照院。六代将軍義教(ヨシノリ)の子、七代将軍義勝の弟、義視(ヨシミ)の兄、九代将軍義尚(ヨシヒサ)の父。室は日野富子(ヒノ・トミコ)。
_1443(嘉吉 3)七代将軍義勝の早世により、細川勝元・畠山持国らに擁立されて家督を継ぎ、1449年征夷大将軍となる。1453(享徳 2)従一位権大納言に任ぜられ義政と改名。1460年、左大臣。1464(寛正 5)准三宮、嗣子がないため弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ後嗣とし義視と改名させる。翌年、夫人富子と間に実子義尚が生れる。富子は義視の後見である細川勝元と対抗できる山名持豊(宗全)を頼り、義尚擁立を策する。この義視と義尚の係争と畠山・斯波家の家督争いから応仁の乱が引き起きる。1473(文明 5)富子に将軍職を義尚へ譲らされ、東山に山荘銀閣(慈照寺)を造り隠居し、戦乱をよそに茶の湯など風雅な生活を送る。1489年義尚が死亡し、再び政治を執るが翌年死亡。
_土一揆の多発・守護大名の台頭・一代に徳政令が十三回行われるなど政治・経済が混乱する一方、美術工芸など文化面では興隆、貴族的武家文化が開花し、東山時代といわれる。
(2)生年は1436(永享 8)。
(4)生年は1435。
(6)生年は1435。
(16)生年は1436(永享 8)。
(*)1449(文安 6,宝徳元)、1460(長禄 4,寛正元)、1489(長享 3,延徳元)。

あしかが よしみ【足利 義視】
1439(永享11. 1.) 〜 1491(延徳 3. 1. 7)
◇室町中期の武将。初名は義躬(ヨシミ)、僧名は義尋、通称は今出川殿。第6代将軍足利義教(ヨシノリ)の第4子、第10代将軍義稙(ヨシタネ)の父、第8代将軍義政(ヨシマサ)の弟。
_兄義政に嗣子がないため弟の浄土寺門跡義尋を1464(寛正 5)還俗させ後嗣とし義視と改名させる。翌年、夫人富子と間に実子義尚(ヨシヒサ)が誕生、義視は細川勝元に擁せられて相続争いとなり、応仁の乱のきっかけとなる。1467年、伊勢の国司北畠教具の許に逃れ、のち1468(応仁 2)義政の勧奨と後花園上皇の勅書とによって一旦帰洛する。日野勝光・伊勢貞親らの介在で再び義政と不和になり、官位を削られる。西軍の山名持豊に迎えられ、再び義政と対抗する。1477(文明 9)美濃の土岐成頼の許に下り、1489(長享 3. 3.)義尚の死去によって義政と和睦し、子の義稙の将軍就任にため帰洛する。
(*)1467(文正 2,応仁元)

あしかが よしみつ【足利 義満】
1358(<南>正平13,<北>延文 3. 8.22) 〜 1408(応永15. 5. 6)
◇室町幕府の第3代将軍。幼名は春王、法号は道宥・道義、通称は北山殿、号は鹿苑院。従一位太政大臣。第2代将軍義詮(ヨシアキラ)の長子、母は石清水八幡宮検校善法寺通清の娘紀良子。第4代将軍義持(ヨシモチ)・義嗣(ヨシツグ)の父。
_1367(<南>正平22,<北>貞治 6.12.)父の死で家督を継ぎ、管領細川頼之の補佐を受ける。
_1368(<南>正平23,<北>応安元)元服し将軍に就任。
_1369(<南>正平24,<北>応安 2)参議となり、公卿に列する。
_1371(<南>建徳 2,<北>応安 4)以降、九州探題の今川了俊(リョウシュン)(貞世)に南朝軍を征服させ九州を統一。
_1378(<南>天授 4,<北>永和 4)京都北小路室町に邸宅室町第(花の御所)を造営。
_1379年、管領を細川頼之から斯波義将(ハシバ・ヨシマサ)に更迭。1389年、再び細川頼之を起用し、その補佐で幕府の安定を図るため11ヶ国の守護職を持つ山名氏の内紛に乗じて、1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)山名氏清・満幸を滅ぼす(明徳の乱)。
_1392(<南>元中 9,<北>明徳 3)後亀山天皇の還幸を請い、南北朝合一に成功。
_1393(<南>元中10,<北>明徳 4)斯波義将を管領にし、斯波・細川両氏を相互牽制させる。
_1394(明徳 5,応永元)将軍職を9歳の義持に譲り、武士として初の太政大臣となり、翌年これを辞して出家し、京都北山に隠居。
_1397(応永 4)最初の遣明使を派遣して勘合貿易を行なう。京都北山に山荘北山第(のちの金閣)を造営など、幕府の全盛を築く。また、能楽を奨励している。
_1398(応永 5)畠山基国を管領とする。
_1399(応永 6)大内義弘の反乱を鎮圧(応永の乱)、強力な守護の勢力を弱めた。
_1403(応永10)明の永楽帝に対し自らを「日本国王臣源道義」と号し、臣下の立場を明らかにする。
_1406(応永13)義満の室日野康子(ヤスコ)(北山院)が准三宮(ジュサングウ)(後小松天皇の准母)となり、翌年院号の宣下を受ける。1408(応永15)後小松天皇が北山第に行幸。間もなく病死し、太政法皇の尊号宣下があったが、斯波義将や義持らが辞退する。
_将軍就任1368(<南>正平23,<北>応安元.12.30)、退任1394(明徳 5,応永元.12.17)。
(2)法名道有のち道義。
(16)法号は道宥または道義.
(17)法名を道有、ついで道義と称し、……。
(*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)、1389(<南>元中 6,<北>嘉慶 3,<北>康応元)。

あしかが よしもち【足利 義持】
1386(<南>元中 3,<北>至徳 3) 〜 1428(応永35. 1.18)
◇室町幕府の第4代将軍。法号は道詮。第3代将軍義満(ヨシミツ)の長子、母は藤原慶子、第5代将軍義量(ヨシカズ)の父、足利義嗣(ヨシツグ)の兄。
_1394(応永元.12.)9歳で元服し、従五位下征夷大将軍。1396(応永 3)参議。1397(応永 4)中納言。1401(応永 8)権大納言。1402(応永 9)従一位。1408(応永15. 5.)父義満が亡くなり、斯波義将(シバ・ヨシマサ)らの補佐により政務を執る。1409(応永16)内大臣。対明貿易を打ち切る。1416(応永23)上杉禅秀(ゼンシュウ)(氏憲)の乱を平定、加担した弟義嗣を処罰する。以降、第4代鎌倉公方足利持氏(モチウジ)と拮抗。1419(応永26)内大臣を辞す。1423(応永30)将軍職を子の義量に譲り、出家し道詮と称する。1425(応永32)義量の早世により再び政務を執る。1428(応永35)重病となり、継嗣を決定せず管領以下有力大名の協議に任せ、死去。
_将軍就任1394(応永元.12.17)、退任1423(応永30. 3.18)。

あしかが よしやす【足利 義康】
生年不詳 〜 1157(保元 2)
◇平安末期の武将。通称は三郎。足利氏の祖。清和源氏義国(ヨシクニ)の第3子、母は藤原有房の娘、新田義重(ヨシシゲ)の弟。
_鳥羽上皇に仕え北面武士となる。左衛門大尉・陸奥守・検非違使に任ぜられる。1156(久寿 3,保元元)保元の乱では百余騎を率いて後白河天皇方として源義朝(ヨシトモ)らとともに活躍し、平家弘父子らを大江山に斬り、その功により蔵人となり昇殿を許される。
_子の義清(ヨシキヨ)は仁木・細川などの祖、義兼(ヨシカネ)は足利・畠山・桃井・吉良・今川・斯波・渋川・石堂・一色などの祖。

あしだ えのすけ【芦田 恵之助】
1873. 1. 8(明治 6) 〜 1951.12. 9(昭和26)
◇国語教育・作文教育家。号は恵雨。兵庫県生れ。
_東京高等師範学校付の小訓導。日本の植民地支配下の朝鮮・南洋群島で国語教科書を編纂。退職後、地方教壇を行脚(アンギャ)。

あしだ ひとし【芦田 均】
1887.11.15(明治20) 〜 1959. 6.20(昭和34)
◇政治家。京都生れ。
_1912年、東京大学法科卒業後、外務省に入る。1932(昭和 7)衆議院議員に当選。ジャパン・タイムズ社長も兼ねる。
_1947(昭和22)日本民主党総裁となり、片山内閣の副総理兼外務大臣。
_1948(昭和23)日本民主党・日本社会党・国民協同党の連立内閣いわゆる中道内閣を組織、昭和電工疑獄事件に連座して首相・党総裁とも辞任、政界を引退。
_首相就任:1948. 3.10(昭和23)、退任:1948.10.15(昭和23)。
(*)1912(明治45,大正元)。

あしな もりうじ【蘆名 盛氏】
1521 〜 1580(天正 8. 6.17)
◇戦国時代の武将。通称は修理大夫、号は止々斎(シシサイ)。蘆名盛舜(モリキヨ)の子。
_1553(天文22)父の後を継ぎ会津黒川城主になる。畠山義継(二本松)・田村清顕(田村)・二階堂盛義(須賀川)を降す。
_伊達・佐竹義重(常陸)・田村・岩城氏と対抗し、上杉・武田・北条氏と結び蘆名氏全盛を築く。
(*)1521(永正18,大永元)。

あしな もりしげ【蘆名 盛重】
1576(天正 4) 〜 1631(寛永 8. 6.)
◇安土桃山・江戸前期の武将。初名は義広。常陸太田城主佐竹義重(ヨシシゲ)の子、結城義親(ユウキ・ヨシチカ)の養子。
_1589(天正17)蘆名氏の血統の断絶に際し義親の推挙を受け、蘆名氏を継ぎ盛重と改名。1589(天正17)内紛に乗じて[2]伊達政宗(ダテ・マサムネ)に攻められ、会津黒川城で敗れ、兄佐竹義宣(ヨシノブ)を頼り常陸に逃れる。のち佐竹氏に従い秋田角館(カクノダテ)に移り、1万6千石を領する。
(2)生年は1576(天正 4)。
(16)生年は1576(天正 5):誤。

あじま たてわき【安島 帯刀】
1812(文化 9) 〜 1859(安政 6. 8.27)
◇江戸幕末期の水戸藩士。名は信立、通称は弥次郎、号は峨興。戸田忠之の次男で、母方の安島信順の養子。
_1829(文政12)藩主継嗣問題で、藤田東湖(トウコ)・会沢安(ヤスシ)・兄戸田忠敞らと協力して徳川斉昭(ナリアキ)を擁立。郡奉行・勘定奉行・小姓頭と累進、藩政改革を推進する。
_斉昭は外国船の日本沿岸への接近で海防の必要を感じ、大砲の鋳造や兵制を改め鉄砲隊の編成などをする。斉昭の近臣結城寅寿(ユウキ・トラカズ)の訴えにより幕府に警戒され、1844年、斉昭が隠居謹慎を命ぜられた時、帯刀(タテワキ)も禁錮の処分を受け、藩政は保守派がにぎる。1849(嘉永 2. 3.)幕府より許しが出る。
_1853(嘉永 6)ペリーの浦賀来航によって幕府(老中阿部正弘)は斉昭を海防のために起用し、藩政は再び帯刀ら改革派がにぎる。1858(安政 5)勅許のない通商条約調印について斉昭が大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)に反対し、安政の大獄で再び幕府に謹慎を命ぜられた時、家老としてと国事に奔走画策する。
_翌年、攘夷の勅諚(チョクジョウ)が水戸藩に下り、その暗躍の責任者として切腹。
(*)1844(天保15,弘化元)。

あじま なおのぶ【安島 直円】《あじま なほのぶ》
1739(元文 4) 〜 1789(寛政元. 4. 5)
◇江戸中期の和算家。字は伯規、通称は万蔵、号は南山。出羽国新庄藩の江戸詰の藩士の子で、江戸生れ。
_はじめ中西流の入江応忠(十太夫)に学び、のち幕府天文方の山路主住(ヌシズミ)について関流の皆伝を受ける。
(2)没年は1798(寛政10)。
(4)生年不詳、没年は1768。
(6)生年は1732ころ、没年は1798。
(16)没年は1789(寛政元. 4. 5)。

あしや どうまん【蘆屋 道満】《あしや だうまん》
生年不詳 〜 没年不詳
◇平安中期の陰陽家(オンヨウケ)。道摩とも。
_一条天皇の頃、安倍晴明と法力を争い、藤原道長を呪詛し播磨国(現:兵庫県)に放逐されたと伝えられる。
◎浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑(オオウチカガミ)』などに脚色された。

あしや ろそん【蘆谷 蘆村】
1886.11.14(明治19) 〜 1946.10.15(昭和21)
◇童話研究家。本名は重常。

あじろ ひろのり【足代 弘訓】
1784(天明 4.11.26) 〜 1856(安政 3.11. 5)
◇江戸後期の国学者・歌人。幼名は慶二郎のち式部、通称は権太夫、号は寛居(ユタイ)。家は代々伊勢外宮(ゲクウ)の権禰宜(ゴンネギ)で足代弘早(ヒロトシ)の子。
_本居大平(オオヒラ)・本居春庭に国学を、歌学を荒木田久老に学ぶ。
_天保飢饉には私財を投じて窮民を救う。大塩平八郎と親交があり、1837(天保 8)大塩平八郎の乱には大坂で取り調べを受ける。

あすかい まさあき【飛鳥井 雅章】
1611(慶長16) 〜 1679(延宝 7.10.12)
◇江戸前期の公卿・歌人。初名は雅昭。飛鳥井雅庸の子。

あすかい まさあり【飛鳥井 雅有】《あすかゐ まさあり》
1241(仁治 2) 〜 1301(正安 3. 1.11)
◇鎌倉末期の歌人。飛鳥井家は蹴鞠(ケマリ)の名家で、父は教定(ノリサダ)、母は北条実時(サネトキ)の娘、祖父は藤原雅経(マサツネ)。
_1278(弘安元)公卿となり、参議・兵部卿・民部卿を経て正二位に至る。後宇多・伏見・後伏見の3朝に仕える。
(4)飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)。
(5)飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)。
(11)飛鳥井 雅有(あすかい がゆう)。

あすかい まさちか【飛鳥井 雅親】《あすかゐ まさちか》
1417(応永24) 〜 1490(延徳 2.12.22)
◇室町中期の公卿・歌人・書家。法名は永雅、号は柏木。飛鳥井雅世(マサヨ)の子。書道飛鳥井流の開祖。
_足利義政の親任を受ける。

あすかい まさつね【飛鳥井 雅経】《あすかゐ まさつね》
1170(嘉応 2) 〜 1221(承久 3. 3.11)
◇鎌倉前期の歌人。藤原雅経とも呼ぶ。藤原(難波)頼経の子、大江広元の女婿。飛鳥井家の祖。
_歌道と蹴鞠で朝廷に仕える。『新古今和歌集』撰者の一人。

あすかい まさよ【飛鳥井 雅世】《あすかゐ まさよ》
1390 〜 1452(享徳元. 2. 1)
◇室町中期の公卿・歌人。初名は雅氏、法名は祐雅。飛鳥井雅縁(マサヨリ)の子。蹴鞠の名人。
(*)1390(<南>元中 7,<北>康応 2,<北>明徳元)。

あすかだ れいむこう【飛鳥田 (「女」偏+「麗」:補助2627〔_〕)無公】
1896. 5.10(明治29) 〜 1933. 9.22(昭和 8)
◇俳人。本名は忠作。神奈川県生れ。

あすかべのつねのり【飛鳥部 常則】
生年不詳 〜 没年不詳
◇平安中期の村上天皇の宮廷の絵師。
_『源氏物語』にも名前が残っている。

あすけ そいち【足助 素一】
1878. 1. 1(明治11) 〜 1930.10.29(昭和 5)
◇叢文閣の創業者。

あずま たつぞう【東 辰三】《あづま たつざう》
1900. 7. 3(明治33) 〜 1950. 9.27(昭和25)
◇作詞家・作曲家。東京生れ。
_1947(昭和22)『港が見える丘』作詞・作曲。
_1948(昭和23)『君待てども』作詞・作曲。

あずみ せいえつ【安住 誠悦】
1912. 7. 4(明治45) 〜 1968. 1.31(昭和43)
◇近代文学研究者。

あすわ もりあき【足羽 敬明】
1672(寛文12. 1.25) 〜 1759(宝暦 9. 2.10)
◇江戸中期の国学者。越前福井足羽神社の社司。幼名は右京、号は雉山人。福井藩士渥美友信の子、足羽社司馬来田治郎の養子。

あぜがみ けんぞう【畔上 賢造】
1884.10.28(明治17) 〜 1938. 6.25(昭和13)
◇宗教家(キリスト教)。

あそ これずみ【阿蘇 惟澄】
生年不詳 〜 1364(<南>正平19,<北>貞治 3)
◇南北朝時代の武将。名は宇治・恵良。惟景または惟国の子、惟武・惟村の父。惟時(コレトキ)の婿。南朝方として活躍。
_1361年ころ肥後国一宮の阿蘇大宮司となる。
(*)1361(<南>正平16,<北>延文 6,<北>康安元)。

あそ これたけ【阿蘇 惟武】
生年不詳 〜 1377(<南>天授 3,<北>永和 3)
◇南北朝時代の武将。名は宇治、通称は八郎次郎。惟澄(コレズミ)の子、惟政(コレマサ)の父、惟村(コレムラ)の弟。南朝方に属する。
_1364(<南>正平19,<北>貞治 3)父の遺跡相続を認められ、1365(<南>正平20,<北>貞治 4)肥後国一宮の阿蘇大宮司となる。北朝に属した兄惟村と対立。

あそ これとき【阿蘇 惟時】
生年不詳 〜 1353(<南>正平 8,<北>文和 2)
◇南北朝時代の武将。名は宇治。惟景または惟国の子、惟村(コレムラ)・惟成の父、惟直(コレナオ)の養父、惟澄(コレズミ)の舅。肥後国一宮の阿蘇大宮司。
_はじめ南朝方に属し1335(<南>建武 2,<北>建武 2)新田義貞に従い箱根竹ノ下で足利尊氏と戦う。1343(<南>興国 4,<北>康永 2)足利直義(タダヨシ)に誘われ北朝方に転じる。1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)婿の惟澄に説得されて南朝方に復帰する。1351(<南>正平 6,<北>観応 2)大宮司職を惟村(コレムラ)に譲り、隠退。
(2)一族の惟澄とは違って南北何れの権力にも加わらず中立を保った。
(*)記事は主に(16)に由る。

あそ これなお【阿蘇 惟直】
生年不詳 〜 1336
◇南北朝時代の武将。惟時(コレトキ)の子、惟成の兄。肥後国一宮の阿蘇大宮司。
_1336年、九州に下った足利尊氏と越前国多々良浜で戦い、敗れて弟忠成とともに自刃。
(*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。

あそ これまさ【阿蘇 惟政】
生年不詳 〜 没年不詳
◇南北朝時代の武将。惟武(コレタケ)の子。肥後国一宮の阿蘇大宮司。南朝方に属する。
_1385(<南>元中 2,<北>至徳 2)父の跡を継ぐ。1393(<南>元中10,<北>明徳 4)九州探題・肥後守護職今川了俊の支配下に入る。

あそ これむら【阿蘇 惟村】
生年不詳 〜 1406(応永13)
◇南北朝時代の武将。惟澄(コレズミ)の長子、惟郷の父、惟武(コレタケ)の兄、伯父惟時(コレトキ)の養子。肥後国一宮の阿蘇大宮司。
_1351(<南>正平 6,<北>観応 2)義父惟時から大宮司職を継ぐ。1362年、将軍足利義詮から肥後の守護職に任ぜられる。1367(<南>正平22,<北>貞治 6)義詮から大宮司職に任ぜられる。
(*)1362(<南>正平17,<北>康安 2,<北>貞治元)。

あそ ひろし【阿蘇 弘】
生年不詳 〜 没年不詳
◇小説家。

あそう けいじろう【麻生 慶次郎】《あさふ けいじらう》
1875(明治 8) 〜 1953(昭和28)
◇農芸化学者。東京生れ。
_東京大学教授。

あそう ひさし【麻生 久】《あさふ ひさし》
1891. 5.24(明治24) 〜 1940. 9. 7(昭和15)
◇社会運動家・政治家・小説家。大分県生れ。東京大学法科卒業。
_赤松克麿(カツマロ)の新人会結成に参加。1919(大正 8)友愛会に入り、1920(大正 9)全日本鉱夫組合総連合を組織。足尾銅山など多くの鉱山争議を指導。1926年、日本労農党を結成。全国大衆党・社会大衆党の書記長。1936(昭和11)・1937(昭和12)東京より衆院議員に当選。
_しだいに軍部との結合を強め、1939(昭和14)東方会との合同を策し新体制準備委員となるが、急死。
(*)1926(大正15,昭和元)。

あそう ゆたか【麻生 豊】
1898. 8. 9(明治31) 〜 1961. 9.12(昭和36)
◇漫画家。大分県生れ。
_1923(大正12)報知新聞の漫画記者。のち読売新聞で活躍。1933(昭和 8)朝日新聞の専属。
_「ノンキな父さん」は連続漫画の先駆となる。
(6)没年は1960。

あそう よしてる【麻生 義輝】
1901. 7.10(明治34) 〜 1938.10.11(昭和13)
◇美学・哲学史研究家。筆名は麻生義。

あだち かげもり【安達 景盛】
生年不詳 〜 1248(宝治 2. 5.18)
◇鎌倉前期の武将。名は弥九郎・九郎、通称は高野入道、法名は大蓮房覚智。安達藤九郎盛長(モリナガ)の長子、義景(ヨシカゲ)の父。
_第2代将軍源頼家(ヨリイエ)と第3代将軍実朝(サネトモ)に仕える。1218(建保 6)出羽介となり秋田城介(アキタジョウノスケ)と呼ばれる。実朝暗殺を悲しみ、出家し高野山に入る。その後も幕政に参与し、承久の乱にも参軍。
_娘松下禅尼(マツシタゼンニ)を北条時氏に嫁し、経時・時頼(トキヨリ)・為時・時定らを生む。執権時頼の時に外戚として権勢をふるう。1247(宝治元)時頼・義景とはかり三浦泰村一族を誘発し滅ぼし(宝治合戦)、安達氏の隆盛をもたらす。

あだち きんいち【足立 欽一】
1893. 7.10(明治26) 〜 1953.12.29(昭和28)
◇劇作家・書肆(ショシ)聚芳閣の社主。

あだち ぎんこう【安達 吟光】
生年不詳 〜 没年不詳
◇明治の浮世絵師。俗称は平七、初号は松雪斎銀光、別号は真匠吟光・松斎吟光・銀光。明治一〇年代より三〇年代に活躍。役者似顔絵・美人風俗画・名所絵や時事を扱った世相画・戦争画、挿絵など。

あだち けんいち【足立 巻一】
1913. 6.29(大正 2) 〜 1985. 8.14(昭和60)
◇詩人・小説家・評論家。東京生れ。神宮皇学館国漢科卒業。

あだち げんいちろう【足立 源一郎】
1889. 7. 8(明治22) 〜 1973. 3.31(昭和48)
◇画家。写実的な山岳風景画。

あだち けんぞう【安達 謙蔵】《あだち けんざう》
1864 〜 1948(昭和23)
◇明治〜昭和期の政治家。肥後国熊本藩生れ。熊本済々黌卒業。
_日清戦争に「九州日日新聞」の記者として従軍。ついで「朝鮮時報」・「漢城新報(のち京城日報)」を発刊。
_1895(明治28)在韓国日本公使三浦梧楼(ゴロウ)(陸軍中将)の指揮で岡本柳之助(陸軍大尉)らと、閔妃(ビンキ)(朝鮮李朝の親露派)暗殺事件に連座。
_免訴後、佐々友房(サッサ・トモフサ)と熊本国憲党を組織。1902(明治35)以来、衆院議員14回当選。加藤高明内閣の逓相、第1次若槻内閣で留任、一時内相臨時代理を兼任、浜口内閣で内相に就任。第2次若槻内閣で留任、挙国一致内閣を構想し、内閣の反対を受け辞任し内閣を総辞職させる。1932(昭和 7)国民同盟を結成し、委員長となる。1940(昭和15)国民同盟を解散。
_立憲同志会・憲政会・民政党の領袖(リョウシュウ)として「選挙の神様」・「蝮(マムシ)の謙蔵」といわれる。
(2)閔妃(ビンヒ)事件に連座。熊本国憲党を起こす。
(4)閔妃(ビンキ)事件に連座。
(6)閔妃(ビンピ)殺害事件に連座。熊本国権党の重鎮となり,……。
(16)閔妃(朝鮮…<中略>…人物)暗殺事件に連座.熊本国権党を組織,……。
(*)1864(文久 4,元治元)

あだち しげのぶ【足立 重信】
1560(永禄 3)頃 〜 1625(寛永 2)
◇江戸前期の武将。通称は半助のち半右衛門。美濃の人。
_若いころから加藤嘉明(ヨシアキ)に従って戦い、文禄・慶長の2度の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いに従軍し、その功により伊予松山藩の家老職(食封5千石)を受ける。
_伊予川の堤防を築き5千余町の新田を開発、これにより重信川と改称される。松前(マサキ)城を拡張し石手川を改修する。また、勝山移転の際は普請奉行となり、1603(慶長 8)松山城を築き、城下に町家を集め松山と改称する。
(2)石手川の改修に力をいれ,……。
(6)石手川改修を行う。
(16)石出川の流域を変更するなど,……。

あだち しんとう【足立 信頭】
1769(明和 6) 〜 1845(弘化 2. 7. 1)
◇江戸後期の天文学者。字は子季、通称は左内、号は渓隣。大坂の人。医者北谷琳筑の子、大坂鉄砲方の足立正長に養子。
_和算を宅間流松岡能一に、暦学を麻田剛立(ゴウリュウ)に学ぶ。1813(文化10)松前藩に出張し、来航したロシア人よりロシア語を学び、通詞の役を果たす。1835(天保 6)幕府より天文方を拝命。1841(天保12)改暦の命を奉じて渋川景佑(カゲスケ)らとともに、1842(天保13)天保壬寅暦を作成、1873(明治 6)太陽暦採用まで用いられる。
_著書『魯西亜語辞書』。
(16)信顕ともいわれている。

あだち ちょうしゅん【足立 長雋】
1775(安永 4) 〜 1836(天保 7.12.26)
◇江戸後期の蘭医。本名は井上世茂、号は無涯。江戸生れ。井上正広の子。
_足立梅庵に漢医方を学び、のち養嗣子となり、さらに多紀桂山に学ぶ。蘭医方を吉田長淑に学び、篠山藩の侍医となる。
_西洋産科医の先駆。

あだち ほくおう【足立 北鴎(鴎:「區」偏+「鳥」:補助7631〔_〕)】
1869(明治 2) 〜 1945(昭和20)
◇新聞人。本名は荒人。「読売新聞」の主筆。

あだち もりなが【安達 盛長】
1135 〜 1200(正治 2. 4.26)
◇鎌倉初期の武将。通称は藤九郎、法名は蓮西。小田野三郎兼広(藤原北家魚名流)の子、安達景盛(カゲモリ)の父。妻は源頼朝(ヨリトモ)の乳母比企尼の娘丹後内侍。
_源頼朝の挙兵以来、これを援け関東武士の糾合に活躍。石橋山の敗戦後、頼朝とともに安房に逃れる。頼朝の死後出家。
_第2代将軍頼家(ヨリイエ)の時、老臣として幕政に参画。
(*)1135(長承 4,保延元)。

あだち やすもり【安達 泰盛】
1231(寛喜 3) 〜 1285(弘安 8.11.17)
◇鎌倉中期の武将。通称は九郎、法号は覚真。義景(ヨシカゲ)の第3子、景盛(カゲモリ)の孫、宗景(ムネカゲ)の父。
_父の跡を継いで引付衆・秋田城介・幕府評定衆、1282(弘安 5)陸奥守になるが宗景に譲り、同年出家。
_娘が北条時宗(トキムネ)に嫁ぎ、貞時(サダトキ)を生む。
_貞時が第9代執権(シッケン)になると、北条氏の内管領平頼綱(ヨリツナ)が幕政を牛耳り、1285(弘安 8)宗景に謀反の企てあり、と頼綱に讒言(ザンゲン)された貞時に攻められ、一族が滅亡(霜月騒動,秋田城介の乱)。

あだち よしかげ【安達 義景】
1210(承元 4) 〜 1253(建長 5. 6. 3)
◇鎌倉中期の武将。初名は城太郎、法号は願智。景盛(カゲモリ)の長男、母は武藤頼佐の娘。泰盛(ヤスモリ)の父。
_父の跡を継いで秋田城介となり、評定衆・引付頭人などを歴任。1242(仁治 3)北条泰時の命を受けて、後嵯峨天皇擁立に奔走する。1247(宝治元)、三浦泰村(ヤスムラ)と勢力を争い、父や執権北条時頼と共謀して泰村を滅ぼし(宝治合戦)、安達氏の隆盛をもたらす。のち剃髪し、まもなく病死。

あだち よしゆき【安達 喜幸】
1827(文政10) 〜 1884(明治17)
◇明治期の建築技師。北海道開拓使営繕課筆頭技師。
_北海道開拓使の鹿鳴館ともいうべき豊平館を設計。

あだむ らっくすまん【アダム・ラックスマン】
⇒ラックスマン

あだむす【アダムス】
1564(永禄 7) 〜 1620(元和 6. 5.16)
◇江戸前期、日本に来た最初のイギリス人・航海士。名はウィリアム・アダムス(William Adams)、日本名は三浦按針(アンジン)。イギリスのケント州ギリンガム生れ。
_12歳の時、ライムハウスの造船所に入る。のちバーバリ会社に雇われ12年間、地中海付近を航海。1598(慶長 3)オランダ東インド会社に雇われ、東洋に艦隊を派遣する水先案内人となり、マラッカ諸島に向って航海中、難船。
_乗船リーフデ号は1600(慶長 5)豊後に漂着。部下のオランダ人ヤン・ヨーステンとともに大坂・江戸で徳川家康と謁見。命を受けて2隻の西洋帆船を建造。相摸国三浦郡逸見(ヘンミ)村250石と、江戸日本橋に邸を与えられ、ヨーステンとともに外交顧問となる。三浦按針と呼ばれ、姓は所領地に、名は当時水先案内を按針と呼び、それに因む。
_彼はバンダム(インドネシア)のイギリス商館に日本貿易有望の書を送り、セリースがバンダムに在った艦隊を率い、1613(慶長18)平戸に入港、駿府で家康に、江戸で将軍秀忠に謁見し、英国王ジェームス1世の国書を呈し、貿易の許可を得る。平戸に商館を設け、コックスを館長とし、帰国。
_アダムスは帰国を希望しながらもセーリス一行とは相容れず日本に留まり、商館員となる。鎖国令の中、貿易はオランダのみとなり、不遇のうちに平戸で病死。

あつた ごろう【熱田 五郎】《あつた ごらう》
1912.11.14(大正元) 〜 1960.11.20(昭和35)
◇小説家。本名は渋谷天珍児(テツジ)。

あつのみや やすひと【淳宮 雍仁】
⇒秩父宮雍仁

あつみ しんのう【敦実 親王】《あつみ しんわう》
893(寛平 5) 〜 967(康保 4)
◇宇多(ウダ)天皇の第8皇子・宇多源氏の祖。名は六条宮・八条宮、また出家して法名は覚真、また仁和寺宮と称される。敦仁(アツギミ)皇子(第60代醍醐天皇)の弟(同母)、母は藤原高藤の娘胤子(インシ)。
_和琴(ワゴン)・琵琶(ビワ)の名手で源家音曲の祖といわれ、鷹・馬・蹴鞠・和歌にも秀でる。

あつみ せいたろう【渥美 清太郎】
1892. 9. 9(明治25) 〜 1959. 8.20(昭和34)
◇演劇・舞踊評論家。
(8)誕生日は 9. 9。
(?)誕生日は12.15。

あてるい【阿弖流為】
生年不詳 〜 802(延暦21. 8.)
◇奈良末期・平安前期の蝦夷(エミシ)の族長。
_ 774(宝亀 5)奥州胆沢(イサワ)を中心として征討軍に対抗。
_ 801(延暦20)坂上田村麻呂が討伐、 802(延暦21. 1.)胆沢城が造営され、磐具公母礼(イワグモノキミ・モレ)ら500人とともに降伏。
_河内国杜山(モリヤマ)で斬刑。

あとう はっかい【阿藤 伯海】
1894. 2.10(明治27) 〜 1965. 4. 4(昭和40)
◇漢詩人。名は簡、字は伯海、号は大簡・虚白堂。

あとべ よしあきら【跡部 良顕】
1658(明暦 4. 2.12) 〜 1729(享保14. 1.27)
◇江戸中期の神道家(垂加)。姓は源、名は良賢のち良顕、通称は宮内、号は重舒斎。霊社号は光海(テルミ)。

あとみ かけい【跡見 花蹊】《あとみ くわけい》
1840(天保11) 〜 1926(大正15)
◇跡見女学校の創立者・女流教育家。本名は滝野。父は歌人重敬。摂津の人。
_大阪・京都の私塾で教えた後、東京に出て1875(明治 8)跡見女学校を創立、寄宿制度を採用。
(*)1926(大正15,昭和元)。

あなみ これちか【阿南 惟幾】
1887(明治20) 〜 1945. 8.15(昭和20)
◇陸軍大将。大分県出身。
_1918(大正 7)陸軍大学校卒業。1929(昭和 4)侍従武官・陸軍省人事局長を歴任。1939.10.(昭和14)陸軍次官。
_第二次大戦中、各地野戦軍司令官。1945. 4.(昭和20)鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣。ポツダム宣言受諾にあたり条件付き受諾を主張。
_終戦の日、陸相官邸で割腹自殺。

あねざき ちょうふう【姉崎 嘲風】
1873. 7.25(明治 6) 〜 1949. 7.23(昭和24)
◇宗教学者(切支丹,仏教)・評論家。本名は正治(マサハル)。京都生れ。
_1896(明治29)東京大学哲学科卒業。1900(明治33)ドイツ・イギリス・インドに留学、1903(明治36)帰国。1905(明治38)東京大学に宗教学講座を開設。
(2)姉崎 正治(あねざき まさはる)。
(4)姉崎 正治(あねさき まさはる)。
(5)姉崎 嘲風(あねざき ちょうふう)。
(6)姉崎 正治(あねさき まさはる)。
(13)姉崎 嘲風(あねざき ちょうふう,あねざき とうふう)。

あねざき まさはる【姉崎 正治】
⇒姉崎嘲風

あぶ てんぷう【阿武 天風】
1882. 9.(明治15) 〜 没年不詳
◇編集者・小説家。本名は阿武信一。

あぶつ に【阿仏 尼】
生年不詳 〜 1283(弘安 6)
◇鎌倉中期の女流歌人。
_貞応・元仁・嘉禄のころ(1222〜1226)の生れで、父母は不明だが平度繁(ノリシゲ)に養われる。安嘉門院(アンカモンイン)に仕え、女房名を安嘉門院越前・安嘉門院右衛門佐(エモンノスケ)・安嘉門院四条など。
_藤原為家の側室となり、冷泉為相(レイゼイ・タメスケ)・藤原為守(タメモリ)を生む。1277(建治 3)為相の領地相続問題訴訟のため鎌倉に下った折り、紀行『十六夜日記(イザヨイ・ニッキ)』を著す。為家の出家後に出家し、嵯峨禅尼・北林禅尼などとも呼ばれた。

あべ いそお【阿部 磯雄】《あべ いそを》
1865(元治 2. 2. 4) 〜 1949. 2.10(昭和24)
◇評論家・社会主義運動家・政治家。筑前国生れ。
_1884(明治17)同志社卒業。1894(明治27)ハートフォード神学校卒業。キリスト教社会主義者となる。
_1901(明治34)社会民主党の創立に参加。1905(明治38)「新紀元」を創刊。大逆事件後、引退。
_のち復帰して、1926年社会民衆党委員長。1928(昭和 3)第1回普通選挙に当選。1934(昭和 9)社会大衆党党首。1940(昭和15)勤労国民党を組織するが、禁止され引退。
_学生野球の父といわれる。
(2)1865(慶応元):誤。
(4)1865。昭和七年社会大衆党党首。
(6)1865。34年社会大衆党の党首。
(5)1865(慶応元. 2. 4):誤。
(8)1865(慶応元. 2. 4):誤。
(11)1865(慶応元. 2. 4):誤。
(13)1865(元治 2. 2.):正。
(*)1926(大正15,昭和元)。

あべ こんごう【阿部 金剛】
1900. 6.26(明治33) 〜 1968.11.20(昭和43)
◇画家。

あべ しげたか【阿部 重孝】
1890(明治23) 〜 1939(昭和14)
◇教育学者。新潟県出身。東京大学教授。

あべ しずえ【阿部 静枝】
1899. 2.28(明治32) 〜 1974. 8.31(昭和49)
◇歌人・社会評論家。本名は志つえ、旧姓は二木(フタギ)。宮城県生れ。東京女子高等師範学校国文科卒業。
(1)本名は志つえ。
(3)本名は志つえ。
(5)本名は志づえ。
(8)本名は志つえ。
(11)本名は志つえ。

あべ しょうおう【阿部 将翁】《あべ しやうをう》
1650(慶安 3) 〜 1753(宝暦 3)
◇江戸中期の本草学者。名は輝任。盛岡の人。
_延宝(1673〜1681)年間に清国福建に漂着、本草学・医学を学ぶ。帰国後、幕府の採薬使。

あべ しょうじん【阿部 (「竹」冠+「肖」:補助5017〔_〕)人】
1900. 1.16(明治33) 〜 1968. 8. 9(昭和43)
◇俳人。本名は亨。

あべ じろう【阿部 次郎】《あべ じらう》
1883. 8.27(明治16) 〜 1959.10.20(昭和34)
◇哲学者・評論家。阿部六郎の兄。山形県飽海(アクミ)郡上郷(カミゴウ)村生れ。
_東京大学哲学科卒業。夏目漱石に師事。
_評論集『三太郎日記』が有名。
(13)没日は10.21。

あべ しんのすけ【阿部 真之助】
1884. 3.29(明治17) 〜 1964. 7. 9(昭和39)
◇評論家。埼玉県生れ。東京大学社会学科卒業。
_満州日日新聞・東京日日新聞・大阪毎日新聞などの新聞記者として活躍。1944(昭和19)毎日新聞を退社。
_のち各種政府委員・NHK会長などを歴任。

あべ すえお【阿倍 季雄】
1880. 9. 7(明治13) 〜 1962.12.19(昭和37)
◇児童文学者・口演童話家。号は村羊。

あべ ただあき【阿部 忠秋】
1602(慶長 7) 〜 1675(延宝 3)
◇江戸初期の老中。武蔵国忍(オシ)城主。
_徳川家綱を補佐、由井正雪の乱・明暦の江戸大火などに善処。

あべ ともじ【阿部 知二】
1903. 6.26(明治36) 〜 1973. 4.23(昭和48)
◇小説家・評論家・英文学者。岡山県英田(アイダ)郡湯郷(ユノゴウ)村生れ。1927(昭和 2)東京帝国大学英文科卒業。
_太平洋戦争中、報道班員としてジャワへ行く。
(13)岡山県勝田郡湯郷村の教師の家に生れ、……。

あべ のぶゆき【阿部 信行】
1875(明治 8) 〜 1953(昭和28)
◇陸軍軍人・政治家。金沢生れ。陸軍大学校卒業。陸軍大将。
_1929(昭和 4)浜口雄幸(オサチ)内閣の宇垣陸軍大臣の下に陸軍次官、一時陸軍大臣代理。陸軍に擁立され、1939(昭和14)組閣、総理大臣兼外務大臣。
_のち中国特派全権大使。1944. 7.24(昭和19)第9代朝鮮総督就任、1945. 9.28(昭和20)解任。
_首相就任:1939. 8.30(昭和14)、総辞職:1940. 1.16(昭和15)。

あべ まさつぐ【阿部 正次】
1569(永禄12) 〜 1647(正保 4)
◇江戸前期の幕府大坂城代。永井尚政(ナオマサ)の伯父。

あべ まさひろ【阿部 正弘】
1819(文政 2.10.) 〜 1857(安政 4)
◇江戸幕末の老中・備後福山藩主。幼名は剛蔵のち主計、通称は伊勢守。老中阿部正精の6男。
_1836(天保 7)18歳で阿部家を相続、伊勢守備後福山10万石。1838(天保 9)奏者番。1840(天保11)寺社奉行。1843(天保14)25歳で老中。水野忠邦の失脚後、幕政を担(ニナ)い天保の苛政を除く。
_1854年、ペリーと日米和親条約を締結。
_大船建造の解禁・洋学所の開設・海軍操練などの政策を行う。
(*)1854(嘉永 7,安政元)。

あべ みどりじょ【阿部 みどり女】
1886.10.26(明治19) 〜 1980. 9.10(昭和55)
◇俳人。札幌生れ。北星女学校、病気のため中退。
(5)本名は「ミツ」。
(8)本名は「みつ」。

あべ よししげ【安倍 能成】
1883.12.23(明治16) 〜 1966. 6. 7(昭和41)
◇教育者・評論家・哲学者。愛媛県松山市小唐人町(コトウジンマチ)生れ。
_1901(明治34)県立松山中学校卒業。第一高等学校在学中、1903. 5(明治36)友人藤村操(ミサオ)が日光華厳の滝に投身自殺して衝撃を受け、思想・芸術へ傾倒。1909(明治42)東京大学哲学科卒業。
_京城大学教授・1940(昭和15)第一高等学校校長。
_戦後、1946(昭和21)幣原喜重郎内閣の文部大臣。のち学習院長。
_夏目漱石の門下。
_著書は『西洋古代中世哲学史』・『西洋近世哲学史』・『西洋道徳思想史』・『岩波茂雄伝』など。
◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。

あべ ろくろう【阿部 六郎】
1904. 4.12(明治37) 〜 1957.11. 7(昭和32)
◇ドイツ文学者・文芸評論家。山形市生れ。京都大学独文科卒業。阿部次郎の弟。
(5)没日は11. 7。
(8)没日は 1. 7。
(11)没日は11. 7。

あべのうちまろ【阿倍 内麻呂】
⇒阿倍倉梯麻呂

あべのくらはしまろ【阿倍 倉梯麻呂】
生年不詳 〜 649(大化 5. 3.17)
◇大和時代・孝徳天皇の左大臣。名は内麻呂・大鳥大臣。阿倍小足媛(オタラシヒメ)(有馬皇子の母)の父。中大兄皇子にも娘を嫁がせている。

あべのさだとう【安倍 貞任】《あべのさだたふ》
1019(寛仁 3) 〜 1062(康平 5. 6.17)
◇平安後期の豪族。厨川(クリヤガワ)次郎と称する。頼良(のち頼時)の次男、宗任(ムネトウ)の兄。北上川流域に勢力を張り、蝦夷の酋長の子孫といわれる。
_朝命に服せず、前九年の役(1056〜62)に宗任とともに厨川柵で源頼義の軍を破る。
_1062(康平 5)出羽の豪族清原氏の援助を受けた頼義は、はじめ叔父良照の守備する小松柵を攻略、衣川関・瀬原柵、さらに厨川・嫗戸(ウバト)柵を攻め、柵に火を放たれて貞任は戦死。
(2)(名)厨河次郎貞任。
(4)厨川次郎。
(6)厨川二郎。

あべのせいめい【安倍 晴明】
921(延喜21) 〜 1005(寛弘 2. 9.26)
◇平安中期の陰陽家・天文博士。本姓は阿倍、阿倍益材の子、土御門(ツチミカド)家の祖。讃岐の人。
_賀茂忠行・保憲父子から陰陽道・天文道を学ぶ。
_天文博士・左京権大夫・播磨守などを歴任。
_著書は『金烏玉兎集』・『占事略決』など。
_式神(シキガミ,シキシン)(一種の精霊)を駆使し、天文を解して事変を予知したと『今昔物語集』・『古今著聞集』などに伝えられる。
◎天文の変化により 986(寛和 2)の花山天皇の退位を知ったという。
◎生誕地は讃岐のほかに大阪・茨城などがある。
◆京都府京都市上京区の堀川一条の晴明神社の祭神。神社は住居跡という。
◆墓は京都府京都市嵯峨の渡月橋そばの晴明墓所とされる。

あべのなかまろ【阿倍 仲麻呂(安倍 仲麻呂)】
701 〜 770
◇奈良時代の文人。
_ 716(霊亀 2)留学生に選ばれ、翌年入唐。名を朝衡と改め、玄宗皇帝に仕える。 753(天平勝宝 5)帰国しようとして安南に漂着。在唐50余年、長安で客死。
(4)生年は 700頃。
(6)生年は 701。
(*) 701[文武 5](大宝元)、 770(神護景雲 4,宝亀元)。

あべのひらふ【阿倍 比羅夫】
生年不詳 〜 没年不詳
◇飛鳥時代の将軍。
_斉明天皇の 658〜 660年、日本海沿岸を北進して蝦夷(エゾ)を平定、渡島(ワタリノシマ)(北海道南部か津軽半島)に渡り粛慎(ミシハセ)を征伐。
_天智天皇のとき、百済を助けて新羅と戦い、将軍さらに大宰帥(ダザイノソツ)となる。
(4)あべのひらぶ。
(67)あべのひらふ。

あべのむねとう【安倍 宗任】《あべのむねたふ》
生年不詳 〜 没年不詳
◇平安後期の豪族。鳥海三郎と称する。頼良(のち頼時)の子、貞任(サダトウ)の弟。
_朝命に服せず、前九年の役(1056〜62)に貞任とともに厨川柵で源頼義の軍を破る。
_1062(康平 5)兄貞任敗死の後、衣川(コロモガワ)で敗れ源頼義に降り、一旦京都に連行、1064(康平 7)伊予に流される。のち太宰府に移され出家。

あべのよりとき【安倍 頼時】
生年不詳 〜 1057(天喜 5. 7.26)
◇平安中期の豪族。本姓は亘理(ワタリ)氏、安倍姓は賜姓といわれる。はじめは頼良・頼長・頼義、通称は安大夫。忠頼の孫、忠良の子、貞任(ヨリトウ)・宗任(ムネトウ)の父。
_奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貴・紫波・岩手)の郡司。
_朝命に服せず、陸奥守藤原登任(ナリトウ)を破り、朝廷より自立。このため陸奥守兼鎮守府将軍に任じられた源頼義・義家父子に攻められるが、大赦があり罪を免ぜられて一旦帰順。
_1056(天喜 4)貞任への冤罪から再び子の貞任・宗任らと叛く(前九年の役:1056〜62)。頼義に応じた安倍富忠を自ら説得、富忠の伏兵と戦い流れ矢にあたり、鳥海柵に帰り没する。
(2)1057(天喜 5)9月頼義・義家父子に鳥海の柵で討たれた。
(16)没日は 7/26。

あぼ しんのう【阿保 親王】《あぼ しんわう》
792(延暦11) 〜 842(承和 9)
◇平城(ヘイゼイ)天皇の第一皇子・在原(アリワラ)氏の祖。在原行平(ユキヒラ)・業平(ナリヒラ)の父。
_ 810(弘仁元)薬子(クスコ)の変に連座して大宰権帥に左遷されるが、のち許されて帰京。
_ 826(天長 3)上奏して、子の行平・業平などに在原姓を授かる。
◎文武・音楽の名人。

あまかす せきすけ【甘粕 石助】
1906. 4.23(明治39) 〜 1975. 8. 9(昭和50)
◇哲学者。本名は見田石助。

あまかす まさひこ【甘粕 正彦】
1891. 1.16(明治24) 〜 1945. 8.18(昭和20)
◇陸軍憲兵大尉。山形県仙台市北三番町生れ。
_1905(明治38)名古屋幼年学校入学。1910(明治43)陸軍士官学校入学、1912(明治45)第24期生として卒業。1912.12.(大正元)少尉に任官。1915(大正 4)陸軍戸山学校入学、ここで膝関節炎症になり退役を願い出るが、勧められて憲兵になる。1918. 8.(大正 7)朝鮮京畿道楊州憲兵分隊長。1920(大正 9)憲兵練習所に入所、1921(大正10)卒業、大尉となり千葉県市川憲兵分隊長。1922. 1.(大正11)東京市渋谷憲兵分隊長。1923. 8.27(大正12)東京市麹町憲兵分隊長を兼任。1923(大正12)関東大震災での大杉栄事件により軍法会議にかけられ、12月十年の刑を受けたが、1927(昭和 2)三年で出獄。フランスに渡る。
_のち、1929(昭和 4)満洲に渡り、満洲事変に加わり政界の黒幕となる。1932(昭和 7)満洲国建国と同時に満洲国民政部警務司長に就任。1934(昭和 9)甘粕の母志げの旧姓内藤から名付けられた「内藤機関」を開設。1937(昭和12)協和会中央本部総務部長。同年、満洲国建国の功により日本政府から勲四等旭日章、満洲国政府から勲二等景雲章が授与。1939.11. 1(昭和14)満洲映画協会の理事長に就任。敗戦とともに新京で服毒自殺。
(+)『甘粕大尉』中公文庫    昭和54年 5月10日初版
_著者:角田房子,発行所:中央公論社  昭和61年 2月15日七版
(2)1912(明治45)歩兵少尉となったが、……。
_'31満州(中国東北部)にわたり、……。

あまくさ しろう【天草 四郎】《あまくさ しらう》
1621(元和 7) 〜 1638(寛永15. 2.18)
◇江戸前期の島原の乱の指導者。本名は益田四郎時貞(トキサダ)。洗礼名はジェロニモ(ヒエロニモ)またはフランシスコ。小西行長(ユキナガ)の旧臣益田甚兵衛好次(ヨシツグ)の子という。
_1637(寛永14.10.25)肥前国の領民が蜂起して代官を血祭りに上げ、対岸の肥後国天草島の農民も呼応して大規模な一揆となる(島原の乱)。島原・富岡城を攻めるが落とせず、島原半島の南端の古城、原城に籠城。12.20幕府軍板倉重昌(シゲマサ)ら3万余の第1次攻撃。幕府が援軍を送ったことを知った重昌は恥じて、援軍到着前の1638(寛永15. 1. 1)第2次攻撃して銃弾にあたり戦死。 1.14老中松平伊豆守信綱(ノブツナ)が率いる援軍が到着。 2.17第3次攻撃。翌日、四郎が深手を負って倒れていたところを熊本藩士陣野佐左衛門に首を斬られる。首は長崎に送られ、晒(サラ)し首となる。
◎母は教名マルタ、姉(福)は教名レシーナ。
◎原城跡の一遇に北村西望作の銅像がある。
◎乱後、島原城主松倉勝家は所領没収のうえ処刑。唐津城主寺沢堅高も減封処分を受け、のちに自殺。
◎富岡城は天草郡苓北町富岡。

あまくさ ときさだ【天草 時貞】
⇒天草四郎

あまこ かつひさ【尼子 勝久】
1553(天文22) 〜 1578(天正 6. 7. 3)
◇戦国時代の武将。毛利氏に滅ぼされた尼子氏を1569(永禄12)出雲を回復して再興したが、のちに毛利氏の攻囲をうけて自刃。

あまこ つねひさ【尼子 経久】
1458(長禄 2.11.20) 〜 1541(天文10.11.13)
◇室町後期・戦国時代の武将。尼子清定の子。

あましょうぐん【尼将軍】
⇒北条政子

あまた ぐあん【天田 愚庵】
1854(嘉永 7. 7.20) 〜 1904. 1.17(明治37)
◇歌人。幼名は久五郎、一時清水次郎長の養子となり山本五郎(明治15)、のち剃髪して愚庵・鉄眼(テツゲン)。磐城(イワキ)国平生れ。戊辰戦争で父母妹が行方不明となり、所在を尋ねて流浪生活をする。1887(明治20)34歳で出家、鉄眼と称する。
(1)天田 愚庵(あまだ ぐあん)、1854(嘉永 7):正、幼名は五郎。
(2)天田 愚庵(あまだ ぐあん)、1854(安政元):誤。
(3)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤。
(5)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は久五郎。
(8)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は久五郎。
(11)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、幼名は五郎。
(13)天田 愚庵(あまた ぐあん)、1854(安政元):誤、名は五郎。

あまの さだかげ【天野 信景】
1651(慶安 4) 〜 1733(享保18. 9. 8)
◇江戸中期の国学者。通称は治部、字は子顕、号は白華。信幸の子。尾張名古屋藩士。
(26)生年は1663(寛文 3)。
(?)生年は1651(慶安 4)。

あまの そうほ【天野 宗歩】
1816(文化13) 〜 1856(安政 3)
◇江戸幕末の将棋棋士。江戸生れ。
_将棋家の生れでないため、七段でおわるが、後世「棋聖」と称される。

あまの ためゆき【天野 為之】
1859(安政 6) 〜 1938(昭和13)
◇経済学者・教育者。唐津藩医の子として江戸に生れる。
_東京帝国大学卒業。
_1882(明治15)大隈重信(オオクマ・シゲノブ)らと東京専門学校(現:早稲田大学)を創立。衆議院議員。
_1892〜1917(明治25〜大正 6)東京専門学校で実業教育に従事。1898(明治31)から10年間、東洋経済新報を主宰。
_早稲田大学学長。
(6)生年は1859/60。
◎福沢諭吉・田口卯吉(ウキチ)とともに明治の三大経済学者と称される。

あまの ていゆう【天野 貞祐】《あまの ていゐう》
1884. 9.30(明治17) 〜 1980. 3. 6(昭和55)
◇哲学者・教育者。神奈川県生れ。
_京都帝国大学哲学科卒業、専攻はカント哲学。京都帝国大学教授。
_第二次世界大戦後、甲南高校校長・第一高等学校校長・第3次吉田茂内閣の文部大臣、日本育英会会長、独協大学学長。
_著書は翻訳『純粋理性批判』、『道理の感覚』など。
(3)天野 貞祐(あまの ていすけ)。
(5)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
(8)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
(11)天野 貞祐(あまの ていゆう)。
(13)天野 貞祐(あまの ていゆう)。

あまの とうりん【天野 桃隣】《あまの たうりん》
1639(寛永16) 〜 1719(享保 4)
◇江戸中期の俳人・伊賀上野藤堂家の臣。
_江戸で芭蕉に学ぶ。
_著書は『陵奥鵆(ムツチドリ)』など。

あまの とおかげ【天野 遠景】《あまの とほかげ》
生年不祥 〜 没年不祥
◇鎌倉時代の武将。伊豆天野の住人。
_源頼朝の挙兵に参じ、石橋山の戦いに奮戦。
_西海に平氏を追討、鎮西奉行に任ぜられる。

あまのや りへえ【天野屋 利兵衛】《あまのや りへゑ》
1662(寛文 2) 〜 1727(享保12)
◇江戸中期の大坂の商人。大坂北組惣年寄。
_赤穂藩主浅野家に出入りし、のち赤穂浪士のために武器を調達。自首して追放となる。
◆東京都港区高輪2丁目の泉岳寺に「義商天野屋利兵衛浮図(フト)」がある。
◎『仮名手本忠臣蔵』では天川屋義平の役名で登場。

あみの きく【網野 菊】
1900. 1.16(明治33) 〜 1978. 5.15(昭和53)
◇小説家。戸籍上の誕生日は 1.26。東京麻布(アザブ)生れ。1920. 3.(大正 9)日本女子大学英文科卒業。1930(昭和 5)京都大学哲学科出身の満洲医大教授と結婚、1936(昭和11)離婚、以来独身。

あめのみや けいじろう【雨宮 敬次郎】《あめのみや けいじらう》
1846(弘化 3) 〜 1911(明治44)
◇明治期の実業家。俗称は天敬。甲斐の人。
_初め、甲州物産の江戸行商。のち横浜で生糸投機・銀相場に手を出す。1880(明治13)東京深川に製粉工場を設立して成功。
_若尾逸平(イッペイ)・小野金六とともに甲州財閥三人男と呼ばれる。

あめのもり ほうしゅう【雨森 芳洲】《あめのもり はうしう》
1666(寛文 6) 〜 1755(宝暦 5)
◇江戸中期の朱子学者。名は誠清。京都の人。
_木下順庵の門人。韓語・華語に堪能で、順庵の推挙で対馬藩に仕え、日韓外交に当る。
(4)生年は1666。
(6)生年は1668。

あゆかい かいえん【鮎貝 槐園】
1864(元治元. 1. 4) 〜 1946. 2.24(昭和21)
◇歌人。号は薊の家・松の家。陸前国生れ。東京外語学校卒業。1894(明治27)京城(ソウル)に乙未(イツビ)義塾を創設、ながく朝鮮の実業界にあり、引き揚げの途次博多病院で死去。落合直文の弟。
(1)没日は 2.14、本名は盛影。
(3)没日は 2.24、本名は房之進。
(5)没日は 2.24、本名は房之進。
(8)没日は 2.14、本名は房之進盛影。
(11)没日は 2.24、本名は房之進。

あゆかわ ぎすけ【鮎川 義介】《あゆかは ぎすけ》
⇒鮎川義介

あゆかわ のぶお【鮎川 信夫】《あゆかは のぶを》
1920. 8.23(大正 9) 〜 1986.10.17(昭和61)
◇詩人・評論家。本名は上村(カミムラ)隆一。東京生れ。早稲田大学英文科、学徒出陣のため三年で中退。スマトラから傷病兵として帰還。

あゆかわ よしすけ【鮎川 義介】《あゆかは よしすけ》
1880.11. 6(明治13) 〜 1967. 2.13(昭和42)
◇大正・昭和期の実業家。山口県生れ。久原房之助(クハラ・ヒサノスケ)の義兄。
_1903(明治36)東京大学工科機械科卒業。
_大卒を隠して職工として芝浦製作所に入社、2年後アメリカに渡りグルト・カプラー社で鋳物の技術を身につけて帰国。
_1910(明治43)井上馨の援助で戸畑鋳物株式会社を創立。1920(大正 9)妹婿の久原房之助から久原産業を受け継ぎ、1928(昭和 8)日本産業(日産)を設立、日本鉱業・日立製作所・日本化学などを傘下に収め、重化学工業の多角経営に努める。軍需産業と結び付きながら新興財閥日産コンツェルンを形成。1937.12.(昭和12)満州重工業開発(満業)を設立し満州に進出。1943(昭和18)貴族院勅選議員。
_太平洋戦争後、戦犯として巣鴨拘置所に収容され、公職追放となる。1951(昭和26)釈放後ただちに中小企業助成会長となり、1953(昭和28)参議院議員に当選。1956(昭和31)日本中小企業政治連盟を結成総裁に就任、これを政治圧力団体として1957.11.(昭和32)中小企業団体組織法を成立させ、日本農林漁業政治連盟の総裁にも就任。1959(昭和34)次男の鮎川金次郎の選挙違反容疑でともに参議院議員を辞任。
◎岸信介(ノブスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)とともに「満洲の三スケ」と称される(ともに山口県生れ)。
(2)あゆかわ よしすけ。(系)久原房之助の義兄。
(2)あいかわ よしすけ。義弟久原房之助に代って…。
(6)あゆかわ よしすけ。1927年義兄久原房之助(クハラフサノスケ)の…。
(16)あゆかわ よしすけ。1928(昭和 3)年義弟久原房之助より…。
(21)あいかわ よしすけ。妹婿の久原房之助(クハラフサノスケ)から…。

あら まさひと【荒 正人】
1913. 1. 1(大正 2) 〜 1979. 6. 9(昭和54)
◇評論家。別名は赤木俊。福島県相馬郡鹿島町生れ。1938(昭和13)東京大学英文科卒業。
_戦後、中野重治(シゲハル)と「政治と文学」を論争する。

あらい あきら【新井 洸】
1883.10. 9(明治16) 〜 1925.10.23(大正14)
◇歌人。本名は幸太郎、別号は雨泉。東京生れ。
(?)新井 洸(あらい こう)。  ????
(5)新井 洸(あらい あきら)。
(8)新井 洸(あらい あきら)。
(11)新井 洸(あらい あきら)。

あらい おうすい【新井 奥邃】
1846(弘化 3. 5. 5) 〜 1922. 6.16(大正11)
◇宗教家(無所属のキリスト教)・教育者。通称は常之進。

あらい かんぽう【新井 寛方】
1878. 8.15(明治11) 〜 1945. 4.21(昭和20)
◇画家(仏画)。本名は寛十郎。アジャンタの壁画・法隆寺金堂の壁画を模写。

あらい きいち【新井 紀一】
1890. 2.22(明治23) 〜 1966. 3.11(昭和41)
◇小説家。群馬県吉井町生れ。
(1)没日は 3.11。
(3)没日は 3.13。
(5)没日は 3.13。
(8)没日は 3.11。
(11)没日は 3.13。

あらい せいふう【新井 声風】
1897.12. 3(明治30) 〜 1972. 8.27(昭和47)
◇俳人。本名は義武。

あらい てつ【荒井 徹】
1899. 2.15(明治32) 〜 1944. 4.12(昭和19)
◇詩人。本名は内野健児。

あらい はくせき【新井 白石】《あらゐ はくせき》
1657(明暦 3. 2.11) 〜 1725(享保10. 5.19)
◇江戸中期の朱子学者・漢詩人・政治家。幼名は伝蔵(傳藏)(デンゾウ)、名は君美(キンミ)、字は済美、通称は与五郎、のち勘解由(カゲユ)、号は白石・紫陽・天爵堂。父は久留里藩(2万2千石)の目付役新井正済(正濟)(マサナリ)。従五位下(明治に至り正四位を贈られる)、筑後守(チクゴノカミ)。
_明暦大火の直後、江戸神田の藩主土屋利直(トシナオ)の仮屋で生れる。土屋家仕え、のち利直が亡くなり子の頼直(ヨリナオ)が継ぐと父子ともに辞職。
_江戸に出て浪人。大老堀田正俊(下総古河城主)に仕えるが2年で正俊が稲葉正休に斬られて亡くなる。30歳のころ木下順庵に朱子学を学び、35歳で堀田家を致仕。のち順庵の推挙で1693(元禄 6)甲府藩主徳川綱豊に仕える。
_1709(宝永 6)綱豊が六代将軍家宣(イエノブ)になり、側用人間部詮房(マナベ・アキフサ)とともに幕政を補佐。武蔵国埼玉郡に500石を賜り、のち相摸国に500石を加贈。生類憐の令など将軍綱吉(ツナヨシ)の時の弊政の廃止・朝鮮使節の簡略化・幣制の改革・外国貿易の制限・閑院宮(カンインノミヤ)家の創立などを行う。家宣の死後、詮房とともに七代将軍家継(イエツグ)を補佐。家継の死後、1716(享保元)吉宗が将軍となるとともに致仕。
_著書は自伝『折たく柴の記』・『西洋紀聞』・『読史余論』など。
(2)(名)君美(キンミ),通称勘解由(カゲユ),白石は号。
(4)名は君美(キミヨシ)。
(6)名は君美(キンミ),通称は勘解由(カゲユ)。白石は号。
(5)名乗りは君美(キンミ)、……。
◆墓は東京都中野区上高田1−2−9の高徳寺。

あらかわ とよぞう【荒川 豊蔵】《あらかは とよざう》
1894(明治27) 〜 1985(昭和60)
◇陶芸家。岐阜県多治見生れ。
_宮永東山・北大路魯山人のもとで作陶。
_1930(昭和 5)岐阜県可児<カニ>郡大萱(オオカヤ)で、桃山時代の志野を焼いた古窯跡を発見。古志野・瀬戸黒・黄瀬戸の再現に努力。
_1955(昭和30)人間国宝に指定。1971(昭和46)文化勲章を受賞。
◎多治見高田に豊蔵が築いた、水月窯と刻まれた石碑がある。

あらき いくこ【荒木 郁子】
1888. 3. 3(明治21) 〜 1943. 2.26(昭和18)
◇小説家。

あらき かんぽ【荒木 寛畝】《あらき くわんぼ》
1831(天保 2) 〜 1915(大正 4)
◇日本画家。旧姓は田中、通称は光三郎。文晁派の荒木寛快の養子、荒木十畝(ジッポ)の養父。帝室技芸員。
_一時、川上冬崖に油絵を習う。

あらき こどう【荒木 古童】
1823(文政 6) 〜 1908(明治41)
◇尺八家。
_幼少より尺八を学び、虚無僧(コムソウ)の修業中に豊田古童に師事。
_1871(明治 4)虚無僧が属する禅宗の一派普化宗(フケシュウ)の廃止後、琴古流(キンコリュウ)の尺八をを中興する。

あらき さだお【荒木 貞夫】
1877(明治10) 〜 1966(昭和41)
◇陸軍大将。東京出身。
_犬飼・斎藤内閣の陸軍大臣。満州事変を指導。皇道派の指導者として陸軍少壮将校の革新運動に関係、統制派と対立する。
_太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身刑、1955(昭和30)病気のため仮出所。

あらき じっぽ【荒木 十畝】
1872(明治 5) 〜 1944(昭和19)
◇日本画家。本名は悌二郎。荒木寛畝(カンポ)の養嗣子。長崎生れ。芸術院会員。

あらき たかし【荒木 巍】
1905.10. 4(明治38) 〜 1950. 6. 4(昭和25)
◇小説家。本名は下村是隆、初期の筆名は下村恭助。東京に僧侶の子として生れる。1932(昭和 7)東京大学支那文学科卒業。結核により死去。
(5)誕生日は10. 4。
(8)誕生日は10. 6。
(11)誕生日は10. 4。
(13)誕生日は10.。

あらき のぶお【荒木 暢夫】
1893. 3.28(明治26) 〜 1966. 2.27(昭和41)
◇歌人。本名は喬。

あらき またえもん【荒木 又右衛門】《あらき またゑもん》
1599(慶長 4. 1.) 〜 1638(寛永15. 8.28)
◇江戸前期の剣客。伊賀生れ。
_柳生十兵衛に就いて剣法を極め、大和郡山藩の剣法指南を勤める。
_1634(寛永11.11. 7)妻の弟岡山藩士渡辺数馬の仇討ちに助太刀し、数馬の父(一説に弟)源太夫の仇河合又五郎を伊賀国上野鍵屋(カギヤ)の辻に討つ(伊賀越仇討)。この仇討ちはのちに歌舞伎や講談で三十六人切りと脚色される。
_1638(寛永15)鳥取藩主池田家に仕官し、同年鳥取で没。
(4)生年は1601。
(6)生年は1599。

あらき むらしげ【荒木 村重】
1535(天文 4) 〜 1586(天正14)
◇安土桃山時代の武将。利休七哲の一人。岩佐勝以(カツモチ)の父。
_初め足利義昭に仕え、1573年織田信長に属し摂津一国を与えられ、本願寺攻撃に当る。のち叛いて毛利と結び、1578(天正 6)信長に伊丹城を追われ流浪。
_のち剃髪し筆庵道薫と称して茶道に通じ、羽柴(豊臣)秀吉に拾われて近侍。
(4)生年不詳。
(6)生年は1535。
(*)1573(元亀 4,天正元)。

あらき よしお【荒木 良雄】
1890. 9. 5(明治23) 〜 1969. 9.29(昭和44)
◇国文学者。

あらきだ すえほぎ【荒木田 末寿】
1764 〜 1828(文政11. 8.16)
◇江戸後期の神宮学者。通称は玄蕃のち大学、号は桜屋翁・楽斎。
(*)1764(宝暦14,明和元)。

あらきだ つねただ【荒木田 経雅】
1742(寛保 2) 〜 1805(文化 2)
◇江戸後期の神宮学者。通称は経雅のち豊後。父は中川経行。

あらきだ ひさおゆ【荒木田 久老】
1746(延享 3) 〜 1804(文化元. 8.14)
◇江戸後期の国学者・伊勢内宮の権禰宜。号は五十槻園(イツキノソノ)。度会(ワタライ)正身の子。
_賀茂真淵に入門、宣長派と対立する。
(26)号は五十槻園(イツキソノ)。橋村正身(マサノブ)の二男。

あらきだ もりたけ【荒木田 守武】
1473(文明 5) 〜 1549(天文18. 8. 8)
◇室町末期の俳人・連歌師・伊勢内宮(ナイクウ)の禰宣(ネギ)(神官)。伊勢内宮三禰宜荒木田(薗田)守秀の9男。
_15歳で禰宜となる。69歳で一禰宜に上る。
_山崎宗鑑とともに、その作品は俳諧が連歌から独立する機運を起している。
◆守武忌[旧暦 8. 8]。

あらきだ れいじょ【荒木田 麗女】
1732(享保17. 3.10) 〜 1806(文化 3. 1.12)
◇江戸後期の物語作者。名は隆のち麗、麗子・麗女と自署。伊勢国山田中之郷町に内宮地下権禰宜(ナイクウジゲゴンネギ)荒木田武遠(タケトオ)の娘として生れる。
_13歳で叔父の外宮御師(ゲクウオシ)荒木田武遇(タケハル)の養女となる。22歳で慶滋(ヨシシゲ)家雅と結婚。
(4)荒木田 麗(あらきだ れい)。慶徳家雅の妻。
(5)荒木田 麗女(あらきだ れいじょ)。
(11)荒木田 麗女(あらきだ れいじょ)。

あらし かんじゅうろう【嵐 寛寿郎】《あらし くわんじゆうらう》
1903(明治36) 〜 1980(昭和55)
◇映画俳優。本名は高橋照市、照一とも、愛称は「あらかん」。京都生れ。
_『鞍馬天狗』などの時代劇で活躍。
(?)1902生。

あらし きちさぶろう【嵐 吉三郎】《あらし きちさぶらう》
1769(明和 6) 〜 1821(文政 4)
◇歌舞伎俳優。屋号は岡島屋、俳名は璃寛(リカン)。

[1]あらし さんえもん【嵐 三右衛門(初世)】《あらし さんゑもん》
1635(寛永12) 〜 1690(元禄 3)
◇江戸前期の歌舞伎俳優。本名は西崎三右衛門。摂津西宮の人。
_大坂で活躍。

[2]あらし さんえもん【嵐 三右衛門(二世)】《あらし さんゑもん》
1661 〜 1701(元禄14)
◇歌舞伎俳優。初世の子。
(*)1661(万治 4,寛文元)。

[3]あらし さんえもん【嵐 三右衛門(三世)】《あらし さんゑもん》
1697(元禄10) 〜 1754(宝暦 4)
◇歌舞伎俳優。二世の子。

あらはた かんそん【荒畑 寒村】
1887. 8.14(明治20) 〜 1981. 3. 6(昭和56)
◇社会主義者・小説家・評論家。本名は勝三。神奈川県横浜永楽町の横浜遊廓内の仕出屋に生れる。1904(明治37)社会主義協会入会。1908(明治41)赤旗事件で入獄。1922(大正11)日本共産党創立に加わり、1928(昭和 3)党を除名。戦後社会党から立候補し当選、1949(昭和24)脱党。
(13)誕生日は 8. 5。

ありが ちょうはく【有賀 長伯】《ありが ちやうはく》
1661 〜 1737(元文 2)
◇江戸中期の歌人。京都の人。平間長雅の門人。
(*)1661(万治 4,寛文元)。

ありが ながお【有賀 長雄】《ありが ながを》
1860(万延元.10. 1) 〜 1921. 6.17(大正10)
◇法学者・社会学者・文学者。有賀長伯の子孫。摂津国生れ。東京大学哲学科卒業。
_東京大学講師。著書は『国法学』・『国家学』など。
◎坪内逍遥(ショウヨウ)と東京大学の同期で『当世書生気質(カタギ)』の宮賀匡(タダス)のモデル。

ありさか なりあきら【有坂 成章】
1852(嘉永 5) 〜 1915(大正 4)
◇陸軍軍人・技術者。陸軍中将。周防国岩国生れ。
_1898(明治31)三十一年式速射野砲(有坂砲、7.5センチ)を考案。

ありさか ひでよ【有坂 秀世】
1908(明治41) 〜 1952(昭和27)
◇国語学者。広島県呉生れ。東京大学言語学科卒業。
_日本語・中国語の音韻史を研究、業績をあげる。
_著書は『音韻論』・『国語音韻史の研究』・『上代音韻攷』など。

ありしま いくま【有島 生馬】
1882.11.26(明治15) 〜 1974. 9.15(昭和49)
◇画家・小説家。本名は壬生馬(ミブマ)、号は雨東生・十月鳥山・十月亭。横浜の税関官舎に生れる。東京外語学校イタリア語科卒業。有島武郎(タケオ)の次弟、里見〔_〕(「弓」偏+「享」:補助2877)(トン)(四男)の実兄。
◎没後、鎌倉の稲村ヶ崎にある旧宅が長野県信州新町に移築され、有島生馬記念館となっている。

ありしま たけお【有島 武郎】《ありしま たけを》
1878. 3. 4(明治11) 〜 1923. 6. 9(大正12)
◇大正時代の白樺派の小説家・評論家。行正(ユキマサ)と名乗り、号は泉谷(センコク)・由井ヶ浜兵六・勁隼生(ケイジュンセイ。東京小石川水道町生れ。薩摩士族出身で当時大蔵省官吏の有島武の長男、有島生馬(イクマ)(次男)・里見〔_〕(「弓」偏+「享」:補助2877)(トン)(四男)の実兄。
_学習院を経て、札幌農業専門学校(現:北海道大学)卒業。在学中に内村鑑三に師事し、キリスト教に入信。アメリカ留学中にホイットマンらの影響を受け、社会主義に傾き、帰国後に棄教。
_1910(明治43)雑誌「白樺」創刊に参加し同人。人道主義的作風で活躍。ブルジョア出身の自己との矛盾に苦しみ、財産放棄を行い、所有地を開放して共産農園を建設。1922(大正11)評論『宣言一つ』で階級闘争の激化に対する自己の限界を表明。
_婦人記者で愛人の波多野秋子と軽井沢で心中。
_著書は評論『惜みなく愛は奪ふ』、小説『宣言』・『或る女』・『生れ出づる悩み』・『カインの末裔』(1917<大正 6>)など。
◎北海道虻田郡(アブタグン)ニセコ町(チョウ)に有島記念館がある。

ありすがわのみや たかひとしんのう【有栖川宮 幟仁親王】《ありすがはのみや たかひとしんわう》
⇒幟仁親王

ありすがわのみや たるひとしんのう【有栖川宮 熾仁親王】《ありすがはのみや たるひとしんわう》
⇒熾仁親王

ありはらのえんび【在原 艶美】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸中期の戯作者。在原艶美・業平艶美・成平榻見とも称する。
_江戸本所業平橋畔に住む。

ありはらのしげはる【在原 滋春】
生年不詳 〜 没年不詳
◇平安前期の歌人。在次君と呼ばれる。在原業平(ナリヒラ)の次子。

ありはらのなりひら【在原 業平】
825(天長 2) 〜 880(元慶 4. 5.28)
◇平安初期の歌人。別称は在五(ザイゴ)中将・在中将。平城天皇の皇子阿保(アボ)親王の第5子、母は恒武天皇の皇女伊都(イト)内親王。在原行平(ユキヒラ)の弟、在原棟梁・滋春(シゲハル)の父。六歌仙人・三十六歌仙の一人。
_ 826(天長 3)兄行平らと在原姓を賜る。
_右近衛権中将を経て、 879(元慶 3)蔵人頭、従四位上。文徳天皇の皇子惟喬親王に近侍。
_容姿端麗で『伊勢物語』の主人公と目される。
◆業平忌[旧暦 5.28]。
◎『伊勢物語』九段:「名にしおはゝいさことゝはん宮古鳥/わかおもふ人はありやなしや」
◎「今(イマ)業平」のように用いられ近世まで典型的美男子とされた。

ありはらのゆきひら【在原 行平】
818(弘仁 9) 〜 893(寛平 5)
◇平安初期の歌人。阿保(アボ)親王の第2子、在原業平(ナリヒラ)の兄。
_ 826(天長 3)弟業平らと在原姓を賜る。
_大宰権帥・中納言民部卿。
_須磨(スマ)に流される。

ありま しんしち【有馬 新七】
1825(文政 8.11. 4) 〜 1862(文久 2. 4.23)
◇江戸幕末の尊王攘夷派の志士・薩摩藩士。名は正義・武麻呂、号は埴・鈴子。
_初め郷士。
_1827(文政10)有馬氏を継ぐ。
_桜田門外の変に参加。
_のち、造士館の教授。
_1862(文久 2)藩主島津久光が兵を率いて上京するに従う。討幕の急先鋒として薩摩藩士田中謙助らと、関白九条尚忠と所司代酒井忠義とを殺そうと企て、京都伏見の船宿寺田屋に会合、島津久光の命による奈良原繁・道島正邦らが鎮撫しようとして互いに殺傷し、討死(寺田屋騒動)。

ありま すけまさ【有馬 祐政】
1873.12. 5(明治 6) 〜 1931.10. 1(昭和 6)
◇思想家。

ありま はるのぶ【有馬 晴信】
1567(永禄10) 〜 1612(慶長17. 5. 6)
◇安土桃山時代のキリシタン大名。名は鎮純・鎮景・正純のち晴信、小字は十郎、通称は修理大夫。肥前国有馬城主。有馬義直の第2子。
_兄義純の早逝により家督を継ぎ、1576(天正 4)肥前国日野江城主。
_1579(天正 7)ヴァリニャーニから洗礼を受け、教名はジョアン・プロタジオ。1580(天正 8)有馬セミナリオを設立。1582(天正10)大村純忠(スミタダ)・大友宗麟(ソウリン)とともに天正遣欧使節を派遣。
_1584(天正12)島津貴久と結び龍造寺隆信を滅ぼし、のち豊臣秀吉に仕え、九州征伐(島津征伐)・文禄慶長の役に従軍。
_1587(天正15)秀吉の禁教令により避難した宣教師・教徒を保護。
_1600(慶長 5)関ヶ原では徳川家康側の東軍に属し、小西行長の居城安土城を攻める。
_1609(慶長14)長崎のポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き打ち。恩賞として旧領地の回復を望み、徳川家康の側近本多正純の家臣岡本大八(キリシタン)に贈賄、事が露顕して大八に晴信の旧悪の長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂をあばかれる(岡本大八事件)。岡本大八は駿府で火刑、晴信は除封のうえ甲斐国都留郡に流配されて切腹。
◎岡本大八事件は晴信・大八の両者ともキリシタンであったため、幕府のキリシタン禁制の発端となる。

ありま よりちか【有馬 頼義】
1918. 2.14(大正 7) 〜 1980. 4.15(昭和55)
◇小説家。東京青山生れ。久留米藩主・伯爵の家系、有馬頼寧(ヨリヤス)の三男。

ありま よりやす【有馬 頼寧】
1884(明治17) 〜 1957(昭和32)
◇政治家。旧久留米藩主頼万の長男、有馬頼義(ヨリチカ)の父。東京生れ。
_東京大学農学部卒業。農商務省に入る。1924(大正13)代議士に当選、政友会に属する。水平運動・農民解放運動を援助。第1次近衛文麿内閣の農林大臣。
_1940.10.(昭和15)文麿らにより大政翼賛会が組織され、文麿が初代総裁・頼寧は初代事務総長。
_太平洋戦争後、戦犯として逮捕。
◎競馬の有馬記念は頼寧の姓から。

ありま よりゆき【有馬 頼(「彳」偏+「童」:補助2923〔_〕)】
1714(正徳 4) 〜 1783(天明 3.10.23)
◇江戸中期の和算家・筑後久留米藩主。幼名は吉田左近・則昌、字は其映、号は秋風閣・潜淵子・林窓舎。有馬則維の子。
_関流山路主住に数学を学ぶ。

ありまつ まさのぶ【有松 正信】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸後期の和算家。

ありまのおうじ【有間 皇子】
⇒有間皇子

ありまのみこ【有間 皇子】
640[舒明12] 〜 658[斉明 4.11.11]
◇大和時代の歌人。「ありまのおうじ」とも呼ぶ。孝徳天皇の皇子、母は阿倍倉梯麻呂(クラハシマロ)(内麻呂)の娘小足媛(オタラシヒメ)。
_ 645(大化元)の大化改新が落ち着いた後、政府内部に派閥争いが生じる。 649(大化 5. 3.17)祖父の倉梯麻呂が亡くなる。 653(白雉 4)中大兄皇子・中臣鎌足らの政治改革により、中大兄皇子・間人(ハシヒト)皇后・大海人皇子らが父の孝徳天皇をひとり難波長柄豊碕の宮に残し大和へ引き揚げ、翌年父は悶死。
_ 657[斉明 3]斉明天皇が失政により反感を得ていたので、身に危険を感じ、有力な皇位継承者であることから逃れようと狂気を装い、牟婁(ムロ)の温泉(白浜温泉湯崎)に行き病が癒えたという。
_ 658[斉明 4.10.]皇子の言葉により斉明天皇・中大兄皇子らは牟婁温泉に出掛け、その留守中に蘇我赤兄(アカエ)に反乱を扇動される。その夜に赤兄自身に捕えられて、中大兄皇子に糾問(キュウモン)を受けた後、紀州藤白坂(フジシロノサカ)(海南市藤白)で縛り首にされる。
_護送途中の辞世の句は『万葉集』に収められている。「磐代(イハシロ)の浜松が枝(エ)を引き結び/真幸(マサキ)くあらばまた還り見む」・「家にあれば笥(ケ)に盛る飯(イヒ)を/草枕旅にしあれば椎(シヒ)の葉に盛る」。

ありもと ほうすい【有本 芳水】
1886. 3. 3(明治19) 〜 1976. 1.21(昭和51)
◇詩人・歌人。本名は歓之助。兵庫県生れ。早稲田大学国文科卒業。

ありもと らくざん【有本 楽山】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸幕末の紀伊国和歌山藩士。名は応寅、通称は兵庫、号は楽山。

ありやま げんとう【有山 玄統】
生年不詳 〜 没年不詳
◇江戸後期の心学者。名は玄統・統、通称は新兵衛、号は(「艸」冠+「惠」:補助5740〔_〕)圃。

ありよし さわこ【有吉 佐和子】
1931. 1.20(昭和 6) 〜 1984. 8.30(昭和59)
◇小説家。和歌山県真砂町(マサゴチョウ)生れ。東京女子大短大英文科卒業。

ありよし ぞうき【有吉 蔵器】
1733(享保18) 〜 1799(寛政11. 9.26)
◇江戸中期の漢学者。名は以顕、字は叔孝、通称は瀬介・和介、号は蔵器。備前国和気郡働村の大庄屋の第3子。
_閑谷学校の講官、1792(寛政 4)督学に就任。
_一説に没年は1800(寛政12. 9.)。

ありわらの……【在原 ……】《ありはらの……》

あわしま かんげつ【淡島 寒月】
1859(安政 6.10.23) 〜 1926. 2.23(大正15)
◇小説家・随筆家。本名は宝受郎(ホウジュロウ)、号は愛鶴軒・梵雲庵(ボンウンアン)。江戸生れ。淡島椿岳(アワシマ・チンガク)の子。

あわしま ちんがく【淡島 椿岳】
1823(文政 6) 〜 1889. 9.21(明治22)
◇画家。名は氏平、通称は城三、別号は吉梵・南平堂。淡島寒月(アワシマ・カンゲツ)の父。

あん じゅうこん【安 重根】《あん ぢゆうこん》
1879. 8.21(明治12) 〜 1910. 2.26(明治43)
◇朝鮮の独立運動家。朝鮮読みはアンチュングン(An Chung-gun)。黄海道海州生れ。
_カトリック教徒となり、学校を設立。
_1894(明治27)甲午農民戦争(東学党の乱)の際、朝鮮政府軍に入って農民軍と戦う。
_その後、朝鮮への日本の軍事支配に危機感をいだき、1905(明治38)ころ植民地化に反対する義兵闘争に参加し、挙兵したが失敗。
_1909.10.26(明治42)ハルビン駅で前韓国統監伊藤博文を射殺。
_日露戦争宣戦の詔勅に「韓国の独立を守る」とあることから、安重根は「日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義を尽くす」ため殺害に及んだと述べた。
_1910. 2.26(明治43)旅順監獄(刑務所)で処刑。
◎韓国で義士と称えられている。
◎安重根は殺人者として朝鮮カトリック教団から信者資格を剥奪(ハクダツ)されていたが、彼の誕生日にあたる1993. 8.21(平成 5)韓国カトリック教団によって公式に復権を宣言された。

あんかん てんのう【安閑 天皇】《あんかん てんわう》
466 〜 535
◇第27代天皇。名は勾大兄皇子(マカリノオオエノミコ)、諡号は広国押武金日天皇(ヒロクニオシタケカナヒノスメラミコト)。継体天皇の第一皇子、母は尾張氏の娘目子媛(メコヒメ)、第28代宣化(センカ)天皇・第29代欽明(キンメイ)天皇の兄。皇后は第24代仁賢(ニンケン)天皇の皇女春日山田皇女。
_大和勾金橋(マカリカナノハシ)宮を都とする。
_即位: 531(辛亥. 2. 7)、退位: 535(乙卯.12.17)。
◎『日本書紀』欽明紀の紀年には問題が多く、欽明天皇も 531年に即位し、安閑・宣化天皇と両朝が対立していたとほぼ確定的に考えられている(上宮聖徳法王帝説)。
◆陵墓は大阪府の古市高屋丘陵。
(19)名は勾大兄(マガリノオオイネ)、……。

あんこう てんのう【安康 天皇】《あんかう てんわう》
生年不詳 〜 没年不詳
◇第20代天皇。名は穴穂尊(アナホノミコト)。第19代允恭(インギョウ)天皇の第2皇子、母は忍坂大中媛(オシサカノオオナカツヒメ)(応神天皇の孫)、木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)の弟。皇后は中蒂姫(ナカシヒメ)。
_皇太子木梨軽皇子を殺して皇位につき、大和国石上穴穂宮(イソノカミノアナホノミヤ)を都とする。
_大草香皇子(オオクサカノミコ)を攻めて殺し、その妻中蒂姫を奪い妻とする。大草香皇子と中蒂姫との王子眉輪王(マヨワノオオキミ)により暗殺。
_即位: 453(癸巳.12.14)、退位: 456(丙申. 8. 9)。
◎『宋書』倭国伝の「興」に比定される。
(2)允恭天皇の第2皇子,母は応神天皇の孫忍坂大中媛(オサカノオオナカツヒメ)。兄の皇太子木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)を殺して……。
(4)允恭天皇の第三皇子。
_「衣通姫(ソトオリヒメ)」の項:皇后忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)の妹……。
(16)允恭天皇の第2皇子.母は忍坂大中媛(オシサカノオオナカツヒメ).皇太子梨軽皇子との…….
◆陵墓は奈良市の菅原伏見西陵。

あんこくじ えけい【安国寺 恵瓊】《あんこくじ ゑけい》
⇒恵瓊

あんざい おうかいし【安斎 桜(「石」偏+「鬼」:補助4805〔_〕)子(安齋 櫻<「石」偏+「鬼」>子)】
1886. 2. 7(明治19) 〜 1953.12.12(昭和28)
◇俳人。本名は千里。宮城県登米町生れ。

あんざい ふゆえ【安西 冬衛(安西 冬衞)】
1898. 3. 9(明治31) 〜 1965. 8.24(昭和40)
◇詩人。本名は勝。奈良県生れ。
(1)誕生日は 3.19。
(3)誕生日は 3. 9。
(5)誕生日は 3. 9。
(8)誕生日は 3. 9。
(11)誕生日は 3. 9。
(13)誕生日は 3. 9。

あんどう いちろう【安藤 一郎】
1907. 8.10(明治40) 〜 1972.11.23(昭和47)
◇詩人・英米文学者。東京生れ。東京外語学校卒業。

あんどう こう【安藤 こう】
1878(明治11) 〜 1963(昭和38)
◇バイオリニスト。幸田露伴・延子・成友(シゲトモ)の妹。
_東京音楽学校を卒業後、ドイツに留学しヨアヒムに学ぶ。帰国後、母校の教授。

あんどう こうせい【安藤 更生】
1900. 6.10(明治33) 〜 1970.10.26(昭和45)
◇美術史家。本名は正輝。

あんどう こせんし【安藤 姑洗子】
1880.12. 1(明治13) 〜 1967.10.19(昭和42)
◇俳人。本名は俊雄、初号は鴎洲(鴎:「區」偏+「鳥」:補助7631〔_〕)、別号は枕翠廬。

あんどう しげのぶ【安藤 重信】
1557(弘治 3) 〜 1621(元和 7)
◇江戸前期の幕府老職。三河生れ。安藤直次(ナオツグ)の弟。
_徳川家康に仕え、のち秀忠に属する。1611(慶長16)老職。大坂冬・夏の陣に出陣。

あんどう しょうえき【安藤 昌益】《あんどう しやうえき》
1703(元禄16) 〜 1762(宝暦12)
◇江戸中期の医者・社会思想家。確竜堂良中と称する。出羽(現:秋田県)上層農民の生れ。
_久保田(クボタ)(秋田市)で成長し、医学・本草学を修め、儒仏・天文学などにも造詣が深い。
_1744〜1745(延享元〜 2)ころ、八戸(ハチノヘ)(現:青森県)城下の十三日町で町医者を開業。のち西欧事情を知るため長崎に遊学したともいわれる。
_1758(宝暦 8)から秋田郡二井田村(ニイダムラ)に居住。
_狩野亨吉(コウキチ)やE.H.ノーマンにより紹介。武家社会の封建制度を批判、それを正当化する儒仏を廃し、支配関係のない農本的原始共産社会を説き、日本人には数少ない思想家といわれる。
_著作は1752(宝暦 2)ころ『統道真伝』(5巻)・1753(宝暦 3)『自然真営道』(3巻刊行)など。
◆生地秋田県大館市二井田村の温泉寺(オンセンジ)に墓がある。法名は昌安久益信士。死後、「守農太神確竜堂良中先生」の石碑が建てられた。
◎『自然真営道』は稿本100巻、93冊。うち現存は15巻。
_1899(明治32)秋田県出身の狩野亨吉により再発見される。
_第二次世界大戦後、ノーマンの『忘れられた思想家』によって世界的に知られるようになる。封建制度を誰も疑問に思わなかった時代に、それを否定する考えに至ったことは高く評価されている。
(4)生年は不詳。
(6)生年は1703。
(+)『岩波小辞典 哲学』1967年10月10日第2版第12刷。
_生年は1707(宝永 4)、没年は?。

あんどう せいあん【安東 省庵】
1622(元和 8) 〜 1701(元禄14.10.12)
◇江戸前期の儒学者。名は守約、字(アザナ)は魯黙・子孜、号は恥斎・省庵。筑後の人。
_京都で松永尺五らに学び、長崎で亡命してきた明の遺臣朱舜水に従学。筑後柳川藩に出仕し、藩儒となる。朱舜水に衣食住の経済援助をし、水戸徳川光圀の招聘の素地を作る。
_著書は『省庵文集』・『三忠伝』など。

あんどう そろう【安藤 甦浪】
1894. 9.29(明治27) 〜 1934. 3.14(昭和 9)
◇俳人。

あんどう つるお【安藤 鶴夫】
1908.11.16(明治41) 〜 1969. 9. 9(昭和44)
◇小説家・演劇評論家。本姓は花島。東京浅草生れ。1934(昭和 9)法政大学仏文科卒業。

あんどう とちめんぼう【安藤 橡面坊】
1869. 8.16(明治 2) 〜 1914. 9.25(大正 3)
◇俳人。本名は練三郎、別号は橡庵・句仙・影人、旧号は(「白」偏+「皐」:補助4634〔_〕)々・龍山。

あんどう なおつぐ【安藤 直次】
1544(天文13) 〜 1635(寛永12)
◇江戸前期の紀州徳川家の付家老(ツケガロウ)・家康第十子頼宣(ヨリノブ)の傅役(モリヤク)。三河生れ。安藤重信の兄。

あんどう のぶまさ【安藤 信正】
1819(文政 2) 〜 1871(明治 4)
◇江戸幕末の老中。通称は対馬守。磐城平藩主。
_1860(安政 7. 3. 3)井伊直弼の暗殺後、老中筆頭となる。公武合体策を進める。またロシア艦対馬上陸事件・ヒュースケン事件などを処理。
_皇妹和宮(カズノミヤ)の降嫁を図ったため尊攘派の反対を受け、1862(文久 2. 1.15)江戸城坂下門外で水戸藩などの浪士7人により襲撃されピストルも使用されたが軽傷であった。しかし、世論は不評で3ヶ月後に辞職。
_戊辰戦争では京都側に反抗し処罰される。

あんどう ひろしげ【安藤 広重】
1797(寛政 9) 〜 1858(安政 5)
◇江戸後期の浮世絵師。幼名は徳太郎、別名は歌川広重、俗称は重右衛門のち徳兵衛、号は一遊斎・一幽斎・一立斎・立斎。江戸八重洲河岸の火消し安藤源右衛門の子。
_歌川豊広の門人。
_『東海道五十三次』・『江戸名所百景』などが有名。

あんどう まさつぐ【安藤 正次】
1878(明治11) 〜 1952(昭和27)
◇国語学者。埼玉県生れ。東京大学選科卒業。
_台北帝国大学総長・東洋大学大学院長。

あんどう わふう【安藤 和風】
1866(慶応 2. 1.12) 〜 1937. 2.16(昭和12)
◇俳人。本名は国之助、のち信順、別号は時雨庵。

あんとく てんのう【安徳 天皇】《あんとく てんわう》
1178(治承 2.11.) 〜 1185(元暦 2. 3.24)
◇第81代天皇。名は言仁(トキ)。高倉天皇の第1皇子、母は平清盛の娘建礼門院(ケイレイモンイン)徳子(トクコ)。
_1180(治承 4)3歳で即位。1183(寿永 2)源(木曾)義仲に京を追われ、平宗盛(ムネモリ)(徳子の同母兄)に擁せられ西走。
_平家一族とともに長門国下関壇ノ浦に入水(ジュスイ)。
_即位:1180(治承 4. 4.22)、退位(死亡):1185(元暦 2. 3.24)。
◎入水の際、三種の神器(ジンギ)の一つ天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)が海底に没し、失われたという。
◆陵墓は下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺陵。

あんねい てんのう【安寧 天皇】《あんねい てんわう》
生年不詳 〜 没年不詳
◇第3代天皇。名は磯城津彦玉看(シキツヒコタマテミ)。綏靖(スイゼイ)天皇の第1皇子、母は事代主神の娘五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)。皇后は淳名底仲媛(ヌナソコノナカツヒメ)。
_大和国片塩の浮孔宮(ウキアナノミヤ)を都とする。
_即位:B.C.549、退位:B.C.511。
◆陵墓は奈良県橿原市郡畝傍町の畝傍山西南御蔭井上陵とされる。
(2)浮孔宮(ウキアナノミヤ)に都したと伝える。
(16)浮穴宮を都とする.

あんねん【安然】
841(承和 8)頃 〜 884(元慶 8)頃
◇平安前期の天台宗の僧。五大院大徳・密教大師とも。近江の人。
_円仁・遍照・円珍について天台密教を学ぶ。比叡山の五大院で著述に専念。元慶寺の住職。

あんらくあん さくでん【安楽庵 策伝】
1554(天文23) 〜 1642(寛永19. 1. 8)
◇安土桃山〜江戸初期の説教僧・茶人・文人。俗名は平林平太夫(ヘイダユウ)、号は一説に醒翁(セイオウ)。京都誓願寺竹林院の住持。
_1623(元和 9)京都所司代板倉重宗(シゲムネ)のために『醒睡笑(セイスイショウ)』を著述、後世の文学・落語への影響が大。
_寺域に安楽庵を結ぶ。