だいかく【大覚】 1297(永仁 5) 〜 1364(<南>正平19,<北>貞治 3. 4. 3) ◇南北朝時代の僧侶(法華宗)。名は妙実。 _はじめ真言宗の僧であったが、のち改宗して日像の弟子となる。 だいかく ぜんじ【大覚 禅師】 ⇒蘭溪道隆 だいご てんのう【醍醐 天皇】《だいご てんわう》 885(元慶 9. 1.18) 〜 930(延長 8. 9.29) ◇第60代天皇。名は敦仁(アツギミ)、また維城・山科帝・小野帝・延喜帝、法諱は金剛宝・宝金剛。宇多天皇の第1皇子、母は藤原高藤の娘胤子(インシ)、敦実(アツミ)親王の兄(同母)。 _ 893(寛平 5)立太子。 897(寛平 9)元服し、同日即位。 899(昌泰 2)藤原時平(トキヒラ)を左大臣、菅原道真(スガワラ・ミチザネ)を右大臣とする。 901年、道真が左遷され藤原氏の進出が決定的となる。 909(延喜 9)時平の没後はその弟藤原忠平(タダヒラ)の補佐を受ける。 930(延長 8)朱雀天皇に譲位(即位は11.21)し、7日目に死去。 _在位中、『日本三代実録』・『古今和歌集』・『延喜格式』などの編纂を命じる。「延喜の治」と称されるが律令制の完成とともに解体も始まる。 _即位: 897(寛平 9. 7.13)、退位: 930(延長 8. 9.22)。 (2)山科帝。 (4)後山科帝。 (*) 901(昌泰 4,延喜元)。 だいこく こうだゆう【大黒 光太夫】《だいこく かうだいふ》 ⇒大黒屋幸太夫 だいこくや こうだゆう【大黒屋 幸太夫】《だいこくや かうだいふ》 1751 〜 1828(文政11) ◇江戸後期の船頭。通称は大黒光太夫。伊勢国河曲郡の人。商家亀やの次男で、廻漕業大黒屋の養子。 _1782(天明 2. 9.)伊勢亀山の彦兵衛の神昌丸で伊勢白子浦より紀州藩米を積み出港、乗員16人とともに江戸へ廻漕中、台風に遭遇。8ヶ月漂流の後、1783(天明 3)アレウト諸島(アリューシャン列島)アムチトカ島に漂着。在島4年の間に壊血病で仲間を失い8人となる。 _帰国の請願のためカムチャツカに渡り、総督府のあるイルクーツクに移される。植物学者キリル・ラックスマン教授の計らいで首都ペテルスブルクに至り、1791(寛政 3. 6.)女帝エカテリーナ2世に謁見、帰国の許可を得る。しかし、キリスト教に入った2名は現地に留まることになる。 _1792(寛政 4. 9.)アダム・ラックスマン(キリルの子)が通商を求めて根室弁天島に来航した際、他2名とともに送還される(1名はまもなく死亡)。1793(寛政 5)江戸に移され、江戸雉子橋外の厩舎に留めおかれ、老中松平定信らの取り調べを受け、外国の見聞を語らぬよう命ぜられ、番町で監禁同様に居住し手当を受ける。 (2)(生)伊勢国若松村。 (4)伊勢国の人。 (6)伊勢国の漁港白子の船頭。 (16)伊勢国河曲郡の人。 (*)1751(寛延 4,宝暦元) だいどう いちい【大道 一以】 1292(正応 5) 〜 1370 ◇京都五山の一つ東福寺(トウフクジ)の僧。 _淡路の安国寺に住したとき、画僧明兆(ミンチョウ)の師となる。 (*)1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>応安 3)。 だいとう じろう【大藤 治郎】 1895. 2.12(明治28) 〜 1926.10.29(大正15) ◇詩人。 だいどうじ まさしげ【大道寺 政繁】 1533(天文 2) 〜 1590(天正18) ◇戦国時代の武将。通称は駿河守。 _北条氏康・氏政・氏直(小田原城主)の3代に仕える。 _1590(天正18)小田原征伐の際、豊臣勢により政繁が守る上野の松井田城が 4.20落城。前田利家に息子を差し出し、北条攻めの道案内を務める。川越城が落城した後、殺害(一説に自殺)。 だいどうじ ゆうざん【大道寺 友山】《だいだうじ いうざん》 1639(寛永16) 〜 1730(享保15) ◇江戸中期の軍学者。名は重祐、通称は孫九郎、号は知足軒。越前藩士繁久の子。山城国伏見の人。 _初め松平忠輝に仕え、小幡景憲・北条氏長・山鹿素行らに軍学(甲州流兵法)を学ぶ。 _浅野氏・会津松平氏・越前松平氏など諸藩に招かれて軍学を講じる。 _著書は『武道初心集』・『岩淵夜話』・『落穂集』など。 だいとくいん【台徳院】《だいとくゐん》 ⇒徳川秀忠 だいなんこう【大楠公】 ⇒楠木正成 だいにのさんみ【大弐三位】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の歌人。本名は藤原賢子(ケンシ)、藤三位(トウサンミ)とも。藤原宣孝(ノブタカ)・紫式部の娘。藤原定頼(サダヨリ)と交渉があったが、藤原兼隆(カネタカ)と結婚、その後高階成章(タカシナノナリアキラ)に再婚。 たがわ だいきちろう【田川 大吉郎】 1869(明治 2) 〜 1947(昭和22) ◇明治〜昭和前期の政治家。長崎県生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。 _戦時中は軍部に屈せず、太平洋戦争後は日本社会党に入党、代議士に当選。 だざい おさむ【太宰 治】《だざい をさむ》 1909. 6.19(明治42) 〜 1948. 6.13(昭和23) ◇小説家。本名は津島修治(シュウジ)。青森県北津軽金木町大字金木字朝日山生れ。大地主の六男。 _青森中学校・弘前高等学校を経て、1930(昭和 5)東京大学仏文科に入学するが中途退学。 _1929.12.10(昭和 4)弘前高等学校在学中、カルチモン(睡眠薬)を飲んで昏睡状態となるが、一命をとりとめる。 _1930. 1.28(昭和 5)銀座裏のバー「ホリウッド」の女給田辺あつみと江ノ島でカルチモンを飲み投身自殺をはかって、彼のみ漁船に救われる。 _1935(昭和10)「都新聞」の入社試験に落ち、鎌倉八幡宮の山中で靴紐で縊死(イシ)をはかり、紐が切れて失敗。 _1931(昭和 6)以来同棲していた小山初代(芸者紅子)と1937(昭和12)水上温泉でカルチモンを飲み自殺を企てたが二人とも未遂、のち離別。 _1939(昭和14)石原美知子と結婚。 _十三日深更、山崎富栄とともに玉川上水に投身。十九日早朝、井の頭公園の万助橋下流で死体が発見。二人は赤い腰紐で結び付けられていた。 _坂口安吾・織田作之助らとともに無頼派の代表作家とされる。 _作品は1936(昭和11)処女短編集『晩年』・『走れメロス』・『桜桃』・『人間失格』など。 ◆桜桃忌(太宰忌)[ 6.19]東京都三鷹市下連雀の黄檗宗禅林寺。好物だった桜桃(オウトウ)の季節と短編『桜桃』から。 ◎『佳日』のモデルは塩月赳(シオツキ・タケシ)。 だざい しもん【太宰 施門】 1889. 4. 1(明治22) 〜 1974. 1.11(昭和49) ◇フランス文学者。 だざい しゅんだい【太宰 春台】 1680(延宝 8. 9.14) 〜 1747(延享 4. 5.30) ◇江戸中期の漢学者(古学)。名は純、字は徳夫、号は春台・紫芝園。信濃国生れ。初め但馬国出石(イズシ)の松平忠徳に仕え、のち辞して荻生徂徠(オギュウ・ソライ)に学ぶ。経学にすぐれ、経書・経済に通じていた。 だだ かんすけ【陀田 勘助】 1902. 1.15(明治35) 〜 1931. 8.22(昭和 6) ◇詩人。本名は山本忠平。日本共産党に入党し活動中逮捕され、豊多摩刑務所で獄死。 だて しゅうこう【伊達 秋航】 1865(慶応元. 9.) 〜 没年不詳 ◇俳人。本名は与吉。 だて つなむら【伊達 綱村】 1659(万治 2) 〜 1719(享保 4) ◇江戸前期の仙台第4代藩主。小字は亀千代丸・総次郎、幼名は綱基。伊達綱宗の子、生母は三沢初子(浅岡局,浄眼院)。 _父が所行紊乱(ビンラン)の廉(カド)で幕命により蟄居させられ、2歳で家督を継ぐ。 _後見役で叔父の伊達兵部少輔宗勝(支藩一関藩主)が田村右京宗良や奉行原田甲斐宗輔らと謀って宗藩の実権を握り伊達騒動となる。しかし、敵対する保守派の老臣伊達安芸宗重は非違を幕府に訴え、1671(寛文11)幕府の大老酒井忠清の裁定により宗勝は土佐藩にお預けとなり藩領は安堵された。 _長じて産業の振興をはかり仙台藩中興の主と仰がれる。 ◎伊達騒動は「寛文事件」とも呼ばれ、『伽羅(メイボク)先代萩』など歌舞伎・講談に脚色されている。 _大老の屋敷での裁きの席上、宗重は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、宗良は閉門となった。 だて とくお【伊達 得夫】 1920. 9.10(大正 9) 〜 1961. 1.16(昭和36) ◇書肆ユリイカの創業者。 [1]だて まさむね【伊達 政宗】 1353(<南>正平 8,<北>文和 2) 〜 1405(応永12) ◇南北朝・室町前期の武将。兵部少輔、大膳大夫。法号は円孝、諡号は儀山公。独眼流(ドクガンリュウ)と称される。宗遠の子、長女は五郎八姫(イロハヒメ)。伊達氏中興の祖といわれる。 _陸奥国伊達・信夫郡(福島県北部)を中心として近隣に勢力をふるう。1399(応永 6)鎌倉公方足利満兼が弟満貞(ミツサダ)・満直(ミツタダ)に奥羽・出羽を治めさせる。1400(応永 7)会津の蘆名(アシナ)義盛とともに乱をおこし、1402(応永 9)上杉氏憲(ウジノリ)(禅秀)らの派遣を受けて降伏する。 (2)'39関東管領足利満兼が、:年号が誤。1402上杉氏憲らの大軍に……。 (16)「上杉氏憲」の項:1401(応永 8)年関東管領満兼の命によって伊達正宗を討って……. [2]だて まさむね【伊達 政宗】 1567(永禄10. 8.) 〜 1636(寛永13. 5.24) ◇戦国・江戸前期の大名。幼名は梵天丸・藤次郎、通称は越前守・陸奥守・少将、号は貞山。名は[1]伊達政宗に由来する。米沢生れ。出羽国米沢の城主伊達左京大夫輝宗の長男。 _5歳の時、天然痘で右目を失う。 _1577(天正 5)元服し藤次郎政宗と名乗る。1579(天正 7)陸奥三春城主田村清顕の娘愛姫(メゴヒメ)(陽徳院)と結婚。1584(天正12.10.)家督を相続。1585(天正13)安達郡小浜城主大内定綱を追い払い東安達(塩松)を領する。父が二本松城主畠山義継に討たれ、蘆名・佐竹を攻める。1586(天正14)二本松(西安達)を討ち、領する。1588(天正16)田村家を掌握。1589(天正17. 6.)蘆名盛重(アシナ・モリシゲ)を会津黒川城に攻め常陸に追い払い、白河の結城義親(ユウキ・ヨシチカ)を破る。同年10月須賀川二階堂氏を滅ぼし、佐竹氏を仙道(センドウ)(福島県中通り)から排除する。 _1590(天正18. 6.)小田原が降参し、秀吉から会津・岩瀬・安積(アサカ)を没収され、田村・安達・伊達・信夫(シノブ)・刈田(カツタ)・柴田・伊具・亘理(ワタリ)・名取・宮城・黒川・宇多・置賜の郡が安堵される。葛西・大崎一揆により、1591(天正19. 9.)伊達・信夫・安達・田村・刈田・置賜が没収され、葛西・大崎の旧領を与えられて米沢から玉造郡岩出山に移る。1592(天正20. 4.)文禄の役に朝鮮に出兵。 _秀吉の没後、長女五郎八(イロハ)を徳川忠輝(家康の6男)と婚約させ、徳川家に接近。1600(慶長 5)関ヶ原の戦で上杉領白石城を陥落させ、刈田郡を与えられ60万石となる(のち近江・常陸に2万石を給され、62万石)。1601(慶長 6)仙台城を建設を着手、翌年米沢を蒲生氏郷に譲って移住。 _1613(慶長18)イスパニアの宣教師ルイス・ソテロを正使に立て、支倉常長(ハセクラ・ツネナガ)を副使とし、メキシコ、イスパニアを経てローマに派遣する。 _江戸の桜田屋敷で死去。 (17)これと前後して白川義親・石川昭光を服属させた。 ◎19歳で家督を継いだ時、母は弟を推挙した。 _24歳の小田原参陣をめぐって母と争い、母に毒を盛られ、一命を取り止めた政宗は弟を斬殺し母を実家の山形(最上家)に追放した。参陣に遅れた政宗は手討ち覚悟の白装束で秀吉の前へ出ている。 だて みのる【伊達 豊】 1897. 5. 7(明治30) 〜 1961.10.12(昭和36) ◇児童劇作家。 だて むねなり【伊達 宗城】 1818 〜 1892(明治25) ◇江戸幕末の伊予宇和島第8代藩主・明治時代の官吏。幼名は亀太郎、通称は知次郎・兵五郎、号は藍山。幕臣山口直勝の子。伊予宇和島藩家臣伊達寿光の養子、のち改めて藩主伊達宗紀の養子。 _洋学を重んじて先代からの藩政改革を推進。 _将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立。井伊大老の安政五か国条約調印を非難したこととで譴責され隠居。その後も天皇を首長とする連邦国家を構想し、島津久光・山内豊信らと公武合体を推進。 _明治維新後、民部卿兼大蔵卿、1871(明治 4)欽差大使として清国に使し、日清修好条規を締結。 _修史局副総裁となり松平慶永・池田茂政とともに『徳川礼典録』を編纂。 (2)生年は1817(文化15)。 (4)生年は1818。 (*)1818(文化15,文政元)。 だて むねはる【伊達 宗春】 1682(天和 2) 〜 1737(元文 2) ◇江戸前・中期の伊予国吉田藩主。名はのち村豊、通称は左京亮。宇和島藩主伊達秀宗の家臣伊達宗職の子、吉田藩主伊達宗保の養子。 _1701(元禄14. 2.)幕府から宗春は上皇の院使饗応役に、浅野内匠頭長矩(タクミノカミ・ナガノリ)は天皇の勅使饗応役に任ぜられる。 3.14の長矩の吉良上野介義央(コウズケノスケ・ヨシナカ)への刃傷(ニンジョウ)の際、取り押えに加わっている。 だん かずお【壇 一雄】 1912. 2. 3(明治45) 〜 1976. 1. 2(昭和51) ◇小説家。福岡県生れ。福岡高等学校を経て東京大学経済学科卒業。 だん たくま【団 琢磨(團 琢磨)】 1858(安政 5. 8. 1) 〜 1932. 3. 5(昭和 7) ◇明治〜昭和初期の実業家。幼名は駒吉。福岡藩士神尾宅之丞の第3子、同郷の団直静の養子。 _1929(昭和 4)労働組合法案立案に反対し、これを阻止する。 _血盟団の菱沼五郎により三井本館玄関で狙撃され、死亡。 だんざえもん【弾左衛門】《だんざゑもん》 でぐち おにさぶろう【出口 王仁三郎】《でぐち おにさぶらう》 1871. 8.27(明治 4. 7.12) 〜 1948. 1.19(昭和23) ◇明治〜昭和前期の宗教家。宗教法人大本教(オオモトキョウ)の聖師(セイシ,教祖)。本名は上田喜三郎。上田吉松と「よね」の長男、開祖出口なおの末娘(5女)すみ(2代教祖)の婿。京都府桑田郡曽我部村大字穴太(アナオ)(現:亀岡市)の生れ。 _1899(明治32)なおと金明(キンメイ)霊学会を組織。1916(大正 5)皇道大本と改称、機関紙「神霊界」を発刊。 _1900(明治33)出口すみと結婚。 _1921. 5.(大正10)第1次大本教弾圧事件で起訴され、1927(昭和 2)大赦。 _1934. 7.22(昭和 9)昭和神聖会を東京九段の軍人会館で結成、統管は王仁三郎、副統管は内田良平・出口宇知麿(3女八重野の夫)が就任した右翼団体であった。 _1935.12. 8(昭和10)第2次大本教弾圧事件、不敬団体として治安維持法違反で幹部61人が検挙され本部は爆破され、昭和神聖会は解散。保釈出獄中に敗戦を迎え無罪となる。 _戦後、愛善苑(アイゼンエン)として新発足。 でぐち すみ【出口 すみ】 1883. 2. 3(明治16) 〜 1952. 3.31(昭和27) ◇大本教の2代教主。出口政五郎と「なお」の5女(末娘)。京都府何鹿郡本宮町(現:綾部市)の生れ。 _1900(明治33)上田喜三郎(出口王仁三郎<オニサブロウ>)と結婚。 _1918.11.(大正 7)母なおの死去により教主に就任。 _1935.12.(昭和10)第2次大本教弾圧事件で6年間投獄される。 _戦後、愛善苑(アイゼンエン)として王仁三郎と再建。 でぐち なお【出口 なお】 1837. 1.22(天保 8) 〜 1918.11. 6(大正 7) ◇宗教法人大本教(オオモトキョウ)の開祖。丹波国(京都府)福知山生れ。祖父政五郎は藩の御上大工、父も大工。 _19歳で豊助を婿にむかえ、夫は祖父の名の政五郎を名乗る。夫が土地と田畑を売ってしまい、貧乏暮らしをする。11人の子供を生み、3男5女を育てる。娘の「ひさ」と「よね」が発狂する。 _1892(明治25)なおは神がかりをおこす。初め金光教に仕えるが(*1)、のちに対立して独立し布教所をひらく。 _1898. 8.23(明治31)上田喜三郎と出会う。世継ぎの「すみ」と結婚した喜三郎と対立する。 (23)生年は1837. 1.22(天保 7.12.16)。(*1)当時、明治政府に公認されていた教派神道十三派に属さなければ宗教として合法化されなかった。 でぐち のぶよし【出口 延佳】 1615. 5.25(元和元. 4.28) 〜 1690. 2.25(元禄 3. 2.24) ◇江戸前期の神道家。名は初め延良、通称は与三次郎・愚太夫、号は直庵・講古堂、姓は渡会(ワタライ)。 _伊勢神宮外宮の神官。当時儒教が生活と行動の規範として支配的になったのに対応し、渡会神道(伊勢神道)に儒教の説も取り入れ、それまでの仏教的な習合神道から儒学思想を中心とした体系的な神道を主張した。 _著書『陽復記』・『大神宮神道或問』など。 でんぎょう だいし【伝教 大師(傳教 大師)】《でんげう だいし》 ⇒最澄 でんずういん【伝通院(傳通院)】《でんづうゐん》 ⇒伝通院 でんづういん【伝通院(傳通院)】《でんづうゐん》 1528 〜 1602(慶長 7) ◇徳川家康の生母。名は於大(オダイ)、法名は伝通院。青木政信の娘、三河国苅谷城主水野忠政(タダマサ)の養女、母は於富(華陽院)。 _1541(天文10)三河岡崎城主松平広忠(ヒロタダ)に嫁ぎ、翌1542(天文11.12.26)竹千代(徳川家康)を生む。 _忠政の没後に兄水野信元が今川氏に背き織田氏に服属したため、今川氏を後ろ盾にした松平家から兄の苅谷城に帰される。 _のち阿古屋(アコヤ)城主久松佐渡守俊勝に嫁ぎ、松平康元・勝俊・1560(永禄 3)定勝ら5子をもうける。 ◆墓は江戸小石川宗慶寺(伝通院)。 (*)1528(大永 8,享禄元)。 どい こうこく【土居 香国】 1850(嘉永 3) 〜 1921.12.13(大正10) ◇漢詩人。名は通予、字は子順、通称は寅五郎、別号は払珊釣者。 どい こうち【土井 光知】《どゐ くわうち》 1886. 8.29(明治19) 〜 1979.11.26(昭和54) ◇英文学者・日本文学・日本語研究家。高知生れ。 _東京大学英文科卒業。東北大学・津田塾大学・学習院大学教授。 _著書は『文学序説』・『文学の伝統と交流』など。 どい しげよし【土井 重義】 1904. 9. 3(明治37) 〜 1967.10.15(昭和42) ◇国文学者。 どい しゅんしょ【土肥 春曙】 1869(明治 2.10. 6) 〜 1915. 3. 2(大正 4) ◇俳優。本名は庸元。1901(明治34)川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧。 どい としかつ【土井 利勝】《どゐ としかつ》 1573 〜 1644. 8.12(寛永21. 7.10) ◇江戸初期の老中・大老。幼名は松千代、通称は甚三郎。水野信元の子で徳川家康の従弟。土井利昌の養子。 _1610(慶長15)下総佐倉城主(3万2千石)。1633(寛永10)下総古河16万石余。 ◎家光の代に酒井忠世(サカイ・タダヨ)・青山忠俊(タダトシ)とともに寛永の三輔といわれる。 (*)1573(元亀 4,天正元)。 どい とらかず【土井 虎賀寿】 1902. 2.19(明治35) 〜 1971. 3.10(昭和46) ◇哲学者・ドイツ文学者。 どい ばんすい【土井 晩翠】 1871(明治 4.10.23) 〜 1952.10.19(昭和27) ◇詩人・英文学者。本名は林吉、姓は本来「つちい」であるが1934(昭和 9)に「どい(ドヰ)」と改音した(随筆集『雨の降る日は天気が悪い』の序)。仙台市生れ。嫡子のため生家の質屋の仕事の見習いをさせられていたが、念願が叶って第二高等中学校(後の第二高等学校)補充科二年に入学。1894(明治27)東京帝国大学に進み、1897(明治30)英文科卒業、郁文館の教師となる。1900(明治33)第二高等学校教授。 _次女信は中野好夫の妻。 _叙情詩『荒城の月』は滝廉太郎の作曲で知られ、詩碑が会津若松の鶴ヶ城趾と仙台の青葉城趾に建てられた。 (5)昭和七年ころ、長女輝子の提案を容(イ)れて「どい」と改音、新聞広告で披露した。 (11)昭和七年ころ長女輝子の提案を容れて「どい」と改音、新聞広告で披露した。 (13)(昭和)一五年中野好夫に嫁した二女信子が死に、……。 どうあん【道安】《だうあん》 ⇒千道安 どうきょう【道鏡】《だうきやう》 生年不詳 〜 772(亀宝 3. 4. 7) ◇奈良末期の法相宗(ホッソウシュウ)の僧。弓削連(ユゲノムラジ)氏。河内国若江郡弓削郷(現:八尾市弓削町)の人。 _義淵(ギエン)・良弁(ロウベン)に法相教学を学び、大和国葛木山で如意輪法(ニョイリンホウ)などを修行。 _ 762(天平宝字 6)近江保良宮に在った孝謙上皇(女帝)の病気を如意輪宿曜(スクヨウ)秘法を用いて治療し、上皇の寵愛を受ける。 763(天平宝字 7)少僧都。 _淳仁天皇は藤原仲麻呂(恵美押勝<エミノオシカツ>)の意を受けて上皇に道鏡のことで忠告するが、上皇は立腹して法華寺に入り出家する。この結果、仲麻呂は権力を失い、道鏡が台頭する。 _ 764(天平宝字 8. 9.11)藤原仲麻呂の乱で、仲麻呂は敗死し、淳仁天皇が廃されて淡路島へ流される。同年 9.20、道鏡は大臣禅師となる。 765(天平神護元.閏10.)上皇は称徳天皇として再び即位(重祚<チョウソ>)、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられる。翌年10月更に法王の位を得て専横を極め、のち 769(神護景雲 3)宇佐八幡の神職習宜阿曾麻呂(スゲノアソマロ)と結び神託と称して皇位を窺ったが、藤原百川の意をうけた和気清麻呂(ワケノキヨマロ)らによって妨害される。 _ 770(神護景雲 4. 8. 4)天皇が崩御。同年八月、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷。配所で没し、葬儀は庶人扱い。 (4)没年は 773。 (6)没年は 772。 (16)没年は 772(亀宝 3. 4. 7)。 (17)没年は 772(亀宝 3. 4.)。 ◎出自は俗人説、物部守屋後裔説、皇胤説などがある。 どうげん【道元】《だうげん》 1200. 1.19(正治 2. 1. 2) 〜 1253. 8.28(建長 5. 8.28) ◇鎌倉初期の禅僧。日本曹洞宗(ソウトウシュウ)の開祖。号は希玄(キゲン)、孝明天皇から仏性伝東国師・明治天皇から承陽(ジョウヨウ)大師の勅諡号を受ける。内大臣源(久我)通親の子、母は太政大臣藤原基房の娘。京都木幡(コバタ)の松殿山荘生れ。 _3歳で父を、8歳で母を失い、1212(建暦 2)養父で伯父の藤原師家の制止を振り切り、比叡山の叔父良観を訪ねる。翌年座主公円について出家し、仏法房道元と名乗り、のち三井寺(園城寺)の公胤をたずね天台宗を修める。 _1217(建保 5)建仁寺に赴き、栄西の弟子全明(ゼンミョウ)に師事。 _1223(貞応 2)全明とともに博多から宋に渡り、諸山を巡り曹洞宗天童山で長翁如浄(ニョジョウ)より印可を受ける。1228(安貞 2)帰国。建仁寺で著作と学問に専心するが、1230(寛喜 2)ころ寺を追われる。 _京都深草に1233年、興聖寺を開き法を弘める。比叡山の圧力を避け、越前の土豪波多野義重の招きで1243(寛元元. 7.)波多野氏の所領の越前志比荘に移り、1244(寛元 2)傘松に大仏寺を開き、1246(寛元 4)大仏寺を永平寺(エイヘイジ)と改め、僧名も希玄に改名。 _のち1247年、北条時頼に請われて鎌倉に行き法を説くが、寺院建立を辞して越前に帰る。また後嵯峨上皇より紫衣(シエ)を賜る。 _1253(建長 5)病のため永平寺を弟子懐奘に譲り、旅の途中、弟子覚念の京都高辻西洞院で病死。 _成仏(ジョウブツ)は修行で到達する目標ではなく、無限の修行が成仏であるという修証一如・只管打坐(シカンタザ)を主張する。 _著書は『正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)』(95巻)・『普勧坐禅儀』(1巻)・『学道用心集』(1巻)・『永平清規(シンギ)』(2巻)・『永平広録』(10巻)・『傘松道詠』など。 ◆道元忌(曹洞宗開山忌)[ 8.25]。 (*)1233(貞永 2,天福元)、1247(寛元 5,宝治元)。 ◎弟子懐奘は師の言行を『正法眼蔵随聞記(ズイモンキ)』に著す。 ◎曹洞宗では道元を高祖、瑩山(ケイザン)を太祖、併せて両祖と呼ぶ。 ◎父は内大臣久我通具とも。 どうしん【道深】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇百済の僧侶。 _『日本書紀』によれば、 554[欽明15. 2.]に百済から曇慧(ドンエ)ら9人が来朝、前に渡来していた道深ら7人と交代したという。 どうはち【道八】 ⇒仁阿弥道八 どうみゃく せんせい【銅脈 先生】 1752(宝暦 2) 〜 1801(享和元. 6. 2) ◇江戸後期の狂詩家。本名は畠中頼母(ハタナカ・タノモ)、号は観斎・太平館主人・片屈道人。 どうもと いんしょう【堂本 印象】《だうもと いんしやう》 1891.12.25(明治24) 〜 1975. 9. 5(昭和50) ◇日本画家。本名は三之助。京都生れ。 _京都絵画専門学校卒業。 _第3回帝展で『調鞠図(チョウキクズ)』が特選、第4回帝展で『訶梨帝母(カリテイモ)』が推薦、以後無審査となる。 _1961(昭和36)文化勲章、受章。 _その他の代表作は『華厳』・『兎春野に遊ぶ』など。 どうりゅう【道隆】《だうりゆう》 ⇒蘭溪道隆 どこう としお【土光 敏夫】《どくわう としを》 1896. 9.15(明治29) 〜 1988. 8. 4(昭和63) ◇経営者。岡山県生れ。 _1960. 7. 1(昭和35)石川島播磨重工業社長。 _1965(昭和40)東京芝浦電気(現:東芝)社長、1972(昭和47)会長。 _1974. 5.24〜1980(昭和49〜昭和55)第4代経団連会長。 どどいつぼう せんか【都々逸坊 扇歌(初代)】《どどいつばう せんか》 1804 〜 1852(嘉永 5) ◇江戸後期の芸人・俗謡都都逸の完成者。本名は岡福次郎。常陸(ヒタチ)水戸の人。 _幼時に失明。江戸に出て落語家船遊亭扇橋にに入門。 _天保年間(1830〜1844)、寄席の客からなぞの題を求め、独特の節回しで唄って謎ときをしたのが流行、一世を風靡。 _後年、風刺よみ込みで幕府ににらまれ、生国に帰住。 (*)1804(享和 4,文化元)。 どもん けん【土門 拳】 1909(明治42) 〜 1990(平成 2) ◇昭和期の写真家。山形県生れ。日本大学中退。 どん みげる【ドン ミゲル】 ⇒千々石清左衛門 どんえ【曇恵(曇慧)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇百済の僧侶。 _『日本書紀』によれば、 554[欽明15. 2.]に百済から曇慧ら9人が来朝、前に渡来していた道深(ドウシン)ら7人と交代したという。 どんしょう【曇照】 1187(文治 3) 〜 1259(正嘉 3. 2.21) ◇鎌倉中期の僧侶(律宗)。名は浄業、字は法忍、号は曇照。 _1214(建保 2)宋に渡り、鉄翁守一から律を学び、1228(安貞 2)帰朝。戒光寺を建立。 _1233年、再び入宋、1241(仁治 2)帰朝。 (*)1233(貞永 2,天福元)。 どんちょう【曇徴】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇飛鳥時代の高麗(高句麗)の帰化僧。 _ 610[推古18]高麗王の命により来朝。五経に通じ、彩色画が得意で、紙・墨・碾磑(ミズウス)を伝えたとされる。