えいかん【永観】《えいくわん》 1053 〜 1111(天永 2.11. 2) ◇平安後期の僧侶(浄土宗)。「ようかん」ともいう。文章博士源国経の子。浄土宗八祖の一人。 (2)生年は1053(天喜1)、没年は1132(長承1)。 _石清水八幡別当元命の3男ともいう。 (16)生年は1032(長元 5)、没日は1111(天永 2.11. 2)。 えいさい【栄西】 1141 〜 1215(建保 3. 7. 5) ◇鎌倉前期の日本臨済宗(リンザイシュウ)の開祖。「ようさい」ともいう、字(アザナ)は明庵(ミョウアン)、比叡山の房号は葉上房、千光法師・千光祖師とも呼ばれる。備中国吉備津神社の神官賀陽(カヤ)氏の出身。 _8歳のとき『倶舎婆沙』を読む。11歳のとき備中国安養寺の静心に師事。1153(仁平 3)比叡山に入り得度。19歳で有弁に天台宗を学ぶ。さらに伯耆大山の基好に密教を学ぶ。 _1168(仁安 3)約6ヶ月宋に渡り、天台山・阿育王山に登る。禅を学ぼうとして、1187(文治 3)再度入宋し、天台山万年寺の虚菴懐敞に臨済宗黄龍(オウリョウ)派の禅を受ける。1191(建久 2)帰朝し、筑前に報恩寺を、博多に聖福寺を建立。1194(建久 5)比叡山の訴えにより朝廷は禅宗を禁止。そのため『出家大綱』・『興禅護国論(コウゼンゴコクロン)』を著す。 _京都での布教に断念し、1199年北条政子の招きに応じて鎌倉に赴き、政子の帰依をうけ鎌倉に寿福寺、第2代将軍頼家が帰依し幕府の支援により1202(建仁 2)京都に建仁寺(台密禅の三宗兼学の道場)を建立。東大寺勧進職となり東大寺を修築、法勝寺九重塔を再興。一時追放されるが、紫衣(シエ)を賜り、1213年僧正に任ぜられる。1215(建保 3)相摸国亀谷に寿福寺を建立。 ◎宋から茶種をもたらし栽培、『喫茶養生記』を時の将軍源実朝に献じた。 ◆栄西忌(建仁寺開山忌)[旧暦 7. 5]。[ 6. 5]京都市東山区の建仁寺で法要と献茶式が行われる。 (4)最初、比叡山で天台・密教を学び、……。 (6)19歳で比叡山に入り,天台と密教を修行。 (16)没日は 7. 5。14才で叡山に登って得度し,19才で有弁について天台宗をおさめる. (17)仁平三年(一一五三)十三歳で叡山に登って受戒、栄西と称し、密経を学ぶ。入寂の日について、六月五日(『吾妻鏡』)説と七月五日(『沙石集』)説、場所については鎌倉説と京都説とが対立している。 (*)1141(保延 7,永治元)、1199(建久10,正治元)、1213(建暦 3,建保元)。 えいしょう こうたいこう【英照 皇太后】《えいせう くわうたいこう》 1833(天保 4) 〜 1897(明治30) ◇孝明天皇の女御・明治天皇の嫡母。名は夙子(アサコ)。九条尚忠の第6女。 _孝明天皇の皇太子時代に御息所(ミヤスドコロ)。1846(弘化 3)入内。1860(万延元)明治天皇の嫡母とされる。1868(明治元)皇太后宣下。 (19)生没年は、(1834〜1897 公式には 1833〜1897)。 えいしょう こうたいごう【英照 皇太后】《えいせう くわうたいごう》 ⇒英照皇太后 えいぞん【叡尊(睿尊)】 ⇒叡尊思円 えいそん しえん【叡尊 思円(睿尊 思円)】 1201 〜 1290(正応 3. 8.25) ◇鎌倉中期の僧侶(律宗)。「えいぞん」とも。姓は源氏、字は思円、諡(オクリナ)は興正菩薩。大和国箕田郷生れ。西大寺の中興の祖。 _1217(建保 5)東大寺で剃髪。律宗の衰えを嘆き、戒如から律宗を学び、1235年興福寺に管理されていた奈良西大寺に移り、翌年円晴・覚盛らと復興。非人・乞食・癩病人にも受戒する。 _伏見天皇より興正菩薩の諡号を贈られる。 ◎蒙古襲来の際、朝廷に召され調伏を祈祷、1281(弘安 4. 7.)蒙古降伏を男山八幡宮に祈り、神風を起したと伝える。 (*)1201(正治 3,建仁元)、1235(文暦 2,嘉禎元)。 えいと としお【永戸 俊雄】 1899. 9.10(明治32) 〜 1956.11.26(昭和31) ◇翻訳家・映画評論家。 えいふくもんいん【永福門院】《えいふくもんゐん》 1271(文永 8) 〜 1342(<南>興国 3. 5. 7) ◇鎌倉後期〜南北朝時代の歌人。「ようふくもんいん」とも。本名は鏡子(アキコ)(鏡:「金」偏+「章」:補助なし〔_〕)、法号は真如源。太政大臣西園寺実兼(サイオンジ・サネカネ)の娘、母は内大臣通成女(ミチナリノムスメ)源顕子(ケンシ)。 _1288年18歳で立后宣下、伏見天皇の中宮となる。実子がなく、後伏見天皇・誉子内親王の養母となる。 _伏見天皇とともに京極為兼に和歌を学び、『玉葉集』の代表的歌人。 _天皇の譲位後、院号宣下により永福門院。1316(正和 5. 6.23)落飾して真如源と称する。 (*)1288(弘安11,正応元)。 えいらく ほぜん【永楽 保全】 1795(寛政 7) 〜 1854(嘉永 7. 9.18) ◇江戸後期の陶工。姓は西村、通称は善五郎のち善一郎。沢井宗海の子、[3]西村善五郎(十代)の養子、西村家十一代目。西村和全の父。 _もと大徳寺の小僧。人形屋市右衛門に陶技を習う。明朝永楽年間(1403〜1424)の磁器を模倣。 _1827(文政10)紀伊藩主徳川治宝に招かれ浜西御殿で偕楽園焼を始め、「永楽」・「河浜支流」の印章を拝領、永楽と改姓。近衛家で揚名炉を写し、陶釣軒の号を与えられる。三井寺の円満院宮の浜御殿の庭で湖南焼の窯を築く。 _高野長英に化学を学び、晩年オランダ焼も研究。 えいらく わぜん【永楽 和全】 1823(文政 6) 〜 1896(明治29) ◇陶工。永楽保全(ホゼン)の子。 _京都下河原に菊渓窯を築く。1871(明治 4)隠居、岡崎で制作。 えがみ とみ【江上 トミ】 1899(明治32) 〜 1980(昭和55) ◇料理研究家。 えがみ なみお【江上 波夫】《えがみ なみを》 1906.11. 6(明治39) 〜 2002.11.11(平成14) ◇考古学者・東洋史学者。山口県下関生れ。 _1930(昭和 5)東京帝国大学文学部東洋史学科、卒業。 _1931(昭和 6)東方文化学院研究員。 _1935(昭和10)内蒙古を横断踏査し、1937(昭和12)『蒙古高原横断記』を発表。 _1948(昭和23)東京大学東洋文化研究所教授。同年5月、学会誌向けの討論会で大和朝廷の騎馬民族日本征服説を発表。 _1956(昭和31)東京大学イラン・イラク遺跡調査団長。 _1962(昭和37)東京大学東洋文化研究所長。 _1967(昭和42)東京大学名誉教授。 _1977(昭和52)古代オリエント博物館長・日本オリエント学会会長などを歴任。 _1983. 3.(昭和58)犬山市の野外民族博物館リトルワールド館長。同年、文化功労者、受章。 _1991(平成 3)文化勲章、受章。 _著書は1935(昭和10)水野清一共著『内蒙古長城地帯』、『ユーラシア古代北方文化』・1958(昭和33)共著『日本民族の起源』、1964(昭和39)『日本における民族の形成と国家の起源』・1967(昭和42)『騎馬民族国家』など。 えがわ たくあん【江川 坦庵】《えがは たくあん》 ⇒江川英竜 えがわ たろうざえもん【江川 太郎左衛門】《えがは たらうざゑもん》 ⇒江川英竜 えがわ ひでたつ【江川 英竜(江川 英龍)】《えがは ひでたつ》 1801 〜 1855(安政 2) ◇江戸後期の洋学者・砲術家。初名は芳次郎・邦次郎のち太郎左衛門、諱(イミナ)は英竜(英龍)、字は九淵、号は坦庵。江川太郎左衛門英毅(ヒデタケ)の次男。 _兄が早逝し、父の没後、1835(天保 6)伊豆韮山(ニラヤマ)代官職を継ぐ。1840(天保11)大目付鳥居忠耀らの反対する高島秋帆(シュウハン)の兵制改革を支持。高島秋帆に兵学・砲術を学び、許しを得て韮山に反射炉を築き、鉄製大砲を鋳造。1841(天保12)洋式鉄砲方となり江戸で佐久間象山・木戸孝允らに教授。 _1853(嘉永 6)ペリー来航のとき、海防掛となる。先に幽囚となっていた高島秋帆の赦免を願い自分の属吏とし、中浜万次郎も招いて属吏とする。江戸湾防備を献策し、品川砲台建設を監督。 ◎江川氏は鎌倉時代以来の伊豆の土豪で、代々太郎左衛門を称する。江戸時代には韮山代官を世襲。 (*)1801(寛政13,享和元)。 えぐち かん【江口 渙】 ⇒江口渙 えぐち きち【江口 きち】 1913.11.23(大正 2) 〜 1938.12. 2(昭和13) ◇歌人。生活苦と恋の悩みから自殺。 えぐち きよし【江口 渙】 1887. 7.20(明治20) 〜 1975. 1.18(昭和50) ◇小説家・評論家。渙は「きよし」であったが第二次大戦後「かん」と改めた、学生時代の俳号は水郷。東京麹町区(コウジマチク)生れ。1916(大正 5)東京帝国大学英文科中退。1915(大正 4)結婚〜1922(大正11)離別の間、北川千代の夫。 えぐち たかや【江口 隆哉】 1900(明治33) 〜 1977(昭和52) ◇昭和期の舞踊家。 _高田雅夫・せい子の門下。宮操子とともにドイツで舞踊家ウィグマンに学ぶ。帰国後、江口・宮舞踊団を結成。 (2)生年は1902(明治35)。高田雅夫・せい子の門下。宮雅子と共に……。 (6)生年は1900。高田せい子・雅男の門下で,宮操子とともに……. えけい【恵瓊】《ゑけい》 1538(天文 7)? 〜 1600(慶長 5) ◇安土桃山時代の臨済宗の僧。字は瑤甫、安国寺恵瓊とも。安芸国安国寺の住職。祖父は武田元繁、父は信重。 _安芸の守護であった武田氏の末孫に生れる。4歳のとき父が毛利に攻められ銀山城で自決した際、安国寺に逃れ仏門に入る。1553(天文22)慈雲恵心に会い、京都の東福寺に入る。1569(永禄12)安国寺の住職。 _1573年、織田信長と足利義昭の間を調停。1582(天正10)羽柴秀吉の高松城攻めのとき、毛利輝元の代表として羽柴方の黒田官兵衛と会い、城主清水宗治の切腹を条件に和議。 _文禄慶長の役にも出陣、秀吉より1594(文禄 3)伊予6万石に封ぜられる。 _関ヶ原の戦では石田三成の西軍に属して敗れ、東本願寺に隠れていたが徳川方に捕われ、石田三成らと共に京都六条河原で斬首。 (*)1573(元亀 4,天正元)。 ◎伊予の大名に取り立てられたとき東福寺の住職でもあり、朝鮮に出陣した際に朝鮮で材木を買いつけ東福寺を修理している。 えさき こうへい【江崎 孝坪】 1904. 6.15(明治37) 〜 1963. 6.27(昭和38) ◇画家。本名は孝平。晩年は挿絵、映画・舞台芸術などに活躍。 えさき れいじ【江崎 礼二】 1892(明治25) 〜 1929(昭和 4) ◇明治時代の写真家。 _浅草公園に開業。 えしま【江島(絵島)】 ⇒江島 えじま【江島(絵島)】 1681 〜 1741 ◇江戸中期の大奥の奥女中。「えしま」とも呼ぶ。 _第7代将軍徳川家継の生母月光院に仕える。1714(正徳 4. 1.)親族の奥医師奥山交竹院と小普請方金井六左衛門の誘いで、山村座の芝居を見物。3月、歌舞伎役者生島新五郎と乱行により、江島は信濃国高遠(タカトオ)の内藤駿河守の領地に、交竹院は御蔵島に、金井は八丈島に、生島は三宅島に流刑。山村座は廃絶。 _幕府は大奥の風紀取締に利用し、連座する者1,500名に及ぶ。 (*)1681(延宝 9,天和元)、1741(元文 6,寛保元)。 えじま きせき【江島 其磧】 1666(寛文 6) 〜 1735(享保20. 6. 1) ◇江戸中期の浮世草子作者。姓は村瀬、名は権之丞・茂知、通称は庄左衛門。生没年は1667(寛文 7)〜1736(元文元)の説もある。京都の有名な大仏餅屋の4代目主人。 _遊興(ユウキョウ)で資産を蕩尽(トウジン)し、井原西鶴に私淑、その体験を戯作。書店八文字屋自笑から自笑の作として出版、のち江島屋を開き独立するが振わず、1718(享保 3)自笑と和解。 (2)生年は1666(寛文 6)、没年は1736(元文1)。京都の大仏餅屋村瀬庄左衛門正孝の子。(名)権之丞,茂知,庄左衛門。 (4)生年は1667、没年は1736。名は茂知、通称市郎左衛門。 (6)生年は1667、没年は1736。京都誓願寺通の大仏餅屋の当主江島屋右衛門。 (16)生年は1667(寛文 7)、没日は1736(元文元. 9. 3)。 _名は茂知,通称は市郎左衛門. えじまや きせき【江島屋 其磧】 ⇒江島其磧 えしん【恵心】《ゑしん》 ⇒源信 えしん そうず【恵心 僧都】《ゑしん そうづ》 ⇒源信 えしんに【恵信尼】《ゑしんに》 1182 〜 1268(文永 5) ◇親鸞(シンラン)の妻、善鸞(長男)・覚信尼(末娘)ら3男3女の母。越後(現:新潟県)の豪族三善為教(為則)の女(ムスメ)という。 _越後に流罪となり非僧非俗の生活に入った親鸞と結婚。親鸞と行動を共にし越後から信濃・常陸に行ったが、晩年親鸞と帰京。やがて家族が分散し一人京都から越後に帰り、孫たちの養育や雇人の管理に当り、同地で没す。 (*)1182(養和 2,寿永元)。 ◎生没年などには異説がある。親鸞より9歳年下。 _末娘の覚信尼に与えた書状10通(恵信尼文書)が西本願寺に現存する。 えちぜん すいそん【越前 翠村】 1885(明治18) 〜 1928. 8. 4(昭和 3) ◇歌人。本名は源一郎。 えっちゅうや りいち【越中谷 利一】 1901. 7.22(明治34) 〜 1970. 6. 5(昭和45) ◇小説家・俳人。旧姓は加賀谷。 えと てきれい【江渡 狄嶺】 1880.11.13(明治13) 〜 1944.12.15(昭和19) ◇思想家。本名は幸三郎。青森県五戸の人。 _1910(明治43)東京世田谷に百性愛道場を開く。牛欄寮を開き寮生を育成。 えとう しんぺい【江藤 新平】 1834(天保 5. 2. 2) 〜 1874. 4.13(明治 7) ◇江戸幕末・明治維新期の政治家。名は胤雄、号は南白。佐賀藩下級武士の子。 _1862(文久 2)脱藩し上京、尊攘運動に参加。藩から永蟄居に処せられ、1867(慶応 3)王政復古で許される。 _討幕の東征大総督府の軍監となり、江戸に入り江戸鎮台の判事。江戸遷都を提唱。東京府判事・文部大輔・左院副議長を歴任。1872(明治 5)司法卿となり改正律令の制定・警察制度の統一などに当る。 _1873(明治 6)参議となり西郷隆盛・板垣退助らの征韓論に賛同して下野。1874(明治 7)板垣退助らと民撰議院設立を建白、愛国公党の結成に参加。 _不平士族に擁立され、同年2月挙兵(佐賀の乱)。間もなく政府軍に鎮圧され、鹿児島の西郷隆盛の許に逃れ、高知に渡り土佐立志社と連絡するが志を得ず、東上の途中に捕われ佐賀に護送されて、斬首梟首。 えどがわ らんぽ【江戸川 乱歩(江戸川 亂歩)】《えどがは らんぽ》 1894.10.21(明治27) 〜 1965. 7.28(昭和40) ◇大正・昭和期の推理・探偵小説家。本名は平井太郎。三重県名張市生れ。早稲田大学政経学部卒業。 _1920(大正 9)私淑したエドガー・アラン・ポーにちなみ筆名を江戸川藍峯と、1922(大正11)江戸川乱歩と改める。 _1947(昭和22)探偵作家クラブを設立、初代会長。それを改組した日本推理作家協会の初代理事長。1954(昭和29)江戸川乱歩賞を設定。 (2)(生)三重県。 (4)三重県生れ。 (6)三重県生まれ。 (13)三重県津市に生れ……。 ◎46回の移転を繰り返して、1934(昭和 9)芝区車町(現:港区高輪)から池袋(現:豊島区西池袋)に移った後は移転せず、そこの土蔵で執筆していた。 えどや ねこはち【江戸家 猫八(初代)】 1868 〜 1932(昭和 7) ◇大正・昭和初期の物まね芸人。 (*)1868(慶応 4,明治元)。 えどや ねこはち【江戸家 猫八(三代)】 1921.10. 1(大正10) 〜 2001.12.10(平成13) ◇昭和後期の声帯模写・タレント。本名は岡田八郎。初代江戸屋猫八の六男、小猫(息子)・まねき猫(娘)の父。 _幼少から高座に上がる。 _高等小学校、卒業。松竹に勤務。 _1941(昭和16)古川緑波一座に入。 _太平洋戦争で入隊し、広島で被爆。 _1949(昭和24)三代目猫八を襲名。 _1955(昭和30)NHK・TV『お笑い3人組』に三遊亭小金馬(コキンバ)(のち金馬)・一竜斎貞鳳(イチリュウサイ・テイホウ)とともにお笑いタレントとして出演。 _1988(昭和63)紫綬褒章、受章。 _1994(平成 6)勲4等旭日小綬章、受章。 えなみ ぶんぞう【江南 文三】《えなみ ぶんざう》 1887.12.26(明治20) 〜 1946. 2. 8(昭和21) ◇詩人・歌人。北海道生れ、出生届上は東京府東京市本郷區曙町一番地。4人姉兄妹の3番目(次男)。 _1893. 4.(明治26)本郷區市立誠之尋常高等小学校、入学。 _1904. 3.(明治37)東京開成中学校、卒業。同年4月、第四高等学校、入学。 _1909. 3.(明治42)第四高等学校、卒業。同年9月、東京帝国大学文科大学英文科、入学。石川一に代って「スバル」第9号から編集を行う。 _1911. 3.(明治44)「スバル」の定期刊行物発行人、石川一から江南文三に名義変更(東監認乙第九五七号認可書)。 _1913. 7.(大正 2)東京帝国大学英文科、卒業。同年9月、千葉県立千葉中学校教諭に着任。 _1936. 5.(昭和11)三男長(ススム)、誕生。 (*)江南長氏のメール:北海道生れ。 (?)石川県生れ。 えのもと きかく【榎本 其角】 ⇒宝井其角 えのもと けんいち【榎本 健一】 1904(明治37) 〜 1970(昭和45) ◇喜劇俳優。 _1922(大正11)浅草金竜館で初舞台を踏む。 えのもと たけあき【榎本 武揚】 1836(天保 7. 8.25) 〜 1908.10.27(明治41) ◇江戸末期の幕府海軍副総裁・明治維新後の海軍中将。幼名は釜次郎、号は梁川。徒目付榎本円兵衛の次男。江戸下谷御徒町生れ。 _1847(弘化 4)昌平坂学問所に入る。1853(嘉永 6)蘭学伝習生として長崎に行く。1856(安政 3. 4.)長崎の海軍伝習所に入り、勝海舟の指導を受ける。1858(安政 5)江戸に帰り、築地の海軍操練所の御軍艦操練教授。1862(文久 2)幕命により西周(ニシ・アマネ)・津田真道(マミチ)・林研海(ケンカイ)らとともにオランダ留学生。1866(慶応 2.10.)幕府がオランダに発注していた開陽丸を廻送し、1867(慶応 3. 2.)江戸に着き、開陽丸船将・海軍奉行・和泉守・海軍副総裁。 _大政奉還後、1868(慶応 4. 4.19)旧幕府の軍艦4隻を官軍に引き渡し、残る軍艦4隻は徳川氏の所有として監督し、奥羽諸藩からの救援に応じ、同年8月19日夜軍艦汽船合せて8隻と乗員2,500名を率いて品川沖を出港。松島に入港した時には会津は既に落城。仙台で一緒になった大鳥圭介などを伴い、そのまま北海道箱館に入港し、10月25日五稜郭(ゴリョウカク)を占領して、北海道独立を宣言。1869(明治 2. 3.)宮古沖の開戦で黒田清隆ら薩長諸藩の政府軍に破れ、5月には箱館沖にても敗れ、同月11日箱館は政府軍に占領される(五稜郭の戦い,箱館戦争)。武揚・圭介らは黒田の勧めで部下の命を助けることを条件に同月18日降伏し、東京に護送。 _1872(明治 5)特赦、北海道開拓使。1874(明治 7. 1.)海軍中将、特命全権公使露国公使館勤務。この間、日露樺太・千島交換条約を調印。1885(明治18)清国駐在公使として全権伊藤博文の天津条約締結に助力。以後、外務大輔・海軍卿・逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。 _1890(明治23)枢密顧問官・子爵。 (2)(系)幕臣榎本園兵衛武規の次男。'61(文久1)幕艦開陽丸の建造監督をかねオランダに留学……。'74海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き……。 (16)1861(文久1)年オランダに留学して…….'82年海軍中将となり……. ◆墓は東京都文京区本駒込3丁目の吉祥寺。 ◎黒田清隆が降伏を勧告した当初、武揚は拒絶状とともにオランダに留学した際に学んだ『海軍規律』2冊を「日本にはまたとない貴重な書、兵火にかけるには余りに惜しい」と書き添えて官軍に贈った。清隆らは大いに感じ、感謝状を添えて返礼に酒5樽を贈ったという。[図:榎本武揚]榎本武揚の墓(1998年3月11日撮影) 東京都文京区本駒込3−19−17 吉祥寺墓所 えのもと はりゅう【榎木 破笠】 1866(慶応 2) 〜 1916.11.16(大正 5) ◇劇作家。本名は虎彦。 えのもと ふゆいちろう【榎本 冬一郎】 1907. 6. 1(明治40) 〜 1937. 3.25(昭和12) ◇俳人。本名は羊三。和歌山県田辺市生れ。警察界から大学事務官になる。 えのもと ぶよう【榎本 武揚】 ⇒榎本武揚 えばら こやた【江原 小弥太】 1882.10. 4(明治15) 〜 1978. 4. 2(昭和53) ◇小説家。新潟県生れ。東京物理学校卒業。 (5)江原 小弥太(えばら こやた)。 (8)江原 小弥太(えはら こやた)。 (11)江原 小弥太(えばら こやた)。 (13)江原 小弥太(えばら こやた)。 えびいけ しゅんじ【海老池 俊治】 1911. 8.27(明治44) 〜 1968. 7. 3(昭和43) ◇英文学者。一橋大学社会学部教授。 えびいち そめたろう【海老一 染太郎】《えびいち そめたらう》 1932(昭和 7) 〜 2002. 2. 2(平成14) ◇太神楽(ダイカグラ)曲芸師。本名は村井正秀(マサヒデ)。海老一染之助の兄。 _1945(昭和20)染之助とともに2代目海老一海老蔵に入門。 _1946(昭和21)新宿末広亭で初舞台。 _1973(昭和48)放送演芸大賞曲芸部門賞、受賞。 _1985(昭和60)浅草芸能大賞奨励賞、受賞。 ◎染之助が芸を行い、染太郎が「「いつもよりよけいにまわしております」と囃す絶妙のコンビで知られ、二人で言う「おめでとうございます」も有名であった。 えびな だんじょう【海老名 弾正】《えびな だんじやう》 1856(安政 3. 9.18) 〜 1937. 5.22(昭和12) ◇新教牧師・思想家・教育家。初名は喜三郎。柳河藩士海老名休也の長男。筑後国(福岡県柳川)生れ。徳富蘇峰(ソホウ)・徳富蘆花(ロカ)の従兄弟。 _熊本洋学校でジェーンズに学び、廃校とともに同志社英学校に移り新島襄に師事。1879(明治12)同志社英学校の第1回卒業生。 _同年、群馬県安中教会を設立し、その牧師。1886(明治19)東京本郷弓町教会牧師。1901〜1902(明治34〜明治35)正統主義信仰の植村正久と福音主義の理解をめぐり論争。 _1920〜1928(大正 9〜昭和 3)同志社大学総長。 _日露戦争を積極的に肯定。 (16)誕生日は1856(安政 3. 8/)。 えびはら きのすけ【海老原 喜之助】 1904(明治37) 〜 1970(昭和45) ◇昭和期の洋画家。鹿児島市生れ。 _川端画学校卒業後、有島生馬に師事。1923〜1934(大正12〜昭和 9)渡仏、藤田嗣治(ツグハル)に師事。1935(昭和10)独立美術協会会員。 えびはら はちろう【蛯原 八郎】 1907. 1.13(明治40) 〜 1946. 5.30(昭和21) ◇新聞・雑誌研究家。 えま つとむ【江馬 務】 1884(明治17) 〜 1979(昭和54) ◇大正・昭和期の風俗史学者。京都大学卒業。 _京都絵画専門学校・立命館大学・奈良女子高等師範学校などで教鞭をとる。京都女子大学教授・日本風俗史学会会長。 えま なかし【江馬 修】 1889.12.12(明治22) 〜 1975. 1.23(昭和50) ◇大正・昭和期の小説家。通称は修(シュウ)。岐阜県高山町生れ。斐太(ヒダ)中学校中退。田山花袋に師事。 (2)江馬 修(えま ながし)。本名記載なし。 (3)江馬 修(えま しゅう)、本名は修(ナカシ)。 (5)江馬 修(えま なかし)、通称は修(シュウ)。 (8)江馬 修(えま なかし)。 (11)江馬 修(えま なかし)。 (13)江馬 修(えま なかし)。 えま みちすけ【江間 道助】 1894. 8. 9(明治27) 〜 1951. 3.30(昭和26) ◇ドイツ文学者・評論家。 えみ すいいん【江見 水蔭】 1869(明治 2. 8.12) 〜 1934.11. 3(昭和 9) ◇明治・大正期の小説家。本名は忠功(タダカツ)、別号は怒濤庵(ドトウアン)・水蔭亭雨外・半翠(ハンスイ)隠士・落水子。岡山壱番町生れ。 _軍人を志して上京。1888(明治21)巌谷小波の紹介で尾崎紅葉らの硯友社に属したが、のち江水社を興し、田山花袋らを育てる。 _代表作『女房殺し』・『新潮夜曲』・『炭焼の烟』など。 (1)生年は1869(明治 2)。 (2)生年は1870(明治 3)。 (3)生年は1869(明治 2)。 (4)生年は1869。 (5)生年は1869(明治 2)。 (6)生年は1869。 (7)生年は1869(明治 2)。 (8)生年は1869(明治 2)。 (11)生年は1869(明治 2)。 (13)生年は1869(明治 2)。 (16)生年は1869(明治 2)。 えみのおしかつ【恵美 押勝】《ゑみのおしかつ》 ⇒藤原仲麻呂 えむら ほっかい【江村 北海】 1713(正徳 3) 〜 1788(天明 8) ◇江戸後期の漢文学者。伊藤龍洲(リョウシュウ)の次男、母は河村氏、伊藤錦里(キンリ)の弟、清田(「人」偏+「膽」-「月」:補助1845〔_〕)叟の兄。丹後国宮津藩士江村毅庵の養子。 ◎当時、大坂の片山北海・江戸の入江北海とともに「三都三北海」と呼ばれた。 えもり もりや【江森 盛弥】 1903. 8.18(明治36) 〜 1960. 4. 5(昭和35) ◇詩人。 えん しゃくざん【閻 錫山】 1883(明治16) 〜 1960(昭和35) ◇中華民国の軍閥政治家。Yen Hsi-shan。山西省の生れ。 _日本の陸軍士官学校卒業後、郷里に軍人として次第に勢力を得る。辛亥革命に呼応して太原で挙兵し、1912年山西省都督に就任以来、山西の軍・政権を掌握し、独占的な支配をはかって省内の開発を努めた。 _北伐以後、蒋介石に協力して国民政府中央の要職につき、抗日的であった。一度、馮玉祥(フウ・ギョクショウ)とともに蒋介石に反軍を起したが、敗れた後は蒋介石の統制に服し、1949(昭和24)広東で国民政府行政院長に就任し、12月台湾へ移った。 えんじ【円爾】《ゑんじ》 ⇒弁円 えんち ふみこ【円地 文子】 1905.10. 2(明治38) 〜 1986.11.14(昭和61) ◇昭和期の小説家・劇作家。東京市浅草区向柳原町(ムコウヤナギワラマチ)生れ。日本女子大学付属高等女学校中退。上田万年(カズトシ)の次女。 (1)本名は富美(ウ冠)。 (2)本名は富美(ウ冠)。 (5)本名は富美(ウ冠)。 (8)本名は冨美(ワ冠)。 (11)本名は富美(ウ冠)。 えんちん【円珍】《ゑんちん》 814(弘仁 5) 〜 891(寛平 3) ◇平安前期の僧侶(天台宗)。俗姓は和気氏。宅成の子、母は佐伯氏で空海(弘法大師)の姪。讃岐国那珂郡の人。天台宗寺門派の宗祖。 _15歳で比叡山に登り、座主義真に師事。20歳で受戒し僧となる。 846(承和13)延暦寺真言の学頭。 850(嘉祥 3)内供奉持念禅師。 _ 853(仁寿 3)40歳で唐に渡る。台州国清寺の物外に止観を、越州開元寺の良(「月」偏+「胥」:補助6215〔_〕)に台教を、長安青竜寺の法全に金剛・胎蔵両部を学ぶ。さらに福州開元寺の存式に法華・華厳・倶舎などを、同寺に留学中の天竺僧般若恒羅に「梵字悉曇章」を学ぶ。 _ 858(天安 2)帰国後、比叡山山王院に住み、山王院大師・後唐院と称する。同年、近江国園城寺(オンジョウジ)(通称三井寺)の再興に着手、延暦寺の別院とする。藤原良房・基経父子に認められ、 864(貞観 6)宮中仁寿殿で大悲胎蔵の潅頂(カンジョウ)を天皇以下諸臣に授け、皇太后明子の護持僧となる。 866(貞観 8)園城寺別当。 868(貞観10)清和天皇の勅命により第5世天台座主。 883(元慶 7)法橋まもなく法眼和尚位、 890(寛平 2)少僧都。 _ 927(延長 5)醍醐天皇より智証大師を追諡。 _円仁(エンニン)に対して天台より密教が秀れていると説く。 ◎のちに円珍の弟子が、延暦寺の山門派(円仁が祖)と対立し、 993(正暦 4)園城寺に拠って分離独立し、寺門派を形成する。 えんどう きよこ【遠藤 清子】 1882. 2.11(明治15) 〜 1920.12.18(大正 9) ◇小説家・評論家。 えんどう こげんそう【遠藤 古原草】 1893. 9. 6(明治26) 〜 1929. 8.24(昭和 4) ◇俳人・蒔絵師。名は清平衛。 [1]えんどう さぶろう【遠藤 三郎】 1893(明治26) 〜 1984(昭和59) ◇昭和前期の陸軍軍人(中将)。山形県生れ。 [2]えんどう さぶろう【遠藤 三郎】 1904(明治37) 〜 1971(昭和46) ◇昭和後期の政治家。静岡県生れ。 えんどう むすい【遠藤 無水】 1881. 6.27(明治14) 〜 没年不詳 ◇社会主義者のち国家社会主義に転じる。本名は友四郎。 えんどう もりとお【遠藤 盛遠】 ⇒文覚 えんに【円爾】《ゑんに》 ⇒弁円 えんに べんえん【円爾 弁円】《ゑんに べんゑん》 ⇒弁円 えんにん【円仁】《ゑんにん》 794(延暦13) 〜 864(貞観 6. 1.14) ◇平安時代の僧。天台宗山門派の祖、天台教学を大成し、比叡山興隆の基礎を確立する。 _俗姓は壬生(ミブ)氏、諡号は慈覚大師(ジカクダイシ)。下野国都賀郡の人。 _ 802(延暦21)下野国都賀郡の大慈寺の僧広智の弟子となる。 808(大同 3)15歳で比叡山に入り、最澄(サイチョウ)に師事。 816(弘仁 7)東大寺で受戒し、比丘(ビク)になる。 _ 838(承和 5)遣唐使藤原常嗣に従って入唐(ニットウ)し、顕密二教を学ぶ。翌年遣唐使とともに帰ろうとするが逆風により果たせず、さらに五台山・長安などで学ぶ。武宗の「会昌の廃仏」に遭い、還俗させられて 847(承和14)帰国。 _ 850(嘉祥 3)文徳天皇の勅願を得て比叡山に持念道場総持院を、翌年常行三昧堂を建立。 854(仁寿 4. 4.)第3世天台座主。 _ 866(貞観 8)清和天皇より慈覚大師の諡号を追贈される。 ◎のちに円仁の門下(山門派)が円珍の弟子と対立し、 993(正暦 4)円珍の弟子は円珍が再興した延暦寺の別院園城寺(オンジョウジ)に拠って分離独立し、寺門派を形成する。 えんのうばそく【役 優婆塞】 ⇒役行者 えんのおずぬ【役 小角】《えんのをづぬ》 ⇒役行者 えんのぎょうじゃ【役 行者】《えんのぎやうじや》 生年不祥 〜 没年不祥 ◇奈良時代の山岳修行者・修験道の祖。「役優婆塞(ウバソク)」,「役小角(オズヌ,ショウカク)」とも。 _大和国葛城山(カツラギサン)に住んで修行、孔雀明王の法を行う。また吉野の金峰山(キンブセン)・大峰などを開いたという。 _ 699[文武 3]弟子韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)の讒言(ザンゲン)により伊豆に流される。 ◎母を鉢に入れて入唐したともいう。 ◎1799(寛政11)神変大菩薩の諡号が授与。 (26)寛政十一年(一七七九)の一千年の御遠忌に神変大菩薩(ジンペンダイボサツ)の諡号(シゴウ)が贈られた。(年号が不整合) えんのしょうかく【役 小角】《えんのせうかく》 ⇒役行者 えんや うへい【塩谷 鵜平】 1877. 5.30(明治10) 〜 1940.12. 8(昭和15) ◇俳人。本名は熊蔵のち宇平、号は華園・芋坪(ウヘイ)・芋坪舎。岐阜県生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)政経科卒業。 (8)姓は現在「えんや」と呼ばれているが、古くは、「しおのや」。 えんや たかさだ【塩谷 高貞】 生年不詳 〜 1341(<南>興国 2,<北>暦応 4) ◇南北朝時代の武将。塩谷貞清の子。 _1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏が鎌倉に拠って後醍醐天皇の建武政権に叛すると、新田義貞に従って箱根竹ノ下に戦い、敗れて尊氏に降る。高貞の妻は後醍醐天皇より下賜された女官で美貌のため、尊氏の執事高師直(コウノモロナオ)はこれを奪おうとして高貞の謀叛を尊氏に讒言。高貞は出雲に逃れようとして山名時氏らに追われ、播磨国影山で自殺。 (2)塩谷 高貞。 (16)塩冶 高貞。 えんゆう てんのう【円融 天皇】《ゑんゆう てんわう》 959(天徳 3) 〜 991(正暦 2) ◇第64代天皇。名は守平(モリヒラ)、法名は金剛法。第62代村上天皇の第5皇子、母は藤原師輔の娘中宮安子。懐仁(ヤスヒト)(第66代一条天皇)の父。第63代冷泉(レイゼイ)天皇(第2皇子)・為平親王(タメヒラシンノウ)(第4皇子)の同母弟。 _ 959(天徳 3)親王宣下。 967(康保 4)冷泉天皇の皇太弟。左大臣源高明(タカアキラ)は娘が妃となっていた為平親王が皇太子とならなかったので、源満仲(ミツナカ)・橘繁延・藤原千晴ら不満派と結び、 969(安和 2)為平親王が守平皇太弟の廃位を謀ったという満仲らの密告により高明は失脚(安和の変)。 _冷泉天皇は病弱でしばしば狂気を現し、外戚として藤原北家の安定のためにも、また皇嗣をめぐる軋轢があったため、同年冷泉天皇を譲位、守平皇太弟が即位。 984(永観 2)第65代花山(カザン)天皇(冷泉天皇の皇子)に譲位、懐仁は皇太子となる。 _ 985年、出家。 989年、御願寺円融寺に住む。 _即位: 969(安和 2. 9.23)、譲位: 984(永観 2. 8.27)。 (2)村上天皇の第5皇子。 (4)村上天皇の第七皇子。 (16)村上天皇第5皇子. (*) 985(永観 3,寛和元)、 989(永延 3,永祚元)。 ◎藤原兼家は花山天皇が女御の死別に悲しむのに乗じて、 986(寛和 2)天皇を元慶寺に連れ出し出家させ、兼家の孫一条天皇(母は兼家の娘詮子)を7歳で即位させている。