がもう くんぺい【蒲生 君平】《がまふ くんぺい》 1768(明和 5) 〜 1813(文化10. 7. 5) ◇江戸後期の勤皇家。名は秀実、通称は伊三郎、字は君蔵。灯油商福田又右衛門正栄の4男、祖母から祖先が蒲生氏と聞き、蒲生を名乗る。下野国宇都宮生れ。寛政三奇人の一人。 _1790(寛政 2)高山彦九郎を慕い奥州石巻に赴いたが会えず、帰途仙台で林子平(シヘイ)を訪ねる。 _皇陵の荒廃を嘆き、近畿・伊勢・佐渡を踏査して1801『山陵志』を著す。北辺の海防を憂い、1807(文化 4)『不恤緯(フジュツイ)』を著し若年寄水野忠成に献上するが、幕府に喚問され静修庵に閑居。 (2)号を修静庵。 (16)以後静修庵に閑居して……。 (*)1801(寛政13,享和元)。 がんざん だいし【元三 大師】《ぐわんざん だいし》 ⇒良源 がんじん【鑑真】 688(朱鳥 2) 〜 763(天平宝字 7. 5. 6) ◇唐の高僧・奈良時代の帰化僧。唐大和上・過海大師・唐大和尚。日本律宗の開祖。 742(天平14)日本僧の請に応じて来日を志したが、海賊・暴風・失明などの五度の挫折ののちに来日。東大寺に戒壇を建て聖武天皇以下に授戒し、のち唐招提寺(トウショウダイジ)を賜った。 (4) 753(天平勝宝 5)来日。 (6) 754(天平勝宝 6)渡来。 ◆鑑真忌(唐招提寺開山忌)[旧暦 5. 6]。[ 6. 6]奈良市五条町(ゴジョウチョウ)の唐招提寺御影堂(ミエイドウ)で鑑真和上(ワジョウ)像が開帳される。 ぎおう【祇王(妓王)】《ぎおう》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇『平家物語』に登場する、京堀川の白拍子(シラビョウシ)。近江国祇王村生れ。父は平氏の家人江部九郎時久、母は閉(トジ)、妹は祇女(妓女)(ギジョ)。 _父の死後、母・妹とともに京都に出て白拍子となり、平清盛の寵愛を受ける。のち自分が推挙した白拍子の仏御前(ホトケゴセン)に清盛の寵愛が移り、21歳の時に母・妹とともに出家して嵯峨の往生院に隠れた。 ◎京都市右京区嵯峨にある祇王寺は、往生院の跡地を尼寺にしたと伝えられている。 ぎおんのにょうご【祇園 女御】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安後期の女房。出自は不明で、蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女ともいう。待賢門院璋子(タイケンモンイン・ショウシ)の養母。 _中宮藤原賢子なきあとの白河法皇の寵妃。法皇が胤(タネ;清盛)を宿したまま平忠盛に下賜したという。 ◎『平家物語』では平清盛の母と言われていたが、滋賀県の胡宮(コミヤ)神社の文書によれば清盛の生母は女御の妹とされ有力視されている。妹が清盛3歳のときに死亡したため女御がひきとり猶子(ユウシ)として養育したとある。 きしだ ぎんこう【岸田 吟香】《きしだ ぎんかう》 1833(天保 4. 4. 8) 〜 1905. 6. 7(明治38) ◇江戸幕末・明治期の新聞記者・企業家。本名は銀次。岸田劉生(リュウセイ)の父。美作(岡山県)生れ。 _江戸の林塾に学ぶ。J・C・ヘボン博士のもとで日本最初の和英辞書『和英語林集成』の編纂を助け、1867(慶応 3)上海で刊行。ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の「海外新聞」の刊行に協力。 _1873(明治 6)より東京日日新聞の記者となる。 _また、目薬「精キ水」を販売。訓盲院を開設。 _さらに日清貿易研究所・東亜同文会・同仁会を創設に尽力し、日中文化の交流に努める。 ぎじょ【祇女(妓女)】《ぎぢよ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇『平家物語』に登場する、京堀川の白拍子(シラビョウシ)。近江国祇王村生れ。父は平氏の家人江部九郎時久、母は閉(トジ)、姉は祇王(妓王)(ギオウ)。 _父の死後、母・姉とともに京都に出て白拍子となり、姉が平清盛の寵愛を受ける。のち姉が推挙した白拍子の仏御前(ホトケゴセン)に清盛の寵愛が移り、母・姉とともに出家して嵯峨の往生院に隠れた。 ◎京都市右京区嵯峨にある祇王寺は、往生院の跡地を尼寺にしたと伝えられている。 ぎにょ【祇女(妓女)】 ⇒祇女 ぎょうえん【行円】《ぎやうえん》 生年調査中 〜 没年調査中 ◇平安後期の僧。 _革堂(コウドウ)を開く。 _鹿皮をつけて民衆を教化し「革聖(カワヒジリ)」と呼ばれた。 ぎょうき【行基】《ぎやうき》 668[天智 7] 〜 749(天平21. 2. 2) ◇奈良時代の僧。俗姓は高志氏。 _早くから諸国を巡遊し、布教や池堤設置・寺院建立・道路開拓・橋梁架設など社会事業活動を行い行基菩薩と崇(アガ)められる。 717年、寺外の活動が僧尼令(ソウニリョウ)に反するため禁止される。しかし、 731(天平 3)政府は民間仏教を抑えきれず禁圧を弛(ユル)め、翌年から活動を再開、社会的信望を集める。 _のち聖武天皇の帰依を受けて、 743(天平15)東大寺大仏造営費の勧進(カンジン)に起用される。 745(天平17)大僧正位を、 749(天平21)大菩薩の称号を授かる。同年、菅原寺(スガワラデラ)で入滅。 _墓は生駒市の竹林寺(チクリンジ)。 (4)俗姓は高志氏。和泉の人。 (6)和泉国の人。百済の帰化人の末という。薬師寺で道昭,義淵らに学び,……。 (17)高志才智(コシノサイチ)(中国系の王仁<ワニ>の後裔<コウエイ>西文<カワチノフミ>[西書<フミ>]氏の分派)の長男として和泉(当時河内に属した)の堺に生まれ、母の蜂田古爾比売(ハチタノコヒメ)も中国系氏族。 _天武十一年(六八二)飛鳥寺で出家し、道昭に師事したらしく、……。 (*) 717(霊亀 3,養老元)、 682[天武10]。 ぎょうこう【尭孝(堯孝)】 1391(明徳 2) 〜 1455(享徳 4. 7. 5) ◇室町前期の歌人。歌僧頓阿(トンア)の孫の尭尋の子。晩年は法印権大僧都(ソウズ)。 ぎょくらん【玉瀾】 1727(享保12) 〜 1784(天明 4) ◇ 江戸中期の女流画家。名は町子。池大雅(タイガ)の妻。 ぐさい【救済】 1282(弘安 5) 〜 1376(永和 2. 3. 8) ◇鎌倉後期〜南北朝時代の連歌師。号は侍従房、通称は侍公。「きゅうせい(救済)」とも呼ぶ。 (5)生年は1282(弘安 5)、没日は1376(永和 2. 3. 8)。 (11)生年は1284(弘安 7)、没年は1378(永和 4)。 ぐれん しょー【グレン ショー】 1886.11.19(明治19) 〜 1961. 8.26(昭和36) ◇日本文学研究家。Glenn W. Shaw、俳号は尚紅連。 ぐんじ しげただ【郡司 成忠】 1860(万延元) 〜 1924(大正13) ◇海軍大尉・探検家。幸田露伴の兄。 _北方警備の重要性を説き、1893(明治26)報効義会を作り、白瀬矗(ノブ)ら予備兵50名と北千島の占守(シュムシュ)島に移住し北門の防備をするが島の者は白瀬を除く全員死亡。 _1896(明治29)再度上陸、開拓・漁業開発に従事。 _日露戦争ではカムチャツカで戦い捕えられ、ロシアの捕虜になる。 _戦後帰国し義勇艦隊を組織し海事・国防思想の普及に努めた。 _1908(明治41)沿海州水産組合長。 ぐんじ じろうまさ【群司 次郎正】 1905.11.27(明治38) 〜 1973. 1.10(昭和48) ◇小説家。本名は群司次郎。 げいあみ【芸阿弥(藝阿彌)】 1431(永享 3) 〜 1485(文明17.11. 2) ◇室町後期の画家。姓は中尾、号は学叟、法号は真芸(シンゲイ)。能阿弥(真能)の子、相阿弥(真相)の父。 _父の跡を継いで将軍足利義政に仕え、同朋衆(ドウボウシュウ)となり、書画・諸道具など唐物の目利(メキキ)をする。 _1480(文明12)弟子賢江祥啓に描き与えた『観瀑僧図』(根津美術館所蔵)が唯一の作品。 (2)生年は1431(永享 3)。同朋衆であったかどうか明らかではないが,……。 (4)生年は1431。足利義政の同朋衆の一人として、……。 (6)生年は1431?。父の跡を継いで将軍家の同朋(ドウボウ)衆となり,……。 (16)生年は1431(永享 3)。将軍近侍の同朋衆となり,……。 げんくろう よしつね【源九郎 義経】 ⇒源義経 げんこつ おしょう【拳骨 和尚】《げんこつ をしやう》 ⇒物外不遷 げんざんみ よりまさ【源三位 頼政】 ⇒源頼政 げんじ けいた【源氏 鶏太(源氏 鷄太)】 1912. 4.19(明治45) 〜 1985. 9.12(昭和60) ◇小説家。本名は田中富雄。富山市生れ。 _1930(昭和 5)県立富山商業卒業。同年、住友合資会社(本社)に入社。 _1934(昭和 9)「報知新聞」のユーモア小説募集に佳作入選。 _戦後、GHQの財閥解体指令により住友本社解散、残務整理担当。住友系の不動産会社総務部次長、1956(昭和31)退社。 げんしん【源信】 942(天慶 5) 〜 1017(寛仁元. 6.10) ◇平安中期の天台宗の僧侶。比叡山横川(ヨカワ)の恵心院に住んだので恵心僧都(エシンソウズ)ともいう。大和当麻(タイマ)の卜部(ウラベ)の出身。 _9歳で比叡山に入り、良源(リョウゲン)(慈恵<ジエ>大師)に師事。 _すぐれた和讃(ワサン)を多く作り、「和讃」の基盤を確立させた。『往生要集(オウジョウヨウシュウ)』を著し、彼以降浄土思想が盛んになり、浄土教の基礎となった。 ◆源信忌(恵心忌)[旧暦 6.10]。 げんだーぬ だーひんにぇに【ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ】 1926(大正15)ころ 〜 1984(昭和59) ◇ウィルタ文化研究者。日本名は北川源太郎。樺太生れのウィルタ(オロッコ)民族。 _日本軍に協力し、特務機関員として活動。 _太平洋戦争後、北海道に移住。北方少数民族の復権運動を行ない、ウィルタ文化資料館建設に尽力。 (*)1926(大正15,昭和元)。 ◎「オロッコ」は樺太などに住むツングース族の一支族。 げんのう【玄翁】《げんをう》 1329 〜 1400(応永 7) ◇南北朝時代の曹洞宗の僧。源翁とも。諱は心昭。越後の人。 _5歳で出家して諸方を歴遊、会津に示現寺を開く。 _鉄製の大形の槌で、下野(シモツケ)那須野の殺生石(セッショウセキ)を割って悪霊を除いたと伝えられ、「ゲンノウ」の語源となる。 (*)1329(嘉暦 4,元徳元)。 ごい らんしゅう【五井 蘭洲】 1697(元禄10) 〜 1762(宝暦12. 3.17) ◇江戸中期の儒学者(折衷学派)。 _中井甃庵(シュウアン)の懐徳堂の助教となる。 ごいちじょう てんのう【後一条 天皇】《ごいちでう てんわう》 1008(寛弘 5) 〜 1036(長元 9) ◇第68代の天皇。名は敦成(アツヒラ)。一条天皇の第2皇子、母は藤原彰子。 _在位は1016(長和 5)〜1036(長元 9)。 ごうかい【豪海】 生年不詳 〜 1599(慶長 4) ◇安土桃山時代の僧。 _川越の喜多院(キタイン)無量寿寺の第27世住職。 _1590年(天正18)天海(テンカイ)が師事。 ◎「天海」は指示をした後の改名。 ごうくら せんじん【郷倉 千靭】 1892. 3. 3(明治25) 〜 1975.10.25(昭和50) ◇画家。 ごうだ とく【郷田 悳】 1905. 5.25(明治38) 〜 1966. 7.18(昭和41) ◇劇作家。本名は前田徳太郎。 ごじょう よりもと【五条 頼元】《ごでう よりもと》 1290(正応 3) 〜 1367(<南>正平22,<北>貞治 6) ◇南北朝時代の武将。本姓は清原、号は宗性。大外記清原良枝の次男。 _1338年、南朝の征西将軍懐良(カネナガ)親王(後醍醐天皇の皇子)に従って西下、阿蘇氏と力を合わせ足利軍と戦い九州経略をなし、筑後の矢部を領する。 _1365(<南>正平20,<北>貞治 4)出家。 (*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)。 ごじょうのきさき【五条 后】《ごでうのきさき》 809(大同 4) 〜 871(貞観13) ◇仁明天皇の女御。名は順子(ノブコ)。藤原冬嗣(フユツグ)の娘、良房(ヨシフサ)の妹、文徳天皇の母。 _左京の五条東洞院に住む。 ごしらかわ てんのう【後白河 天皇】《ごしらかは てんわう》 1127(大治 2. 9.11) 〜 1192(建久 3. 3.13) ◇第77代天皇。名は雅仁(マサヒト)、法名は行真。鳥羽天皇の第4皇子、母は待賢門院璋子(ショウシ)(藤原公実の娘)。 _第75代崇徳(ストク)天皇の同母弟、第76代近衛(コノエ)天皇の異母兄。守仁(モリヒト)親王(第78代二条天皇)の父。 _1155(久寿 2. 7.)即位。この即位は美福門院が養う守仁親王への皇位継承を目的とするもので、崇徳上皇と対立する鳥羽法皇・美福門院・関白藤原忠通らの方策であった。 _1156(保元元. 7.)鳥羽上皇が亡くなると、崇徳上皇は忠通の弟藤原頼長とともに蜂起を計画するが、後白河天皇は機先を制し源義朝(ヨシトモ)・平清盛(キヨモリ)らの武士を送りこれを破る(保元の乱)。 _その後、藤原通憲(信西)を重用する。1158(保元 3. 8.)守仁親王に譲位し、その後5天皇34年にわたる院政を行う。 _1159(平治元.12.)清盛の留守をねらい藤原信頼・源義朝(ヨシトモ)らが藤原通憲(信西)を討つため挙兵、後白河上皇の御所三条殿を襲うが、清盛が帰洛し破れる(平治の乱)。 _1161年9月、建春門院(清盛の妻時子の妹滋子)との間に憲仁親王(高倉天皇)が生れる。1169(嘉応元. 6.)出家し、法名を行真とする。 _1177(安元 3. 6.)鹿ヶ谷の陰謀が発覚、法皇と平氏の関係が悪化し、11月院政を止められ鳥羽殿に幽閉される。1180(治承 4. 2.)高倉天皇が譲位し、清盛の娘中宮徳子が生んだ言仁(トキヒト)親王が安徳天皇として即位。 _同年4月、以仁王(モチヒトオウ)が平氏追討の令旨(リョウジ)を発し、5月源頼政とともに敗死。1181(治承 5. 1.)高倉上皇が亡くなり、清盛の要請で院政を再開する。同年閏2月、清盛が死去し、本格的に院政を始める。 _1183(寿永 2. 7.)源義仲(ヨシナカ)・源行家(ユキイエ)に平氏追討を命じ、8月安徳天皇の異母弟尊成(タカヒラ)親王を後鳥羽天皇に践祚させる。さらに義仲を討とうと鎌倉の源頼朝(ヨリトモ)と画策、11月幽閉される。1184(寿永 3. 1.)頼朝の命により弟源範頼(ノリヨリ)・源義経(ヨシツネ)が、義仲を破り法皇を保護する。 _法皇は頼朝との対抗から義経を優遇し、1185(文治元.10.)義経の要請に応じ頼朝追討の宣旨(センジ)を発する。頼朝にこの責任を追及され、上洛した北条時政に義経追捕を名目に守護・地頭の設置を公認させられる。 _1190(建久元.11.)上洛した頼朝に接見し、権大納言・近衛大将に任じる。巧みに政略を行い、源頼朝に「日本国第一之大天狗」と言わしめ、頼朝が征夷大将軍になるのは法皇没後の1192(建久 3. 7.)である。 _天皇即位:1155(久寿 2.10.26)、退位:1158(保元 3. 8.11)。 _院政開始:1158(保元 3. 8.11)、終了:1179(治承 3.11.20)。 (*)1161(永暦 2,応保元)。 ごせだ ほうりゅう【五姓田 芳柳】 1827(安政10. 2.) 〜 1892. 2. 1(明治25) ◇洋画家。渡辺幽香(ユウコウ)は娘。 ごだい ともあつ【五代 友厚】 1835(天保 6.12.26) 〜 1885. 9.25(明治18) ◇明治初期の実業家。通称は徳助・才助。薩摩藩士。 _1857(安政 4)藩の長崎派遣留学生となり、オランダ海軍士官から航海・砲術・測量を学ぶ。 _1859(安政 6)上海に密航し、藩船を購入。 _1863(文久 3)薩英戦争でイギリス艦に捕われるが脱走。 _1865(慶応元)藩留学生として寺島宗則・森有礼らとヨーロッパを視察し、翌年帰国して藩の貿易拡張に努力。 _明治維新後、1868(明治元)外国事務局権判事・大阪府判事となるが、1869(明治 2)官を辞す。 _のち実業界に転じ薩派政商として財界に活躍。大阪を中心に造船・紡績・鉱山・製藍・製銅・鉄道などの業を興す。 _住友の筆頭番頭広瀬宰平(サイヘイ)らと大阪堂島米商会所・大阪商法会議所(現:大阪商工会議所)・1878. 6.(明治11)大阪株式取引所などを創設し、大阪の経済的発展に貢献。 _また東京馬車鉄道会社・神戸桟橋会社などの創立にも活躍。 _1881(明治14)開拓使官有物払下事件を起こす。 ごだいいん まはしら【後醍院 真柱】《ごたいゐん まはしら》 1805(文化 2) 〜 1879. 6.13(明治12) ◇江戸幕末・明治維新期の国学者。鹿児島生れ。 _1839(天保10)江戸の平田篤胤に入門。1841(天保12)小番格後醍院良次の養子となる。1850(嘉永 3)薩摩藩内紛の「高崎崩れ」に連坐して謹慎、のち許される。1858(安政 5)藩校造士館訓導。 _1868(明治元)新政府に登用、皇学所御用掛・大学御用掛・教部大録を歴任。 ごだいご てんのう【後醍醐 天皇】《ごだいご てんわう》 1288(正応元.11. 2) 〜 1339(<南>延元 4. 8.16) ◇第96代の天皇。名は尊治(タカハル)。 _大覚寺統で後宇多(ゴウダ)天皇の第二皇子。母は花山院師継の娘(実は五辻忠継の娘)忠子(談天門院)。懐良(カネナガ)親王の父。 _1308(徳治 3. 9.)皇太子となる。1318(文保 2)即位。はじめ後宇多院政であったが、1321(元亨元.12)ようやく天皇親政となる。 _つぎに鎌倉幕府から政権の回復を企てて1324(正中元. 9.)正中の変(未然に発覚)、1331〜1333(元弘元〜元弘 3)元弘の変を経て、足利尊氏らの内応を得て鎌倉幕府(北条氏)を滅ぼし、建武の中興(建武の新政)を行ったが、専制的な政治であったため反発を招き失敗。 _笠置山の戦に敗れ、1332(元弘 2. 3.)隠岐の島に配流される。その途中、美作の院庄に宿泊した際、児島高徳(タカノリ)が桜の樹に「天莫空勾践、時非無范蠡」に書き付け、天皇を救う忠臣がいることを伝えたという。翌年、隠岐を脱出し伯耆の船上山で名和長年(ナワ・ナガトシ)に迎えられる。 _足利尊氏の謀反により吉野に遷幸し南朝を樹立したが、失意のうちに病没。 _即位:1318(文保 2. 3.29)、退位:1339(<南>延元 4. 8.15)。 (16)即位は文保 2(1318) 3.29。 (17)文保二年(一三一八)二月二十六日、践祚、同三月二十一日即位した。 ごとう けいた【五島 慶太】《ごたう けいた》 1882(明治15) 〜 1959(昭和34) ◇大正・昭和期の実業家。五島昇(ノボル)の父。 _農商務省の嘱託を経て1913(大正 2)鉄道院に入り6年で退官。武蔵野電鉄常務取締役。1941(昭和16)相模鉄道・小田急電鉄・京浜電鉄などの社長。1944(昭和19)東条内閣の運輸通信相。 _太平洋戦争後は公職追放となる。 _1948(昭和23)大東急記念文庫を創設、1960. 4.18(昭和35)五島美術館を設立。 _1977(昭和52)東急電鉄会長。 ごとう しんぺい【後藤 新平】 1857. 7.24(安政 4. 6. 4) 〜 1929. 4.13(昭和 4) ◇明治・大正時代の政治家。伯爵。陸中塩釜村(現:岩手県水沢市)生れ。 _須賀川医学校卒業。 _内務省に入り衛生局長、1898(明治31)台湾総督府民政長官。のち初代満鉄総裁として植民地経営に業績をあげ、第二次桂内閣の逓相兼鉄道院総裁・内相・外相・東京市長などを歴任。 _大陸進出を鼓吹し、シベリア出兵論を説く。のち震災復興や日ソ国交回復に努力。 _1900(明治33)桂太郎の台湾協会専門学校(現:拓殖大学)創立に参画。 ◎第4代台湾総督児玉源太郎(陸軍)(1898〜1906)は「後藤(新平)は民政、石塚は法制、我輩は軍政」と評価した。 ◆墓は東京都港区の青山霊園。 ごとう すえお【後藤 末雄】 1886.10.25(明治19) 〜 1967.11.10(昭和42) ◇小説家・フランス文学者。東京生れ。東京大学仏文科卒業。慶応義塾大学教授。中国思想のフランスへの移入の研究など。 ごとう せいたろう【五島 清太郎】《ごたう せいたらう》 1867(慶応 3) 〜 1935(昭和10) ◇動物学者。山口県出身。 _東京帝国大学動物学科卒業。東京帝国大学教授・同大理学部長を歴任。 _寄生性吸虫類に関する研究により恩賜賞を受賞。 ごとう ちゅうがい【後藤 宙外】《ごとう ちうぐわい》 1866(慶応 2.12.23) 〜 1938. 6.12(昭和13) ◇小説家・評論家。本名は寅之助。羽後(現:秋田県仙北郡払田村田の尻)生れ。 _1894(明治27)東京専門学校(現:早稲田大学)文科卒業。 _「早稲田文学」の記者となり、小説『ありのすさび』・『闇のうつゝ』・『腐肉団』を発表。のち「新小説」を主宰し、自然主義隆盛の中で非自然主義を唱道。 _猪苗代湖畔の別邸で没。 _その他の著作は評論集『非自然主義』・『明治文壇回顧録』など。共編著『唾玉集』。 ごとう のぼる【五島 昇】 1916(大正 5) 〜 1989(平成元) ◇実業家。慶太(ケイタ)の子。 _1984. 5.11(昭和59)日商会頭に就任。 ごとう またべえ【後藤 又兵衛】《ごとう またべゑ》 1560(永禄 3) 〜 1615(慶長20. 5. 6) ◇安土桃山時代の武将。名は基次(モトツグ)。父は播磨別所氏の家臣後藤基国、基則(モトノリ)の父。 _黒田官兵衛孝高(ヨシタカ)(如水)に養育され、一時追放されたが孝高の子長政(ナガマサ)に召還される。 _1587(天正15)九州征伐・文禄慶長の役・1600(慶長 5)関ヶ原の戦に軍功を立て、大隈城主1万6千石の重臣となる。 _1606(慶長11)謀反の嫌疑により長政にうとんじられ主家を去り(、牢人となる。小倉の細川忠興(タダオキ)・広島の福島正則(マサノリ)・姫路の池田輝政(テルマサ)・津の藤堂高虎(トウドウ・タカトラ)らが仕官をすすめてきたが、旧主の長政により破談となる。 _1614(慶長19)豊臣方の牢人徴募の際、豊臣秀頼に招かれて大坂城に入る。冬の陣に佐竹義宣(ヨシノブ)を破る。夏の陣で道明寺(ドウミョウジ)方面に出撃し、伊達方と奮戦中に胸を撃ち抜かれて戦死。 ごとう みよこ【五島 美代子】 1898. 7.12(明治31) 〜 1978. 4.15(昭和53) ◇歌人。本名は美代。東京本郷生れ。1924(大正13)東京大学文学部聴講生として国文学を学ぶ。1925. 5.(大正14)歌人五島茂(石槫千亦<イシクレ・チマタ>の三男)と結婚。 ごとう もとつぐ【後藤 基次】 ⇒後藤又兵衛 ごとう やはん【後藤 夜半】 1895. 1.30(明治28) 〜 1976. 8.29(昭和51) ◇俳人。本名は潤(ジュン)。大阪曾根崎(ソネザキ)新地生れ。私立泊園書院卒業。 ごとう りしゅん【後藤 梨春】 1696(元禄 9) 〜 1771(明和 8. 4. 8) ◇江戸中期の本草学者。名は光生、号は梧桐庵。江戸の人。能登七尾の城主多田義国の5世の孫。 _田村藍水(ランスイ)に本草学を学ぶ。 _著書は『合監本草』(30巻)・『随観写真』(30巻)・『本草綱目合読筌』・『物品目録』・『和産目鉄』など。 ◎1765(明和 2)『紅毛談』(2巻)は江戸参府のオランダ人を宿舎に訪ね、聞いた風俗や産物を書いたものであったが、書中にオランダ文字25字を載せたことから絶版に処せられた。 ごとば じょうこう【後鳥羽 上皇】《ごとば じやうくわう》 ⇒後鳥羽天皇 ごとば てんのう【後鳥羽 天皇】《ごとば てんわう》 1180(治承 4. 7.14) 〜 1239(延応元. 2.22) ◇鎌倉時代の第82代天皇。諱は尊成(タカヒラ)、法名は良然、院号は隠岐院、諡号(シゴウ)は顕徳院のち後鳥羽院。高倉天皇の第4皇子。 _1198(建久 9)土御門(ツチミカド)天皇に譲位して院政を行なう。 _1221(承久 3)北条義時追討の院宣を下し鎌倉幕府打倒を試みたが失敗(承久の乱)。隠岐に流され、その地で没する。 _天皇在位:1183(寿永 2)〜1198(建久 9)。 ◎はじめ顕徳院と諡号されたが、怨霊を恐れられ、1242(仁治 3)後鳥羽院と改められた。 ごふかくさ てんのう【後深草 天皇】《ごふかくさ てんわう》 1243(寛元元. 6.10) 〜 1304(嘉元 2. 7.16) ◇第89代天皇。名は久仁(ヒサヒト)、通称は常盤井殿・富小路殿。後嵯峨天皇の皇子、母は大宮院(「女」偏+「吉」:補助2533〔_〕)子(西園寺実氏の娘)。 _1243年、親王。1246(寛元 4)四歳で即位。1259(正元元)後嵯峨上皇の意により皇太弟恒仁親王(亀山天皇)に譲位。北条時宗が後深草上皇の煕仁(ヒロヒト)親王を皇太子とし、1287(弘安10)即位(伏見天皇)と同時に院政を始める。 _即位、1246(寛元 4. 3.11)〜1259(正元元.11.26)。 _院政、1287(弘安10.10.21)〜1298(永仁 6. 7.22)。 (2)後嵯峨天皇の第3皇子,……。 (4)後嵯峨天皇の第四皇子。 (16)後嵯峨天皇の第3皇子. (*)1243(仁治 4,寛元元)。 ごふかくさいん べんのないし【後深草院 弁内侍】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉時代の日記作者。藤原信実(ノブザネ)の娘。後深草院(第89代天皇)に仕える。 ごふかくさいんのにじょう【後深草院 二条】 1258(正嘉 2) 〜 没年不詳 ◇鎌倉後期の日記作者。中院(ナカノイン)大納言久我雅忠(マサタダ)の娘。後深草院(第89代天皇)に仕えて二条と称した。三条と呼ばれたこともある。 ごみ こうすけ【五味 康祐】 1921.12.20(大正10) 〜 1980. 4. 1(昭和55) ◇昭和後半の小説家。本名は康祐(ヤススケ)、通称は康祐(コウスケ)。大阪難波生れ。早稲田大学英文科中退。 _1953(昭和28)短編小説『喪神』で芥川賞を受賞。剣豪小説『柳生武芸帳』が有名。 (1)生年は1921.12.20(大正11)(?)。 (3)生年は1921. 2.20(大正10)。 (5)生年は1921.12.20(大正10)。 (9)生年は1921.12.20(大正10)。 (11)生年は1921.12.20(大正10)。 (11)生年は1921(大正10)。 ごみ やすすけ【五味 康祐】 ⇒五味康祐 ごみ やすよし【五味 保義】 1901. 8.31(明治34) 〜 1982. 5.27(昭和57) ◇歌人。長野県生れ。京都大学国文科卒業。 ごみずのお てんのう【後水尾 天皇】《ごみづのを てんわう》 1596 〜 1680(延宝 8. 8.19) ◇江戸前期の第108代天皇。名は政仁(コトヒト)、幼名は三宮、俳名は玉露。後陽成天皇の第3皇子、母は近衛前久の娘中和門院藤原前子。院政は明正・後光明・後西・霊元の4代の51年間に及ぶ。 _1600(慶長 5)親王宣下。1610(慶長15)元服。1611(慶長16. 4.12)後陽成天皇の後を受けて即位。1620(元和 6)将軍徳川秀忠の娘和子を女御とする。1624年、和子皇后宣下して中宮になる。「禁中並公家諸法度(ショハット)」や皇后冊立・紫衣事件(シエジケン)など徳川氏にたいする不満から、1629(寛永 6.11. 8)中宮和子との興子(オキコ)内親王(明正天皇,女帝)に譲位、院政を行う。 _徳川家光は上皇のために京都修学院離宮に別荘を造営。 _在位、1611〜1629(慶長16. 4.12〜寛永 6.11. 8)。 _院政、1629〜1680(寛永 6.11. 8〜延宝 8. 8.19)。 (*)1596(文禄 5,慶長元)、1624(元和10,寛永元)。 ごむらかみ てんのう【後村上 天皇】 1328(嘉暦 3) 〜 1368(<南>正平23,<北>応安元. 3.11) ◇第97代天皇(南朝)。諱は義良(ノリナガ)。後醍醐天皇の皇子。 _即位:1339(<南>延元 4,<北>暦応 2.10. 5)、退位(死亡):1368(<南>正平23,<北>応安元. 3.11)。 ごれいぜい てんのう【後冷泉 天皇】 1025(万寿 2) 〜 1068(治暦 4) ◇第70代の天皇。名は親仁(チカヒト)。後朱雀天皇の第1皇子。 _1045(寛徳 2)即位、在位23年。 ごんだ なおすけ【権田 直助】《ごんだ なほすけ》 1809(文化 6) 〜 1887. 6. 8(明治20) ◇江戸幕末・明治初期の国学者・医者・神道家。号は名越舎(ナゴシノヤ)。武蔵国入間郡(埼玉県)生れ。医者権田直教(ナオノリ)の子。 _19歳で江戸に出て、幕府医官野間広春院に医学を、安積艮斎(アサカ・ゴンサイ)に儒学を学び、帰郷して医者を開業。 _1837(天保 8)平田篤胤に入門、神道を基礎とした皇朝医学を唱える。 _1862(文久 2)上京して尊皇討幕に奔走。1867(慶応 3)西郷隆盛の意を受けて相良総三らとともに薩摩藩邸焼き打ちに関与。 _1869(明治 2)刑法官監察使・大学中博士・医道御用掛。1871(明治 4. 3.)国事犯嫌疑により矢野玄道(ハルミチ)・角田忠行(タダユキ)・丸山作楽(サクラ)らとともに捕縛され、権田は金沢藩邸に監禁。 _1873(明治 6)相模国大山阿夫利神社祠官。1882(明治15)皇典講究所教授。 ごんもり そういち【権守 操一】 1908.11. 2(明治41) 〜 1972. 6.20(昭和47) ◇フランス文学者。