いっぺん【一遍】 1239 〜 1289(正応 2. 8.23) ◇鎌倉中期の僧。時宗(ジシュウ)の開祖。幼名は松寿丸、諱(イミナ)は智真(チシン)、通称は遊行上人(ユギョウショウニン)・捨聖(ステヒジリ)、諡号(シゴウ)は円照大師・証誠大師。伊予国風早郡河野郷別府の河野七郎通広入道如仏の子。道後の宝厳寺(現:松山市道後湯月町)生れ。 _1248(宝治 2)母と死別して天台宗継教寺で出家し、隋縁と名乗る。1251(建長 3)九州に赴き、聖達(ショウダツ)(法然の門弟証空の弟子)・華台(ケダイ)に師事し、智真と改名。 _1263(弘長 3)父が亡くなり、還俗して家督を継ぎ武士となる。 _1271(文永 8)再び出家し信濃国善光寺に参籠。1274(文永11. 2. 8)紀伊国熊野に参籠し霊験を得て、念仏弘通の大願を発し、勧進帳・念仏札を携え諸国遊行(ユギョウ)の途につく。このときは妻と娘・従者を連れている。 _一遍と改名し、単独で遊行。1277(建治 3)他阿(タア)が入門、同行者となる。中国地方・京都・信州・奥州と遊行、従者も増えて時衆と呼ばれる。1279(弘安 2)信濃国佐久郡伴野(トモノ)で念仏踊(ネンブツオドリ)を民衆に勧めた。 _兵庫の観音堂で没する。 (*)1239(暦仁 2,延応元)。 ◆遊行忌(一遍忌)[旧暦 8.23]。 ◆墓所は神戸市真光寺。 ◎『絵詞伝』は前4巻が一遍上人、後6巻が他阿の事績に当てられている。 いで だいすい【井出 台水】 1865(慶応元. 4. 5) 〜 没年不詳 ◇陸軍主計中将・俳人。本名は治、別号は彭洋。 いで はっせい【井出 八井】 1887. 1.29(明治20) 〜 1940. 9.27(昭和15) ◇歌人。本名は重儀(シゲノリ)。 いでみつ さぞう【出光 佐三】 1885(明治18) 〜 1981(昭和56) ◇昭和期の実業家。福岡県生れ。 _1940(昭和15)出光興産を設立、1966(昭和41)会長。 _貴族院議員。出光美術館を開設。 いど れいざん【井土 霊山】 1855(安政 2) 〜 1935. 7.22(昭和10) ◇漢詩人。名は経重、字は子常、号は霊山。 いとう いっとうさい【伊東 一刀斎】《いとう いつたうさい》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸初期の剣客・剣法一刀流の祖。名は景久、通称は弥五郎。伊豆国伊東の人。 _鐘巻自斎に神蔭流剣法を学び、一刀流を創始。門弟に神子上(ミコガミ)典膳(小野忠明)らがいる。 (2)伊東一刀斎。江戸初期の剣客。生没年不詳。一説に1560〜1628(永禄 3〜寛永 5),また1632(寛永 9)に90余歳とも。 (4)伊東一刀斎。江戸初期の剣客。生没年未詳。 (6)伊藤一刀斎。1588年没とも,江戸初期に没ともいう。 (19)伊東一刀斎(伊藤とも)。江戸初期の剣客。生没年未詳。 いとう いっとうさい【伊藤 一刀斎】《いとう いつたうさい》 ⇒伊東一刀斎 いとう いへえ【伊藤 伊兵衛】 1675(延宝 3)頃 〜 1757(宝暦 7) ◇江戸時代の植木屋。江戸の北の染井生れ。当時の園芸を図説した著作を多数残す。 いとう うしろう【伊藤 卯四郎】 1894(明治27) 〜 1974(昭和49) ◇大正・昭和期の労働運動家・政治家。長崎県生れ。 _民社党副委員長。 いとう えいのすけ【伊藤 永之介】 1903.11.21(明治36) 〜 1959. 7.26(昭和34) ◇小説家。本名は栄之助。秋田市西根小屋(ニシネゴヤ)末町生れ。 _「文芸戦線」同人。社会主義的な農民文学者として東北農村の生活を描く。 _作品は『梟』・『鴉』・『鶯』・『警察日記』など。 (1)誕生日は11. 2。 (3)誕生日は11.21。 (5)誕生日は11.21。 (8)誕生日は11. 2。 (11)誕生日は11.21。 (13)誕生日は11.21。 いとう おうじ【伊藤 鴎二(鴎:「區」偏+「鳥」:補助7631〔_〕)】 1891. 4.23(明治24) 〜 1968.12.30(昭和43) ◇俳人。本名は秀次(ヒデジ)、前号は花酔。 いとう おとじろう【伊藤 音次郎】 1894. 5.17(明治27) 〜 1953. 2. 6(昭和28) ◇歌人。 いとう かんぎょ【伊藤 観魚】 1877.10.10(明治10) 〜 1969. 2.10(昭和44) ◇俳人・画家・書家。本名は(「金」偏+「圭」:補助6788〔_〕)次郎。 いとう きくぞう【伊藤 幾久造】 1901(明治34) 〜 1985(昭和60) ◇挿絵画家。東京生れ。伊東深水(シンスイ)の画塾に学ぶ。 いとう きさく【伊藤 熹朔】 1899. 8. 1(明治32) 〜 1967. 3.31(昭和42) ◇大正・昭和時代の舞台美術家。東京生れ。伊藤道郎(ミチオ)の弟、千田是也(コレヤ)の兄。東京美術学校卒。 _土方与志(ヒジカタ・ヨシ)の舞台装置研究所の同人。1924(大正13)築地小劇場・俳優座などの舞台装置を担当。春陽会に舞台美術部を創設。 (2)没年は1966(昭和41)。 (19)没年は1967。 いとう きちのすけ【伊藤 吉之助】 1885(明治18) 〜 1961(昭和36) ◇昭和時代の哲学者。山形県生れ。 いとう きねたろう【伊東 甲子太郎】 生年不詳 〜 1867(慶応 3) ◇江戸幕末の新撰組隊士。常陸国志筑藩士。 _1918(大正 7)贈従五位。 いとう ぎんげつ【伊藤 銀月】 1871(明治 4.12.21) 〜 没年不詳 ◇評論家・小説家。本名は銀二。 (8)生没年は1871(明治 4.10.21)〜1944. 1. 4(昭和19)。 いとう きんり【伊藤 錦里】 1710(宝永 7) 〜 1772 ◇江戸中期の儒学者。伊藤龍洲(リョウシュウ)の長男、江村北海(エムラ・ホッカイ)・清田(「人」偏+「膽」-「月」:補助1845〔_〕)叟の兄。 (*)1772(明和 9,安永元)。 いとう けいすけ【伊藤 圭介】 1803(享和 3) 〜 1901(明治34) ◇江戸幕末・明治期の植物学者。尾張藩名古屋生れ。医師西山玄道の次男、伊藤家の嗣子。 _長崎に遊学、シーボルトに学ぶ。リンネの植物分類法を抄訳し紹介(『泰西本草名疏』)。1877(明治10)東京大学員外教授、1881(明治14)教授。1888(明治21)日本最初の理学博士。男爵。 いとう げっそう【伊東 月草】 1899. 2.19(明治32) 〜 1946. 4.12(昭和21) ◇俳人。本名は秀治(ヒデハル)。 いとう けん【井東 憲】 1895. 8.27(明治28) 〜 1945(昭和20) ◇小説家・評論家。本姓は伊藤。静岡県生れ。 いとう げんぼく【伊東 玄朴】 1800(寛政12) 〜 1871(明治 4) ◇江戸末期の蘭医。名は淵、号は沖斎・長斎。肥前の農家に生れる。 _長崎に遊学、シーボルトに学ぶ。1828(文政11)江戸で開業。1831(天保 2)佐賀藩医。藩主鍋島侯に勧めてオランダから牛痘苗を取り寄せ接種を行う。1857(安政 4)江戸に大槻俊斎(シュンサイ)・戸塚静海・箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)ら江戸の医師80余名と協力し、神田お玉ヶ池に種痘館を開く。1858(安政 5)幕府の奥医師。1860年、種痘館が幕府から公認され種痘所と改称、翌年さらに西洋医学所と改称し幕府から取締に任命。 (2)'56(安政3)江戸の蘭方医50余名を語らって神田お玉ヶ池に種痘所を設けた(のちこれは幕府に移管され,東大医学部の前身の西洋医学所となる)。 (4)一八五七年江戸に種痘所を開き……。 (6)「種痘所」の項:1858年神田お玉が池の川路聖謨(トシアキラ)の拝領地に設立……。 (19)一八五八年(安政五)江戸に幕府の種痘所を開き……。 (*)1860(安政 7,万延元)。 いとう こうぎさい【伊藤 好義斎】 1658 〜 1728(享保13) ◇江戸中期の儒学者。名は儀、字は邦達。 _京都に出て伊藤仁斎に古学を学び、のち朱子学に転じる。 (*)1658(明暦 4,万治元)。 いとう こだゆう【伊藤 小太夫(2代)】 生年不詳 〜 1689(元禄 2) ◇江戸時代の歌舞伎俳優。女形の創始といわれる。 いとう さきお【伊藤 佐喜雄】 1910. 8. 3(明治43) 〜 1971.10.17(昭和46) ◇小説家。島根県生れ。大阪高校中退。伊沢蘭奢(イザワ・ランジャ)の実子。 いとう さちお【伊藤 左千夫】《いとう さちを》 1864. 9.18(元治元. 8.18) 〜 1913. 7.30(大正 2) ◇歌人・小説家。本名は幸次郎、号は春園・無一塵庵(ムイチジンアン)主人・四壁道人・夾竹桃書屋主人(キョウチクトウショオクシュジン)・楽叟・唯真閣主人・馬酔木山人・茅堂。上総国武射(ムシャ)郡成東(ナルトウ)生れ。 _1900(明治33)正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会の機関誌「馬酔木(アシビ)」・「アララギ」などを発刊。 _脳溢血により亀戸(カメイド)の自宅で死去。 _小説『野菊の墓』が有名。 (2)本名幸次郎。 (3)唯真閣主人。 (5)唯心閣主人。 (8)出生時の戸籍は幸次郎であったが、養子縁組みした川島家から復籍したさいに幸治郎と変わっている。ほかに幸二郎・孝次郎・孝二郎・幸郎とも書いた。 _別号は機関誌「馬酔木」にあしび山人・阿志微・茅堂・楽尊・楽叟・無一塵庵主人・無一塵・無一庵主人・塵無・無庵・四壁道人・四壁居・死癖道人・四碧生・釜持。 _「馬酔木」以外は茅のや楽人・謀堂・天童・黒天童・黒天・楽焼道人・能牟古山人・ノンコ・阿坐化理朝臣巨口(アザケリノアサミオホクチ)。 _文学事典などに示される「唯真閣主人」「夾竹桃書屋主人」は、主人を付した書名の例は見当たらないようである。 (11)唯心閣主人。 (13)別号は正岡子規に師事する前に春園(「はるその」後に「しゅんえん」)、また茶の湯を愛し無一塵庵主人、唯真閣主人、四壁道人等を用いた。……千葉県山武郡成東町殿台の農家伊藤良作の四男として生まれ、……。 ◆左千夫忌[ 7.30]。 ◎門下は島木赤彦、斎藤茂吉ら。 いとう さぶろう【伊東 三郎】 1902.11.16(明治35) 〜 1969. 3. 7(昭和44) ◇大正・昭和期の農民運動家・エスペランチスト。本名は磯崎巌。筆名は伊東三郎・伊井迂(ウ)。青山学院中退。 いとう さんぎょう【伊藤 参行】 1745(延享 2) 〜 1809(文化 6) ◇江戸中・後期の修行者・富士講行者の指導者(身禄派)。名は六王・伊兵衛。江戸の彫刻師。 (+)『岩波講座 日本歴史15 近代[2]』  岩波書店  1962年 7月28日第1刷発行 _生年は1746。 いとう しずお【伊東 静雄(伊東 靜雄)】《いとう しづを》 1906.12.10(明治39) 〜 1953. 3.12(昭和28) ◇昭和前期の詩人。長崎県北高来郡諌早(イサハヤ)町生れ。 _京都帝国大学国文科卒業。 _「コギト」・「日本浪曼派」・「四季」同人。 _肺結核により死去。 _詩集『わがひとに与ふる哀歌』・『夏花』など。 ◆菜の花忌[ 3.12]季節の花にちなむ。[三月最終日曜日]長崎県諌早市の諌早公園で追悼行事。 いとう じゃくちゅう【伊藤 若冲】 1716 〜 1800(寛政12. 9.10) ◇江戸中期の画家。名は汝鈞(ジョキン)、号は斗米庵(トベイアン)。京都洛中の高倉錦小路にある青物問屋「桝屋」の主人伊藤源左衛門の長男。 _23歳で家業を継ぎ画家との二重生活を送り、40歳で弟に家督を譲る。 _動植物を描き、特に『群鶏図』などニワトリを得意とした。 (*)1716(正徳 6,享保元)。 (2)青物問屋〈桝屋〉の主人……。 いとう しゅんぽ【伊藤 春畝】 ⇒伊藤博文 いとう しょうう【伊藤 松宇】 1859(安政 6.10.18) 〜 1943. 3.25(昭和18) ◇俳人・俳諧研究家。本名は半次郎、別号は雪操居。長野県郡上丸子村生れ。 _俳句団体「椎の友」を結成し、雑誌「俳諧」を創刊。 いとう しょうしん【伊藤 証信】 1876. 9.10(明治 9) 〜 1963. 1.14(昭和38) ◇明治〜昭和時代の社会運動家・宗教家(仏教)。幼名は清九郎。三重県生れ。真宗大学本科卒業、研究科中退。 (2)生年は1876(明治 9)、没年は1963(昭和38)。 (5)生年は1876. 9.10(明治 9)、没年は1963. 1.14(昭和38)。 (11)生年不詳、没年1928(昭和 3)。 いとう しろう【伊藤 至郎】 1899.11. 3(明治32) 〜 1955.10.17(昭和30) ◇評論家。 いとう じんさい【伊藤 仁斎】 1627(寛永 4. 7.20) 〜 1705(宝永 2. 3.12) ◇江戸前期の儒学(古学)者。古学派の始祖。名は維貞(コレサダ)のち維(「木」偏+「貞」:補助3644〔_〕)(コレサダ)、幼名は源七、字は源吉のち源佐(ゲンスケ)、別号は古義堂・棠隠(トウイン)、諡(オクリナ)は古学先生。京都堀川丸太町上ルの材木商長沢屋七右衛門長勝の子、母は連歌師法眼里村玄仲の娘那倍(ナベ)。伊藤東涯(トウガイ)・伊藤梅宇(バイウ)・伊藤蘭嵎(ラングウ)の父。 _初め朱子学を修めるが、「理先気後説」を批判し、孔孟の古義にそむくとしてしりぞける。 _1662(寛文 2)京都の堀川に家塾古義堂を開き、門弟三千人を集める。 _著書は『論語古義』・『孟子古義』・『語孟字義』・『童子問』など。 いとう しんじ【伊藤 信二】 1907.10.30(明治40) 〜 1932. 8.14(昭和 7) ◇詩人・小説家。 いとう しんすい【伊東 深水】 1898(明治31) 〜 1972(昭和47) ◇大正・昭和時代の日本画家・挿絵画家。本名は一(ハジメ)。東京深川生れ。 _14歳で鏑木清方(カブラギ・キヨタカ)に師事。1915(大正 4)文展に初入選。1950(昭和25)児玉希望と日月社を結成。 いとう しんぞう【伊藤 慎蔵】《いとう しんざう》 1826(文政 9) 〜 1880(明治13) ◇江戸幕末の洋学者。長門国萩の人。 _越前国大野藩の洋学館長 いとう しんとく【伊藤 信徳】 1633(寛永10) 〜 1698(元禄11) ◇江戸前期の俳人。京都の富商。 _松永貞徳の門人、のち談林派。 いとう すけちか【伊東 祐親】 生年不詳 〜 1182 ◇平安末期の武将。河津二郎と称する。工藤氏の一族。伊藤祐家の子、河津三郎祐重(スケシゲ)の父、曽我兄弟の祖父。 _平氏に仕え、伊豆配流の源頼朝(ヨリトミ)を預かり助ける。頼朝が祐親の娘と通じたので頼朝殺害を図り、1180(治承 4)石橋山に挙兵した頼朝を追撃。のち捕われて、娘婿の三浦義澄(ヨシズミ)の仲介で許され、恥じて自刃。 (*)1182(養和 2,寿永元)。 いとう すけとき【伊東 祐時】 1185 〜 1252(建長 4) ◇鎌倉前期の武将。藤原南家河津流工藤祐経の長男。 _幼少から源頼朝に仕える。 (*)1185(元暦 2,文治元)。 いとう すけます【伊東 祐益】 ⇒伊東マンショ いとう すけゆき【伊東 祐亨】 1843(天保14) 〜 1914(大正 3) ◇海軍軍人。海軍大将・元帥。鹿児島の人。 _日清戦争の連合艦隊司令長官。 _日露戦争の海軍軍令部長。 いとう せい【伊藤 整】 1905. 1.16(明治38) 〜 1969.11.15(昭和44) ◇小説家・評論家・翻訳家。本名は整(ヒトシ)。北海道松前郡炭焼沢村生れ。 _小樽高等商業学校を経て、1931. 3.(昭和 6)東京商大を中退。 _ロレンスの翻訳書『チャタレイ夫人の恋人』が1950(昭和25)猥褻(ワイセツ)文書販売罪で起訴され、1957(昭和32)有罪が確定。 _著書は『小説の方法』・『日本文壇史』、小説『鳴海仙吉』・『火の鳥』など。 (1)誕生日は 1.16。 (3)誕生日は 1.25。 (5)誕生日は 1.16。 (8)誕生日は 1.16。 (11)誕生日は 1.16。 (13)誕生日は 1.25。北海道松前郡白神村に一二子長男として生。 いとう せいいち【伊藤 整一】 1890(明治23) 〜 1945(昭和20) ◇昭和前期の海軍軍人。福岡県生れ。 _1945(昭和20)沖縄へ大和で突入をはかり戦死、大将に昇進。 いとう せんぞう【伊東 専三】 1850(嘉永 3) 〜 1914.10.16(大正 3) ◇新聞記者・戯作者。別称は橋塘(キョウトウ)。江戸生れ。 いとう そうじゅうろう【伊藤 宗十郎】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇戦国末・安土桃山時代の豪商。伊藤松坂屋の祖。 _1572(元亀 3)織田信長から朱印状を与えられる。 いとう だいすけ【伊藤 大輔】 1898.10.13(明治31) 〜 1981. 7.19(昭和56) ◇大正・昭和時代の映画脚本家・監督。愛媛県宇和島生れ。 _松山中学中退。 _1920(大正 9)松竹キネマ俳優学校に入学し、のち松竹蒲田撮影所に入社して脚本部員。1922(大正11)『山の線路番』・1923(大正12)『女と海賊』などの脚本を執筆。 _1923(大正12)帝国キネマ演芸に移り、1924(大正13)『酒中日記』で初監督。 _1926(大正15)日活に移籍。 _日本映画草創期から主に時代劇の大岡政談(オオオカセイダン)や丹下左膳(タンゲ・サゼン)のシリーズなどを大衆娯楽映画を量産する。 _代表作1927(昭和 2)『忠次旅日記』三部作・1927(昭和 2)『下郎』・1929(昭和 4)『斬人斬馬剣(ザンジンザンバケン)』・1948(昭和23)『王将』・1955(昭和30)『下郎の首』・1961(昭和36)『反逆児』・1965(昭和40)『徳川家康』など。 いとう たかまろ【伊藤 高麿】 1893. 9. 5(明治26) 〜 1967.10.30(昭和42) ◇小説家・児童文学者・翻訳家。 [1]いとう たけお【伊藤 武雄】 1895. 4. 9(明治28) 〜 1971. 2.24(昭和46) ◇ドイツ文学者。 (*)同名で同じドイツ文学者(1909. 1.11〜)がいる。 [2]いとう たけお【伊藤 武雄】 1895(明治28) 〜 1984(昭和59) ◇大正・昭和時代の中国研究家。愛媛県生れ。東京大学卒業。 _1920(大正 9)満鉄に入社。1943(昭和18)満鉄事件で憲兵隊に留置される。 _日中友好協会副会長・中国研究所理事長。 いとう たんあん【伊藤 坦庵】 1623(元和 9) 〜 1708(宝永 5) ◇江戸初期の儒学(朱子学)者。名は宗恕、字は元務。京都の人。伊藤龍洲の養父。 _初め曲直瀬玄朔(マナセ・ゲンサク)に学び医学を修め、のち那波活所に朱子学を学ぶ。越前国福井藩主松平光通に仕える。 _師の江村専斎の談話を筆記した『老人雑話』は、近世社会の様相を伝えている。 いとう ちゆう【伊藤 痴遊(初代)】《いとう ちいう》 1867(慶応 3. 2.15) 〜 1938. 9.25(昭和13) ◇明治〜昭和初期の政治家・講釈師。本名は仁太郎(ニタロウ)、号は双木舎痴遊。横浜生れ。 _15歳で自由党に入党。1883(明治16)政治演説の禁止令が出たため政治活動の手段として政治講談を始める。1892(明治25)双木舎痴遊と名乗り、「新講談」と称して政界の裏面に通じた政治講談で活躍。 _1928(昭和 3)第1回普通選挙より当選2回。 _収集した蔵書・新聞資料は「痴遊文庫」としてNHKに移管されている。 いとう ちゅうた【伊東 忠太】 1867(慶応 3) 〜 1954(昭和29) ◇明治〜昭和前期の建築学者。米沢市生れ。東京大学建築学科卒業。 _日本・東洋の古来の建築を研究。雲崗石窟を紹介。東京帝国大学・早稲田大学教授。1943(昭和18)文化勲章を受章。 _平安神宮・明治神宮神殿・震災記念堂・筑地本願寺などを設計。 _著書は『法隆寺建築論』・『伊東忠太建築文献』など。 いとう ちゅうべえ【伊藤 忠兵衛】 1842(天保13) 〜 1903(明治36) ◇明治時代の実業家。伊藤忠・丸紅の祖。近江(滋賀県)生れ。 いとう ていすけ【伊藤 貞助】 1901. 9.30(明治34) 〜 1947. 3. 7(昭和22) ◇劇作家。筆名に佐分武(サブ・タケシ)がある。茨城県生れ。東洋大学文学科卒業。長塚節(タカシ)の従弟。 いとう でんしち【伊藤 伝七】 1853(嘉永 6) 〜 1924(大正13) ◇明治・大正時代の実業家。 _1916(大正 5)東洋紡績社長。 いとう とうがい【伊藤 東涯】 1670(寛文10) 〜 1736(元文元. 7.17) ◇江戸中期の漢学(古学)者。名は長胤(ナガタネ)、字は原蔵、別号は慥々斎、諡(オクリナ)は紹述先生。伊藤仁斎(ジンサイ)の長子、母は浅野氏の医官緒方元安の娘嘉那。伊藤梅宇(バイウ)の異母兄・伊藤蘭嵎(ラングウ)の兄。京都の人。 _中国の語学や経済・故実・制度に精通し、古義堂を継ぎ家業を継承発展せしめ、仁斎の学問を大成した。 _著書は『制度通』・『操觚字訣』・『古今学変』など。 (2)(名)長胤,源蔵,別号は慥々斎。 いとう ながたね【伊藤 長胤】 ⇒伊藤東涯 いとう のえ【伊藤 野枝】 1895. 1.21(明治28) 〜 1923. 9.16(大正12) ◇社会運動家・評論家。本名はノヱ。福岡県生れ。上野女学校卒業。 _17歳で青踏社員となり、1913(大正 2)20歳で「平塚らいてう」のあとを引き継ぎ「青踏」の主幹。末松福太郎つぎに辻潤を経て、のち1916(大正 5)大杉栄と同棲、無政府主義の思想運動の支柱となる。 _1923(大正12)関東大震災に際して大杉栄らとともに憲兵大尉甘粕(アマカス)正彦に虐殺される。 (1)本名は「ノエ」。 (3)本名は「ヤエ」。 (5)本名は「ノヱ」。 (9)本名は「ノヱ」。 (11)本名は「ヤエ」。 いとう ばいう【伊藤 梅宇】 1683(天和 3) 〜 1736 ◇江戸中期の儒学者。名は長英、字は重蔵。伊藤仁斎(ジンサイ)の次子、伊藤東涯(トウガイ)の異母弟・伊藤蘭嵎(ラングウ)兄。福山侯の臣。 _著書は『見聞談叢』など。 (19)没年は1745。 (*)1736(享保21,元文元)。 いとう ひとし【伊藤 整】 ⇒伊藤整 いとう ひろぶみ【伊藤 博文】 1841(天保12. 9. 2) 〜 1909.10.26(明治42) ◇明治時代の政治家。初名は利助のち俊輔、諱は博文、号は春畝(シュンポ)(俊輔と同音)・滄浪閣(ソウロウカク)主人、今太閤と呼ばれる。周防の人。公爵。 _萩に移り松下村塾に学び、討幕運動に参加。 _明治維新後、次第に藩閥政権の中心となる。 _帝国憲法の立案者。内閣制度を設置して1885.12.(明治18)初代内閣総理大臣(四度組閣)。枢密院を設置して1888. 4.(明治21)初代枢密院議長。1905(明治38)初代韓国統監。日清戦争の講和全権大使。1907. 8. 1(明治40)韓国軍が日本軍と衝突、西園寺内閣に経費増加要求。 _初代貴族院議長・立憲政友会総裁を歴任。 _ハルビン駅頭で朝鮮独立運動家の安重根に狙撃され死去。 _第1次組閣:1885.12.22(明治18)、総辞職:1888. 4.30(明治21)、第2次組閣:1892. 8. 8(明治25)、総辞職:1896. 9.18(明治29)、第3次組閣:1898. 1.12(明治31)、総辞職:1898. 6.30(明治31)、第4次組閣:1900.10.19(明治33)、総辞職:1901. 6. 2(明治34)。 ◎博文は当初、日韓併合によって韓国の負債を引き受け、かつ巨額の経費を用いて統治することより、韓国の産業を隆盛させて国力をつけさせ、韓国人の国防によって日本の安全を図ろうとしていた。 ◎安重根は、1910. 2.26(明治43)旅順監獄(刑務所)で処刑。 _日露戦争宣戦の詔勅に「韓国の独立を守る」とあることから、安重根は「日本天皇陛下および韓国皇帝陛下に忠義を尽くす」ため殺害に及んだと述べている。 いとう まさたけ【伊藤 政武】 1676(延宝 4) 〜 1757(宝暦 7.10. 2) ◇江戸中期の園芸家。四代目伊兵衛、号は樹仙(ジュセン)。武州染井村(現:豊島区駒込6〜7丁目)生れ。伊藤三之丞の子。 _将軍徳川吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理。 _深山楓(ミヤマカエデ)に舶来の楓の接ぎ木に成功。 _著書『草花絵前集』・『増補地錦抄(ジキンショウ)』・『広益地錦抄』・『地錦抄附録』。 ◆墓は東京都豊島区駒込6丁目の西福寺。 ◎伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、染井村近くの伊勢津藩藤堂家下屋敷の出入り植木屋から江戸第一の種苗商になり、その種苗目録を『地錦抄』いった。 いとう まつお【伊藤 松雄】 1895. 1.13(明治28) 〜 1947. 8. 5(昭和22) ◇劇作家・小説家・演出家。 いとう まんしょ【伊東 マンショ(Mancio)】 1570頃 〜 1612.11.13(慶長17.10.21) ◇安土桃山時代のキリスト教徒。天正遣欧使節の首席・正使。名は祐益(スケマス)、洗礼名はマンショ(満所)。日向国主伊東義祐の娘と伊東祐青との子、大友宗鱗の甥。 _1578(天正 6)島津氏が日向に侵攻し、伊東一族が豊後に亡命した時に両親と別れて孤児同様の身となる。イエズス会(耶蘇会)司祭に引き取られ受洗、有馬セミナリヨに入学。 _遣欧使節に際し、大友宗鱗と縁続きであったため宗鱗の名代とされ、1582(天正10)副使中浦ジュリアンや千々岩ミゲル(清左衛門)らと渡欧。終始首席として振る舞い、スペイン国王フェリーペ2世・教皇グレゴリウス13世らと拝謁。 _1590(天正18)帰国。聚楽第において豊臣秀吉に拝謁。 _1601(慶長 6)中浦ジュリアンとともにマカオにおもむき、3年近く修道士として研鑚をつみ、1604(慶長 9)夏、長崎に戻り九州各地で布教に従事し、長崎のイエズス会学院で病死。 (*)1570(永禄13,元亀元)。 ◎大友宗麟の姪孫とも。 いとう まんしょ【伊東 満所】 ⇒伊東マンショ いとう みちお【伊藤 道郎】 1893(明治26) 〜 1934(昭和 9) ◇舞踊家。伊藤熹朔(キサク)・千田是也(コレヤ)の兄。 いとう みよじ【伊東 巳代治】《いとう みよぢ》 1857(安政 4. 5.) 〜 1934. 1.19(昭和 9) ◇明治〜昭和期の政治家。長崎生れ。長崎町年寄伊藤善平の子。伯爵。 _1871(明治 4)上京して電信技術を修め、電信寮に入る。1873(明治 6)兵庫県六等訳官。1876(明治 9)上京、伊藤博文に認められる。1877(明治10)工部省。1881(明治14)参事院議官補。1882(明治15)伊藤に随行してドイツ・オーストリアで憲法調査を行い、翌年帰国して内閣制度の改革・帝国憲法制定に参画。1885(明治18)第1次伊藤内閣の首相秘書官。1888(明治21)伊藤が枢密院議長になるに従い枢密院書記官長。1892(明治25)第2次伊藤内閣の書記官長。1898(明治31)第3次伊藤内閣の農商務相。1899(明治32)山県有朋の推挙で枢密顧問官。1901〜1904(明治34〜明治37)東京日々新聞社長。 _晩年は政友会を通じて幣原外交を非難、若槻礼次郎内閣を崩壊させる。 いとう やすし【伊藤 靖】 1893. 8.(明治26) 〜 没年不詳 ◇小説家。 いとう やわら【伊藤 和】 1904(明治37) 〜 1965. 4. 4(昭和40) ◇詩人。 いとう らんぐう【伊藤 蘭嵎】 1693(元禄 6) 〜 1778(安永 7) ◇江戸中期の儒学(古学)者。伊藤仁斎(ジンサイ)の第5子、伊藤東涯(トウガイ)・伊藤梅宇(バイウ)の弟。 _幼くして父仁斎を亡くし、兄東涯に養われる。1731(享保16)紀伊藩儒として仕官、東涯の没後に致仕して古義堂を継ぐ。 _著書は『紹衣稿』・『易憲章』・『詩経古言』・『大学是正』・『中庸古言』など。 (2)生年は1694。 (19)生年は1694。 いとう りょうしゅう【伊藤 龍洲】 1683(天和 3) 〜 1755(宝暦 5) ◇江戸中期の儒学者。清田氏の出で福井藩儒官伊藤坦庵の養子、伊藤錦里・江村北海(エムラ・ホッカイ)・清田(「人」偏+「膽」-「月」:補助1845〔_〕)叟の父。 いとう ろくろうべえ【伊藤 六郎兵衛】 1829(文政12. 7.15) 〜 1894. 3.30(明治27) ◇明治前期の宗教家(丸山教)。武蔵稲田登戸の地主。 _24歳の時、伊藤家の養子となる。 _富士信仰に独自の解釈を加えた丸山教を1873(明治 6)開教。「登戸の生き神行者」と呼ばれたが、呪術的治病・祈祷のため禁圧を受け苦境に陥る。1875(明治 8)宍野半(シシノ・ナカバ)の勧めで富士一山講社と合同して扶桑教(フソウキョウ)を形成。1884(明治17)宍野の死後に扶桑教を離脱し、1885(明治18)神道本局に所属。 (26)武蔵(ムサシ)国橘樹(タチバナ)郡登戸村(現、川崎市多摩区)に清宮源六の次男として生まれた。 いな ただつぐ【伊奈 忠次】 1550(天文19) 〜 1610(慶長15) ◇江戸初期の幕臣。備前守。父は忠家。 _徳川家康に仕え、関東郡代として関八州検地を行う。 いなおか ぬのすけ【稲岡 奴之助】 1873. 1.(明治 6) 〜 没年不詳 ◇小説家。本名は正文、別号は蓼花・桜庵。 いながき たつろう【稲垣 達郎】 1901.10.21(明治34) 〜 1986. 8.13(昭和61) ◇近代文学研究者・評論家。筆名にイナガキ・タルホ。福井県生れ。1927(昭和 2)早稲田大学国文科卒業。 いながき たるほ【稲垣 足穂】 1900.12.26(明治33) 〜 1977.10.25(昭和52) ◇小説家・詩人。大阪市船場(センバ)生れ。関西学院中学部卒業。 いながき ちかい【稲垣 千穎】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇国文学者・歌人。1880. 4.21(明治13)に音楽取調掛となり「唱歌」の作詞をする。 いなかろうじん ただのじじい【田舎老人 多田爺】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸後期の洒落本作者。書肆丹波屋利兵衛とされる。 いなげ そふう【稲毛 詛風】 1887. 6. 5(明治20) 〜 1946. 3.14(昭和21) ◇評論家。本名は金七。 いなずま らいごろう【稲妻 雷五郎】《いなづま らいごらう》 ⇒稲妻雷五郎 いなだ りゅうきち【稲田 竜吉】 1874(明治 7) 〜 1950(昭和25) ◇細菌学者。名古屋生れ。 _1900(明治33)東京大学卒業。ドイツ留学。1905(明治38)九州大学教授。1918〜1934(大正 7〜昭和 9)東京大学教授。 _1944(昭和19)文化勲章を受章。 (4)大正一三年ワイル病の病原体発見。 (6)ワイル病の研究に専念,病原体の検出に成功し15年学会に発表した。(*)この本の年号は西暦。 いなづま らいごろう【稲妻 雷五郎】《いなづま らいごらう》 1798(寛政10) 〜 1877(明治10) ◇七代横綱。常陸(ヒタチ)国の人。 _雲州松江藩お抱え。 いなの としつね【稲野 年恒】 1858(安政 5) 〜 1907. 5.27(明治40) ◇浮世絵師。本姓は武部、通称は孝之、別号は贏斎・北梅・可雅賤人。 いなば いってつ【稲葉 一鉄】 1516(永正13) 〜 1588(天正16) ◇安土桃山時代の武将。名は長通・良通。美濃の人。 _斎藤氏のち織田氏に属する。姉川の戦で浅井氏の軍を破る。剃髪し一鉄仙斎と号する。織田信長の死後は豊臣秀吉に仕える。 いなば まさくに【稲葉 正邦】 1834(天保 5. 5.26) 〜 1898. 7.(明治31) ◇明治時代の宗教家。旧淀藩主・子爵。岩代国二本松藩主丹羽長富の次男。 _山城国淀藩主稲葉正誼の養子となり、1848年家督を相続。京都所司代、老中を勤める。 _1869(明治 2)淀藩知事。教部省祠官を経て静岡県三島神社(現:三嶋神社)宮司・大教院大教正。1875(明治 8)神道事務局を設立、翌年第三部管長。1884(明治17)神道界の有力者として神道本局の初代管長となる。 (*)1848(弘化 5,嘉永元)。 いなば まさやす【稲葉 正休】 1640(寛永17) 〜 1684(貞享元. 8.28) ◇江戸初期の幕臣・譜代大名。通称は権佐。 _小姓組番頭を経て1682(天和 2)若年寄に昇進し、美濃国青野藩1万2千石の藩主。 _1684(貞享元)江戸城中で従兄にあたる堀田正俊を刺殺し、自分もその場で殺される。 ◆墓は東京都杉並区堀ノ内3丁目の宗延寺。 ◎原因は不祥であるが、正休の治水工事の失敗の隠蔽に関して正俊の同意が得られなかったいわれている。 _しかし、正俊が将軍綱吉擁立の功に誇り、また剛直な性格から将軍や側近から反感をかい、むしろ正休に同情が多かったという。 _これ以後、老中らの権威は振るわず側用人の勢力が盛んとなった。 いなむら さんぱく【稲村 三伯】 1758(宝暦 8) 〜 1811(文化 8) ◇江戸後期の蘭学者。鳥取藩医。 _1792(寛政 4)江戸に出て大槻玄沢に蘭学を学ぶ。苦心の末、1796(寛政 8)蘭日対訳辞書『ハルマ和解(ワゲ)』を刊行。 _のち実弟の不始末から脱藩、名を海上随鴎(ウナガミ・ズイオウ)と改め、下総に隠棲。晩年、京都で蘭学を教授。 (4)生年は1759。 (6)生年は1758。 いなもり そうたろう【稲森 宗太郎】 1901. 7.12(明治34) 〜 1930. 4.15(昭和 5) ◇歌人。結核で夭折。 いなわしろ けんさい【猪苗代 兼載】 1452(享徳元) 〜 1510(永正 7. 6. 6) ◇室町中期の連歌師。名は宗春(ソウシュウ)、号は相園坊・耕閑。会津の人。 いぬい なおえ【乾 直恵】 1901. 6.19(明治34) 〜 1958. 1.13(昭和33) ◇詩人。 いぬかい たける【犬養 健】 1896. 7.28(明治29) 〜 1961. 8.28(昭和36) ◇小説家・政治家。犬養毅(ツヨシ)の子、犬養道子の父。東京生れ。 _学習院中等科・高等科を経て東京大学哲学科中退。1930. 2.(昭和 5)衆議院総選挙に当選。 (1)没年は1961(昭和36)。 (3)没年は1960(昭和35)。 (5)没年は1961(昭和36)。 (6)「犬養毅」の項:没年は1960。 (8)没年は1961(昭和36)。 (11)没年は1961(昭和36)。 (13)没年は1960(昭和35)。 いぬかい つよし【犬養 毅】《いぬかひ つよし》 1855(安政 2. 4.20) 〜 1932. 5.15(昭和 7) ◇明治〜昭和初期の政治家。号は木堂(ボクドウ)。犬養健(タケル)の父、犬養道子の祖父。備中(岡山県)庭瀬藩郷士の子。 _慶応義塾に学ぶ。在学中、西南戦争に戦地探偵員(従軍記者)になる。義塾を中退し、雑誌「東海経済新報」を発刊。 _1881(明治14)明治十四年の政変で大隈重信に従い下野。1882(明治15)立憲改進党の結成に参加。1890(明治23)第一回選挙から衆議院議員連続当選17回。1898(明治31)大隈重信内閣の文部大臣。のち憲政本党・立憲国民党。1910(明治43)大石正巳・河野広中らと立憲国民党を結成し党首。 _大正政変の際、藩閥官僚の排除をはかる交詢社(コウジュンシャ)に政友会の尾崎行雄(ユキオ)とともに担ぎ出され、三井の軍資金を得て「閥族打破憲政擁護」運動の中心となる。 _1922(大正11)立憲国民党を解散し、革新倶楽部を結成。1923(大正12)第2次山本内閣の逓信大臣。 _1929(昭和 4)政友会総裁。1931(昭和 6)政友会組閣、満州事変阻止に尽力し、1932(昭和 7)五・一五事件で暗殺されて総辞職。 _組閣:1931.12.13(昭和 6)〜総辞職:1932. 5.16(昭和 7)。 (4)犬養毅。 (6)犬養毅。 (16)犬養毅。 (?)犬飼毅。 ◎暗殺の時、「話せばわかる」と言ったが「問答無用」と射殺されたという。 ◎犬養内閣後、政治の主導権は軍部に移行した。 ◆墓は東京都港区の青山霊園。 いぬかみのみたすき【犬上 御田鍬】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇最初の遣唐使。 _ 614[推古22]隋に、 630[舒明 2]唐に赴(オモム)く。 いぬた しげる【犬田 卯】 1891. 8.23(明治24) 〜 1957. 7.21(昭和32) ◇小説家・評論家・農民運動家。茨城県の農家生れ。二五歳まで農業に従事。住井すゑ(スミイ・スエ)の夫。 いのう じゃくすい【稲生 若水】《いなふ じやくすい》 1655 〜 1715(正徳 5) ◇江戸中期の本草学者・医師。名は宣義。恒軒の子。江戸生れ。 _1693(元禄 6)加賀藩主前田綱紀に仕え、稲(トウ)若水と称する。 (4)生年は1655。 (6)生年は1667。 (*)1655(承応 4,明暦元)。 いのう ただたか【伊能 忠敬】 1745(延享 2) 〜 1818(文化15. 4.18) ◇地理学者。名は三治郎、通称は三郎右衛門のち勘解由(カゲユ)、号は東河。父は神保貞恒。上総(カズサ)国生れ。 _18歳のとき、下総(シモウサ)国佐原の酒屋の伊能家の養子となる。衰えていた家産を立直し、1794(寛政 6)50歳で家を子に譲り隠居。 _1795(寛政 7)江戸に出て高橋至時(ヨシトキ)(東岡<トウコウ>)に天文学・西洋暦法を学ぶ。1800(寛政12)幕府に願い出て沿海測量の許可を得、蝦夷(エゾ)南東海岸を私費をもって測量。 _日本全図の作成中に病死。遺言により至時の墓の脇に葬られる。 ◆墓は東京都台東区の東上野6丁目の源空寺。 ◎弟子たちが業を継いで、1821(文政 4)『大日本沿海輿地全図(ヨチゼンズ)』(大中小の三種)を作成し、幕府に献上する。のちシーボルトが国外に持ち出す。 いのう ひでのり【伊能 頴則】 1805(文化 2) 〜 1877. 7.11(明治10) ◇江戸幕末・明治維新期の神道家・歌人・国学者。別名は三右衛門・三造・外記など、号は蒿村・梅宇。下総国香取郡佐原村生れ。 いのうえ ああ【井上 唖々】 1878. 1.30(明治11) 〜 1923. 7.11(大正12) ◇小説家・俳人。本名は精一、別号は九穂(キュウスイ)・玉山。名古屋生れ。 [1]いのうえ いんせき【井上 因碩(1世)】《ゐのうへ いんせき》 1605(慶長10) 〜 1673 ◇囲碁棋士。本名は井上玄覚。山城国生れ。 _古因碩。 (*)1673(寛文13,延宝元)。 (*)kosato。 [2]いのうえ いんせき【井上 因碩(2世)】《ゐのうへ いんせき》 1651(慶安 4) 〜 1696(元禄 9) ◇囲碁棋士。本名は山崎道砂、幼名は山崎千松。石見国大田郡馬路村生れ。本因坊道策の弟。 (*)kosato。 [3]いのうえ いんせき【井上 因碩(3世)】《ゐのうへ いんせき》 1646(正保 3) 〜 1719(享保 4) ◇囲碁棋士。本名は桑原道節。美濃国大垣生れ。 _名人碁所。 _『囲碁発陽論』を出版。 (*)kosato。 [4]いのうえ いんせき【井上 因碩(4世)】《ゐのうへ いんせき》 1672(寛文12) 〜 1735(享保20) ◇囲碁棋士。本名は三崎策雲。越前国生れ。 (*)kosato。 [5]いのうえ いんせき【井上 因碩(5世)】《ゐのうへ いんせき》 1707(宝永 4) 〜 1772 ◇囲碁棋士。本名は伊藤春碩。江戸生れ。 _準名人。 (*)1772(明和 9,安永元)。 (*)kosato。 [6]いのうえ いんせき【井上 因碩(6世)】《ゐのうへ いんせき》 1746(延享 3) 〜 1805(文化 2) ◇囲碁棋士。本名は岡田春達。江戸生れ。 (*)kosato。 [7]いのうえ いんせき【井上 因碩(7世)】《ゐのうへ いんせき》 1746(延享 3)  ??? 〜 1805(文化 2)  ???6世と同じ ◇囲碁棋士。本名は佐藤春策、幼名は佐藤知夫。備後国深津郡市村生れ。 (*)kosato。 [8]いのうえ いんせき【井上 因碩(8世)】《ゐのうへ いんせき》 1774(安永 3) 〜 1810(文化 7) ◇囲碁棋士。本名は佐藤春策、幼名は佐藤知夫。備後国深津郡市村生れ。 (*)kosato。 [9]いのうえ いんせき【井上 因碩(9世)】《ゐのうへ いんせき》 1784(天明 4) 〜 1829(文政12) ◇囲碁棋士。石見国大田郡馬路村生れ。 (*)kosato。 [10]いのうえ いんせき【井上 因碩(10世,11世)】《ゐのうへ いんせき》 1798(寛政10) 〜 1859(安政 6) ◇囲碁棋士。本名は橋本安節(幻庵)。江戸生れ。 _準名人。 (*)kosato。 [11]いのうえ いんせき【井上 因碩(12世)】《ゐのうへ いんせき》 1820(文政 3) 〜 1856(安政 3) ◇囲碁棋士。本名は戸田順策(秀徹)。江戸生れ。本因坊丈和の子。 (*)kosato。 [12]いのうえ いんせき【井上 因碩(13世)】《ゐのうへ いんせき》 1831(天保 2) 〜 1919(大正 8) ◇囲碁棋士。本名は松本錦四郎。江戸生れ。 (*)kosato。 いのうえ えいぞう【井上 英三】 1902.10.28(明治35) 〜 1947.10. 4(昭和22) ◇フランス文学者・翻訳家。 いのうえ えんりょう【井上 円了】《ゐのうへ ゑんれう》 1858(安政 5. 2. 4) 〜 1919. 6. 2(大正 8) ◇哲学者。号は甫水(ホスイ)・不思議庵・妖怪窟・非僧非俗道人・四聖堂。越後国の真宗大谷派の東本願寺末刹(マッサツ)に生れる。 _1885(明治18)東京大学哲学科卒業。西洋哲学で仏教を解釈しようと試みる。また妖怪の学問的研究を創始。1887(明治20)哲学館を創設、1906(明治39)東洋大学と改称。 _東京中野に哲学堂を建立。 _著書は『妖怪学講義』など。 (3)誕生日は 3.18、没日は 6. 6。 (5)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。 (8)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。 (11)誕生日は 2. 4、没日は 6. 2。 いのうえ かおる【井上 馨】《ゐのうへ かをる》 1835(天保 6) 〜 1915(大正 4) ◇明治期の政治家。幼名は勇吉のち聞多(モンタ)、号は世外。一時養子となり志道(シジ)聞多と称するがのち井上に復帰。三井との関係が深く「三井の番頭」と呼ばれる。長州藩士の家に生れる。 _松下村塾に学ぶ。尊攘討幕運動に加わる。 _明治維新後、1871(明治 4)大蔵大輔。地租改正・秩禄処分を推進。政府財政を批判して辞職、のち大阪会議を機に復帰。1879(明治12)伊藤博文内閣の外相。農商務相・内相・蔵相などを歴任。1898(明治31)元老。 (4)生年は1835。 (6)生年は1835/36。 ◎岩倉具視(トモミ)ら欧米視察大使一行の送別会の席上で、西郷隆盛は井上馨を「三井の番頭さん」と呼ばわりしている。尾去沢銅山の疑獄によるものである。 _三井の大番頭は益田孝(マスダ・タカシ)。 いのうえ きんが【井上 金峨】《ゐのうへ きんが》 1732(享保17) 〜 1784(天明 4) ◇江戸中期の漢学(折衷学)者。江戸の人。折衷学の祖。 _著書は『弁偽録』など。 いのうえ くさかえ【井上 草加江】 1912. 2. 8(明治45) 〜 1973. 3. 8(昭和48) ◇俳人。本名は音一(オトカズ)、晩年の別号は鯉屋伊兵衛。 いのうえ けんかぼう【井上 剣花坊】 1870(明治 3. 6. 3) 〜 1934. 9.11(昭和 9) ◇川柳作家。本名は幸一。長州萩生れ。 _1903(明治36)新聞「日本」に入社。1905(明治38)「川柳」を創刊。 いのうえ こうじろう【井上 幸次郎】 1902. 9.25(明治35) 〜 1946. 8.22(昭和21) ◇小説家・批評家。 いのうえ こうばい【井上 紅梅】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇中国文学者。本名は井上進。 (8)一説に1881(明治14)〜1949. 5.(昭和24)。 いのうえ こわし【井上 毅】《ゐのうへ こはし》 1843(天保14.12.18) 〜 1895. 3.17(明治28) ◇江戸幕末・明治期の官僚政治家。号は梧陰。熊本藩士。藩家老長岡監物家臣飯田権五兵衛の3男。 _1866(慶応 2)長岡家中の井上茂三郎の養子。藩校時習館を経て、1867(慶応 3)江戸遊学。 _1870(明治 3)大学南校中舎長を経て、1871(明治 4)司法省十等出仕。1877(明治10)太政官大書記官・1881(明治14)参事院議官・1884(明治17)兼宮内省図書頭・1888(明治21)法制局長官・同年兼枢密院書記官長・1890(明治23)枢密顧問官・1893(明治26)伊藤博文内閣の文部大臣。1895(明治28)子爵。 _大日本帝国憲法・皇室典範・軍人勅諭・教育勅語などの起草に参画。 (4)生年は1843。 (6)生年は1844。 いのうえ しげよし【井上 成美】《ゐのうへ しげよし》 1889(明治22) 〜 1975.12.15(昭和50) ◇海軍軍人・大将。妻は富士子。宮城県生れ。 _水雷学校普通科卒。海軍兵学校37期生。 _軍務局長・第四艦隊長官・海軍次官などを歴任。 _米内光政らと日独伊三国同盟に反対。大艦巨砲主義を批判、また海軍の空軍化を力説し海軍大臣及川古志郎大将に『新軍備計画論』を提出。 _江田島の海軍兵学校校長。 _1945. 5.15(昭和20)大将昇進。 ◎名前は『論語』顔淵篇「子曰ク、君子ハ人ノ美ヲ成シ、人ノ悪ヲ成サズ」から。 _最期の海軍大将。 いのうえ じゅうきち【井上 十吉】《ゐのうへ じふきち》 1862(文久 2) 〜 1929(昭和 4) ◇英語学者。徳島藩士。 いのうえ じゅんのすけ【井上 準之助】《ゐのうへ じゆんのすけ》 1869(明治 2) 〜 1932. 2. 9(昭和 7) ◇銀行家・財政家。大分県人。東京大学卒業。 _1913(大正 2)正金銀行総裁。1919(大正 8)日本銀行総裁。第一次世界大戦後の恐慌に対処、台湾銀行・横浜正金銀行に久原(クハラ)商事への融資を斡旋するなど財界に力を得、金融界の顔役となる。1923. 9.(大正12)第2次山本権兵衛内閣の大蔵大臣、関東大震災の善後処理を行う。1927(昭和 2)金融恐慌の際の短期間、日本銀行総裁に再任。のち財界の世話役を行う。 _突如民政党員となり、1929. 7.(昭和 4)浜口雄幸(オサチ)内閣の大蔵大臣として、1930. 1.11(昭和 5)金解禁を断行。1931. 4.(昭和 6)第2次若槻礼次郎内閣の大蔵大臣。 _1932. 2. 9(昭和 7)民政党駒井重次(ジュウジ)の応援演説のため、夕方8時、本郷追分の駒本(コマモト)小学校に着いたところを血盟団員小沼正(コヌマ・タダシ)にピストルで暗殺。 いのうえ しろう【井上 士朗】《ゐのうへ しらう》 1742(寛保 2) 〜 1812(文化 9) ◇江戸後期の俳人・産科医。別号は枇杷園。名古屋の人。 _加藤暁台に俳諧を、本居宣長に国学を、范古に絵画を学ぶ。 いのうえ しんかい【井上 真改】《ゐのうへ しんかい》 生年不詳 〜 1682(天和 2) ◇江戸初期の刀工。日向国の人。 _大坂に出て初代国貞(クニサダ)の養子となり二代和泉守国貞と称する。のち井上真改と改名。 ◎鎌倉時代の岡崎正宗(マサムネ)に対して新刀正宗・大坂正宗と呼ばれる。 いのうえ せいげつ【井上 井月】《ゐのうへ せいげつ》 1822(文政 5) 〜 1887. 3.10(明治20) ◇俳人。本名は勝造(克三)あるいは勝之進。「乞食(コジキ)井月」と呼ばれる。越後国生れ。 (11)「乞食井月」の項:生年は1823(文政 5):誤。 いのうえ せいび【井上 成美】《ゐのうへ せいび》 ⇒井上成美 いのうえ たつお【井上 立士】 1912(明治45) 〜 1943. 9.17(昭和18) ◇小説家。粟粒(ゾクリュウ)結核で急逝。 いのうえ つう【井上 通】《ゐのうへ つう》 1660(万治 3) 〜 1738(元文 3) ◇江戸中期の女流歌人。丸亀藩士井上本固の娘、三田宗寿の妻。 いのうえ つとむ【井上 勤】 1850(嘉永 3. 9.15) 〜 1928.10.22(昭和 3) ◇翻訳家・洋学者。号は春泉。阿波国徳島生れ。明治初期の翻訳文学の第一人者。妻は内田魯庵(ロアン)の伯母。 (13)没日は11.21、神戸に没す。 いのうえ てつじろう【井上 哲次郎】《ゐのうへ てつじらう》 1855(安政 2.12.25) 〜 1944.12. 7(昭和19) ◇哲学者・詩人。本姓は富田のち船越(父の姓)のち井上(養子)、号は巽軒(ソンケン)。筑前国太宰府の医家の生れ。 _1880(明治13)東京大学文学部哲学科卒業。1882(明治15)東京大学で哲学を講義。1884〜1890(明治17〜明治23)ドイツに留学。1923(大正12)東京大学教授を退官。 _従来の英仏系哲学に対して新たにドイツ系哲学(観念論)を移植、哲学界の大御所となる。また、国家主義を唱道し、教育勅語をもとにキリスト教を攻撃する。 いのうえ でん【井上 伝】《ゐのうへ でん》 1788(天明 8) 〜 1869(明治 2) ◇江戸末期の久留米絣(クルメガスリ)の創始者。久留米の婦人。 (4)井上でん。 (6)井上伝。 いのうえ にっしょう【井上 日召】《ゐのうへ にちせう》 1886(明治19) 〜 1967(昭和42) ◇日蓮宗僧侶で国家主義者。本名は昭(アキラ)。群馬県生れ。 _明治末に南満州鉄道に入り渡満、支那浪人となる。1920(大正 9)帰国し、仏門に入り、1924(大正13)まで修業。1928(昭和 3)護国堂を開設、青年の教育にあたる。 _1930(昭和 5)海軍の藤井斉と知り会い、王師会と提携。 _右翼団体血盟団を組織、一人一殺を唱えテロ活動を指導。 _1932. 1.28(昭和 7)上海事変が起こり、藤井らが出征したので、民間のみで国家改造に着手。 _1932. 2. 9(昭和 7)小沼正(コヌマ・タダシ)が井上順之助(民政党幹部・前蔵相)を、 3. 5菱沼五郎が団琢磨(ダン・タクマ)(三井合名理事)を相次いで暗殺。1932. 3.11(昭和 7)自首。 ◎血盟団の特別弁護人は今泉定助。 ◎のち、日召と関係のあった海軍将校は橘孝三郎を引き入れて同年五・一五事件を起す。 いのうえ はくぶんじ【井上 白文地】 1904. 2.(明治37) 〜 1946. 5.(昭和21) ◇俳人。本名は隆証。満州で戦病死と推定されている。 いのうえ はりまのじょう【井上 播磨掾】《ゐのうへ はりまのじよう》 1632(寛永 9) 〜 1685(貞享 2) ◇江戸初期の浄瑠璃太夫。京都の人。 (6)没年は一説に1676(延宝 4)。 いのうえ ふみお【井上 文雄】《ゐのうへ ふみを》 1800(寛政12) 〜 1871(明治 4.11.18) ◇江戸末期の歌人・国学者。通称は元真、号は歌堂・柯堂・調鶴。江戸の人。 _岸本由豆流(ユズル)に和歌を学ぶ。 (8)名は元真。  ???? いのうえ まさお【井上 正夫】《ゐのうへ まさを》 1881. 6.15(明治14) 〜 1950. 2. 7(昭和25) ◇新派の俳優。本名は小坂勇一、芸名は初め小坂幸二のち井上政夫。愛媛県砥部町大南生れ。小坂春吉とタイの長男。 _1892(明治25)砥部尋常小学校卒業。 _1897(明治30)伊井蓉峰(イイ・ヨウホウ)一座に加わり、のち幹部。1902(明治35)井上正夫に改名。 _1904(明治37)松本けいと結婚。 _1910(明治43)新時代劇協会を組織。 _1919(大正 8)第1回国民文芸会賞を受賞。1920(大正 9)国際活動映画株式会社に入社。1921(大正10)松竹映画に入社。 _1936(昭和11)「中間演劇」を提唱し、山口俊雄・岡田嘉子らを一座に加えて井上演劇道場を開設。 _1946(昭和21)井上演劇道場を解散し、新協劇団に合流。 (4)生年は1883。 (6)生年は1881。 いのうえ まさかね【井上 正鉄】《ゐのうへ まさかね》 1790(寛政 2. 8. 4) 〜 1849(嘉永 2. 2.18) ◇江戸幕末の神道家・国学者。上野国館林藩士の安藤真鉄(マカネ)と千代子の次男。母方の縁者の富田家の養子となり、井上姓を名乗る。 _国学・易を学び、感通術(呪術的医療)を行った。 _1840(天保11)江戸郊外の足立郡の梅田神明宮の神職。 _1840(天保11)江戸で白川神道系の独自の神道を唱えて布教を開始する。幕府の滅亡を予見し民衆の救済を説いたため、1842(天保13)三宅島に流され、在島7年で病死。 ◎明治維新後、門人坂田安治(ヤスハル)らによって禊(ミソギ)教となる。 (26)結局天保十四年、三宅島に配流となった。 いのうえ まさなり【井上 正就】 1577(天正 5) 〜 1628(寛永 5. 8.10) ◇江戸初期の幕府老職。父は清秀(キヨヒデ)。 _1622(元和 8)老職。遠江横須賀城主。 _西の丸殿中にて目付豊島明重(アキシゲ)の刃傷により絶命。 ◎豊島明重は正就の息子の縁談を世話し、大坂町奉行島田直時(タダトキ)の娘と縁組みし仲人を務める手筈になっていた。しかし、正就は春日の局から上意として出羽山形城主鳥居忠政の娘と縁組みするように申し渡され、明重の話を破棄。これを怨みに刃傷に及んだもの。 _刃傷の直後、明重は自分の腹に刀を突き立て、うしろから止めに入った番士青木忠精(タダカズ)ともに絶命。明重の嫡子継重(ツグシゲ)は切腹を命ぜられ、豊島家は断絶。 いのうえ みちやす【井上 通泰】《ゐのうへ みちやす》 1866(慶応 2.12.21) 〜 1941. 8.15(昭和16) ◇歌人・国文学者・医師。号は南天荘、旧姓は松岡。播磨国姫路生れ。柳田国男・松岡映丘(エイキュウ)・松岡静雄の兄。 _1890(明治23)東京帝国大学医科卒業、眼科専攻。1904(明治37)医学博士。1907(明治40)御歌所勅任寄人(ヨリウド)。1920(大正 9)宮中顧問官。1926(大正15)以降医業を廃して古典の研究に専心。 (13)没日は 7.14。 いのうえ みちる【井上 満】 1900.12.16(明治33) 〜 1959. 5.14(昭和34) ◇ロシア文学者。 いのうえ やすし【井上 靖】 1907. 5. 6(明治40) 〜 1991. 1.29(平成 3) ◇小説家。初期の筆名は井上泰。北海道旭川生れで、郷里は伊豆湯ヶ島。父は軍医。 _1930(昭和 5)九州帝国大学文科に入学、のち1932(昭和 7)京都帝国大学哲学科に再入学、1936(昭和11)卒業。1937(昭和12)日華事変に応召、北支方面に駐屯し、翌年4月に病気除隊。 _毎日新聞の記者。1949(昭和24)『闘牛』が芥川賞を受け、作家生活に入る。 いのうえ やすじ【井上 安治】 1864(元治元) 〜 1889. 9.14(明治22) ◇明治前期の錦絵師。俗称は安次郎。 _小林清親(キヨチカ)の門人。 _作品は『東京真画名所図解』など。 (8)号の安治はヤスハルとよむ説がある。 いのうえ やすぶみ【井上 康文】 1897. 6.20(明治30) 〜 1973. 4.18(昭和48) ◇詩人。本名は康治。神奈川県生れ。東京薬学校卒業。 いのうえ やちよ【井上 八千代(三世)】 1838(天保 9) 〜 1938(昭和13) ◇日本舞踊家。井上流の家元。祇園(ギオン)で都踊を創始する。 いのうえ よりくに【井上 頼圀】《ゐのうへ よりくに》 1839(天保10. 2.18) 〜 1914. 7. 4(大正 3) ◇江戸幕末・明治時代の歌人・国学者・皇漢医・文学博士。号は白随・厚載、通称は肥後・鉄直。江戸神田松下町生れ。父は高家横瀬貞篤(サダアツ)の医師。 _平田篤胤の門下平田銕胤(カネタネ)に師事。 _修史館に出仕。皇典講究所・国学院の設立に当る。宮内省御用掛。国学院・学習院教授。『古事類苑』の編纂に参与。 _著書は『越州考』・『皇統略記』など。 いのうえ らんだい【井上 蘭台】 1705(宝永 2) 〜 1761(宝暦11) ◇江戸中期の儒学者。 _岡山藩に籍を置き、読書一徹で通し、生涯女性を近づけなかった。 いのくち ありや【井口 在屋】 1856(安政 3) 〜 1923(大正12) ◇明治・大正期の機械工学者。金沢生れ。 _1882(明治15)東京大学機械科卒業。1896(明治29)東京大学教授。 _井口式タービンポンプを発明。機械学会を創立。 ◎1912(明治45,大正元)創業のいのくち式機械事務所は現在の荏原製作所。 いのまた つなお【猪俣 津南雄】《ゐのまた つなを》 1889. 4.23(明治22) 〜 1942. 1.19(昭和17) ◇評論家・マルクス経済学者。号は鹿語。新潟市の出身。 _早稲田大学に学び、のち母校の講師。1922(大正11)日本共産党の結成に参加。1923(大正12)第1次共産党事件に連座。 _著書『帝国主義研究』・『現代日本研究』・『金の経済学』など。 いば そうたろう【伊庭 想太郎】 1851(嘉永 4) 〜 1903(明治36) ◇明治後期の剣客。江戸生れ。幕府講武所剣術指南伊庭軍兵衛の次男、八郎の弟。 _私塾文友館を開く。のち東京農学校の校長。日本貯蓄銀行の設立に参与。 _1901. 6.21(明治34)東京市役所において星亨(トオル)を刺殺。無期徒刑となり小菅監獄で病没。 いば たかし【伊庭 孝】 1887.12. 1(明治20) 〜 1937. 2.25(昭和12) ◇演出家・劇作家・音楽評論家。東京生れ。同志社中退。 いば ていごう【伊庭 貞剛】 1847. 2.19(弘化 4. 1. 5) 〜 1926.10.23(大正15) ◇明治時代の実業家。近江国蒲生郡武佐村(現:滋賀県近江八幡市)生れ。住友家筆頭番頭の広瀬宰平(サイヘイ)の甥。 _1900〜1904(明治33〜明治37)総理事。 いば はちろう【伊庭 八郎】 1843(天保14) 〜 1869(明治 2. 5.12) ◇江戸幕末・維新期の幕臣。江戸下谷御徒町生れ。幕府講武所剣術指南伊庭軍兵衛の長男、想太郎の兄。 _1843(天保14)新設の遊撃隊士に編入され、1868(慶応 4)鳥羽・伏見の戦で奮戦、負傷して江戸に帰る。人見勝太郎ら同志と海路真鶴に渡り、箱根に出て官軍の背後を衝くが、敗れて左腕を失う。彰義隊に加わり敗れて、箱館の榎本武揚軍に合流。翌年 4. 9肩と腹に銃傷を受ける。 ◎伊庭の小天狗と呼ばれた。 _辞世の句は「まてよ君迷途も友と思ひしにしばしおくるるめ身こそつらけれ」。 いは ふゆう【伊波 普猷】 1876(明治 9) 〜 1947(昭和22) ◇言語学者。沖縄那覇の人。東京大学国文科卒業。 _1910(明治43)沖縄県立図書館の初代館長。1925(大正14)上京し、琉球語・沖縄史・沖縄の歌謡(おもろ)を研究。 いばの とくぞう【井葉野 篤三】 1902.10.11(明治35) 〜 1946. 3.10(昭和21) ◇小説家。本名は徳造。 いはら さいかく【井原 西鶴】《ゐはら さいかく》 1642(寛永19) 〜 1693(元禄 6. 8.10) ◇江戸前期の俳諧師・浮世草子作者。本名は平山藤五、別号は鶴永・四千翁・二万翁・二万堂・西鵬(サイホウ)。軒号は松風軒のち松寿軒。オランダ西鶴と異名される。大坂の町人の家に生れる。 _はじめ松永貞徳(テイトク)を祖とする貞門派に入り、鶴永と号する。31歳の時、西山宗因(ソウイン)の談林派に転じ、宗因の別号西翁(サイオウ)から一字をもらい西鶴と号し、俳人として活躍。俳諧を多作する「矢数(ヤカズ)俳諧」を始める。 _1675(延宝 3. 4. 3)妻が25歳でなくなり3人の子が残される。 _1681年、『難波の皃(カオ)は伊勢の白粉』を出版。1682(天和 2)『好色一代男』など、浮世草子を勢力的に出版。 _1684年、住吉神社で矢数俳諧を興行して23,500を独吟し、二万翁と称する。 _他の代表作は『好色一代女』・『好色五人女』・『武道伝来記』・『日本永代蔵』・『世間胸算用』『本朝二十不孝』など。 ◆西鶴忌[旧暦 8.10]。 _大阪誓願寺に没日を記した日月牌が残されている。 (11)井原は母の姓か。 (*)1681(延宝 9,天和元)、1684(天和 4,貞享元)。 いはら せいせいえん【伊原 青々園】《いはら せいせいゑん》 1870(明治 3. 4.24) 〜 1941. 7.26(昭和16) ◇演劇評論家・劇作家・小説家。本名は敏郎。出雲国松江生れ。 _上京し第一高等学校に入学・中退。新聞記者。1900(明治33)三木竹二と雑誌「歌舞伎」を創刊・編集。 _著書は脚本『出雲の阿国』や『日本演劇史』・『近世日本演劇史』・『明治演劇史』など。 いばらぎ いのきち【茨木 猪之吉】 1888. 5. 1(明治21) 〜 1944.10. 2(昭和19) ◇画家。旧姓は影山伊之吉、一時、不仙と号す。山岳画家として著名。没日は穂高に向かい消息を絶った日。 いぶか かじのすけ【井深 梶之助】 1854 〜 1940(昭和15) ◇プロテスタントの教育家。会津藩校学頭の井深宅右衛門の長男。 _S.R.ブラウンの東京一致神学校(のち明治学院)卒業。1890(明治23)米国留学。1891(明治24)明治学院の総理。 _山県有朋(ヤマガタ・アリトモ)内閣の宗教教育抑圧に抵抗。 (*)1854(嘉永 7,安政元)。 いぶき しん【伊吹 震】 1888. 8. 3(明治21) 〜 1961. 3.31(昭和36) ◇昭和期の実業家。長崎県生れ。藤山雷太の養子先の実子、藤山愛一郎の異母兄。 _1910(明治43)東京大学工科に入学、経済科に転じて、1915(大正 4)卒業。 _三井物産に入社。のち甜菜(テンサイ)糖業の開発に志し朝鮮製糖創立に参画し役員となり、1918(大正 7)同社の合併先大日本製糖(社長は父雷太)の取締役、1922(大正11)常務取締役、1933(昭和 8)社長、1934(昭和 9)社長職を弟愛一郎に譲る。 _鮎川義介系の日産火災・日産生命保険の各社長を歴任、日産コンツェルンの中心的存在となる。 _太平洋戦争後、公職追放解除後に神港製粉社長。 いぶき とおる【伊吹 とおる】《いぶき とほる》 1919. 1. 5(大正 8) 〜 2002.11.14(平成14) ◇作詞家。本名は唐崎正春(カラサキ・マサル)。 いふくべ たかてる【伊福部 隆輝】 1898. 5.21(明治31) 〜 1968. 1.10(昭和43) ◇詩人・評論家・宗教研究家(老子)。別名は伊福部隆彦。 いぶせ ますじ【井伏 鱒二】 1898(明治31) 〜 1993(平成 5) ◇昭和期の小説家。本名は満寿二。 _早稲田大学在学中から小説を書きはじめ、中退。 _太平洋戦争中、報道班員としてシンガポール(昭南市)へ行く。昭南日本学園で日本歴史を講義。 _1966(昭和41)文化勲章受賞。 ◎1941(昭和16)『ドリトル先生アフリカ行』(白林少年館)は、ドリトル先生シリーズの日本初訳。 いぶり いぞう【飯降 伊蔵】 1813(文化10) 〜 1907(明治40) ◇明治時代の宗教家(天理教)。大工出身。 いま はるべ【伊馬 春部】 1908. 5.30(明治41) 〜 1984. 3.17(昭和59) ◇劇作家・小説家。本名は高崎英雄、筆名は伊馬鵜平(ウヘイ)、戦後は春部と改名。福岡県生れ。国学院大学卒業。 いまい くにこ【今井 邦子】 1890. 5.31(明治23) 〜 1948. 7.15(昭和23) ◇歌人。本名は「くにえ」、旧姓は山田。徳島市生れ。父は山田邦彦で長野県下諏訪の人。三歳で下諏訪に移住、諏訪高等女学校卒業。1911(明治44)今井健彦と結婚。 いまい けいしょう【今井 慶松】《いまゐ けいしよう》 1871(明治 4) 〜 1947(昭和22) ◇箏曲(ソウキョク)演奏家・作曲家。本名は新太郎。横浜生れ。 _山勢松韻に師事。東京音楽学校教授・日本三曲協会会長・山田流箏曲協会会長。 いまい じかん【今井 似閑】《いまゐ じかん》 1657(明暦 3) 〜 1723(享保 8) ◇江戸中期の国学者。酒商で大文字屋市兵衛という。京都の人。 _下河辺長流・契沖に学ぶ。 いまい そうきゅう【今井 宗久】《いまゐ そうきう》 1520(永正17) 〜 1593(文禄 2) ◇安土桃山時代の茶人。 _初め大和今井に住む。堺の武野紹鴎(タケノ・ジョウオウ)に茶を学び、娘婿となる。第9代将軍足利義尚(ヨシヒサ)に仕え、大蔵卿と称する。のち織田信長に仕え、千利休(センノリキュウ)・津田宗及(ソウキュウ)とともに茶頭(サジュウ)となる(三大宗匠)。豊臣秀吉にも仕え、1587(天正15.10.1)秀吉主催の北野大茶会を後見。 いまい としき【今井 登志喜】 1886(明治19) 〜 1949(昭和24) ◇西洋史学者。長野の人。東京大学教授。 いまい はくよう【今井 白楊】 1889.12. 3(明治22) 〜 1917. 8. 2(大正 6) ◇詩人。本名は国三(クニゾウ)、別号は太原冬夜(タハラトウヤ)、夏明。鹿児島県生れ。早稲田大学英文科卒業。犬吠崎(イヌボウザキ)君ヶ浜で遊泳中、友人三富朽葉(ミトミ・クチハ)と溺死。 いまい ふくじろう【今井 福治郎】 1901. 7. 2(明治34) 〜 1968. 1.23(昭和43) ◇歌人。号は白水。 いまいずみ いっぴょう【今泉 一瓢】 生年不詳 〜 1901(明治34) ◇明治の錦絵師。福沢諭吉の姉の長男。1884(明治17)諭吉のアイデアによる錦絵漫画『北京夢枕』を描く。同年、慶応義塾卒業。1885(明治18)から1889(明治22)まで渡米、貿易業のかたわら絵を修業。帰国後、時事新報社に入社。 いまいずみ かいちろう【今泉 嘉一郎】 1867(慶応 3) 〜 1941(昭和16) ◇製鉄技術者。群馬県生れ。 _1892(明治25)東京大学卒業。八幡製鉄所・日本鋼管の建設を指導。 いまいずみ さだすけ【今泉 定助】 1863(文久 3. 2. 9) 〜 1944. 9.11(昭和19) ◇明治〜昭和前期の教育家・神道家。 _1934(昭和 9)血盟団の特別弁護人。 いまがわ うじざね【今川 氏真】 1538(天文 7) 〜 1614(慶長19.12.28) ◇戦国時代の武将。上総介。今川義元(ヨシモの嫡子、母は武田信虎(ノブトラ)の娘。 _1560(永禄 3)桶狭間(オケハザマ)の戦で父義元が敗死し家督を相続。松平元康(モトヤス)(徳川家康)が離反し、三河(ミカワ)を制圧される。 _1568(永禄11)末、武田信玄(シンゲン)が駿河(スルガ)に、徳川家康が遠江(トオトウミ)に侵攻、北条氏を頼り駿東(スントウ)郡戸倉(トクラ)に移る。 _のち家康を頼り武蔵品川に屋敷を与えられる。 いまがわ さだよ【今川 貞世】 ⇒今川了俊 いまがわ のりただ【今川 範忠】 生年不詳 〜 1455 ◇室町前期の武将。幼名は彦五郎、通称は民部大輔。今川範政(ノリマサ)の長男、弥五郎(範勝)・千代秋丸の兄。 _1432(永享 4)病床の範政は正室の子千代秋丸に家督を譲ろうとするが幕府が退け、彦五郎(範忠)は弥五郎・千代秋丸と国人層を巻き込み争う。翌年範政が亡くなると、将軍足利義教(ヨシノリ)が範忠に家督を認め民部大輔に任じる。駿河守護として入国し一族の長老今川貞秋と協力し、範忠擁立に反対した有力国人の狩野・富士らを討伐、領国を固める。 _1438(永享10)義教の命により小笠原政康とともに上杉憲実(ノリザネ)援助の名目で鎌倉公方足利持氏討伐に出兵(永享の乱)。1439(永享11)持氏の遺党による結城合戦には斯波持種の幕府軍に協力。 _1455年の持氏の子氏成の挙兵には鎌倉を攻めて氏成を古河に追う。 (*)1455(享徳 4,康正元)。 いまがわ よしもと【今川 義元】《いまがは よしもと》 1519(永正16) 〜 1560(永禄 3. 5.19) ◇戦国時代の大名。法名は承芳。今川氏親の三男、氏真(ウジザネ)の父。 _はじめ出家していたが、兄氏輝が没すると、還俗して家督を継ぎ駿河守となる。 _駿河・遠江(トオトウミ)さらに1549(天文18)三河地方を加え勢力を振う。武田信玄・北条氏康と和睦して東方を固める。 _1560(永禄)織田信長を討ち京都に向おうとする途中、桶狭間(オケハザマ)で信長の急襲を受け敗死。 _検地・1553(天文22)法度(ハット)の追加(『今川仮名目録』)など内政を整備。 いまがわ りょうしゅん【今川 了俊】《いまがは れうしゆん》 1325(正中 2) 〜 1420(応永27. 8.) ◇室町前期の守護・歌人。名は源金吾・貞世(サダヨ)、法号は椙月徳翁了俊(リョウシュン)。今川範国(ノリクニ)の次男、仲秋の兄。 _第2代将軍足利義詮(ヨシアキラ)・第3代義満(ヨシミツ)に仕え、遠江守護。1370(<南>建徳元,<北>応安 3)九州探題に任命され、翌年九州に赴き、九州の豪族を制圧。和寇(ワコウ)の取締りにも努力。1395(応永 2)義満に召還され駿河守護。召還理由は謀反の疑いといわれる。 (2)生年は1325(正中 2)。 (4)生年は1325。 (6)生年は1326。 (16)生没年不詳。 ◎仲秋を訓戒するために書いた家訓は、江戸時代『今川帖』と呼ばれ子供の手習本・修身書として盛んに用いられた。 いまきた こうせん【今北 洪川】 1816(文化13. 7.10) 〜 1892. 1.16(明治25) ◇幕末・明治前期の禅僧(臨済宗)。名は真三郎、諱は宗温、字は洪川、号は蒼龍窟・虚舟。大阪生れ。 ◎釈宗演(シャク・ソウエン)の師。 いまきのあやひと みん【新漢人 旻】 ⇒旻 いまだ きんご【今田 謹吾】 1897. 2.20(明治30) 〜 1972.11.16(昭和47) ◇児童文学者・劇作家・画家。旧姓は津田、母方をつぐ。 いまなか ふうけい【今中 楓溪】 1883. 4.20(明治16) 〜 1963. 8.17(昭和38) ◇歌人。本名は保次朗。民謡『野崎小唄』を作る。 いまにし りゅう【今西 竜】 1875(明治 8) 〜 1931(昭和 6) ◇歴史学者。岐阜県の人。朝鮮古代史を専攻。 _京都大学教授・京城大学教授。 いまの けんぞう【今野 賢三】 1893. 8.26(明治26) 〜 1969.10.18(昭和44) ◇小説家。本名は賢蔵。秋田県土崎生れ。活動写真の弁士をする。 いまむら あきつね【今村 明恒】 1870(明治 3) 〜 1947(昭和22) ◇地震学者。鹿児島県生れ。 _1894(明治27)東京大学卒業。のち東京大学教授。東京大学地震学科教室主任・地震研究所所員・1929(昭和 4)地震学会初代会長。 いまむら しこう【今村 紫紅】 1880(明治13) 〜 1916(大正 5) ◇日本画家。本名は寿三郎。横浜市生れ。 _1895(明治28)ころ山田馬介に英国風水彩画を学び、1897(明治30)松本楓湖(フウコ)に師事。1901(明治34)安田靫彦(ユキヒコ)らと紫紅会(のち紅児会)を組織。1914(大正 3)院展再興(日本美術院)の同人。 _代表作は『近江八景』・『熱国の巻』など。 いよのくめべ おだて【伊与来目部 小楯】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇5世紀後半の播磨国司。名は山部小楯・磐楯。 _ 481(清寧天皇 2)針間国宰(ハリマノクニノミコトモチ)として新嘗祭の供料を徴収に播磨国に下る。供応の席で弘計王(オケオウ)が歌に託して素性を明らかにし、磐坂市辺押磐(イワサカノイチノヘノオシワ)王子の遺児億計王(オケオウ)・弘計王を発見。 _ 485年、顕宗天皇(弘計王)から山部連を授かる。 いらこ すずしろ【伊良子 清白】 1877.10. 4(明治10) 〜 1946. 1.10(昭和21) ◇詩人・医師。本名は暉造(テルゾウ)、別号は「すずしろのや」・蘿月、清白(セイハク)とも。鳥取県八頭(ヤズ)郡八上(ヤカミ)村(現:河原町曳田<ヒケタ>)生れ。京都府立医学校卒業。 _三重県鳥羽町で医業のかたわら詩作。文庫派の詩人。作品は『孔雀船』(1906<明治39>刊)など。 いらこ せいはく【伊良子 清白】 ⇒伊良子清白 いりえ くいち【入江 九一】 1837. 5. 9(天保 8. 4. 5) 〜 1864. 8.20(元治元. 7.19) ◇江戸幕末の尊王攘夷運動の志士。本名は弘致・弘毅(ヒロタケ)、字(アザナ)は子遠、通称は万吉・喜一・杉蔵・九一、雅号は松白、変名は河島小太郎。長門国萩土原村生れ。萩藩足軽入江嘉伝次の長男、母は村上与三右衛門の長女満智、野村靖(ヤスシ)(和作)の兄。 _13歳のころ藩の下役に就く。 _1856(安政 3. 7.14)父が死去し、1857(安政 4. 3.)江戸藩邸の下働きをしながら学問に励(ハゲ)む。 _1857(安政 4)江戸から飛脚として帰郷した際、吉田松陰(ショウイン)を知り、1858(安政 5. 7.)松下村塾に入門。江戸に出て、老中間部詮勝(マナベ・アキカツ)の暗殺計画に加わるが失敗し未遂。 _1861(文久元. 2.)藩命により水戸藩内で天狗党の動向を探索。 _1859(安政 6)獄中の松陰の指示で尊王攘夷運動に奔走し、幕吏に探知されて藩により投獄。 _1863(文久 3. 1.)尊王攘夷に転じた藩により地方組足軽から終身士雇(一代無給通士)に昇格。 _1863(文久 3. 2.)杉山松助・山県小輔(有朋)らと上京。 _1863(文久 3. 3.)中山忠光の京都脱走に従い、萩に帰郷。 _1863(文久 3. 6.)高杉晋作の奇兵隊創設に下関で尽力。 _1864(元治元)上京し京坂地方に潜伏して探索。七月の蛤御門(ハマグリ)の変で久坂玄瑞(クサカ・ゲンズイ)に従い山崎の天王山に陣取り、浪士隊参謀として鷹司邸内で奮戦。久坂の戦死に際し、被弾して重傷を負いその場で切腹。 ◎久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿(トシマロ)とともに前原一誠(マエバラ・イッセイ)に換えて「四天王」とも呼ばれる。 ◆墓は山口県萩市北古萩の長寿寺。 _首塚は京都府京都市上京区北鞍馬口の上善寺(越前藩の菩提寺)。 [1]いわい はんしろう【岩井 半四郎(初世)】《いはゐ はんしらう》 1652 〜 1699(元禄12) ◇歌舞伎俳優。大坂の座元・立役(タチヤク)。 (*)1652(慶安 5,承応元)。 [2]いわい はんしろう【岩井 半四郎(四世)】《いはゐ はんしらう》 1747(延享 4) 〜 1800(寛政12) ◇歌舞伎俳優。女方(オンナガタ)。屋号は大和屋。 _江戸に移り、お多福半四郎と呼ばれる。 [3]いわい はんしろう【岩井 半四郎(五世)】《いはゐ はんしらう》 1776(安永 5) 〜 1847(弘化 4) ◇歌舞伎俳優。女方(オンナガタ)。初め粂三郎。屋号は大和屋。四世の子。 _鶴屋南北の世話物を得意とし、美貌から目千両(メセンリョウ)と呼ばれる。晩年は杜若(トジャク)と名乗る。 いわがみ じゅんいち【岩上 順一】 1907. 1. 2(明治40) 〜 1958. 8.14(昭和33) ◇文芸評論家・翻訳家。本姓は野村。山口県生れ。 _1929(昭和 4)早稲田大学英文科に入学したが、左傾し非合法活動に従事し、中退。1934(昭和 9)三度目の検挙、翌年転向して出所。この間に岩上家に移籍される。1940(昭和15)東京外語学校ロシア語科専修科卒業。 (2)岩上 順一(いわがみ じゅんいち)。 (5)岩上 順一(いわかみ じゅんいち)。 (11)岩上 順一(いわかみ じゅんいち)。 (13)岩上 順一(いわがみ じゅんいち)。 いわき じゅんたろう【岩城 準太郎】 1878. 3.12(明治11) 〜 1957. 4. 9(昭和32) ◇国文学者。 (8)誕生日は 3.11。 いわき つつじ【岩木 躑躅】 1881. 7.26(明治14) 〜 1971.11. 4(昭和46) ◇俳人・接骨医。本名は喜市、別号は「つつじ」。 いわくら ともみ【岩倉 具視】《いはくら ともみ》 1825(文政 8. 9.15) 〜 1883. 7.20(明治16) ◇明治維新の功臣・公家政治家。公家堀川康親の二子。岩倉具慶の養子、具定(トモサダ)の父。京都の人。 _1857(安政 4)孝明天皇の侍従。1858(安政 5. 1.)老中堀田正睦(マサヨシ)が日米修好通商条約の勅許を求めて自ら上京、公卿が結束して反対し失敗させる。 _はじめ孝明天皇の妹和宮(カズノミヤ)内親王の徳川家降嫁など公武合体に尽力。尊攘派から弾劾され、洛北の岩倉村に謹慎。このとき土佐藩士坂本竜馬・中岡慎太郎が薩長連合の計画をもって訪ねている。のち討幕の中心となり、1867(慶応 3)大久保利通らと王政復古のクーデターを行う。12. 8蟄居が許され参朝を命ぜられる。 _維新後、参与・右大臣に就任。条約改正の準備のため、1871(明治 4.11.12)横浜を発ち欧米に渡り、1873. 9.13(明治 6)帰国。西郷隆盛らの征韓論を阻止し、民権運動に対して井上毅(コワシ)に欽定憲法を起草させるなど、内政の強化充実・近代天皇制の確立に努める。 _国葬。 (6)1854年孝明天皇の侍従。 ◎1874. 1.14(明治 7)夜、右大臣岩倉具視が征韓論を支持する旧土佐(高知県)士族に襲われて負傷(赤坂喰違の変)。 いわぐろ ひでお【岩畔 豪雄】 1897(明治30) 〜 1970(昭和45) ◇昭和前期の陸軍少将。広島県生れ。陸軍大学校第30期卒業。1932(昭和 7)関東軍参謀、以後、参謀本部員・対満事務局事務官・陸軍省兵務局課員、1938(昭和13)陸軍省軍事課の高級課員、1939(昭和14)より1941. 2.(昭和16)まで軍事課長。同年三月、日米開戦前に戦争を回避するため、民間人井川忠雄と渡米、野村吉三郎駐米大使の特別補佐官として交渉に陸軍の意向を反映させる。帰国後、近衛歩兵第五連隊長、1942(昭和17)インド独立協力機関長、1943(昭和18)陸軍少将・第25軍参謀副長兼軍政監部総務部長、1944(昭和19)第28軍参謀長を歴任。 ◎井川忠雄(いかわ ただお)、元大蔵省財務官として滞米七年、当時は産業組合中央金庫理事。 いわさ かつもち【岩佐 勝以】 1578(天正 6) 〜 1650(慶安 3) ◇江戸初期の画家。別名は又兵衛、浮世又兵衛と渾名(オダナ)される。伊丹城主荒木村重(ムラシゲ)の末子。 _1578(天正 6)織田信長に一族は伊丹城を追われる。又兵衛は母方の越前岩佐氏に養われる。織田信雄の小姓を勤めながら絵を学ぶ。1637(寛永14)幕府に招かれ江戸に下り、川越東照宮に歌仙絵額を制作。江戸で没する。 いわさ さくたろう【岩佐 作太郎】 1879. 9.25(明治12) 〜 1967. 2.12(昭和42) ◇アナーキスト。 いわさ とういちろう【岩佐 東一郎】 1905. 3. 8(明治38) 〜 1974. 5.31(昭和49) ◇詩人・随筆家。東京生れ。法政大学仏文科卒業。 (1)没日は 5.11。 (5)没日は 5.31。 (8)没日は 5.31。 いわさ またべえ【岩佐 又兵衛】《いはさ またべゑ》 ⇒岩佐勝以 いわさき あきら【岩崎 昶】 1903.11.18(明治36) 〜 1981. 9.16(昭和56) ◇映画評論家。東京生れ。1927(昭和 2)東京帝国大学独文科卒業。 _1929(昭和 4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に加入。1939(昭和14)治安維持法違反で逮捕され、出獄後は満州映画協会嘱託。 _1946(昭和21)日本映画社(日映)の局長となり、亀井文夫らと製作した『日本の悲劇』がGHQにより公開禁止となる。 いわさき こやた【岩崎 小弥太】 1879. 8. 3(明治12) 〜 1945.12. 2(昭和20) ◇実業家・三菱財閥の主宰者(4代目)。岩崎弥之助の長男。東京神田生れ。学習院・第一高等学校を経て東京大学法科中退。1905(明治38)ケンブリッジ大学卒業。 _従兄岩崎久弥(ヒサヤ)の跡を継ぎ、1916(大正 5)三菱合資会社副社長から社長に就任。1917(大正 6)造船部を独立、三菱造船を設立(1934<昭和 9>三菱重工業と改称)。1918(大正 7)営業部を独立、三菱商事を設立。1932(昭和 7)資料課を独立、三菱経済研究所を設立。1937(昭和12)地所部を独立、三菱地所を設立。 いわさき しゅんか【岩崎 蕣花】 1864(元治元) 〜 1923(大正12) ◇小説脚色家。 いわさき じゅんこう【岩崎 純孝】 1901. 4. 9(明治34) 〜 1971. 2.27(昭和46) ◇翻訳家・児童文学者。本名は純孝(ヨシタカ)。 いわさき ひさや【岩崎 久弥】 1865.10.14(慶応元. 8.25) 〜 1955.12. 2(昭和30) ◇実業家・三菱財閥の主宰者(3代目)。岩崎弥太郎の長男。慶応義塾普通部を経て、1891(明治24)ペンシルベニア大学卒業。 _姉婿は加藤高明(タカアキ)、妹婿は幣原喜重郎(シデハラ・キジュウロウ)。 _1894(明治27)三菱合資会社を設立し社長に就任。1896(明治29)男爵。1916(大正 5)従弟岩崎小弥太(コヤタ)に社長を譲渡。 いわさき やたろう【岩崎 弥太郎】《いはさき やたらう》 1834(天保 5.12.) 〜 1885. 2. 7(明治18) ◇実業家・三菱財閥の創始者。名は寛、号は東山。土佐藩安芸郡井ノ口村一ノ宮に住む地下(ジゲ)浪人(*1)弥次郎の子、弥之助の兄。 _加藤高明(タカアキ)・幣原喜重郎(シデハラ・キジュウロウ)は娘婿。 _1853(嘉永 6)江戸に出て安積艮斎に学び、帰郷後、吉田東洋の門下生となり後藤象二郎の知遇を得て、藩の貨殖局下役さらに長崎勘定役に抜擢。1870(明治 3)土佐藩主山内家が土佐開成商社(九十九<ツクモ>商会)を創業、経営を一任され藩の海運の全権を握る。 _廃藩置県を前に九十九商会を解散、藩船その他の払い下げを受ける。翌1871(明治 4)に三川商会を経て三菱商会と社名を変更。 _1874(明治 7)西郷従道(ツグミチ)の征台の役で、政府が買い入れた13隻の汽船の依託を受け軍事輸送を行い、政府の保護を得てただ同然の汽船払い下げ・洋銀80万ドルの低利補助金交付などを受ける。1875(明治 8)郵便汽船三菱会社(三菱会社)と改称。1886(明治19)江華島事件、さらに1877(明治10)西南の役で政府御用の海運業者として70万ドルの補助を受け巨利を得、為替・海上保険・鉱山業・造船業にも進出。 _1881(明治14)三菱の保護政策をとっていた大隈重信が失脚、政府(井上馨)は1883(明治16)新たに三井の資本をバックに共同運輸会社を創設して保護、激しい競争となる。結局、1885(明治18)両社が合併することになるが、日本郵船会社の創設前に病死。三菱の事業は弟の弥之助が次ぐこととなる。 _死後、1903(明治36)末娘が幣原喜重郎と結婚。 (2)生年は1834。 (4)生年は1834。 _明治七年三菱商会を起し……。 (6)生年は1834/35。 (16)生年は1834(天保 5.12.)。 _翌1871(明治 4)社名を三菱商会とあらため……。(*1)地下浪人とは40年以上郷士職にあった者がその郷士株を売却した場合をいう。 いわさき やのすけ【岩崎 弥之助】 1851(嘉永 4. 1. 8) 〜 1908. 3.25(明治41) ◇実業家。岩崎弥太郎の弟。土佐生れ。三菱財閥の基礎を確立。 _1872(明治 5)米国に留学。帰国後副社長。 _1885(明治18)兄の死により郵便汽船三菱会社の社長に就任、間もなく共同運輸会社と合併し日本郵船会社が設立され社長は郵船設立委員長の森岡昌純(マサズミ)(三井系)が就任。彼は郵船の大株主となって実質支配権を保持し海運から退く。 _1886(明治19)三菱社を創設して鉱山・造船・海上保険を発展させる。1887(明治20)長崎造船所の払い下げを受ける。 _1893(明治26)三菱合資会社を設立。 _1896(明治29)長男の久弥に社長を譲り、日本銀行総裁に就任。 いわさき りょうぞう【岩崎 良三】 1908. 2.16(明治41) 〜 1976. 3. 4(昭和51) ◇英文学者。 いわした しゅんさく【岩下 俊作】 1906.11.16(明治39) 〜 1980. 1.30(昭和55) ◇小説家。本名は八田秀吉(ハッタ・ヒデキチ)。福岡県生れ。小倉工業卒業。 いわした そういち【岩下 壮一】《いはした さういち》 1889(明治22) 〜 1940(昭和15) ◇カトリック司祭・哲学者。静岡県生れ。 _東京大学哲学科卒業。欧米に留学。 _救癩(キュウライ)事業に献身し、1930(昭和 5)富士山麓の神山復生病院院長。 (4)生年は1887。 (6)生年は1889。 いわせ きょうでん【岩瀬 京伝】《いはせ きやうでん》 ⇒山東京伝 いわせ ただなり【岩瀬 忠震】《いはせ ただなり》 1818 〜 1861(文久元. 7.) ◇江戸幕末の外国奉行。幼名は篤三郎のち忠震、通称は伊賀守・肥後守。江戸生れ。旗本設楽貞丈(サダトモ)の三男、母は大学頭林述斎の娘。 _1834(天保 5)旗本800石の岩瀬忠正の養子となる。1854(嘉永 7. 1.)老中阿部正弘に抜擢され、目付となる。 _1856(安政 3. 7.)下田奉行とともに下田に着任した米国総領事ハリスを応接。1857(安政 4)8月に日蘭追加条約に調印、9月にプチャーチンと日露追加条約に調印、12月には井上清直とともにハリスと日米修好通商条約の草案を審議。1858(安政 5)6月に日米修好通商条約を調印、7月から9月にオランダ・ロシア・イギリス・フランスと相次いで修好通商条約を締結。外国奉行に昇進。 _1859(安政 6)将軍の世継問題で一橋慶喜を推し、徳川慶福(ヨシトミ)(将軍家茂)を推す大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)に疎まれて作事奉行に左遷される。 (*)1818(文化15,文政元)。 いわた うざん【岩田 烏山】 1874(明治 7) 〜 没年不詳 ◇小説家。本名は千克。大正期から活動していない。 いわた きよし【岩田 潔】 1911. 7. 3(明治44) 〜 1962. 2.24(昭和37) ◇俳人。 いわた じゅんいち【岩田 準一】 1900(明治33) 〜 1945(昭和20) ◇挿絵画家。鳥羽生れ。 いわた せんたろう【岩田 専太郎】 1901. 6. 8(明治34) 〜 1974. 2.19(昭和49) ◇画家。東京生れ。 _伊東深水に師事。志村立美(タツミ)・小林秀恒(ヒデツネ)とともに挿絵界の三羽烏と呼ばれた。 いわた とよお【岩田豊雄】 ⇒獅子文六 いわた りょうと【岩田 涼菟】《いはた りやうと》 1661 〜 1717(享保 2) ◇江戸中期の俳人。別号は団友・神風館三世。伊勢山田の神官。伊勢風の祖。 (*)1661(万治 4,寛文元)。 いわたに しょうせん【岩溪 裳川】 1855(安政 2) 〜 1943. 3.27(昭和18) ◇漢詩人。名は晋(ススム)、字は子譲、号は裳川。 いわなが ゆたか【岩永 胖】 1906. 8.25(明治39) 〜 1970. 4.17(昭和45) ◇評論家・近代文学研究家。 いわなみ しげお【岩波 茂雄】《いはなみ しげを》 1881. 8.27(明治14) 〜 1946. 4.25(昭和21) ◇岩波書店の創業者。長野県諏訪生れ。 _1908(明治41)東京大学哲学科選科卒業。1913(大正 2)古本屋岩波書店を開業、1914(大正 3)出版を開始。1940(昭和15)津田左右吉の筆禍事件に連座、免訴となる。 _貴族院議員。1946(昭和21)文化勲章を受章。 ◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。 いわの きよこ【岩野 清子】 1882. 2.11(明治15) 〜 1920.12.18(大正 9) ◇小説家・評論家。本名は遠藤清子。 いわの ほうめい【岩野 泡鳴】《いはの はうめい》 1873. 1.20(明治 6) 〜 1920. 5. 9(大正 9) ◇詩人・小説家・劇作家・評論家。本名は美衛(ヨシエ)、初期の筆名は白滴子・阿波寺鳴門左衛門。兵庫県津名郡洲本(スモト)町(淡路島)生れ。明治学院を一年で退学。1920. 4.(大正 9)スペイン風邪に罹り、急性腹膜炎により死去。 _自然主義作家で、作者と主人公の一元描写論を提唱。 (1)没日は 5. 8。 (3)没日は 5. 9。 (5)没日は 5. 9。 (8)没日は 5. 9。 (11)没日は 5. 9。 (13)没日は 5. 9。 いわまつ すけざえもん【岩松 助佐衛門】 1804 〜 1872(明治 5) ◇江戸幕末の灯台設計者。豊前国小倉の人。小倉藩海上御用掛。 _海難防止のために関門海峡西口の白洲灯台建設を決意、義金を募る。1872(明治 5)私築禁止の令により、事業は政府の手に移り、完成を待たずに死去。 (*)1804(享和 4,文化元)。 いわみ じゅうたろう【岩見 重太郎】《いはみ ぢゆうたらう》 生年不詳 〜 1615 ◇桃山時代の伝説的豪傑。読本・講談・歌舞伎などで有名。筑前小早川家の臣で、諸国を武者修行し狒狒(ヒヒ)退治・大蛇退治などで勇名を挙げ、天の橋立で父の仇広瀬軍蔵らを討ち、やがて豊臣秀吉に仕え、薄田隼人(ススキダ・ハヤト)(兼相<カネスケ>)となったとされる。 (*)1615(慶長20,元和元)。 いわむら かずお【岩村 和雄】 1902. 3. 3(明治35) 〜 1932.11.29(昭和 7) ◇舞踊家。 いわむら とおる【岩村 透】 1870(明治 3. 1.25) 〜 1917. 8.17(大正 6) ◇美術評論家。号は芋洗・迂遷・観堂。東京生れ。 _東京美術学校で西洋美術史を講義。白馬会・国民美術協会の設立に参加。 いわもと しゅうぞう【岩本 修蔵】 1908. 9.10(明治41) 〜 1979. 3. 9(昭和54) ◇詩人。三重県生れ。 (5)誕生日は 9.10。 (8)誕生日は 9. 1。 (11)誕生日は 9.10。 いわもと ぜんじ【巌本 善治】《いはもと ぜんぢ》 ⇒巌本善治 いわもと そはく【岩本 素白】 1883. 8.17(明治16) 〜 1961.10. 2(昭和36) ◇国文学者・随筆家。本名は堅一(ケンイチ)。東京生れ。早稲田大学卒業。 いわもと てい【岩本 禎】 1869(明治 2. 5. 3) 〜 1941. 7.14(昭和16) ◇哲学者。蔵書は鹿児島大学図書館に寄贈され、岩本文庫となる。 いわもと まり【巌本 真理】 1926(大正15) 〜 1979. 5.11(昭和54) ◇バイオリニスト。 (*)1926(大正15,昭和元)。 いわもと よしはる【巌本 善治(巖本 善治)】 1863(文久 3. 6.15) 〜 1942.10. 6(昭和17) ◇評論家・キリスト教女子教育家。旧姓は井上、号は井上次郎・月の舎しのぶ・山下石翁・撫象子・如雲・みどり。若松賎子(シズコ)の夫、提琴家巌本真理の祖父。但馬国出石町の商家に生れる。 _幼少にして母方の叔父で漢詩人の巌本琴城の養子となる。1876(明治 9)上京。1885(明治18)木村熊二・木村鐙(トウ)が明治女学校を創設し、その教頭となる。1889(明治22)若松賤子(シズコ)と結婚。 _「女学雑誌」を編集(第24号以降)、婦人解放論を唱える。 (1)巌本 善治(いわもと よしはる)。 (3)巌本 善治(いわもと ぜんじ)。 (4)巌本 善治(いわもと ぜんじ)。 (5)巌本 善治(いわもと よしはる)。 (8)巌本 善治(いわもと よしはる)。 (11)巌本 善治(いわもと よしはる)。 (13)巖本 善治(いわもと ぜんじ)、没日は1943.10. 5(昭和18)。 いわや いちろく【巌谷 一六】《いはや いちろく》 1834(天保 5. 2.) 〜 1905. 7.12(明治38) ◇江戸幕末・明治期の書家・漢詩人・医者。名は修、号は一六・一六居士・古梅・金粟道人。近江水口(ミナクチ)藩藩医。巌谷小波(サザナミ)の父。 _初め巻菱湖に書風を学び、のち清国の楊守敬と交わる。 _のち貴族院議員。 ◎明治四大書家の一人。 いわや えいじ【巌谷 栄二】 1909. 9.21(明治42) 〜 1969.11.23(昭和44) ◇児童文学研究者。巌谷小波(サザナミ)の次男。 いわや くちなし【巌谷 山梔子】 1883. 1.30(明治16) 〜 1944. 1. 4(昭和19) ◇俳人。名は健治。 いわや さざなみ【巌谷 小波(巖谷 小波)】《いはや さざなみ》 1870(明治 3. 6. 6) 〜 1933. 9. 5(昭和 8) ◇小説家・童話作家・俳人。本名は季雄(スエオ)、別号は楽天居(俳句)・漣山人(サザナミサンジン)・大江小波・隔恋坊。東京麹町(コウジマチ)平河町(ヒラカワチョウ)五丁目生れ。巌谷一六(イチロク)の子、巌谷槇一(シンイチ)・巌谷栄二(エイジ)・巌谷大四(ダイシ)の父。 _尾崎紅葉・川上眉山らと硯友社を設立。 _1925(大正14)アンデルセンの祖国デンマーク国王よりダンネブロウB二等文化勲章を受ける。 いわや しんいち【巌谷 槇一】 1900. 9.12(明治33) 〜 1975.10. 6(昭和50) ◇劇作家・演出家。本名は三一。巌谷小波(サザナミ)の長男。 いわや ばくあい【岩谷 莫哀】 1888. 4.18(明治21) 〜 1927.11.20(昭和 2) ◇歌人。本名は禎次(テイジ)。鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田生れ。1914(大正 3)東京帝国大学経済科卒業。 (3)本名は禎次(テイジ)。 (5)本名は禎二。 (8)本名は禎次。 (11)本名は禎二。 (13)本名は禎次(テイジ)。 いわや まつへい【岩谷 松平】《いはや まつへい》 1849(嘉永 2) 〜 1920(大正 9) ◇実業家。薩摩の人。 _上京し岩谷商会を設立。 _1877(明治10)国分(コクブ)葉を原料とした国産初の紙巻タバコ天狗煙草(テングタバコ)を発売。 _のち衆議院議員。 いんかく【院覚】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安後期の木仏師。定朝の孫の院助(インジョ)の子といわれる。 _院助の創始した院派七条大宮仏所の仏師で、宮廷関係の造仏をほとんど手がけ法眼に叙せられる。 いんぎょう てんのう【允恭 天皇】《いんぎよう てんわう》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇第19代の天皇。名は雄朝津間稚子宿禰尊(オアサヅマワクゴノスクネノミコト)。仁徳天皇の第4皇子、母は磐之媛命。第18代反正(ハンゼイ)天皇の同母弟。皇后は忍坂大中媛(オサカノオオナカツヒメ)(応神天皇の孫)、木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)・第20代安康(アンコウ)天皇・第21代雄略(ユウリャク)天皇・軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)の父。 _反正天皇に継いで即位、大和の遠飛鳥宮(トオツアスカノミヤ)を都とする。 _皇后の妹[1]衣通郎姫(ソトオシノイラツメ)(弟姫)を寵愛、皇后の嫉妬をさけるため河内の茅渟宮(ヌチノミヤ)に住まわせ、姫のため諸国に藤原部を定める。 _皇太子木梨軽皇子と同母妹軽大娘皇女とが相愛の仲となり、天皇の御膳の汁が凍ったことから露見して皇女を伊予国に流し、皇太子は赦(ユル)す。 _在位: 412(壬子.12.)〜 453(癸巳. 1.14)。 ◎『宋書』倭国伝の「済」に比定される。 _氏姓の混乱を正すため諸氏を味橿丘(ウマカシノオカ)(奈良県高市郡明日香村)に集めて盟神探湯(クガダチ)を行ったという。 (2)味橿丘(ウマカシノオカ)(奈良県高市郡明日香村)で……。 (16)味橿智に会して……. いんげん【隠元】 1592(万暦20) 〜 1673(康煕12) ◇江戸前期の帰化僧。臨済宗の一派日本黄檗宗(オウバクシュウ)の開祖。名は隆(「王」偏+「奇」:補助4411〔_〕)、諡号は大光普照国師。明国の福建省福州府の人。 _1654(承応 3)渡来。将軍徳川家綱に請い、1661年山城国宇治に黄檗山万福寺を建立。 (*)1592(天正20,文禄元)、1661(万治 4,寛文元)、1673(寛文13,延宝元)。 いんじょ【院助】 生年不詳 〜 1108 ◇平安時代の院派(インパ)の木仏師。定朝の孫。 (*)1108(嘉承 3,天仁元)。 いんそん【院尊】 1120 〜 1198(建久 9) ◇平安後期の院派(インパ)の木仏師。院覚(インカク)の子、または弟子。 (*)1120(元永 3,保安元)。 いんべのひろなり【斎部 広成】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安初期の廷臣。 _斎部氏が中臣氏に押されていたため、正史に漏れた記事も含み祖先の功業を記し、 807(大同 2)『古語拾遺(コゴシュウイ)』が完成。 いんべのまさみち【忌部 正通】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇南北朝時代(室町)の神道家。