かいおんじ ちょうごろう【海音寺 潮五郎】 1901. 3.13(明治34) 〜 1977.12. 1(昭和52) ◇小説家。本名は末富東作(スエトミ・トウサク)。鹿児島伊佐郡大口村生れ。国学院大学卒業。太平洋戦争中、報道班員として徴用、マレー方面へ行く。 (1)誕生日は1901. 3.13(明治34)。 (5)誕生日は1901. 3.13(明治34)。 (8)実際は11. 5生れで、届け出の不備のため 3.13となったという。 (11)誕生日は1901. 3.13(明治34)。 (13)誕生日は1901. 3.14(明治34)。 かいが とものぶ【貝賀 友信】 1650(慶安 3) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、中小姓・蔵奉行、十両三人扶持。通称は弥左衛門(ヤザエモン)、吉良家の探索中の変名は町人に扮して喜十郎(キジュウロウ)。吉田忠左衛門(ヨシダ・チュウザエモン)兼亮(カネスケ)の実弟。母方の貝賀新兵衛(シンベエ)の養子。 _吉良家討ち入りでは表門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、大島半平(オオシマ・ハンペイ)の介錯(カイシャク)で切腹。 かいが へんてつ【海賀 変哲】 1871(明治 4.12. 5) 〜 1923. 4.13(大正12) ◇雑誌記者・小説家。本名は篤麿。福岡県生れ。札幌農学校(現:北海道大学)に学ぶ。1906(明治39)博文館に入社、雑誌「少女世界」・「文芸倶楽部」の編集に当る。 かいが やざえもん【貝賀 弥左右衛門】 ⇒貝賀友信 かいけい【快慶】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉時代の仏師。運慶(ウンケイ)または康慶(コウケイ)の弟子。 _大仏師法眼快慶・安阿弥陀仏・巧匠法眼快慶とも称する。 かいざわ ただし【貝沢 正】 1911(明治44) 〜 1992(平成 4) ◇アイヌ文化研究者。北海道平取生れのアイヌ民族。 _開拓団として満州に渡り、帰国して平取に再び住む。 かいせん じょうき【快川 紹喜】《くわいせん ぜうき》 生年不詳 〜 1582(天正10. 4. 3) ◇室町末期の臨済宗の僧。美濃土岐氏の生れ。 _美濃の崇福寺の住職であったが国主斎藤義龍をきらい、武田晴信に迎えられて甲斐の恵林寺(エリンジ)の住職となる。 _1582(天正10)武田勝頼が織田信長に攻められた時、甲斐の禅僧は武田と運命をともにする覚悟で恵林寺に集まった。このとき、信長に敗れた近江の佐々木義弼が恵林寺に身を寄せて密かに北国に逃れた。怒った信長は四方から寺に火をかけ、快川は多くの僧とともに焼死。 ◎快川は山門上で端坐、焼死しようとする際に「心頭(シントウ)滅却(メッキャク)すれば火もまた涼し」の偈(ゲ)を発ったという。 かいとう まつぞう【垣内 松三】 1878. 1. 2(明治11)  ???? 〜 1952. 8.25(昭和27) ◇国文学者・国語教育学者。筆名は松三(マツミ)。 (8)垣内 松三(かいと まつぞう)、誕生日は 1.11。 かいのう みちたか【戒能 通孝】 1908(明治41) 〜 1975(昭和50) ◇法社会学者。長野県生れ。 _東京帝国大学卒業。 _早稲田大学・都立大学教授。 _小繋(コツナギ)事件で農民側弁護士として活躍。 _著書は『入会(イリアイ)の研究』など。 かいばら えきけん【貝原 益軒】《かひばら えきけん》 1630(寛永 7.11.14) 〜 1714(正徳 4. 8.27) ◇江戸前期の儒学者・本草学者・教育学者。名は篤信(アツノブ)、字は子誠、通称は久兵衛・助三郎、別号は柔斎・損軒。筑前国(福岡県)の人。 _黒田(福岡)藩士。京都に遊学。 _松永尺五(セキゴ)・木下順庵(ジュンアン)・山崎闇斎(アンサイ)などを師とし、はじめ陸象山(リク・ショウザン)・王陽明の学を学び、のち朱子学に移る。 _26歳で剃髪し、柔斎と号した。 _晩年の『大疑録』では朱子学の理気二元論に対し理気一元論を展開。 _著書は1709(宝永 6)『大和本草』・1714(正徳 4)『慎思録』・1714(正徳 4)『大疑録』、1708(宝永 5)『大和俗訓』・1713(正徳 3)『養生訓』などの『益軒十訓』など。 ◎子供の世界と大人とを同列にすべきでないことを指摘。 ◎江戸中期以後広く流布した『女大学』は、益軒の『和俗童子訓』をもとに後人が抄出したとする説が有力。 かえりやま のりまさ【帰山 教正】 1893. 3. 1(明治26) 〜 1964.11. 6(昭和39) ◇映画監督・技術研究者。 かが こうじ【加賀 耿二】 1899.10.15(明治32) 〜 1974. 6. 8(昭和49) ◇小説家・労働運動家。本名は谷口善太郎、初めの筆名は須井一(スイ・ハジメ)。石川県生れ。 かがのちよ【加賀 千代】 1703(元禄16) 〜 1775(安永 4. 9. 8) ◇江戸中期の女流俳人。千代女・千代尼とも、号は剃髪(テイハツ)後、素園(ソエン)。 ◆千代尼忌(素園忌)[旧暦 9. 8]。 かがみ しこう【各務 支考】 1665(寛文 5) 〜 1731(享保16. 2. 7) ◇江戸前期の俳諧師。別号は東華坊・西華坊・野盤子・見竜・獅子庵(シシアン)、変名は蓮二房・白狂・渡辺ノ狂。美濃国生れ。蕉門(ショウモン)十哲の一人。 かがわ かげき【香川 景樹】 1768(明和 5. 4.10) 〜 1843(天保14. 3.27) ◇江戸後期の歌人・歌学者。和歌の家柄の香川景柄(カゲモト)の養子となる。1804(文化元)香川家より独立し、桂園派(ケイエンハ)を創始。 (?)一時、荒川純徳(スミトク)を名乗る。  ???? (5)鳥取藩士荒川小三次の次男に生れたが、早く父を失い、親類の奥村定賢に養われたので、当時は奥村純徳(スミノリ)と名乗った。 (11)鳥取藩士荒川小三次の次男に生れたが、早く父を失い、親類の奥村定賢に養われたので、当時は奥村純徳(スミノリ)と名乗った。 かがわ とよひこ【賀川 豊彦(賀川 豐彦)】 1888. 7.10(明治21) 〜 1960. 4.23(昭和35) ◇牧師・社会事業家。神戸市島上町で回漕店を営む父と芸者との間に生れる。1904(明治37)徳島中在学中に受洗。1907(明治40)明治学院神学部予科を卒業、神戸中央神学校に転校。1909(明治42)在学中から神戸の貧民街に住み伝道を始める。神学校を卒業後、1914(大正 3)渡米しプリンストン大学・プリンストン神学校に留学。帰国後も貧民街にもどって伝道を続ける。1921(大正10)神戸三菱・川崎造船所の労働争議を指導などキリスト教的な社会主義運動を実践。1929(昭和 4)東京に転居、伝道の著述に努める。太平洋戦争の開戦前、反戦論を唱えたという理由で憲兵隊に拘留された。戦後は東久邇(ヒガシクニ)内閣の参与、また社会党の結成に尽力。 (5)誕生日は 7.10。 (13)誕生日は 7.12。 かがわ ふぼう【香川 不抱】 1889. 2.10(明治22) 〜 1917.10. 5(大正 6) ◇歌人。本名は栄、号は延齢。 かきのもとのひとまろ【柿本 人麻呂】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇大和時代の歌人。柿下とも人麿とも柿本朝臣(アソミ)人麿(『万葉集』)とも記す。日並皇子・高市皇子の舎人(トネリ)ともいう。7世紀後半、持統・文武の両天皇に仕えた。五〇歳ぐらいで和銅年間( 708〜 715)に死亡か。 ◆人麿忌(人丸忌)[旧暦 3.18]。[ 4.15]島根県益田市の柿本神社で例祭。[ 4.18を中心に]兵庫県明石市の柿本神社(人丸神社)で例祭。 (17)天武十三年(六八四)に八色の姓(ヤクサノカバネ)の第二位「朝臣(アソミ)」を賜わる。 (*) 684[天武12]。 ◎住吉(スミヨシ)・玉津志摩の二神とともに「和歌の三神」と呼ばれる。 かくさんに【覚山尼】 1252(建長 4) 〜 1306 ◇鎌倉時代の尼僧・第8代執権北条時宗の妻。 _鎌倉市山ノ内にある東慶寺(トウケイジ)を開山。 (*)1306(嘉元 4,徳治元)。 ◎家庭不和などに苦しむ女性を救済するため、尼として3年奉公することにより離婚できる縁切寺(エンキリデラ)の寺法を定めたといわれている。 かくだ こうこうかかく【角田 浩々歌客】 1869(明治 2. 9.16) 〜 1916. 3.16(大正 5) ◇評論家・新聞記者。本名は勤一郎、別号は伊吹郊人・剣南子・剣南道士・不二行者。駿河国生れ。慶応義塾卒業。佐野天声(サノ・テンセイ)の兄。 (1)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく)。 (3)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。 (5)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。 (8)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく)。 (11)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。 (13)角田 浩々歌客(かくだ こうこうかかく)。 かけい かつひこ【筧 克彦】 1872(明治 5.11.28) 〜 1961. 2.27(昭和36) ◇明治〜昭和期の公法学者・神道思想家。長野県諏訪生れ。東京帝国大学法科大学卒業。 かげやま ひでこ【景山 英子】 ⇒福田英子 かこ つるど【賀古 鶴所】 1855(安政 2. 1. 2) 〜 1931. 1. 1(昭和 6) ◇近世・耳鼻咽喉科の創始者・医師。 かごしま じゅぞう【鹿児島 寿蔵(鹿兒島 壽藏)】 1898.12.10(明治31) 〜 1982. 8.22(昭和57) ◇紙塑(シソ)人形の製作(重要無形文化財)・歌人。福岡生れ。鹿児島やすほの夫。 かごしま やすほ【鹿児島 やすほ】 1899. 9. 4(明治32) 〜 1975. 1.14(昭和50) ◇歌人。本名はヤスオ。鹿児島寿蔵(ジュゾウ)の妻。 かさい ぜんぞう【葛西 善蔵(葛西 善藏)】 1887. 1.16(明治20) 〜 1928. 7.23(昭和 3) ◇小説家。号は歌棄・酔狸州。青森県弘前町の松森町生れ。哲学館(現:東洋大学)・早稲田大学英文科の聴講生。 かさのいらつめ【笠 女郎】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良時代の歌人。 かさのかなむら【笠 金村】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良時代の歌人。 かさはら けんじろう【笠原 健治郎】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇大正後期〜昭和初期の小説家。 かさはら せいどう【笠原 静堂】 1913(大正 2) 〜 1947. 5.31(昭和22) ◇俳人。本名は正雄。 かざま なおえ【風間 直得】 1897. 7. 7(明治30) 〜 没年不詳 ◇俳人・洋画家。東京日本橋浜町生れ。ルビの多用を提唱。 かざまき けいじろう【風巻 景次郎】 1902. 5.22(明治35) 〜 1960. 1. 4(昭和35) ◇国文学者。旧姓は平田。 かさもり おせん【笠森 お仙】 1752(宝暦 2) 〜 1827(文政10) ◇江戸三美人の一人。江戸谷中の笠森稲荷の前で水茶屋を営む鍵屋(カギヤ)五郎兵衛の娘。 _十四、五歳の頃に水茶屋の看板娘として評判になる。 _御庭番の倉地政之助に嫁ぎ、九人の子を育てる。 _病没し、四谷の正見寺に葬られる。 ◆墓は正見寺(明治に現在地東京都中野区へ移転)。 ◎大田南畝(ナンポ)の『一話一言』や『売飴土平伝』に記される。また、浮世絵や芝居でももてはやされ、子供の手まり唄にもなり後世まで伝えられた。 _山東京伝の合巻『笠森娘錦笈摺(カサモリムスメニシキノオイズリ)』や河竹黙阿弥の歌舞伎『怪談月笠森』(通称は笠森お仙)のモデル。 ◎江戸三美人は明和三美人とも呼び、他の二名は柳屋のお藤、蔦屋(ツタヤ)のお好。 かざんいん【花山院】 968(安和元.10.26) 〜 1008(寛弘 5. 2. 8) ◇第65代花山天皇・平安中期の歌人。諱は師貞(モロサダ)。冷泉(レイゼイ)天皇の第一皇子、母は一条摂政伊尹女(コレマサ,コレタダノムスメ)懐子(カイシ)。 984(永観 2)即位。中宮藤原(「低」の「イ」を立心偏に替える:補助2957〔_〕)子の死を悼み、藤原兼家・道兼父子にあざむかれ、 986(寛和 2)在位一年九ヶ月一九歳で退位、出家し花山寺に入る。花山天皇が遁世の際に出て行った平安京の偉鑒門(イカンモン)は、その後開けることがなかったので「不開の門(アカズノモン)」と呼ばれた。 かざんいん ながちか【花山院 長親】 生年不詳 〜 1429(正長 2. 7.10) ◇南北朝末・室町初期の歌人・学者。法名は明魏(メイギ)、号は耕雲・畊雲、姓は藤原。南朝に仕え従一位・右大臣。両統合体後、1392(南朝元中 9)出家。生年は貞和(1345〜1350)ころ、享年八〇余歳。和歌を宗良(ムネナガ)親王に学び、『新葉和歌集』の撰定に参与。仮名の起源・沿革および五十音の音韻組織などを説いた『倭片仮字反切義解』など。 かじ わたる【鹿地 亘】《かぢ わたる》 1903. 5. 1(明治36) 〜 1982. 7.26(昭和57) ◇小説家・評論家。本名は瀬口貢。大分県生れ。 _東京帝国大学卒業。 _1932(昭和 7)日本共産党に入党。日本プロレタリア作家同盟(NALP)の解散の際、1934. 3.12(昭和 9)治安維持法違反で検挙、獄中で転向を声明、10. 4保釈出獄。 _1936. 1.(昭和11)中国に脱出、魯迅に私淑。日華事変後は国民政府の軍事委員会顧問として日本軍兵士に対する反戦宣伝に従事。 _1946. 5.(昭和21)帰国。1951.11.25(昭和26)午後7時ころ藤沢市で米軍キャノン機関に拉致(ラチ)、本郷ハウス(GHQに接収されていた文京区の岩崎邸)に監禁。一時自殺を図る。のち川崎市新丸子のTCハウスを経て琉球(現:沖縄県)米軍基地に移される。 _約一年後の1952.12. 7(昭和27)明治神宮外苑で解放されて新宿区上落合の自宅に帰り、在日米軍の諜報機関に監禁されていたと発表(「鹿地亘事件」)。 ◎鹿地亘事件によってキャノン機関(Z機関)の存在が明らかになった。 _1951. 9.(昭和26)対日講和条約締結で、すでに主権回復された後の事件であったことから大きな社会問題となる。 ◎監禁は、キャノン機関が鹿地を二重スパイにするために行われたもの。 _監禁中、米軍のコックをしていた山田善二郎の協力により外部と一部連絡が取れていた。 かじい のぼる【梶井 陟】 1927(昭和 2) 〜 1988(昭和63) ◇朝鮮語研究者。 _理科教師として中学校で教鞭を取りながら、朝鮮語を学習。雑誌「朝鮮文学」の同人。朝鮮文学の翻訳や『朝鮮語入門』などを著す。 かじい もとじろう【梶井 基次郎】 1901. 2.17(明治34) 〜 1932. 3.24(昭和 7) ◇小説家。大阪市内土佐堀通生れ。1919(大正 8)北野中学校卒業、九月第三高等学校理科に入学、1924. 3.(大正13)卒業。同年四月、東京大学英文科に進学、1926(大正15)病気のため退学。肺結核で死去。 (1)誕生日は 2. 1。 (3)誕生日は 2.17。 (5)誕生日は 2.17。 (8)誕生日は 2.17。 (11)誕生日は 2.17。 (13)誕生日は 2.17。 ◆檸檬忌[ 3.24]代表作『檸檬(レモン)』から。 ◆追悼会[五月]静岡県伊豆湯ヶ島温泉の湯河屋。 かじうら まさゆき【梶浦 正之】 1903. 5.20(明治36) 〜 1966.12.12(昭和41) ◇詩人。 かじかわ よそべえ【梶川 与惣兵衛】 ⇒梶川頼照 かじかわ よりてる【梶川 頼照】 1647(正保 4) 〜 1722(享保 7) ◇江戸中期の旗本・留守居番(奥年寄)。通称は与惣兵衛(ヨソベエ)。土岐頼泰の次男、梶川分重の養子。 _1696(元禄 9)本所奉行。1700(元禄13)留守居番。 _1701(元禄14. 3.14)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が松の廊下で刃傷(ニンジョウ)の際、後ろから羽交(ハガ)い締(ジ)めにして制止する。 _事件の五日後 3.19、知行(チギョウ)に500石加増され1,200石取りになる。事件後六年間留守居番を勤め、のち筒頭を経て、1711(正徳元)鑓(ヤリ)奉行、1719(享保 4)致仕し隠居。 _刃傷事件を『梶川氏筆記』に記している。 _『仮名手本忠臣蔵』では「加古川本蔵(カコガワ・モトゾウ)」。 ◆墓は東京都中野区上高田1丁目の天徳院。 かじた はんこ【梶田 半古】《かぢた はんこ》 1870(明治 3. 6.25) 〜 1917. 4.23(大正 6) ◇明治・大正期の日本画家。本名は錠次郎、別号は玉洲。東京生れ。北田薄氷(ウスライ)の夫。 _浮世絵の鍋田玉英・鈴木華邨に学ぶ。日本青年絵画協会を組織。のち日本美術院に入る。 _門人は小林古径(コケイ)・前田青邨(セイソン)・奥村土牛(トギュウ)ら。 _風俗画を得意とし、小杉天外・尾崎紅葉(コウヨウ)らの小説の雑誌や新聞の挿絵(サシエ)にも活躍。 かしま こうじ【鹿島 孝二】 1905. 4.21(明治38) 〜 1986.11.13(昭和61) ◇小説家。海軍報道班員として南方へ行く。 かしま のりぶみ【鹿島 則文】 1839(天保10. 1.13) 〜 1901.10.10(明治34) ◇江戸幕末・明治時代の勤皇家・神職。号は桜宇。常陸の鹿島神宮大宮司鹿島則孝(ノリタカ)の長男。 かしま めいしゅう【鹿島 鳴秋】 1891. 5. 9(明治24) 〜 1954. 6. 7(昭和29) ◇童謡詩人。本名は佐太郎。 かじやま としゆき【梶山 季之】 1930. 1. 2(昭和 5) 〜 1975. 5.11(昭和50) ◇小説家。朝鮮京城<ソウル>生れ、敗戦で引き揚げ。1952(昭和27)広島大学教育学部卒業。法名は文麗院梶葉浄心大居士。 (1)生年は1930(昭和 5)。 (3)生年は1928(昭和 3)。 (5)生年は1930(昭和 5)。 (8)生年は1929(昭和 4)。 (11)生年は1930(昭和 5)。 ◆梶葉忌(カジノハキ)[ 5.11]。 かしわぎ ぎえん【柏木 義円】 1860(万延元. 3. 9) 〜 1938. 1. 8(昭和13) ◇牧師。 かしわぐま たつお【柏熊 達生】 1907.11.13(明治40) 〜 1956. 5.27(昭和31) ◇イタリア文学者・翻訳家。本名は宣三。 かしわばら ひょうぞう【柏原 兵三】 1933.11.10(昭和 8) 〜 1972. 2.13(昭和47) ◇小説家。千葉市生れ。東京大学独文科卒業。脳出血で急逝。 かじわら かげとき【梶原 景時】《かぢはら かげとき》 生年不詳 〜 1200(正治 2) ◇鎌倉初期の武将。通称は平三。景清の子。幕府侍所所司。 _1180(治承 4)相摸国の石橋山の戦で平氏に属していたが、源頼朝(ヨリトモ)の危機を救い、頼朝に重用される。平氏追討に功を立てる。源義経(ヨシツネ)が後白河法皇に通じると、これを頼朝に知らせる。1193(建久 4)頼朝の命を受け、伊豆の修善寺(シュゼンジ)に流された源範頼(ノリヨリ)を攻め、自害させる。 _頼朝没後、幕府政務の合議に加わるが、三浦義村(ヨシムラ)らと対立。結城朝光を第2代将軍源頼家(ヨリイエ)に讒言(ザンゲン)するが、朝光は諸将と連署しその誣告(ブコク)を訴えられる。有力御家人の弾劾を受け鎌倉を追放される。1200(正治 2)武田有義を将軍に擁立しようと上洛の途中、駿河国狐崎で追っ手に討たれる。 かすが いっこう【春日 一幸】 1910(明治43) 〜 1989(平成元) ◇政治家。 _民社党委員長。 かすがのつぼね【春日局】 1579(天正 7) 〜 1643(寛永20. 9.14) ◇江戸前期の大奥の女中・徳川家光の乳母。名は福・阿福(オフク)。明智光秀の家臣斎藤内蔵助(サイトウ・クラノスケ)利三(トシミツ)の娘、母は稲葉通明(ミチアキラ)の娘おあん。美濃国の人。 _1582(天正10)本能寺の変で父利三は近江堅田で捕われ、六条河原で斬首の上、粟田口で屍(シカバネ)が磔刑(タッケイ)に処せられる。 _母方の縁により稲葉重通(シゲミチ)の養女となり、重通の養子稲葉佐渡守正成(マサシゲ)に嫁し、正勝・正定・岩松・正利の4子を生む。 _1604(慶長 9)正成の愛妾を嫉妬して刺殺し出奔。京都で乳母を求める高札を見て応じ、面接の京都所司代板倉勝重に推挙され、夫と離別して、竹千代(タケチヨ)(徳川家光)出生とともに乳母となり江戸城大奥に入る。 _家光の弟国千代(クニチヨ)(忠長)が生まれると、第2代将軍秀忠夫妻の寵愛が忠長にあつまり後嗣にしようとしたので、伊勢参宮を口実にして駿府に至り、家康に訴えて家光を世嗣(ヨツギ)に定めた(春日の抜参)。以来家光の信任を得る。1626(寛永 3)家光が三代将軍となり、御台所(ミダイドコロ)浅井氏の死後、大奥に大きな勢力を振った。 _1629(寛永 6)紫衣(シエ)事件解決のため上洛し、三条西実枝(サネエダ)の猶子となり、緋袴(ヒバカマ)を許されて無位無官で参内、後水尾(ゴミズノオ)天皇に拝謁し、春日局の称号を賜る。 _晩年、従三位に叙せられる。江戸湯島に天沢寺(のち麟祥院)を建立、家光から三百石の寄進を受ける。 ◆墓は東京本郷麟祥院。 ◎1628(寛永 5)家光が疱瘡(ホウソウ)に罹った際、局は斎戒(サイカイ)沐浴(モクヨク)し東照大権現に詣でて家光が平癒したら服薬をしないことを誓って祈った。そのため、終身針灸(シンキュウ)薬餌(ヤクジ)せず、晩年に病の床についたとき、家光手ずから薬を飲ませようとしても最後まで服薬しなかった。 ◎春日局の縁故によって前夫の正成は二万石の大名に、長男正勝は老中、兄斎藤宗利(ムネトシ)・三存(ミツナカ)は旗本になっている。 ◎埼玉県川越市の喜多院に移築された「春日の局間」が現存。[図:春日局1][図:春日局2]春日局の墓(1997年10月24日撮影) 東京都文京区湯島4丁目 天沢山 麟祥院 墓地 かずき やすお【香月 泰男】 ⇒香月泰男 かずのみや【和宮】 1846(弘化 3.閏5.10) 〜 1877. 9. 2(明治10) ◇仁孝(ニンコウ)天皇の第8女。諱(イミナ)は親子(チカコ)、和宮親子内親王、落飾して静寛院宮(セイカンインノミヤ)。孝明天皇の異母妹、母は権大納言橋本実久の娘典侍(テンジ)経子(ツネコ)(観行院<カンギョウイン>)。 _1851(嘉永 4)6歳のとき有栖川宮熾仁親王(アリスガワノミヤ・タルヒトシンノウ)との婚約が成立したが、大老井伊直弼(イイ・ナオスケ)により公武合体策として関東降嫁が計画され、桜田門の変で中断。 _1860(万延元. 4.)老中安藤信正・久世広周(クゼ・ヒロチカ)の連立政権が交渉を再開、岩倉具視(トモミ)の建策でやむなく和宮は承認し、1861(文久元.10.20)桂御所を発輿(ハツヨ)、江戸へ下向。中仙道を経て11.15江戸城田安門の清水家に到着。12.11江戸城に入る。1862(文久 2. 2.11)14代将軍徳川家茂(イエモチ)との婚儀を挙式。 _1866(慶応 2. 7.)家茂が死去し、12月落髪して静寛院宮と称し江戸城に留まる。1868(慶応 4)鳥羽伏見の戦の後、朝幕交渉の斡旋・江戸城明け渡し・徳川の家名存続などに隠れた功があったといわれる。 _1869(明治 2)京都に帰住。1874(明治 7. 7.)東京に移住。1877(明治10. 8.)脚気治療のため、箱根塔ノ沢に赴き、衝心の発作で死亡。 _墓は東京都港区芝増上寺の徳川氏廟所。[図:和宮]和宮の宝塔(1997年4月8日撮影) 東京都港区芝公園4−7−35 増上寺境内徳川家霊廟 かずらはら しんのう【葛原 親王】《かづらはら しんわう》 ⇒葛原親王 かたおか げんごえもん【片岡 源五右衛門】《かたをか げんごゑもん》 ⇒片岡高房 かたおか たかふさ【片岡 高房】 1667(寛文 7) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。側用人と児小姓(コゴショウ)頭を兼ねていた。禄高350石。幼名は新六(シンロク)、通称は源五右衛門(ゲンゴエモン)、戒名は刃勘要剣信士。吉良家の探索中の変名は尾州浪人吉田勝兵衛(カツベ]]エ)。 _尾張国名古屋の徳川家に仕える熊井重次郎(クマイ・ジュウジロウ)重次(シゲツグ)の妾腹の子で、8歳のときに叔父の浅野家家臣片岡六左衛門(ロクザエモン)の養子となる。 _新参で近習あがりの高房は堀部安兵衛(ホリベ・ヤスベエ)らとは別行動をとったが、吉田忠左衛門(ヨシダ・チュウザエモン)の仲介で磯貝十郎左衛門(イソガイ・ジュウロウザエモン)正久(マサヒサ)とともに盟約に加わり同志たちと行動を共にする。 _討ち入り後、江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、二宮新右衛門(ニノミヤ・シンエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 ◎朝野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷におよんだ後、芝愛宕下(シバアタゴシタ)上屋敷に預けられ切腹。同夜、内匠頭の首と遺骸を受け取りに来た浅野家臣6名の一人。 かたおか てっぺい【片岡 鉄兵(片岡 鐵兵)】 1894. 2. 3(明治27) 〜 1944.12.25(昭和19) ◇小説家。岡山県苫田郡芳野村寺元生れ。県立津山中学校を経て、1912(大正元)上京、七月に六高受験に失敗し自殺を企てる。その後慶応義塾大学仏文科予科に入学したが出席不足で落第。1930(昭和 5)第三次共産党事件で検挙され、1932(昭和 7)懲役二年で下獄、1934.10.(昭和 9)転向し出獄。1938(昭和13)従軍ペン部隊に加わり中支に赴く。肝硬変により旅先の和歌山県下で客死。 (1)誕生日は 2. 3。 (5)誕生日は 2. 3。岡山県西々条(サイサイジョウ)郡芳野村に、敬一の長男として生れた。 (8)誕生日は 2. 2。 (11)誕生日は 2. 3。 (13)誕生日は 2. 2。 かたおか よしかず【片岡 良一】 1897. 1. 5(明治30) 〜 1957. 3.25(昭和32) ◇国文学者。神奈川県藤沢町生れ。第一高等学校を経て、1924(大正13)東京大学国文選科卒業。 かたがみ てんげん【片上 天弦】 ⇒片上伸 かたがみ のぶる【片上 伸】 1884. 2.20(明治17) 〜 1928. 3. 5(昭和 3) ◇評論家・ロシア文学者。号は天絃(テンゲン)のち天弦。愛媛県野間郡波止浜(ハシハマ)村生れ。竹内仁(タケノウチ・マサシ)の実兄。 _1900(明治33)東京専門学校(現:早稲田大学)に入学、一年足らずで脚気(カッケ)のため休学、帰郷。1902(明治35)早稲田大学文科へ再入学、1906(明治39)卒業。 (1)片上 天弦(かたがみ てんげん)。 (5)片上 伸(かたがみ のぶる)。没日は 3. 5。 (8)片上 伸(かたかみ のぶる)。 (11)片上 伸(かたがみ のぶる)。 (13)片上 伸(かたかみ のぶる)。没日は 3. 4。 かたぎり あきのり【片桐 顕智】 1909. 8.23(明治42) 〜 1970. 1.29(昭和45) ◇歌人。 かただ とうた【形田 藤太】 1901. 8. 8(明治34) 〜 1939. 3. 9(昭和14) ◇国文学者。 かただえ まさお【片田江 全雄】 1891. 1. 7(明治24) 〜 1940. 8.14(昭和15) ◇小説家。 かだのあずままろ【荷田 春満】 1669(寛文 9. 1. 3) 〜 1736(元文元. 7. 2) ◇江戸中期の国学者。名は信盛・東丸・東満とも書き、姓は羽倉ともいう。幼名は鶴丸、通称は斎宮(イツキ)。京都生れ。羽倉信詮(ノブアキ)の次男。荷田在満(アリマロ)の叔父。 ◎賀茂真淵(カモノマブチ)・本居宣長(モトオリノリナガ)・平田篤胤(アツタネ)とともに国学四大人(シタイジン)の一人。 かだのありまろ【荷田 在満】 1706(宝永 3) 〜 1751(寛延 4. 8. 4) ◇江戸後期の考証家。京都生れ。蒼生子(タミコ)の兄、荷田春満(アズママロ)の甥で養子。 _田安宗武(ムネタケ)に仕える。 かたやま けんざん【片山 兼山】 1730(享保15) 〜 1782(天明 2. 3.29) ◇江戸中期の儒学者(折衷学派の祖)。名は世(「王」偏+「番」:補助4458〔_〕)、通称は東造、字は叔瑟、号は兼山。上野国平井村の豪農に生れる。朝川善庵(ゼンアン)の実父。 _十七歳のとき江戸に出て鵜飼士寧に学び、のち服部南郭(ナンカク)の門に入り荻生徂徠(オギュウ・ソライ)の(「藹」の「曷」を「爰」に替える:補助6222〔_〕)園(ケンエン)学を修める。同門の肥後の秋山玉山の紹介で、熊本藩の藩校時習館の館員となる。六年後、辞して京坂遊学二年を経て江戸に帰る。宇佐美(「潛」の「日」を「鬲」に替える:補助4127〔_〕)水(シンスイ)の養子となって出雲松平家に仕える。しかし、徂徠の学に疑念を持ち養家を去り、漢唐の古註・宋明諸儒の説を参酌し折衷学唱え、徂徠の古文辞を批判する。晩年尾張藩の市ヶ谷継述館に出仕し、尾張藩の『群書治要』校刻に参与。病没。 かたやま こそん【片山 孤村】 1879. 8.29(明治12) 〜 1933.12.18(昭和 8) ◇ドイツ文学者・ドイツ語学者・評論家。本名は正雄。山口県生れ。東京帝国大学独文科卒業。1911(明治44)〜1913(大正 2)ドイツに留学。 かたやま せん【片山 潜】 1859(安政 6.12. 3) 〜 1933.11. 5(昭和 8) ◇社会主義評論家。幼名は藪木(ヤブキ)菅太郎、号は深甫。美作国粂郡羽出木村(現:久米南町内)生れ。 _1877.10.(明治10)片山幾太郎の養子となる。 _1880(明治13)岡山師範に入学、翌年退学し上京、活版所の職工となる。 _1884(明治17)渡米、労働生活中にキリスト教徒となる。メリーヴィル・グリンネル・エールの各大学で社会学と神学を学び、1896(明治29)帰国。 _1897(明治30)岩崎清七の世話で横塚フデと結婚、神田三崎町にキングスレー館をひらいてセツルメント事業を始める。「労働世界」を創刊し、主筆となる。 _1901. 5.18(明治34)安部磯雄・幸徳秋水・河上清・木下尚江・西川光二郎らとともに社会民主党を結成、二日後に結社を禁止・起訴される。 _1903.12.(明治36)再度、渡米。 _1904(明治37)日露戦争勃発にあたり、第二インターナショナルがアムステルダムで開催した万国社会党第六回大会に出席、ロシア代表のプレハーノフとともに反戦を訴える。 _1906(明治39)堺利彦・西川光二郎・森近運平・田添鉄二らと日本社会党を結成、評議員となる。 _1907(明治40)日本社会党第二回大会で直接行動派(幸徳秋水ら)と議会政策派(片山・田添・西川ら)に対立。大逆事件後も一貫して労働運動を指導し。 _1911(明治44)東京市電争議で重禁固刑になる。 _1912. 9.(大正元)大赦により出獄。 _1914(大正 3)米国へ亡命。 _1919(大正 8)アメリカ共産党に入党。 _1921(大正10)ソビエトに入国、コミンテルン執行委員として活動。 _敗血病のためモスクワで客死。 (?)日出木村生れ。カリーヴィル・グリンネル・エールの各大学で……。 (5)幼名は藪木(ヤブキ)菅太郎。美作国粂郡羽出木村(現:久米南町内)に生れた。メリーヴィル、グリンネル、イェールの各大学で……。 (11)幼名は藪木管太郎。 (13)渡米、苦学したが、特にメルヴィル大学において……。 かたやま てつ【片山 哲】 1887. 7.28(明治20) 〜 1978. 5.30(昭和53) ◇大正・昭和期の社会運動家・政治家・弁護士。和歌山県田辺生れ。 _東京大学法学部卒業。 _1913(大正 2)弁護士を開業。1919(大正 8)東大キリスト教青年会館で法律相談所を開く。法律の大衆化に努め、労働総同盟・日本農民組合の法律顧問となる。 _1926.12. 5(大正15)社会民衆党創立(委員長:安部磯雄門)とともに書記長。1930(昭和 5)第2回普通選挙で当選。 _1932(昭和 7)社会大衆党書記長となるが、1940(昭和15)衆議院で反軍演説を行った民政党斎藤隆夫(弁護士)の除名決議に反対したため3月9日党から除名。 _1945.11. 2(昭和20)日本社会党を結成、書記長となる。 _1946〜1950(昭和21〜昭和25)社会党委員長。1947. 6. 1(昭和22)社会党首班内閣(日本民主党・国民協同党との連立)の首相、高物価低賃金政策をとり労働運動の反撃にあい、1948. 2.10(昭和23)予算審議の過程で総辞職。 _1950. 1.19(昭和25)社会党第5回大会で指導権争いから左派・右派に分裂し、右派の委員長となる。 _1954. 1.15(昭和29)憲法擁護国民連合を組織、委員長となる。 _1960(昭和35)民主社会党を結党、最高顧問となる。 かたやま とうし【片山 桃史】 1912. 8.(大正元) 〜 1944. 1.21(昭和19) ◇俳人。ニューギニアにて戦死。 かたやま としひこ【片山 敏彦】 1898.11. 5(明治31) 〜 1961.10.11(昭和36) ◇文芸評論家・詩人・ドイツ文学者・フランス文学者。高知市生れ。第六高等学校を経て東京大学独文科卒業。 かたやま ひろこ【片山 広子(片山 廣子)】 ⇒松村みね子 かたやま ほっかい【片山 北海】 1723(享保 8) 〜 1790(寛政 2) ◇江戸中・後期の儒学者。名は猷、字は孝秩、通称は忠蔵、号は北海。 ◎当時、京都の江村北海・江戸の入江北海とともに「三都三北海」と呼ばれた。 かつ かいしゅう【勝 海舟】《かつ かいしう》 1823(文政 6. 1.30) 〜 1899. 1.19(明治32) ◇江戸幕末の幕府海軍官僚・明治の政治家。通称は麟太郎(リンタロウ)、名は義邦(ヨシクニ)、安房守(アワノカミ)であったことから安房と称し、明治以降は安芳(ヤスヨシ)、号は海舟。江戸生れ。旗本小普請組勝小吉の長男。 _蘭学を修め、砲術を佐久間象山に学ぶ。蕃書翻訳係から長崎の海軍伝習所に入る。1860年、幕府の遣米使節の乗船する咸臨丸(カンリンマル)の艦長として太平洋を横断。 _帰国後、1863(文久 3)神戸海軍操練所を設立。1864年軍艦奉行となるが同年罷免。1866(慶応 2)復職、陸軍総裁。 _鳥羽・伏見の戦の後、幕府軍事取扱として東征軍参謀西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現させ、江戸を兵火から救う。 _明治維新後、1872(明治 5)海軍大輔・参議兼海軍卿・元老院議官、1875(明治 8)辞任。 _1887(明治20)伯爵・1888(明治21)枢密顧問官。 _著書は『海軍歴史』・『陸軍歴史』・幕府の財政経済資料を集めた『吹塵録(スイジンロク)』・『開国起原』、談話筆記の自伝『氷川清話』など多数。 ◎東京都墨田区本所の能勢妙見堂に銅像がある。 ◎山岡鉄舟(テッシュウ)・高橋泥舟(デイシュウ)とともに幕末の三舟と呼ばれる。 (4)生年は1823。 (5)生年は1822(文政 6)。 (6)生年は1823。 (8)生年は1823(文政 6)。 (11)生年は1823(文政 6)。 (*)1860(安政 7,万延元)、1864(文久 4,元治元)。 かつ げんぞう【勝 諺蔵】 1844(弘化元) 〜 1902.10.27(明治35) ◇歌舞伎作者。本名は高田彦兵衛。 かつ やすよし【勝 安芳】 ⇒勝海舟 かつかわ しゅんえい【勝川 春英】《かつかは しゆんえい》 1762(宝暦12) 〜 1819(文政 2) ◇江戸後期の浮世絵師。号は九徳斎。 _勝川春章(カツカワ・シュンショウ)に師事。 _後の東洲斎写楽の役者絵に似る大首あるいは一人立の役者絵を描く。力士絵・武者絵なども得意とした。 _代表作は『市川高麗蔵の定九郎大首』など。 かつかわ しゅんしょう【勝川 春章】《かつかは しゆんしやう》 1726(享保11) 〜 1792(寛政 4) ◇江戸中期の浮世絵師・勝川派の祖。号は旭朗井(キヨクロウセイ)・酉爾など、俗称は祐助。 _宮川春水に師事し、はじめ勝宮川と称した。 _一筆斎文調との合作『絵本舞台扇』1770(明和 7)刊行して以来、本格的な作画活動に入る。従来の類型的な鳥居派風の様式を脱して文調とともに役者絵に写実を取り入れた個性描写の新様式を開く。 _肉筆画・版画共に巧妙で、武者絵・力士絵や『十二ヶ月風俗図』など美人画の作も多く、錦絵の発達に貢献。 _勝川派門下に勝川春英(シュンエイ)・春好・春潮(シュンチョウ)・春朗(後の葛飾北斎)らを輩出。 かつかわ しゅんちょう【勝川 春潮】《かつかは しゆんてう》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸後期の浮世絵師。俗称は吉左衛門、号は吉左堂・東紫園・俊朝(狂歌)など。 _勝川春章(カツカワ・シュンロウ)に師事。鳥居清長風の美人画にすぐれる。 かづき やすお【香月 泰男】 1911.10.25(明治44) 〜 1974. 3. 8(昭和49) ◇画家。 かつしか ほくさい【葛飾 北斎】 1760(宝暦10) 〜 1849(嘉永 2) ◇江戸後期の浮世絵師。葛飾派の始祖。別号は春朗・宗理など。 _1778(安永 7)勝川春章(カツカワ・シュンロウ)に入門。 _『北斎漫画』・『富嶽三十六景』・『富嶽百景』などが有名。 かつた こうげつ【勝田 香月】 1899. 3.12(明治32) 〜 1966.11. 5(昭和41) ◇詩人。本名は穂策。 かつだ しんざえもん【勝田 新左衛門】 ⇒勝田武尭 かつだ たけたか【勝田 武尭】 1680(延宝 8) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、中小姓・札座横目、禄高十五石三人扶持。通称は新左衛門(シンザエモン)、戒名は刃量霞剣信士、吉良家を探索中の変名は町人嘉右衛門(カエモン)。 _吉良家討ち入りでは表門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、進藤為右衛門(タメエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 かつまた せんきちろう【勝俣 銓吉郎】 1872(明治 5.11.18) 〜 1959. 9.22(昭和34) ◇英語学者。本名は銓吉。 かつみね しんぷう【勝峯 晋風(勝峯 晉風)】 1887.12.11(明治20) 〜 1954. 1.31(昭和29) ◇俳人・俳文学研究家。本名は晋三。東京牛込矢来町(ヤライチョウ)生れ。1910(明治43)東洋大学卒業。 かつもと せいちろう【勝本 清一郎】 1899. 5. 5(明治32) 〜 1967. 3.23(昭和42) ◇評論家・近代文学研究家。別称は松山敏。東京日本橋南茅場町(ミナミカヤバチョウ)生れ。慶応義塾幼稚舎を経て、1923(大正12)大学美術史科卒業。社団法人日本ユネスコ協会連盟理事長。 かつら こごろう【桂 小五郎】《かつら こごらう》 ⇒木戸孝允 かつら こそん【桂 湖村】 1868(明治元.10.16) 〜 1938. 4. 3(昭和13) ◇漢学者・漢詩人。本名は五十郎。 かつら たろう【桂 太郎】《かつら たらう》 1847(弘化 4) 〜 1913(大正 2) ◇明治の軍人・政治家。陸軍大将・公爵。長州出身。長州軍閥の大御所山県有朋の直系として昇進を重ね、陸軍の兵制をドイツ式に改革・師団の設立・参謀本部と軍令部の分離などを行う。1898(明治31)陸相。1901(明治34)から1913(大正 2)まで三度首相となり、日英同盟締結・日露戦争・大逆事件で社会主義運動の弾圧・日韓併合条約締結などにあたる。「ニコポン」と呼ばれた妥協政治家であったが、第三次内閣のとき憲政擁護運動の盛り上がりに直面して三ヶ月で総辞職、御用政党の必要から立憲同志会設立を準備中に死去。 ◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。 (6)生年は1847/48。 かつら はるだんじ【桂 春団治(1世)】 1878(明治11) 〜 1934(昭和 9) ◇落語家。 かつらい とうのすけ【桂井 当之助】 1887. 6. 1(明治20) 〜 1915.12.30(大正 4) ◇哲学者。妹が片上伸(カタガミ・ノブル)に嫁す。 かつらがわ くにのり【桂川 国訓】《かつらがは くにのり》 1728(享保13) 〜 1783(天明 3) ◇江戸中期の医者。通称は甫三(ホサン)、号は湖月楼。桂川家3代目。 _幕府の奥医師となる。外科にすぐれる。 _著書は『瘍府』。 かつらがわ ほさん【桂川 甫粲】《かつらがは ほさん》 1754(宝暦 4) 〜 1808(文化 5) ◇江戸後期の医師・蘭学者・戯作者・狂歌作者。本姓は森島、号は森羅亭万象・竹杖為軽など。桂川国訓(クニノリ)の子、甫周の弟。 [1]かつらがわ ほしゅう【桂川 甫周】《かつらがは ほしう》 1751 〜 1809(文化 6) ◇江戸後期の蘭方医。名は国瑞(クニアキラ)、字は公鑑、号は月池、通称は甫周。桂川国訓(クニノリ)の子、甫粲(ホサン)の兄。桂川家4代目で、曾祖父・祖父・父みな通称は甫筑(ホチク)。江戸生れ。 _1769(明和 6)幕府奥医師となり、将軍徳川家斉の侍医。 _1771(明和 8)前野良沢(リョウタク)・杉田玄白(ゲンパク)らと『ターヘル・アナトミア』の翻訳に従事。 _1777(安永 6)将軍侍医。1783(天明 3)法眼となるが、まもなく田沼意次(オキツグ)に退けられる。1793(寛政 5)復職。 _1794(寛政 6)医学館の教官。顕微鏡の普及に努める。 _将軍家斉の命により大黒屋幸太夫(ダイコクヤ・コウダユウ)からロシアの風俗・制度などを聞き『北槎聞略(ホクサブンリャク)』を著す。また蘭書『魯西亜志(ロシアシ)』抄訳する。 (*)1751(寛延 4,宝暦元)。 (19)(1751〜1809 一説に 1754〜1809)。 ◎屋敷は東京都中央区築地1−10地域。 _号の「月池」は屋敷のあった築地に由来する。 [2]かつらがわ ほしゅう【桂川 甫周】《かつらがは ほしう》 1826(文政 9) 〜 1881(明治14) ◇江戸幕末・明治前期の医師。名は国興(クニオキ)、字は禎卿、号は月池、通称は安甫。桂川甫賢(ホケン)の子。桂川家7代目。江戸生れ。 _オランダ商館長ズーフが通訳吉雄権之助らと編纂したハルマの和訳対照辞典が未刊だったものを、1858(安政 5)『和蘭字彙(ズーフ・ハルマ)』として刊行。 ◎『和蘭字彙』は「長崎ハルマ」とも呼ばれ、1796(寛政 8)刊行の『波留麻和解(ハルマワゲ)』通称「江戸ハルマ」とは別書。 かつらがわ ほちく【桂川 甫筑】《かつらがは ほちく》 1661 〜 1747(延享 4) ◇江戸中期の医師・桂川家の初代。本姓は森島、名は邦教(クニミチ)、通称は小助。大和の人。 _平戸藩医の嵐山甫安に蘭方医学を学ぶ。のち長崎の蘭医ダルネル・アルマンスに外科医術を学ぶ。 _幕府に仕え、第6代将軍徳川家宣に奥医師となる。 _著書は『仙鼎方』。 (*)1661(万治 4,寛文元)。 かつらぎおう【葛城王】 ⇒橘諸兄 かつらはら しんのう【葛原 親王】《かつらはら しんわう》 786(延暦 5) 〜 853(仁寿 3. 6. 4) ◇桓武天皇の第3皇子・桓武平氏の祖。諱は高明。母は参議多治比長野の娘多治比真宗。平安京生れ。 _ 825(天長 2)平朝臣の姓を請い許され、臣籍に下る。 _ 850(嘉祥 3)一品大宰帥(ダザイノソツ)。 かとう えつろう【加藤 悦郎】 1899.12.13(明治32) 〜 1959. 6. 6(昭和34) ◇漫画家。 かとう かいしゅん【加藤 介春】 1885. 5.16(明治18) 〜 1946.12.18(昭和21) ◇詩人。本名は寿太郎。福岡県田川郡生れ。早稲田大学英文科に学ぶ。 かとう かずお【加藤 一夫】 1887. 2.28(明治20) 〜 1951. 1.25(昭和26) ◇詩人・小説家・評論家。和歌山県西牟屡郡生れ。明治学院神学部卒業。 (1)誕生日は 2.12。 (5)誕生日は 2.28。 (8)誕生日は 2.28。 (11)誕生日は 2.28。 (13)誕生日は 2. 2。 かとう かずこ【加藤 籌子】 1883. 6.24(明治16) 〜 1956.12.26(昭和31) ◇小説家。本名は「かず」。筆名は小栗籌子。小栗風葉の妻。 かとう きょうたい【加藤 暁台】 1732(享保17. 9. 1) 〜 1792(寛政 4. 1.19) ◇江戸中期の俳諧師。通称は平兵衛、幼名は仲八(チュウハチ)、別号は暮雨巷(ボウコウ)・竜門。初期の俳号は他朗・買夜(バイヤ)。尾張国名古屋生れ。 かとう きよまさ【加藤 清正】 1562(永禄 5) 〜 1611(慶長16. 6.24) ◇安土桃山時代の武将。幼名は夜叉丸・虎、のち虎之助。尾張国愛知郡中村の人(同郷:豊臣秀吉)。加藤清忠の次男、加藤忠広の父。 _幼少に豊臣秀吉に預けられ、1576(天正 4)元服し虎之助と名乗る。1580(天正 8)播磨国神東郡120石を与えられる。 _1583(天正11)賤ヶ岳の戦で七本槍の一人として活躍(山路正国との組打が有名)、3000石の加増。1586(天正14)主計頭(カズエノカミ)に任官、清政と改名。1588(天正16)肥後半国を領し、熊本城主。 _1591(天正19)朝鮮出兵の基地として名護屋城の築城に当る。1592(天正20)文禄の役に小西行長(コニシ・ユキナガ)・黒田長政らと先陣をつとめ朝鮮に出兵、小西は 4.12に、清正は 4.17釜山(フザン)に上陸、 5. 3京城を攻略。朝鮮国の王子の臨海君・順和君を追い咸鏡道に侵入、 7.23会寧(カイネイ)で捕える。ここ会寧で虎を鉄砲で仕留めている。さらに瓦爾哈(オランカイ)国に到り、ここで富士山が見えたという。このころ明の使者へ豊臣朝臣清正という銘の書を渡し、のちの蟄居の一因となる。 _1593(文禄 2. 6.)小西行長と明の援軍の沈惟敬(シン・イケイ)との和平交渉で領土割譲を強く主張する。1596(文禄 5)和平交渉の妨害者として伏見に蟄居を命ぜられが、 7.12の大地震で逸早く伏見城に駆け付け、蟄居は解除される。 _1597(慶長 2. 1.)慶長の役でも小西らと先陣をつとめ出兵。しかし慶尚・全羅・忠清の三道を占領するのみで京城にも到らず、冬となり春を待って清正は蔚山(ウルサン)に籠城、島津義弘(ヨシヒロ)は泗川(シセン)、小西は順天、小早川秀秋(コバヤカワ・ヒデアキ)は釜山に陣取る。12.22明の大軍が蔚山城を襲い、浅野幸長らと必死に守り、翌年1月小早川・黒田長政らの援軍を得る。8月秀吉が病死し、帰国。 _武断派の清正は文治派石田三成・小西行長らと合わず、しだいに徳川家康に接近していく。1600(慶長 5)関ヶ原では家康に味方し、小西の肥後の宇土城・立花宗茂(タチバナ・ムネシゲ)の筑後の柳川城を攻め、肥後国54万石を領する。 _1606(慶長11)江戸城普請の惣奉行。1610(慶長15)名古屋城普請の惣奉行。1611(慶長16. 3.28)家康が二条城で豊臣秀頼と会見する際、秀頼を補佐する。帰途に発病し、熊本城内で病死。 (2)'88肥後半国と熊本城を宛行なわれる。 _朝鮮王子臨海君(「津」の「三水」を「王」に替える:補助4378〔_〕)・順和君(「津」の「三水」を「王」に替える)を捕虜とした。 (6)1585(天正13)年熊本城主として肥後半国を領有。 _肥後52万石を得たが,……。 (16)'88(天正16)年佐々成政に代って肥後半国30万石を領し熊本城主となった. _二王子(ワウジ)([「津」の「三水」を「王」に替える:補助4378〔_〕]<シン>・[「王」偏+「土」:補助なし]<ホ>)は……。 (17)同十六年(一五八八)閏五月、肥後半国(熊本県の北部七郡と南部の芦北郡)の約十九万五千石(二十五万石説があるが出典不明)の秀吉領地目録を得て、隈本(クマモト)城主として入国。 _翌九年九月御前帳(郷帳)を幕府に提示し、五十四万石高が確定し、……。 かとう けんいち【加藤 謙一】 1896. 5.28(明治29) 〜 1975. 6.30(昭和50) ◇「少年倶楽部」・絵本の編集者。 かとう げんち【加藤 玄智】 1873. 6.17(明治 6) 〜 1965. 5. 8(昭和40) ◇大正・昭和期の宗教学者・神道学者。東京府生れ。 _東京帝国大学文科大学哲学科卒業。 _陸軍教授・東京帝国大学助教授・国学院大学教授。大正大学・駒沢大学神宮皇学館大学講師。 かとう ししゅう【加藤 紫舟】 1904. 8.29(明治37) 〜 1950.11. 5(昭和25) ◇俳人。本名は中庸、別号は黎明居。 かとう しほう【加藤 紫芳】 1856(安政 3. 8.20) 〜 1923. 7.27(大正12) ◇翻訳家。本名は瓢乎(ヒョウヤ)。 かとう じゅんぞう【加藤 順三】 1885. 9.29(明治18) 〜 1961.11.10(昭和36) ◇歌人・国文学者。 かとう せっちょう【加藤 雪腸】 1975. 1. 2(明治 8) 〜 1932.11.24(昭和 7) ◇俳人。本名は孫平、別号は清白之舎・千里坊。 かとう だいすけ【加藤 大介】 1911. 2.18(明治44) 〜 1975. 7.31(昭和50) ◇俳優。本名は加藤徳之助。東京浅草生れ。ともに俳優の沢村国太郎・沢村貞子の弟。 ◎黒沢明監督の映画、1954(昭和29)『七人の侍』では七郎次を演じる。 かとう たかあき【加藤 高明】 1860(万延元. 1. 3) 〜 1926. 1.28(大正15) ◇政治家。加藤武兵衛の養子、三菱財閥の岩崎弥太郎の娘婿。1881(明治14)東京大学法科卒業し、三菱本社に入社。 _第2次大隈重信内閣の外務大臣として1915(大正 4)対支21ヶ条の要求を主導。 _第1次内閣:1924. 6.11(大正13)〜1925. 8. 2(大正14)。 _第2次内閣:1925. 8. 2(大正14)〜1926. 1.28(大正15)。 _1926. 1.26(大正15)より若槻礼次郎が総理の臨時代理を務める。 かとう たくせん【加藤 拓川】 1859(安政 6. 1.23) 〜 1923. 3.26(大正12) ◇外交官・政治家。幼名は忠三郎のち恒忠、号は拓川、旧姓は大原。正岡子規の母八重は長姉。 かとう たけお【加藤 武男】 1877. 6. 5(明治10) 〜 1963.10.17(昭和38) ◇三菱銀行頭取。栃木県生れ。1901(明治34)慶応義塾大学理財科卒業。池田成彬(シゲアキ)の妹の夫、加藤武彦の父。 かとう たけお【加藤 武雄】 1888. 5. 3(明治21) 〜 1956. 9. 1(昭和31) ◇小説家。号は冬海・罵禅・東階・紫袖・紅袖・相水・小林愛川。神奈川県津久井郡川尻村生れ。泰次郎・ぬいの長男。 _実家没落のため進学を断念し横浜の小学校代用教員となる。 _1910(明治43)上京して中村武羅夫の紹介で新潮社に入学。 (1)没年は1966(昭和41)。 (2)没年は1956(昭和31)。 (3)没年は1956(昭和31)。 (5)没年は1956(昭和31)、「八木重吉(ジュウキチ)」に再従兄(マタイトコ)の加藤武雄。 (8)没年は1956(昭和31)、再従弟(マタイトコ)八木重吉。 (11)没年は1956(昭和31)、「八木重吉(ジュウキチ)」に再従兄(マタイトコ)の加藤武雄。 (13)没年は1956(昭和31)。 (+)『現代日本文學全集85』  發行所 筑摩書房  昭和32年12月15日印刷  昭和32年12月20日發行 _没年は1956(昭和31)。 かとう たてお【加藤 建夫】 1903. 9.28(明治36) 〜 1942. 5.22(昭和17) ◇陸軍軍人・加藤隼戦闘隊隊長。北海道生れ。 _ビルマ戦線で戦死。 かとう ちかげ【加藤 千蔭】 1735(享保20) 〜 1808(文化 5. 9. 2) ◇江戸後期の国学者・歌人。本姓は橘(タチバナ)、本名は佐芳・要人(カナメ)、字は徳与麿(トコヨマロ)、通称は常太郎・又左衛門、号は芳宜園(ハギゾノ)・朮園(ウケラゾノ)・逸楽窩(イツラクカ)・江翁(ゴウオウ)・耳梨(ミミナシ)山人・橘八衢(ヤチマタ)(狂歌)。江戸の人。父は江戸町奉行所与力の加藤枝直(エナオ)。 _父から歌を学び、のち賀茂真淵に師事。 _与力を継ぎ、1788(天明 8)病気のため辞職し、学問に専念。 _著書は平易な万葉集入門書『万葉集略解』や家集『うけらが花』など多数。 _書画にも長じ、書家としては上代様をきわめ千蔭流の開祖。 ◆墓は東京都墨田区両国2−8−10の回向院。 ◎村田春海(ハルミ)とともに江戸派歌風の双璧と称される。 ◎中古三十六歌仙の一人の能因(ノウイン)法師の末裔といわれている。 かとう ちょうじ【加藤 長治】 1900. 8.20(明治33) 〜 1973. 7.16(昭和48) ◇演出家。 かとう ちょうちょう【加藤 朝鳥】 1886. 9.19(明治19) 〜 1938. 5.17(昭和13) ◇文芸評論家・翻訳家。本名は信正。 (8)加藤 朝鳥(かとう あさとり)。 かとう てるお【加藤 輝男】 1910.11.14(明治43) 〜 1974.12.28(昭和49) ◇児童文学者。 (8)第二次大戦は加藤てる緒の名を使用した。 かとう とうり【加藤 東籬】 1882. 8.21(明治15) 〜 1944. 4.21(昭和19) ◇歌人。本名は定一。 かとう ときじろう【加藤 時次郎】 1858(安政 5. 1. 1) 〜 1930. 5.30(昭和 5) ◇医師・社会改良主義者。加藤万兵衛の養子となりのち加治姓に復帰。平民病院の創設者。 かとう とつどう【加藤 咄堂】 1870(明治 3.11. 2) 〜 1949. 4. 2(昭和24) ◇仏教学者。本名は熊一郎。 かとう ともさぶろう【加藤 友三郎】《かとう ともさぶらう》 1861 〜 1923. 8.24(大正12) ◇明治・大正時代の海軍軍人(大将・元帥)・政治家。広島県生れ。 _海軍兵学校卒業。 _日清・日露戦争に従軍、日本海海戦の連合艦隊参謀長。1924(大正13)第一艦隊司令長官。海軍次官。第2次大隈内閣以降、寺内・原・高橋是清の4内閣の海軍大臣(1915〜1922)。八八艦隊計画の実現に努力。1922(大正11)ワシントン軍縮会議の首席全権。 _同年、立憲政友会の支持で官僚・貴族院議員を中心に組閣、兼海軍大臣。軍備縮小・財政整理、山東問題の処理にあたる。シベリアからの撤兵を実現し、ソ連代表ヨッフェと通商回復の交渉。議会に上程(ジョウテイ)された普通選挙法案には反対。 _在任中に病死。 _組閣:1922. 6.12(大正11)〜総辞職:1923. 8.26(大正12)。 (*)1861(万延 2,文久元)。 ◎八八艦隊は1910(明治43)に計画、1920(大正 9)予算が承認されたが、1922(大正11)ワシントン軍縮会議によって実現しなかった。 かとう なおし【加藤 直士】 1873. 9. 5(明治 6) 〜 1952. 2.12(昭和27) ◇宗教哲学者(キリスト教)・雑誌新聞記者・実業家。 かとう ばんさい【加藤 磐斎(加藤 盤斎)】 1621(元和 7) 〜 1674(延宝 2. 8.11) ◇江戸前期の古典学者・俳人。名は等空、通称は浜五郎、号は磐斎(盤斎)・踏雪軒・冬木翁、俳号は灘淵。摂津生れ。 _若いころ、比叡山で仏教を修める。歌学を細川幽斎に、のち松永貞徳に学ぶ。 _著書は『新古今増抄』・『徒然草抄』・『伊勢物語新抄』・『清少納言枕草紙抄』など。 (4)生年は1621。 (5)生年は1625(寛永 2)。 (11)生年は1621(元和 7)。 (16)生年は1621(元和 7)。 かとう ばんさい【加藤 盤斎】 ⇒加藤磐斎 かとう ひろゆき【加藤 弘之】 1836(天保 7. 6.23) 〜 1916. 2. 9(大正 5) ◇江戸幕末・明治時代の政治学者・評論家・教育家。本名は成之(ヨシユキ)のち誠之(アキユキ)のち弘之、通称は土代士(トヨシ)のち弘蔵。但馬国出石藩(イズシハン)城下谷山町の兵学師範役の家に生れる。三宅やす子の叔父。 _1852(嘉永 5)兵学修業に江戸へ出て、佐久間象山に入門、西洋兵学を修める。坪井為春に蘭学を学ぶ。 _幕府に出仕し、1860(万延元)蕃書調所教授手伝。1868(慶応 4)幕府御目附勘定頭。この間にドイツ語の研究から『隣艸(トナリグサ)(隣草)』で日本に始めて議会制度を紹介。 _1868(明治元)末に新政府に出仕。はじめ天賦人権説によって立憲主義を唱えていたが、1874(明治 7)板垣退助らのイギリス流の民選議院設立建白書にはドイツ的立場から時期尚早として反対する。 _のち旧説を捨てて適者生存・優勝劣敗の社会進化論を唱えて自由民権論やキリスト教を批判。 _1881(明治14)東京大学総理。帝国大学総長・貴族院議員・帝国学士院長・枢密顧問官・国語調査委員会長など歴任。 _明六社同人・男爵。 _著書は『隣艸』・『立憲政体略』・1870(明治 3)『真政大意』・1874(明治 7)『国体新論』・1882(明治15)『人権新説』など。 (16)1877(明治10)年東大総理,'86年元老院議官,'90年再び東大総長……. かとう まさお【加藤 まさを】《かとう まさを》 ⇒加藤まさを かとう まさお【加藤 昌雄】 1903(明治36) 〜 1926. 9.16(大正15) ◇小説家。胸を病み夭折。 かとう まさたか【加藤 正方】 1580(天正 8) 〜 1648(慶安元) ◇安土桃山時代の武将。初名は清六のち右馬允清左衛門正方。加藤清正の家臣、肥後内牧城代加藤可重の子。 _父の没後、八代城代となる。 _1632(寛永 9)清正の子忠広が改易されると、辞して浪人払いで広島浅野家お預けとなり、その地で没。 かとう まさゆき【加藤 将之】 1901. 7. 3(明治34) 〜 1975. 6. 9(昭和50) ◇歌人・哲学者。名古屋生れ。東京大学哲学科卒業。文部省図書監修官・日本書籍社員・山梨大学教授を歴任。 かとう まさを【加藤 まさを】 1897(明治30) 〜 1977.11. 1(昭和52) ◇挿絵画家。静岡県藤枝市生れ。立教大学英文科卒業。 _中学校教師だった父の反対で美術学校へは進めず、早稲田中学・芝高輪中学を経て立教大学予科に入学。 _立教大学在学中、英国の19世紀のイラストに魅了され、川端画学校に通う。 _1969(昭和44)詩『月の砂漠』が有名。 かとう みき【加藤 みき】 1863(文久 3) 〜 1935. 5.(昭和10) ◇島崎藤村の義母、加藤静子の母。川越松平藩蔵前目付の次女。 _4歳の時に母に伴われ上京。 _1923(大正12)川越に戻る。 ◆墓は埼玉県川越市小仙波町5丁目の中院(ナカイン)。 かとう みちお【加藤 道夫】 1918.10.17(大正 7) 〜 1953.12.22(昭和28) ◇劇作家。福岡県遠賀(オンガ)郡戸畑生れ。東京府立五中を経て、1942(昭和17)慶応義塾大学英文科卒業。強度の神経衰弱により自宅書斎で自殺。滝浪治子(女優加藤治子)の夫。 かとう めいじ【加藤 明治】 1911. 5.23(明治44) 〜 1970.12.30(昭和45) ◇児童文学者。 かとう よしあき【加藤 嘉明】 1563(永禄 6) 〜 1631(寛永 8. 9.12) ◇安土桃山・江戸初期の武将。松山城主のち陸奥会津城主。幼名は孫六のち茂勝、通称は左馬之助(サマノスケ)。三河の人。 _一向一揆に加わり、松平氏を去り羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。1583(天正11)賤ヶ岳(シズガタケ)の戦いに功をたて、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる。伊予国正木城主。1587(天正15)島津征伐の水軍を率いる。1590(天正18)小田原征伐・1592(文禄元)文禄の役に出陣。1597(慶長 2)慶長の役では水軍の中心となる。 _秀吉没後、徳川家康に仕え、1600(慶長 5)関ヶ原の戦では東軍に属し、福島正則(マサノリ)らとともに岐阜城を攻め、石田三成を破る。功により伊予国松山20万石の城主となり、1627(寛永 4)第2代将軍秀忠のとき会津40万石に転封される。 (2)生年は1563(永禄 6)。 (4)生年は1563。 (16)生年は1562(永禄 5)。 ◎文禄の役の水軍の将は九鬼嘉隆(ヨシタカ)。 かどかわ げんよし【角川 源義】 1917.10. 9(大正 6) 〜 1975.10.27(昭和50) ◇俳人・民俗学者・角川書店の創業者。富山県生れ。国学院大学卒業。1945(昭和20)角川書店を創立。 かどた ゆたか【門田 ゆたか】 1907. 1. 6(明治40) 〜 1975. 6.25(昭和50) ◇詩人。本名は穣。 かとり なひこ【楫取 魚彦】 1723(享保 8) 〜 1782(天明 2. 3.23) ◇江戸後期の国学者・歌人。本姓は伊能、別号は青藍(セイラン)。下総国生れ。 かとり ほずま【香取 秀真】 1874. 1. 1(明治 7) 〜 1954. 1.31(昭和29) ◇鋳金家・歌人。本名は秀治郎。千葉県生れ。 _1897(明治30)東京美術学校卒業。 _東京美術学校教授。1934.11.(昭和 9)大正大学梵鐘を鋳造。 _1953(昭和28)文化勲章、受章。 _肺炎により死去。 かなお うめのかど【金尾 梅の門】 1900. 7.27(明治33) 〜 1980.12. 9(昭和55) ◇俳人。本名は嘉八。富山県生れ。 (5)誕生日は 7.27。 (8)誕生日は 7.17。 (11)誕生日は 7.27。 かなお たねじろう【金尾 種次郎】 1879. 4.21(明治12) 〜 1947. 1.28(昭和22) ◇出版人(仏教書肆金尾文淵堂)。俳号は思西。 かながき ろぶん【仮名垣 魯文】 1829(文政12. 1. 6) 〜 1894.11. 8(明治27) ◇戯作者・新聞記者。本姓は野崎、幼名は兼吉のち文蔵、別号は和堂開珍・鈍亭(ドンテイ)・野狐庵(ヤコアン)・猫々道人(ミョウミョウドウジン)。江戸京橋生れ。 かなざわ かねとみ【金沢 種美】 1889. 7. 4(明治22) 〜 1961.11. 8(昭和36) ◇歌人。本名は宥信、号は美巌(ビガン)。 (8)誕生日は 7. 5。 かなざわ やすたか【金沢 康隆】 1915.12.22(大正 4) 〜 1970. 7.27(昭和45) ◇演劇・風俗研究家。 かなすぎ じゅんろう【金杉 惇郎】 1909. 7.21(明治42) 〜 1937.10.25(昭和12) ◇俳優・演出家。本名は又夫。 かなもり つうりん【金森 通倫】 1857(安政 4. 8.15) 〜 1945. 3. 4(昭和20) ◇宗教家。1914(大正 3)救世軍に入隊。 かなもり ほうか【金森 匏瓜】 1876.12. 1(明治 9) 〜 1932. 2.23(昭和 7) ◇俳人。本名は利兵衛、旧号は氷花。1932. 1.30(昭和 7)行方不明となり、 2.23溺死体で発見。 かねあきら しんのう【兼明 親王】《かねあきら しんわう》 914(延喜14) 〜 987 ◇平安中期の政治家・文人、醍醐天皇の皇子。小倉親王・前中書王とも。 _源朝臣の姓を賜わり、左大臣に任じられたが、藤原兼通の讒(ザン)によって嵯峨小倉に隠遁(イントン)。 _博学多才で詩文や書にすぐれていた。 _詩文は『江談抄』・『本朝文粋』・『和漢朗詠集』などに収録され、書は『池亭記』がある。 (*) 987(寛和 3,永延元)。 ◎「七重八重/花は咲けども山吹の/みのひとつだに無きぞ悲しき」が太田道灌と紅皿(ベニザラ)の話で有名。 ◎後中書王は具平(トモヒラ)親王をいう。 かねいえ【金家】《かねいへ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇安土桃山時代の鐔工(タンコウ)。山城伏見の人。 _鐔に絵画風の文様を高彫りし、薄い鉄の板鐔に少量の金・銀・銅などを象眼をほどこす。 ◎初めての鐔工専門家とされる。 _信家(ノブイエ)とともに鐔工の双璧、信家・埋忠明寿(ミョウジュ)とともに鐔(ツバ)の三作と称せられる。 かねこ きいち【金子 喜一】 1875.10.21(明治 8) 〜 1909.10. 8(明治42) ◇思想家。1902(明治35)米国婦人と結婚し米国に帰化。1903(明治36)米国社会民主党員になる。在米で日本の社会主義運動を支援した。1909. 5.(明治42)結核療養で帰国、沼津で死去。 かねこ くんえん【金子 薫園】 1876.11.30(明治 9) 〜 1951. 3.30(昭和26) ◇歌人。本名は雄太郎、金子は外祖父の姓(養子)、旧姓は武山。東京神田生れ。武山英子(ヒデコ)の兄。 _1893(明治26)落合直文の「あさ香社」に入る。 かねこ けんじ【金子 健二】 1880. 1.13(明治13) 〜 1962. 1. 3(昭和37) ◇英語学者。 かねこ しゅんむ【金子 春夢】 1871(明治 4.11.) 〜 1899. 3.30(明治32) ◇小説家・評論家。本名は佐平、別号は斬馬剣禅・笹下庵主人。 かねこ たかのすけ【金子 鷹之助】 1892.11. 7(明治25) 〜 1951. 5. 7(昭和26) ◇歴史家。 かねこ ちくすい【金子 筑水】 1870(明治 3. 1.10) 〜 1937. 6. 1(昭和12) ◇哲学者・文芸評論家。本名は馬治。長野県小県郡殿城村生れ。1890(明治23)東京専門学校文学科の第一回生として入学、1893(明治26)卒業。 かねこ とけんか【金児 杜鵑花】 1894. 3.14(明治27) 〜 1938. 2.21(昭和13) ◇俳人。本名は農夫雄。 かねこ ふきゅう【金子 不泣】 1892.12.20(明治25) 〜 1970. 3.10(昭和45) ◇歌人。本名は多津平。 かねこ みつはる【金子 光晴】 1895.12.25(明治28) 〜 1975. 6.30(昭和50) ◇詩人。本名は森安和(ヤスカズ)、旧姓は大鹿、三歳のとき養子縁組により金子。愛知県海東郡津島町生れ。大鹿和吉の三男、大鹿卓(オオシカ・タク)の実兄。 _実家の酒屋が倒産して名古屋に移り、、三歳のとき建設会社清水組の主任金子荘太郎の養子となる。養父の転勤で東京に転居し、暁星中学校を経て、早稲田大学英文科に入学。 _1915(大正 4)早稲田大学を中退し、東京美術学校日本画科へ入学するがすぐに退学し、慶応義塾英文科予科に入学、翌年中退。 _1917(大正 6)養父の死去により多額の資産を相続。 _1924(大正13)御茶ノ水高等師範学校の女学生だった森三千代(ミチヨ)を妊娠させ結婚。 _1952(昭和27)、『人間の悲劇』、読売文学賞を受賞。 _作品は詩集『赤土の家』・『ヴェルハアラン詩集』・『近代仏蘭西詩集』・『マレー蘭印紀行』・『鮫』・『落下傘』・自伝『詩人』・『どくろ杯』・『ねむれ巴里』・『西ひがし』など。 (?)旧姓は大鹿(オオガ)。 (1)本名は安和。 (3)本名は保和(ヤスカズ)。 (5)本名は保和(ヤスカズ)、生家は大鹿(オオシカ)。 (8)本名は安和(本人は保和の字を使用)。 (11)本名は保和(ヤスカズ)、生家は大鹿(オオシカ)。 (13)本名は保和(ヤスカズ)。 ◆光晴忌[ 6.30]。[ 6.30前の土曜か日曜]金子光晴の会主催で追悼会の催し。 かねこ もとおみ【金子 元臣】 1868(明治元.12. 1) 〜 1944. 2.28(昭和19) ◇歌人・国文学者。幼名は豊太郎。 かねこ ようぶん【金子 洋文】 1894. 4. 8(明治27) 〜 1985. 3.21(昭和60) ◇劇作家・演出家・小説家・評論家。本名は吉太郎。秋田県土崎港古川町生れ。1913(大正 2)秋田県立工業学校機械科卒業。戦後、社会党所属参議院議員。 かねさき ちとうそん【兼崎 地橙孫】 1890. 3.27(明治23) 〜 1957. 9. 3(昭和32) ◇弁護士・俳人。名は理蔵。 かねざわ あきとき【金沢 顕時】 ⇒北条顕時 かねざわ さだあき【金沢 貞顕】 ⇒北条貞顕 かねざわ さねとき【金沢 実時】 ⇒北条実時 かねだ きいち【金田 鬼一】 1886.12.10(明治19) 〜 1963.11. 1(昭和38) ◇ドイツ文学者。 かねたに かんじ【金谷 完治】 1901. 5. 1(明治34) 〜 1946. 1. 5(昭和21) ◇小説家。 かねつね きよすけ【兼常 清佐】 1885.11.22(明治18) 〜 1957. 4.20(昭和32) ◇音楽評論家・音声学者・随筆家。 (8)没日は 4.25。 かねなが しんのう【懐良 親王】《かねなが しんわう》 1329 〜 1383(<南>弘和 3,<北>永徳 3) ◇後醍醐天皇の皇子。征西将軍宮(セイセシショウグンノミヤ)・鎮西宮・九州宮、「かねよし(懐良)」とも。 _1338年、南朝方の征西将軍に任ぜられ、四国から九州にわたる。菊池・阿蘇氏らに支援されて足利軍と交戦し、1361年大宰府を占領し、一時九州全土を制圧。 _これに対して足利氏は九州探題として渋川氏を、さらに今川貞世(了俊)を派遣。了俊の反撃によって、筑後矢部の奥地で没した。 (*)1338(<南>延元 3,<北>建武 5,<北>暦応元)、1361(<南>正平16,<北>延文 6,<北>康安元)、1329(嘉暦 4,元徳元)。 かねよし しんのう【懐良 親王】《かねよし しんわう》 ⇒懐良親王 かのう あかつき【加能 暁】 1893. 3.10(明治26) 〜 1930. 2. 6(昭和 5) ◇歌人。本名は巳三雄(ミサオ)。 かのう いっけい【狩野 一渓】 1599(慶長 4) 〜 1662(寛文 2) ◇江戸前期の画家。名は重良。内膳重郷の子。 _幼く狩野光信に学び、長じて江戸に移り、将軍徳川家光の画用を勤める。 _著書は『後素集』・『丹青若木集』など。 かのう うたのすけ【狩野 雅楽助】 ⇒狩野之信 かのう えいとく【狩野 永徳】 1543(天文12. 1.13) 〜 1590(天正18. 9.14) ◇安土桃山時代の画家・狩野家4代目。名は州信(クニノブ)。山城国(現:京都府)の生れ。狩野元信の孫、狩野孝信の父、狩野探幽(タンユウ)の祖父。 _幼少から祖父元信の指導を受け、早くから画才を発揮。 _京都に住み、織田信長に認められ、1576(天正 4)安土築城に際して起用され、一門を率いて天守や御殿の障壁画を制作。 _のち豊臣秀吉に仕え、1583(天正11)大坂城・1587(天正15)聚楽第(ジュラクダイ)・院御所・天瑞寺などの障壁画制作に雄筆を揮う。 _時代に相応しく城郭建築に適合し豪壮闊達(カッタツ)な金碧障壁画の桃山様式を創始し、御用絵師としての狩野派の基礎を確立した。 _現存の代表作は『洛中洛外図屏風(上杉家本)』・『唐獅子図屏風』など。 ◎「古永徳」とも呼ぶ。 かのう えいのう【狩野 永納】《かのう えいなふ》 1631(寛永 8) 〜 1697(元禄10. 3. 7) ◇江戸前期の狩野派の絵師。名は縫殿助、号は一陽斎・梅岳など。狩野山雪の子。 _画法を初め父に、のち安信に学ぶ。 _黒川道祐の援助を得て、1678(延宝 6)父山雪の遺した手録を基に『本朝画史』(5巻)を編纂・刊行。 かのう こうい【狩野 興以】 生年不詳 〜 1636(寛永13) ◇江戸前期の狩野派の絵師。本姓は松屋、初名は弥兵衛のち弥左衛門、諱(イミナ)は定信。興甫・興也・興之の父。下野の人。 _狩野光信に師事し、その才能を買われて狩野孝信の委託によりその三子を指導。 _3百石で紀州藩に仕え、法橋に叙せられる。 _代表作は『山水図屏風(東京国立博物館所蔵)』・『山水図(諸戸家所蔵)』、二条城白書院・京都等持院方丈の障壁画など。 かのう こうきち【狩野 亨吉】《かのう かうきち》 1865(慶応元. 7.28) 〜 1942.12.22(昭和17) ◇明治〜昭和前半期の哲学者・思想家。秋田藩の儒者狩野良知の次男。秋田県大館市生れ。 _1888(明治21)東京帝国大学数学科卒業、1891(明治24)同校哲学科卒業。 _第四高等学校・第五高等学校の教授を経て、1898(明治31)第一高等学校校長。1906(明治39)京都帝国大学の初代文科大学長、幸田露伴)コウダ・ロハン)・内藤湖南(コナン)を招くが、2年で辞職。在野で研究生活を続ける。 _安藤昌益(ショウエキ)・志筑忠雄(シヅキ・タダオ)・本多利明(ホンダ・トシアキ)らを江戸時代の忘れられていた独創的な思想家発見・紹介。 ◎蔵書は狩野文庫として東北大学に残っている。 ◎夏目漱石の『吾輩は猫である』の先生のモデルといわれる。