けいうん【慶運】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇南北朝時代の歌人。浄弁(ジョウベン)の子。 _頓阿(トンア)・浄弁・吉田兼好(ヨシダ・ケンコウ)とともに「和歌四天王」と呼ばれる。 けいこういん しゅうよう【慶光院 周養】 生年不詳 〜 1611(慶長16. 4.26) ◇安土桃山時代の尼僧。伊勢宇治の慶光院4世。 けいこういん せいじゅん【慶光院 清順】 生年不詳 〜 1566(永禄 9. 4. 3) ◇戦国時代の尼僧。伊勢宇治の慶光院3世。 けいざん じょうきん【瑩山 紹瑾】《けいざん ぜうきん》 1268(文永 5) 〜 1325(正中 2) ◇鎌倉後期の僧侶・曹洞宗中興の祖。号は瑩山、諱は紹瑾(ジョウキン)、諡号(シゴウ)は弘徳円明国師・常済大師・物慈禅師。道元4世の法孫。越前生れ。 _8歳で永平寺3世徹通義介(テッツウギカイ)につき沙弥(シャミ)となる。13歳で永平寺2世懐弉(エジョウ)によって得度。 _宝鏡寺の寂円、東福寺の湛照・慧暁、興国寺の覚心らに参ずる。22歳のとき義介に従い加賀の大乗寺に移る。1298(永仁 6)大乗寺2世となる。1300年(正安 2)『伝光録』を著す。 _1321年(元亨元)能登に総持寺を開き、後醍醐天皇の帰依も受け、永平寺とならぶ曹洞宗の本山となる。 ◎曹洞宗では道元を高祖、瑩山を太祖、併せて両祖と呼ぶ。 けいたい てんのう【継体 天皇】《けいたい てんわう》 450ころ 〜 531ころ ◇第23代天皇。名は男大迹尊(オオドノミコト)・彦太尊(ヒコフトノミコト)。彦主人王(ヒコウシノオオキミ)の第一王子、母は振媛、応神天皇五世の孫とする。越前国坂井郡三国生れ。 _後継ぎのなかった武烈(ブレツ)天皇の死後、大伴金村(オオトモノカナムラ)・物部麁鹿火(モノノベノアラカビ)らに擁立されて北陸地方(越前または近江)から大和(ヤマト)に入り皇位を継ぎ、反対勢力が強かったので河内で即位。 _都は河内国樟葉宮(クスハノミヤ)(現:大阪府枚方市)など。 _在位25年( 507〜 531)で、摂津国島上郡に埋葬されたとされる。 (*)没年は文献によって異説がある。 ◆墓は、宮内庁では藍野陵(現:大阪府茨木市三島の太田茶臼山古墳)、一般には今城塚古墳とする。 ◎このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え、在位中に任那(ミマナ)4県を百済(クダラ)に割譲、また筑紫(ツクシ)では磐井(イワイ)の乱が起こった。 けいちゅう【契沖(契冲)】 1640(寛永17) 〜 1701(元禄14. 1.25) ◇江戸前期の真言宗僧・国学者・歌人。字は空心、俗姓は下川、契沖・契冲は法号。摂津国尼崎生れ。父は尼崎城主青山氏に仕える250石取り下川元全(モトヨシ)。 _生後間もなく父は浪人となる。7歳のとき、大病にかかる。11歳で大坂今里の妙法寺に出家、1652年、13歳で高野山に上り、1662(寛文 2)23歳のとき阿闍利(アジャリ)位を得て大阪生玉(イクタマ)のの曼陀羅院(マンダライン)の住職となり、このころ下河辺長流(シモカワベ・チョウリュウ)を知る。 _27歳のころ寺務めを厭い寺を出奔(シュッポン)大和・葛城(カツラギ)などを巡歴、石に頭を打ちつけて死のうとしたが果たさず、高野山に上り菩薩戒(ボサツンイ)を受ける。 _1678(延宝 6)39歳のころ、母を養うため摂津今里の妙法寺の住職になる。 _母が亡くなったあと、1690(元禄 3)51歳ころ、大阪高津(コウヅ)の円珠庵に隠棲する。 (*)1652(慶安 5,承応元)。 けいてん ぼくどう【敬天 牧童】 1875.11.10(明治 8) 〜 1968. 6.23(昭和43) ◇詩人・俳人。本名は野田良治、旧姓は今村。丹波国何鹿(イカルガ)郡生れ。大阪の泰西学館を経て、1896(明治29)上京し東京専門学校に学び、翌年公使館及び領事館書記生試験に及第、外交官になる。『日葡辞典』(1963. 4.有斐閣)を編纂。 けつ しん【蕨 真(蕨 眞)】 1876. 8.20(明治 9) 〜 1922.10.14(大正11) ◇歌人。本名は蕨真一郎(ワラビ・シンイチロウ)、号は杉霊・武射子・礎山(ソザン)・農林山人。千葉県山武郡睦岡村生れ。1911(明治44)農林学校を創設。 けま なんぼく【食満 南北】 1880. 7.31(明治13) 〜 1957. 5.14(昭和32) ◇劇作家。本名は貞二。 けんこう【兼好】《けんかう》 ⇒吉田兼好 げんじ けいた【源氏 鶏太(源氏 鷄太)】 1912. 4.19(明治45) 〜 1985. 9.12(昭和60) ◇小説家。本名は田中富雄。富山市生れ。 _1930(昭和 5)県立富山商業卒業。同年、住友合資会社(本社)に入社。 _1934(昭和 9)「報知新聞」のユーモア小説募集に佳作入選。 _戦後、GHQの財閥解体指令により住友本社解散、残務整理担当。住友系の不動産会社総務部次長、1956(昭和31)退社。 けんしゅんもん【建春門院】《けんしゆんもんゐん》 ⇒平滋子 けんしゅんもんいんのちゅうなごん【建春門院 中納言】《けんしゆんもんゐんのちゆうなごん》 1157(保元 2) 〜 没年不詳 ◇鎌倉前期の日記作者。父は藤原俊成(トシナリ)、母は藤原親忠(チカタダ)の娘で美福門院加賀と呼ばれた女房。藤原定家(サダイエ)の同腹の姉。家では健御前(タケゴゼン)と呼ばれた。『建春門院中納言日記』の奥書には「建保七年三月三日書了」(1219)とあり、七〇歳に満たないで没した。 けんしょう【顕昭】 1130(大治 5)頃 〜 1210(承元 4)以降 ◇平安後期の歌人・歌学者。亮公(スケノキミ)・亮君(スケノキミ)・亮阿闍梨(スケノアジャリ)・佐阿闍梨(スケノアジャリ)。六条家藤原顕輔(アキスケ)の養子。 けんそう てんのう【顕宗 天皇】《けんそう てんわう》 450 〜 487 ◇第23代天皇。名は弘計王(オケオウ)・来目稚子(クメノワクゴ)・袁祁之石巣別命。履中(リチュウ)天皇(第17代)の孫、磐坂市辺押磐(イワサカノイチノヘノオシワ)皇子の王子、母は(「草」冠+「夷」補助5589〔_〕)媛、仁賢(ニンケン)天皇(億計王)の弟。 _父が雄略天皇(第21代)に殺されたとき、難を避けて兄億計王(オケオウ)と丹波に逃れる。のち播磨国縮見屯倉(シジミノミヤケ)の首忍海部細目(オシヌミノミヤツコホソメ)に牛飼の童として仕える。 _ 481(清寧天皇 2)播磨国司の伊与来目部小楯(イヨノクメベ・オダテ)の供応の席で弘計王が歌に託して素性を明らかにし、翌年後嗣のない清寧(セイネイ)天皇(第22代)に迎えられる。 _清寧天皇が崩じると兄弟で位を譲り合い、しばらく空位となり姉の飯豊青皇女が政をしていたが、身分を明らかにした弘計王が先に即位、近飛鳥(チカツアスカ)八釣宮を都とする。3年後に顕宗天皇が崩じて後に兄が即位。 _即位: 485(乙丑 1. 1)、退位: 487(丁卯 8. 8)。 けんにち【顕日】 ⇒高峰顕日 けんにょ【顕如】 1543(天文12. 1. 7) 〜 1592(天正20.11.24) ◇安土桃山時代の一向宗(浄土真宗)の僧・本願寺11世。諱(イミナ)は光佐(コウサ)。大坂石山本願寺10世証如の長男、母は中納言庭田重親の娘。顕尊の兄、教如の父。 _13歳で剃髪・得度、翌日父証如が亡くなる。17大僧正。18歳で門跡。21宗徒の階級法衣を制定、弟顕尊を脇門跡とする。 _1563(永禄 6)三河の一向一揆など諸国門徒の蜂起を以て、1570(元亀元)・1576(天正 4)など10年に渡り織田信長に対抗したが、石山合戦で屈服し、信長による正親町(オオギマチ)天皇の仲介によって和睦、1580(天正 8.閏3)石山本願寺を退き紀伊鷺森に移る。 _信長の死後、1585(天正13)秀吉から摂津天満崎の地を与えられ大阪に帰る。1581(天正 9)秀吉から京都七条坊門堀川の地を寄進され、祖堂を建立(西本願寺の起源)。 ◎顕如の長男教如は父の石山本願寺退去後も籠城。顕如の没後、烏丸に東本願寺創建し、退去派と籠城派との間で教団が東西に分派した。 けんれいもんいん【建礼門院】《けんれいもんゐん》 1155(久寿 2) 〜 1213(建保元.12.13) ◇平安末期、高倉天皇の中宮。名は平徳子(トクコ)。平清盛(キヨモリ)の次女、母は平時信の娘時子(二位尼)。安徳天皇の母。平重盛(シゲモリ)(異母)・宗盛(ムネモリ)(同母)・知盛(トモモリ)(同母)の妹、重衡(シゲヒラ)(同母)の姉。 _1171年、後白河法皇の猶子(養女)となり従三位、間もなく入内し高倉天皇の女御、翌1172(承安 2)中宮。1178(治承 2)言仁(トキヒト)皇子を出産、1ヶ月で皇太子となる。1180(治承 4)言仁皇子が即位し安徳天皇となる。1181年、院号宣下、建礼門院と称する。 _1183(寿永 2)平氏が加賀・越中の国境倶利加羅(クリカラ)峠で源(木曾)義仲(ヨシナカ)に惨敗し、義仲の軍が京都にせまり、平宗盛の率いる平氏一門とともに安徳天皇を奉じて西国に走る。1185(元暦 2. 3.24)壇ノ浦で天皇と母二位尼の入水(ジュスイ)を見届けてから入水、源氏の兵に救われて京に帰る。 _吉田の実憲律師の坊に入り落飾(出家)、法名を真如覚と号する。のち大原の寂光院(ジャッコウイン)に住む。 (*)1171(嘉応 3,承安元)、1181(治承 5,養和元)。 けんれいもんいん うきょうのだいぶ【建礼門院 右京大夫】《けんれいもんゐん うきやうのだいぶ》 1157(保元 2)頃 〜 没年不詳 ◇平安後期〜鎌倉前期の歌人。父は藤原(世尊寺)伊行(コレユキ)、母は楽人大神基政(オオミワ・モトマサ)の娘で箏ひきの名人の夕霧尼。享年七五歳以上と思われる。 _1174(承安 4)建礼門院に宮仕、右京大夫と称する。平重盛(シゲモリ)の次子資盛(スケモリ)と交情を深め、資盛が壇ノ浦で没後、出家して法性寺に入る。晩年、再度後鳥羽院に宮仕えする。 (2)けんれいもんいん うきょうだゆう(建礼門院 右京大夫)。 (4)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。 (6)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。 (16)けんれいもんいんうきょうのだいぶ(建礼門院 右京大夫)。