くうかい【空海】 774(宝亀 5) 〜 835(承和 2. 3.21) ◇平安前期の宗教家。真言宗(シンゴンシュウ)の開祖。俗姓は佐伯(サエキ)、幼名は真魚(マオ)、諡(オクリナ)は弘法大師(コウボウダイシ)。佐伯田公の三男、母は阿刀氏。讃岐国(香川県)多度郡屏風ヵ浦生れ。 _ 788(延暦 7)入京し、外舅阿刀大足(アトノオオタル)に儒書を学ぶ。 791(延暦10)大学に入るが中退し、僧とならず優婆塞(ウバソク)に身を投じて四国の各地で修行。 795(延暦14)受戒、教海から空海と改名。 804(延暦23)遣唐使の船(最澄も乗っている)に便乗し、5月入唐(ニットウ)、12月長安に入る。 806(大同元)帰朝。 _ 809(大同 4)入京し、嵯峨天皇のち淳和天皇の知遇を受ける。 827(天長 4)大僧都。 828(天長 5)庶民のため綜芸種智院(シュゲイシュチイン)を開設。 _ 921(延喜21)弘法大師の諡号が追贈される。 (17)二十二年得度受戒して空海と諱(イミナ)した(異説十二年・十四年・十七年・二十三年)。 _嵯峨天皇・橘逸勢(タチバナ・ハヤナリ)とともに三筆の一人。 ◆弘法忌(空海忌・御影供<ミエイク>)[ 3.21]御影堂で大師像を開帳供養。 ◎ 805(延暦24)最澄が唐から茶の種を持ち帰り近江に植え、翌年には空海も茶の種を持ち帰り長崎に植えている。 くうや【空也】 903(延喜 3) 〜 972(天禄 3. 9.11) ◇平安中期の僧・空也念仏の祖。名は光勝、弘也(こうや)・市聖(イチヒジリ)・阿弥陀聖(アミダヒジリ)・空也上人と称される。 _諸国を遍歴し、道路・橋梁・堂宇を補修し、水利を通じ、常に市井(シセイ)に立って阿弥陀仏の名号を唱える。 948(天暦 2)受戒。天慶年間、京都で念仏により庶民を教化、踊念仏を始める。 _京都に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を建て、ここの空也像は有名。 (*)後醍醐の第五皇子とも、仁明天皇の皇子、常康親王の子ともいわれる。 ◆空也忌[旧暦11.23]京都空也堂で修する法会、空也念仏を唱えながら京都の内外をめぐる。空也が京都を出て東国化導に赴(オモム)いた忌日。 くが かつなん【陸 羯南】 1857(安政 4.10.14) 〜 1907. 9. 2(明治40) ◇政治評論家・新聞記者。幼名は巳之太郎、本名は実(ミノル)、字は秀卿、別号は樗園(チョエン)。陸奥国生れ。 (5)没日は 9.20。 (8)没日は 9. 2。 (11)没日は 9.20。 くが なおじろう【陸 直次郎】 1898. 1.12(明治31) 〜 1944. 8.11(昭和19) ◇小説家。本名は野沢嘉哉。 くき しゅうぞう【九鬼 周造】《くき しうざう》 1888. 2.15(明治21) 〜 1941. 5. 6(昭和16) ◇哲学者。東京生れ。 _東京帝国大学哲学科卒。ドイツ・フランスに留学後、京都帝国大学教授。 _実存哲学の立場から日本文化を分析し、文芸の哲学的解明に努める。 _著書は『いきの構造』・『文芸論』・『偶然性の問題』・『人間と実存』など。 くき じろう【九鬼 次郎】 1914. 3.30(大正 3) 〜 1940. 8.21(昭和15) ◇詩人・歌人。本名は松田末雄。 くき もりたか【九鬼 守隆】 1573 〜 1632(寛永 9) ◇安土桃山・江戸初期の武将。嘉隆の子、直隆の兄。 _関ヶ原の戦では東軍(徳川方)に属して父嘉隆と相戦い、東軍最初の勝報をもたらす。鳥羽城を安堵される。 _1614(慶長19)大坂冬の陣では水軍を率い、城外の野田・福島の要害を破る。 _弟直隆が家を継ぎ、のち摂津国三田に移される。 (*)1573(元亀 4,天正元)。 くき よしたか【九鬼 嘉隆】 1542(天文11) 〜 1600(慶長 5.10.12) ◇安土桃山時代の武将・鳥羽城主。通称は大隅守。志摩の田代城主九鬼定隆の子、浄隆の弟、守隆・直隆の父。 _初め伊勢国司北畠氏に属し、次いで織田信長に従い、九鬼水軍(熊野海賊)を率い1574(天正 2)長島一向一揆・石山本願寺攻撃に出陣。 _信長の没後、豊臣秀吉に仕え、1587(天正15)小牧・長久手の戦いに織田信雄を攻める。1592(文禄元)文禄の役では水軍の中心となり奮戦。鳥羽領主として志摩・伊勢に3万5千石を領する。 _関ヶ原の戦では西軍(豊臣方)に属して子の守隆と相戦ったが敗れ、紀伊に走り自刃。 ◎慶長の役の水軍の将は加藤嘉明(ヨシアキ)。 くき りゅういち【九鬼 隆一】 1852(嘉永 5) 〜 1932(昭和 7) ◇枢密顧問官。号は成海。摂津生れ。 _古社寺保存会会長・帝室博物館総長などを歴任。 くぎもと ひさはる【釘本 久春】 1908(明治41) 〜 1968(昭和43) ◇日本語教育者・文部省官僚。 _中島敦とは学生時代からの友人。 くさか しん【日下 (「言」偏+「念」:補助6214〔_〕)】 1887. 6.17(明治20) 〜 1938.12.13(昭和13) ◇小説家。本名は正親町実慶(サネヨシ)。 くさか ようこ【久坂 葉子】 1931. 3.27(昭和 6) 〜 1952.12.31(昭和27) ◇小説家。本名は川崎澄子。鉄道自殺。 くさかど のぶたか【草鹿砥 宣隆】 1818 〜 1869(明治 2. 6.21) ◇江戸幕末の国学者・神職。通称は勘解由。三河国宝飯郡生れ。 _1834(天保 5)平田篤胤(アツタネ)門に入門。 (*)1818(文化15,文政元)。 くさかべのおうじ【草壁 皇子】 ⇒草壁皇子 くさかべのみこ【草壁 皇子】 662[天智元] 〜 689[持統 3. 4.13] ◇7世紀後半の天武朝の皇太子。 _ 681[天武 9. 2.]立太子。 _ 758(天平宝字 2. 2.)岡宮御宇天皇と追諡。 くさかわ しん【草川 信】 1893. 2.14(明治26) 〜 1948. 9.20(昭和23) ◇作曲家。 くさの しばじ【草野 芝二】 1875.11.15(明治 8) 〜 没年不詳 ◇翻訳家・小説家。本名は若杉三郎。 くさの てんぺい【草野 天平】 1910. 2.28(明治43) 〜 1952. 4.25(昭和27) ◇詩人。 くさま ときよし【草間 時福】 1853(嘉永 6) 〜 1932(昭和 7) ◇新聞記者・政治家。京都出身。 _「朝野新聞」・「東京横浜毎日新聞」で活躍。1884(明治17)官界に入る。 くさま なおかた【草間 直方】《くさま なほかた》 1753(宝暦 3) 〜 1831(天保 2) ◇江戸後期の商人・貨幣経済史家。通称は鴻池屋伊助。大坂の人。 _懐徳堂に学ぶ。両替商の鴻池家の分家、尼崎の草間家の養子となる。のち独立して肥後藩、南部藩などの財政整理を担当。 _晩年隠退して、物価・貨幣の変遷を詳述した『三貨図彙』(44巻)・『草間伊助筆記』・『茶器名物図彙』を著す。 くさむら ほくせい【草村 北星】 1879. 3.10(明治12) 〜 1950. 5.25(昭和25) ◇小説家・評論家。本名は松雄。埼玉県玉名郡高瀬町生れ。1900(明治33)東京専門学校(現:早稲田大学)文学科卒業。1904(明治37)出版社隆文館を経営。 (5)熊本県生れ。 くしだ たみぞう【櫛田 民蔵】 1885.11.16(明治18) 〜 1934.11. 5(昭和 9) ◇経済学者。 くじょう かねざね【九条 兼実】《くでう かねざね》 1149(久安 5) 〜 1207(建永 2. 4. 5) ◇平安末期〜鎌倉初期の公家・九条家の始祖。法名は円証。藤原兼実・月輪(ツキノワ)関白・月輪殿、法性寺(ホッショウジ)関白・法性寺殿とも呼ぶ。関白藤原忠通の3男、慈円の兄、藤原(九条)良経(ヨシツネ)の父。 _権大納言・右近衛大将を兼ねる。1164(長寛 2)内大臣。1166年、右大臣・従一位。 _1183(寿永 2)平氏が安徳天皇を奉じて西海に走ると、後鳥羽上皇をたてて京都の治安をはかる。また源義経が兄頼朝の追討院宣を奏請(ソウセイ)した際、非とする。 _源頼朝の後援により1185年議奏(ギソウ)公卿の上首、翌年に摂政となり、記録所を再興。ついで1191(建久 2)関白となる。1192(建久 3)頼朝の将軍宣下を取り計らう。 _幕府と結び後白河院の院政を押さえようとしたが、1196(建久 7)土御門(源)通親(ツチミカド・ミチチカ)と対立して失脚、1202(建仁 2)出家して法然に帰依。 _博学多識で、明経の術・和歌・書道にも通じる。 _日記『玉葉(ギョクヨウ)』(66巻)がある。 (*)1166(永万 2,仁安元),1185(元暦 2,文治元)。 くじょう さだこ【九条 節子】《くでう さだこ》 ⇒貞明皇后 くじょう たけこ【九条 武子(九條 武子)】《くでう たけこ》 1887.10.20(明治20) 〜 1928. 2. 7(昭和 3) ◇歌人。旧姓は大谷。京都生れ。京都西本願寺法主大谷光尊(コウソン)の次女、大谷光瑞(オオタニ・コウズイ)の妹。九条良致(ヨシムネ)の妻。 _1909(明治42)男爵九条良致に嫁ぎ、夫とともに外遊したが、翌年一人帰国。以来、本願寺内の錦華殿に12年間独居生活を送った。1916(大正 5)佐佐木信綱に師事。 _仏教婦人連合会会長。 _作品は歌集『金鈴』・『薫染(クゼン)』・『白孔雀』、『無憂華(ムウゲ)』など。 くじょう たねみち【九条 稙通】《くでう たねみち》 1507(永正 4) 〜 1594(文禄 3. 1. 5) ◇安土桃山時代の公家・古典学者。法名は行空のち恵空、号は玖山。尚経の子、母は三条西実隆(サネタカ)の娘。 _柏原・後奈良・正親町天皇の三代に仕え、内大臣・関白となる。 _古典ならびに有職故実に詳(クワ)しく、外祖父実隆とその子公条に学び、三条西家の学統を受けて源氏物語の注釈書『孟津抄』(20巻)を著わす。その他、紀行文『嵯峨記』などがある。 くじょう のりざね【九条 教実】《くでう のりざね》 1210(承元 4) 〜 1235 ◇鎌倉初期の執権。別称は洞院殿。九条道家の嗣子、母は西園寺公経(キンツネ)の娘綸子、九条頼経(ヨリツネ)の兄。 _1227年、右大臣。1231(寛喜 3)左大臣・関白。1232(貞永元.12.)甥の四条天皇の即位により摂政。 _1235年、幕府に後鳥羽法皇の帰京を求めたが、決着のつかないうちに死亡。 _日記に『洞院摂政記』がある。 (*)1227(嘉禄 3,安貞元),1235(文暦 2,嘉禎元)。 くじょう ひさただ【九条 尚忠】《くでう ひさただ》 1798(寛政10) 〜 1871(明治 4) ◇江戸末期の公家。法名は円真。二条治孝の子、輔嗣の養子。 _佐幕派として日米通商条約の勅許や、和宮降嫁の実現に努める。尊王攘夷派の怒りを買い、辞職・閉居を命じられる。 くじょう まさとも【九条 政基】《くでう まさとも》 1445(文安 2) 〜 1516(永正13) ◇室町後期の公家。尚経の父。 _1465(寛正 6)九条家の家督を相続。 _1476(文明 8)関白・氏長者。1491(延徳 3)准后宣下。 _1496(明応 5)子の尚経と家領経営から争い、九条家の執事唐橋在数を殺害。出仕停止の勅勘(チョッカン)を受ける。 _1501年、家領日根(ヒネ)荘(現:大阪府泉佐野市)に下り、約4年間にわたり自ら荘務を執る。 _日記に『政基公旅引付』がある。 (*)1501(明応10,文亀元)。 くじょう みちいえ【九条 道家】《くでう みちいへ》 1193(建久 4) 〜 1252(建長 4. 2.) ◇鎌倉初期の公卿(摂政・関白)。法名は行慧、別称は光明峰寺(コウミョウブジ)殿。九条兼実(カネザネ)の孫、九条良経の長男、母は源頼朝(ヨリトモ)の妹婿一条能保(ヨシヤス)の娘。妻は西園寺公経(キンツネ)の娘綸子。九条教実(ノリザネ)・頼経(ヨリツネ)の父、九条頼嗣(ヨリツグ)の祖父。 _1219(承久元. 6.)4男頼経を鎌倉に下す。 _1221(承久 3. 4.)仲恭(チュウキョウ)天皇の即位で摂政となる。同年5月の承久の乱では局外にあったが変後に辞職。 _1226(嘉禄 2. 1.)頼経が幕府の4代将軍となり(摂家将軍の初め)、岳父西園寺公経は幕府の後援で太政大臣となり、道家も関白となる。関東申次の職にあって公武間の秘書として重きをなす。 _ついで長女が後堀河天皇の中宮となり、その皇子が1232(貞永元.12.)四条天皇に即位し、道家は天皇の外祖父となる。 _1236(嘉禎 2)京都五山の一つ東福寺を東山に創建し、聖一国師円爾(エンニ)(弁円)を迎える。1238年、法性寺で出家し禅定太閤となる。 _1244(寛元 2)頼経の子(道家の孫)頼嗣が5代将軍となるが、1246(寛元 4. 5.)名越光時(ナゴヤ・ミツトキ)が頼経を擁して北条時頼の討伐を図ったため、頼経は京都に送還となり、幕府に忌まれて関東申次の職を奪われる。 _1251(建長 3)僧了行の陰謀に頼経が関わり道家も嫌疑を受け、翌年頼経とともに勅勘(チョッカン)となり、不遇のうちに死亡。 _朝儀の資料として重要な日記『玉蘂(ギョクズイ)』がある。 (*)1238(嘉禎 4,暦仁元)。 ◎東福寺の完工は1255(建長 7)。 ◎長女(後堀河天皇の中宮)の名は「(「立」偏+「尊」:補助4979〔_〕)子」。 くじょう もろすけ【九条 師輔】《くでう もろすけ》 ⇒藤原師輔 くじょう よしつね【九条 良経】《くでう よしつね》 ⇒藤原良経 くじょう よりつぐ【九条 頼嗣】《くでう よりつぐ》 1239 〜 1256(建長 8. 9.25) ◇鎌倉幕府の第5代将軍。第4代将軍九条頼経(ヨリツネ)の子、九条教実(ノリザネ)の弟。 _1244(寛元 2)父頼経の引退後、執権北条経時(ツネトキ)に擁立され6歳で摂家将軍となる。 _1251(建長 3)僧了行の陰謀に頼経が関わり、1252(建長 4)執権北条時頼に廃され、宗尊(ムネタカ)親王が宮将軍として迎えられて、帰京。不遇のうちに京都で死亡。 _将軍在位:1244(寛元 2)〜1252(建長 4)。 (*)1239(暦仁 2,延応元)。 くじょう よりつね【九条 頼経】《くでう よりつね》 1218(建保 6) 〜 1256(建長 8. 8.11) ◇鎌倉幕府の第4代将軍。藤原頼経とも呼ぶ。摂政・関白九条道家の4男、母は太政大臣西園寺(藤原)公経(キンツネ)の娘綸子、第5代将軍頼嗣(ヨリツグ)の父。 _第3代将軍源実朝(サネトモ)の暗殺後、源頼朝(ヨリトモ)の遠縁にあたるため2歳で鎌倉に迎えられ、1226(嘉禄 2)7歳で摂家将軍の宣下を受ける。 _将軍の在位が長くなったため執権北条経時(ツネトキ)に強要され、1244(寛元 2)子頼嗣(6歳)に将軍職を譲渡。1245(寛元 3)出家し行智と号する。 _幕府の勢力争いから1246(寛元 4. 7.)京都へ送還。 _1251(建長 3)僧了行の陰謀に関わり北条氏滅亡を計画するが失敗。父道家とともに勅勘(チョッカン)となり、不遇のうちに死亡。 _将軍在位:1226(嘉禄 2)〜1244(寛元 2)。 くすだ いちろう【楠田 一郎】 1911.10. 7(明治44) 〜 1938.12.27(昭和13) ◇詩人。 くすだ きょうすけ【楠田 匡介】 1903. 8.23(明治36) 〜 1966. 9.23(昭和41) ◇小説家。本名は小松保爾(ヤスジ)。 くすだ としろう【楠田 敏郎】 1890. 4.26(明治23) 〜 1951. 1.20(昭和26) ◇歌人。本名は敏太郎、別名は檜山鳥夢・傷鳥。 くすのき まさしげ【楠木 正成】 1294(永仁 2) 〜 1336(<南>延元元,<北>建武 3. 5.25) ◇南北朝時代の武将。幼名は多聞丸。河内の土豪楠木正遠の子、正行(マサツラ)・正時・正儀(マサノリ)の父、正季(マサスエ)の兄。 _1331年8月、後醍醐天皇の呼び掛けに応じて笠置(カサギ)に参向。のち河内国赤坂の館を城に改築した赤坂城で挙兵、尊良親王・護良親王(モリナガ)らも立て籠るが落城。翌年の暮れに千早城で寡兵をもって再挙、赤坂城を奪回。さらに翌年1月和泉・摂津の守護軍を破り、六波羅軍を撃破。数日で赤坂城は落ちたが、千早城に籠城し野伏の支援を受けて鎌倉幕府の大軍を支え、諸国の反幕府結集の時を稼ぐ。 _建武政権下で摂津・河内・和泉の守護となる。のち足利尊氏が叛旗を翻(ヒルガエ)すと九州に駆逐するが、再帰した尊氏軍と湊川で迎え撃って敗死(湊川の合戦)。 (16)生年不詳。 (*)1331(元徳 3,元弘元)。 ◎父正成は大楠公(ダイナンコウ)または楠公、子正行は小楠公(ショウナンコウ)と呼ばれる。 ◎太平洋戦争まで三大忠臣(和気清麻呂<ワケノキヨマロ>・名和長年<ナワ・ナガトシ>・楠木正成)の一人として軍部に利用された。 ◎皇居外苑に1900(明治33)住友氏が献納した銅像がある。別子銅山開発二百年の祝賀記念のもので、製作主任は高村光雲。[図:楠木正成]楠正成 千代田区の皇居外苑(1998年4月4日撮影) くすのき まさすえ【楠木 正季】《くすのき まさすゑ》 生年不詳 〜 1336(<南>延元元,<北>建武 3. 5.25) ◇南北朝時代の武将。名は七郎・帯刀。河内の土豪楠木正遠の子、正成(マサシゲ)の弟。 _建武政権に仕え、窪所および武者所の所衆となる。 ◎『太平記』では湊川の合戦で、兄正成に七生報国を誓い、刺し違えて死んだとある。 くすのき まさつら【楠木 正行】 1326 〜 1348(<南>正平 3,<北>貞和 4. 1. 5) ◇南北朝時代の武将。左衛門尉・河内守兼摂津守。正成(マサシゲ)の長子、正時・正儀(マサノリ)の兄。 _河内四条畷(シジョウナワテ)の戦で高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟の軍と戦い、弟正時と刺し違えて敗死。 (*)1326(正中 3,嘉暦元)。 ◎父正成は大楠公(ダイナンコウ)または楠公、子正行は小楠公(ショウナンコウ)と呼ばれる。 くすのき まさとき【楠木 正時】 生年不詳 〜 1348(<南>正平 3,<北>貞和 4. 1. 5) ◇南北朝時代の武将。通称は次郎。正成(マサシゲ)の次子、正行(マサツラ)の弟、正儀(マサノリ)の弟。 _河内四条畷(シジョウナワテ)の戦で高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟の軍と戦い、兄正行と刺し違えて敗死。 くすのき まさのり【楠木 正儀】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇南北朝時代の武将。名は三郎・左衛門尉。正成(マサシゲ)の第三子、正行(マサツラ)・正時の弟。 _兄正行・正時の戦死後、楠木一族の棟梁となり統率。足利氏に抗して南朝のために尽力。1361年、細川清氏が南朝に帰順すると公武の間を斡旋して京都を回復するが、間もなく足利義詮に奪われる。1367(<南>正平22,<北>貞治 6)南北両朝の和解を策したが不成立。 _1369(<南>正平24,<北>応安 2)足利義満と通じて南軍と天王寺に戦い、1373(<南>文中 2,<北>応安 6)吉野の行宮を侵す。 _しかし、1382(<南>弘和 2,<北>永徳 2)再び南朝方に帰順し、1383(<南>弘和 3,<北>永徳 3)参議となる。 (*)1361(<南>正平16,<北>延文 6,<北>康安元)。 くずはら しげる【葛原 (「凵」に「茲」:補助なし〔_〕)】 1886. 6.25(明治19) 〜 1961.12. 7(昭和36) ◇童謡作家。 くずはら たえこ【葛原 妙子】 1907. 2. 5(明治40) 〜 1985. 9. 2(昭和60) ◇歌人。東京生れ。東京府立第一高等女学校卒業。 くすみ もりかげ【久隅 守景(久須見 守景)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸中期の絵師。 _狩野探幽の高弟。子供の悪行により破門されたといわれる。 ◎桃田柳栄(リュウエイ)・鶴沢探山(タンザン)・神足常雲とともに狩野探幽門下の四天王の一人。 くすもと いね【楠本 イネ】 1827(文政10) 〜 1903(明治36) ◇江戸幕末・明治初期の女医。長崎生れ。父はシーボルト、母は楠本お滝。 _14歳のとき宇和島卯之町の二宮敬作を訪れ5年間医術を学ぶ。 _宮内庁御用掛の産科医。 くすもと まさたか【楠本 正隆】 1838(天保 9) 〜 1902(明治35) ◇地方行政官・政治家。 くすやま まさお【楠山 正雄】 1884.11. 4(明治17) 〜 1950.11.26(昭和25) ◇児童文学者・演劇評論家。東京生れ。1906(明治39)早稲田大学英文科卒業。童話劇作家協会を創設。 くつみ そくちゅう【久津見 息忠】 1860(安政 7. 1.14) 〜 1925. 8. 7(大正14) ◇新聞記者・評論家。本名は息忠、筆名は蕨村(ケッソン)・暮村隠士・(「謐」の「言」を「酉」に替える:補助なし)鶏学人(ヒッケイガクジン)。 (5)久津見 息忠(くつみ そくちゅう)。 (8)久津見 蕨村(くつみ けっそん)。 (11)久津見 息忠(くつみ そくちゅう)。 くないきょう【宮内卿】 生年不詳 〜 1205(元久 2)頃 ◇鎌倉前期の歌人。歌人右京権大夫源師光(モロミツ)の娘、母は後白河院の女房安芸(アキ)。後鳥羽院(上皇)に出仕。二〇歳台で夭折。 (5)1205(元久 2)頃:正。 (11)1204(元久 2)頃:誤。 くにえだ かんじ【邦枝 完二】 1892.12.28(明治25) 〜 1956. 8. 2(昭和31) ◇小説家。本名は莞爾(カンジ)、筆名は完二・双竹亭竹水。戸籍上の誕生日は1893. 1. 1(明治26)。東京麹町生れ。祖父は三百石取りの幕臣、父は馬術に長じていた。 _慶応義塾大学文科中退。 (5)誕生日は1892.12.28(明治25)。 (8)戸籍面での生年月日は1893. 1.10(明治26)。 (13)明治二六年一月東京麹町に生まる。 くにえだ しろう【国枝 史郎】 1888.10.10(明治21) 〜 1943. 4. 8(昭和18) ◇小説家。別名は宮川茅野雄・西川菊次郎・鎌倉彦郎。長野県生れ。早稲田大学英文科中退。 (1)誕生日は1887.10. 1(明治20)。 (3)誕生日は1888.10.10(明治21)。 (5)誕生日は1888.10.10(明治21)、別名鎌倉彦郎ほか。 (8)誕生日は1887.10.10(明治20)、宮川茅野雄・鎌倉参朗・市川末緒・西井菊次郎・柳内白来・奈良うねめなどの筆名がある。 (11)誕生日は1888.10.10(明治21)、別名鎌倉彦郎ほか。 くにきだ しゅうじ【国木田 収二】 1878. 9. 1(明治11) 〜 1931. 3. 4(昭和 6) ◇編集者。国木田独歩(ドッポ)の弟。 くにきだ どっぽ【国木田 独歩】 1871. 8.30(明治 4. 7.15) 〜 1908. 6.23(明治41) ◇小説家・詩人。本名は哲夫(1889. 7.10<明治22>改名)、幼名は亀吉(カメキチ)、筆名は孤島生・鏡面生・鉄斧生(テップセイ)・九天生・田舎漢(イナカモノ)・独歩吟客・独歩生。国木田治子(ハルコ)の夫、国木田収二(シュウジ)の兄。戸籍上の父は雅治郎であるが竜野藩士国木田専八という説がある。下総国銚子生れ。 _少年時代の大部分を山口県で送る。錦見小学校・今道小学校・山口中学校を経て、1888. 5.(明治21)東京専門学校英語普通科に入学、1890. 9.(明治23)英語政治科へ転科。1891(明治24)植村正久から洗礼を受ける。同三月、専門学校中退。 _1895(明治28)六月、キリスト教婦人矯風会の幹事佐々城豊寿の娘、信子(ノブコ)を知り恋愛関係になる。11月、佐々城家の反対を押し切り、徳冨蘇峰の尽力により信子と結婚し逗子に移り住む。1896. 3.(明治29)窮乏に堪えず、帰京し両親と同居。4月、信子が失踪したので協議離婚。 _1898(明治31)隣家の榎本治と結婚。 _作品は1901. 3.(明治34)『武蔵野』など。 ◆墓は東京都港区の青山霊園。 ◆独歩忌[ 6.23]。 (?)すぐに離婚した前妻信子は佐々城豊寿(ササキ・トヨシ)の長女で相馬黒光(ソウマ・コッコウ)の従姉。  ???? (5)佐々城豊寿(ササキ・トヨジュ)の娘、信(ノブ)子を知り……。 (11)佐々城豊寿(ササキ・トヨジュ)の娘、信(ノブ)子を知り……。 くにきだ はるこ【国木田 治子】 1879. 8. 7(明治12) 〜 1962.12.22(昭和37) ◇小説家。本名は治(ハル)、旧姓は榎本(エノモト)。国木田独歩(ドッポ)の後妻。 くにさだ ちゅうじ【国定 忠治】 1810(文化 7) 〜 1850(嘉永 3) ◇江戸幕末の博徒。上州国定村(現:群馬県佐波郡<サワグン>東村<アズマムラ>国定)の素封家長岡家の長男。 _大前田英五郎から兄弟分の盃(サカヅキ)をもらい侠客となる。17歳で人を殺し凶状持ちとなる。 _捕えられ大戸の関付近で処刑された。 ◆墓は群馬県佐波郡東村の養寿寺にある。 くにのみや あさひこ【久邇宮 朝彦(久迩宮 朝彦)】 ⇒朝彦親王 くにのみや くによし【久邇宮 邦彦(久迩宮 邦彦)】 1873. 7.23(明治 6) 〜 1929(昭和 4) ◇皇族・皇典講究所総裁。久邇宮朝彦(アサヒコ)の第1王子。朝融・良子(ナガコ)女王(昭和天皇后)の父。 _学習院・成城学校・士官学校を経て日露戦争に従軍。のち陸軍大将。 _1899(明治32)旧薩摩藩主島津忠義の7女倶子(チカコ)と結婚。 _1923.10.(大正12)第4代皇典講究所総裁に就任。 くにのみや ともよし【久邇宮 朝彦(久迩宮 朝彦)】 ⇒朝彦親王 くにひろ【国広】 生年不詳 〜 1614(慶長19) ◇江戸初期の刀工。日向の人。京都一条堀川の刀工で、信濃守を受領。 (4)没年は1614?。 くによし やすお【国吉 康雄】 1893(明治26) 〜 1953(昭和28) ◇洋画家。岡山市生れ。1906(明治39)渡米。 くの とよひこ【久野 豊彦】 1896. 9.12(明治29) 〜 1971. 1.26(昭和46) ◇小説家・経済評論家。名古屋市生れ。慶応義塾大学経済卒業。 (3)誕生日は1898. 9.13(明治31)。 (5)誕生日は1896. 9.12(明治29)。 (8)誕生日は1896. 9.12(明治29)。 (11)誕生日は1896. 9.12(明治29)。 くはら ふさのすけ【久原 房之助】 1869. 7.12(明治 2. 6. 4) 〜 1965. 1.29(昭和40) ◇明治〜昭和期の実業家・政治家。山口県生れ。父は庄三郎、父の実弟は藤田伝三郎(デンザブロウ)。鮎川義介の妹婿。 _1889(明治22)慶応義塾卒業。 _森村組を経て、1891(明治24)藤田組に入り秋田県の小坂鉱山(コサカコウザン)に赴任、1899(明治32)藤田組支配人、1900(明治33)小坂鉱山事務所長。 _藤田組から得た報酬と、三井と関係の深い元老井上馨(カオル)の庇護(ヒゴ)により、1905(明治38)独立し茨城県の赤沢鉱山を買収し日立鉱山を設立、1911(明治44)久原鉱業所を設立。 _1918(大正 7)販売部を久原商事、1919(大正 8)電気機械修理工場を日立製作所として独立させる。 _1928(昭和 3)政友会に入り、のち総裁。 (2)1905(明治38)藤田組を設立。 (21)91年藤田組に入り…。05年独立…。 くぼ いのきち【久保 猪之吉】 1874.12.26(明治 7) 〜 1939.11.12(昭和14) ◇医学博士(耳鼻咽喉科)・歌人。福島県生れ。1900(明治33)東京大学医科卒業。1903(明治36)ドイツ留学、1907(明治40)帰国し福岡医科大学教授。久保より江の夫。長塚節(タカシ)の主治医。 くぼ さかえ【久保 栄(久保 榮)】 1901. 1. 2(明治34)。 〜 1958. 3.15(昭和33) ◇劇作家・演出家・小説家。筆名は東建吉・松永博・柳生真三。北海道札幌生れ。戸籍上の生年は1901. 1. 2(明治34)。 _東京府立第一中学校を経て第一高等学校理科中退。1926(大正15)東京大学独文科卒業。社会主義演劇のために活動。順天堂病院で遮断療法中に自殺。 (1)誕生日は1900.12.28(明治33)。 (4)生年は1901。 (5)誕生日は1901. 1. 2(明治34)。 (11)誕生日は1901. 1. 2(明治34)。 くぼ すえしげ【久保 季茲】 1830 〜 1886. 3. 5(明治19) ◇江戸幕末・明治維新期の国学者。 _鶴峯戊申(ツルミネ シゲノブ)に学ぶ。 _明治政府に出仕。 (*)1830(文政13,天保元) くぼ てんずい【久保 天随(久保 天隨)】 1875. 7.23(明治 8) 〜 1934. 6. 1(昭和 9) ◇漢学者・漢詩人・評論家。本名は得二、別号は兜城山人・秋碧吟廬主人。東京下谷生れ。1899(明治32)東京帝国大学漢文科卒業。1920(大正 9)宮内省図書寮編修官。1927(昭和 2)文学博士。1929(昭和 4)台北帝国大学教授、台北で死去。 (4)長野県出身。 くぼ まさる【久保 勉】 1883. 2.17(明治16) 〜 1972. 5.24(昭和47) ◇哲学者。 くぼ よりえ【久保 より江】 1884. 9.17(明治17) 〜 1941. 5.11(昭和16) ◇俳人・歌人。旧姓は宮本。松山生れ。久保猪之吉(イノキチ)の妻。 くぼかわ つるじろう【窪川 鶴次郎】 1903. 2.25(明治36) 〜 1974. 6.15(昭和49) ◇評論家・小説家。静岡県生れ。四高理科中退。1931(昭和 6)非合法下の共産党員になる。1932. 3.(昭和 7)逮捕され、一年余で転向・出獄。佐多稲子(イネコ)の夫。 くぼた うつぼ【窪田 空穂】 1877. 6. 8(明治10) 〜 1967. 4.12(昭和42) ◇歌人・国文学者。本名は通治(ツウジ)。別号は小松原はる子・逃水・白瓶・樹下柏人。長野県東筑摩郡和田村生れ。 _松本中学校を経て、1904(明治37)東京専門学校文科卒業。 _早稲田大学教授。 (4)没年は1967。 くぼた きんせん【久保田 金僊】 1875. 9.19(明治 8) 〜 1954.10. 9(昭和29) ◇画家・舞台装置家。本名は吉太郎(キチタロウ)。久保田米僊(ベイセン)の次男・久保田米斎(ベイサイ)の弟。 くぼた しょうじ【久保田 宵二】 1899. 6. 2(明治32) 〜 1947.12.26(昭和22) ◇詩人・童謡作者。本名は嘉雄。 くぼた ひこさく【久保田 彦作】 1846(弘化 3) 〜 1868(明治元. 3.)  ???? ◇戯作者・狂言作者。別名は村柑子・竹柴幸次・村岡幸次。 (8)没日は1898. 1. 3(明治31)。 (13)没日は1898. 1. 3(明治31)。 くぼた ふじこ【久保田 不二子】 1886. 5.16(明治19) 〜 1965.12.17(昭和40) ◇歌人。本名は「ふじの」。長野県生れ。姉「うた」の死により島木赤彦の後妻となる。 くぼた べいさい【久保田 米斎】 1874(明治 7) 〜 1937. 1.14(昭和12) ◇舞台美術家。本名は米太郎のち満明、別号は世音・皿彩・錦竹舎・米所。久保田米僊(ベイセン)の長男・久保田金僊(キンセン)の兄。 くぼた べいせん【久保田 米僊】 1852(嘉永 5. 2.25) 〜 1906. 5.19(明治39) ◇日本画家。名は寛、幼名は米吉。久保田米斎(ベイサイ)・久保田金僊(キンセン)の父。 くぼた まんたろう【久保田 万太郎】《くぼた まんたらう》 1889.11. 7(明治22) 〜 1963. 5. 6(昭和38) ◇小説家・劇作家・俳人・演出家。俳号は暮雨のち傘雨(サンウ)、学生時代の筆名は千野菊次郎。東京浅草田原町生れ。 _市立浅草高等小学校・東京府立第三中学校を四年進級に落第し慶応義塾普通部三年に転校。1914(大正 3)慶応義塾大学文科卒業。 _永井荷風に師事。 (5)東京の浅草日原町に生れた。 ◆万太郎忌(傘雨忌)[ 5. 6]。 くぼた ゆずる【久保田 譲】《くぼた ゆづる》 1847(弘化 4) 〜 1936(昭和11) ◇明治・大正期の教育行政官。文部大臣。男爵。 _貴族員議員・枢密顧問官。 くぼでら いつひこ【久保寺 逸彦】 1902(明治35) 〜 1971(昭和46) ◇アイヌ文学研究者。 _金田一京助に師事し、アイヌ語・アイヌ文学を研究。 くまがい たけお【熊谷 武雄】 1883.11. 2(明治16) 〜 1936. 8.21(昭和11) ◇歌人。 くまがい なおよし【熊谷 直好】 1782(天明 2) 〜 1862(文久 2. 8. 8) ◇江戸後期の歌人。岩国藩士。四四歳のとき脱藩。 くまざわ ばんざん【熊沢 蕃山】《くまざは ばんざん》 1619(元和 5) 〜 1691(元禄 4. 8.17) ◇江戸前期の儒学者(陽明学派)。名は伯継(ノリツグ)、幼名は左七郎、字は了介(リョウカイ)(一説に良介)、通称は次郎八・助右衛門、別号は息游軒(ソクユウケン)・不敢敬人・不盈敬人・有終庵主、隠退後は蕃山(シゲヤマ)了介と称する。京都稲荷(異説:五条)生れ。野尻藤兵衛一利(カズトシ)の長男、母は熊沢亀女。 _8歳のとき水戸藩士・外祖父熊沢守久の養子となる。1634(寛永11)16歳で備前(ビゼン)国岡山藩主池田光政(ミツマサ)に児小姓役として出仕。1639(寛永16)病弱のため池田家を致仕、近江国桐原の祖父の実家へ移居。 _1642(寛永19)24歳で中江藤樹(トウジュ)に陽明学を学ぶ。 _1645(正保 2)27歳で再び光政に仕え、1647(正保 4)側役、知行300石。1649(慶安 2)光政に随行して江戸参府。1650(慶安 3)鉄砲組番頭、知行3,000石。1651(慶安 4)閑谷(シズタニ)学校の前身花園会の会約(建学基本原則)を起草。治山・治水に功績を上げ、1654(承応 3)備前一帯の大洪水ついで凶作大飢饉の際、光政を輔けて救済に尽力。家老らと対立し、1656(明暦 2)狩猟の際の負傷を理由に致仕を申請し、光政の三男政倫(マサトモ)(のち輝録<テルトシ>)を養子とする。1657(明暦 3)39歳で再び致仕。 _京都に移住し、塾を開き隆盛を極めたが、儒官林家の朱子学と相容れず、また公卿や大名に勢力があったため、1661年誹謗(ヒボウ)されて京都所司代牧野親成により京都から追放され、吉野山さらに山城国鹿背(カセ)山に移る。 _1669(寛文 9)幕命により播磨(ハリマ)国明石城主松平信之(ノブユキ)にお預けとなる。1679(延宝 7)信之の大和郡山への転封に従い、矢田山に移住。 _1683(天和 3)大老堀田正俊の招聘により出府し、出仕要請を辞退。1686(貞享 3. 8.)幕命により信之の嫡子の下総国(現:茨城県)古河(コガ)藩主松平忠之へお預けとなり、城内に幽閉されて病没。 _著書は『集義和書』(16巻)・『集義外書』(16巻)・『大学或問(ワクモン)』(2巻)・『三輪物語』など。 ◆墓は茨城県猿島郡総和町大堤1030-1の鮭延寺。 (*)1661(万治 4,寛文元)。 (2)(名)幼名左七郎,伯継,字は了介,通称次郎八・助右衛門,別号を息遊軒・不敢敬人・不盈敬人・有終庵主。 _'39致仕し,近江国の祖父の実家へいき,'42中江藤樹の門に入り……。'58(万治 1)職を辞し……。 (4)名は伯継、号は息遊軒。隠退後、蕃山(シゲヤマ)了介という。 (5)名伯継、字(アザナ)了介(リョウカイ)(良介とする説もある)、……。 (6)名は伯継。蕃山は号だが,隠退後は蕃山了介(シゲヤマ・リョウカイ)と称す。57年致仕し,京都で学を講じた。 (11)名継伯、字伯継。 (17)幼名は左七郎、のち二郎八、助右衛門、名乗りは伯継(ノリツグ)、隠退後蕃山了介(シゲヤマリョウカイ)、のち息游軒の称を使用。 _同十五年島原の乱鎮定軍への参加を企てて果たさず、池田家を辞去し近江桐原へ移居。同十八年中江藤樹に師事。 _翌三年致仕、寺口村に隠居し(蕃山<シゲヤマ>村と改名)、……。 (26)名は伯継(ハクケイ)。字は了介。通称は助左衛門。号は息游軒、蕃山。 くまざわ またろく【熊沢 復六】 1899. 4. 8(明治32) 〜 1971.12.16(昭和46) ◇ロシア文学翻訳家。 くまだ せいか【熊田 精華】 1898. 4.18(明治31) 〜 1977. 4.27(昭和52) ◇詩人。宇都宮市生れ、横浜育ち。上智大学哲学科卒業。 くめ くにたけ【久米 邦武】 1839(天保10. 7.11) 〜 1931. 2.24(昭和 6) ◇歴史学者。久米桂一郎の父。 _肥前藩士。昌平黌で修学。 _1871(明治 4)岩倉具視大使の秘書官となり欧米視察に随行し、帰国後『米欧回覧実記』を著す。 _1879(明治12)修史館(史料編纂所の前身)に入り国史の編纂事業に従事。1888.10.(明治21)文科大学に史学科が開設され編纂事業が引き継がれて同大教授。 _1891(明治24)に発表した論文「神道は祭天の古俗」が神道家などの攻撃を受け、1892. 3.(明治25)非職処分・辞職。 _著書は重野安繹(ヤスツグ)・星野恒(ツネ)との共著『国史眼』や『古文書学講義』など。 (6)没年は1931。 (25)没年は1931。 (26)一八三九〜一九三二年。昭和六年二月二十四日東京に没、享年九十三歳。 くめ けいいちろう【久米 桂一郎】 1866(慶応 2. 8. 3) 〜 1934. 7.29(昭和 9) ◇画家。久米邦武の長男。 _東京美術学校教授。 くめ しゅうじ【久米 秀治】 1887. 4. 1(明治20) 〜 1925. 1. 1(大正14) ◇小説家。 くめ まさお【久米 正雄】 1891.11.23(明治24) 〜 1952. 3. 1(昭和27) ◇小説家・劇作家・俳人。俳号は三汀(サンテイ)。長野県小県郡上田町生れ。長野県上田市の小学校校長久米由太郎の次男。 _県立安積中学校・第一高等学校一部乙(文科英語類)無試験入学を経て、1916. 7.(大正 5)東京大学英文科卒業。 _芥川龍之介の学友。 (1)没日は 3. 1。 (3)没日は 3. 1。 (5)没日は、本文 3. 1、付録の「文学行事ごよみ」・2.29。 (8)没日は 3. 1。 (11)没日は 3. 1。 (13)没日は 3. 1。 ◆三汀忌(微苦笑忌)[ 3. 1]忌日 2.29は閏年のため。「微苦笑」は正雄の造語。 ◎1898. 3.(明治31)父由太郎は小学校の火災による御真影焼失の責任を取り割腹自殺する。 くもい たつお【雲井 竜雄】《くもゐ たつを》 1844 〜 1870(明治 3) ◇江戸幕末の志士。米沢藩士。本名は小島守善、通称は竜三郎。 _安井息軒に学ぶ。奥羽越列藩同盟の結束をはかり、官軍への抵抗を企て奔走したが失敗。 _のち、政府転覆の陰謀をはかり新政府高官暗殺をたくらんだとして小塚原で斬首。 (*)1844(天保15,弘化元)。 ◆墓は東京都台東区の谷中霊園。 くら しんいち【鞍 信一】 1910(明治43) 〜 1991(平成 3) ◇月刊誌「モダン金沢」の編集長。 _1930(昭和 5)月刊誌「モダン金沢」を発刊。 くらいし たけしろう【倉石 武四郎】 1897. 9.21(明治30) 〜 1975.11.14(昭和50) ◇中国文学研究者・中国語学者。1964(昭和39)日中学院を設立。 くらた うしお【倉田 潮】 1889. 7.10(明治22) 〜 1964. 7. 3(昭和39) ◇評論家・小説家。 くらた はくよう【倉田 白羊】 1881.12.25(明治14) 〜 1938.11.29(昭和13) ◇画家。本名は重吉(シゲヨシ)。埼玉県浦和生れ。東京美術学校卒業。 くらた ひゃくぞう【倉田 百三】 1891. 2.23(明治24) 〜 1943. 2.12(昭和18) ◇劇作家・評論家・小説家。広島県比婆郡庄原町の呉服屋に生れる。県下三次(ミヨシ)中学校から1910(明治43)第一高等学校へ進学したが、1913(大正 2)失恋と結核により中退。 (5)広島県三上郡庄原村に生れた。 (16)広島県の生まれ. くらつくりのたすな【鞍作 多須奈】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇飛鳥時代の仏師。 522[継体16]に来朝した司馬達等の子、鞍作止利(トリ)の父。 くらつくりのとり【鞍作 止利】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇飛鳥時代の仏師。別称は鞍作鳥・止利仏師。帰化人系で鞍作多須奈(タスナ)の子。 くらはし けんきち【倉橋 顕吉】 1917. 2.10(大正 6) 〜 1947. 6.28(昭和22) ◇詩人。 くらはし たけゆき【倉橋 武幸】 1670(寛文10) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、扶持奉行・中小姓、禄高二十石五人扶持。通称は伝助(デンスケ)、戒名は刃(火偏+「暇」-日偏)練剣信士、吉良家を探索中の変名は十左衛門(ジュウザエモン)。 _吉良家討ち入りでは裏門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、江良清吉(エラ・セイキチ)の介錯(カイシャク)で切腹。 くらはし でんすけ【倉橋 伝助】 ⇒倉橋武幸 くらはし やいち【倉橋 弥一】 1906. 7. 2(明治39) 〜 1945. 6. 6(昭和20) ◇詩人。埼玉県蕨駅で轢死。 くらはら しんじろう【蔵原 伸二郎(藏原 伸二郎)】 1899. 9. 4(明治32) 〜 1965. 3.16(昭和40) ◇詩人。本名は惟賢(コレカタ)。熊本県生れ。九州学院を経て慶応義塾大学仏文科卒業。 _北里柴三郎は母方の伯父。 くりう すみお【栗生 純夫】 1904. 4.20(明治37) 〜 1961. 1.17(昭和36) ◇俳人。本名は神林新治。 くりた ひじまろ【栗田 土満】 1737(元文 2) 〜 1811(文化 8. 7. 8) ◇江戸中期の国学者・神官。通称は民部、号は岡廼舎(オカノヤ)。 _1767(明和 4)江戸に出て賀茂真淵に入門。真淵の没後、1785(天明 5)本居宣長に入門。 くりた ひろし【栗田 寛】 1835(天保 6. 1.26) 〜 1899. 1.26(明治32) ◇明治時代の歴史家。常陸国水戸下町生れ。 _1873.12.(明治 6)教部省に出仕。 _久米邦武教授更迭の後、1892.11.(明治25)文科大学教授。 くりばやし いっせきろ【栗林 一石路】 1894.10.14(明治27) 〜 1961. 5.25(昭和36) ◇俳人(自由律)・俳句評論家。本名は農夫(タミオ)、旧姓は上野。長野県青木村生れ。1941(昭和16)進歩的俳句弾圧事件で検挙投獄される。 (5)くりばやし いっせきろ(栗林 一石路)。 (11)くりばやし たみお(栗林 農夫)。 くりはら きよこ【栗原 潔子】 1898. 2. 5(明治31) 〜 1965. 2.16(昭和40) ◇歌人。旧姓は中原。 くりばら こじょう【栗原 古城】 1882. 9.17(明治15) 〜 1969. 6.17(昭和44) ◇評論家・翻訳家・英文学者。本名は元吉(モトキチ)。 くりもと じょうん【栗本 鋤雲】 1822(文政 5. 3.10) 〜 1897. 3. 6(明治30) ◇幕府外交官・明治初期の新聞記者。通称は初めは哲三のち瑞見(ズイケン)・瀬兵衛、名は鯤(コン)、字は化鵬、号は匏菴(ホウアン)・鋤雲。江戸生れ。函館奉行組頭・昌平黌頭取・軍艦奉行・外国奉行を歴任。 _島崎藤村の『夜明け前』の喜多村瑞見のモデルで、藤村の作文の教師。 くりやがわ はくそん【厨川 白村】 1880.11.19(明治13) 〜 1923. 9. 2(大正12) ◇英文学者・文芸評論家。本名は辰夫、別号は血城・泊村。京都生れ。第三高等学校を経て東京大学英文科卒業。1915(大正 4)左足を切断。 (1)没日は 9. 2。関東大震災で不慮の死を遂げた。 (3)没日は 9. 1。 (5)没日は 9. 2。関東大震災に避暑先の鎌倉で不慮の死を遂げた。 (8)没日は 9. 2。1923. 9. 1(大正12)鎌倉の別荘白日村舎で関東大震災にあい津波にさらわれたのがもとで二日午後死去。 (11)没日は 9. 2。関東大震災に避暑先で不慮の死を遂げた。 (13)没日は 9. 1。関東大震災ため鎌倉で横死した。 くりゅう すみお【栗生 純夫】 1904. 4.20(明治37) 〜 1961. 1.17(昭和36) ◇俳人。 くるしま たけひこ【久留島 武彦】 1874. 6.19(明治 7) 〜 1960. 6.27(昭和35) ◇児童文学作家。筆名は尾上(オノエ)新兵衛。大分県生れ。関西学院中退。 くるす さぶろう【来栖 三郎】 1886(明治19) 〜 1954(昭和29) ◇大正・昭和期の外交官。 _1940. 9.27(昭和15)駐独大使としてベルリンで日独伊三国同盟に調印。 くるま ぜんしち【車 善七】 くるみざわ かんない【胡桃沢 勘内】 1885. 3. 6(明治18) 〜 1940.12.28(昭和15) ◇歌人。号は四沢(シタク)・平瀬泣崖・麦雨(バクウ)・茂生(シゲフ)・無花果・大嶺道人。 くれ あやとし【呉 文聡】 1851(嘉永 4) 〜 1918(大正 7) ◇統計学者。東京出身。 _慶応義塾に学ぶ。 _東京専門学校(現:早稲田大学)・慶応義塾などの教授。 _のち内閣統計局審査官。 _著書は『統計詳説』・『理論統計学』など。 くれ けん【呉 建】 1883(明治16) 〜 1940(昭和15) ◇医学者。 _東京帝国大学卒業。 _九州帝国大学・東京帝国大学教授。 くれ しげいち【呉 茂一】 1897.12. 6(明治30) 〜 1977.12.28(昭和52) ◇西洋古典文学者。秀三の長男、箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)の曾孫。東京生れ。 _東京大学英文科卒業。 _東京大学教授・名古屋大学教授・イタリア公使。 _翻訳は『イーリアス』・『オデュッセイア』など、著書は『ギリシア神話』・訳詩集『花冠』など。 くれ しゅうぞう【呉 秀三】《くれ しうざう》 1865 〜 1932(昭和 7) ◇精神病学者。江戸生れ。茂一(シゲイチ)の父、箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)の孫。 _東京帝国大学教授。 _シーボルト・華岡青洲などの伝記も著す。 (*)1865(元治 2,慶応元)。 (19)広島出身。 くろいわ るいこう【黒岩 涙香】 1862(文久 2. 9.29) 〜 1920.10. 6(大正 9) ◇新聞記者・探偵小説家・翻訳家。本名は周六、通称は大、号は古慨居士・半士半商人・香骨居士・冷眼子・民鉄・歯月生・楽在・高山凹庵・正調庵、諱(イミナ)は所適(ムネユキ)。土佐国安芸郡川北村大字前島生れ。 _訳書はデュマ作『岩窟王(ガンクツオウ)』・ユゴー作『噫無情(アアムジョウ)』など。 くろかわ まより【黒川 真頼】 1829(文政12.11.12) 〜 1906. 8.30(明治39) ◇明治時代の歌人・国文学者。旧姓は金子、幼名は嘉吉、号は荻園。上野国桐生生れ。黒川春村の養子。 (26)明治三十九年八月二十九日没、享年八十三歳。 くろき かんぞう【黒木 勘蔵】 1882. 9.10(明治15) 〜 1930.10. 8(昭和 5) ◇演劇研究家。旧姓は福田。 くろさわ あきら【黒沢 明(黒澤 明)】《くろさは あきら》 1910. 3.23(明治43) 〜 1998. 9. 6(平成10) ◇映画監督。東京生れ。 _京華中学・京華商業卒業。 _1936(昭和11)PCLに入社。 _1937. 9.10(昭和12)PCLが東宝に合併。 _1943(昭和18)『姿三四郎』を初監督。 _1984(昭和59)レジオン・ドヌール勲章、受章。 _1985(昭和60)文化勲章、受章。 _1989(平成元)アカデミー賞名誉賞、受賞。 _脳卒中のため死去。 _監督作品は1943(昭和18)『姿三四郎』・1948(昭和23)『酔いどれ天使』・1949(昭和24)『野良犬』・1950(昭和25)『醜聞』・1950(昭和25)『羅生門』・1951(昭和26)『白痴』・1952(昭和27)『生きる』・1954(昭和29)『七人の侍』・1955(昭和30)『生きものの記録』・1957(昭和32)『蜘蛛巣城』・1957(昭和32)『どん底』・1958(昭和33)『隠し砦の三悪人』・1961(昭和36)『用心棒』・1965(昭和40)『赤ひげ』・1963(昭和38)『天国と地獄』・1975(昭和50)『デルス・ウザーラ』・1980(昭和55)『影武者』・1985(昭和60)『乱』・1993(平成 5)『まあだだよ』など。 くろしま でんじ【黒島 伝治(黒島 傳治)】《くろしま でんぢ》 1898.12.12(明治31) 〜 1943.10.17(昭和18) ◇プロレタリア小説家。香川県小豆郡苗羽(ノウマ)村(現:内海町<ウチノミチョウ>)の貧農の生れ。父兼吉・母キクの長男。 _1914(大正 3)内海乙種実業補習学校卒業。網引きや醤油工場で働く。 _1918(大正 7)秋、文学を志し上京し、三河島の建物会社に勤務。間もなく養鶏雑誌社の編集部に入り、小石川小日向台町に転居。 _1919(大正 8)早稲田大学選科に入学したが、選科には徴兵猶予がなく12月学業半ばにして召集され、姫路歩兵第十連隊に衛生兵として入隊。 _1921. 4.(大正10)シベリア出兵に動員、肺を冒され、1922. 4.(大正11)内地送還、7月除役。 _1925(大正14)初夏、再度上京し同郷の壺井繁治宅に寄宿。同人誌「潮流」に処女作『電報』を発表。 _1926(大正15)「文芸戦線」一月号に短編『二銭銅貨』を発表。 _シベリア出兵に取材する反戦小説や農民小説を書く。 _作品は『豚群』・『橇(ソリ)』・『渦巻ける烏の群』・『氷河』など。 くろずみ むねただ【黒住 宗忠】 1780(安永 9.11.26) 〜 1850(嘉永 3. 2.25) ◇江戸後期の神道家・黒住教の開祖。備前(岡山県)御野郡中野村生れ。代々今村宮の禰宜(ネギ)。父黒住宗繁・母つたの3男。 _1814(文化11)肺を病み死期を覚って、死後に神となって同病の者を救おうと志す。同年の冬至に日輪を拝して「生きながら神になること」を念じ天照大神と合一する神秘体験を得て大患を克服(天命直授<ジキジュ>)、周囲に天照大神の神徳を説き、1815(文化12)開教して岡山藩士を中心に布教。 _生活規範として支配者への服従など封建道徳を説く。 (2)備前国御野郡今村宮の禰宜。 (4)備前国御津郡今村の人。 (6)岡山郊外の今村宮の神職で……。 (26)備前国御野(ミノ)郡上中野村に生れた。 ◎誕生日は冬至であった。 ◎門人赤木忠春により、1862(文久 2)京都に宗忠神社が創建され、尊皇派の一拠点となった。 くろずみ むねちか【黒住 宗子】 1876(明治 9) 〜 1936(昭和11) ◇明治・大正期の教派神道家。黒住宗忠の孫宗篤の長男。岡山県生れ。 _1897(明治30)黒住教3代目の管長に就任。 くろだ きお【黒田 喜夫】 1926. 2.28(大正15) 〜 1984. 7.10(昭和59) ◇詩人・評論家。山形県生れ。戦後、共産党に入党。 くろだ きよたか【黒田 清隆】 1840(天保11.10.16) 〜 1900. 8.25(明治33) ◇明治の政治家。初名は了介。旧鹿児島藩士。 _薩英戦争に従軍。 _戊辰・函館戦争に官軍参謀。榎本武揚の助命に尽力。 _1869(明治 2)外務権大丞。 _1870(明治 3)北海道・樺太の開拓次官、1875〜1881(明治 8〜明治14)同長官。1875(明治 8)特命全権弁理大臣として江華島事件処理のため渡鮮、1876(明治 9)日鮮修好条約締結。 _1877(明治10)西南戦争に征討参軍として参加。 _1881. 7.21(明治14)北海道開拓使官有物払下事件で大隈重信や世論の攻撃(8月)を受け10月払下げを取消して辞任。 _1887(明治20)第1次伊藤博文内閣の農商務相。 _1888. 4.30(明治21)薩長藩閥をもって内閣を組織、1889. 2.(明治22)大日本帝国憲法を発布。条約改正を失敗、外相大隈重信が襲撃されたため、1889.12.24(明治22)辞任。 _1892〜1896(明治25〜明治29)第2次伊藤内閣の逓相。 _1895(明治28)枢密院議長。 ◎1878. 3.(明治11)酒乱癖があり泥酔して妻を斬殺した事件は内密にされたが、翌月の「団々珍聞(マルマルチンブン)」で皮肉られた。しかし、大久保利通(トシミチ)は大警視の川路利良に命じ夫人の墓をひらいて調べさせ、他殺の形跡なしという結論を出した。 くろだ こざん【黒田 湖山】 1878. 5.25(明治11) 〜 1926. 2.18(大正15) ◇小説家。本名は直道(ナオミチ)。滋賀県生れ。巌谷小波(イワヤ・サザナミ)の門下。 くろだ さぶろう【黒田 三郎】 1919. 2.26(大正 8) 〜 1980. 1. 8(昭和55) ◇詩人。広島県生れ。東京大学経済学部卒業。 (1)誕生日は 2.26。 (3)誕生日は 5.26。 (5)誕生日は 2.26。 (8)誕生日は 2.26。 (11)誕生日は 2.26。 くろだ じゅうたろう【黒田 重太郎】 1887. 9.20(明治20) 〜 1970. 6.24(昭和45) ◇画家。 くろだ じょすい【黒田 如水】 ⇒黒田孝高 くろだ せいき【黒田 清輝】 1866(慶応 2. 6.29) 〜 1924. 7.15(大正13) ◇洋画家。旧名は了介、号は羽皐。枢密顧問官黒田清綱の養子。 _フランスに渡り、ラファエル・コランに学ぶ。久米桂一郎らと白馬会を創立。 _東京美術学校教授・美術審査会委員・帝室技芸員・国民美術協会会頭・帝国美術院長・貴族院議員。 くろだ ながまさ【黒田 長政】 1568(永禄11) 〜 1623(元和 9. 8. 4) ◇安土桃山江戸前期の武将・福岡藩初代藩主。幼名は松寿丸・嘉寿丸のち吉兵衛、通称は甲斐守・筑前守。孝高(ヨシタカ)(如水)の長男、忠之の父。 _人質として織田信長の許で育つ。父とともに豊臣秀吉に仕え、1583(天正11)賤ヶ谷の戦いに参加。 _豊臣秀吉の没後、1600(慶長 5. 9.)関ヶ原の戦には徳川方の東軍に属し、筑前52万3千石を封ぜられ、福岡城主。 ◆墓は東京都渋谷区広尾5丁目の祥雲寺。 くろだ なりきよ【黒田 斉清】 1795(寛政 7) 〜 1849(嘉永 2) ◇江戸後期の筑前福岡藩主・蘭学者。黒田斉隆の子、斉薄の父。 くろだ ひさお【黒田 寿男】 1899(明治32) 〜 1986(昭和61) ◇昭和期の農民運動家・政治家。 くろだ ひでお【黒田 英雄】 1879(明治12) 〜 1956(昭和31) ◇大正・昭和期の大蔵官僚・政治家。 _帝人事件に連座して大蔵次官を辞任。1932(昭和 7)貴族院議員。 くろだ ほうしん【黒田 鵬心】 1885. 1.15(明治18) 〜 1967. 3.18(昭和42) ◇美術評論家。本名は明信。 くろだ よしたか【黒田 孝高】 1546(天文15) 〜 1604(慶長 9. 3.20) ◇安土桃山・江戸初期時代の武将・キリシタン大名。父職隆(モトタカ)が小寺姓を称しのち孝高の代で本姓黒田に復す。幼名は万吉、名は祐隆、通称は官兵衛・勘解由、法号は如水(ジョスイ)、洗礼名はドン・シメオン。長政(ナガマサ)の父。播磨国姫路生れ。 _はじめ姫路城に居り、織田信長に仕える。1575(天正 3)長篠の合戦で、信長から太刀「圧切(ヘシギ)り」を授かる。信長の毛利征伐の際、1577(天正 5.10.)羽柴(豊臣)秀吉が姫路に到着すると、姫路城を秀吉に明け渡し、安土の信長にも長子嘉寿丸(長政)を人質として送る。1578(天正 6)親交のあった荒木村重が信長から嫌疑を受け毛利に味方したので、説得のため村重の有岡城に単身乗り込んで幽閉され、落城とともに開放される。 _のち豊臣秀吉に仕え、秀吉の中国経略・九州征伐に軍功を立て、1587(天正15)豊前12万5千石を領し中津(ナカツ)城主。朝鮮征伐に出陣。1593(文禄 2)剃髪、如水と号する。 _豊臣秀吉の没後、1600(慶長 5. 9.)関ヶ原の戦には徳川方の東軍に属して長政を出陣させ、自らは豊後の大友義統を(ヨシムネ)破り、長政は筑前福岡52万3千石に封ぜられる。 (*)「圧切り」とは、長谷部国重作の名刀で、信長が立腹して茶坊主を斬ろうとしたとき、茶坊主が膳棚の下に逃げ込んだのを太刀で押し付けると、すっと斬れたことから名付けられたという。 ◎如水の訓言「君罰より神罰恐るべし、神罰より民罰恐るべし」。 くろだ れいじ【黒田 礼二】 1890. 1.28(明治23) 〜 1937. 6.24(昭和12) ◇評論家。本名は岡上守道。 くろだに しょうにん【黒谷 上人】《くろだに しやうにん》 ⇒法然 くろやなぎ かいしゅう【畔柳 芥舟】 1871(明治 4. 5.17) 〜 1923. 2.12(大正12) ◇明治・大正期の評論家・英文学者。本名は都太郎(クニタロウ)、号は牛涎子。山形県生れ。 _1898(明治31)第一高等学校教授。 (8)没日は 2.20。 くろやなぎ くにたろう【畔柳 都太郎】《くろやなぎ くにたらう》 ⇒畔柳芥舟 くろやなぎ しょうは【黒柳 召波】《くろやなぎ せうは》 1727(享保12) 〜 1771(明和 8.12. 7) ◇江戸後期の俳人。通称は清兵衛、字は延遠、別号は万年、庵号は春泥舎。山城の人。 _漢学を服部南郭に学ぶ。与謝蕪村(ブソン)の門下で小蕪村と呼ばれる。 くろやなぎ ふみ【畔柳 不美】 1912. 1.14(明治45) 〜 1965. 1.13(昭和40) ◇小説家。旧姓は遠藤。北海道千歳の発電所に生れる。北海高女卒業。 くわき あやお【桑木 アヤ雄】《くはき あやを》 1878(明治11) 〜 1945(昭和20) ◇物理学者。東京生れ。桑木厳翼(ゲンヨク)の弟。 _東京帝国大学卒業。 _九州帝国大学教授・松本高等学校長。 _1941(昭和16)日本科学史学会の初代会長。 ◎「アヤ」は「或」の「戈」部の「ノ」を「彡」に替える(補助なし)。 くわき げんよく【桑木 厳翼(桑木 嚴翼)】《くはき げんよく》 1874. 6.25(明治 7) 〜 1946.12.15(昭和21) ◇哲学者。東京生れ。桑木アヤ雄(アヤオ)の兄。 _第一高等学校卒業。東京帝国大学哲学科で井上哲次郎・ケーベルに学び、卒業。 _ドイツ・フランス・イギリスの3ヶ国に留学。 _第一高等学校教授・京都帝国大学教授・1914〜1935(大正 3〜昭和10)東京帝国大学教授。 _大正期、新カント学派の代表として哲学の啓蒙活動を行なう。 _吉野作造・福田徳三を中心に結成された民主的啓蒙団体の黎明会(1918〜1920)に参加。 _著書は『哲学概論』・1917(大正 6)『カントと現代の哲学』・『文化主義と社会問題』など。