ぬかた ろっぷく【額田 六福】 1890.10. 2(明治23) 〜 1948.12.21(昭和23) ◇大正・昭和期の劇作家。本名は六福(ムツトミ)。岡山県生れ。 _立命館中学校卒業。1916(大正 5)早稲田大学英文科入学、1920(大正 9)卒業。 (2)額田 六福(ぬかだ ろっぷく)。 (10)額田 六福(ぬかだ ろっぷく)。誕生日は10. 2。 (11)額田 六福(ぬかだ ろっぷく)。 (13)額田 六福(ぬかた ろつぷく)。誕生日は10.23。 ぬかだのいまたり【額田 今足】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安初期の明法博士。姓は額田(近江または美濃)の旧国造。外従五位下。 _従来の『養老令』の条文解釈に異同が多く、 826(天長 3)解釈の統一を建議。結果、淳和(ジュンナ)天皇の勅を受けて清原夏野(ナツノ)を総裁に小野篁(タカムラ)・菅原清公・南淵弘貞・藤原常嗣らが注釈書の編纂(ヘンサン)に着手し、 833(天長10)『令義解(リョウノギゲ)』10巻を完成。 ぬかたのおおきみ【額田王】《ぬかたのおほきみ》 630(舒明天皇 2)頃 〜 没年不詳 ◇飛鳥(大和時代)の万葉歌人。鏡王の娘。 _はじめ大海人(オオアマ)皇子(のち天武天皇)に召され十市(トオチ)皇女を生む。のち、天智天皇の寵愛を受ける。 ◎「三輪山(ミワヤマ)をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠そうべしや」 ぬなみ けいおん【沼波 瓊音】 1877.10. 1(明治10) 〜 1927. 7.19(昭和 2) ◇国文学者・俳人。本名は武夫(タケオ)、別号は(「王」偏+「倉」:補助4442〔_〕)々庵・天野真名井。名古屋市玉屋町生れ。愛知県尋常中学校を経て、第一高等学校・東京帝国大学文科卒業。 ぬま もりかず【沼間 守一】 1843(天保14.12. 2) 〜 1890. 5.17(明治23) ◇明治時代の新聞人・政治家。旧称は高梨慎次郎、雅号は不二峰楼(フジホウロウ)主人・弄花生(ロウカセイ)。江戸牛込(ウシゴメ)生れ。幕臣高梨仙太夫の二男で、沼間平六郎の養子となる。 _江戸幕末に長崎・横浜で英学および洋式兵術を修める。 _1865(慶応元)幕府の陸軍伝習所に入り、戊辰戦争では幕府側の主戦派として東北地方を転戦し、1868(明治元. 9.)捕われる。 _1869(明治 2)放免されて、一時土佐藩邸で英学を講じる。 _1872(明治 5)大蔵省に出仕し、まもなく司法省に転じて欧米各国を歴遊し、翌年帰国。 _1873(明治 6)東京下谷(シタヤ)に由民権思想の見地に立つ政治結社の法律講義会を開設。 _1875(明治 8)元老院権大書記官。 _1878. 5.(明治11)法律講義会を嚶鳴社(オウメイシャ)に改称し、民権を鼓吹。また、1879(明治12)元老院を辞任し、機関紙「嚶鳴雑誌」・「東京横浜毎日新聞」を経営。 _1882(明治15)立憲改進党結成に参加。 _1879〜1890(明治12〜明治23)東京府会議員、1883(明治16)から府会議長。 ぬま やとう【沼 夜濤】 1880. 4.15(明治13) 〜 1953. 6.27(昭和28) ◇住職・俳人。本名は法量、旧姓は猪飼、別号は月明居。 ぬやま ひろし【ぬやま ひろし】 1903.11.18(明治36) 〜 1976. 9.18(昭和51) ◇詩人・社会運動家。本名は西沢隆二(タカジ)。第二高等学校中退。 _共産党中央機関誌「赤旗」の秘密印刷所責任者として活動中、1933(昭和 8)逮捕され、敗戦まで十二年間獄中にあった。日本共産党中央委員。1966(昭和41)党を除名される。 (2)ぬやま ひろし。(生)兵庫県。'33(昭和 8)検挙され……。 (10)ぬやま ひろし。兵庫県生れ。昭和九年逮捕、……。 (13)にしざわ りゅうじ(西澤 隆二)。別名ひろし・ぬやま。東京に生まれた。昭和八年、治安維持法違反に問われ……。 ねぎし しょうきち【根岸 正吉】 1892(明治25) 〜 1922.12.12(大正11) ◇詩人。肺結核により死去。 ねずみこぞう じろきち【鼠小僧 次郎吉】 1795(寛政 7)頃 〜 1832(天保 3. 8.18) ◇江戸後期の盗賊。中村座の木戸番の長男。 _建具職人となるが、バクチに身をくずして無宿人となる。 _体躯矮小・動作敏捷で、1821(文政 4)ころより大名・武家屋敷を専門に忍び行ったという。 _1825(文政 8)捕まり、入墨中追放の刑を受ける。 _1832(天保 3. 5. 9)浜町の松平宮内(クナイ)少輔(ショウユウ)邸に忍び込んだところを捕縛され、北町奉行所で取り調べを受ける。同年8月18日、裸馬に乗せられて江戸市中を引き廻しののち、鈴ヶ森で処刑されてさらし首(獄門)になった。 ◆東京都墨田区両国2丁目の回向院に墓がある。戒名は教覚速善居士、俗名は中村次良吉。 _その墓石を削り取るとご利益があるといわれている。 ◎講釈や歌舞伎などでは義賊として脚色されている。1857(安政 4)上演の河竹黙阿弥『鼠小紋東居新形(ネズミコモンハルノシンガタ)』、大正期の芥川龍之介『鼠小僧』、昭和期の大佛(オサラギ)次郎『鼠小僧次郎吉』など。[図:鼠小僧1][図:鼠小僧2]鼠小僧の墓(1997年11月6日撮影) 東京都墨田区両国2−8−10 諸宗山 回向院 ねね【弥】 ⇒北政所 ねんあ りょうちゅう【然阿 良忠】《ねんあ りやうちゆう》 ⇒良忠 のうあみ【能阿弥(能阿彌)】 1397(応永 4) 〜 1471(文明 3) ◇室町時代の連歌師・画家。本姓は中尾、法名は真能、通称は能阿弥、号は秀峰・春鴎斎。もと越前朝倉氏の武士。足利義教・義政の同朋衆。芸阿弥(真芸)の父、相阿弥(真相)の祖父。 のういん【能因】 988(永延 2) 〜 1058(康平元)頃 ◇平安中期の歌人。俗名は橘永(「立心」偏+「豈」:補助3045〔_〕)(タチバナノナガヤス)、出家して融因のち能因、摂津・古曾部(コソベ)に住み古曾部入道とも称した。三十六歌仙の一人。 のうひめ【濃姫】 1535(天文 4) 〜 没年不詳 ◇織田信長の正室。斎藤道三の娘。 _1548(天文17)14歳で当時「うつけ」と呼ばれていた信長(15歳)と結婚。政略結婚で織田家の内情をひそかに道三に知らせていたという。子がなく、道三の死の前後に信長のもとから消えたと思われる。 (*)別書1549(天文18)。 のがみ あきら【野上 彰】 1908.11.28(明治41) 〜 1967.11. 4(昭和42) ◇編集者・詩人。本名は藤本登。 のがみ きゅうせん【野上 臼川】 1883. 9.14(明治16) 〜 1950. 2.23(昭和25) ◇英文学者・能楽研究家。本名は豊一郎(トヨイチロウ)。大分県生れ。臼杵中学校・第一高等学校を経て、東京大学英文科卒業。法政大学講師・教授・学監・文学部長を経て、1946(昭和21)総長。 (3)誕生日は 9.19。 (5)誕生日は 9.14。 (11)誕生日は 9.14。 (13)誕生日は 9.19。 のがみ とよいちろう【野上 豊一郎】 1883. 9.14(明治16) 〜 1950. 2.23(昭和25) ◇英文学者・能楽研究家。号は臼川。野上弥生子(ヤエコ)の夫。 のがみ やえこ【野上 弥生子(野上 彌生子)】 1885. 5. 6(明治18) 〜 1985. 3.30(昭和60) ◇小説家・翻訳家。本名はヤヱ。大分県生れ。明治女学校高等科卒業。野上豊一郎(トヨイチロウ)の妻。 (1)本名は「ヤエ」。 (3)本名は「ヤエ」。 (5)本名は「ヤヱ」、また八重子と署名。 (10)本名は「ヤヱ」、はじめ八重子のち弥生子を筆名とした。 (11)本名は「ヤヱ」、また八重子と署名。 (13)本名は「ヤヱ」。 (16)本名は「ヤエ」。 のがわ たかし【野川 隆】 1901. 4.23(明治34) 〜 1944.12.19(昭和19) ◇詩人。 のぎ まれすけ【乃木 希典】 1849(嘉永 2.11.11) 〜 1912. 9.13(大正元) ◇明治の陸軍大将。幼名は無人(ナキト)。長州藩(山口県)出身。伯爵。 _藩校明倫館に学ぶ。 _1867(慶応 3)高杉晋作の奇兵隊に加わり幕府軍と戦う。 _1871(明治 4)陸軍少佐。1877(明治10)西南戦争に小倉歩兵第14連隊長心得(ココロエ)として従軍。 2.22肥後国植木(ウエキ)で旗手の河原林(カワラバヤシ)少尉が戦死して連隊旗を失い、責任をとって自決しようとし、部下にとめられる。 _1886(明治19)ドイツに留学し軍制・戦術を研究。帰国後、一時退役し、那須野で農耕生活を送る。 _日清戦争には歩兵第一旅団長として従軍。のち1896(明治29)第3代台湾総督、行政能力を発揮できず、同年辞職。 _日露戦争には第三軍司令官として旅順で苦戦し、更迭後に後任の指揮官児玉源太郎により旅順の要塞が陥落。奉天の会戦に従軍。 _軍事参議官を経て、1907(明治40)学習院院長。院長在職中、明治天皇の大葬当日、赤坂の自宅で妻静子ととも殉死。 (2)長州藩士乃木十郎希次の3男,母は常陸国土浦藩士長谷川金太夫の長女寿子。妻静子とともに大喪の儀式当日自邸で殉死した。 (4)山口県人。明治天皇の大葬当日、赤坂の自邸で殉死、妻静子もこれに殉じた。 (6)長州藩出身。苦戦の末旅順を陥落させた。学習院院長在職中,妻静子とともに明治天皇に殉死。 (16)東京の生まれ.妻シヅ子とともに殉死した. (+)『軍国美談と教科書』岩波新書(新赤版)35  中内敏夫(ナカウチ・トシオ):著  1988年 8月22日第刷発行 _「旅順攻略をなしとげたのは、じつは乃木指揮官ではなく、乃木更迭後の後任指揮官児玉源太郎であった。(中略)真相は軍指導者層のあいだでは公然の秘密であり、だれよりも乃木将軍がよく知っていた。」(44頁) ◆東京都港区に乃木神社がある。 のぐち うじょう【野口 雨情】 1882.12.29(明治15) 〜 1945. 1.27(昭和20) ◇詩人・民謡・童謡作家。本名は英吉。茨城県多賀郡北中郷村磯原(北茨城市磯原町)生れ。父量平・母「てる」の長男。 _磯原尋常小学校を経て、伯父野口勝一(号は北巌,初代代議士)宅神田の順天求合舎に入り、順天中学校を卒業。豪家に生れたが家運が傾いたため東京専門学校(現:早稲田大学)を中退。祖父の残した借財により絶望的になって遊蕩(ユウトウ)に堕し、芸者と心中を図り失敗。樺太(カラフト)へ渡り事業を始めたが失敗。 _1919(大正 8)上京して童話雑誌「金の星」の編集長になる。 _代表作は民謡『船頭小唄』・『波浮の港』、童謡『七つの子』・『赤い靴』・『青い目の人形』・『十五夜お月さん』など。 ◆雨情忌[ 1.27]出身地茨城県茨城市で雨情を偲ぶ会が催される。 (1)誕生日は 5.29。 (3)誕生日は12.29。 (5)誕生日は12.29。 (10)誕生日は 5.29。茨城県多賀郡北中郷村磯原(現・北茨城市)生れ。三四年東京専門学校に入学、三五年三月七日付けで中退。 (11)誕生日は12.29。 (13)誕生日は12.29。茨城県多賀郡磯原町に生まれ、三九年早大文科卒業後、……。 (16)誕生日は12.。 ◎北原白秋(ハクシュウ)・西条八十(ヤソ)とともに童謡・民謡詩人の三大巨匠といわれる。 ◎北茨城市磯原町に野口雨情記念館がある。 _生家は水戸徳川家藩主の御休憩所「観海亭」で、資料室もあり見学も可能。 のぐち こうめい【野口 昂明】 1909(明治42) 〜 1982(昭和57) ◇挿絵画家。本名は久夫。愛知県生れ。 _1927(昭和 2)愛知県立工業学校図案科卒業。小田富弥のち伊東深水に師事。 のぐち ねいさい【野口 寧斎】 1867(慶応 3) 〜 1905. 5.12(明治38) ◇漢詩人。名は弌(イチ)、通称は一太郎、字は貫卿、別号は嘯楼(ショウロウ)・謫天情仙(タクテンジョウセン)・疏庵・藤乃舎由縁。肥前国生れ。癩病(ハンセン氏病)患者。野口男三郎事件に巻き込まれて墓があばかれた。 (3)字は貫卿。 (5)字は貫郷(カンキョウ)。 (10)字は貫卿。 (11)字は貫郷(カンキョウ)。 のぐち ひでよ【野口 英世】 1876.11. 9(明治 9) 〜 1928. 5.21(昭和 3) ◇明治・大正期の細菌学者。幼名は清作。福島県生れ。 _独学で医学を修め、1896(明治29)上京して高山歯科医学院の学僕・講師、順天堂大学の助手。1897(明治30)医術開業試験に合格。1898(明治31)伝染病研究所に助手として入り、北里柴三郎に師事、細菌学の研究をはじめる。 _1900(明治33)渡米、ペンシルヴァニア大学の病理学助手。蛇毒の研究で認められ、デンマーク留学後、1904(明治37)ロックフェラー医学研究所所員となる。1911(明治44)梅毒の病原体スペロヘータの純粋培養に成功し、世界的名声を得る。痘瘡・小児麻痺にも業績をあげる。 _1918(大正 7)エクアドルで黄熱病の研究に従事。1923(大正12)帝国学士院会員。1927(昭和 2)西アフリカで黄熱病原の調査・研究中に感染し、アクラ(Accra)で死亡。 のぐち やたろう【野口 弥太郎】 1899.10. 1(明治32) 〜 1976. 2.23(昭和51) ◇画家。 のぐち よねじろう【野口 米次郎】 1875.12. 8(明治 8) 〜 1947. 7.13(昭和22) ◇詩人。別名はYone Noguchi(英詩)。愛知県海部郡津島町生れ。1889(明治22)名古屋の県立中学に入るが中退、上京して神田の私立中学に入り、1891(明治24)慶応義塾に転校。1893(明治26)渡米し、掃除夫・皿洗いなどをする。英詩を自費出版、米英のみならず日本にも知られる。1904(明治37)帰国。翌年、慶応義塾教授。 のざき さぶん【野崎 左文】 1858(安政 5. 9.26) 〜 1935. 6. 8(昭和10) ◇狂歌師・戯作者・新聞記者。本名は城雄、別号は愛蟹子(狂詩)・蟹廼屋(狂歌)・二世琴亭文彦・愛蟹漁史(アイカイギョシ)・呉園情史(ゴエンジョウシ)、仮名垣魯文の門では蟹垣左文。高知生れ。大学南校や大阪の開成学校に学ぶ。 _馬場辰猪・馬場孤蝶の従兄弟。 のざわ きよし【野沢 純】 1904. 5. 5(明治37) 〜 1966. 3. 3(昭和41) ◇小説家。本名は忠(キヨシ)。 のざわ ぼんちょう【野沢 凡兆】 生年不詳 〜 1714(正徳 4) ◇江戸前期の俳人。姓の確証はない(宮城<ミヤギ>・越野・宮部か)、名は允昌(インショウ)・允霄(インショウ)か(長次郎説は根拠不明)、別号は1690(元禄 3)ころまで加生(カセイ)、晩年は阿圭(アケイ)。京都で医者をし医名は達寿。 のじり ほうえい【野尻 抱影】 1885.11.15(明治18) 〜 1977.10.30(昭和52) ◇英文学者・天文随筆家。本名は正英。大仏(オサラギ)次郎の実兄。 (3)誕生日は11.15。 (5)誕生日は 5. 8。 (10)誕生日は11.15。 (11)誕生日は11.15。 のだ うたろう【野田 宇太郎】 1909.10.28(明治42) 〜 1984. 7.20(昭和59) ◇詩人・評論家。 のだ こうご【野田 高梧】 1893.11.19(明治26) 〜 1968. 9.23(昭和43) ◇映画脚本家。 のだ べってんろう【野田 別天楼】 1869(明治 2. 5.24) 〜 1944. 9.26(昭和19) ◇俳人。本名は要吉。 のづ しずお【野津 鎮雄】 1835(天保 6) 〜 1880(明治13) ◇明治前期の陸軍軍人(中将)。野津道貫(ミチツラ)の兄。 のづ みちつら【野津 道貫】 1841(天保12) 〜 1908(明治41) ◇明治時代の陸軍軍人(元帥)。野津鎮雄(シズオ)の弟。 _日露戦争で第4軍司令官。1906(明治39)元帥。1907(明治40)侯爵。 のなか けんざん【野中 兼山】 1615(慶長20. 1.21) 〜 1663(寛文 3.12.15) ◇江戸前期の藩政家(土佐藩の家老)・儒学者。名は止、字(アザナ)は良継、通称は伝右衛門。土佐の人。山内良明の子。 _谷時中(タニ・ジチュウ)に土佐朱子学(南学)を学び、自ら長沢潜軒・黒岩慈庵らの門人を指導し、山崎闇斎(アンサイ)を谷時中の門下に推す。 _土佐藩の家老野中直継の養子となる。 _南学による封建教化を図り、同門の小倉三省(オグラ・サンセイ)とともに藩財政の確立のため家老として水田開発・河川の整備・港湾改修や、茶・紙・漆の専売など殖産興業に努めるが、独裁的な施政が反感を買い、藩主山内忠義の死後失脚、致仕。 _著書は『室戸港記』・『兼山遺草』・『小学句読』・『小学本註』・『朱子語類』・『自省録』など。 のながせ まさお【野長瀬 正夫】 1906. 2. 8(明治39) 〜 1984. 4.22(昭和59) ◇詩人。 ののぐち たかまさ【野々口 隆正】 ⇒大国隆正 ののぐち りゅうほ【野々口 立圃】《ののぐち りふほ》 1595(文禄 4) 〜 1669(寛文 9. 9.30) ◇江戸前期の俳諧師。名は親重(チカシゲ)、別号は松斎・如入斎、家号は雛屋立圃(雛人形)。京都の人。 _松永貞徳の高弟。 ののみや さだとも【野宮 定基】 1669(寛文 9) 〜 1711 ◇江戸中期の公家・国学者。初名は中院親茂、号は松堂。内大臣中院通茂の第2子。 _叔父の野宮定縁の跡を継ぎ、定基と改名。 (*)1711(宝永 8,正徳元)。 ののむら にんせい【野々村 仁清】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸前期の陶工。通称は壺屋清右衛門(セイエモン)(一説に清兵衛)。「仁清」は仁和寺(ニンナジ)の門跡から「仁」の字を賜り、号としたもの。丹波国南桑田郡野々村の生れ。 _京都に出て仁和寺前などに窯(カマ)を築き、色絵陶器を創世して京焼きに新生面を開く。 のぶいえ【信家】《のぶいへ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇安土桃山時代の鐔工(タンコウ)。 _鉄の板鐔に毛彫りを施したものが多い。 ◎金家(カネイエ)とともに鐔工の双璧、金家・埋忠明寿(ミョウジュ)とともに鐔(ツバ)の三作と称せられる。 ◎甲冑師(カッチュウシ)の明珍信家とは別人とみなされる。 のぶち あきら【野淵 昶】 1896. 7. 7(明治29) 〜 1968. 2. 1(昭和43) ◇演出家・映画監督。 のぶひと しんのう【宣仁 親王】《のぶひと しんわう》 ⇒高松宮宣仁 のべち てんま【野辺地 天馬】 1885. 1. 7(明治18) 〜 1965. 4.24(昭和40) ◇児童文学者・口演童話家。本名は三右衛門。 のぼり しょむ【昇 曙夢】 1878. 7.17(明治11) 〜 1958.11.22(昭和33) ◇明治〜昭和期の翻訳家・ロシア文学者。本名は直隆(ナオタカ)。鹿児島県奄美大島生れ。1903(明治36)東京ニコライ正教神学校卒業。同校教師を経て、1917(大正 6)陸軍士官学校教授。 _1904(明治37)評伝『露国文豪ゴーゴリ』を出版。 (1)没日は11.22。 (2)昇 曙夢(のぼる しょむ)。 (3)没日は11.12。 (5)昇 曙夢(のぼり しょむ)、没日は11.22。 (10)昇 曙夢(のぼり しょむ)、没日は11.12。 (11)昇 曙夢(のぼる しょむ)、没日は11.22。 (13)昇 曙夢(のぼる しょむ)、没日は11.22。 のぼりざか ほくれい【登坂 北嶺】 1879. 7.12(明治12) 〜 1918. 6.21(大正 7) ◇小説家。本名は良平。 のま せいじ【野間 清治】 1878.12.17(明治11) 〜 1938.10.16(昭和13) ◇出版人(講談社の創業者)。群馬県生れ。 _群馬県師範学校・東京帝国大学臨時教員養成所卒業。 _1909(明治42)大日本雄弁会を創立。 _1911(明治44)講談社を設立。 (3)没年は1938(昭和 3):誤。 (5)没年は1938(昭和13)。 (6)没年は1938。 (10)没日は1938.10.16(昭和13)。 (11)没年は1938(昭和13)。 (16)没日は1938.11. 7(昭和13)。 ◆没後の1941(昭和16)に野間賞(学術賞,美術賞,文芸賞)が設立。 のみやま あすか【野見山 朱鳥】 1917. 4.30(大正 6) 〜 1970. 2.26(昭和45) ◇俳人。 (1)本名は正男。 (3)本名は正男。 (5)本名は正雄。 (10)没日は 2. 6、本名は正男。 のむら あいせい【野村 愛正】 1891. 8.21(明治24) 〜 1974. 7. 6(昭和49) ◇小説家。 のむら きしゅう【野村 喜舟】 1886. 5.13(明治19) 〜 1983. 1.12(昭和58) ◇俳人。本名は喜久二(キクジ)。終戦まで陸軍造兵廠に勤務。 (10)誕生日は1886. 5.13(明治19)。 (11)誕生日は1886. 4.17(明治21):年号が合わない。 のむら きちさぶろう【野村 吉三郎】《のむら きちさぶらう》 1877.12.16(明治10) 〜 1964. 5. 7(昭和39) ◇大正・昭和期の海軍軍人(大将)・外交官。和歌山県生れ。 _海兵学校を卒業し、欧米各国の駐在武官を経て、軍令部次長・鎮守府司令長官・軍事参議官などを歴任し、予備役となる。 _軍令部次長・鎮守府司令長官・軍事参議官などを歴任。 _1939. 9.25(昭和14)阿部信行内閣の外務大臣。中国問題で駐日アメリカ大使グループと会談。1940〜1942(昭和15〜17)駐米特命全権大使となり、ハル国務長官と開戦前夜の日米交渉にあたり、1941.12. 8(昭和16)日本時間4時過ぎに来栖三郎大使とともにハル国務長官に最後通牒を手交。1942. 8.20(昭和17)日米交換船浅間丸・コンテベルデ号(伊)で帰国。 _1944(昭和19)枢密顧問官。 _第二次世界大戦後、自由民主党参議院議員などを歴任。 ◎真珠湾攻撃は3時19分。 のむら こどう【野村 胡堂】《のむら こだう》 1882.10.15(明治15) 〜 1963. 4.14(昭和38) ◇小説家・音楽評論家。本名は長一(オサカズ)、号は「あらえびす」(レコード評論)。岩手県生れ。 _東京帝国大学法学部中退。 _代表作『銭形平次捕物控』(1931. 4.<昭和 6>〜)。 のむら しゅりんどう【野村 朱鱗洞】 1893.11.26(明治26) 〜 1918.10.31(大正 7) ◇俳人。本名は守隣、号は初め柏葉のち朱燐洞のち朱鱗洞に改める。 のむら しょうご【野村 尚吾】 1912. 1. 2(明治45) 〜 1975. 5.15(昭和50) ◇小説家。本名は利尚、旧姓は新堂、野村は父の実家。 のむら でんし【野村 伝四】 1880.10.20(明治13) 〜 1948. 7.26(昭和23) ◇教育者。 のむら とうこう【野村 東皐】 1717(享保 2) 〜 1784(天明 4. 3.24) ◇江戸中期の儒学者(古学派)。名は公台、字は子賤、通称は新左衛門。近江彦根の人。 のむら とくしち【野村 徳七】 1878. 8. 7(明治11) 〜 1945(昭和20) ◇実業家・野村證券の創始者。通称は信之助。大阪生れ。 _仲買店の見習。 _1904(明治37)家業の小さな両替商を継ぐ。 _1906(明治39)株式現物取引店の大阪屋商店を開業。日露戦争後の株式ブームで巨利を得る。 _1918(大正 7)大阪野村銀行(のち大和銀行)、設立。 _1925(大正14)大阪野村銀行の証券部を野村證券として独立。 _1922(大正11)野村合名会社、設立。 _のち、野村財閥を形成し、関西経済の重鎮となる。 _1928(昭和 3)貴族院議員に勅選。 _1943(昭和18)大阪屋商店、大阪屋証券(のちコスモ証券)となる。 のむら はくげつ【野村 泊月】 1882. 6.23(明治15) 〜 1961. 2.13(昭和36) ◇俳人。本名は勇、旧姓は西山。西山泊雲(ハクウン)の実弟。 のむら ひでお【野村 英夫】 1917. 7.13(大正 6) 〜 1948.11.21(昭和23) ◇詩人・小説家。 のむら ふみお【野村 文夫】 1836(天保 7) 〜 1891.10.27(明治24) ◇新聞記者。名は虎吉のち文機、号は雨荘・簾雨。芸州広島生れ。 _7歳の時に芸州藩医の村田文尚の養子となる。1855(安政 2)緒方洪庵の適々斎塾に入門。1865(慶応元)英国に脱出、1868(明治元)帰国。1869(明治 2)『西洋見聞録』刊行。1870(明治 3)から民部省・工部省・内務省に出仕、内務卿の大久保利通と大喧嘩をして1877. 1.15(明治10)退官。 _この年 2.25団々社を設立、 3.14「團團珍聞(マルマルチンブン)」(週刊)を創刊、1878(明治11)「驥尾団子」を創刊。スタッフを野村一族と同郷人でかためていたが、1897. 4.(明治30)経営権が野村一族の団々社から珍聞館に移り、しだいに「東京パック」などの新興雑誌に押され1907(明治40)終刊。 _1877(明治10.11.)妻と離婚し、野村姓に戻る。1882(明治15)改進党に入党。 _癌(ガン)で死去。 のむら ぼうとう【野村 望東】《のむら ばうとう》 ⇒野村望東尼 のむら ぼうとうに【野村 望東尼】《のむら ばうとうに》 1806(文化 3. 9. 5) 〜 1867(慶応 3.11.13) ◇江戸末期の女流歌人・勤王家。本名はもと、号は招月・向陵。福岡藩士浦野勝幸の三女。 _福岡藩士郡氏に嫁するが離縁。 _のち、福岡藩士野村貞貫(利三郎)の後妻。夫ともに和歌・書を大隈言道(オオクマ・コトミチ)に学ぶ。 _夫に死別後、剃髪して望東尼と称する。 _勤王思想をもち、高杉晋作・平野国臣(クニオミ)・西郷隆盛らと交友し、1865(慶応元)藩により玄界灘姫島に流罪。 _のち、高杉らに救出され、三田尻(ミタジリ)(山口県防府市)の荒瀬致和の家に身を寄せ、同所で没。 _著書は『上京日記』・『姫島日記』・『防州日記』・『夢かぞへ』、家集『向陵集』など。 のむら まんぞう【野村 万蔵(5世)】《のむら まんざう》 1862(文久 2) 〜 1938. 1.15(昭和13) ◇能楽師(和泉流狂言師)。前名は万斎。 のむら まんぞう【野村 万蔵】《のむら まんざう》 1898(明治31) 〜 1978. 5. 6(昭和53) ◇能楽師(和泉流狂言師)。初名は万作、前名は万造。東京生れ。 _著書は『狂言の道』。 のむら もとに【野村 望東尼】 ⇒野村望東尼 のむら やすし【野村 靖】 1842(天保13. 8. 6) 〜 1909. 1.24(明治42) ◇江戸幕末の志士・明治時代の政治家。通称は和作。入江九一(クイチ)の弟。 ◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。 のむら よしや【野村 吉哉】 1903. 1.31(明治36) 〜 没年不詳 ◇詩人。 のむら わいはん【野村 隈畔】 1884. 8. 5(明治17) 〜 1921(大正10) ◇思想家・評論家。本名は善兵衛。福島県生れ。 _小学校卒業以外学歴なく、1908(明治41)上京し独学で英・独語を修め哲学を学ぶ。 _1914(大正 3)『ベルグソンと現代思潮』を刊行。 _1921(大正10)東京音楽学校の哲学講習会で恋愛哲学を講じた際の聴講生岡村梅子と恋愛におちいり、「永劫の彼岸へ」の遺書を残して千葉市川海岸で投身心中。遺体発見日は1921.11. 5(大正10)。 のりなが しんのう【義良 親王】《のりなが しんわう》 ⇒後村上天皇 のろ えいたろう【野呂 栄太郎】《のろ えいたらう》 1900(明治33) 〜 1934. 2.19(昭和 9) ◇昭和初期の経済学者・革命運動家。北海道生れ。 _慶応義塾大学理財科に在学中、野坂参三(サンゾウ)の産業労働調査所に入る。1927(昭和 2)卒論は『日本資本主義発達史』。 _1929. 4.16(昭和 4)四・一六事件で検挙され、約1ヶ月豊多摩刑務所に留置。 _1930. 1.(昭和 5)日本共産党に入党。1932(昭和 7)『日本資本主義発達史講座』の編集にあたり、講座派の中心となるが、同年10月に共産党が大検挙を受け、地下活動に入る。共産党の中央部再建に奔走中、1933.11.28(昭和 8)特高に逮捕され、たらい回しされ、品川警察署で拷問を受け、品川病院で絶命。 _著書は1927. 1.(昭和 2)『日本資本主義前史』など。 (2)'34年2月19日品川警察の拷問のため品川病院で絶命した。 (4)昭和八年検挙され、獄死。 (6)33年末検挙,翌年獄死。 (16)没日は1934(昭和 9. 9.21)。'33年11月逮捕され,翌年2月品川警察署で虐殺された. のろ かいせき【野呂 介石】 1747(延享 4) 〜 1828(文政11) ◇江戸後期の南画家。名は隆、字(アザナ)は松齢・隆年、号は初め班石のち介石・矮梅居(ワイバイキョ)・四碧斎・十友・第五隆。紀伊の人。 _医師の家に生れ、10歳のころ伊藤蘭嵎(ラングウ)に儒学を学ぶ。 _21歳のとき池大雅(イケ・タイガ)に入門するが、画風の影響をほとんど受けなかった。 _47歳で紀伊藩御用絵師。銅山方なども歴任。 ◎長町竹石(ナガマチ・チクセキ)・僧愛石とともに「三石」と称される。 のろ くにのぶ【野呂 邦暢】 1937. 9.20(昭和12) 〜 1980. 5. 7(昭和55) ◇小説家。本名は納所(ノウショ)邦暢。長崎県諫早市(イサハヤシ)生れ。 _県立諫早高等学校卒業。 _上京しそば屋店員・ガソリンスタンド店員などを経(ヘ)て、陸上自衛隊に1年間入隊。 _1965(昭和40)『ある男の故郷』で第21回「文学界」新人賞佳作に入選。 _1973(昭和48)自衛隊の体験を書いた『草のつるぎ』で第70回芥川賞、受賞。 _季刊「邪馬台(ヤマタイ)」を刊行。 _作品は1967(昭和42)『白桃』・1973(昭和48)『十一月、水晶』・1973(昭和48)『鳥たちの河口』・1975(昭和50)『一滴の夏』・1976(昭和51)『諫早菖蒲日記』・1978〜1980(昭和53〜昭和55)『丘の火』・1979(昭和54)『落城記』、1980(昭和55)エッセイ『王国、そして地図』など。 ◆菖蒲忌[五月最終日曜日]:諫早市宇都町(ウヅマチ)上山公園の野呂文学碑前。 のろ げんじょう【野呂 元丈】《のろ げんぢやう》 1693(元禄 6) 〜 1761(宝暦11) ◇江戸中期の本草学者。名は実夫、通称は源次、字は元丈、号は連山。伊勢の人。野呂三省の養子、本姓は高橋。 _医学を山脇玄修(道立)に学ぶかたわら、稲生若水(イノウ・ジャクスイ,のち稲<トウ>と改姓)に本草学を学ぶ。 _1720(享保 5)幕命により丹羽正伯(ニワ・セイハク)と諸国を旅行し採薬。 _1739(元文 4)幕府の御目見医師となり、翌年青木昆陽(コンヨウ)とともにオランダ語を学ぶ。 _江戸参府したオランダ商館員の蘭医ムスクルスの協力を得てR.ドドネウス著の本草書を解読、1744(延享元)ころ『阿蘭陀本草和解(オランダホンゾウワゲ)』(12巻)を著した。