おあな りゅういち【小穴 隆一】 1894.11.28(明治27) 〜 1966. 4.24(昭和41) ◇洋画家。号は一遊亭。 (8)小穴 隆一(おあな りゅういち)。 (?)小穴 隆一(こあな りゅういち)。 おいちのかた【お市の方】 1547(天文16) 〜 1583(天正11. 4.24) ◇戦国・安土桃山時代の武将の娘。幼名は「いち」、別称は小谷(オダニ)の方。織田信秀の娘、織田信長・信包(ノブカネ)の妹。浅井長政(ナガマサ)・柴田勝家(カツイエ)の室。 _織田信長の命で、1563(永禄 6. 3.)近江国小谷城主浅井長政に輿入れする(一説に永禄 7/永禄10)。長政との間に長男万福丸・長女茶々(のち淀君)・次女初・三女徳・次男幾丸を生む。1573(天正元. 8.28)信長に攻められて小谷(オダニ)城で長政が亡くなった後、お市の方と3人の娘は信長の弟信包に預けられ、万福丸・幾丸は探し出されて殺された。 _1582(天正10. 6. 2)信長が本能寺の変で亡くなり、9月に柴田勝家と再婚し、越前国北ノ庄に娘3人を連れて赴き小谷の方と呼ばれる。1583(天正11. 3.)勝家は越前で挙兵、 4.21近江国賤ヶ岳(シズガタケ)で羽柴(豊臣)秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)に大敗(賤ヶ岳の戦)。居城北ノ庄の城で勝家とともに自殺。この時、娘3人は逃がされ一乗谷に脱出。 ◎長女茶々は豊臣秀吉の側室淀君、次女初は京極高次の室常高院、三女徳は徳川秀忠の室崇源院(スウゲンイン)となる。 おうじん てんのう【応神 天皇】《おうじん てんわう》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇5世紀前後の第15代天皇。名は誉田別尊(ホンダワケノミコト)・胎中天皇(タイチュウテンノウ)。第14代仲哀(チュウアイ)天皇の第4皇子、母は神功(ジングウ)皇后。 ◆応神天皇陵は大阪府羽曳野市誉田(コンダ)にある恵我藻伏岡陵とされ、仁徳天皇陵に次ぐ大きさ。 おうてい きんしょう【鶯亭 金升】 1868(慶応 4. 3.16) 〜 1954.10.31(昭和29) ◇戯作者・新聞記者。本名は長井総太郎。 おうみ せいじん【近江 聖人】《あふみ せいじん》 ⇒中江藤樹 おうみのみふね【淡海 三船】《あふみのみふね》 722(養老 6) 〜 785(延暦 4. 7.17) ◇奈良時代の学者・文人。別名は御船王・御船、僧名は元開。池辺王の子、大友皇子(弘文天皇)の曾孫。 _文人として石上宅嗣(イソノカミノヤカツグ)と並び称される。一説に神武から光仁までの歴代天皇の諡号を撰定したといわれる。 (2)生年は 721(養老 5)。 (4)生年は 722。 (6)生年は 722。 (16)生年は 722(養老 6)。 おおあまのおうじ【大海人 皇子】《おほあまのわうじ》 ⇒天武天皇 おおい けんたろう【大井 憲太郎】《おほゐ けんたらう》 1843(天保14. 9.20) 〜 1822.10.15(大正11) ◇明治期の政治家・社会運動家。本姓は高並、幼名は彦六、号は馬城。豊前国(大分県)宇佐郡生れ。一時、福田英子(ヒデコ)の夫。 _長崎で蘭学を修め、のちフランス語を学び翻訳官となる。1866(慶応 2)江戸に出て、洋学館開成所で箕作麟祥(ミツクリ・リンショウ)にフランス法学を学ぶ。兵部省・元老院に出仕。 _1874(明治 7)民撰議院設立の建白書をめぐり、加藤弘之の時期尚早論に反対し、馬城台次郎の筆名で新聞雑誌に寄稿、フランス革命思想に基づき国会開設の急務を主張。 _1875(明治 8)立志社を中心に愛国社を組織。1881(明治14)板垣退助の自由党結成に参加し左派を指導、意見を異にして去る。 _1885(明治18)朝鮮政府の内政改革を支援しようとして朝鮮独立党の援助をはかって投獄され(大阪事件)、禁錮9年の刑に処せられる。1889(明治22)帝国憲法発布により大赦。 _1890(明治23)憲太郎を中心にし、板垣を再び総理として自由党を再組織。同年「あづま新聞」を創刊、翌年廃刊。1892(明治25)自由党を脱党し自ら東洋自由党を組織、労農運動・普選運動を推進。1894(明治27)衆議院議員。 _他方、大日本協会など国家主義的な団体にも参加し、民主主義運動から逸脱して行く。 (2)馬城台二郎とも称す。 (16)誕生日は 8/。(*)日付なし。 _馬城台次郎の筆名……. おおい そうご【大井 蒼梧】 1879.11.24(明治12) 〜 1937. 2.13(昭和12) ◇歌人。本名は一郎。 おおい ひろすけ【大井 広介】 1912.12.16(大正元) 〜 1976.12. 4(昭和51) ◇評論家。本名は麻生(アソウ)賀一郎。福岡県生れ。嘉穂(カホ)中学校卒業。 おおいけ ただお【大池 唯雄】 1908.10.30(明治41) 〜 1970. 5.27(昭和45) ◇小説家。本名は小池忠雄。宮城県生れ。東北大学文学部卒業。 おおいし くらのすけ【大石 内蔵助】《おほいし くらのすけ》 ⇒大石良雄 おおいし せいのすけ【大石 誠之助】《おほいし せいのすけ》 1867(慶応 3.11. 4) 〜 1911. 1.24(明治44) ◇医師。号は禄亭。社会主義のパトロンとなり大逆事件に連座して処刑された。 おおいし せざえもん【大石 瀬左衛門】《おほいし せざゑもん》 ⇒大石信清 おおいし ちから【大石 主税】《おほいし ちから》 ⇒大石良金 おおいし のぶきよ【大石 信清】《おほいし のぶきよ》 1677(延宝 5) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、馬廻、禄高150石。通称は瀬左衛門(セザエモン)。吉良家探索中の変名は小田権六(オダ・ゴンロク)。途中で脱盟した孫四郎(マゴシロウ)の弟。曾祖父の八郎兵衛(ハチロベエ)は、大石内蔵助(クラノスケ)良雄の曾祖父良勝(ヨシカツ)の弟である。 _1701(元禄14. 3.14)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が刃傷事件を起した深夜、長矩切腹の第二の急使として、原惣右衛門(ハラ・ミソウエモン)と早駕籠(ハヤカゴ)で江戸を立つ。吉良家の討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、吉田孫四郎の介錯(カイシャク)で切腹。 おおいし ひさたか【大石 久敬】《おほいし ひさたか》 1725(享保10) 〜 1794(寛政 6) ◇江戸中期の農政家。通称は猪十郎、号は巌華。 _久留米藩の大庄屋であったが、逃亡して各地を流浪。 _のち、高崎藩の郡方役人。 _著書は『地方(ジカタ)凡例録』。 おおいし まさみ【大石 正巳】《おほいし まさみ》 1855(安政 2) 〜 1935(昭和10) ◇政治家。土佐出身。名は正しくは「まさき(正巳)」。 _「自由新聞」の記者から自由民権運動に参加。立志社・自由党を経て、後藤象二郎の大同団結運動に参加。のち進歩党に加わる。憲政党結成に参画し第一次大隈内閣の農商相。 おおいし よしお【大石 良雄】《おほいし よしを》 1659(万治 2) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士の頭領。播磨(ハリマ)赤穂藩譜代の国家老(クニガロウ)上席、禄高1,500石。幼名は竹之丞(タケノジョウ)、通称は内蔵助(クラノスケ)、戒名は忠誠院刃空浄剣居士。大石陸(リク)の夫、大石主税(チカラ)良金(ヨシカネ)の父。父は大石権内(ゲンナイ)良昭(ヨシアキ)、母は池田出羽守由成(ヨシナリ)の娘。 _兵学を山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)に、剣術を讃岐国高松の剣客奥村権左衛門(ゴンザエモン)に、漢学を伊藤仁斎に学ぶ。 _1701(元禄14. 3.14)主君の浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)が江戸城中で吉良上野介(キラ・コウズケノスケ)義央(ヨシナカ)へ刃傷(ニンジョウ)におよび即日除封切腹。 4.11一旦、籠城を決意したが、長矩の弟浅野大学に再興を願い、 4.18幕府の使者に浅野大学相続に関する嘆願書を託し赤穂城を明け渡した。のち、 6.18京都山科に隠棲。 _旧藩士の同志と共に1702(元禄15.12.14)夜、江戸本所(ホンジョ)松坂町(マツザカチョウ)の吉良邸を襲い主君の仇を報いた。表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、安場一平(ヤスバ・イッペイ)の介錯(カイシャク)で切腹。 _辞世の句は「極楽の 道はひとすぢ 君(キミ)ともに/阿弥陀(アミダ)をそへて 四十八人」。 _『仮名手本忠臣蔵』では「大星由良之助(オオボシ・ユラノスケ)」。 (4)「赤穂義士」の項、元禄一五年十二月一四日(陽暦一七〇三年一月三〇日)夜。 ◆大石忌[旧暦 2. 4]。 ◆追善法要[ 3.20]京都祇園(ギオン)の料亭一力(イチリキ)(万亭<マンテイ>)。 ◆赤穂義士祭[12.14]1702(元禄15)赤穂義士討入の日。 _東京都港区高輪の泉岳寺で墓前祭。 _東京都墨田区両国の吉良邸跡(松坂町公園)で元禄市。 _兵庫県赤穂市では大石神社から浅野家の菩提寺まで四十七士の行列。境内には内蔵助像がある。 _京都市山科区山科西野山桜馬場町の大石神社(1935<昭和10>創建)では記念祭。 おおいし よしかね【大石 良金】《おほいし よしかね》 1688(元禄元) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士の最年少者。名は良金(ヨシカネ)、幼名は松之丞(マツノジョウ)、通称は主税(チカラ)、戒名は刃上樹剣信士。大石良雄(ヨシオ)の長男。 _京都山科に移り、垣見左内と変命を使う。父と共に吉良邸に討入(ウチイリ)、裏門隊長を務める。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、波賀清太夫(ハガ・セイダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。 _『仮名手本忠臣蔵』では「大星力弥(オオボシ・リキヤ)」。 (2)のち京都山科に移り垣内左内と変名。 (+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』  成美堂出版  昭和56年11月 1日初版発行  監修:尾崎秀樹  昭和57年 1月10日四刷発行 _主税は、日本橋(ニホンバシ)石(コク)町の旅籠(ハタゴ)小山屋(コヤマヤ)の控屋を借りて住んだ。近江(オウミ)の豪家の若当主垣見左内(カキミサナイ)という振れ込みであった。 おおいし よしたか【大石 良雄】《おほいし よしたか》 ⇒大石良雄 おおいし りく【大石 陸(大石 りく)】《おほいし りく》 1669(寛文 9) 〜 1736(元文元.11.19) ◇大石良雄(ヨシオ)の妻、大石主税(チカラ)の母。但馬(タジマ)国豊岡藩の城代家老石束(イシヅカ)源五兵衛(ゲンゴベエ)毎公(ツネトモ)の娘。 _1687(貞享 4)良雄に嫁ぐ。長男、松之丞(マツノジョウ)(良金)。長女、「くう(空)」。次男、吉千代。次女、「るり(瑠璃)」。 _1701(元禄14. 4.15)主税を残し、子供を連れて良雄の京都山科から実家の豊岡に帰る。1702(元禄15. 7. 5)三男、大三郎(ダイサブロウ)を出産。 _良雄・主税の切腹後、剃髪(テイハツ)し香林院(コウリンイン)と称し、吉千代も僧籍に入れる。 _1713(正徳 3)大三郎が赤穂浅野家の宗家芸州(ゲイシュウ)(安芸国<アキノクニ>)浅野家に召し抱えられ、陸は大三郎と広島に移る。やがて大三郎は元服して良恭(ヨシヤス)と改め、旗奉行次席(1,500石)に取り立てられる。 おおいしごり ますみ【大石凝 真素美】 1833(天保 4.11.) 〜 1913. 4.11(大正 2) ◇明治時代の言霊(レイゲン)学者。姓は望月、幼名は春雄、元服して大輔広矛。伊賀国上野生れ。 _1873(明治 6)大石凝真素美と改名。 おおいずみ こくせき【大泉 黒石】《おほいづみ こくせき》 1894. 7.27(明治27) 〜 1957.10.26(昭和32) ◇小説家。本名は清。父はロシア人。俳優大泉あきらの実父。 _長崎生れで、少年時代はロシア・欧州で暮らす。 _作品は1922(大正11)『老子』・1929(昭和 4)『燈を消すな』など。 おおいで まさあつ【大出 正篤】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇日本語教育者。 _満州に大出日本語教育研究所を設立。「速成式」日本語教授法で知られる。 おおうち これよし【大内 惟義】 ⇒平賀惟義 おおうち せいらん【大内 青巒】 1845(弘化 2. 4.17) 〜 1918.12.16(大正 7) ◇仏教運動家。本名は退、字は巻之、別号は藹々・藹々居士・露堂。仙台藩士大内権右衛門の子。 _16歳で江戸に出て、原坦山に禅を、大槻磐渓に漢学を学ぶ。 _明治維新後、大洲鉄然(オオズ・テツネン)の推薦で西本願寺法主大谷光尊の侍講となる。 _1871(明治 4)「新聞雑誌」を創刊(のちの東京曙新聞)。1874(明治 7)雑誌「報四叢談」・新聞「明教新誌」を発刊。 _1879(明治12)築地訓育会を起し、盲唖者の教育を行う。1889(明治22)島地黙雷・井上円了らと天皇崇拝・キリスト教排斥の仏教政治団体である尊皇奉仏大同団を組織。1890(明治23)第1回衆議院議員総選挙に出馬し落選。 _晩年は教育勅語の普及に従事。1914(大正 3)東洋大学学長。 (2)新聞「明教新法」を発刊……。 (16)「曙新聞」「雑誌明教新誌」「江湖新聞」などを発行……. おおうち てるひろ【大内 輝弘】 生年不詳 〜 1569(永禄12.10.27) ◇室町後期の武将。通称は太郎左衛門。大内高弘(隆弘)の子。 (16)一説には政弘の次子,大内義興の兄.義興と不和になり豊後の大友宗麟に頼ったともいう. おおうち ひょうえ【大内 兵衛】 1888. 8.29(明治21) 〜 1980. 5. 1(昭和55) ◇大正・昭和期の経済学者。兵庫県淡路島生れ。 _1913(大正 2)東京帝国大学経済学部卒業。大蔵省に入り2年間ニューヨークに勤務し、1919(大正 8)退職。 _1919(大正 8)東京帝国大学助教授。同年末、兵衛が編集発行人の『経済学研究』創刊号に同大助教授森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載し、同大教授上杉慎吉(シンキチ)や天野辰夫ら右翼団体興国同志会がこれを危険思想として宣伝、罷免を要求(森戸事件)。1920. 1.(大正 9)東大を官僚の養成機関として考えていた政府は、朝憲紊乱(ビンラン)により森戸と兵衛を起訴・休職。1922(大正11)復職、1923(大正12)教授。 _1938(昭和13)労農派教授グループ事件(第2次人民戦線事件)で有沢広巳らとともに検挙、1944(昭和19)辞職。 _太平洋戦争後、東京大学に復職し、1948(昭和23)定年退職。1950〜1959(昭和25〜昭和34)法政大学総長。 (2)'49東大退官後,法政大総長。 (6)50〜59年法政大学総長。 (16)'48停年退職. おおうち ひろよ【大内 弘世】 生年不詳 〜 1380(<南>天授 6,<北>康暦 2) ◇南北朝時代の武将。本姓は多々良氏。大内弘幸の子、大内義弘(ヨシヒロ)・盛見(モリミ)・弘茂の父。 おおうち まさひろ【大内 正弘】 1446(文安 3) 〜 1495(明応 4. 9.18) ◇室町後期の武将。幼名は亀童丸のち太郎。大内教弘の長男、大内義興(ヨシオキ)の父。 おおうち もちよ【大内 持世】 生年不詳 〜 1441(嘉吉元. 7.28) ◇室町中期の武将。大内義弘(ヨシヒロ)の次子・持盛の兄。 おおうち もりみ【大内 盛見】 1377(<南>天授 3,<北>永和 3) 〜 1431(永享 3) ◇室町中期の武将。大内弘世(ヒロヨ)の第6子、大内義弘(ヨシヒロ)の弟、大内弘茂の兄。 おおうち ゆうじ【大内 熊耳】《おほうち いうじ》 1697(元禄10) 〜 1779(安永 8. 4.28) ◇江戸中期の儒者(古学派)・唐津藩藩儒。陸奥国三春の人。 _秋元澹園(アキモトタンエン)に入門、のち荻生徂徠に学ぶ。 _明の李于鱗(リウリン)の詩文に傾倒。 _著書は『家世遺聞』・『熊耳先生文集』など。 ◆墓は東京都練馬区桜台6-20-18の広徳寺。 おおうち よしおき【大内 義興】《おほうち よしおき》 1477(文明 9) 〜 1528(享禄元.12.20) ◇室町後期の武将・戦国大名。幼名は亀寿丸。大内政弘(マサヒロ)の子、大内義隆(ヨシタカ)の父。 _1494(明応 3)家督を継ぎ周防権介となり、周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の守護を兼ね従三位左京大夫に任ぜられる。 _細川政元に京都を追われた前将軍足利義稙(ヨシタネ)を、1499(明応 8)山口に迎えて保護。1507(永正 4)義稙を擁して上洛、1508(永正 5)入京し将軍足利義澄(ヨシズミ)とその擁立者細川澄元(スミモト)を追って義稙を将軍に復し、管領代となり山城守護を兼ね一時幕権を握る。1516(永正13)以後、将軍義稙から遣明船の権利を一任され、財力を豊富にする。1518(永正15)周防国山口に帰国。 _安芸・石見に出兵し尼子経久(ツネヒサ)らと戦い、1521年和議が成立するが、翌年以後再び安芸で戦い勝敗が決らず、1524(大永 4)和議となり経久が撤兵。1526(大永 6)石見に侵入し三偶城を奪い、1528年陣中で病にかかり山口に却って死去。 (*)1521(永正18,大永元)、1528(大永 8,享禄元)。 おおうち よしたか【大内 義隆】《おほうち よしたか》 1507(永正 4) 〜 1551(天文20. 9. 1) ◇戦国時代の大名。幼名は亀童丸。大内義興(ヨシオキ)の長男・嗣子、母は守護代内藤弘矩の娘。 _1528(享禄元.12.)家督を継ぎ周防権介となり、周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前の守護を兼ねる。1529(享禄 2)従五位上。1530(享禄 3)左京大夫。1532年、自ら大友義鑑(ヨシアキ)・少弐資元(ショウニ・スケモト)・少弐冬尚(フユヒサ)と戦う。1534(天文 3)筑後の星野親忠を斬る。1535(天文 4)大友義鑑と和議を結ぶ。 _1536(天文 5)大内・北条・今川・朝倉氏が朝廷に資財を献上し、第105代後奈良天皇は即位の大典を挙げることができ、義隆は大宰大弐に任ぜられる。1538(天文 7)朝鮮から『一切経』・『五経朱子新説』を求める。 _1540(天文 9)尼子晴久の安芸侵入を迎え撃ち、1541(天文10)毛利元就(モトナリ)を援けて出雲に尼子氏を撃退。1542(天文11)出雲に出兵するが晴久に敗れ、1543(天文12)山口に帰国。1550(天文19)山口を訪れたザビエルに謁見、耶蘇教の布教許可を与える。 _義隆が文弱に流れ国事を寵臣に委ね、また家臣陶晴賢(スエ・ハルカタ)(隆房)の所領を没収しようとしたため、晴賢は大友宗麟の援助を得て同志杉重政らと反逆。義隆は長門深川大寧寺で自殺。 _文芸を好み、上洛の際は清原枝賢・業賢父子を招き経学を講じさせる。戦乱を避けた公家を多く山口に保護、大内本を開板。 (*)1532(享禄 5,天文元) ◎大内義隆の自殺により大内氏は滅び、1552(天文21)大友宗麟の弟晴英(のち大内義長)が豊後より陶晴賢に迎えられ、大内氏の後嗣となる。春秀の母は義隆の姉である。 おおうち よしなが【大内 義長】 生年不詳 〜 1557(弘治 3) ◇室町後期の武将。初名は晴英、通称は八郎。大友義鑑の次子、母は大内義隆の姉、大友義鎮(宗麟)の弟。 (2)初名晴英,通称八郎。 (16)初名は春英,のち大内氏を相続し名を義長と改める. おおうち よしひろ【大内 義弘】《おほうち よしひろ》 1356 〜 1399(応永 6) ◇南北朝・室町前期の武将。幼名は孫太郎、法名は仏実、法号は有繋。大内弘世(ヒロヨ)の嫡子、大内盛見(モリミ)・弘茂の兄、大内持世(モチヨ)・持盛の父。 _九州探題今川了俊(リュウシュン)(貞世)に従い九州を平定、長門・豊前の守護職を授けられる。さらに安芸・石見を平らげる。1391(<南>元中 8,<北>明徳 2)明徳の乱の功で第3代将軍足利義満(ヨシミツ)を援け山名氏清を亡ぼし、翌年山名氏の旧領和泉・紀伊の守護職を併せる。 _朝鮮と交易し、蓄財。南北朝合一に尽力。 _義満の外様守護の疎外政策に逆らい、了俊を誘い挙兵しようとするが拒絶され失敗。鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)と結び、東西で挙兵しようとするが、1398(応永 5)氏満が死去。1399(応永 6)氏満の子鎌倉公方足利満兼(ミツカネ)を誘い反乱(応永の乱)、討伐され和泉国堺で戦死。 (4)生年は1356。 (6)生年は1354か1355。 (16)生年は1356(正平11・延文1)。 (*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。 おおうら かねたけ【大浦 兼武】 1850(嘉永 3. 5. 6) 〜 1918.10. 1(大正 7) ◇政治家。 おおうら ためのぶ【大浦 為信】 ⇒津軽為信 おおえ けいこう【大江 敬香】 1857(安政 4.12.24) 〜 1916.10.26(大正 5) ◇漢詩人。本名は孝之。 おおえ けんじ【大江 賢次】 1905. 9.20(明治38) 〜 1987. 2. 1(昭和62) ◇小説家。鳥取県生れ。小学校卒業。大陸を放浪。 _『シベリヤ』・『絶唱』など。 おおえ たく【大江 卓】《おほえ たく》 1847(弘化 4. 9.25) 〜 1921. 9.12(大正10) ◇明治・大正期の政治家・実業家。幼名は斎原治一郎のち土井卓造、法号は天也。斎原弘の子。土佐国幡多郡生れ。 _1867(慶応 3)長崎に赴き、ついで京都に出て土佐藩の陸援隊に入り、尊皇運動に参加。 _1868(明治元)兵庫県判事試補、1869(明治 2)兵庫外国事務御用掛となるが、藩令によって帰省、上海に学ぶ。1871(明治 4)「穢多(エタ)非人廃止建白書」を政府に提出。1872(明治 5)神奈川県権令となりペルー国船マリア・ルーズ号事件を処理、英国軍艦に逃れた苦力<クーリー>(清国人奴隷)を解放。1874(明治 7)大蔵省に出仕、1875(明治 8)退官。1877(明治10)西南戦争に呼応して挙兵を企て禁錮10年、1884(明治17)仮出獄、1885(明治18)赦免。 _1887(明治20)後藤象二郎の大同団結運動に参加、1890(明治23)立憲自由党創立に尽力、衆議院予算委員長となり党と政府との妥協をはかり非難を受け、さらに1892(明治25)選挙に落選、実業界に転じる。 _東京株式取引所会頭・東京米穀取引所重役・朝鮮京釜鉄道設立委員など。 _1909(明治42)財界を退き、1914(大正 3)僧籍に入り、同年半官半民の帝国公道会を創設。 おおえ りょうたろう【大江 良太郎】 1901. 9.26(明治34) 〜 1974. 4.14(昭和49) ◇演劇評論家・演出家。 おおえのあさつな【大江 朝綱】《おほえのあさつな》 886(仁和 2) 〜 957(天徳元.12.28) ◇平安中期の学者・書家。大江玉淵の子。祖父音人(オトンド)の江相公に対して後江相公と称される。 おおえのおとんど【大江 音人】《おほえのおとんど》 811(弘仁 2) 〜 877(元慶元.11. 3) ◇平安前期の学者。江相公と称される。大枝本主の子、大江千里(チサト)の父。大江朝綱(後江相公)の祖父。 _菅原清公に師事。 866(貞観 8)大枝を大江に改める。 おおえのこれとき【大江 維時】 888(仁和 4) 〜 963(応和 3. 6. 7) ◇平安中期の学者。字は大江仁。千古の子。 _朱雀・村上・冷泉・円融天皇の諱を撰定。 おおえのちさと【大江 千里】《おほえのちさと》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前期の儒者・歌人。大江音人(オトンド)の子。中古三十六歌仙の一人。 おおえのひろもと【大江 広元】《おほえのひろもと》 1148(久安 4) 〜 1225(嘉禄元. 6.10) ◇鎌倉幕府の初代政所(マンドコロ)別当(ベットウ)。通称は大官令、法名は覚阿。大江維光の子、大江匡房(マサフサ)の曾孫。中原親能(大江維光の子)の弟。母が中原広季に再嫁したので広季の養子となり中原姓を称したが、1216(建保 4)大江姓に復す。 _1184年、源頼朝(ヨリトモ)の招きで公文所(クモンジョ)(のち政所)の別当となった京下りの官僚。1185年守護・地頭の制を建策、功によって肥後の山本荘が与えられる。1190年、頼朝の上洛に従い、1191(建久 2)政所別当、従五位下・明法博士・左衛門大尉。 _頼朝の死後も北条政子に重んじられ北条氏に協力、鎌倉幕府の基礎を固める。将軍の廃立・畠山重忠・平賀朝雅・比企能員らの追討に関与。1213年、北条義時と協力して和田義盛を滅ぼす。1216(建保 4)陸奥守、まもなく出家。1221(承久 3)承久の乱では諸将に反対し即刻幕軍の上洛を主張、幕府方に勝利をもたらす。 (2)惟光の子,中原広元の養子。あるいは長家流藤原光能の子,母に従い中原広元の養子となり,のち大江惟光と父子契約し,大江を称したともいう。 (6)維光の子。 (16)式部大輔維光の子.母が中原広季に再嫁したので広季の養子となり,中原姓を称したが……. _記事中の'90(正応 3)と'91(正応 4)は元号の誤りで1290と1291のことになる。 (*)1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)、1190(文治 6,建久元)、1213(建暦 3,建保元)。 おおえのまさひら【大江 匡衡】《おほえのまさひら》 952(天暦 6) 〜 1012(寛弘 9. 7.16) ◇平安後期の学者・歌人。大江重光の子、維時の孫。大江以言(モチトキ)の従兄弟。 _祖父大江維時に学ぶ。 975(天延 3)文章生、翌年文章得業生。のち右衛門尉・検非違使。 989年、文章博士。尾張・丹波守。 997(長徳 3)東宮学士として居貞(オキサダ)親王(第67代三条天皇)に仕える。第66代一条天皇の侍読・侍従。皇子敦康親王の侍読を兼ねる。1009(寛弘 6)再び文章博士・正四位下式部大輔。 _著書『江吏部集』。 (2) 980(天元 3)文章生……。 (16) 975(天延 3)文章生. (*) 989(永延 3,永祚元)。 おおえのまさふさ【大江 匡房】《おほえのまさふさ》 1041(長久 2) 〜 1111(天永 2.11. 5) ◇平安後期の貴族・漢詩人・歌人。別称は江中納言(ゴウノチュウナゴン)・江帥(ゴウノソツ,ゴウノソチ)・江都督(ゴウトトク)・江大府卿(ゴウタイフキョウ)。父は大江朝臣成衡(シゲヒラ)、母は橘朝臣孝親の娘。匡衡(マサヒラ)の曾孫。 _1067(治暦 3)東宮学士として尊仁親王に仕える。1068(治暦 4)後冷泉天皇の死去により東宮が即位(後三条天皇)。1072(延久 4)備中介・防鴨河使となり、即位したばかりの白河天皇の蔵人と東宮学士を兼ねる。1090(寛治 4)堀河天皇に「漢書」を進講。 (2)大江匡衡の孫。 (4)後冷泉・後三条・堀河の三朝に仕える、……。 (6)後三条・白河・堀河各天皇の侍読を勤めた。 (17)東京都小平市に音人から三十五代の孫大江退三氏という方が系図を伝えておられるが、それには天永二年辛卯七月五日薨とあるよし。 おおえのもちとき【大江 以言】 955(天暦 9) 〜 1010(寛弘 7) ◇平安中期の学者。はじめ弓削宿禰を名乗りのち大江の本姓に復す。大江大隅守仲宣の子。大江匡衡(マサヒラ)の従兄弟。 _藤原篤茂に学ぶ。 (16)大江維明の孫. おおおか いくぞう【大岡 育造】 1856(安政 3) 〜 1928(昭和 3) ◇明治・大正期の政治家。医者大岡尚斎の長男。長門(山口県)生れ。 _長崎医学校に入学。東京に出て講法学館・司法省法学校に学ぶ。 _1890(明治23)「江戸新聞」を買収し「中央新聞」の社長となる。 _同年、帝国議会開設に際し、山口県選出の衆議院議員となり以来12回当選。政友会総務・東京市議会議長。1903(明治36)東京市参事会員、のち市会議長。1912年以後、衆議院議長に3回就任。 _1914(大正 3)奥田義人に替り第1次山本権兵衛内閣の文部大臣。 _1922(大正11)第45回帝国議会で政友会領袖として帷幄上奏(イアクジョウソウ)による陸軍大将の増加を攻撃。のち吉野作造の『帷幄上奏論』に「与党の領袖の口から之(コレ)を聞こうとは、実は吾人の全く夢想せざる所であった」と記された。 (*)1912(明治45,大正元)。 おおおか うんぽう【大岡 雲峰】 1764 〜 1848 ◇江戸後期の画家。旗本。四谷大番町(大京町)に在住。 (*)1764(宝暦14,明和元),1848(弘化 5,嘉永元)。 ◎東京都新宿区須賀町の須賀神社に三十六歌仙の絵がある。 おおおか えちぜんのかみ【大岡 越前守】 ⇒大岡忠相 おおおか しょうへい【大岡 昇平】 1909(明治42) 〜 1988(昭和63) ◇昭和後期の作家。東京生れ。京都大学仏文科卒業。 _1948(昭和23)『俘虜記』・1950(昭和25)『武蔵野夫人』・1952(昭和27)『野火』など。 おおおか ただすけ【大岡 忠相】《おほをか ただすけ》 1677(延宝 5) 〜 1751(宝暦元.12.19) ◇江戸中期の名奉行。名は求馬のち市十郎・忠右衛門。江戸生れ。旗本大岡美濃守忠高の4男。 _1686(貞享 3)10歳のとき同族の大岡忠真(奈良町奉行,2700石)の養子となる。1700(元禄13)家督を継ぎ、寄合、相摸1720石。1736年、徒士頭。 _1712(正徳 2)伊勢山田奉行となり、在任中に藩主徳川吉宗に認められ、1716(享保元. 8.)吉宗の将軍就任にともない、1717(享保 2)江戸町奉行、越前守。1736年、寺社奉行。1748年、三河国大平1万石を領し大名に列する。 _1751年、病気により辞し、同年6月吉宗が没し、12月忠相も死去。 ◆墓は神奈川県茅ヶ崎市の浄見寺。 (2)大岡忠高の子,忠真の養子。 (16)忠高の3子. (*)1704(元禄17,宝永元)、1736(享保21,元文元)、1748(延享 5,寛延元)、1751(寛延 4,宝暦元)。 おおおか ただみつ【大岡 忠光】 1709(宝永 6) 〜 1760(宝暦10. 4.26) ◇江戸中期の幕政家。初名は兵庫。大岡忠利の子、大岡忠相の一族。 _1724(享保 9)16歳で第8代将軍徳川吉宗の小姓。ついで第9代徳川家重に近侍。家重は若くから酒宴にふけり、言語も不明瞭となり、忠光のみ理解できその理解者として地位を高める。1746(延享 3)側衆5千石。1751年、1万石。1754(宝暦 4)若年寄。1757(宝暦 7)側用人、武蔵国岩槻2万3千石。 (*)1751(寛延 4,宝暦元)。 おおかわ しゅうめい【大川 周明】《おほかは しうめい》 1886.12. 6(明治19) 〜 1957.12.24(昭和32) ◇右翼国家主義運動の理論的指導者。山形県生れ。東京大学哲学科卒業。 _学生時代に参謀本部のドイツ語の翻訳の下請けをし軍人の友人を多く作る。 _1918(大正 7)南満洲鉄道(満鉄)に入社、東亜経済調査局調査課長・局長などを歴任。 _この間に満川亀太郎(ミツカワ・カメタロウ)と1919. 8.(大正 8)上海にいた北一輝を仲間に入れ猶存社(ユウゾンシャ)を組織し活動の中心となるが、、大川と北が対立して1923(大正12)解散。1924(大正13)行地社(コウチシャ)を結成、1925(大正14)皇居内に大学寮を設け日本精神を説き、1932. 2.(昭和 7)行地社を母体に神武会を組織(1935解散)。 _1929(昭和 4)満鉄から独立した東亜経済調査局の理事長。1930(昭和 5)結成された陸軍ファシストの秘密結社・桜会(サクラカイ)の将校と接近、大アジア主義を唱え、1931(昭和 6)三月事件(宇垣一成陸軍大臣のためらいで未発)・十月事件(事前に軍部の中枢に漏れ未遂)に関係した。 _1932(昭和 7)五・一五事件に資金援助し検挙され禁錮9年、1937(昭和12)仮出獄。1939(昭和14)東亜経済調査局長の最高顧問・法政大学に新設された大陸部部長を兼ねる。 _第二次大戦後、1945.12.12(昭和20)A級戦犯に指名され、巣鴨拘置所に収容。極東国際軍事裁判の公判中発狂を理由に1948.12.25(昭和23)釈放。 _著書『日本精神研究』・『二千六百年史』・『近世欧羅巴植民史』・『回教概論』など。 ◎北は尉官級以下の青年将校に、大川は佐官級の中堅将校に関係が強かった。 ◎軍事裁判中の発狂には(1)梅毒説、(2)連合軍が理論闘争を避けるため一服盛ったとする説、(3)法廷を逃れるための芝居説、の3説がある。 ◎軍事裁判中に東条英機の後頭部を平手打ちしたことは有名。 ◎東京都目黒区下目黒3丁目の目黒不動に大川周明の筆になる「北一輝先生碑」がある。 おおかわ へいざぶろう【大川 平三郎】 1860 〜 1936.12.30(昭和11) ◇実業家。渋沢栄一の甥。 (*)1860(安政 7,万延元)。 おおき あつお【大木 惇夫】 1895. 4.18(明治28) 〜 1977. 7.19(昭和52) ◇詩人・作詞家。本名は軍一、筆名初めは篤夫。広島市生れ。広島商業卒業。 おおき たかとう【大木 喬任】《おほき たかたう》 1832(天保 3. 3.) 〜 1899. 6.26(明治32) ◇明治期の政治家。通称は幡六のち民平。佐賀藩士大木知喬の長男。佐賀藩士の出身。 _1868(明治元)徴士参与、外国事務局。・京都府・軍務官の各判事。江藤新平とともに東京奠都を建議し、功により東京府知事。1871(明治 4)民部卿、民部省廃止後は文部卿。1872(明治 5)教部卿を兼任。1873(明治 6)参議、10月司法卿を兼任。 _1876(明治 9)神風連の乱(熊本県)・秋月の乱(福岡県)・萩の乱(山口県)に特命を受けて現地で処刑の任にあたる。 _1884(明治17)伯爵。民法編纂総裁・1885(明治18)元老院議長・1889(明治22)枢密院義長・1890(明治23)第1次山県有朋内閣の法務大臣・1891(明治24)第1次松方正義(マサヨシ)内閣の文部大臣・1892(明治25)枢密院議長に再任。 おおき ゆうじ【大木 雄二】《おほき ゆうじ》 1895. 5. 7(明治28) 〜 1963. 7.21(昭和38) ◇歌人・児童文学者。本名は雄三。 おおき ゆたか【大木 豊】 1925.12.14(大正14) 〜 1976. 9. 1(昭和51) ◇演劇評論家。 おおぎまち きんかず【正親町 公和】 1881.10.14(明治14) 〜 1960.12. 7(昭和35) ◇小説家。筆名に高尾清五郎も使用。園池公致(ソノイケ・キンユキ)の従兄弟。 おおぎまち きんみち【正親町 公通】 1653(承応 2.閏6.26) 〜 1733(享保18. 7.12) ◇江戸中期の神道家(垂加)。号は風水翁・風水軒など。権大納言正親町実豊(サネトヨ)の末子。 おおくに たかまさ【大国 隆正】《おほくに たかまさ》 1792(寛政 4.11.29) 〜 1871(明治 4. 8.17) ◇幕末・明治維新期の国学者・神道家。初名は秀文・秀清、字は子蝶、通称は仲衛、号は如意山人・佐紀乃屋・葵園・真瓊園、初姓は今井のち野々口(ノノグチ)・晩年は大国氏を称する。岩見国(島根県)津和野藩士今井秀馨の長子。江戸桜田の藩邸で生れる。 _1807(文化 4)平田篤胤(アツタネ)に国学、1809(文化 6)昌平黌(ショウヘイコウ)で古賀精里(セイリ)に儒学、1810(文化 7)村田春門に和歌・音韻の学を学ぶ。 _1817(文化14)家督を継ぐ。 _1818年、長崎に遊学し、蘭学・梵学を修める。国学を本学と称して京都摂津で報本学舎を設けて講義し名声が高まる。京坂地方の諸藩校で本学を講義し、尊皇の士気を鼓舞する。 _明治維新後、藩主亀井茲藍とともに神祇事務局に出仕して権判事、復古神道を唱え廃物毀釈の口火を切る。辞任して神祇局の顧問役。 (*)1818(文化15,文政元)。 ◎門人は玉松操(タママツ・ミサオ)・福羽美静(フクバ・ビセイ)など。 おおくぼ さくじろう【大久保 作次郎】 1890.11.24(明治23) 〜 1973. 2.28(昭和48) ◇画家。 おおくぼ しょうなん【大久保 湘南】 1865(慶応元.10.19) 〜 1908. 2. 9(明治41) ◇漢詩人。名は達、字は雋吉(シュンキチ)、号は湘南。 おおくぼ ただかず【大久保 忠員】 1511(永正 8) 〜 1582(天正10) ◇戦国・安土桃山時代の武将。名は甚四郎・平右衛門。大久保忠俊の弟。大久保忠世・忠佐・忠教(タダタカ)(彦左衛門)の父。 おおくぼ ただざね【大久保 忠真】 1781 〜 1837(天保 8) ◇江戸後期の老中。名は秀次郎・新十郎。老中大久保加賀守忠顕の子、母は杉山氏。 _1795(寛政 7)小田原城主11万3400余石。1815(文化12)京都所司代。1818年、老中。1834(天保 5)老中首座。 (*)1781(安永10,天明元)、1818(文化15,文政元)。 おおくぼ ただたか【大久保 忠教】《おほくぼ ただたか》 1560(永禄 3) 〜 1639(寛永16. 2.30) ◇江戸前期の幕臣。初名は忠雄・平助、名は忠教(タダタカ)、通称は彦左衛門・彦左。大久保忠員(タダカズ)の8子、母は小坂氏、長兄は忠世(タダヨ;異母兄)、次兄は忠佐(タダスケ)(沼津2万石)。大久保忠隣(タダチカ)(忠世の子)の叔父。三河生れ。徳川家康・秀茶える。 _1576(天正 4)遠江国乾(イヌイ)の戦を初陣とし各地に戦い武功を挙げる。小田原城主大久保忠隣(タダチカ)の所領武蔵国埼玉郡内に2千石を領する。大久保長安(ナガヤス)の生前の不正が発覚し、1614(慶長19)忠隣が改易された際、駿府に召され三河国額田(ヌカタ)郡1千石。1632(寛永 9)旗奉行となり、1千石加贈。 _家訓『三河物語』を著す。 (2)遠江犬居(イヌイ)合戦の初陣……。 (16)遠江国乾(イヌイ)の戦が初陣……. ◆忠教は江戸麻布市兵衛町に立行寺を創建、死後に大久保寺とも呼ばれた。1668(寛文 8)火災により現在地(東京都港区白金1丁目)に移転。忠教の墓をはじめ大久保一族がある。 ◎立行寺には講談で有名な一心太助(イッシン・タスケ)の碑がある。 ◎家康が臨終の際に「彦左衛門のわがまま無礼は生涯許すこと」と遺言。「天下の御意見番」と呼ばれる。 おおくぼ ただちか【大久保 忠隣】 1553(天文22) 〜 1628(寛永 5. 6.27) ◇江戸初期の大名。幼名は千丸のち新十郎、通称は治部少輔・相摸守、号は道白。大久保忠世(タダヨ)の長男、母は近藤左近右衛門幸正の娘。大久保忠教(タダタカ)(彦左衛門)の甥。三河国和田郷生れ。 _1568(永禄11)徳川家康の近習。姉川・三法ヶ原の戦の武功により、1572(元亀 3)治部大輔。1590(天正18)武蔵国羽生城主2万石。1593(文禄 2)家康の三男秀忠の老職となる。1594(文禄 3)父の死後、小田原城主6万5千石を継ぐ。1605(慶長10)徳川秀忠を擁立、本多正信とともに老臣として仕える。声望が高く正信の反感を買い、忠隣の推挙した大久保長安(ナガヤス)の不正が長安の没後に発覚し改易、井伊家お預けとなり近江に配流5千石に減封。 (2)治部少輔……。 (16)治部大輔……. おおくぼ ただやす【大久保 忠保】 1830(天保元) 〜 1886. 3. 5(明治19) ◇歌人。号は恪堂・花墻・漣々。新聞紙・電信機・瓦斯燈・女教師などを新題として作る。 おおくぼ としみち【大久保 利通】《おほくぼ としみち》 1830(文政13. 8.10) 〜 1878. 5.14(明治11) ◇明治初期の中枢の政治家。名は利済、通称は正助のち一蔵、号は甲東。薩摩の下級藩士御小姓組150石大久保治右衛門の子。 _1840(天保11)薩摩藩記録所書助役。藩主島津斉彬(ナリアキラ)の幕政改革に西郷隆盛らと参加。斉彬の没後は藩主島津忠義の子久光に信任され、重臣小松帯刀や西郷らと公武合体に尽力。 _やがて薩英戦争・下関砲撃事件・幕府の長州征伐などから西郷らを討幕論に導き、京都に出て岩倉具視に接近。1866(慶応 2)坂本龍馬の仲介で長州藩士らと連合、岩倉ら公家の支持も得て王政復古に活躍。 _1867(慶応 3)新政府の参与となり、西郷・木戸孝允らと戊辰戦争を主導し明治政府を樹立。1869(明治 2)参議。1871(明治 4)木戸らと版籍奉還・廃藩置県を敢行。同年、大蔵卿。岩倉遣外使節の副使としてアメリカ・ヨーロッパに随行。1873(明治 6)帰国後、国力の充実を主張して征韓論に反対。征韓派が退陣後、内務卿。1874(明治 7)佐賀の乱を武力で鎮圧、一方征台の役を実施し、不平士族の不満を反らす。1875(明治 8)大阪会議を開き、自由民権運動の木戸・板垣退助らと妥協。 _1875. 3.(明治 8)地租改正事務局を設置、大久保利通(トシミチ)が総裁を兼任。茨城や三重に大規模な一揆が発生するや、1877(明治10)地租税率を軽減。同年、明治政府の最大の危機である西南戦争を乗り越えるが、不平士族の怨みを買い、翌1878(明治11)東京赤坂の紀尾井坂(キオイザカ)で石川県士族島田一郎(陸軍大尉)・島根県士族浅井寿篤ら不平士族145名に襲撃・暗殺(紀尾井坂の変)。 ◆墓は東京都港区の青山霊園。 ◎同郷の警視庁初代大警視の川路利良(トシヨシ)は腹心。西南戦争の直接の原因となった西郷隆盛暗殺計画も大久保が川路に内命したと言われている。 おおくぼ ながやす【大久保 長安】《おほくぼ ながやす》 1545(天文14) 〜 1613(慶長18. 4.25) ◇江戸初期の金山奉行。名は十兵衛、通称は大蔵大夫(オオクラダユウ)、初めは土谷氏。大和金春座(コンパルザ)の猿楽師(サルガクシ)大蔵大夫七郎喜然(キネン)の子。甲斐の人。 _初め武田信玄に仕え、信玄の没後に駿府で猿楽を業とする。大久保忠隣(タダチカ)に愛され大久保姓を授かり、徳川家康に推挙される。家康に仕え、従五位石見守3万石。 _1601(慶長 6)東海道・中仙道の伝馬制を定める。同年、石見銀山奉行・1603(慶長 8)佐渡金山奉行・伊豆銀山奉行を兼ねる。1604(慶長 9)東海・東山・北陸道の一里塚建設を指揮。1608(慶長13)江戸城内の浄土・法華宗論を裁く。1613(慶長18)キリシタン武士岡本大八事件を裁く。 _病死後、生前の不正が発覚し、遺子は切腹、1614(慶長19)大久保忠隣は改易。 (2)'13病死後不正が発覚し大久保家は改易となった。その背景には本多正信・正純ら文吏派と大久保忠隣の譜代武功派の対立があったといわれる。 (6)死後,生前の不正を理由に遺子は切腹を命ぜられた。 (16)私利を貪り驕奢淫逸をきわめ,不正が暴露して改易された.キリシタンでもあった. おおくぼ ひこざえもん【大久保 彦左衛門(大久保 彦左衞門)】《おほくぼ ひこさゑもん》 ⇒大久保忠教 おおくぼ よそごろう【大久保 余所五郎】 1865(慶応元. 7. 3) 〜 1900. 8.18(明治33) ◇史論家。号は湖州。 おおくま うじひろ【大熊 氏広(大熊 氏廣)】 1856(安政 3) 〜 1934(昭和 9) ◇彫刻家。東京の人。 _1876(明治 9)工部美術学校開設とともに彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーサに師事し、1882(明治15)主席で卒業。 _工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事。1885(明治18)宮内省から大村益次郎の銅像制作を依頼されると、1888(明治21)研究のため留学し、パリ美術学校のファルギエル、ローマ美術学校のアレグレツティ、モンテヴェルデに師事。翌年、帰国してキヨソネが描いた大村の肖像画をもとに銅像を制作。 _有栖川宮熾仁(タルヒト)親王や小松宮彰仁親王などの彫像を制作。 _文部省美術展覧会開設とともに審査委員。 おおくま ことみち【大隈 言道】《おほくま ことみち》 1798(寛政10) 〜 1868(慶応 4. 7.29) ◇江戸後期の歌人。通称は米屋清助・清介、号は萍堂(ヒョウドウ)・池萍堂。大隈茂助言朝の4男。筑前国福岡薬院抱安学橋生れ。 _藩士二川相近(フタガワ・スケチカ)(松陰)に和歌・書を、広瀬淡窓に漢学を学ぶ。39歳で家業を弟に譲り、歌に専念。1857(安政 4)60歳で大坂に上り、佐々木弘綱らと交わる。1867(慶応 3)頃、病に罹り帰郷。 (5)通称清助。 (6)通称清助。 (11)通称清助。 (16)通称は米屋清助. おおくま しげのぶ【大隈 重信】《おほくま しげのぶ》 1838(天保 9. 2.16) 〜 1922. 1.10(大正11) ◇明治・大正期の政治家。初名は八太郎。佐賀鍋島藩士大隈信保の長男、母は三井子。 _父を早くに失い母に育てられる。7歳で藩校弘道館のち19歳のとき蘭学寮に学ぶ。1866(慶応 2)将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようと謀り、同じ佐賀藩士副島種臣(ソエジマ・タネオミ)と脱藩して京都に至るが失敗。藩に送還され謹慎。 _1868(明治元)徴士参与・外国事務判事・外国官副知事。大蔵少輔・民部大輔・1869(明治 2)大蔵大輔・1870(明治 3)参議。1873(明治 6)大蔵省事務総裁、征韓論に反対。1874(明治 7)台湾征討・1877(明治10)西南戦争の事務局長。船舶払い下げなど西南戦争で軍事輸送に当った三菱商会岩崎弥太郎との関係を深める。1878(明治11)大久保利通の没後、主席参議・地租改正事務局総裁を兼任。 _国会開設問題で即時開設を天皇に上奏し伊藤博文・山県有朋・井上馨らと対立、1881(明治14)北海道開拓使官有物払下事件の政府攻撃を口実に薩長藩閥により大隈・福沢諭吉一派は罷免(明治十四年の政変)。 _1882(明治15)河野敏謙(トガマ)らと立憲改進党を組織し総理、板垣退助の自由党と並び藩閥政府と抗争。同年東京専門学校(現:早稲田大学)を創立。1884(明治17)立憲改進党を脱党。1888(明治21)黒田清隆(キヨタカ)内閣の外務大臣となり条約改正に当るが失敗。1889.10.18(明治22)玄洋社員来島恒喜(クルシマ・ツネキ)に襲われ投げられた爆弾により右足を失い辞職。1896(明治29)野党を合同し進歩党を結成、松方正義内閣の外務大臣兼農商務大臣。地租増徴で松方首相と対立し辞職。 _1898(明治31)板垣退助とともに憲政党を結成、隈板(ワイハン)内閣(第1次)を組織、閣内対立と山県有朋系官僚の倒閣工作で総辞職。1908(明治41)憲政本党総理。 _1910(明治43)政界を引退し、早稲田大学総長。文明協会の創立。 _1914(大正 3)立憲同志会の援助を得て第2次内閣を組織。日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦。1915. 1.28(大正 4)対華二十一ヶ条要求を強行し排日運動を引き起す。1916(大正 5)内務大臣大浦兼武の収賄事件や外務大臣加藤高明と元老との対立で総辞職。 _第1次内閣:1898. 6.30(明治31)〜1898.11. 8(明治31)。 _ 内務大臣:板垣退助 _第2次内閣:1914. 4.16(大正 3)〜1916.10. 9(大正 5)。 _ 内務大臣:大浦兼武,外務大臣:加藤高明 _ 法務大臣:尾崎行雄 ◆東京都文京区の護国寺に墓がある。 おおくま ちょうじろう【大熊 長次郎】 1901. 6. 7(明治34) 〜 1933. 1.21(昭和 8) ◇歌人。東京生れ。胸を病み睡眠薬自殺。 おおくま のぶゆき【大熊 信行】 1893. 2.18(明治26) 〜 1977. 6.20(昭和52) ◇詩人・経済学者・評論家。山形県米沢市生れ。1921(大正10)東京高商専攻部卒業。 おおくま べんぎょく【大熊 弁玉】 1818(文政元) 〜 1880. 4.25(明治13) ◇国学者・歌人・浄土宗の僧。名は慶阿(ケイア)、号は善蓮社(ゼンレンシャ)浄誉・(「王」偏+「倉」:補助4442〔_〕)々室(ユラムロ)。江戸生れ。 おおくら きはちろう【大倉 喜八郎】《おほくら きはちらう》 1837(天保 8. 9.24) 〜 1928. 4.22(昭和 3) ◇明治・大正期の実業家・軍部の御用商人。号は鶴彦。豪商大倉千之助の三男。越後(新潟県)新発田生れ。 _1854年、18歳のとき江戸に出て乾物屋ついで鉄砲店大倉屋を営み成功。1868(慶応 4)戊辰戦争で官軍御用達を勤めて政商となる。 _1872(明治 5)欧米に商業視察旅行。1873(明治 6)大倉組商会を設立、貿易業務を開始。陸海軍の御用商人として西南・日清・日露戦争で軍需品の調達・輸送に当り莫大な富を蓄積し大倉財閥を築く。 _1878(明治11)渋沢栄一らと東京商法会議所を設立。1886(明治19)東京電燈会社を設立。1887(明治20)内外用達会社を設立。同年、外務大臣井上馨の発議による帝国ホテルを建設。1891(明治24)東京商業会議所議員。1893(明治26)大倉組商会と内外用達会社を合併し大倉組とする。1898(明治31)農工商高等会議議員。同年、東京と大阪に大倉商業学校を設立。1899(明治32)東京商業会議所副会長。 _1902(明治35)日本人として初めて対華借款を結び、朝鮮・中国・満州にも進出。南満州の鴨緑江製材公司・本渓湖煤鉄公司など土木鉱山業を始める。 _1911(明治44)株式会社大倉組を組織。同年、渋沢栄一らの帝国劇場に出資。1917(大正 6)大倉組の土木部門を大倉土木組(現:大成建設)として独立。同年、大倉集古館を設立。1918(大正 7)大倉商業学校が大倉高等商業学校(現:東京経済大学)に改組。 (*)1854(嘉永 7,安政元)。 ◎大倉財閥は太平洋戦争の敗戦で海外資産を失い崩壊。直系で現存するものに大成建設がある。 ◎大倉集古館は東京都港区赤坂葵町にある。 おおくら たねき【大蔵 種材】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の地方官僚。種光の子、春実の孫。 _大宰府の官僚として1019(寛仁 3)刀伊(トイ)の来襲の際に活躍し撃退(刀伊の入冦)。この功によって壱岐守に任ぜられる。 おおくら てるこ【大倉 (「火」偏+「華」:補助4219〔_〕)子】 1886. 4.12(明治19) 〜 1960. 7.18(昭和35) ◇小説家。本名は物集芳子。 おおくら とうろう【大倉 桃郎】 1879.11.17(明治12) 〜 1944. 4.22(昭和19) ◇小説家。本名は国松、別号は琴峰、筆名は黒風白雨楼主人・黒風白雨楼・舟町彩二・荻青子・萩の戸。香川県生れ。 (13)明治一二年一〇月香川県に生まる。 おおくら とらあきら【大蔵 虎明(十三世)】《おほくら とらあきら》 1597(慶長 2) 〜 1662(寛文 2) ◇江戸初期の狂言役者。初名は弥太郎虎時、晩年は弥右衛門。父は太郎虎清(十二世)、八右衛門の兄。大蔵流の中興の祖。 _十三世金春(コンパル)座付。著書は狂言論『わらんべ草』。 おおくら とらまさ【大蔵 虎政】《おほくら とらまさ》 1531(享禄 4) 〜 1596 ◇安土桃山時代の能狂言師。大蔵流十一世家元。 _織田信長・豊臣秀吉に仕える。 (*)1596(文禄 5,慶長元)。 おおくら とらみつ【大蔵 虎光】《おほくら とらみつ》 1782(天明 2) 〜 1842(天保13) ◇江戸後期の能狂言師。大蔵流八右衛門派第七世。 おおくら ながつね【大蔵 永常】《おほくら ながつね》 1768(明和 5) 〜 没年不詳 ◇江戸末期の農学者。俗称は亀太夫・徳兵衛・喜内・喜太夫、字は孟純、号は亀翁。豊後国(大分県)日田郡生れ。 _各地を遍歴し、その土地の特色ある工業技術などを見聞し平明な農業指導書に著す。1834(天保 5)渡辺崋山の推薦で三河国田原藩の興産方(殖産係)。1842(天保13)遠江国浜松藩水野忠邦に嘱望されて興産方。 _大坂で没したという。 _著書は『広益国産考』・『農家益』・『除蝗録(ジョコウロク)』・『農具便利論』など。 ◎水田耕作にだけ目が向けられている中で、櫨(ハゼ)・サトウキビ・甘藷の栽培、製蝋・製糖などの技術の改良・普及など商品生産による農業改善を主張。 おおくらきょうのつぼね【大蔵卿局】 生年不詳 〜 1615(慶長20. 5. 8) ◇淀君(豊臣秀吉の側室)の侍女・乳母。大野修理治長(ハルナガ)の母。 _大坂城陥落で、豊臣秀頼・淀君、子治長らと自殺。 おおこうち かずお【大河内 一男】《おほかふち かずを》 1905(明治38) 〜 1985(昭和60) ◇昭和期の経済学者。講談作家大河内翠山の長男。東京生れ。 _東京帝国大学卒業。1939(昭和14)東京帝国大学助教授。1945(昭和20)東京帝国大学教授。1962〜1968(昭和37〜昭和43)東京大学総長。 ◎河合栄次郎の門下で、社会政策・労働問題を専攻。 おおこうち でんじろう【大河内 伝次郎】《おほかふち でんじらう》 1898(明治31) 〜 1962(昭和37) ◇映画俳優。本名は大辺勇(オオベ・マスオ)。福岡生れ。 _はじめは新国劇俳優。1926(大正15)映画界に入り時代劇俳優として成功。当り役は「丹下左膳」など。 _出演作は伊藤大輔監督『長恨』・同監督1927(昭和 2)『忠次旅日記』・『大菩薩峠』・『新版大岡政談』・『御誂治郎吉格子』・『丹下左膳』・『磐嶽の一生』など。 ◎時代劇映画黄金時代の代表的俳優で、独特なマスクと科白(セリフ)回しがうけた。 おおこうち まさとし【大河内 正敏】《おほかふち まさとし》 1878.12. 6(明治11) 〜 1952. 8.29(昭和27) ◇明治〜昭和前期の実業家・技術者。東京生れ。子爵・貴族院研究会の領袖。女優河内桃子(コウチ・モモコ)の祖父。 _東京帝国大学工科造船科卒業。1903(明治36)ドイツ・オーストリアに留学。1914(大正 3)弾道学の論文で工学博士を取り、東京帝国大学工科教授、火砲構造や弾道学を講義。 _1918(大正 7)原敬内閣の海軍政務次官。政界に進出し貴族院議員。 _科学主義工業・代用品工業を提唱し、1921(大正10)理化学研究所・1927(昭和 2)理化学興業などを設立。理化学興業会社会長として理研コンツェルンを統轄。産業統制を通じて太平洋戦争に協力。 _太平洋戦争後、公職追放され、1951(昭和26)解除。 (2)三河国吉田藩主の末流。 (6)旧大多喜藩主大河内正質の長男。 おおごし あらた【大越 新】 1898(明治31) 〜 1975(昭和50) ◇昭和期の実業家。福島県生れ。旅順工科学堂卒業。 _入山採炭に入社・取締役。 _1948(昭和23)常磐炭礦社長、1963(昭和38)会長、1965(昭和40)相談役。 おおこし われもこう【大越 吾亦紅】 1889. 4. 5(明治22) 〜 1965. 2.28(昭和40) ◇俳人。 おおさわ てんせん【大沢 天仙】 1873(明治 6) 〜 1906(明治39) ◇小説家。本名は興国。 おおしお ちゅうさい【大塩 中斎】《おほしほ ちゆうさい》 ⇒大塩平八郎 おおしお へいはちろう【大塩 平八郎】《おほしほ へいはちらう》 1793(寛政 5) 〜 1837(天保 8. 3.27) ◇江戸後期の儒学者(陽明学)・与力。幼名は文之助、名は正高(マサタカ)のち後素、字は子起、通称は平八郎、号は連斎・中軒のち中斎(チュウサイ)。大坂町奉行与力大塩敬高の子。 _篠崎三島に学ぶ。祖父の後見で14歳のとき与力御書方見習として出仕。1811(文化 8)定町廻。江戸の林家に入門し朱子学を学ぶ。祖父の没後、家督を相続。1816(文化13)呂新吾『呻吟語』を読み、知行合一の実践を説く陽明学に転じる。1817(文化14)私塾洗心洞(センシンドウ)を設け子弟に陽明学を講ずる。 _1830年、大坂東町奉行の高井山城守実徳(サネノリ)が江戸に転任したおり、与力職を養子格之助(カクノスケ)に譲り隠居。洗心洞で陽明学の教授に専念。 _1836(天保 7)天保の飢饉の際、豪商の手先となる町奉行らを見て憤(イキドオ)り、格之助を通して町奉行跡部(アトベ)山城守良弼(ヨシタダ)に飢饉救済を申し入れるが一蹴される。さらに三井・鴻池(コウノイケ)ら豪商に救済費の借金を申し入れるがこれも断られる。平八郎は蔵書5万冊を売り払い、その金を窮民救済に当てる。 _檄文(ゲキブン)を摂津・河内・和泉・播磨に飛ばし、1837(天保 8. 2.19)自邸に火を放ち門下の与力・同心・門弟数十名らと「救民」の旗を立てて挙兵、豪商の蔵を討ち毀(コワ)し金や米穀を窮民に与えたが、半日にして大坂城代・近隣諸藩の武力に鎮圧される。約40日後、格之助との隠れ家を発見され、捕吏に包囲された中で爆薬により自殺。二人の黒焦げの死体は塩漬けにされ、のち磔(ハリツケ)にされる。 _著書は1833(天保 4)『洗心洞箚記(サッキ)』・『古本大学刮目』など。 (*)1830(文政13,天保元)。 (2)生年は1793(寛政 5)。(生)大坂天満川崎四軒坊。 (4)生年は1794。阿波の人。 (6)生年は1793。 (16)生年は1793(寛政 5)。 ◎その後、1837(天保 8. 6.)生田万(イクタ・ヨロズ)の乱など、しばらく大塩一党と自称する百姓一揆が続いた。 ◎大塩平八郎の乱は天保の改革の直接の因となった。 _大阪造幣局構内に洗心洞跡の碑がある。 おおしか たく【大鹿 卓】 1898. 8.25(明治31) 〜 1959. 2. 1(昭和34) ◇詩人・小説家。本名は秀三(ヒデゾウ)。愛知県津島町生れ。三歳のとき、家族と東京に出る。1921(大正10)秋田鉱山専門学校卒業。金子光晴(ミツハル)の実弟。 おおしこうちのみつね【凡河内 躬恒】《おほしかふちのみつね》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今和歌集』撰者の一人。 _宇多・醍醐天皇に仕え、 907(延喜 7)丹波権大目・ 911(延喜11)和泉権掾・ 917(延喜17)和泉権大掾・淡路掾などを歴任。 _家集『躬恒集』がある。 ◎紀貫之(キノツラユキ)・壬生忠岑(ミブノタダミネ)と並称される。 おおした うだる【大下 宇陀児(大下 宇陀兒)】 1896.11.15(明治29) 〜 1966. 8.11(昭和41) ◇昭和期の小説家。本名は木下竜夫(龍夫)。長野県生れ。九州帝国大学工学部卒業。第二代探偵作家クラブ会長。 (1)誕生日は11.15。 (2)誕生日記載なし、本名は木下龍夫。 (5)誕生日は11.25、本名は木下龍夫。 (8)誕生日は11.15、本名は木下龍夫。 (11)誕生日は11.25、本名は木下竜夫。 (12)誕生日は11.25、本名は木下竜夫。 (13)誕生日は11.15、本名は木下竜夫。 おおした とうじろう【大下 藤次郎】《おほした とうじらう》 1870(明治 3) 〜 1911(明治44) ◇明治後期の水彩画家。東京生れ。 _中丸精十郎のち原田直次郎に師事。 _1901(明治34)太平洋画会の結成に参加。 _1905(明治38)春鳥会を組織し、雑誌「みづゑ」を創刊。 _1906(明治39)水彩画会を創立。 _代表作は『穂高山の麓』・『尾瀬沼』など。 おおしま うりん【大島 有隣】 1755(宝暦 5.12. 4) 〜 1836(天保 7.10.22) ◇江戸後期の心学者。名は義展、通称は幸右衛門、号は有隣。 _著書は『心学信徳録』・『心学初入手引草』など。 (2)武蔵国北葛飾高野村の名主の子。 (16)武蔵国大島村の人. おおしま えいざぶろう【大島 栄三郎】 1928.10.20(昭和 3) 〜 1973. 4.20(昭和48) ◇詩人。戸籍上の誕生日は12. 1。 おおしま けんいち【大島 健一】 1858(安政 5) 〜 1947(昭和22) ◇大正・昭和期の陸軍軍人(中将)。陸軍中将大島浩の父。 おおしま さだます【大島 貞益】 1845(弘化 2) 〜 1914(大正 3) ◇明治期の経済学者。幼名は益三郎、号は石華。兵庫県出身。 _箕作麟祥(ミツクリ・リンショウ)の塾で英学を学ぶ。 _1868(明治元)兵庫の海軍翻訳方として奉職。1869(明治 2)兵庫英学校教師。のち文部大学助教・外務省翻訳局。 _1878(明治11)官界を去り、外国経済学の翻訳・紹介に努める。 (2)生年は1906(明治39)。 (6)生年は1914。 おおしま たかとう【大島 高任】 1826(文政 9. 5.11) 〜 1901. 3.29(明治34) ◇江戸幕末・明治期の冶金技術者。幼名は文治のち周禎、通称は総左衛門。父は陸奥南部藩(岩手県)蘭方侍医大島周意(新六)の子。 _1842(天保13)父新六とともに江戸に出て箕作阮甫(ミツクリ・ゲンポ)・坪井信道に蘭学を学び、1846(弘化 3)南部藩の藩命により長崎で高島秋帆(シュウハン)に砲術・冶金・採鉱製練などを学ぶ。 _1854年、水戸藩に招かれ、1855(安政 2)水戸に反射炉を築く。1858(安政 5. 1.)南部領の大橋鉄山を開き、釜石で日本最初の立炉(洋式高炉)による製鉄に成功。1860年、蕃書調所出役教授。1861年、藩に日進堂を創立。1865年、藩命により小坂銀山を開坑。 _1869(明治 2)高任と改名、明治政府に出仕し民部省鉱山司・鉱山権正・工部権少丞。1871(明治 4)遣外使節岩倉具視に随って欧米を視察、1873(明治 6)帰国。1875(明治 8)鉱山権頭・1880(明治13)工部省准奏任御用掛・小坂鉱山局長・佐渡鉱山局事務長・大蔵技監。 _釜石・小坂・阿仁・佐渡などの鉱山近代化に貢献。日本鉱業会初代会長。 (*)1854(嘉永 7,安政元)、1860(安政 7,万延元)、1861(万延 2,文久元)、1865(元治 2,慶応元)。 おおしま ひろし【大島 浩】 1886(明治19) 〜 1975(昭和50) ◇昭和期の陸軍軍人(中将)。陸軍中将大島健一の長男。 _太平洋戦争後、極東軍事裁判でA級戦争犯罪人として終身刑。1955(昭和30)減刑され出獄。 おおしま ほうすい【大島 宝水】 1880. 8.25(明治13) 〜 1971. 5.16(昭和46) ◇俳人。本名は貞吉、別号は三蝶。 おおしま まさみつ【大島 正満】 1884. 6.21(明治17) 〜 1965. 6.26(昭和40) ◇動物学者・随筆家。 おおしま りょうきち【大島 亮吉】 1899. 9. 4(明治32) 〜 1928. 3.25(昭和 3) ◇大正・昭和初期の登山家。前穂高北尾根で墜落死。 おおしま りょうた【大島 蓼太】《おほしま れうた》 1718(享保 3) 〜 1787(天明 7. 9. 7) ◇江戸中期の俳諧師。本名は吉川陽喬、通称は平助・平八、別号は蓼太郎・宜来・雪中庵(セッチュウアン)三世。信濃の人。江戸で活躍。 おおすが おつじ【大須賀 乙字】《おほすが おつじ》 1881. 7.29(明治14) 〜 1920. 1.20(大正 9) ◇明治・大正期の俳人・詩人。本名は績(イサオ)。漢学者大須賀(「竹」冠+「均」:補助5010〔_〕)軒の長男。福島県宇多郡中村町生れ。東京帝国大学国文科卒業。 _1915(大正 4)臼田亜浪(ウスダ・アロウ)と俳誌「石楠(シャクナゲ)」を創刊。1919(大正 8)「石楠」を去る。東京音楽学校教授に在任中、1919(大正 8)全国的に流行したスペイン風邪に罹り、翌年死去。 (1)本名は績(イサオ)。 (2)本名績(イサオ)。 (4)名は績。 (5)本名は績(イサオ)。 (6)本名績(イサオ)。 (8)本名は積(イサオ)。(*)「禾」偏。 (11)本名は績(イサオ)。 (13)本名は績。 ◆乙字忌[ 1.20]。 おおすぎ さかえ【大杉 栄(大杉 榮)】 1885. 1.17(明治18) 〜 1923. 9.16(大正12) ◇評論家・社会主義運動家。父は軍人で、その任地香川県九亀町生れ。 _名古屋陸軍幼年学校、上官に抵抗し退学処分。東京外国語学校フランス語科在学中、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に加わる。1964(昭和39)卒業直後、東京市電車賃値上げ反対のデモで投獄される。1907(明治40)堀紫山(シザン)の妹堀保子(ヤスコ)と結婚。1908(明治41)赤旗事件で逮捕、千葉監獄に在り大逆事件を免れる。1914(大正 3)「平民新聞」を創刊。1916(大正 5)伊藤野枝との恋愛問題により神奈川県葉山の「日蔭の茶屋」で愛人神近市子に刺される。 _1920(大正 9)上海へ脱出、極東社会主義会議に出席。1922(大正11)国際無政府主義大会に参加のためフランスに潜行。1923(大正12)パリのメーデーで演説し投獄、フランスから追放され、7月帰国。 _1923. 9. 1(大正12)関東大震災の際に憲兵甘粕(アマカス)正彦らにより甥(オイ)橘宗一(7歳)・伊藤野枝とともに絞殺され、憲兵隊火薬庫の傍らの古井戸へ投げ込まれる。(甘粕事件,大杉栄事件)。 (13)誕生日は 5.17、没日は 9. 6。 (16)誕生日は 1.17、没日は 9.16。 おおすみ しょうふう【大住 嘯風】 1881. 4.20(明治14) 〜 1923.11.13(大正12) ◇仏教思想家。本名は舜岳、雅号は嘯風・舜。 おおぜき ごろう【大関 五郎】 1895. 1.24(明治28) 〜 1948. 8.30(昭和23) ◇詩人・歌人。 おおぜき しゅうろう【大関 柊郎】 1890.12.10(明治23) 〜 没年不詳 ◇劇作家。本名は太一郎。 おおせき まつさぶろう【大関 松三郎】《おほせき まつさぶらう》 1926(大正15) 〜 1944(昭和19) ◇詩人(児童生活詩)。マニラ通信隊所属として任地へ向う途中、南支那海で戦死。 (8)大関 松三郎(おおぜき まつさぶろう)、生年は1926(昭和元)。 おおた ぎゅういち【太田 牛一】 1527(大永 7) 〜 没年不詳 ◇安土桃山時代の武将。「ごいち」とも読む、通称は又介・又助。尾張の人。 _織田信長の弓衆、本能寺の変後は豊臣秀吉・秀頼に仕える。 _晩年、『信長公記』・『太閤軍記』などを著す。 おおた ぎょくめい【太田 玉茗】《おほた ぎよくめい》 1871(明治 4. 5. 6) 〜 1927. 4. 6(昭和 2) ◇詩人・小説家。本名は伊藤蔵三、のち養子となり伊藤玄綱(ゲンコウ)、のち三村(ミムラ)玄綱と改名。埼玉県忍町生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)英文科卒業。十二歳のとき剃髪出家し、のち故郷の羽生(ハニュウ)町建福寺の住職。妹リサは田山花袋の妻。 (13)明治四年七月武州(埼玉県)忍町に生まる。 おおた きんじょう【太田 錦城(大田 錦城)】《おほた きんじやう》 1765(明和 2) 〜 1825(文政 8. 4.23) ◇江戸中期の漢学者(折衷学派)。名は元貞、字は公軒、通称は才佐、号は錦城。加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覚の子、母は樫田氏。 _京都の皆川淇園(キエン)・江戸の山本北山に学ぶが意に満たず、宋学に清朝の考証学を取り入れ一家をなし、江戸で教授。三河国吉田藩に招かれる。 _晩年、加賀藩に仕え禄300石。 _著書は『梧窓漫筆』など。 ◎長男徳厚は加賀藩に、三男敦は吉田藩に仕える。 おおた ごいち【太田 牛一】 ⇒太田牛一 おおた さきたろう【太田 咲太郎】 1911. 3.20(明治44) 〜 1948. 6.24(昭和23) ◇文芸評論家・フランス文学者。 [1]おおた さぶろう【太田 三郎】 1884.12.24(明治17) 〜 1969. 5. 1(昭和44) ◇画家。挿絵の筆名は君島押之。愛知県生れ。 _寺崎広業・黒田清輝に師事。 (?)太田 三郎(おおた さんろう)。 [2]おおた さぶろう【太田 三郎】 1909.10.10(明治42) 〜 1976.10.11(昭和51) ◇比較文学者。 おおた じどうし【太田 耳動子】 1898. 3.15(明治31) 〜 1966. 8.21(昭和41) ◇俳人。本名は清吉。 おおた しゅうみん【太田 秋民】 1881(明治14) 〜 1950(昭和25) ◇大正・昭和初期の大和絵師。本名は益三郎(マスサブロウ)。福島県信夫(シノブ)郡平田村(現:福島市山田)の大農家の3男。祖父喜平次、父喜十郎、長兄桝太郎。 _東京美術学校(現:東京芸術大学)で荒木寛畝(カンポ)に師事、寛畝の没後はその養子の荒木十畝(ジュッポ)に師事。1917(大正 6)第11回文展に初入選。 _1919(大正 8)東京で教師をしていた宮杜タミ(29歳)と結婚、2男2女をもうける。1940(昭和15)妻タミを、その後次男を失う。1950(昭和25)次女ヨシ子(18歳)を失い、間もなく病没。 おおた すけきよ【太田 資清】 1411(応永18) 〜 1492(延徳 4. 2. 2) ◇室町前期の武将。法名は道真(ドウシン)。太田資房の子、太田道灌(ドウカン)の父。 _扇谷(オウギガヤツ)上杉持朝に仕え、その子顕房を補佐。山内上杉憲忠らとともに足利成氏と戦う。 おおた すけなが【太田 資長】 ⇒太田道灌 おおた すけはる【太田 資晴】 1695(元禄 8) 〜 1740(元文 5) ◇江戸中期の大名。名は資重のち資在、通称は熊次郎。若年寄陸奥国棚倉藩主太田資直の5男。 _兄4人が早逝したため父の没後、1705(宝永 2)家督を継ぐ。 おおた すけはる【太田 資始】 1799(寛政11) 〜 1867(慶応 3) ◇江戸後期の掛川藩主・老中。隠居後は道醇。 _大老井伊直弼のもとで、1858(安政 5. 6.)外国事務主管。水戸藩に対する処罰が寛大過ぎると大老井伊に非難され、老中を辞任、さらに謹慎を命ぜられる。1860(万延元. 9.)謹慎が解かれ、1863(文久 3)春に老中に再任されるが在任1ヶ月のみ。 おおた せいぞう【太田 清蔵】 1863(文久 3) 〜 1946(昭和21) ◇明治・大正期の政治家・実業家。 _1902(明治35)立憲政友会に入党。1929(昭和 4)私鉄疑獄事件で拘禁。 おおた ぜんさい【太田 全斎】《おほた ぜんさい》 1759(宝暦 9) 〜 1829(文政12. 6.12) ◇江戸後期の音韻学者・漢学者(折衷学派)。名は方、字は叔亀、通称は八郎、号は全斎。福山藩阿部氏の江戸藩邸に生れる。 _福山藩士で、近習・側用人・年寄格に至り、1823(文政 6)致仕。 おおた たつお【太田 辰夫】 1904. 7. 9(明治37) 〜 1927. 1.23(昭和 2) ◇詩人。病没。 おおた ちずお【太田 千鶴夫】 1906. 3.21(明治39) 〜 1968. 5.19(昭和43) ◇小説家・警察医。本名は肥後栄吉。 おおた どうかん【太田 道灌】《おほた だうくわん》 1432(永享 4) 〜 1486(文明18. 7.26) ◇室町中期の武将・歌人。幼名は鶴千代麿・源六郎、初名は持資(モチスケ)のち資長(スケナガ)、法名は道灌、通称は左衛門大夫・備中守。太田資清(スケキヨ)の子。相摸国の人。 _扇谷(オウギガヤツ)上杉家の執事で、政真・定正(サダマサ)を補佐する。 _築城・兵馬の法に長じ、1457年、江戸城を築く。ほかに川越(1457年)・岩槻(イワツキ)・鉢形の諸城を築く。江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、『慕景集』がある。 _1474(文明 6)江古田で石神井城主豊島泰経を破る。 _1476(文明 8)山内上杉家の内紛(顕定の家臣長尾景春の乱)を鎮圧する。扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ザンゲン)により、相摸国大住郡糟谷で主君定正に殺される。 (2)持資の名は確かな史料には見えない。 (*)1457(康正 3,長禄元)。 ◎主君定正は、道灌の働きをねぎらうという名目で館に招き、酒宴を開いた後、道灌が風呂場に入ったところを刺し殺したという。 ◎狩りで雨に遭い、蓑(ミノ)を借りようとして少女から山吹を受け取った紅皿伝説は有名。参照⇒紅皿 おおた どうしん【太田 道真】《おほた だうしん》 ⇒太田資清 おおた なんぽ【大田 南畝】《おほた なんぽ》 1749(寛延 2. 3. 3) 〜 1823(文政 6. 4. 6) ◇江戸後期の狂歌師・狂詩作者・幕臣。本名は覃(フカシ,タン)、通称は直次郎のち七左衛門、別号は狂詩のときは寝惚(ネボケ)先生・四方山人・檀那山人(ダンナサンジン)・新寧武子(シンネイブシ)、洒落本では風鈴山人・姥捨(ウバステ)山人・山手馬鹿人・南楼坊路銭(ナンロウボウロセン)、狂歌では四方赤良(ヨモノアカラ)・舳羅(チクラ)山人・千金子・改年堂御慶など、その他に杏花園(キョウカエン)・蜀山人(ショクサンジン)・馬鹿羅州阿林子(バカラシュウアリンス)、戒名は杏花院心逸日休。江戸牛込生れ。大田正智の子、母は杉田八郎兵衛の養女利世。 _1765(明和 2)17歳のとき御徒士となり幕府に出仕。1794(寛政 6)湯島聖堂の学問吟味に首席で及第。1795(寛政 7)48歳で支配勘定。1801年、53歳で大阪銅座詰、翌年帰府。1804年、55歳で長崎奉行所勤務、翌年帰府。1808(文化 5)玉川治水視察を命ぜられる。以後は勘定所勤務。 _19歳のとき流行作家平賀源内に紹介されたのが機縁となり著作を始める。子息が病廃したため70を過ぎても隠居できなかった。 _著書は『蜀山百首』・『万載狂歌集』・『寝惚先生文集』など。 _辞世の句は「ほととぎす鳴きつるかた身初がつお/春と夏との入相のかね」。 _唐衣橘洲(カラゴロモ・キッシュウ)・朱楽菅江(アケラ・カンコウ)らとともに天明調の狂歌三大家と呼ばれる。 ◆墓は東京都文京区白山の本念寺。 (*)1801(寛政13,享和元)、1804(享和 4,文化元)。 ◎1784(天明 4)黄表紙に七福神めぐりを書いたことから流行した。 おおた まさひろ【太田 政弘】 1870(明治 3) 〜 1951(昭和26) ◇大正・昭和期の内務官僚・政治家。山形県生れ。東京大学卒業。 _1924(大正13)警視総監。1926年、貴族院議員。1929(昭和 4)関東州長官。1931〜1932(昭和 6〜昭和 7)台湾総督。民政党総務。 (*)1926(大正15,昭和元)。 おおた みずほ【太田 水穂】《おほた みづほ》 1876.12. 9(明治 9) 〜 1955. 1. 1(昭和30) ◇大正・昭和期の歌人・国文学者。本名は貞一、号は「みづほのや」。長野県東筑摩(ヒガシチクマ)郡原新田(ハラシンデン)村生れ。 _1898(明治31)長野師範学校卒業。郷里の小学校長・女学校教諭を勤めながら作歌。「潮音」を主宰。 _1909(明治42)結婚した妻の四賀光子(シガ・ミツコ)は矢ヶ崎奇峰(ヤガサキ・キホウ)の妻の妹。 _作品は歌集『雲鳥』・『冬菜』など。 ◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。 おおた もちすけ【太田 持資】 ⇒太田道灌 おおた ようこ【大田 洋子】 1906.11.18(明治39) 〜 1963.12.10(昭和38) ◇明治期の小説家。本名は初子。広島市中島本町生れ。 _8歳で父母が離婚し小学校入学と同時に親類の大田家に入籍、3年後母の再婚先に伴われた。 _1917(大正 6)広島市の進徳高等女学校に入学、1921(大正10)卒業後研究科に進み、1923(大正12)研究科を卒業し、江田島の小学校の教師となるが、在任6ヶ月で辞職。 _1926(大正15)結婚し一子を設けたが、のち離婚。 _1945. 8.(昭和20)疎開先の郷里広島で被爆。 (1)誕生日は1903.11.10(明治36)。 (2)生年は1903(明治36)、生没日記載なし。 (3)誕生日は1906.11.18(明治39)。 (5)誕生日は1906.11.18(明治39)。 (8)誕生日は1903.11.20(明治36)。 (11)誕生日は1903.11.20(明治36)。 (13)誕生日は1906.11.(明治39)、没日は 9.10。 おおた よしお【太田 善男】 1880.10.(明治13) 〜 没年不詳 ◇評論家。1944(昭和19)慶応義塾大学予科教授、定年退職。 おおたか げんご【大高 源五】《おほたか げんご》 ⇒大高忠雄 おおたか ただお【大高 忠雄】 1672(寛文12) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士・浅野家の中小姓。膳番元方・物腰方・金奉行、二十石五人扶持。通称は源五(ゲンゴ)、俳号は子葉、戒名は刃無一剣信士。吉良家を探索中の変名は脇屋新兵衛(ワキヤ・シンベエ)。父は兵左衛門(ヘイザエモン)、母は小野寺十内(オノデラ・ジュウナイ)の実姉貞立尼(テイリュウニ)、弟幸右衛門(コウエモン)は十内の養子。 _俳諧を水間沾徳に学び、榎本其角と親交。 _主君の長矩(ナガノリ)死後、茶人羽倉斎(イツキ)(荷田春満)らと交わり、吉良邸の内情を探る。 _吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、宮原九太夫(ミヤハラ・キュウダユウ)の介錯(カイシャク)で切腹。 _辞世の句は「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」。 _『仮名手本忠臣蔵』では「大鷲文吾」。 (+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』  成美堂出版  昭和56年11月 1日初版発行  監修:尾崎秀樹  昭和57年 1月10日四刷発行 _「宮原九太夫」は「木村岡右衛門貞行」の項での「宮原久太夫」と同一か?。 おおたがき れんげつ【大田垣 蓮月】《おほたがき れんげつ》 1791(寛政 3. 1. 8) 〜 1875.12.10(明治 8) ◇江戸後期の女流歌人。本名は誠(ノブ)、出家して蓮月・蓮月尼(レンゲツニ)。伊賀国上野藩士藤堂氏の娘、知恩院寺侍大田垣伝右衛門光古(テルヒサ)の養女。京都の人。 _彦根藩士古川重二郎を婿とするが夫や子に死別。30歳で出家し、自詠の歌を書いた陶器(蓮月焼)を焼いて生活の資(モト)とする。 _晩年は西賀茂神光院境内の草庵に住む。 _著書は家集『海人の刈藻』・『蓮月歌集』。 ◆墓は京都西芳寺。 (2)近藤氏に嫁ぐが1819(文政 2)に死別,父母・子供も次々に失い……。 (4)婿古川重二郎の死後、尼となって……。 (16)彦根藩士古川重二郎を婿としたが夫および愛児に死別,30才で尼となる. おおたぐろ かつひこ【太田黒 克彦】 1895. 7. 1(明治28) 〜 1968.10.28(昭和43) ◇児童文学者・随筆家。 おおたぐろ ともお【大田黒 伴雄】《おほたぐろ ともを》 1835(天保 6) 〜 1876(明治 9) ◇明治初期の神風連(敬神党)の首領。熊本藩士飯田某の次男、大野氏の養子のち新開太神宮の神官大田黒伊勢の養子。 _熊本勤王党の国学者林桜園に国学を学ぶ。 _明治政府の開国和親・文明開化の政策に反対し、1876(明治 9)佩刀禁止令を機に国粋保持を唱えて、熊本藤崎神社の社前で170余名の同志とともに挙兵、熊本鎮台を襲い、鎮台司令官種田政明・県令安岡良亮を斬るが流れ弾に当り死亡。 おおだち しげお【大達 茂雄】 1892(明治25) 〜 1955(昭和30) ◇大正・昭和期の官僚・政治家。 _1934(昭和 9)満州国法制局長、1936(昭和11)満州国国務院総務庁長。1942(昭和17)昭南(シンガポール)市長。1943(昭和18)初代東京都長官となり決戦に備える。 _太平洋戦争後、公職追放。解除後、自由党に入党。 おおたに ぎょうせき【大谷 繞石】 1875. 8.(明治 8) 〜 1933. 2.17(昭和 8) ◇俳人。本名は正信。 (8)大谷 繞石(おおたに じょうせき)、誕生日は1875. 3.22(明治 8)、没日は1933.11.17(昭和 8)。 おおたに くぶつ【大谷 句仏】 ⇒大谷光演 おおたに こうえい【大谷 光瑩】 1852(嘉永 5) 〜 1923(大正12) ◇明治期の東本願寺第22代法主。法名は現如。第21代法主光勝(コウショウ)の子、母は邦家親王の娘嘉枝宮。第23代法主大谷光演(句仏)の父。 _1889(明治22)東本願寺第22代法主。1896(明治29)伯爵。1898(明治31)法主を光演に譲り隠退。 おおたに こうえん【大谷 光演】 1875. 2.27(明治 8) 〜 1943. 2. 6(昭和18) ◇明治後期の東本願寺第23代法主(真宗大谷派)・俳人。本名は光演、幼名は光養麿、法名は彰如、号は句仏(クブツ)・春坡・蕪孫・愚峯・獅子窟主人。第22代法主大谷光瑩(コウエイ)の次男。京都市東六条生れ。 _1884(明治17)得度。1908(明治41)東本願寺第23代法主。鉱山事業に失敗し、1925(大正14)隠退。 ◆句仏忌[ 2. 6]。 (?)法名は彰治。 (2)法名は彰如。 おおたに こうしょう【大谷 光勝】 1817(文化14) 〜 1894(明治27) ◇江戸幕末・明治前期の東本願寺第21代法主。幼名は予丸、法名は厳如。第20代大谷光朗(達如)の三男。第22代法主大谷光瑩(コウエイ)の父。 _1846(弘化 3)東本願寺第22代法主。1863(文久 3)幕府に軍費1万両を献納。1866(慶応 2)徳川家より5万両の寄進を受ける。1868年、勤皇側に立ち、朝廷に軍費1万両・米4千俵を献納。1889(明治22)法主を光瑩に譲り隠退。 (*)1868(慶応 4,明治元)。 おおたに こうしょう【大谷 光照】《おほたに こうせう》 1911.11. 1(明治44) 〜 2002. 6.14(平成14) ◇西本願寺(浄土真宗本願寺派)第23代門主。父は大谷光明(大谷光瑞の弟)、母は九条きぬこ(貞明皇后の妹)。 _光瑞が本山の財団疑獄事件で辞任後、1927(昭和 2)10.16得度、10.21門主に就任。 _1935. 3.(昭和10)東京帝国大学文学部、卒業。 _1937. 4.(昭和12)徳大寺嬉子と結婚。 _1977. 4. 1(昭和52)門主を退任。 おおたに こうずい【大谷 光瑞】《おほたに くわうずい》 1876.12.(明治 9) 〜 1948.10. 5(昭和23) ◇明治後期の西本願寺第22代門主。法号は鏡如。第21代門主大谷光尊の長男(庶子)、大谷尊由(ソンユウ)(光尊の4男)・九条武子(光尊の次女)の兄。妻籌子の妹節子(サダコ)は大正天皇の貞明皇后となる。 _学習院卒業・共立学校中退ののちヨーロッパに留学。 _1898(明治31)九条道孝公爵の娘籌子と結婚。 _1902〜03(明治35〜36)中央アジアの探検を行い、その後2回1908〜09(明治41〜42),1910〜12(明治43〜44)、大谷探検隊を派遣。 _1914(大正 3)財団疑獄事件で本願寺の職を退く。 _太平洋戦争中、大東亜建設審議会委員。中国の大連で敗戦を迎え、1947(昭和22)帰国。 (2)'14(大正 3)財団疑獄事件を契機に本願寺住職,管長職を退く。 (6)24年職を辞した後、海外に暮らす。 (16)1907〜14(明治40〜大正 3)年西本願寺住職,同派管長となる. おおたに こうそん【大谷 光尊】 1850(嘉永 3) 〜 1903(明治36) ◇江戸幕末・明治前期の西本願寺第21代門主。法号は明如。第20代門主大谷光沢の子、大谷光瑞(コウズイ)・尊由(ソンユウ)・九条武子の父。 _明治政府の教部省の大教正となる。刑務所教誨・軍隊布教に当る。 おおたに こうたく【大谷 光沢】 1798(寛政10) 〜 1871(明治 4) ◇江戸幕末の西本願寺第20代門主。幼名は祥寿麿、法名は広如。河内国顕証寺暉宣の子、第19代門主光摂(本如)の養子。第21代門主光尊(コウソン)の父。 _1826(文政 9)西本願寺第20代門主。1863(文久 3)朝廷に討幕の軍費を献納。 おおたに そんゆう【大谷 尊由】 1886(明治19) 〜 1939(昭和14) ◇大正・昭和初期の僧侶・政治家。第21代門主大谷光尊の4男、大谷光瑞の弟、九条武子(光尊の次女)の兄。 _1928(昭和 3)貴族院議員、1937(昭和12)第1次近衛文麿内閣の拓務大臣。1938(昭和13)北支開発会社総裁、同年内閣参議。 おおたに たけじろう【大谷 竹次郎】 1877.12.13(明治10) 〜 1969.12.27(昭和44) ◇明治〜昭和期の実業家。双子の白井松次郎の弟。 _京都歌舞伎座など京都の主要劇場を買収し、1902(明治35)白井松次郎とともに松竹合名会社を設立。大阪の朝日座・文楽座・東京の明治座・歌舞伎座を買収し大阪・東京に進出、歌舞伎興行権をほぼ独占。 _1921(大正10)松竹キネマ会社を設立、小林一三の東宝と映画界を二分し覇を競う。1931(昭和 6)兄松次郎、松竹興業社長。1937(昭和12)松竹社長、1949(昭和24)歌舞伎座社長を兼任。1951(昭和26)兄松次郎が死去。1954(昭和29)松竹会長。 _1955(昭和30)文化勲章を受章。 (2)1902(明治35)松竹合名を設立。'20(大正 9)映画界にのりだし,'20松竹シネマを設立……。 (4)「白井松次郎」の項:明治三五年弟大谷竹次郎とともに松竹合名社を創立。大正四年松竹キネマ創設。 (6)1905年松竹合名会社を設立。21年松竹キネマ会社を設立。 _「松竹」の項:1902年設立した松竹合名が前身。 (16)1905(明治38)年松竹合名会社を設立.'21(大正10)年松竹キネマをおこし……. ◎「松竹」の名は松次郎・竹次郎の兄弟の名から付けられた。 おおたに ちゅういちろう【大谷 忠一郎】 1902.11.29(明治35) 〜 1963. 4.12(昭和38) ◇詩人。本名は忠吉。 おおたに ふじこ【大谷 藤子】 1903.11. 3(明治36) 〜 1977.11. 1(昭和52) ◇小説家。本名は大谷(オオヤ)トウ。埼玉県秩父郡生れ。東京の三田高等女学校を卒業し、東洋大学の聴講生となる。 (1)生年は1903(明治36)。 (3)生年は1903(明治36)。 (5)生年は1901(明治34)。 (8)生年は1903(明治36)。 (11)生年は1903(明治36)。 おおたに へきうんきょ【大谷 碧雲居】 1885. 9. 9(明治18) 〜 1952. 5.28(昭和27) ◇俳人。本名は浩(コウ)、号は雨石(篆刻)。 おおつか きんのすけ【大塚 金之助】《おほつか きんのすけ》 1892. 5.15(明治25) 〜 1977. 5. 9(昭和52) ◇大正・昭和期の経済学者・思想史家・歌人。別名は遠見一郎・石井光。東京生れ。 _神戸高等商業(現:神戸大学)・東京高等商業(現:一橋大学)卒業。ドイツ留学後、東京商科大学(現:一橋大学)教授。 _1927(昭和 2)東京社会科学研究所の設立に参加。1933(昭和 8)伊豆湯ヶ島で治安維持法違反により検挙。 _第二次世界大戦後、一橋大学名誉教授。 _著書は『解放思想史の人々』など、歌集『人民』など。 おおつか くすおこ【大塚 楠緒子】《おほつか くすをこ》 ⇒大塚楠緒子 おおつか けいぞう【大塚 令三】 1909(明治42) 〜 1952(昭和27) ◇昭和期の中国共産党の研究者。 _南満州鉄道(満鉄)に入社し、同社の給費生として慶応義塾大学に学び、満鉄で橘樸(タチバナ・シラキ)の指導を受ける。 おおつか こうざん【大塚 甲山】 1880. 1. 1(明治13) 〜 1911. 6. 7(明治44) ◇俳人・詩人。本名は寿助(ジュスケ)。青森県生れ。肺結核により死去。 (5)没日は 6. 7。 (8)没日は 6.13。 (11)没日は 6. 7。 おおつか そうご【大塚 蒼梧】 ⇒大塚嘉樹 おおつか たけまつ【大塚 武松】 1878(明治11) 〜 1946(昭和21) ◇明治〜昭和期の歴史学者。山口県出身。東京大学卒業。 おおつか なおこ【大塚 楠緒子】《おほつか なをこ》 1875. 8. 9(明治 8) 〜 1910.11. 9(明治43) ◇明治時代の小説家・歌人・詩人。本名は久寿雄(クスオ)、別称は楠緒(クスオ)・楠緒子(ナオコ)・久寿緒子。東京麹町生れ。東京控訴院長大塚正男の長女で、大塚保治(ヤスジ)を婿養子に迎えて結婚。 _1890(明治23)竹柏園に入門、歌を佐佐木弘綱・佐佐木信綱に学ぶ。 _女子高等師範学校附属高等女学校卒業。 _日露戦争の時、従軍中の無事を祈る長詩『お百度詣(モウデ)』を発表。 _代表作は小説『晴小袖』・『離鴛鴦』・『空薫(ソラダキ)』・『露』など。 ◎小説の文体に夫の友人夏目漱石の影響が著しく、漱石の恋人という一説があった。 _早世し、漱石の手向けの句「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」がある。 (2)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。 (4)大塚 楠緒子(おおつか くすおこ)。 (13)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。 (16)大塚 楠緒子(おおつか なおこ)。 おおつか ひさお【大塚 久雄】《おほつか ひさを》 1907(明治40) 〜 1996(平成 8) ◇経済史学者。京都府生れ。 _1992(平成 4)文化勲章、受章。 _著書は『株式会社発生史論』(1938年)・『近代欧州経済史序説』・『近代資本主義の系譜』(1947年)・『共同体の基礎理論』(1955年)など。 おおつか やすじ【大塚 保治】《おほつか やすぢ》 1868(明治元.12.20) 〜 1931. 3. 2(昭和 6) ◇明治・大正期の美学者。旧姓は小屋。大塚正男の婿養子で、大塚楠緒子(ナオコ)の夫。群馬県南勢多郡木瀬村(現:前橋市)生れ。 _1891(明治24)東京帝国大学哲学科卒業。東京大学教授、最初の美学講座を担当。 (2)1868〜1931(明治1〜昭和6)。 (13)明治二年群馬県に生まる。 おおつか やのすけ【大塚 弥之助】《おほつか やのすけ》 1903(明治36) 〜 1950(昭和25) ◇地質学者。東京生れ。 _東京大学卒業。 _東京文理科大学(現:筑波大学)・東京大学教授。地震研究所所員。 _著書は『日本の地質構造』など。 おおつか よしき【大塚 嘉樹】《おほつか よしき》 1731(享保16) 〜 1803(享和 3. 6.29) ◇江戸後期の故実家。名は嘉樹、通称は市郎左衛門、字は子敏、号は蒼梧(ソウゴ)・老邁陳人。京都の人。 _京都で学び、のち江戸で教授。 _著書は『服飾類聚』・『校正装束拾要抄』・『蒼梧随筆』など。 ◎伊勢貞丈(サダタケ,テイジョウ)と並び称される。 おおつき げんかん【大槻 玄幹】 1785(天明 5) 〜 1837(天保 8) ◇江戸後期の蘭方医。名は茂(「木」偏+「貞」:補助3644〔_〕)、字は子節、号は磐里。大槻玄沢の長男、大槻磐渓(バンケイ)の兄。 _1811(文化 8)幕命により父玄沢とともに天文台に出仕し、蕃書和解に従う。 (2)「大槻玄沢」の項:1811(文化 8)幕府の命を受けて蘭書の翻訳に従事。 (6)「大槻玄沢」の項:1811年から蛮書和解御用を勤め……。 (16)1800(寛政12)年父と共に天文台に出仕し,蕃書和解に従う. _「大槻玄沢」の項:1811(文化 8)年から幕命によって天文台に出仕し,長男の玄幹と共に……. おおつき けんじ【大槻 憲二】 1891.11. 2(明治24) 〜 1977. 2.23(昭和52) ◇文芸評論家・心理学者。 おおつき げんたく【大槻 玄沢】《おほつき げんたく》 1757(宝暦 7) 〜 1827(文政10. 3.30) ◇江戸後期の蘭方医。本名は茂質(シゲタカ)、字は子煥、別号は磐水。大槻玄梁の子、大槻玄幹(ゲンカン)・大槻磐渓(バンケイ)の父、大槻如電(ジョデン)・大槻文彦の祖父。陸奥国一ノ関生れ。 _12歳で一ノ関藩医建部清庵に医術を学ぶ。1778(安永 7)22歳で江戸に出て杉田玄白にオランダ医学を修め、のち前野良沢に蘭学を学ぶ。さらに1785(天明 5)長崎にも遊学。 _1786(天明 6)江戸詰めの仙台侯侍医となり、京橋に家塾芝蘭堂(シランドウ)を開く。1811(文化 8)幕命により長男玄軒とともに天文台に出仕し、蕃書和解に従う。仙台藩の番頭次席となり300石加増。1822(文政 5)幕府から長年の蕃書和解の功により5人扶持を給付。 _著書は1783(天明 3)『蘭学階梯』・1826(文政 9)『重訂解体新書』など。 ◎号の玄沢は師の杉田玄白・前野良沢から各1字を戴いたもの。 おおつき しゅんさい【大槻 俊斎】 1806(文化 3) 〜 1862(文久 2. 4. 9) ◇江戸幕末の蘭方医。名は肇、字は仲敏、号は弘淵。 _仙台藩を出奔、江戸で足立長雋(チョウシュン)に医学を学ぶ。 _長崎の高島秋帆から痘種を得て、1841(天保12)江戸で最初の接種に成功。 _1857(安政 4)江戸に伊東玄朴(ゲンボク)・戸塚静海・箕作院甫ら江戸の医師80余名と協力し、神田お玉ヶ池に種痘館を開く。1860年、種痘館が幕府から公認され種痘所と改称し頭取、翌年さらに西洋医学所と改称後も幕府から頭取に任命。 (*)1860(安政 7,万延元)。 おおつき じょでん【大槻 如電】 1845(弘化 2. 8.17) 〜 1931. 1.12(昭和 6) ◇明治期の蘭学者・考証家。本名は清修、通称は修二。大槻玄沢の孫、大槻磐渓(バンケイ)の子、大槻文彦の兄。 _雅楽・俗曲など日本音楽にも精通。 (6)大槻 如電(おおつき じょでん)。 (8)大槻 如電(おおつき にょでん)。 おおつき ずいきょう【大槻 瑞卿】 ⇒大槻西磐 おおつき せいばん【大槻 西磐】 1818 〜 1857(安政 4) ◇江戸幕末の儒学者。名は清禎または禎、字は瑞卿、通称は恒輔、号は西磐。大槻清臣の次男。仙台生れ。 _江戸神田小川町に塾を開く。 (*)1818(文化15,文政元)。 おおつき たかより【大槻 隆仗】 1883. 5. 6(明治16) 〜 没年不詳 ◇評論家・小説家。別号は隆・乗山高陽。 おおつき でんぞう【大槻 伝蔵】 1703(元禄16) 〜 1748(寛延元. 9.12) ◇江戸中期の加賀藩家臣。名は朝元、通称は伝蔵のち内蔵允。禄250石大槻七左衛門の3男、叔父大槻長兵衛の養子。祖父は鉄砲足軽。 _1716年、15歳で藩主前田綱紀の世子吉徳(ヨシノリ)に仕え寵愛を受ける。1723(享保 8)吉徳が藩主となり軽輩から急激に累進、1743(寛保 3)3千8百石。吉徳の信任をたのみ権勢をふるい家老前田直躬らの保守派から反感を買う。さらに家督問題が錯綜(サクソウ)。 _1745(延享 2)吉徳が急死し、直躬らは伝蔵と吉徳の妾真如院(お貞)らが真如院の子を嗣君として主家の横領企てたと訴える。宗辰が襲封し、伝蔵は蟄居(チッキョ)を命ぜられ、さらに藩主毒殺の嫌疑により越中五箇山の獄に入れられ自殺。真如院は密殺され、伝蔵関係者はすべて断罪される(加賀騒動)。 (2)生年は1703(元禄16)。 (6)生年は1702。 (16)生年は1703(元禄16)。 (*)1716(正徳 6,享保元) おおつき ばんけい【大槻 磐渓】《おほつき ばんけい》 1801(享和元. 5.15)。 〜 1878. 6.13(明治11) ◇江戸幕末の漢学者。本名は清崇(キヨタカ)、字は士広、通称は平次、号は磐渓。大槻玄沢の次男、大槻玄幹(ゲンカン)の弟。大槻如電・大槻文彦の父。仙台藩の侍講。 _はじめ昌平黌に学び、1827(文政10)長崎奉行近習となり長崎に遊学。のち江戸詰めの仙台藩学問稽古人。西洋諸国が渡来するので、大塚瑪蜂に師事し西洋砲術を究める。江川塾の学頭。親露排英の開港論を主張。1862(文久 2)仙台に移り養賢堂の学頭。 _1868年、奥羽列藩同盟を支持、文書の起草に当り、のち投獄。 (*)1868(慶応 4,明治元)。 おおつき ばんすい【大槻 磐水】 ⇒大槻玄沢 おおつき ふみひこ【大槻 文彦】《おほつき ふみひこ》 1847(弘化 4.11.15) 〜 1928. 2.17(昭和 3) ◇明治・大正期の国語学者。前名は清復(キヨマタ)、通称は復三郎(フクサブロウ)のち文彦、号は復軒・仮名の舎。大槻玄沢の孫、大槻磐渓の次男、大槻如電の弟。江戸生れ。 _開成校(のち大学南校)・仙台の藩校養賢堂などに学び、横浜で数学・英語を修める。1872(明治 5)文部省に出仕。1873(明治 6)宮城県師範学校長。第一高等学校教諭・宮城県立中学校長・東京高等師範学校講師。 _1875(明治 8)文部省から日本辞書の編纂を命ぜられ、ウェブスター簡約版を模範に、1891(明治24)『言海』(後増補して『大言海』)を刊行。 _1883(明治16)「かなのくわい」を作る。1897(明治30)『広日本文典』を刊行。1900(明治33)国語調査委員会委員。1912年、帝国学士院会員。 (2)洋学者大槻磐渓の次男。 (4)磐渓の第三子。 (16)大槻磐渓の2男. (*)1912(明治45,大正元)。 おおつのおうじ【大津 皇子】《おほつくわうじ》 ⇒大津皇子 おおつのみこ【大津 皇子】 663[天智 2] 〜 686(朱鳥元.10. 3) ◇大和時代の歌人・漢詩人。天武天皇の第3子、母は持統天皇の姉大田皇女(ヒメミコ)。高市皇子(タケチノミコ)・草壁皇子(クサカベノミコ)の異母弟、忍壁皇子(オサカベノミコ)の異母兄。大伯皇女(オオクノヒメミコ)(大来皇女)の同母弟、粟津王の父。「おおつのおうじ(大津皇子)」とも呼ぶ。 _ 672[弘文元. 6.]9歳の壬申(ジンシン)の乱のとき、大津京を脱出し、伊勢国鈴鹿関で父大海皇子(天武天皇)に合流。 _ 673[天武元]姉の大伯皇女、伊勢の斎王となる。 _ 683[天武11]太政大臣。 685[天武13]浄大弐。 _皇太子の草壁皇子(クサカゲノオウジ)(皇后のちの持統天皇の子)とともに皇位継承の有力な候補者であり、 686(朱鳥元. 9. 9)天武の崩御直後にたくまれた謀反の廉(カド)で死を賜り、訳語田舎(オサダノイエ)(自邸)で刑死。妃の山辺(ヤマノヘ)皇女も殉死。葛城の二上山(フタガミヤマ)に葬られる。 _辞世の句は「ももづたふ磐余(イハレ)の池に鳴く鴨(カモ)を/今日のみ見てや雲隠りなむ」。 ◆二上山の頂上にある現在の大津皇子の墓は1876(明治 9)に治定されたもの。 おおつぼ すなお【大坪 砂男】 1904. 2. 2(明治37)  ???? 〜 1965. 1.12(昭和40) ◇小説家。本名は和田六郎。東京薬科専門学校卒業。警視庁鑑識課勤務。 (5)誕生日は 2. 1。 (8)誕生日は 2. 1。 おおつぼ そうじろう【大坪 草二郎】 1900. 2.11(明治33) 〜 1954.11.25(昭和29) ◇歌人・小説家。本名は竹下市助。 おおて たくじ【大手 拓次】 1887.11. 3(明治20) 〜 1934. 4.18(昭和 9) ◇詩人。本名は吉川惣一郎。群馬県碓氷(ウスイ)郡磯部の旅館宝来館の次男に生れる。脳病を煩う。1912(明治45)早稲田大学英文科卒業。独身。茅ヶ崎南湖院で病没。 (1)誕生日は11. 3。 (3)誕生日は12. 3、筆名は吉川惣一郎。 (5)誕生日は12. 3、初期の筆名は吉川惣一郎(ソウイチロウ)。 (8)誕生日は11. 3、戸籍上は12. 3。 (11)誕生日は12. 3、初期の筆名は吉川惣一郎。 (13)誕生日は10. 3、初期の筆名に吉川惣一郎を用いた。 おおとも さだとし【大友 貞載】 生年不詳 〜 1336 ◇鎌倉後期・南北朝時代の武将。大友貞宗の子。 (*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。 おおとも さだむね【大友 貞宗】 生年不詳 〜 1336 ◇鎌倉後期・南北朝時代の武将。大友親時の子、大友貞載(サダトシ)の父。 (*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。 おおとも そうりん【大友 宗麟】 1530(享禄 3) 〜 1587(天正15. 5.23) ◇戦国時代のキリシタン大名。幼名は塩法師丸、名は義鎮(ヨシシゲ)、号は休庵宗麟・府蘭・宗滴、教名はフランシスコ(Fran-cisco)。大友義鑑(ヨシアキ)の長男、母は大内義隆の姉。大内義長(ヨシナガ)の兄。大友義統(ヨシムネ)(吉統)の父。 _側室の子塩市丸と家督を争い、1550(天文19)殺された父義鑑の家督を継ぎ、正四位下左衛門督。1552(天文21)周防の毛利氏に一時門司城を奪われる。1559(永禄 2)肥前の竜造寺隆信と争う。1562(永禄 5)剃髪し休庵宗麟と号する。1564(永禄 7)筑後に攻め入り、翌年平定。1569(永禄12)再び隆信と争い、翌年佐賀城を攻める。1568(永禄11)毛利氏に内応した立花鑑載を滅ぼす。1571(元亀 2)足利義昭の調停で毛利氏と和睦。 _1578(天正 6)キリシタンに帰依して、豊後の府内(大分県)を対外文化の中心となる。同年、島津義久と日向耳川に戦い大敗。1579(天正 7)家督を嫡子義統に譲り、臼杵に隠居。 _1582(天正10)大村純忠(スミタダ)・有馬春信とともに天正遣欧使節を派遣。 _1586(天正14)島津義久が来攻すると、自ら大坂に上り豊臣秀吉に救援を請う。秀吉は長宗我部元親・仙石秀久を向わせるがともに敗れ府内が奪われる。 _豊後国海部郡津久見で没する。 おおとも ちかよ【大友 親世】 生年不詳 〜 1418(応永25) ◇室町前期の武将。大友氏時の次男。 おおとも よしあき【大友 義鑑】 1502(文亀 2) 〜 1550(天文19. 2.13) ◇室町後期・戦国時代の大名。初名は親安のち親敦、さらに足利義晴の諱字を受けて義鑑。大友義右の子、大友宗麟(ソウリン)(義鎮)の父。 _祖父政親・父義右を滅ぼした叔父親治を1524(大永 4)討滅する。大友義隆・肥前国の少弐資元と争い、1536(天文 5)資元が滅亡し、1538(天文 7)義隆と和睦。1543(天文12)鎮西探題となる。 _長男義鎮(ヨシシゲ)(塩法師丸)と側室の子塩市丸との家督争いで、義鑑は側室・塩市丸と就寝中に義鎮擁立派に襲われ重傷を負い、間もなく死去(大友二階崩れ)。 (2)大友義長の子。 (16)義右の子. _'50(天文9)年嫡子塩法師丸……:年号の誤。 おおとも よししげ【大友 義鎮】 ⇒大友宗麟 おおとも よしむね【大友 吉統】 1558 〜 1605(慶長10) ◇安土桃山時代の武将。幼名は長寿丸、初名は義統(ヨシムネ)、教名はコンスタンチノ(Constantino)。大友宗麟(ソウリン)の子。 (*)1558(弘治 4,永禄元)。 おおとものおうじ【大友 皇子】 ⇒大友皇子 おおとものかなむら【大伴 金村】《おほとものかなむら》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇5世紀末〜6世紀中頃(大和朝廷時代)の武将。大伴談(カタリ)の子、大伴室屋(ムロヤ)の孫。 _第24代仁賢天皇の死後、皇太子(武烈天皇)と対立した大臣平群真鳥(ヘグリノマトリ)・鮪(シビ)父子を討ち、第25代武烈天皇を擁立、大連(オオムラジ)となり権勢をふるう。 _武烈天皇の死後、天皇に皇子がなかったので応神天皇5世の孫大迹王(オオトノオオキミ)を越後から第26代継体天皇に迎える。さらに第27代安閑・第28代宣化・第29代欽明天皇に仕える。 _欽明天皇の時、朝鮮半島の任那の経営に失敗し物部尾輿(オコシ)の弾劾で失脚。病気と称して出仕せず住吉に隠退。 (2) 540(欽明 1)難波宮において物部尾輿(モノノベノオコシ)から政治責任を指摘され……。 (16)金村は大連物部尾輿に弾劾され, 539(欽明 2)年病気と称して住吉に退いて……. (*)欽明天皇の即位は 539(己未.12. 5)。 おおとものくろぬし【大伴 黒主(大友 黒主)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前期の歌人。近江国大友郷の人。六歌仙の一人。 おおとものさかうえのいらつめ【大伴 坂上郎女】 ⇒大伴坂上郎女 おおとものさかのうえのいらつめ【大伴 坂上郎女】《おほとものさかのうへのいらつめ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿禰安麻呂、母は石川命婦(ミョウブ)。大伴旅人(タビト)の異母妹、大伴稲公(イナギミ)の兄弟。大伴家持(ヤカモチ)に嫁した坂上大嬢(オオイラツメ)の母。 _穂積皇子に嫁し、皇子が 715年早逝。その後、藤原麻呂に、さらに大伴宿奈麻呂(スクナマロ)に嫁し、坂上大嬢と坂上二嬢を生む。 _生年は 695〜 701(持統天皇 9〜文武天皇 4)ころ、没年は 750(天平勝宝 2)ころ。 おおとものさかのうえのおおいらつめ【大伴 坂上大嬢】《おほとものさかのうへのおほいらつめ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿奈麻呂(スクナマロ)、母は大伴坂上郎女(イラツメ)。大伴家持の妻、大伴田村大嬢(タムラノオオイラツメ)の異母姉。 おおとものさかのえのいらつめ【大伴 坂上郎女】 ⇒大伴坂上郎女 おおとものたびと【大伴 旅人】 665[天智 4] 〜 731(天平 3. 7.25) ◇奈良前期の武将・歌人。大伴安麻呂の第一子。大伴坂上郎女の異母兄、大伴田村大嬢(タムラノオオイラツメ)の兄。大伴家持(ヤカモチ)の父。 _大宰帥として筑紫に赴任中、山上憶良や僧満誓と交遊。大納言として帰京し翌年没する。 おおとものたむらのおおいらつめ【大伴 田村大嬢】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良時代の女流歌人。父は大伴宿奈麻呂(スクナマロ)、大伴坂上大嬢(サカノウエノオオイラツメ)の異母妹。 おおとものみこ【大友 皇子】 648(大化 4) 〜 672[弘文元] ◇第39代弘文天皇。名は伊賀皇子とも。第38代天智天皇の第1皇子、母は伊賀采女宅子娘(ヤカコノイラツメ)。室は天武天皇の皇女十市皇女(トオチノヒメミコ)、葛野王(カドノオオキミ)の父。 _天智天皇と皇太弟大海人皇子(オオアマノミコ)(第40代天武天皇)との不和により、 671[天智10. 1.]太政大臣、皇儲(コウチョ)(天皇の跡継ぎ)となる。同年10月、天智天皇は大海人皇子に後事を託そうとするが、大海人皇子は拒否して吉野に隠遁。同年11月、天智天皇が崩御(死去)。 _翌年6月、壬申(ジンシン)の乱が勃発。同年7月、大海人皇子に瀬田川の対陣(滋賀県栗太郡瀬田町)で敗れ、山前(ヤマサキ)(京都府乙訓郡山崎町)で自殺。 ◎『日本書紀』に大友皇子が即位した記録はないが、明治政府は『大日本史』・『水鏡』などを参考に1870(明治 3)第39代天皇と認定し弘文天皇と追諡、皇居は近江国滋賀の大津宮とする。 おおとものむろや【大伴 室屋】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇5世紀後半〜6世紀前半(大和朝廷時代)の豪族・大連。大伴武以の子、大伴談(カタリ)の父、大伴金村(カナムラ)の祖父。 _允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の7代に仕える。 (2)道臣命7世の孫という。 (16)道臣命8世の孫. おおとものやかもち【大伴 家持】 生年不詳 〜 785(延暦 4. 8.28) ◇奈良後期の歌人。大伴旅人(タビト)の子、大伴坂上郎女(イラツメ)の甥。三十六歌仙の一人。 _ 746(天平18)越中守として赴任、 751(天平勝宝 3)少納言として帰京。 783(延暦 2)中納言。 _『万葉集』の編集者と目される。生年は 718(養老 2)・ 716(霊亀 2)などの説がある。 おおとものやすまろ【大伴 安麻呂】 生年不詳 〜 714(和銅 7) ◇飛鳥・奈良初期の武人。大伴長徳の第6子、大伴旅人(タビト)の父。 おおとり けいすけ【大鳥 圭介】《おほとり けいすけ》 1833(天保 4. 2.25) 〜 1911. 6.15(明治44) ◇江戸末期・明治期の政治家・外交官。名は純彰、号は如楓。播磨国赤穂郡の医師小林直輔の子。 _14歳で備前の閑谷黌で漢学を学び、帰郷後町医中島意庵に蘭学を学ぶ。1852(嘉永 5)大坂に出て緒方洪庵の適々斎塾で医学を学ぶ。江戸に出て坪井忠益塾に入る。1857(安政 4)江川英竜の太郎左衛門塾で兵学・砲術を学ぶ。また中浜万次郎に英語を習う。 _1866(慶応 2)幕臣となり、開成所洋学教授・歩兵差図役頭取。戊辰戦争では榎本武揚に従い箱館に拠り敗れて入獄。 _1872(明治 5)出獄し、明治政府に出仕。開拓使御用掛・大蔵小丞・陸軍省四等出仕・工部省四等出仕。1875(明治 8)工部権頭・工学頭・1877(明治10)工部大書記官、1882(明治15)工部大学学長・学習院長を兼任、華族女学校長。 _1889(明治22)清国駐箚(チュウサツ)特命全権公使、1893(明治26)韓国駐箚公使を兼任。1894(明治27)東学党の乱(甲午農民戦争)に際し、韓国王に清国兵撤退・内政改革の実行を迫るなど外交工作を画策し日清戦争の端を作る。 _のち枢密顧問官・男爵。 おおとり せっそう【鴻 雪爪】 1814(文化11. 1. 1) 〜 1904. 6.18(明治37) ◇御嶽教第2管長。備後国因島(インノシマ)生れ。 _越前の孝顕寺住職・彦根清涼寺の第26世住職、鉄面清拙和尚と号する。 _1871(明治 4)還俗し神道家となる。1885(明治18)より御嶽教第2管長。 おおにし じょうげん【大西 浄元】 1689(元禄 2) 〜 1762(宝暦12) ◇江戸中期の釜師。幼名は清吉、通称は清右衛門、諱は重義、俗に「古浄元」と呼ばれる。第4代浄頓の子。 _京都大西家第6代を継ぎ、京都三条釜座に住む。千家出入りの釜師となる。 おおにし じょうせい【大西 浄清】 1603(慶長 8) 〜 1682(天和 2) ◇江戸前期の釜師。京都大西家の第2代。名は村長、通称は五郎左衛門。江戸大西家の大西定林(テイリン)の父。 _京都三条釜座に住み、武将・茶人古田織部(オリベ)に従い江戸に下る。のちたびたび定林と江戸に下る。作風は江戸の影響を受ける。 (2)生年は1603(慶長 8)。 _初代浄林の一族(一説に弟)。 (6)生年は1602。89歳死去説もある。 (16)生年は1603(慶長 8)。 おおにし じょうりん【大西 浄林】 1590(天正18) 〜 1663(寛文 3) ◇江戸初期の釜師。京都大西家の初代。通称は仁兵衛。山城国広瀬村の出。京都三条釜座に移住。 おおにし ていりん【大西 定林】 生年不詳 〜 1727(享保12) ◇江戸中期の釜師。江戸大西家の初代。名は延貞、通称は五郎左衛門。京都大西家の大西浄清(ジョウセイ)の子。 _京都より江戸に出て定住。 おおにし はじめ【大西 祝】《おほにし はじめ》 1864(元治元. 8. 7) 〜 1900.11. 2(明治33) ◇明治後期の哲学者。号は操山(ソウザン)。岡山生れ。岡山藩士の子。木全家に生れ大西家を継ぐ。 _1884(明治17)同志社神学科を卒業し、東京帝国大学哲学科に再入学、1889(明治22)卒業。 _1891〜1898(明治24〜明治31)東京専門学校(現:早稲田大学)・東京高等師範学校(東京教育大学の前身)の講師。日本プロテスタントの機関誌「六合雑誌(リクゴウザッシ)」を編集。横井時雄・姉崎正治(アネサキ・マサハル)らと丁酉(テイユウ)倫理会を創始。 _1898. 2.(明治31)ヨーロッパに留学、イエナ・ライプチヒの大学に学び、1899. 9.(明治32)病気により帰国。 _内村鑑三不敬事件にはじまるキリスト教排撃に際しては井上哲次郎らを国権主義と鋭く批判。 _36歳で急死。 _著書は『良心起源論』・『西洋哲学史』・『倫理学』など。 (1)没日は11. 2。 (2)1897(明治29)横井時雄・姉崎正治らと丁酉(テイユウ)倫理会をつくる。(*)明治29は1896年で、年号が合わない。 (3)没日は11. 2。 (5)没日は 1.11。 (8)没日は11. 2。 (11)没日は 1.11。 (13)没日の記載なし。 (16)誕生日は 3. 7、没日は11. 3。 おおにし よしのり【大西 克礼】 1888.10. 4(明治21) 〜 1959. 2. 6(昭和34) ◇大正・昭和期の美学者。愛媛県生れ。東京帝国大学卒業。 _1927(昭和 2)東京帝国大学助教授、同年欧州留学。1931(昭和 6)東京帝国大学教授。 おおぬき しょうせん【大貫 晶川】 1887. 2.23(明治20) 〜 1922.11. 2(大正元) ◇詩人・小説家。本名は雪之助。岡本かの子の実兄。 おおぬま ちんざん【大沼 枕山】 1818(文化15. 3.19) 〜 1891.10. 1(明治24) ◇漢詩人。名は厚、字は子寿、通称は捨吉。江戸生れ。明治維新後も髷を切らなかった。 (5)没日は10. 1。 (11)没日は11. 1。 おおの くろべえ【大野 九郎兵衛】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸中期の播磨国赤穂城代家老。禄高650石。籠城討ち死論の中で赤穂開城・浅野大学によるお家再興を主張、大石良雄と対立し逃亡。 _『仮名手本忠臣蔵』では「斧九太夫(オノ・キュウダユウ)」。