おおの しずかた【大野 静方】 1882. 1.25(明治15) 〜 1944. 9.14(昭和19) ◇日本画家。本名は兵三郎。父は浅草花屋敷の創設者山本金蔵。山本笑月(ショウゲツ)・長谷川如是閑(ニョゼカン)の実弟。 おおの しゃちく【大野 洒竹】 1872(明治 5.11.19) 〜 1913.10.12(大正 2) ◇俳人・俳諧研究家。本名は豊太。熊本県玉名郡彌富村生れ。東京帝国大学医学部を卒業し、京橋で医院を開業。 (5)誕生日は11.19。 (13)誕生日は 5. 6。 おおの のぶお【大野 誠夫】 1914. 3.25(大正 3) 〜 1984. 2. 7(昭和59) ◇歌人。茨城県生れ。竜ヶ崎(リュウガサキ)中学校卒業。 おおの はるなが【大野 治長】《おほの はるなが》 生年不詳 〜 1615(慶長20. 5. 8) ◇安土桃山・江戸前期の武将。通称は修理亮。母は大蔵卿局(オオクラキョウノツボネ)で淀君の乳母。淀君とは乳兄妹。 _母が淀君(秀吉の側室)の侍女という関係から豊臣秀吉に仕える。 _1599(慶長 4)豊臣秀頼に仕え、秋に徳川家康暗殺計画の容疑で下野国に流される。1600(慶長 5)関ヶ原の戦では徳川方の東軍に属したが、その後再び秀頼に仕える。 _1614(慶長19)大坂冬の陣では主戦派。1615(慶長20,元和元)大坂城陥落で、淀君や母などと秀頼に殉ずる。 おおの ばんぼく【大野 伴睦】 1890(明治23) 〜 1964(昭和39) ◇昭和期の政治家。岐阜県生まれ。 _1946(昭和21)河野一郎が公職追放にされて自由党幹事長に就任。 ◎益谷秀次・林譲治とともに「吉田茂の御三家」と呼ばれた。 おおの りんか【大野 林火】《おほの りんくわ》 1904. 3.25(明治37) 〜 1982. 8.21(昭和57) ◇俳人。本名は正(マサシ)。本名は正(マサシ)。神奈川県横浜市生れ。 _東京大学経済学部卒業。 _1946(昭和21)句誌「浜」を創刊・主宰。 _1969(昭和44)蛇笏賞を受賞。 _作品は句集1939(昭和14)『海門』・『冬雁(フユカリ)』・『白幡南町』・『潺潺集(センセンシュウ)』、評論『現代の秀句』・『高浜虚子』・『戦後秀句』など。 おおのやすまろ【太 安万侶(太 安麻呂)】《おほのやすまろ》 生年不詳 〜 723(養老 7. 7. 7) ◇奈良初期の学者。多品治(オオノホムジ)の子と伝えられる。文武・元明・元正の3朝に歴仕。 _ 704年、従五位下。 711(和銅 4)4月、正五位上。元明天皇の詔により同年9月、舎人(トネリ)稗田阿礼(ヒエダノアレ)の誦習(ショウシュウ)した旧辞を筆録し、『古事記』3巻を撰進、翌年奏上。また舎人親王の『日本書紀』の編修にも与(アズカ)る。 715年、従四位下。 716(霊亀 2)氏長、民部卿。 (*) 704(大宝 4,慶雲元)、 715(和銅 8,霊亀元)。 おおば かげあき【大庭 景明】 1719(享保 4) 〜 1785(天明 5) ◇江戸中期の暦算家。 おおば かげちか【大庭 景親】《おほば かげちか》 生年不詳 〜 1180(治承 4.10.26) ◇鎌倉初期の武将。大庭景義(カゲヨシ)の弟。 _1156年、保元の乱では兄景義とともに源義朝に従う。のち罪を得て斬られるところを平氏に救われる。 _1180(治承 4)源頼朝の挙兵に際し、平氏に属し頼朝を石橋山に破る。のち捕われ固瀬河辺で梟首。 (*)1156(久寿 3,保元元)。 おおば かげよし【大庭 景義(大庭 景能)】 生年不詳 〜 1210(承元 4) ◇鎌倉前期の武将。大庭景房の子、大庭景親(カゲチカ)の兄。 _1156年、保元の乱では弟景親とともに源義朝に従う。 _1180(治承 4)源頼朝の挙兵に応じ、景親らと戦う。 (*)1156(久寿 3,保元元)。 おおば かこう【大庭 柯公】 1872(明治 5. 7.27) 〜 1924(大正13) ◇明治・大正期の新聞記者・小説家・随筆家。本名は景秋。大庭景明の三男。山口県生れ。 _東京四谷小学校を卒業後、太政官の給仕をしながら夜学校英語を修める。二葉亭四迷らと古川常一郎にロシア語を学ぶ。 _第11師団露語教官。参謀本部通訳官として日露戦争に従軍。1906(明治39)ロシアに入ろうとしてウラジオストクで拘禁。帰国後、大阪毎日新聞の海外特派員。のち東京朝日新聞・読売新聞の特派員。 _1921(大正10)革命後のソビエト探訪に赴いて軍事探偵の嫌疑を受ける。1922(大正11)モスクワで投獄、1924(大正13)春帰国の途中銃殺されたと伝えられる。 おおば しゅんすけ【大場 俊助】 1906. 5.13(明治39) 〜 1970.11.30(昭和45) ◇国文学者。 おおば はくすいろう【大場 白水郎】 1890. 1.19(明治23) 〜 1962.10.10(昭和37) ◇俳人。本名は惣太郎(ソウタロウ)、別号は縷紅亭(ルコウテイ)。東京生れ。府立第三中学校に学ぶ。 おおはし おとわ【大橋 乙羽】《おほはし おとは》 1869(明治 2. 6. 4) 〜 1901. 6. 1(明治34) ◇小説家・紀行文作家・出版業者。本名は又太郎、旧姓は渡部、別号は二橋散史。出羽国(山形県米沢市)生れ。 _硯友社同人。尾崎紅葉の媒酌で博文館の館主大橋佐平の長女と結婚・入婿し、博文館の支配人となる。 _作品は小説『こぼれ松葉』・『露小袖』、紀行文『千山万水』など。 (1)旧姓は渡部。 (3)旧姓は渡部。 (4)旧姓渡辺。 (5)渡辺治兵衛の六男。 (6)旧姓渡部。 (8)渡部治兵衛の六男。 おおはし こうきち【大橋 光吉】 1875(明治 8) 〜 1946(昭和21) ◇大正・昭和前期の印刷業者。大橋新太郎の義弟。兵庫県生れ。 _小学校卒業後、博文館付属の活版印刷工場博進社に勤務。1906(明治39)平版印刷の精美堂を設立。1925(大正14)博文館印刷所と精美堂を合併し、共同印刷を設立。1926(大正15)1〜3月共同印刷争議が発生。1931(昭和 6)日本書籍会社社長。 おおはし さへい【大橋 佐平】 1835(天保 6.12.22) 〜 1901.11. 3(明治34) ◇博文館の創業者。幼名は熊吉、旧姓は渡辺。越後長岡生れ。大橋新太郎の父。 _1881(明治14)『北越新聞』・『越佐毎日新聞』を創刊。1884(明治17)筆禍により下獄。 _1886(明治19)上京し、1887(明治20)博文館を創業。 (2)「北越新聞」「越佐毎日新聞」を創刊。 (6)「大橋新太郎」の項:<北越新聞><越後毎日新聞>を創刊……。 (16)「北越新聞」の前身「越佐新聞」を独力で発刊。 おおはし しんたろう【大橋 新太郎】《おほはし しんたらう》 1863(文久 3. 7.29) 〜 1944. 5. 5(昭和19) ◇明治〜昭和前期の出版業者。博文館創業者大橋佐平の三男。新潟県長岡生れ。 _1886(明治19)父佐平とともに上京。1897(明治30)博文館印刷所(現在の共同印刷)を設立、1901(明治34)佐平没後博文館館主・大橋図書館を設立、1902(明治35)日本書籍株式会社を設立。 _東京商業会議所・大日本麦酒・日本硝子・朝鮮興業・日本郵船・王子製紙・三井信託などにも関係する。 _衆議院議員・貴族院議員。 (2)「大橋佐平」の項:長男大橋新太郎らと……。 (16)1939(昭和14)共同印刷会社(社長は義弟光吉)が創設されると……:(*)共同印刷の設立は1925(大正14)。 [1]おおはし そうけい【大橋 宗桂(初世)】 1555 〜 1634(寛永11) ◇江戸初期の将棋家元、大橋本家の祖。初名は宗金のち宗慶。2世宗古の父。 _織田信長に仕え、その死後徳川家康に仕える。江戸に下り将軍秀忠の前で本因坊算砂と対局。算砂の後を継ぎ将棋所を司り、50人5人扶持。 (*)1555(天文24,弘治元)。 [2]おおはし そうけい【大橋 宗桂(5世)】 1636(寛永13) 〜 1713(正徳 3) ◇江戸中期の将棋家元。 [3]おおはし そうけい【大橋 宗桂(9世)】 1744 〜 1799(寛政11) ◇江戸後期の将棋家元。 (*)1744(寛保 4,延享元)。 おおはし たけお【大橋 武夫】 1904(明治37) 〜 1981(昭和56) ◇昭和後期の政治家。浜口雄幸の娘婿。 おおはし とつあん【大橋 訥庵】《おほはし とつあん》 1816(文化13) 〜 1862(文久 2) ◇江戸幕末の朱子学者・攘夷思想家。名は正順、字は周道。江戸の人。 _日本橋の豪商大橋淡雅の養子となる。佐藤一斎に学び、思誠塾を開く。 _和宮の降嫁など公武合体を推進する老中安藤信正を、1861(万延 2. 1.15)襲撃し負傷させた江戸城坂下門外の変を画策し投獄され、獄死。 おおはし まつへい【大橋 松平】 1893. 9. 5(明治26) 〜 1952. 4.28(昭和27) ◇歌人。旧姓は岩崎。大分県日田生れ。 おおはし らぼく【大橋 裸木】 1890. 8. 9(明治23) 〜 1933. 8. 8(昭和 8) ◇俳人。名は鎮。 おおばのかげちか【大庭 景親】 ⇒大庭景親 おおばのかげよし【大庭 景義】 ⇒大庭景義 おおはら きじゅう【大原 其戎】 1811(文化 8) 〜 1889(明治22) ◇俳人。 おおはら しげとみ【大原 重徳】《おほはら しげとみ》 1801 〜 1879(明治12) ◇江戸幕末・明治維新期の公卿。大原三位。大原重成の子。 _1858(安政 5)日米修好通商条約に反対し安政の大獄に連座。大政復古で参与となる。 (*)1801(寛政13,享和元)。 おおはら まごさぶろう【大原 孫三郎】《おほはら まごさぶらう》 1880(明治13) 〜 1943(昭和18) ◇紡績実業家・社会事業家。大原孝四郎の子。岡山県倉敷の人。東京専門学校(早稲田大学の前身)卒業。 _父が創業した倉敷紡績を1906(明治39)引き継ぐ。中国銀行頭取・京阪電鉄重役などを兼任。 _1914(大正 3)大原農業研究所・1919(大正 8)大原社会問題研究所・倉敷労働科学研究所・1930(昭和 5)大原美術館などを設立。 おおはら ゆうがく【大原 幽学】《おほはら いうがく》 1797(寛政 9) 〜 1858(安政 5) ◇江戸後期の教育家・社会運動家。 _下総(シモウサ)香取郡長部村に性理教会を設立。農村救済のため祖先株組合(協同組合の先駆)を組織、耕地整理を指導。 _幕府の弾圧を受け、自刃。 おおひら まさよし【大平 正芳】 1910(明治43) 〜 1980. 6.12(昭和55) ◇官僚・戦後の政治家・首相。香川県生れ。 _1929(昭和 4)キリスト教の洗礼を受ける。1936(昭和11)東京商科大学(一橋大)卒業、大蔵省に入る。1951(昭和26)池田勇人蔵相の秘書官。 _1952(昭和27)衆議院議員に初当選。1960. 7.(昭和35)第1次池田内閣のB官房長官。1960.12.(昭和35)第2次池田内閣の官房長官・外相。1963(昭和38)第3次池田内閣の外相。1967(昭和42)自民党政務調査会長。1968(昭和43)第2次佐藤栄作内閣の通産相。1971(昭和46)宏池会(旧池田派)会長。1972(昭和47)第1次田中角栄内閣の外相。1974(昭和49)第2次田中内閣の外相・蔵相。1974(昭和49)三木武夫内閣の蔵相。1976(昭和51)自民党幹事長。 _第1次組閣、1978.12. 7(昭和53)〜1979.11. 9(昭和54)、派閥抗争により総辞職。第2次組閣、1979.11. 9(昭和54)〜1980. 7.17(昭和55)、急死により総辞職。 ◎はっきり表現しない口癖「アー、ウー」が有名。 おおまえだ えいごろう【大前田 英五郎】 1793(寛政 5) 〜 1874. 2.26(明治 7) ◇江戸幕末・明治維新期の博徒。本姓は田島。上野国(群馬県)勢多郡宮城村大字大前田の名主で博徒の久五郎の子に生れる。 _身の丈6尺の大男であった。博徒となって関東一円と東海地方にまで縄張りをもつ大親分となる。 _人を殺し諸国を流転、捕われて佐渡に流される。のち舟で脱出して郷里に帰り、郷里に近い大胡で一時目明しを勤める。 _風邪をこじらせて大前田で死亡。 ◎伝説的な話が多い。国定忠治は弟分。 おおまち けいげつ【大町 桂月】 1969(明治 2. 1.24) 〜 1925. 6.10(大正14) ◇詩人・随筆家・評論家。本名は芳衛(ヨシエ)。土佐高知市生れ。大町文衛(フミエ)の父。 _独逸協会学校・第一高等学校を経て、1893(明治26)東京帝国大学国文科入学、1896(明治29)卒業。 おおまち とくぞう【大間知 篤三】 1900. 4. 9(明治33) 〜 1970. 2.26(昭和45) ◇民俗学者。 おおまち ふみえ【大町 文衛】 1898. 1.25(明治31) 〜 1973. 1.11(昭和48) ◇農学者・随筆家。大町桂月(ケイゲツ)の次男。 おおむら かよこ【大村 嘉代子】 1884. 5.24(明治17) 〜 1953. 5. 3(昭和28) ◇劇作家。 おおむら ごろう【大村 呉楼】 1895. 7. 1(明治28) 〜 1968. 8. 1(昭和43) ◇歌人。 おおむら すみただ【大村 純忠】《おほむら すみただ》 1533(天文 2) 〜 1587(天正15) ◇戦国末期の肥前大村の領主、日本最初のキリシタン大名。教名はバルトロメオ。松浦マンシャの父。 _松浦氏の平戸に対抗し、1571(元亀 2)ポルトガル船のため長崎を開港、南蛮貿易の中心とする。 _1582(天正10)有馬晴信・大友宗麟(ソウリン)とともに天正遣欧使節を派遣。 (?)松浦(マツラ)マンシャの父。 おおむら せいがい【大村 西崖】 1868(明治元.10.12) 〜 1927. 3. 8(昭和 2) ◇美術史家。本名は塩沢峰吉、別号は無記菴。静岡県生れ。東京美術学校彫刻科卒業。 _東洋美術史専攻に転じ母校の教授となる。審美書院を設立。 おおむら ますじろう【大村 益次郎】《おほむら ますじらう》 1824(文政 7. 3.10) 〜 1869(明治 2.11. 5) ◇江戸幕末の兵学者・明治軍制の創設者。幼名は惣太郎のち亮庵・良庵、旧名は村田蔵六(ゾウロク)また藤原永敏と称する。1865年大村益次郎と改称。周防国吉敷(ヨシキ)郡鋳銭司(スゼンジ)村字大村生れ。長州藩の医者村田孝益の子。 _1842(天保13)防府の蘭医梅田幽斎に学び、1843(天保14)豊後の広瀬淡窓(タンソウ)に漢学を学ぶ。1846(弘化 3)大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学・医学を、さらに長崎で蘭学を学び、ふたたび適塾に戻り塾長をつとめる。1850(嘉永 3)郷里で医業を開くが振わず、1853(嘉永 6)宇和島藩主伊達宗城に招かれ雇士となって軍制整備・軍艦建造などを指導。 _1856(安政 3)宇和島藩士として江戸に出て、私塾鳩居堂を開き教授する。幕府の蕃書調所教授手伝・講武所教授。桂小五郎(木戸孝允)の推薦により1860年、長州藩に迎えられ、士雇・馬廻士・手廻組・博習堂用掛などを経て藩校明倫館兵学寮教授。1866(慶応 2)第二次長州征伐では石州口の戦で藩兵を指揮し軍功をたてる。 _ついで新政府に入り、戊辰戦争では軍務官・江戸府判事・鎮台府民政会計掛のち軍務官副知事。 _1868(慶応 4. 5.15)江戸城富士見櫓から官軍を指揮し、上野の山に立て籠った彰義隊を半日で壊滅させる。 _1869(明治 2)兵部大輔(七月〜九月在任)。近代兵制の樹立を企てフランス式軍制を採用。世襲士族軍隊を廃し農兵徴募を主張したため、反対派士族(旧長州藩士)に出張中の京都木屋町の宿舎を襲撃され重傷を負い、2ヶ月後に死去。 ◎靖国神社の参道中央に大熊氏広製作の銅像がある。 (16)没日は11.15。 (*)1860(安政 7,万延元)、1865(元治 2,慶応元)。[図:大村益次郎]大村益次郎(1998年3月29日撮影) 千代田区九段の靖国神社 おおもり ちせつ【大森 痴雪】 1877.12.13(明治10) 〜 1936. 5.26(昭和11) ◇劇作家。本名は鶴雄。 おおもり とうめい【大森 桐明】 1899. 3. 3(明治32) 〜 1941. 2.22(昭和16) ◇俳人。本名は留郎。 おおもり ひこしち【大森 彦七】《おほもり ひこしち》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇足利尊氏の臣・伊豫国砥部庄千里城の城主。名は盛長。伊予の人。 _1336年、湊川(ミナトガワ)の戦に細川定禅に従って宮方の名将楠木正成(クスノキ・マサシゲ)を破り敗死させ、尊氏に賞せられた。 (*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。 ◎『太平記』に鬼形の正成に悩まされた逸話があり、浄瑠璃・謡曲・歌舞伎などに脚色。明治時代、福地桜痴の史劇『大森彦七』が新歌舞伎十八番の1つとして上演。 おおもり ふさきち【大森 房吉】《おほもり ふさきち》 1868 〜 1923(大正12) ◇明治・大正期の地震学者。福井市生れ。 _1890(明治23)東京大学卒業。イタリア・ドイツに留学、理科大学教授。1897(明治30)東京大学教授。 _大森公式の算出、1901(明治34)地震計の発明、地震帯の研究など。 (*)1868(慶応 4,明治元)。 おおもり みんぽ【大森 眠歩】 1899. 3.27(明治32) 〜 没年不詳 ◇劇作家。 おおもり よしたろう【大森 義太郎】《おほもり よしたらう》 1898. 9.26(明治31) 〜 1940. 7.28(昭和15) ◇経済学者・評論家。東京生れ。東京大学経済学部卒業。 _東京大学助教授。1928(昭和 3)三・一五事件を機に退職。1937(昭和12)第1次人民戦線事件で検挙。 _雑誌「労農」を編集。著書『史的唯物論』など。 (2)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。(生)神奈川県。 (4)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。横浜市生れ。 (5)大森 義太郎(おおもり ぎたろう)。横浜市生れ。 (13)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。 (25)大森 義太郎(おおもり よしたろう)。横浜生れ。 おおや そういち【大宅 壮一】 1900. 9.13(明治33) 〜 1970.11.22(昭和45) ◇評論家。戦後一時筆名は猿取哲(サルトリテツ)。大阪府三島郡富田(トンダ)町生れ。茨木中学校退学、第三高等学校を経て東京大学文学部社会学科中退。 _1929(昭和 4)翻訳工場のような作業分担の「綜合翻訳団」を組織。太平洋戦争中は満洲・ジャワの映画会社に徴用。 _大宅壮一文庫、1971. 3. 1(昭和46)開館。 おおや とおる【大矢 透】《おほや とほる》 1850(嘉永 3) 〜 1928(昭和 3) ◇国語学者。号は蔦廼舎(ツタノヤ)・水斎。越後の人。文部省国語調査委員会委員。 おおやま いくお【大山 郁夫】《おほやま いくを》 1880. 9.20(明治13) 〜 1955.11.30(昭和30) ◇評論家・政治家・社会運動家・政治学者。兵庫県出身。早稲田大学卒業。 _大阪朝日論説委員、1918(大正 7)筆禍事件で退社。早稲田大学教授、1927(昭和 2)労働農民党委員長に就任のため大学より辞職を勧告される(大山事件)。1931(昭和 6)米国へ亡命、1947(昭和22)帰国。参議院議員・日本平和委員会会長。1951(昭和26)スターリン平和賞受賞。 おおやま いわお【大山 巌(大山 巖)】《おほやま いはほ》 1842(天保13) 〜 1916(大正 5) ◇明治の元帥・陸軍大将。旧薩摩藩士。大山捨松(ステマツ)の夫。西郷隆盛・従道のいとこ。 _戊辰戦争では薩摩藩兵の砲隊長。1880(明治13)陸軍卿となり、長州の山県有朋とともに陸軍の勢力を二分する。1885(明治18)伊藤博文内閣以後、六代の内閣の陸相を勤める。日清戦争に第二軍司令官。1898(明治31)元帥。1899(明治32)参謀総長。日露戦争に満州軍総司令官、戦勝の功績で侯爵から公爵に叙せられる。晩年、内大臣。 おおやま すてまつ【大山 捨松】 1860(安政 7. 2.24) 〜 1919. 2.28(大正 8) ◇日本最初の女子留学生。幼名は咲子(サキコ)、捨松は留学のとき母唐衣(トウイ)が待つ思いを捨てる意で改名させた、旧姓は山川。父は会津藩士山川尚江。会津若松生れ。 _1871.12.23(明治 4.11.12)十二歳のとき、欧米視察団岩倉具視の一行に加わり、横浜港を出帆。同行の女子留学生は吉益亮子(ヨシマス・リョウコ)十五歳・上田貞子(テイコ)十五歳・永井繁子九歳・津田梅子八歳の四人。1882.10.(明治15)津田梅子とともに帰国。永井繁子が妻を亡くした大山巌に捨松を紹介し、西郷従道を通して結婚を申し込まれ、1883.11. 8(明治16)結婚。 _1904(明治37)日露戦争では赤十字社篤志看護婦として青山予備病院で活躍。 _実兄山川健次郎は東京帝国大学総長。 おおやま ためおき【大山 為起】 1651(慶安 4) 〜 1713(正徳 3. 3.17) ◇江戸中期の神道家(垂加)。山城国紀伊郡生れ。 _伏見の稲荷神社松本為穀(タメヨシ)の3男。大山正康の養子。のち、正親町実豊(オオギマチ・サネトヨ)の猶子(ユウシ)。 おおやま つなよし【大山 綱良】《おほやま つなよし》 1825(文政 8.11. 6) 〜 1877. 9.30(明治10) ◇明治初期の官僚。旧姓は樺山、通称は格之助。薩摩藩出身。 _尊攘運動に奔走。 _1858(安政 5)安政の大獄に連座して押込(オシコ)めとなる。 _のち赦(ユル)されて薩摩藩主島津久光(ヒサミツ)に仕える。 _1862(文久 2. 4.23)寺田屋事件では有馬新七を斬(キ)る。 _戊辰戦争に従軍し、奥羽鎮撫総督府参謀。 _明治維新後、藩参事を経て初代鹿児島県令。鹿児島県の特殊性を主張し、地租改正や秩禄処分を政府の指示通りに行わなかった。 _西南の役では西郷軍を援助し、のち裁判に付されて斬罪となる。 おおやま ていいち【大山 定一】 1904. 4.30(明治37) 〜 1974. 7. 1(昭和49) ◇ドイツ文学者。 おおやま ひろみつ【大山 広光】 1898. 9. 1(明治31) 〜 1970. 1.10(昭和45) ◇劇作家・演劇評論家・雑誌編集者。 おおわだ たけき【大和田 建樹】《おほわだ たけき》 1857(安政 4. 4.29) 〜 1910.10. 1(明治43) ◇明治時代の国文学者・歌人・詩人。伊予国(愛媛県)宇和島生れ。広島外国語学校卒業。 _独学で国文学を研究。男女高等師範学校教授・東京大学古典科講師。 _『明治唱歌』・『鉄道唱歌』の作詞者。 (2)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没年は1910(明治43)。 (3)大和田 建樹(おおわだ たてき)。 (4)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没年は1910。 (5)大和田 建樹(おおわだ たけき)。没日は1910.10. 1(明治43)。 (6)大和田 建樹(おおわだ たてき)。没年は1910。 (8)大和田 建樹(おおわだ たけき)。 (11)大和田 建樹(おおわだ たてき)。 (13)大和田 建樹(おおわだ たけき)。明治四四年一〇月一日死亡。 (16)大和田 建樹(おおわだ たてき)。没日は1911(明治44.12/1)。 おかやま いわお【岡山 巌】 1894.10.19(明治27) 〜 1969. 6.14(昭和44) ◇歌人・短歌評論家・医師。広島市生れ。第六高等学校を経て東京大学医学部卒業。 おがわ うせん【小川 芋銭】《をがわ うせん》 1868(慶応 4. 2.18) 〜 1938.12.17(昭和13) ◇明治〜昭和初期の日本画家。幼名は不動太郎、本名は茂吉、別号は(草冠+「呂」:補助5608〔_〕)(「冫」偏+「倉」:補助なし)子。江戸赤坂溜池生れ。常陸国牛久藩士小川賢勝の子。 _本多錦吉郎(キンキチロウ)の経営する画塾彰技堂に入り洋画を学び、のち加地為也に師事。 _尾崎行雄の推挙により1888(明治21)「朝野新聞」に漫画を連載。 _1908(明治41)茨城県牛久に隠棲。 _1915(大正 4)平福百穂・川端龍子・森田恒友・山村耕花らと珊瑚会を結成。1917(大正 6)日本美術院同人。 ◎河童の絵が有名。 _1951(昭和26)小川芋銭を記念して牛久町の西南端、牛久沼を望む高台に「カッパの碑」が、横山大観ら同好の人々によって建てられた。 おがわ えいいち【小川 栄一】 1900(明治33) 〜 1978(昭和53) ◇昭和期の実業家。長野県生れ。京都大学卒業。 _1949(昭和24)藤田興業社長・1953(昭和28)東海汽船社長。 おがわ えんそん【小川 煙村】 1877. 9.25(明治10) 〜 没年不詳 ◇小説家・戯曲家。本名は多一郎。小川千甕(センヨウ)の兄。 おがわ かずまさ【小川 一真】 1860(万延元. 8.15) 〜 1929. 9. 7(昭和 4) ◇写真家。 おがわ じへい【小川 治平】 1887(明治20) 〜 1925(大正14) ◇漫画家。埼玉県生れ。北沢楽天の書生をし独学。 おがわ せんよう【小川 千甕】 1882.10. 3(明治15) 〜 1971. 2. 8(昭和46) ◇画家。本名は多三郎。小川煙村(エンソン)の弟。 おがわ たくじ【小川 琢治】《をがわ たくぢ》 1870(明治 3. 5.) 〜 1941.11.15(昭和16) ◇明治〜昭和初期地質学者・地理学者。旧姓は浅井。和歌山県生れ。冶金学者小川芳樹(東大教授)・東洋史学者貝塚茂樹(京大教授)・理論物理学者湯川秀樹(京大教授)・中国文学者小川環樹(東北大教授)の父。 _1896(明治29)東京大学理科地質学科卒業。1897(明治30)地質調査所技師となり、西南日本の地質図の作成に加わる。 _1908(明治41)京都大学教授、1930(昭和 5)停年退官。 ◎地殻変動の要因として深部火成活動を重視。 おがわ たろう【小川 太郎】 1907.11.16(明治40) 〜 1974. 1.31(昭和49) ◇昭和期の教育者。台湾台北市生れ。 _1932(昭和 7)東京大学哲学科卒業。台北第一師範学校・済美女学校・愛媛男子師範学校で教鞭をとる。 _1949(昭和24)愛媛教育研究所長。1952(昭和27)名古屋大学助教授(教育社会学)・1954(昭和29)教授。1960(昭和35)神戸大学教授、1962(昭和37)日本教育学会理事・1964(昭和39)日本教育方法学会理事、1971(昭和46)神戸大学を定年退職。同年日本福祉大学教授・1973(昭和48)学監。 _部落問題研究所理事・全国部落問題研究協議会会長。 おがわ はりつ【小川 破笠】《をがわ はりつ》 1663(寛文 3) 〜 1747(延享 4. 6. 3) ◇江戸中期の漆芸家・蒔絵師・陶工・俳人。名は観、字は尚行、通称は金弥・平助、別号は笠翁・卯観子・夢中庵、俳号は宗羽・宗宇。伊勢の人。 おがわ ひさよし【小川 尚義】 1869(明治 2. 2. 9) 〜 1947.11.20(昭和22) ◇明治〜昭和期の言語学者。愛媛県生れ。 _1896(明治29)帝国大学(東大)博言学科卒業。 _台湾総督府学務課に勤め、高砂族の言語を研究。台北高等学校教授・1930(昭和 5)台北帝国大学講師のち教授。1936(昭和11)学士院恩賜賞を受賞。 おがわ へいきち【小川 平吉】《をがわ へいきち》 1870. 1. 2(明治 2.12. 1) 〜 1942. 2. 5(昭和17) ◇明治〜昭和初期の政治家・弁護士。信濃(長野県)生れ。 _1892(明治25)東京大学仏法科卒業。官僚を嫌い弁護士となる。 _同郷の渡辺国武(クニタケ)との関係から1900(明治33)立憲政友会の創立に参加。1901(明治34)近衛篤麿(コノエ・アツマロ)に従って大アジア主義の東亜同文書院結成に参加。 _1903(明治36)衆議院議員に初当選、政友会を脱党。日露戦争後、講和条約反対運動の1905. 9.(明治38)日比谷焼打事件の主謀者として下獄。 _1910(明治43)政友会に復党、1911(明治44)幹事・1915(大正 4)幹事長・1918(大正 7)相談役・1919(大正 8)総務委員。1920(大正 9)政府の国勢院総裁。 _1925(大正14)加藤高明内閣の司法大臣。1927(昭和 2)田中義一内閣の鉄道大臣、駅名標を右横書きのみにしローマ字を全廃。 _1929(昭和 4)私鉄疑獄・売勲事件に連座し政界を引退。1940(昭和15)恩赦を受ける。 (2)生年は1869(明治 2)。 (4)生年は1869。 (6)生年は1869。 (21)誕生日は1870. 1. 2(明治 2.12. 1)。 おがわ みめい【小川 未明】《をがわ みめい》 1882. 4. 7(明治15) 〜 1961. 5.11(昭和36) ◇大正・昭和期の小説家・童話作家。本名は健作。新潟県中頸城(ナカクビキ)郡高田城下生れ。 _高田中学校中退、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科に進み、大学部英文科に転科、卒業。 _1910(明治43)最初の童話集『赤い船』を出版。1926(大正15)「童話作家宣言」を発表。 _太平洋戦争中は日本少国民文化協会に所属。 _戦後は児童文学者協会の初代会長。1953(昭和28)童話作家としては初めて芸術院会員になる。 ◎父澄晴(スミハル)は神職で、米沢にあって1871(明治 4)に別格官幣社となった上杉神社とは別に、春日山城祉に上杉神社を創建。 (5)誕生日は 4. 7。 (6)号は正しくは「びめい」。 (13)誕生日は 4. 9。 (16)誕生日は 4. 7。 (21)誕生日は 4. 7。 おがわ よしお【小川 芳男】 1908.10.15(明治41) 〜 1990. 7.31(平成 2) ◇英語教育学者。岡山県生れ。1931(昭和 6)東京外国語学校(現:東京外語大学)卒業。 _1955(昭和30)東京外語大学教授・1961〜1969(昭和36〜昭和44)学長。1971〜1977(昭和46〜昭和52)日本国際教育協会理事長。1987(昭和62)神田外語学長。 おき ていすけ【沖 禎介】 1874(明治 7) 〜 1904(明治37) ◇日露戦争のときの軍事探偵。肥前国平戸藩士沖荘蔵の長男。 _熊本済々黌を経て、第五高等学校に入学、1893(明治26)退学して上京。東京専門学校(現:早稲田大学)中退。 _内田良平の黒竜会に入る。 _日露開戦直直後、シベリアに潜入し、横川省三・松崎保一らとチチハル付近で鉄橋破壊を企て、1904. 4.(明治37)ロシア軍に捕われ横川とともにハルピンで銃殺。 おぎ まさひろ【荻 昌弘】 1925. 8.25(大正14) 〜 1988. 7. 2(昭和63) ◇映画評論家。東京生れ。東京大学文学部国文科卒業。 おぎす たかのり【荻須 高徳】 1901.11.30(明治34) 〜 1986.10.14(昭和61) ◇洋画家。愛知県生れ。 _川端画学校で藤島武二の指導を受ける。1922(大正11)東京美術学校(現:東京芸術大学)に入学、1927(昭和 2)卒業とともにフランスに留学。1936(昭和11)サロン・ドートンヌ会員。1956(昭和31)レジオン・ドヌール勲章を受章。パリで没。 おぎす りゅうへい【荻洲 立兵】 1884. 1.24(明治17) 〜 1949.12.22(昭和24) ◇陸軍軍人。愛知県生れ。陸軍大学校卒業。 _スイス・ドイツ駐在を経て、歩兵学校教官・陸軍大学校教官。1929(昭和 4)歩兵第44連隊長・1932(昭和 7)第1師団参謀長・1933(昭和 8)歩兵第9旅団長・1935(昭和10)台湾軍参謀長・1937. 3.(昭和12)3月中将・同年 9.第13師団長となり南京攻略に参加。 _ノモンハン事件勃発後の1939. 8.(昭和14)新編された第6軍司令官となるがソ連軍に完敗し、同年11.司令官を罷免、1940. 1.(昭和15)予備役に編入。 おぎそ きょっこう【小木曾 旭晃】 1882. 1.15(明治15) 〜 1973.10.26(昭和48) ◇新聞・雑誌記者。本名は修二。 おきた そうし【沖田 総司】 1844(天保15) 〜 1868(慶応 4. 5.) ◇江戸幕末の剣士。白河藩(福島県)の江戸麻布霞町の下屋敷生れ。北辰一刀流と天然理心流を修める。 _肺結核で死亡。 ◎東京都港区六本木の専称寺に墓があるが、見学できない。 おきち【お吉】 ⇒唐人お吉 おきな きゅういん【翁 久允】 1888. 2. 8(明治21) 〜 1973. 2.14(昭和48) ◇小説家。富山県生れ。 _1907(明治40)渡米、1924(大正13)帰国。1926年『週刊朝日』編集長。 (*)1926(大正15,昭和元)。 おきの いわさぶろう【沖野 岩三郎】 1876. 1. 5(明治 9) 〜 1956. 1.30(昭和31) ◇小説家・牧師。和歌山県生れ。 _13歳ごろから17歳まで土方。和歌山師範学校講習科に入学し、22歳で小学校長になる。 _1902(明治35)長男が急死し、1903(明治36)受洗。1904(明治37)教師を辞して上京し、明治学院神学部に学び、1907(明治40)卒業。 _新宮教会に赴任。1910. 6.(明治43)大逆事件に巻き込まれ難を逃れるが、翌年親友の大石誠之助(セイノスケ)らが起訴・死刑となる。 _1917(大正 6)上京し、芝三田統一(ユニテリアン)基督教会牧師となる。1918(大正 7)「大阪朝日新聞」の懸賞小説に大石をモデルにした『宿命』が入選。 (1)没日は 1.31。 (3)没日は 1.30。 (5)没日は 1.30。 (8)没日は 1.31。 (11)没日は 1.30。 (13)没日は 1.31。 (21)没日は 1.31。 おぎの きゅうさく【荻野 久作】 1882. 3.25(明治15) 〜 1975. 1. 1(昭和50) ◇産婦人科医。愛知県生れ。 _1909(明治42)東京大学医科卒業。1923(大正12)『人類黄体の研究』を発表。 おぎの ぎんこ【荻野 吟子】《をぎの》 1851(嘉永 4. 3. 3) 〜 1913. 6.23(大正 2) ◇日本近代最初の公認女医。本名は「ぎん」。武蔵国大里郡秦村(ハタムラ)(現:埼玉県妻沼<メヌマ>町)俵瀬(タワラセ)の代々苗字帯刀を許された名主の家の生れ。荻野綾三郎、嘉与(カヨ)の五女。 _1867(慶応 3)望まれて川上上村(現:熊谷市)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。1870(明治 3)夫からうつされた淋病がもとで離縁される。上京し順天堂病院に入院するが、医師がすべて男子であったことから女医を志す。 _1873(明治 6)上京し国学者・皇漢医の井上頼圀(ヨリクニ)に師事、後妻に望まれたが、1874(明治 7)甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。1875(明治 8)東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)の一期生として入学。1879(明治12)優秀な成績で卒業し永井久一郎教授から紹介された子爵石黒忠悳(タダノリ)を介して下谷練塀(ネリベイ)町の私立学校好寿院に入学、三年間学ぶ。医術開業試験の受験に奔走する中、群馬県の松本という医師に身を寄せ手伝いをする。 _1884. 9.(明治17)前期試験を他の女性三人と受験、一人合格する。1885. 3.(明治18)後期試験を受験し合格。同年五月開業。 _1886(明治19)キリスト教の洗礼を受け、キリスト教婦人矯風会の風俗部長に就任。1888(明治21)大日本婦人衛生会幹事。 _1890.11.25(明治23)14歳年下の志方之善(シカタ・ユキヨシ)と結婚。 ◎好寿院は宮内省の侍医高階経徳の経営。 おぎゅう そらい【荻生 徂徠】《をぎふ そらい》 1666(寛文 6. 2.16) 〜 1728(享保13. 1.19) ◇江戸中期の儒学者(古学)。名は双松(ナベマツ)、字は茂卿(シゲノリ)のち茂卿(モケイ)、通称は惣右衛門(ソウエモン)、号は(「藹」の「曷」を「爰」に替える:補助6222〔_〕)園(ケンエン)、物部氏の出と称し中国風に物茂卿(ブツ・モケイ)・物徂徠(ブツ・ソライ)とも名のる。江戸二番町生れ。 _はじめ朱子学を学ぶ。伊藤仁斎より徹底した古文辞学を唱道、儒学の政治的側面を強調。門人に太宰春台(ダザイ・シュンダイ)・服部南郭(ハットリ・ナンカク)らを出す。 _1696(元禄 9)以来柳沢吉保(ヨシヤス)に仕え、政治顧問的役割を果たす。吉保に赤穂浪士の意見を求められ、『擬自律書』を著し処分を上申した。 (2)荻生 徂徠(おぎゅう そらい)。生年は1666(寛文6)。 (4)荻生 徂徠(おぎゅう そらい)。生年は1666。 (5)荻生 徂徠(おぎう そらい)。 (6)荻生 徂徠(おぎゅう そらい)。生年は1667。 (16)荻生 徂徠(おぎゅう そらい)。生年は1666(寛文6.2/16)。 (+)『忠臣蔵銘々伝◆物語と史蹟をたずねて』  成美堂出版  昭和56年11月 1日初版発行  監修:尾崎秀樹  昭和57年 1月10日四刷発行 _荻生 徂徠(おぎゅう そらい)。生年は1666(寛文 6)。 おぎゅう ゆずる【大給 恒】《おぎふ ゆづる》 1839(天保10) 〜 1910(明治43) ◇社会事業家・旧三河奥殿藩主。 _1877(明治10)西南戦争の際、佐野常民(ツネタミ)らとともに博愛社を創設し、両軍傷病者の看護にあたる。のち、賞勲局総裁。 おきよおう【興世王】《おきよわう》 生年不詳 〜 940(天慶 3) ◇平安中期の地方官・王族。 _承平・天慶年間( 931〜 947)の武蔵権守。 _ 938年、興世王・武蔵介源経基(ツネモト)と足立郡司武蔵武芝との争いが生じ、平将門(マサカド)が双方を和解させる。武芝の部下の手違いから経基の誤解を招き、興世王と将門が謀反を企てていると京都に讒訴(ザンソ)される。 _のち新任の国司との間に不和を生じ、今度は将門を説いて反乱を起こさせる。将門が敗死した後、上総(カズサ)で攻められて誅殺される。 (*) 938(承平 8,天慶元)。 おぎわら うんらい【荻原 雲来】 1869(明治 2) 〜 1937(昭和12) ◇明治〜昭和初期の僧侶・サンスクリット学者。和歌山県生れ。東京浄土宗本校卒業。 _1899(明治32)ドイツに留学。 _宗教大学教授・芝中学校校長・東京大学講師・大正大学教授。 (2)1920(大正 9)大正大教授となる。(*)仏教系の宗教大学が合併して大正大学が設立されたのは1926(大正15)。 おぎわら しげひで【荻原 重秀】《をぎはら しげひで》 1658 〜 1713(正徳 3. 9.26) ◇江戸中期の幕臣。名は彦次郎、通称は五左衛門。 _第5代将軍徳川綱吉に用いられ、1687(貞享 4)勘定所差添役、1689(元禄 2)勘定吟味役、1696(元禄 9)勘定奉行・近江守となる。 _貨幣改鋳により幕府の財政難を救済するが、経済混乱や賄賂などにより、第6代将軍家宣の時に新井白石の弾劾などで1712(正徳 2)失脚する。 _翌年没するが、獄死とも殺害ともいわれている。 (*)1658(明暦 4,万治元)。 おぎわら せいせんすい【荻原 井泉水】 1884. 6.16(明治17) 〜 1976. 5.20(昭和51) ◇明治〜昭和期の俳人。本名は藤吉(トウキチ)、幼名は幾太郎(イクタロウ)、号は愛桜・桜愛子、米寿を機に随翁。東京市芝区明神町生れ。 _正則中学校・麻布中学校を経て、1901(明治34)第一高等学校入学、1905(明治38)東京帝国大学言語学科入学、1908(明治41)卒業。 _1911(明治44)河東碧梧桐(カワヒガシ・ヘキゴトウ)を主宰に迎えて俳誌「層雲」を創刊。のち季題定形を廃して自由律俳句を唱え、碧梧桐が去った「層雲」を自ら主宰。 _1965(昭和40)芸術院会員。 _門下に種田山頭火・尾崎放哉(ホウサイ)がいる。 おぎわら もりえ【荻原 守衛】《をぎはら もりゑ》 1879.12. 1(明治12) 〜 1910. 4.22(明治43) ◇明治後期の彫刻家。号は碌山(ロクザン)。長野県生れ。 _はじめ農業に従事するが、1899(明治32)上京し、小山正太郎の不同社で絵画を学ぶ。 _1901(明治34)渡米、さらに1903(明治36)渡仏しパリのアカデミー・ジュリアンに入学しジャン・ポール・ローランスに師事。翌年ロダンの影響を受け彫刻に転じ、一旦帰国。1906(明治39)オランダを経て再びパリのアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入り、1907(明治40)イタリアを経て、1908(明治41)ギリシア、エジプトを回って同年帰国。 _喀血し急逝。 ◎故郷の穂高町に碌山美術館がある。 おぎわら ろくざん【荻原 碌山】 ⇒荻原守衛 おく えいいち【奥 栄一】 1891. 3.27(明治24) 〜 1969. 9. 4(昭和44) ◇詩人・歌人・評論家。 おく こうへい【奥 浩平】 1943.10. 9(昭和18) 〜 1965. 3. 6(昭和40) ◇学生運動家。東京生れ。 _1963(昭和38)横浜市立大学入学。中核派として学生運動に参加。1963. 2.(昭和38)椎名悦三郎外相の訪韓阻止闘争により東京羽田で負傷。退院後、カーネーションを握り締めて自室で自殺。 おく たいすけ【奥 泰資】 1870(明治 3. 9.) 〜 1895. 7. 8(明治28) ◇評論家・編集者。号は鄭澳生・牛歩生。病没。 おく やすかた【奥 保鞏】 1846(弘化 3) 〜 1930(昭和 5) ◇明治・大正期の陸軍軍人(元帥)。小倉藩士奥保矩の長男。 _日露戦争で第2軍司令官。1906(明治39)参謀総長。1911(明治44)元帥。伯爵。 おく りゅうのすけ【奥 竜之介】 1923(大正12) 〜 1987(昭和62) ◇洋画家。 おくだ えいせん【奥田 穎川】 1753(宝暦 3) 〜 1811(文化 8. 4.28) ◇江戸後期の陶工。名は庸徳、初名は茂市郎、通称は茂右衛門、別号は陸方山、旧姓は頴川(エカワ)、京都の旧家奥田茂兵衛の5代目を継ぐ。京都生れ。 _余暇に青住院で松村月渓に絵画を、海老清に陶法を学ぶ。代々の家業の質屋を家人に譲り、三条粟田口に築窯。 _赤絵に新工夫をする。 _門下に青木木米(モクベイ)・仁阿弥道八(ニンアミ・ドウハチ)・尾形周平(シュウヘイ)・欽古堂亀祐らが輩出。 (2)奥田 穎川。 (4)奥田 穎川。 (16)奥田 頴川。 おくだ さだえもん【奥田 貞右衛門】 ⇒奥田行高 おくだ しげもり【奥田 重盛】 1647(正保 4) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、武具奉行、禄高150石。通称は孫太夫(マゴダユウ)、戒名は刃察周剣信士。吉良家の探索中の変名は西村清右衛門(セイエモン)。近松勘六(チカマツ・カンロク)の異母弟奥田貞右衛門(サダエモン)行高(ユキタカ)の養父。 _はじめ志摩鳥羽城主内藤和泉守忠勝(タダカツ)に仕えていたが、和泉守の姉が浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)の父采女正(ウネメノショウ)長友(ナガトモ)に嫁ぐとき、付け人として浅野家に入る。しかし、1680(延宝 8. 6.28)四代将軍家綱(イエツナ)の法会が芝増上寺で行われた際、和泉守が永井信濃守尚長(ナオナガ)に刃傷(ニンジョウ)し内藤家が改易になったので、そのまま浅野家に仕える。 _吉良家討ち入りでは表門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、藤崎長左衛門(フジサキ・チョウザエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 おくだ まごだゆう【奥田 孫太夫】 ⇒奥田重盛 おくだ ゆきたか【奥田 行高】 1678(延宝 6) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、加東郡勘定方、禄高九石三人扶持。幼名は小一郎(コイチロウ)、通称は貞右衛門(サダエモン)、戒名は刃湫跳剣信士、吉良家の探索中の変名は西村丹下(タンゲ)。父は近松小右衛門(ショウエモン)行生(ユキオ)、近松勘六(カンロク)は先妻の子で、行高は後妻の子である。奥田孫太夫(マゴダユウ)重盛(シゲモリ)の養子・娘婿。 _吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の江戸中屋敷に預けられ、翌年、横山笹右衛門(ササエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 おぐち まさる【小口 優】 1907. 5. 5(明治40) 〜 1970. 1. 4(昭和45) ◇ドイツ文学者。 おぐち みちこ【小口 みち子】 1883. 2. 8(明治16) 〜 没年不詳 ◇歌人・婦人運動家。旧姓は寺本、号は美留藻(ミルモ)。 おくに【阿国】 ⇒出雲阿国 おくの しんたろう【奥野 信太郎】 1899.11.11(明治32) 〜 1968. 1.15(昭和43) ◇中国文学者・評論家・随筆家。東京生れ。 _1925(大正14)慶応義塾大学東洋文学部文科卒業。母校の予備講師・文化学院講師。1936〜1938(昭和11〜昭和13)外務省在華特別研究生として北京に留学、1944〜1946(昭和19〜昭和21)北京の輔仁大学の客員教授。1948(昭和23)慶応義塾大学文学部教授。 おくの たみお【奥野 他見男】 1889. 6.16(明治22) 〜 1853.12.17(昭和28) ◇小説家。本名は西川他見男。 おくのみや けんし【奥宮 健之】 ⇒奥宮健之 おくのみや ぞうさい【奥宮 慥斎】 1811(文化 8) 〜 1877(明治10) ◇幕末・明治維新期の儒学者。名は正由、通称は忠次郎のち周次郎、字は子通、別号は晦堂。土佐生れ。藩校教授。明治政府の教部省に出仕、大教院・大講義などを歴任。 _奥宮健之(オクミヤ・タケユキ)の父。 おくはら せいこ【奥原 晴湖】 1837(天保 8) 〜 1913(大正 2) ◇明治時代の女流文人画家。本名は節子、東海晴湖と称する。下総国古河生れ。 _はじめ古河藩の牧田水石に師事。のち江戸で明・清の絵を研究し、鄭板橋・費晴湖に傾倒。熊谷に隠棲。 おぐま ひでお【小熊 秀雄】 1901. 9. 9(明治34) 〜 1940.11.20(昭和15) ◇昭和前半期の詩人。本姓は三木、小熊は母の姓。北海道小樽市生れ。 _早く母を失い父とともに樺太(カラフト)泊居町に移り、その後父も亡くし、高等小学校卒業。 _伐木人夫などをして、1922(大正11)「旭川新聞」の社会部記者となり短歌や童話を作る。1924(大正13)旭川の画家高橋北修とともに上京するが失敗、結婚して旭川に戻る。 _1929(昭和 4)再び上京、豊島区長崎に居を構える。1931(昭和 6)プロレタリア詩人会を経て、1932(昭和 7)全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加、第1回の検挙を受ける。1935(昭和10)長編叙事詩『飛ぶ橇(ソリ)』を出版。日中戦争に抵抗する歌をうたう。 _肺結核で死去。 ◎豊島区長崎は当時「池袋パルテノン」と呼ばれ、多くの芸術家が住んでいた。 おくみや ぞうさい【奥宮 慥斎】 ⇒奥宮慥斎 おくみや たけゆき【奥宮 健之】 1857(安政 4.11.12) 〜 1911. 1.18(明治44) ◇自由民権運動の闘士。土佐生れ。奥宮慥斎(オクノミヤ・ゾウサイ)の子。 _板垣退助らの1881(明治14)自由党に入党。1882(明治15)車夫三浦亀吉とともに人力車夫を集め車会党(車界党)を結党。1887(明治20)名古屋事件で政府転覆を企て無期徒刑。1889(明治22)から北海道樺戸(カバト)集治監で服役。1896(明治29)釈放。のち幸徳秋水ら社会主義者と親交を結び、1910(明治43)大逆事件(幸徳事件)で検挙され翌年刑死。 (2)奥宮 健之(おくみや たけゆき)⇒奥宮 健之(おくのみや _けんし)。生年は1857(安政 4)。'97特赦出獄。翌'11年1月死刑判決をうけ24日処刑された。 (4)奥宮 健之(おくみや たけゆき)、生年は1856。 (6)奥宮 健之(おくみや たけゆき)、生年は1856/1857。 (8)奥宮 健之(おくのみや けんし)、生年は1857(安政 4)。 おくむら いおこ【奥村 五百子】《おくむら いほこ》 1845(弘化 2. 5. 3) 〜 1907. 2. 5(明治40) ◇明治時代の婦人運動家・社会事業家。肥前(佐賀県)唐津の東本願寺派の僧侶了寛の娘、円心の妹。 _はじめ浄土真宗福成寺の住職に嫁ぐが死別し、水戸藩士の鯉淵彦五郎に再婚。兄円心とともに高杉晋作・野村望東尼らと交わり尊王攘夷運動に参加。 _明治維新後、江藤新平を支持し征韓論を主張、西南戦争には西郷隆盛を援助。このため夫と離婚。韓国の亡命志士金玉均・朴泳孝を庇護。 _1897(明治30)仏教布教の目的で韓国に渡り、1898(明治31)光州に実業学校を設立するが誤解を受けて帰国。 _1899〜1901(明治32〜明治34)北清事変に際し東本願寺を説いて慰問使を派遣させ、1900(明治33)その一行に加わり戦場の悲惨さを見た体験から、傷病兵の看護と遺族の救護を志して、1901. 2.(明治34)対露主戦派の近衛篤麿(コノエ・アツマロ)とともに愛国婦人会を創立。日露戦争では満州に日本軍を慰問。[図:奥村五百子1][図:奥村五百子2]愛国婦人会発祥の地(1997年12月29日撮影) 東京都千代田区九段南1丁目 千代田区役所前 おくむら きわお【奥村 喜和男】 1900. 1. 4(明治33) 〜 1969. 8.19(昭和44) ◇昭和期の官僚。号は東陽。福岡県生れ。 _1925(大正14)東京大学法学部卒業。はじめ逓信省に入り、宮崎郵便局長・電務局無線課長。 _満州電々・同盟通信などの国策機関設立に活動。1935(昭和10)内閣調査局調査官・1937. 9.(昭和12)企画庁調査官兼企画院書記官となり国家総動員法を起案。1938(昭和13)電力管理法の制定に尽力。1941(昭和16)東条英機内閣の情報局次長となり戦争遂行を鼓吹、1943(昭和18)退官。言論統制・対米英への宣伝戦に働く。 _太平洋戦争後、1948(昭和23)公職追放となり1952(昭和27)解除後、1953(昭和28)東陽通商社長。 _著書は1943(昭和18)『尊皇攘夷の血戦』(情報局次長)など。 おくむら しんたろう【奥村 信太郎】 1875.11. 3(明治 8) 〜 1951. 3. 4(昭和26) ◇ジャーナリスト。 おくむら とぎゅう【奥村 土牛】 1889. 2.18(明治22) 〜 1990. 9.25(平成 2) ◇大正・昭和期の日本画家。本名は義三(ヨシゾウ)。東京京橋生れ。 _梶田半古・小林古径に師事。 _1935〜1965(昭和10〜昭和40)帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)・1944〜1951(昭和19〜昭和26)東京美術学校(現:東京芸術大学)・1949〜1980(昭和24〜昭和55)女子美術大学・1953〜1966(昭和28〜昭和41)多摩美術大学の講師。 _1947(昭和22)帝国芸術院(現:日本芸術院)会員。1962(昭和37)文化勲章を受章。1978〜1990(昭和53〜平成 2)日本芸術院理事長。 おくむら ばいこう【奥村 梅皐】 1880. 2. 3(明治13) 〜 1945. 5.10(昭和20) ◇評論家。本名は恒次郎。 おくむら ひろし【奥村 博史】 1889.10. 4(明治22) 〜 1964. 2.18(昭和39) ◇画家。 おくむら まさのぶ【奥村 政信】 1686(貞享 3) 〜 1764 ◇江戸中期の浮世絵師。名は親妙、通称は源八、号は芳月堂・丹鳥斎・文角・梅翁。江戸の人。 (*)1764(宝暦14,明和元)。 おぐら きんのすけ【小倉 金之助】《をぐら きんのすけ》 1885. 3.14(明治18) 〜 1962.10.21(昭和37) ◇明治〜昭和期の随筆家・数学者・歌人。山形県酒田生れ。 _酒田港の回漕問屋の跡取りとして祖父母に養育される。鶴岡の荘内中学校の卒業直前、祖父に無断で東京に出奔、1905(明治38)東京物理学校(現:東京理科大学)卒業。東京大学の化学選科に入学、1906(明治39)祖父の病により退学。林鶴一教授の助言により家業に従事しながら数学を独学。 _1911(明治44)東北大学が新設され、林鶴一教授のもとで数学科助手となる。1917(大正 6)大阪医科大学(現:大阪大学医学部)付設の塩見理化学研究所員・1919〜1922(大正 8〜大正11)フランスに留学・1925(大正14)所長・1937(昭和12)辞職し、上京して著作に従事。1940(昭和15)東京物理学校理事長・1943(昭和18)辞任。 _1946(昭和21)民主主義科学者協会・日本科学史学会などの会長を歴任。 (2)'20フランスに留学。 (21)19〜22年フランス留学。 おぐら さんせい【小倉 三省】《をぐら さんせい》 1604(慶長 9) 〜 1654(承応 3) ◇江戸初期の土佐朱子学者(南学)。名は克。土佐藩士生れ。 _ 谷時中(タニ・ジチュウ)に土佐朱子学(南学)を学び、同門で土佐藩家老の野中兼山(ケンザン)とともに藩政に参加。 _著書は『周易大伝研幾』。 おぐら しんぺい【小倉 進平】《をぐら しんぺい》 1882(明治15) 〜 1944(昭和19) ◇大正・昭和前半期の言語学者。宮城県生れ。東京大学卒業。 _朝鮮総督府編輯官・1926(大正15)京城帝国大学の創立とともに教授・東京大学教授。 _1935(昭和10)学士院恩賜賞受賞・1943(昭和18)朝鮮総督府より朝鮮文化功労賞を受ける。 _朝鮮語学を確立。 おぐら まさつね【小倉 正恒】《をぐら まさつね》 1875. 3.22(明治 8) 〜 1961.11.20(昭和36) ◇大正・昭和期の実業家・政治家。石川県金沢市生れ。旧金沢藩士の裁判官小倉正路の長男。 _1897(明治30)帝国大学(現:東京大学)英法科卒業。 _内務官僚の土木監督署事務官兼内務事務官・山口県参事官を歴任。 _1899(明治32)住友の鈴木馬左也の勧誘で住友本社に入社、1900〜1902(明治33〜明治35)ヨーロッパ留学、1903(明治36)住友本店副支配人心得・神戸支店勤務・総本店副支配人・支配人・1918(大正 7)理事・1921(大正10)住友合資会社常務理事となり経理部長と人事部長を兼務・1930〜1941(昭和 5〜昭和16)総理事に就任。住友鉱業・住友化学工業・住友生命・日本板硝子などの会長。 _1933〜1946(昭和 8〜昭和21)勅選貴族院議員。1941. 4.(昭和16)総理事を辞して第2次近衛文麿内閣の途中から国務大臣・同年7月第3次近衛内閣の大蔵大臣・同年10月総辞職。1942(昭和17)戦時金融公庫総裁・東亜経済懇談会会長。1943(昭和18)大東亜省顧問・南京国民政府最高顧問。 _太平洋戦争後、公職追放。 おぐり こうずけのすけ【小栗 上野介】《をぐり かうづけのすけ》 ⇒小栗忠順 おぐり ただまさ【小栗 忠順】 1827(文政10. 2.12) 〜 1868(慶応 4. 4. 6) ◇江戸末期の幕臣。名は忠順、また剛太・又一、初め豊後守のち上野介(コウズケノスケ)。新潟奉行小栗忠高の子、母はくに子 _1859(安政 6)目付。1860年、通商条約批准交換のため、外国奉行新見正興・村垣範正らに従い渡米。帰国後、外国奉行。1861年、ロシア軍艦対島占領事件でロシアとの折衝、成功せず免職。しかし翌1862(文久 2)には勘定奉行さらに町奉行を兼任。1863(文久 3)陸軍奉行。1864年、軍艦奉行。1865年、再び勘定奉行。1866(慶応 2)海軍奉行、1867(慶応 3)陸軍奉行を兼任。 _フランス式軍制を採用しフランス士官を招聘して洋式訓練を行い、横須賀・横浜に造船所を設置、製鉄所の経営、紙幣発行などに尽力。 _徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長の打倒を図り、主戦論を唱えたがいれられず、1868(慶応 4. 2.)辞職して知行地上野国群馬郡権田村に帰り、農兵を養成。大砲2門、鉄砲20挺を持っていたため同年 4. 5.薩長軍に捕われ、翌日烏川のほとりで斬首。 (*)1860(安政 7,万延元)、1861(万延 2,文久元)、1864(文久 4,元治元)、1865(元治 2,慶応元)。 ◎大老井伊直弼(ナオスケ)の命で、当時勘定奉行であった忠順は、幕府再興の軍資金を赤城山中と猿ヶ京に埋蔵したという。 ◎幕府の特権的豪商三井から巨額を官軍に投じさせた三野村利左衛門を見出し、三井家に斡旋したのは忠順自身であった。 おぐり ふうよう【小栗 風葉】《をぐり ふうえふ》 1875. 2. 3(明治 8) 〜 1926. 1.15(大正15) ◇明治時代の小説家。本名は加藤磯夫(イソオ)、旧姓は小栗、幼名は磯平、別号は艶如子・拈華(ネンゲ)童子。愛知県知田郡半田村生れ。 _済生学舎入学、商業素修学校に転校、さらに錦城中学校に転校。1892(明治25)尾崎紅葉の門下となる。 _1900(明治33)加藤家の養子となり、加藤籌子(カズコ)と結婚。 _作品は『亀甲鶴』・『恋慕ながし』・『青春』・『世間師』・『恋ざめ』など。 おぐり むしたろう【小栗 虫太郎】 1901. 3.14(明治34) 〜 1946. 2.10(昭和21) ◇探偵小説作家。本名は栄次郎。東京生れ。京華中学校卒業。 おさかべ しんのう【刑部 親王】《おさかべ しんわう》 ⇒忍壁皇子 おさかべ しんのう【忍壁 親王】《おさかべ しんわう》 ⇒忍壁皇子 おさかべのみこ【忍壁 皇子】 生年不詳 〜 705(慶雲 2. 5. 7) ◇白鳳時代の皇族。忍坂部皇子・忍壁親王(シンノウ)・刑部(オサカベ)親王とも。天武天皇の第9皇子、磯城皇子(シキノミコ)・泊瀬部皇女・託基皇女の兄。 _ 672[弘文元. 6.]壬申の乱が勃発すると父大海人皇子(天武天皇)に従って東国に赴く。 _ 681[天武 9]天武天皇の命で帝紀の編集に当たる。 _ 700[文武 4]文武天皇の命で藤原不比等(フヒト)らとともに大宝律令の編集を主宰、翌 701(大宝元. 8.)完成。 おざき がくどう【尾崎 学堂】 ⇒尾崎行雄 おざき かずお【尾崎 一雄】《をざき かずを》 1899.12.25(明治32) 〜 1983. 3.31(昭和58) ◇昭和期の小説家。三重県度会(ワタライ)郡宇治山田町生れ。 _三つの小学校を経て神奈川県立第二中学校入学、1917(大正 6)卒業。早稲田高等学院を経て、1924(大正13)早稲田大学国文科入学、1927(昭和 2)卒業。 _志賀直哉に師事。1937(昭和12)『暢気眼鏡(ノンキメガネ)』で芥川賞を受賞。 _1944(昭和19)胃潰瘍による大出血で倒れる。 _1964(昭和39)芸術院会員。 _1975(昭和50)回顧録『あの日この日』で読売文学賞を受賞。 おざき きはち【尾崎 喜八】 1892. 1.31(明治25) 〜 1974. 2. 4(昭和49) ◇大正・昭和期の詩人・随筆家。東京築地生れ。 _1909(明治42)京華商業学校卒業。 (1)没日は 2. 7。 (5)没日は 2. 4。東京京橋の湊町(ミナトチョウ)生れ。 (8)没日は 2. 4。 おざき きゅうや【尾崎 久弥】 1890. 6.28(明治23) 〜 1972. 6. 2(昭和47) ◇近世文学研究家。 おざき こうこ【尾崎 孝子】 1897. 3.25(明治30) 〜 1970. 4.22(昭和45) ◇歌人。本名はカウ。 おざき こうよう【尾崎 紅葉】《をざき こうえふ》 1867(慶応 3.12.16) 〜 1903.10.30(明治36) ◇小説家・俳人。本名は徳太郎、別号は縁山・戯作堂(ゲサクドウ)・半可通人・愛黛道士(アイタイドウシ)・素蕩夫・花紅冶史・花痩(カソウ)源悪太郎・芋太郎・狂文亭・十千万堂(トチマンドウ)・十千万・閑鼠、ただし愛黛道士と花痩はのちに友人・弟子に贈った。江戸芝仲門前生れ。父は幇間(ホウカン)で牙彫(ゲボリ)の名人惣蔵。 _1888. 9.(明治21)東京大学法科入学、1889. 9.(明治22)同和文科一年に転科、1890. 7.(明治23)学年試験に二度落第して退学。 _1885(明治18)山田美妙らと硯友社を結成し、回覧雑誌「我楽多文庫」を創刊、1888(明治21)印刷し一般に発売。1889(明治22)『二人比丘尼色懺悔(ニニンビクニイロザンゲ)』が出世作となる。在学のまま読売新聞社に入社。 _代表作は『金色夜叉』。 _門下生は泉鏡花、徳田秋声ら。 (1)生年は1867(慶応 3)。 (3)生年は1867(慶応 3)。 (5)生年は1868(慶応 3)。12.17出生説もある。 (6)生年は1867/68。 (8)慶応 3.12.16は太陽暦では1868. 1.10に当たる。なお、一説では慶応 3.12.27の出生とする。 (11)生年は1867(慶応 3)。12.27出生説もある。 (13)生年は1867(慶応 3)。 ◆墓は東京都港区の青山霊園。 ◆紅葉忌(十千万堂忌)[10.30]。 ◆尾崎紅葉祭[ 1.17]静岡県熱海市の海岸にある『金色夜叉』の碑と「お宮の松」の前で、追悼祭が行われる。 ◆塩原温泉まつり[ 9.18〜 9.19]『金色夜叉』で塩原を名高くした紅葉をしのぶ感謝祭。 おざき しろう【尾崎 士郎】《をざく しらう》 1898. 2. 5(明治31) 〜 1964. 2.19(昭和39) ◇昭和期の小説家。愛知県幡豆郡横須賀村(現:吉良町内)生れ。1917(大正 6)早稲田大学政治科中退。 _1922(大正11)宇野千代と結婚、1933(昭和 8)離婚。 _1944(昭和19)徴用されて陸軍宣伝班員としてフィリピンに従軍。 _代表作は1935(昭和10)『人生劇場』。 (5)早大政治経済科に進み(大正八年除名処分を受けた)、……。 (6)早大政治科中退。 ◆瓢々忌<ヒョウヒョウキ>[ 2.19]『人生劇場』の主人公青成瓢吉から。 おざき ひろみち【小崎 弘道】 ⇒小崎弘道 おざき ほうさい【尾崎 放哉】《をざき はうさい》 1885. 1.20(明治18) 〜 1926. 4. 7(大正15) ◇俳人。本名は秀雄。鳥取市生れ。 _県立第一中学校・第一高等学校を経て、1908(明治41)東京大学法科卒業。 _著書は句集『大空』など。 (5)明治四二東大法学部卒業。 ◆放哉忌[ 4. 7]。 おざき ほずみ【尾崎 秀実】 ⇒尾崎秀実 おざき ほつみ【尾崎 秀実】《をざき ほつみ》 1901. 4. 1(明治34) 〜 1944.11. 7(昭和19) ◇昭和前期の新聞記者・評論家。筆名は白川次郎。草野源吉。東京生れ。評論家尾崎秀樹の兄。 _台北で小・中学時代を送る。東京大学卒業後、1925(大正14)朝日新聞社に入社、1928.11.(昭和 3)上海(シャンハイ)特派員となり中国問題を研究するかたわら中国の文学団体創造社グループに接近。1929(昭和 4)アグネス・スメドレー女史を通じてリヒャルト・ゾルゲのコミンテルン諜報機関に参加。1932(昭和 7)帰国。 _1937(昭和12)昭和研究会に入る。1938(昭和13)朝日新聞社を退社し、満州鉄道の東亜経済調査局嘱託となり中国問題を科学的に研究。中国問題への造詣を買われ第1次近衛文麿のブレーンとなり、ソ連との開戦を阻止。 _1941.10.15(昭和16)ゾルゲ事件によって国際スパイとして逮捕。1944(昭和19)ゾルゲとともに死刑。 _著書は1938(昭和13)刊行『現代支那批判』・『現代支那論』・『最近日支関係史』・1946(昭和21)刊獄中書簡集『愛情はふる星の如く』など。 (2)おざき ほつみ。1925(大正14)朝日新聞社に入社……。 (6)おざき ほつみ。1926〜38年朝日新聞社に勤務……。 ◎戸籍上の誕生日は 5. 1。 おざき ほづみ【尾崎 秀実】《をざき ほづみ》 ⇒尾崎秀実 おざき まさよし【尾崎 雅嘉】《をざき まさよし》 1755(宝暦 5) 〜 1827(文政10) ◇江戸後期の国学者。号は蘿月庵・華陽など。大坂の人。 _大坂で書店を営み、また歌をよくした。 _著書は『群書一覧』・『百人一首一夕話』・『古今集鄙言』など。 おざき みどり【尾崎 翠】 1896.12.20(明治29) 〜 1971. 7. 8(昭和46) ◇小説家。鳥取県岩美生れ。日本女子大学国文科に学ぶ。 おざき めいどう【尾崎 迷堂】 1891. 8.19(明治24) 〜 1970. 3.13(昭和45) ◇俳人・僧侶。本名は光三郎(コウサブロウ)。 おざき ゆきお【尾崎 行雄】《をざき ゆきを》 1858(安政 5.11.20) 〜 1954.10. 6(昭和29) ◇明治〜昭和前期の政治家・新聞記者。号は愕堂(ガクドウ)・咢堂・学堂・卒翁。「憲政の神様」と呼ばれた。慶応義塾大学中退。 _1882(明治15)立憲改進党に参加。1890(明治23)第1回総選挙以来25回連続当選、1952(昭和27)まで代議士生活63年。 _1900(明治33)政友会に参加。1903(明治36)〜1912東京市長。 _1913(大正 2)第1次憲政擁護運動の先頭に立ち、政友会を脱党。第2次大隈内閣の法相で憲政会に属したがすぐに離党し、以後無所属。 _1942(昭和17)田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙を批判し不敬罪に問われたが無罪。 _1953(昭和28)国会から名誉議員の称号が贈られる。 (1)生年は1858.11.30(安政 5)。 (2)生年は1859(安政 6)。 (3)生年は1858.11.20(安政 5)。 (6)生年は1859。 (8)生年は1858.11.20(安政 5)。 (*)1912(明治45,大正元)。 おさだ あらた【長田 新】《をさだ あらた》 1887(明治20) 〜 1961(昭和36) ◇大正・昭和期の教育学者。長野県出身。 _広島高等師範学校・京都大学卒業。 _教育哲学を体系化。ペスタロッチを研究し、スイス政府からのペスタロッチ賞を受賞。 _1941(昭和16)日本教育学会を結成。 _1927(昭和 2)広島文理科大学教授、1945(昭和20)同大学長。 _1951(昭和26)広島の被爆体験から『原爆の子』を編集。1952(昭和27)「日本子どもを守る会」初代会長。 _著書は『教育学』・『ペスタロッチー伝』など。 おさだ しゅうとう【長田 秋涛(長田 秋濤)】《おさだ しうたう》 1871(明治 4.10. 5) 〜 1915.12.25(大正 4) ◇フランス文学者・劇作家・翻訳家。本名は忠一(タダカズ)、別号は酔掃堂。静岡県生れ。 _英仏に留学。演劇改良に尽力、またフランスの戯曲・小説などを紹介。 _のち一転して南洋開発に従事。 (5)本名忠一(タダカズ)。 (13)本名忠一(タダイチ)。 おさだ つねお【長田 恒雄】 1902.12.17(明治35) 〜 1977. 3.30(昭和52) ◇詩人・評論家。 おさたけ たけき【尾佐竹 猛】 1880. 1.20(明治13) 〜 1946.10. 1(昭和21) ◇明治〜昭和前期の明治史家・判事。筆名は雨華・雨花を愛用、他に無用学博士・落木正文(ラッキセイブン)・若本鳥之(ワカモトドリコノ)・高山長水・相良武雄(アイラブユウ)・千田世成(センデンノヨナリ)・不破志要(フワシヨ)・縦横子・活殺子・倭遅邇散史・山田唯比子・名那繁次。石川県金沢生れ。旧金沢藩士の漢学者尾佐竹保の子。 _1899(明治32)明治法律学校(現:明治大学)卒業。 _福井・東京・名古屋の地方裁判所判事、東京控訴院判事、1924(大正13)大審院判事、1942(昭和17)大審院検事となり退官。 _1924(大正13)吉野作造・宮武外骨小野秀雄ら8名で明治文化研究会をつくり、「明治文化全集」全24巻を編纂・刊行。 (2)尾佐竹 猛(おさたけ たけき)。 (6)尾佐竹 猛(おさたけ たけき)。 (8)尾佐竹 猛(おさたけ たけし)。 (?)尾佐竹 猛(おさたけ たける)。 おさない かおる【小山内 薫】 1881. 7.26(明治14) 〜 1928.12.25(昭和 3) ◇明治・大正時代の演出家・詩人・劇作家・小説家・演劇評論家。広島市大手町に陸軍軍医(旧津軽藩士)小山内健(タケシ)の長男として生れる。岡田八千代の実兄。 _1902(明治35)東京大学文科に入学。 _1906(明治39)第一次「新思潮」を刊行。1909(明治42)2世市川左団次と協力して自由劇場を創立。1920(大正 9)松竹キネマに入り松竹キネマ研究所を作る。1924(大正13)土方与志(ヒジカタ・ヨシ)と築地小劇場を創立。1925(大正14)ラジオドラマ研究会を創立。 おさみ ぎぞう【長見 義三】 1908(明治41) 〜 1993(平成 5) ◇小説家。 _作品は『ほっちゃれ魚族』・『アイヌの学校』など。 ◎1993(平成 5)年、50年ぶりに著作集として復刊された『アイヌの学校』が差別文書としてウタリ協会から抗議を受け、発売中止となる。 おさらぎ じろう【大仏 次郎(大佛 次郎)】《おさらぎ じらう》 1897.10. 9(明治30) 〜 1973. 4.30(昭和48) ◇大正・昭和期の小説家。本名は野尻(ノジリ)清彦、初期の筆名は安里礼次郎。横浜英(ハナブサ)町生れ。野尻抱影(エイホウ)の実弟。 _芝白金小学校・1910(明治43)府立第一中学校・1915(大正 4)第一高等学校仏法科を経て、1918(大正 7)東京大学政治科入学、1921(大正10)卒業。 _1954(昭和29)文化勲章を授章。 _作品は『鞍馬天狗(クラマテング)』・『赤穂浪士』・『帰郷』・『宗方姉妹』・『旅路』・『ドレフェス事件』・『パリ燃ゆ』・『天皇の世紀』など。 ◆墓は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。 ◎愛猫家としても知られる。 おざわ たけじ【小沢 武二(小澤 武二)】 1896. 1.25(明治29) 〜 1966. 3.29(昭和41) ◇大正・昭和期の俳人。筆名は河津癸。東京市芝区浜松町生れ。 _1930(昭和 5)栗林一石路らし「旗」を創刊。 おざわ へきどう【小沢 碧童(小澤 碧童)】 1881.11.14(明治14) 〜 1941.11.17(昭和16) ◇俳人。幼名は清太郎のち西徳六代目忠兵衛、別号は碧子。東京日本橋生れ。父は魚問屋であったが、祖父の家を継ぎ、家伝の目薬を業とする。 おざわ ろあん【小沢 蘆庵】 1723(享保 8) 〜 1801(享和元. 7.12) ◇江戸後期の歌人。本名は玄仲、通称は帯刀(タテワキ)、別号は孤鴎・観荷堂。大阪生れ。 _冷泉為村に入門、のちに破門。 _1788(天明 8)から1792(寛政 4)まで京都太秦に住む。 (2)竹腰家家臣小沢喜八郎実郡の末子,一時尾張藩京都留守居役本荘三之丞の養子となるが不詳。尾張藩の家老成瀬氏の家臣。 (6)尾張犬山竹腰家の京留守居本荘氏に入婿。 おしかわ しゅんろう【押川 春浪】《おしかは しゆんらう》 1876. 3.21(明治 9) 〜 1914.11.16(大正 3) ◇小説家。本名は方存(マサヨリ)、旧号は春波。愛媛県松山市小唐人町(コトウジンマチ)生れ。押川方義(マサヨシ)の長男。 _明治学院・東北学院・札幌農学校(現:北海道大学)に学ぶが続かず、1895(明治28)東京専門学校(現:早稲田大学)英文科入学、1898(明治31)卒業しさらに法科に学び、1901(明治34)卒業。 _巌谷小波(イワヤ・サザナミ)の知遇を得て、1904(明治37)博文館に入る。『日露戦争写真画報』を編集。『冒険世界』・『武侠世界』誌を主宰。 _武侠小説と称するSF風の軍事冒険小説を著し、少年たちの人気を博した。冒険小説を少年文学の一ジャンルとして確立させた。 _代表作は1900(明治33)『海底軍艦』・『新日本島』・『武侠の日本』など。 (2)生年は1876(明治 9)。 (5)生年は1876(明治 9)。 (6)生年は1876(明治 9)。 (13)生年は1877(明治10)。 おしかわ まさよし【押川 方義】 1851(嘉永 4.12.16) 〜 1928. 1.10(昭和 3) ◇宗教家(キリスト教)・教育家。旧姓は橋本、伊予藩士押川家の養子。押川春浪(シュンロウ)の父。 _日本基督公会を設立。東北学院の創立者。 (6)生年は1849。押川春浪の項。 おず やすじろう【小津 安二郎】《をづ やすじらう》 ⇒おづ やすじろう おせ けいし【尾瀬 敬止】 1889.11.28(明治22) 〜 1952. 1. 5(昭和27) ◇ソビエト文化研究家。号は哀歌、筆名は他和律。京都生れ。東京外語学校露語科卒業。 おぜき さんえい【小関 三英】《をぜき さんえい》 ⇒小関三英 おだ うらくさい【織田 有楽斎】 1547(天文16) 〜 1621(元和 7) ◇安土桃山・江戸前期の武将・茶人。名は長益、法号は有楽斎。織田信秀の11男、織田信長の弟。 _1582(天正10)本能寺の変後、豊臣秀吉に仕える。千利休に師事し、利休の死後に有楽流を開き、秀吉の茶湯を担当する。 _1600(慶長 5)関ヶ原には東軍(徳川家康)に属し、大和(ヤマト)に3万石の大名となる。 _1614(慶長19)大坂冬の陣には豊臣方に与(クミ)する。のち堺・京都などに住み茶道に専念。 _1617(元和 3)京都建仁寺の正伝院に如庵(ジョアン)を建て、隠棲。 ◎江戸屋敷跡が現在の有楽町(ユウラクチョウ)、数寄屋(スキヤ)を構えた近くが数寄屋橋。 おだ かずま【織田 一磨】 1882.11.11(明治15) 〜 1956. 3. 8(昭和31) ◇版画家。東京生れ。 _洋画を川村清雄に、石版を金子政次郎に学ぶ。 _1918(大正 7)日本創作版画協会設立に参加。1930(昭和 5)洋風版画協会を設立。 おだ かんけい【小田 観蛍(小田 觀螢)】 1886.11. 7(明治19) 〜 1973. 1. 1(昭和48) ◇歌人。本名は哲弥(テツヤ)。岩手県生れ。独学。 おだ さくのすけ【織田 作之助】 1913.10.26(大正 2) 〜 1947. 1.10(昭和22) ◇小説家。大阪市上汐(ウエシオ)町生れ。1931(昭和 6)第三高等学校入学、五年在学して中退。1940(昭和15)『夫婦善哉』で文壇に出た。 (5)誕生日は10.26。 (13)誕生日は 8.26。 おだ じゅんいちろう【織田 純一郎】 1851(嘉永 4. 5.22) 〜 1919. 2. 3(大正 8) ◇翻訳家・新聞記者・評論家。幼名は幸之助、旧姓は若松のち丹羽(ニワ)氏の養子、のち曾祖母の織田を名乗る。京都生れ。1868(明治元)イギリスに遊学。 おだ たけお【小田 岳夫(小田 嶽夫)】 1900. 7. 5(明治33) 〜 1979. 6. 2(昭和54) ◇小説家。本名は武夫。新潟県生れ。 _1922(大正11)東京外語学校支那語科卒業。中国の領事館に赴任、『城外』で芥川賞を受賞。 _1941(昭和16)陸軍報道班員として徴用され、ビルマに従軍。 おだ とみや【小田 富弥】 1895(明治28) 〜 没年不詳 ◇挿絵画家。本名は大西一太郎、小田は母方の姓。 _北野恒富に美人画を学ぶ。股旅物を得意とする。 おだ のぶお【織田 信雄】《おだ のぶを》 1558 〜 1630(寛永 7. 4.30) ◇安土桃山時代の武将。信長の次子(庶子)。「のぶかつ」とも読む。 (*)1558(弘治 4,永禄元)。 おだ のぶかつ【織田 信雄】 ⇒織田信雄 おだ のぶかね【織田 信包】 1543(天文12) 〜 1614(慶長19) ◇安土桃山・江戸前期の武将。織田信秀の4男、織田信長の弟、お市の方(小谷の方)の兄。 おだ のぶたか【織田 信孝】 1562(永禄 5) 〜 1583(天正11. 5. 2) ◇安土桃山時代の武将。信長の第3子。信忠(ノブタダ)・信雄(ノブオ,ノブカツ)の弟。 おだ のぶただ【織田 信忠】 1557(弘治 3) 〜 1582(天正10. 6. 2) ◇安土桃山時代の武将。左近衛権中将。織田信長の長子、信雄(ノブオ,ノブカツ)・信孝(ノブタカ)の兄。正室は武田信玄の末娘松姫。 _父に従い長島の一向一揆を攻撃、1575(天正 3)長篠(ナガシノ)の戦などを転戦。1567(永禄10)信長が安土に移った後、岐阜城主になる。1582(天正10)甲斐の武田勝頼(カツヨリ)を滅ぼす。本能寺の変に、京都妙覚寺で囲まれて自刃。 おだ のぶなが【織田 信長】 1534(天文 3) 〜 1582(天正10. 6. 2) ◇戦国・安土時代の武将。幼名は吉法師(キチボウシ)。尾張国生れ。織田信秀(ノブヒデ)の次子、織田信忠(ノブタダ)・信雄(ノブオ,ノブカツ)・信孝(ノブタカ)の父。信広の異母弟、信行・信包(ノブカネ)・有楽斎(ウラクサイ)・お市の方の兄。妻は斎藤道三(ドウサン)の娘濃姫(ノウヒメ)。 _1546(天文15)古渡城で元服、三郎信長と名乗る。1551(天文20)家督を継ぐ。信長に離反するものが多く、1552(天文21)松葉・深田の織田氏を討つ。ついで清洲の織田信友を討ち、兄弟の信行・信広を討つ。1553(天文22)お守り役の平手政秀(ヒラテ・マサヒデ)の諌死により傍若無人の振る舞いを改めたと伝えられている。1555年、清洲城に移る。1559(永禄 2)織田信賢の岩倉城を降ろし尾張一国を略定。 _1560(永禄 3. 5.)桶狭間(オケハザマ)の戦で今川義元を奇襲し倒す。1562(永禄 5)三河の松平元康(徳川家康)と同盟し、1567(永禄10. 8.)斎藤龍興(タツオキ)(道三の孫)から美濃の稲葉城を奪い、岐阜と改め清洲より移る。 _1568(永禄11)北伊勢を平定。7月、松永久秀に逐われ朝倉義景に亡命していた足利義昭(ヨシアキ)(義輝の弟覚慶)が信長の許に身を寄せる。9月、義昭を擁して入京、10月第15代将軍に就け二條城を築く。 _1570(元亀元. 6.)家康の援軍を得て姉川(アネガワ)の戦で浅井長政・朝倉義景を破る。11月下旬六角義賢と、12月中旬浅井・朝倉両氏と和睦。1571(元亀 2)比叡山延暦寺を焼き打ちする。 _義昭との不和から1573(元亀 4)義昭を追放し室町幕府を滅ぼす。1574(天正 2)長島の一向一揆を鎮圧。 _1575(天正 3)長篠(ナガシノ)の戦で武田軍を破る。1576(天正 4)安土城を築く。1578(天正 6)上杉謙信が病没。1582(天正10. 3.)武田勝頼を滅ぼす。 _羽柴秀吉の要請で中国地方へ向う途中、宿泊先の京都本能寺(ンノウジ)で明智光秀に襲われ、天下統一の半ば、自刃(本能寺の変)。 _後に京都建勲(ケンクン,タケイサオ)神社に祭られた。 (2)尾張国那古野城で生まれる。 (16)尾張古渡の生まれ. (17)同二十一年父が死ぬと、十九歳で家をつぐ。:誤(信秀は天文20年没)。 (+)『国史の光 下巻』  昭和 2年12月 5日發行 _著者:中山榮作,發行所:博文館  昭和11年 8月20日  増補24版發行 _名古屋城(ナゴヤジヤウ)に生(ウマ)れた。 (*)1555(天文24,弘治元)。 おだ のぶひで【織田 信秀】 1510(永正 7) 〜 1551(天文20. 3. 3) ◇室町後期の武将。織田信長・有楽斎(ウラキサイ)の父。 おだ まさのぶ【織田 正信】 1903.12.16(明治36) 〜 1945. 9.11(昭和20) ◇英文学者。 (3)没年は1935(昭和20):矛盾。 (8)没年は1945(昭和20)。 おだ らいぞう【小田 頼造】 1881(明治14) 〜 1918(大正 7) ◇社会主義者・宗教家。 おだい【於大】 ⇒伝通院 おだぎり ひでお【小田切 秀雄】《をだぎり ひでを》 1916(大正 5) 〜 2000. 5.24(平成12) ◇文芸評論家。東京生れ。文芸評論家小田切進(〜1992)の実兄。 _法政大学国文科卒業。 _1946(昭和21)日本共産党に入党。埴谷雄高・荒正人らと「近代文学」を創刊。新日本文学会の設立に参加。 _作家の戦争責任を厳しく追及するなど、政治と文学論争を行い、1947(昭和22)「近代文学」を脱退。 _1964(昭和39)共産党と絶縁。 _1965(昭和40)大学紛争中の約1年間、法政大学の学長代行を務める。 _著書は『民主主義文学論』・『人間の信頼について』・『小林多喜二』・『北村透谷論』・『私の見た昭和の思想と文学の五十年』(1988年毎日出版文化賞)・『文学 近見と遠見と』など。 おたけ こっかん【尾竹 国観】 1880(明治13) 〜 1945(昭和20) ◇日本画家。新潟県生れ。歴史画や挿絵を数多く描いた。 _尾竹竹坡(チクハ)の弟。 おだじま こしゅう【小田島 孤舟】 1884. 3. 1(明治17) 〜 1955.12. 4(昭和30) ◇歌人。本名は理平治、旧姓は佐々木。 おだに さんし【小谷 三志】 1765(明和 2) 〜 1841(天保12. 9. 7) ◇江戸後期の神道家・富士講の第8代教主。名は庄兵衛、号は禄行。 _祖先の恩に報いる道として早起きをすすめる。 おだに せいいちろう【男谷 精一郎】《をだに せいいちらう》 1798(寛政10) 〜 1864 ◇江戸後期の剣術家。名は信友、号は静斎。勝海舟の従兄。 _直心影流(ジキシンカゲリュウ)を修め、槍術・弓術にも通じる。 _講武所頭取兼剣術師範役。 _門下に島田虎之助・榊原鍵吉らがいる。 (*)1864(文久 4,元治元)。 ◎人格すぐれ、後世、剣聖と呼ばれた。 おだにのかた【小谷の方】 ⇒お市の方 おだの なおたけ【小田野 直武】 1749(寛延 2) 〜 1780(安永 9. 5.17) ◇江戸中期の洋画家。秋田藩代角館(カクノダテ)北家(佐竹義躬)の家臣。 _1773(安永 2)阿仁銅山の開発のために来藩した平賀源内に手解きを受け、江戸に出て洋画を学ぶ。1774(安永 3)『解体新書』の解剖図を描く。1779(安永 8)藩主佐竹曙山(ショザン)の忌諱(キイ)に触れて帰国。 (4)生年は1749。 (6)生年は1749/50。 (16)生年は1749(寛延 2)。 おち えつじん【越智 越人】 1656(明暦 2) 〜 没年不詳 ◇江戸時代の俳人。通称は十蔵・重蔵。蕉門十哲の一人。加賀国生れで、名古屋に出て染物屋を営む。 おち やすし【越知 保夫】 1911. 9.20(明治44) 〜 1961. 2.14(昭和36) ◇評論家。 おちあい たろう【落合 太郎】《おちあひ たらう》 1886. 8.13(明治19) 〜 1969. 9.24(昭和44) ◇フランス文学者。 おちあい なおぶみ【落合 直文】《おちあひ なほぶみ》 1861(文久元.11.22) 〜 1903.12.16(明治36) ◇歌人・国文学者。幼名は亀次郎のち盛光(モリミツ)、号は桜舎・萩之家(ハギノヤ)、旧姓は鮎貝(アユカイ)。陸前本吉(モトヨシ)郡松岩村生れ。 _1874(明治 7)仙台の神道中教院に入学、その総督(国学者)落合直亮(ナオアキ)の養子となり、直文と改名。1882(明治15)東京大学古典講習科に学ぶ。1883(明治16)直亮の次女竹路と結婚、1891(明治24)離婚し菊川流雪の妹操子(ミサオコ)と結婚。1893(明治26)駒込(コマゴメ)浅嘉町に転居し地名をとって「あさ香社」を結成。 _鮎貝槐園(カイエン)の実兄。 (1)誕生日は1861(文久 4.11.15):誤、1861は文久元である。「あさ香社」住所の本郷浅嘉町にちなんだ命名。 (3)誕生日は1861(文久元.11.22)、戸籍面 5日。 (5)誕生日は1861(文久元.11.22)。駒込浅嘉町(アサカマチ)に転宅し、二月、地名をとってあさ香社を結成した。 (8)誕生日は1861(文久元.11.15)。 (11)誕生日は1861(文久元.12.22)。駒込(コマゴメ)浅嘉町に転居し、二月、地名をとってあさ香社を結成した。 (13)誕生日は1861(文久元.11.22)。浅香社を起して……。 おちあい なみお【落合 浪雄】 1879. 1.18(明治12) 〜 1938. 3. 4(昭和13) ◇劇作家・演出家。本名は昌太郎。 おちあい よしいく【落合 好幾】 1833(天保 4) 〜 1904. 2. 6(明治37) ◇幕末・明治期の浮世絵師。俗称は幾太郎、別号は一(草冠+「惠」:補助5740〔_〕)斎・(草冠+「惠」)斎・朝霞楼・晒落斎。歌川国芳の門に入り、歌川芳幾と名乗り、明治になってから本名の落合姓を名乗る。江戸浅草生れ。 (2)生年は1833(天保 4)。 (14)生年は1832(天保 3)。 (20)生年は1833。通称幾次郎。 おづ やすじろう【小津 安二郎】《をづ やすじらう》 1903(明治36) 〜 1963(昭和38) ◇映画監督。 おつか くうこく【小塚 空谷】 1877. 9.27(明治10) 〜 1959. 4.16(昭和34) ◇詩人。 おつこつ よしこ【乙骨 淑子】 1929. 7. 7(昭和 4) 〜 1980. 8.13(昭和55) ◇児童文学作家・評論家。東京生れ。桜蔭高等女学校専攻科卒業。 おとくに【乙州】 ⇒川井乙州 おなぎ つなお【小名木 綱夫】 1911. 8.11(明治44) 〜 1948. 3.19(昭和23) ◇歌人。本名は黒田良吉。東京生れ。 おにあざみ せいきち【鬼あざみ 清吉】 1776(安永 5) 〜 1805(文化 2. 6.29) ◇江戸後期の大盗賊。江戸小田原町生れ。 _生業は魚売り。すり抜けの名人であった。 _1805(文化 2)獄門。 ◎辞世の句は『武蔵野の色にもはびこりし鬼あざみ/けふ(今日)の暑さにやがてしほるゝ』。 ◎江戸時代、墓に「清吉大明神」の幟が立てられ、その墓石を削り取るとご利益があるといわれている。昔はバクチ打ちが、今は受験生が合格祈願に訪れて、墓石を削っている。 ◆墓は元浅草吉野町圓常寺から1913(大正 2)東京都豊島区の雑司が谷霊園に移される。 (*)雑司が谷霊園の説明札の辞世の句では『武蔵野にはびこる程の鬼薊/今日の暑さに枝葉しほるる』。[図:鬼あざみ清吉1][図:大村益次郎2]鬼あざみ清吉の墓(1997年5月27日撮影) 東京都豊島区雑司が谷4丁目 雑司が谷霊園 おの あずさ【小野 梓】《をの あづさ》 1852(嘉永 5. 2.20) 〜 1886. 1.11(明治19) ◇明治前期の政治家・政治学者・東洋書店の創業者・功利主義者。号は東洋。土佐藩(現:高知県)出身。 _欧米留学後、官吏となる。明治十四年の政変で退官。 _大隈重信の立憲改進党に参加。東京専門学校(現:早稲田大学)創立にも参加。 _著書は『国憲汎論』など。 おの こざん【小野 湖山】 1814(文化11. 1.12) 〜 1910. 4.19(明治43) ◇漢詩人。本姓は横山、名は巻または長愿、通称は仙助(センスケ)、字は懐之。近江国生れ。 おの させお【小野 佐世男】 1895. 2. 6(明治28) 〜 1954. 2. 1(昭和29) ◇漫画家・挿絵画家。横浜市生れ。東京美術学校卒業。 おの しげき【小野 茂樹】 1936.12.15(昭和11) 〜 1970. 5. 7(昭和45) ◇歌人。東京生れ。早稲田大学国文科に学ぶ。交通事故死。 おの ちくきょう【小野 竹喬】《をの ちくけう》 1889(明治22) 〜 1979. 5.10(昭和54) ◇日本画家。本名は英吉。岡山県生れ。 _竹内栖鳳(セイホウ)に師事。 _1918(大正 7)土田麦僊(バクセン)・榊原紫峰(シホウ)・村上華岳(カガク)らと国画創作協会を結成。 おの ひでお【小野 秀雄】 1885(明治18) 〜 1977(昭和52) ◇大正・昭和期の新聞人。滋賀県生れ。東京大学卒業。 _1911(明治44)万朝報社の政治記者。1916〜1922(大正 5〜大正11)「東京日日新聞」記者。 _1922(大正11)新聞史を初めて体系化し『日本新聞発達史』を刊行。1925(大正14)東京大学講師。1929(昭和 4)東大新聞研究室主任。1949(昭和24)東京大学教授、東大新聞研究所初代所長。 おの ひろし【小野 浩】 1894. 6.29(明治27) 〜 1933.10.21(昭和 8) ◇児童文学者。 おの ぶし【小野 蕪子】 1888. 7. 2(明治21) 〜 1943. 2. 1(昭和18) ◇俳人・随筆家・陶芸研究家。本名は賢一郎。福岡県生れ。 _1940(昭和15)日本俳句作家協会常任理事となり、日本文学報国会俳句部会への移行に尽力。 おの まさしげ【小野 昌繁】 1907. 1. 3(明治40) 〜 1976. 7.19(昭和51) ◇歌人。戸籍上の誕生日は 1.25。 おの まつじ【小野 松二】 1901. 5. 2(明治34) 〜 1970. 4. 9(昭和45) ◇編集者。 おの みちこ【小野 美知子】 1890. 9. 8(明治23) 〜 没年不詳 ◇小説家。 おの ゆうこう【小野 有香】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇歌人・詩人・社会主義者。本名は吉勝、のち岩崎姓。 [1]おのえ きくごろう【尾上 菊五郎(初世)】《をのへ きくごらう》 1717(享保 2) 〜 1783(天明 3) ◇江戸時代の歌舞伎役者。はじめ京都で若衆方のち女形をやっていたが、二世市川団十郎に認められ、江戸に下って立役(タチヤク)になる。 [2]おのえ きくごろう【尾上 菊五郎(三世)】《をのへ きくごらう》 1784(天明 4) 〜 1849(嘉永 2.閏4.24) ◇江戸時代の歌舞伎役者。江戸の人。初代の高弟尾上松緑(初世)の養子。 [3]おのえ きくごろう【尾上 菊五郎(五世)】《をのへ きくごらう》 1844 〜 1903(明治36) ◇明治の歌舞伎役者。屋号は音羽屋。三世菊五郎の孫、十二世市村羽左衛門の次男。 _初め十三世市村羽左衛門を名乗る。座元を辞して俳優を専業とし、1868(明治元)襲名。お家芸の新古演劇十種を制定。九世市川団十郎と並称される。 (*)1844(天保15,弘化元)。 [4]おのえ きくごろう【尾上 菊五郎(六世)】《をのへ きくごらう》 1885. 8.26(明治18) 〜 1949. 7.10(昭和24) ◇歌舞伎俳優。本名は寺島幸三。五世の実子。はじめ丑之助、1903(明治36)襲名。昭和初期に日本俳優学校を設立。 おのえ さいしゅう【尾上 柴舟】《をのへ さいしう》 1876. 8.20(明治 9) 〜 1957. 1.13(昭和32) ◇歌人・書家・国文学者。本名は八郎、旧姓は北郷(キタゴウ)。岡山県西西条(サイサイジョウ)郡津山(津山市)生れ。 _1895(明治28)落合直文のあさ香社(短歌結社)に参加。第一高等学校を経て、1901(明治34)東京帝国大学国文科卒業。 (5)尾上 柴舟(おのえ さいしゅう)。 (13)尾上 柴舟(おのえ しばふね,さいしゅう)。 おのえ まつのすけ【尾上 松之助】《をのへ まつのすけ》 1875. 9.18(明治 8) 〜 1926(大正15) ◇映画俳優。本名は中村鶴三。岡山生れ。 _はじめ歌舞伎の旅役者で、1909(明治42)映画製作者の牧野省三に認められて日活時代劇に主演し、映画草創期の無声映画に活躍。千本以上の作品に出演。「目玉の松ちゃん」の愛称で一時代を画した。 _主演作品は『自来也』・『荒木又右衛門』・『忠臣蔵』など。 おのだ すいう【小野田 翠雨】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇速記者。本名は亮正。 おのでら こうえもん【小野寺 幸右衛門】 ⇒小野寺秀富 おのでら じゅうない【小野寺 十内】《をのでら じふない》 ⇒小野寺秀和 おのでら ひでかず【小野寺 秀和】 1643(寛永20) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、京都の留守居役、禄高150石、役料70石。通称は十内(シュウナイ)、戒名は刃以串剣信士、吉良家の探索中の変名は仙北十庵(センボク・ジュウアン)または又四郎。妻丹女(タンジョ)は赤穂藩士灰方佐五右衛門(ハイカタ・サゴエモン)の娘、途中で脱盟した武具奉行藤兵衛(トウヘエ)の妹。小野寺幸右衛門(コウエモン)秀富(ヒデトミ)の養父。間瀬久太夫(マセ・キュウダユウ)の従兄。 _浪人後、しばらく京都山科にいたが、大石主税(チカラ)良金(ヨシカネ)と江戸に出る。吉良家討ち入りでは裏門隊。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、横井儀右衛門(ギエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 おのでら ひでとみ【小野寺 秀富】 1676(延宝 4) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。部屋住。通称は幸右衛門(コウエモン)、戒名は刃風颯剣信士、吉良家の探索中の変名は仙北又助(センボク・マタスケ)。父は大高兵左衛門(オオタカ・ヘイザエモン)、母は小野寺十内(ジュウナイ)秀和(ヒデカズ)の姉貞立尼(テイリュウニ)。大高源五(ゲンゴ)忠雄(タダオ)の実弟。秀和の養子。 _吉良家討ち入りでは表門隊。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、田上五左衛門(タガミ・ゴザエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 おののいもこ【小野 妹子】《をののいもこ》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇飛鳥時代の廷臣。隋では蘇因高(ソインコウ)と称する。 _ 607年、聖徳太子に選ばれ最初の遣隋使となり、煬帝(ヨウダイ)に国書を提出、翌年隋使裴世清(ハイセイセイ)とともに帰朝。隋使帰国のとき再び大使として隋に渡る。 おののおつう【小野 お通】《をののおつう》 1559(永禄 2) 〜 1616(元和 2) ◇歴代美濃に住した小野正秀の娘。和歌・書画・糸竹(管弦)の技に秀で、淀君(ヨドギミ)や千姫に仕えた。 (25)生没年:1568〜1631?。 ◎『浄瑠璃十二段草子』を作ったされるが、現在誤り伝えられたとされ否定されている。 おののおつう【小野 お通】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇浄瑠璃節作者の祖。伝記は未詳。 _一説に、水戸城主武田常陸介信吉の子小野和泉の娘。 _織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀次の侍女となり、『浄瑠璃十二段草子』を作ったとされる。 _徳川秀忠の娘千姫に琴曲を授けたとも伝えられる。 おののこまち【小野 小町】《をののこまち》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前期の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。仁明・文徳朝ころの人。小野篁(タカムラ)の子の出羽郡司小野良真の娘、小野宰相常詞の娘など、出生については諸説あって不明。 _恋愛歌で知られ、『古今和歌集』など勅撰集に62首が入っている。家集の『小町集』(1巻)は後人の撰。 _文屋康秀・凡河内躬恒・在原業平・安倍清行・小野貞樹・僧遍昭らとの贈答歌がある。 _絶世の美女としても有名で、謡曲・浄瑠璃・御伽草子などの題材となったり、全国の小町塚や小町誕生の井戸などいろいろな伝説が多い。 ◎「花の色はうつりにけりないたづらに/わが身よにふるながめせしまに」(百人一首)。 ◆小町堂まつり[ 6.20]秋田県雄勝郡雄勝町(オガチマチ)の小町堂で追善の催し。 _忌日は旧暦 3.18とされている。 おののたかむら【小野 篁】《をののたかむら》 802(延暦21) 〜 852(仁寿 2.12.22) ◇平安前期の漢詩人・歌人。その奔放な性格と参議になったことから野相公(ヤショウコウ)・野宰相(ヤサイショウ)とも呼ばれる。小野妹子(イモコ)の子孫、小野岑守(ミネモリ)の子、小町道風(トウフウ)の祖父。 _ 837(承和 4)遣唐副使に任ぜられたが、出発の際に大使藤原常嗣(ツネツグ)と乗船のことに関して朝廷の処置に怒り、病と称して命を奉ぜず、隠岐(オキ)に流される。 _ 840(承和 7)召還されて従三位・参議。 _博学で、清原夏野・菅原清公らと『令義解(リョウノギゲ)』を編纂。 _作品は『古今和歌集』・『経国集』・『和漢朗詠集』。 (6) 838〜 840隠岐に流された。 ◎東京都台東区下谷2丁目に篁を祀(マツ)った小野照崎神社がある。 おののとうふう【小野 道風】《をののたうふう》 894(寛平 6) 〜 966(康保 3.12.27) ◇平安中期の書家。藤原佐理(スケマサ)・藤原行成(ユキナリ)とともに三蹟(サンセキ)の一人。和様発達の基をなした。小野篁(タカムラ)の孫。 (4)正しくはミチカゼとよむ。 (6)みちかぜとも読む。 おばた かげのり【小幡 景憲】《をばた かげのり》 1572(元亀 3) 〜 1663(寛文 3) ◇安土桃山時代の武将・江戸前期の軍学者。通称は勘兵衛。昌盛の三男。上野国の人。甲州流軍学の祖。 _はじめ武田氏に仕え、武田氏滅亡後に牢人を経て、徳川秀忠に仕える。1633(寛永10)知行1,500石。 _山鹿素行の師。高坂昌信に仮託して『甲陽軍鑑』を著す。 おばた げんのすけ【小畑 源之助】 1875(明治 8) 〜 1959(昭和34) ◇昭和期の実業家。 _満州日本ペイント・台湾日本ペイント日満林産化学などを設立。 おばた ただよし【小畑 忠良】 1893(明治26) 〜 1977(昭和52) ◇昭和期の実業家・官僚。東京大学卒業。 _住友本社に入社、商工課長・経理部長を経て、1940(昭和15)退社し、企画院次長。のち産業報国会理事長・大政翼賛会事務総長・愛知県知事・東海北陸地方総監。 おばた ていいち【小畠 貞一】 1888. 3.26(明治21) 〜 1942.10.10(昭和17) ◇詩人。本名は悌一。 おばた とくじろう【小畑 篤次郎】 1841(天保12) 〜 1905(明治38) ◇明治期の学者・実業家。中津藩士小畑徳蔵の次男。 _交詢社の結成に関与。 おばら くによし【小原 国芳】《をばら くによし》 1887(明治20) 〜 1977(昭和52) ◇教育家。鹿児島県生れ。 _京都帝国大学卒業。 _1929(昭和 4)玉川学園を創設。 _著書は『母のための教育学』など。 おばら げん【小原 元】 1919. 2. 1(大正 8) 〜 1975. 4.30(昭和50) ◇評論家。 [1]おまんのかた【お万の方】 1548(天文17) 〜 1619(元和 5) ◇徳川家康の側室。小督局・古茶ともいう。出家して長勝院。 [2]おまんのかた【お万の方】 1580(天正 8) 〜 1653(承応 2) ◇徳川家康の側室。号は蔭山殿、戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。上総国勝浦の正木邦時の娘、母は北条氏堯の娘。 _邦時の死後、母は蔭山氏房に再婚。1590(天正18)家康の側室になり、蔭山殿と称する。 _1602(慶長 7)頼宣(ヨリノブ)(紀伊徳川家の祖)を生む。 _1603(慶長 8)頼房(ヨリフサ)(水戸徳川家の祖)を生む。 (2)戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。 (16)出家して養殊院と号した. [3]おまんのかた【お万の方】 生年不詳 〜 1642(寛永19) ◇徳川家康の側室。はじめ阿勝方。出家して英勝院。 [4]おまんのかた【お万の方】 生年不詳 〜 1711 ◇徳川家光の側室。お梅の方とも称した。 (*)1711(宝永 8,正徳元)。 おやけ けいすけ【小宅 圭介】 1904. 3.23(明治37) 〜 1970. 3. 5(昭和45) ◇歌人。 おやま ていほ【小山 鼎浦】 1879.11.24(明治12) 〜 1919. 8.25(大正 8) ◇評論家。本名は東助(トウスケ)。宮城県本吉郡気仙沼町生れ。第二高等学校を経て、1903(明治36)東京帝国大学文科哲学科卒業。早稲田大学・関西大学の教師、「東京毎日新聞」の記者を経て、晩年は代議士。 おやま とくじろう【尾山 篤二郎】 1889.12.15(明治22) 〜 1963. 6.23(昭和38) ◇歌人・国文学者。号は草の家・刈萱・秋人・無柯亭(ムカテイ)主人。金沢市生れ。 _15歳のとき金沢商業在学中に膝関節結核のため右足を大腿部より切断、学校を中退。1904(明治37)私立金沢英学院に入学。 おやま ともまさ【小山 朝政】 1158(保元 3) 〜 1238(嘉禎 4. 3.30)? ◇鎌倉中期の武将。小山政光(マサミツ)の長男。 おやま ひさじろう【小山 久二郎】 1905. 9. 7(明治38) 〜 1984. 1.12(昭和59) ◇出版人。愛媛県生れ。法政大学中退。 _岩波書店を経て、1933(昭和 8)独立し小山書店を創立。 おやま ひどとも【小山 秀朝】 生年不詳 〜 1335(<南>建武 2,<北>建武 2) ◇南北朝時代の武将。小山貞朝の子。 おやま まさみつ【小山 政光】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉前期の武将。大田行政の子、小山朝政(トモマサ)・長沼宗政・結城朝光の父。 おやま よしまさ【小山 義政】 生年不詳 〜 1382(<南>弘和 2,<北>永徳 2) ◇南北朝時代の武将。小山氏政の子。小山若犬丸(ワカイヌマル)の父。 おやま わかいぬまる【小山 若犬丸】 生年不詳 〜 1397(応永 4) ◇室町前期の武将。小山義政の子。 おやまだ ともきよ【小山田 与清】《をやまだ ともきよ》 ⇒高田与清 おりい ぐさい【折井 愚哉】 1871(明治 4. 2.24) 〜 1934. 9.21(昭和 9) ◇俳人・画家。本名は太一郎、別号は無筆堂・石兆・梁岳・梁溪・雲水坊。 おりぐち しのぶ【折口 信夫】 1887. 2.11(明治20) 〜 1953. 9. 3(昭和28) ◇国文学者・民俗学者・歌人。筆名は釈迢空。大阪府西成郡木津村市場筋生れ。生涯独身。 _1910(明治43)国学院大学卒業。柳田国男に師事して日本民俗学の開拓に努め、民俗学的研究を国文学に導入、芸能史でも新境地を開く。 _1917(大正 6)「アララギ」同人。1922(大正11)国学院大学教授、1928(昭和 3)慶応義塾大学教授。1932(昭和 7)文学博士。1934(昭和 9)日本民俗協会成立、幹事となる。1943. 4.(昭和18)大日本芸能学会発足、初代会長となる。 _藤井(折口)春洋(ハルミ)の養父。 (1)釈 迢空(しゃくのちょうくう)、本名折口信夫(オリクチ・シノブ)。 (3)釈 迢空(しゃく ちょうくう)。 (5)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(チョウクウ)。 (6)折口 信夫(おりくち しのぶ)、号は釈迢空。 (8)折口 信夫(おりくち しのぶ)、別名は釈迢空(シャクノチョウクウ)。信夫は自身はシノブと称したが幼時はノブオであったという。 (11)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(シャクチョウクウ)。 (13)釈 迢空(しゃく ちょうくう)。 (16)折口 信夫(おりぐち しのぶ)、雅号は釈迢空。 (21)折口 信夫(おりくち しのぶ)、筆名釈迢空(シャクチョウクウ)。 (26)折口 信夫(おりくち しのぶ)。歌人としての名は釈迢空(シャクチョウクウ)。大正九年(一九二〇)国学院大学専任講師、翌年教授。 ◆迢空忌[ 9. 3]。 おりくち はるみ【折口 春洋】 1907. 2.28(明治40) 〜 1945. 3.19(昭和20) ◇歌人。旧姓は藤井。釈迢空(折口信夫)の養嗣子、1944. 7.(昭和19)応召中に入籍。陸軍中尉として硫黄島で玉砕。 おりたけ りょうほう【折竹 蓼峰】 1884. 1.11(明治17) 〜 1950. 1.13(昭和25) ◇翻訳家・フランス語学者。本名は錫(タマウ)、別号は「R・T・O」・多音祐。 おわり すいそう【尾張 穂草】 1892. 1. 2(明治25) 〜 1973. 4.20(昭和48) ◇歌人。本名は真之介。 おんだ しょういち【恩田 正一】 1907. 7.25(明治40) 〜 1989. 8.20(平成元) ◇渡良瀬川鉱毒根絶規制同盟会初代会長。群馬県生れ。法政大学卒業。 _古河鉱業足尾銅山から排出される鉱毒を廃絶するため、1958(昭和33)渡良瀬川鉱毒根絶規制同盟会が結成され初代会長に就任、1962(昭和37)辞任。 おんち こうしろう【恩地 孝四郎】 1891. 7. 2(明治24) 〜 1955. 6. 3(昭和30) ◇版画家・画家・装幀家・詩人。東京生れ。 _1909(明治42)東京赤坂溜池の白馬会洋画研究所に通い、1910(明治43)東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科予備科に入学、1915(大正 4)中退。 おんち てるたけ【遠地 輝武】 1901. 4.21(明治34) 〜 1967. 6.14(昭和42) ◇詩人・美術評論家。本名は木村重夫、別の筆名は本地輝武・本地正輝。兵庫県姫路市生れ。木村好子(ヨシコ)の夫。 _県立姫路中学校中退、1923(大正12)日本美術学校西洋画科卒業。 (5)誕生日は 4.21。 (13)誕生日は 7.21。 (21)誕生日は 4.21。 おんな なべ【恩納 なべ】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸中期の女流歌人。琉球の国頭恩納間切生れ。琉球の万葉歌人といわれる。「うんな なぴー」とも呼ぶ。