せいがん しょうてつ【清巌 正徹】 1381(永徳元) 〜 1459(長禄 3. 5. 9) ◇室町前期の禅僧(臨済宗)・歌人。本名は小松正清・信清、俗称は徹書記(テツショキ)、道号は清厳(セイガン)・清岩(セイガン)、諱(イミナ)は正徹。庵号は招月(ショウゲツ)・松月。 _冷泉為尹(レイゼイ・タメタダ)に師事。門下に正広・心敬(シンケイ)・高山宗砌(ソウゼイ)・蜷川(ニナガワ)親当らがいる。 せいかんいんのみや【静寛院宮】 ⇒和宮 せいしょうなごん【清少納言】《せいせうなごん》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の随筆家。本名は不明。父は肥後守清原元輔(モトスケ)、曾祖父は清原深養父(フカヤブ)。『枕草子』の作者。 _ 981(天元 4)ころ橘則光(ノリミツ)と結婚、 982(天元 5)則長が生れ、間もなく離婚したようである。のち少納言藤原信義と再婚。 993(正暦 4)一条天皇の中宮定子(テイシ)(のち皇后)の女房となる。このころ信義は疫病で病死したらしく、やがて藤原棟世の妻となる。 _1000(長保 2.12.16)定子が亡くなり、遺された三人の皇子女の養育にあたる。 (2)生没年は不詳だが,966(康保3)ころ生まれ,治安・万寿年間(1021〜27)に没したらしい。 せいせいしょうぐんのみや【征西将軍宮】《せいせいしやうぐんのみや》 ⇒懐良親王 せいせつ しょうちょう【清拙 正澄】《せいせつ しやうちよう》 1274(文永11) 〜 1339(<南>延元 4,<北>暦応 2) ◇鎌倉時代の臨済宗の帰化僧・清拙派の祖。諡号(シゴウ)は大鑑禅師。中国福州の人。 _1326年、来日。北条高時の招きで鎌倉の建長寺・浄智寺に住する。1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)後醍醐天皇に召されて京都建仁寺、また南禅寺に歴住。 _著書は『大鑑清規』など。 (*)1326(正中 3,嘉暦元)。 せいの ちょうたろう【清野 長太郎】 1869(明治 2) 〜 1926(大正15) ◇明治後期〜大正期の内務官僚。香川県生れ。 _東京大学法科卒業。内務省に入り、富山県理事官・香川県理事官を経て内務省理事官。 _1903(明治36)ベルギーの人口学万国会議に委員として派遣。 _1906(明治39)秋田県知事、同年南満州鉄道会社の理事となるが1913(大正 2)辞職。 _三年後再び起用され、兵庫県知事・神奈川県知事を経て、帝都復興局長官。 (*)1926(大正15,昭和元)。 せいはくどう こうふう【生白堂 行風】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸前期の狂歌師。姓は朝倉、字は懐中、別号は汚道居士。 (5)生白堂 行風(せいはくどう こうふう)。 (11)生白堂 行風(せいはくどう ぎょうふう)。 せいみや ひとし【清宮 彬】 1886.12.23(明治19) 〜 1969.10. 5(昭和44) ◇画家。 [1]せがわ じょこう【瀬川 如皐(初世)】 1739(元文 4) 〜 1794(寛政 6) ◇歌舞伎狂言作者。 [2]せがわ じょこう【瀬川 如皐(二世)】 1757(宝暦 7) 〜 1833(天保 4) ◇歌舞伎狂言作者。 [3]せがわ じょこう【瀬川 如皐(三世)】 1806(文化 3) 〜 1881. 6.28(明治14) ◇歌舞伎狂言作者。号は吐蚊(トブン)・馬道の狂言堂。江戸生れ。 [4]せがわ じょこう【瀬川 如皐(四世)】 1857(安政 4) 〜 1938. 1.17(昭和13) ◇歌舞伎作者。本名は川村太一。1897(明治30)四世如皐を襲名。 [5]せがわ じょこう【瀬川 如皐(五世)】 1888(明治21) 〜 1957.11.11(昭和32) ◇劇作家。本名は川村千臣。四世の実子。別名は春郎。 せき いざん【関 為山】 1804(文化元) 〜 1878. 1.19(明治11) ◇俳人。本名は永蔵、別号は千輅・月の本・梅の本・梅閑人・渉壁・正風園・梅室門。 せき こうわ【関 孝和】《せき かうわ》 ⇒関孝和 せき しんぱち【尺 振八】 1839(天保10) 〜 1886.11.28(明治19) ◇英学者。 せき たかかず【関 孝和】 1642(寛永19)頃 〜 1708(宝永 5.10.24) ◇江戸前期の数学者・和算関流の開祖。通称は新助、号は自由亭。生地は上野国藤岡または江戸とも。 _高原吉種の門に学ぶ。甲州公徳川綱重とその子綱豊(のち第6代将軍家宣)に使え、幕府の納戸組頭となる。 _中国の算木を用いる天元術の欠点を改め、1674(延宝 2)筆算式の代数学である「帰源整法」を考案。方程式論・行列式論などを創始。また、幾何学を研究・開拓など多方面に業績を残す。 _著書は『大成算経』・『括要算法』・1674(延宝 2)『発微算法(ハツビサンポウ)』など。 (6)生年は1637か42。点竄術の項目で「帰源整法」。 (19)生年は1640頃。 (+)浄輪寺の立て札では「六六歳で歿した」。「得源整法」。 ◎算聖と呼ばれた。 ◎「帰源整法」は孫弟子の松永良弼(ヨシスケ)が「点竄(テンザン)術」と改名した。 ◆墓は東京都新宿区弁天町の浄輪寺。 せき とくや【関 登久也】 1899. 3.28(明治32) 〜 1957. 2.15(昭和32) ◇歌人。本名は徳弥。のち岩田家養子。 せき なおひこ【関 直彦】 1857(安政 4) 〜 1934(昭和 9) ◇翻訳家。 せき にょらい【関 如来】 1866(慶応 2) 〜 1938. 2.20(昭和13) ◇新聞記者・美術評論家。本名は厳二郎、別号は履長・自然庵。 せき ひょうう【関 萍雨】 1880. 3.21(明治13) 〜 1957. 7.11(昭和32) ◇俳人。本名は正義、旧号は飄雨・縹雨。 せき ぶんげつ【関 文月】 1913. 7.10(大正 2) 〜 1945. 3.11(昭和20) ◇詩人。号は小舟。太平洋戦争でソ連の捕虜となり病没。 せきぐち じろう【関口 次郎(關口 次郎)】 1893. 6.16(明治26) 〜 1979. 5. 9(昭和54) ◇劇作家・演出家。本名は二郎。福井県敦賀町生まれ。京都第一中学校・第一高等学校を経て、1918(大正 7)東京大学独文科卒業。 せきぐち たい【関口 泰】 1889. 3. 1(明治22) 〜 1956. 4.14(昭和31) ◇ジャーナリスト。 せきぐち つぎお【関口 存男】 1894.11.21(明治27) 〜 1958. 7.25(昭和33) ◇ドイツ語学者。 せきね しょうじ【関根 正二】 1899. 4. 3(明治32) 〜 1919. 6.16(大正 8) ◇画家。本名は正二(マサジ)。病没。 (9)戸籍面では 4.10生れ。 せきね まさなお【関根 正直】 1860(万延元. 3. 3) 〜 1932. 5.26(昭和 7) ◇国文学者。 せきね もくあん【関根 黙庵】 1863(文久 3) 〜 1923.11.27(大正12) ◇演劇評論家。本名は金四郎。筆名は劇筆子。 せきの よしお【関野 嘉雄】 1902. 3.22(明治35) 〜 1962.12. 4(昭和37) ◇児童文化研究家・視聴覚教育研究家。 せきふじ とういん【関藤 藤蔭】 1807(文化 4) 〜 1876(明治 9) ◇江戸幕末の政治家。 _福山藩に仕え、のち幕府老中の阿部正弘の懐刀となる。 せきや せいけい【関谷 清景】 1854 〜 1896(明治29) ◇地震学者。大垣藩(岐阜県)藩士の子。 _大学南校で機械工学を修め、イギリスら留学。 _帰国後、当時来日していたユーイングやミルンとともに地震学を研究。1886(明治19)東京大学理学部に新設された、世界最初の地震学科教授となる。 (*)1854(嘉永 7,安政元)。 せっしゅう【雪舟】《せつしう》 1420(応永27) 〜 1506(永正 3. 8. 8) ◇室町時代の画僧・日本水墨画の大成者。諱は等楊(トウヨウ)、法号は雪舟、俗姓は小田。備中国赤浜生れ。十代前半で出家し上洛、相国寺の春林周藤に参禅、画を周文に学ぶ。対明貿易の拠点であった周防(スオウ)山口に雲谷(ウンコク)庵という画房を開く。1467(応仁元)年大内政弘の勘合船(遣明船)に便乗し渡明、1469年帰国。狩野派や長谷川派に大きな影響を与えた。 (2)'67(応仁 1)遣明使桂庵玄樹に随行し……。応仁の乱中に帰国し……。 (4)一四六八年、幕府の遣明船で明に渡り、本格の水墨画技法を学び、翌年帰国。 (6)1467年大内政弘の勘合船に便乗して渡明,69年帰国。 (*)1469(応仁 3,文明元)。 せと えいいち【瀬戸 英一】 1892. 7.21(明治25) 〜 1934. 4.11(昭和 9) ◇演劇評論家・劇作家・小説家。筆名は閻太郎・碧虚郎。 せと よしなお【瀬戸 義直】 1889. 2.26(明治22) 〜 1924. 6.15(大正13) ◇翻訳家。 せとぐち とうきち【瀬戸口 藤吉】 1868(慶応 4) 〜 1941(昭和16) ◇軍楽隊長。 せぬま かよう【瀬沼 夏葉】 1875.12.11(明治 8) 〜 1915. 2.28(大正 4) ◇翻訳家(ロシア語)。本名は郁子(イクコ)、旧姓は山田。群馬県高崎市生れ。駿台女子神学校卒業。神学士瀬沼恪三郎の妻。 (3)誕生日は12. 1。 (5)誕生日は12.11。ニコライ女子神学校卒。神学校校長瀬沼恪三郎(カクサブロウ)と結婚後、……。 (9)誕生日は12.11。 (11)誕生日は12.11。 (13)誕生日は12.11。 せのお あきお【妹尾 アキ夫】 1892. 3. 4(明治25) 〜 1962. 4.19(昭和37) ◇翻訳家・小説家。本名は韶夫。岡山県津山市生れ。早稲田大学英文科卒業。 せのお ぎろう【妹尾 義郎】 1889.12.16(明治22) 〜 1961. 8. 4(昭和36) ◇宗教家(仏教)。 せりざわ かも【芹沢 鴨】 生年不詳 〜 1863(文久 3. 9.16) ◇幕末の水戸藩浪士・新撰組局長。本名は木村継次。 _戸ヶ崎熊太郎について神道無念流の剣を修める。 _1862(文久 2)幕府の浪士組に応じ、1863(文久 3. 2.)上洛。尊攘派の浪士清川八郎らが幕命により江戸に戻された後、土方歳三(ヒジカタ・トシゾウ)・近藤勇(イサミ)ら20余人と3月に新撰組を組織し隊長となる。 _尊皇の志士弾圧に辣腕を振(フル)うが、京都の豪商に金品を強要するなどで、近藤方によって就眠中に謀殺(粛清)される。 (2)戸ヶ崎熊太郎ついて……。 (16)所ヶ崎熊太郎に師事して…….「とがさきくまたろう」の項では「戸ヶ崎熊太郎」。 せりた ほうしゃ【芹田 鳳車】 1885.10.28(明治18) 〜 1954. 6.11(昭和29) ◇俳人(自由律)。本名は誠治、旧姓は児島。 せん しょうあん【千 少庵】《せん せうあん》 1546(天文15) 〜 1614(慶長19) ◇安土桃山時代の茶人。初名は宗淳。利休の後妻宗恩の連れ子、利休の女婿、宗旦の父、先妻の子の義兄道安とは同年。 _不審庵を再興し千家第二世となって少庵宗淳と号する。 ◎道安の剛の茶に対し柔の茶といわれる。 せん そうえき【千 宗易】 ⇒千利休 せん どうあん【千 道安】《せん だうあん》 1546(天文15) 〜 1607(慶長12) ◇安土桃山時代の茶人。利休の先妻の子(長男)、後妻の連れ子の義弟少庵とは同年。 _義弟少庵が千家を継いだため晩年は不遇。 ◎少庵の柔に対して剛の茶といわれる。 _道安囲(ドウアンガコイ)・道安風炉(フロ)などが、その好みを伝えている。 せんがく【仙覚】 1203(建仁 3) 〜 没年不詳 ◇鎌倉前期の万葉学者。 せんげ たかとみ【千家 尊福】 1845(弘化 2. 8. 6) 〜 1918. 1. 3(大正 7) ◇明治・大正時代の神道家・政治家・歌人。千家尊澄(タカズミ)の嫡男、千家元麿(モトマロ)の父。 _1872(明治 5. 1.)出雲大社の大宮司、教導職権少教正、神道西部管長。1873. 1.(明治 6)出雲敬神講(のち出雲大社教)を組織、1882(明治15)明治政府から公認、宮司を辞し大社教(タイシャキョウ)初代管長として国家神道体制に寄与。 _1884. 7.(明治17)男爵。 _1888(明治21)管長をやめて政界に入り、元老院議官・貴族院議員、埼玉県・静岡県・東京府知事、1908(明治41)司法大臣などを歴任。 せんげ としざね【千家 俊信】 1764(宝暦14. 1.16) 〜 1831(天保 2. 5. 7) ◇江戸後期の国学者。通称は〓主(キヨヌシ)、号は葵斎・梅廼舎。出雲国造(コクゾウ)俊男の三男。 _松江で漢学を学び、京都で西依成斎(ニシヨリ・セイサイ)に垂加神道を学ぶ。1786(天明 6)伊予の鎌田五根(イツネ)に橘家(キツケ)神道を学ぶ。1792(寛政 4)内山真龍(マタツ)の勧めにより本居宣長(モトオリ・ノリナガ)に入門。 _杵築に梅廼舎塾を開く。 せんげ もとまろ【千家 元麿】 1888. 6. 8(明治21) 〜 1948. 3.14(昭和23) ◇白樺派の詩人。東京市麹町区三番町生れ。父は男爵千家尊福(タカトミ)、母は梅崖(バイガイ)と号する閨秀画家の小川豊子。元麿は長男で庶子であった。 _慶応幼稚舎・普通部、府立第四中学校など転々とする。 _窪田空穂に短歌を、佐藤紅緑に俳句を学ぶ。 _1913(大正 2)ころから武者小路実篤らと交わり、白樺派の詩人として人道主義に根ざした詩を発表。 _作品は詩集『自分は見た』・『虹』・『詩、美、自然』、小説戯曲集『青い枝』など。 (3)千家 元麿(せんげ もとまろ)。 (5)千家 元麿(せんげ もとまろ)。 (11)千家 元麿(せんけ もとまろ)。 (13)千家 元麿(せんげ もとまろ)。 せんとうてい【宣統帝】 ⇒愛新覚羅溥儀 せんのそうえき【千 宗易】 ⇒千利休 せんのりきゅう【千 利休】 1522(大永 2) 〜 1591(天正19. 2.28) ◇安土桃山時代の茶人。千家流の茶湯の開祖。幼名は与四郎、諱(イミナ)は宗易(ソウエキ)、斎号は不審庵・抛筌斎(ホウセンサイ)、利休は居士号。泉州堺生れ。魚問屋田中与兵衛の長男。足利義政・義尚の同朋衆千阿弥の孫とするが不詳。千道安(セン・ドウアン)・少庵の父。 _北向道陳(キタムキ・ドウチン)ついで武野紹鴎(ジョウオウ)に茶湯を学び、侘茶(ワビチャ)を完成。大徳寺の笑嶺宗訴に参禅、宗易と改名。 _1568(永禄11. 9.)上洛した織田信長に政商として接近、今井宗久(ソウキュウ)・津田宗及(ソウキュウ)とともに茶頭(サジュウ)(500石)となる(三大宗匠)。 _本能寺の変後、豊臣秀吉の茶頭(2000石)。1582(天正10.10.)禁中茶会で秀吉を後見。1585(天正13)利休居士を名乗る。しだいに側近としての働きもする。1587(天正15.10. 1)秀吉主催の北野大茶湯を宗及・宗及らと後見。 _1589(天正17)亡父与兵衛の五十回忌に一門をあげて大徳寺山門に金毛閣を寄進、楼上に等身大の自像を置き、秀吉の忌諱(キイ)に触れて追放。ついで茶器に法外な値段をつけて売ったことが発覚し切腹を命ぜられ、聚楽第(ジュラクダイ)外葭屋(ヨシヤ)町の屋敷で自刃。しかし、切腹を命じた原因については定説がない。 ◆利休忌(宗易忌)[旧暦 2.28]大阪府堺市の南宗寺。[ 2.28]裏千家今日庵(コンニチアン)で追善茶会。[ 3.27]京都市上京区小川の表千家不審庵。 (6)1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ……。 (2)'85(天正13)利休居士を名のり始め,……。 (17)天正十年十月、秀吉が行った禁中茶会に利休居士の名で出席し……。 ◎長男道安の義弟少庵が千家を継ぐ。 せんひめ【千姫】 1597(慶長 2) 〜 1666(寛文 6. 2. 6) ◇徳川秀忠(ヒデタダ)の長女・豊臣秀頼(ヒデヨリ)の室。天樹院(テンジュイン)。 _1603(慶長 8)大坂に入城し7歳で秀頼に嫁す。1615(慶長20. 5.)大坂落城の際に救出され、翌年、桑名城主本多忠政(タダマサ)の子忠刻(タダトキ)に再婚。1626(寛永 3)忠刻の死後、落飾して天樹院と称し江戸に帰り竹橋御殿に住む。 ◎大坂落城の際、千姫は石見国津和野(3万石)城主坂崎出羽守直盛(ナオモリ)に助けられて城を出、坂崎が醜男だったので家康が約束した婚約を破り、美男の忠刻に再婚したといわれる。実際には堀内主水(モンド)という武士が千姫を大坂城から連れ出している。また忠政の妻は家康の長男信康(ノブヤス)の娘熊姫(クマヒメ)で、熊姫から忠刻の嫁にと申し入れがあった。坂崎が千姫を奪還しようとしたのは、自分が世話をした京都の公卿家との縁組みを無視されたためという。 ◆墓は東京都文京区の伝通院。[図:千姫]千姫の墓(1998年2月19日撮影) 東京都文京区小石川3−23−6 無量山 伝通院 墓地