そ まんしゅ【蘇 曼殊】 1884. 8.10(明治17) 〜 1918. 5. 2(大正 7) ◇小説家。日本名は河井宗之助。父は中国人。 そう ふかん【宗 不旱】 1884. 5.14(明治17) 〜 1942. 5.29(昭和17) ◇歌人。本名は耕一郎。 そうあみ【相阿弥】《さうあみ》 生年不詳 〜 1525(大永 5.10.27) ◇室町後期の絵師・香人(相阿弥流の祖)。姓は中尾、法名は真相、通称は相阿弥、号は松雪斎・鑑岳。祖父は能阿弥(真能)、父は芸阿弥(真芸)。三代に渡り将軍足利家に仕え、同朋衆(ドウボウシュウ)となる。また唐物奉行として唐物の書画・茶器・什物などを管掌、銀閣寺の庭を造園する。茶の湯・生花にも通じ東山文化の代表的人物。 (2)唐物奉行。 (16)書物奉行。 (*)「東山殿」は足利義政の異称。 そうえん【宗演】 ⇒釈宗演 そうぎ【宗祇】 1421(応永28) 〜 1502(文亀 2. 7.30) ◇室町後期の連歌師。姓は飯尾(イイオ)、別号は自然斎(ジネンサイ)・種玉庵(シュギョクアン)・見外斎(ケンガイサイ)。生国は紀伊国・近江国の両説がある。 _宗砌(ソウゼイ)・心敬らに連歌を、東常縁(トウノツネヨリ)・一条兼良らに和歌・古典を学ぶ。のち東常縁から『古今集』の秘説を授かり、「古今伝授」はここから始まったという。 ◆宗祇忌[旧暦 7.30]。 そうそうてい こっぴ【痩々亭 骨皮】 1861(文久元) 〜 1913. 1.19(大正 2) ◇風刺文学作家。本名は西森武城、別号は骨皮道人・愛柳痴史。 そうだ きいちろう【左右田 喜一郎】《さうだ きいちらう》 1881. 2.28(明治14) 〜 1927. 8.11(昭和 2) ◇大正時代の経済学者・銀行家・哲学者。神奈川県横浜生れ。 _東京高等商業学校(現:一橋大学)卒業。 _東京高等商業学校と京都帝国大学の講師を兼任。 _横浜社会問題研究所を主宰。左右田銀行頭取・貴族院議員。 _貨幣を価値の客観的指標とする経済哲学を展開。 _著書は『貨幣と価値』・『文化価値と極限概念』など。 (4)没年は1927。 (6)没年は1927。 (9)没日は1926. 8.11(大正15)。 そうちょう【宗長】 1448(文安 5) 〜 1532(享禄 5. 3. 6) ◇室町中期の連歌師。初め宗歓・宗観と称した、号は長阿(チョウオ)・柴屋軒(サイオクケン)。駿河国(スルガノクニ)生れ。 そうま ぎょふう【相馬 御風】《さうま ぎよふう》 1883. 7.10(明治16) 〜 1950. 5. 8(昭和25) ◇文芸評論家・詩人・歌人。本名は昌治(ショウジ)、小学校時代の号は窓竹、中学校より御風。新潟県西頸城(ニシクビキ)郡糸魚川(イトイガワ)生れ。 _1906(明治39)早稲田大学英文科卒業。 _岩野泡鳴(ホウメイ)らと「白百合」を創刊。 _のち「早稲田文学」を編集し、口語自由詩を提唱して自然主義評論家として活躍。 _『還元録』を刊行後、文壇を離れて郷里に戻り良寛研究に専念。 _著書は『御風詩集』・『黎明期の文学』・『自我生活と文学』・『大愚良寛』など。 (1)没日は 5. 7。 (3)没日は 5. 8。 (5)没日は 5. 8。 (9)没日は 5. 7。 (11)没日は 5. 8。 (13)没日は 5. 8。 そうま こっこう【相馬 黒光】《さうま こくくわう》 1876. 9.12(明治 9) 〜 1955. 3. 2(昭和30) ◇女流随筆家。本名は良(リョウ)。仙台士族星家の出。国木田独歩(ドッポ)の妻佐々城信子の従妹。 _横浜フェリス女学校・明治女学校に学ぶ。 _相馬愛蔵(アイゾウ)と結婚後、東大正門前のパン屋中村屋から新宿に進出し新宿中村屋を創業。インド式カリーを製造。 _インド独立の志士ボースをはじめ画家・文学者・演劇人らを支援する。 そうま せんし【相馬 遷子】《さうま せんし》 1908.10.15(明治41) 〜 1976. 1.19(昭和51) ◇医師・俳人。本名は富雄。長野県生れ、東京育ち。東京大学医学部卒業。 そうま だいさく【相馬 大作】《さうま だいさく》 1798(寛政10) 〜 1822(文政 5. 8.29) ◇江戸後期の南部(盛岡)藩士(地方給人)。本名は下斗米秀之進(シモトマイ・ヒデノシン)、名は将真。南部藩士総兵衛の子。 _江戸に出て兵法武術を修め帰国。郷里福岡(現:二戸市)に私塾兵聖閣(ヘイセイカク)を開設、のち金田一(現:二戸市)に移転。 _もと南部家の被官であった隣藩の弘前藩津軽家が小田原征伐のときに主家にそむいて独立し、文化年間(1804〜1818)には主家をしのぐ権勢をふるい南部家の上位に立ったため義憤を感じ、1821(文政 4)門人の関良助ら同志とともに弘前藩主津軽寧親(ヤスチカ)の帰国の途中に矢立峠で襲撃しようとしたが謀(ハカリゴト)がもれて発覚(檜山騒動)。 _江戸に逃れて名を相馬大作と改め潜伏中、幕吏に捕縛され、小塚原で斬罪・獄門に処された。 ◆墓は東京都台東区の谷中霊園。 ◎下斗米家は紙・蝋(ロウ)・油・漆(ウルシ)などを扱う商家でもあった。 そうま たいぞう【相馬 泰三】《さうま たいざう》 1885.12.29(明治18) 〜 1952. 5.15(昭和27) ◇小説家。本名は退蔵。新潟県中蒲原郡庄瀬村生れ。父は医師。 _東京開成中学校卒業。早稲田大学英文科中退。モデルにした友人たちの恨みを買い、孤立する。 _晩年は紙芝居を製作し、紙芝居の向上に尽す。 そうみん【僧旻】 ⇒旻 そえじま たねおみ【副島 種臣】《そへじま たねおみ》 1828(文政11. 9. 9) 〜 1905. 1.31(明治38) ◇明治の政治家・漢詩人。幼名は龍種のち種臣、通称は二郎、号は蒼海・一々学人。旧佐賀藩士。明治政府の外務卿・参議。征韓論を唱えて下野。のち枢密顧問官。 (4)副島 種臣(そえじま たねおみ)。 (6)副島 種臣(そえじま たねおみ)。 (9)副島 蒼海(そえじま そうかい)。 そえだ あぜんぼう【添田 唖蝉坊】 1872(明治 5.11.25) 〜 1944. 2. 8(昭和19) ◇演歌師・詩人。本名は平吉、俳号は凡人。添田知道(トモミチ)の父。神奈川県生れ。 _『ノンキ節』などの歌を作った。 そえだ ともみち【添田 知道】 1902. 6.14(明治35) 〜 1980. 3.18(昭和55) ◇演歌の作詞・編曲家・小説家。筆名は「さつき」。添田唖蝉坊(アゼンボウ)の長男。東京生れ。 _日本大学付属中学校中退。 そが すけなり【曽我 祐成】 1172(承安 2) 〜 1193(建久 4. 5.28) ◇鎌倉初期の武士。伊豆の豪族河津三郎祐重(スケシゲ)(祐泰<スケヤス>)の子。幼名は一万、のち十郎。母が曽我祐信(スケノブ)と再婚したので曽我を名のった。 _5歳の時に、伊豆に流されていた源頼朝(ヨリトモ)を慰めるために催された奥野の狩りで、父が所領争いから工藤祐経(スケツネ)の家来に討たれた。 _1193(建久 4. 5.28夜)弟時致(トキムネ)と共に富士野の巻狩の際、父の仇(アダ)を討つ。 (5)十番斬りの後、十郎は新田四郎に討たれ、……。 (6)祐成は仁田忠常に討たれ、……。 (11)十郎は新田四郎に討たれ、……。 ◎仇討の日(旧暦 5.28)に降る雨を「虎が涙」といい、愛人の遊女虎御前の涙だといわれる。「曽我殿」とは貧乏の代名詞となっている。 そが ときむね【曽我 時致】 1174(承安 4) 〜 1193(建久 4) ◇鎌倉初期の武士。伊豆の豪族河津三郎祐重(スケシゲ)(祐泰<スケヤス>)の子。幼名は箱王、のち五郎。母が曽我祐信(スケノブ)と再婚したので曽我を名のった。 _3歳の時に、伊豆に流されていた源頼朝(ヨリトモ)を慰めるために催された奥野の狩りで父が、所領争いから工藤祐経(スケツネ)の家来に討たれた。 _1193(建久 4. 5.28夜)兄祐成(スケナリ)と共に富士野の巻狩の際、父の仇(アダ)を討つ。時致は生け捕えられて殺された。 ◎東京都江東区の法乗院に曽我五郎の足跡といわれる石があり、この足跡に自分の足をのせると親孝行になるといわれている。 そがのあかえ【蘇我 赤兄】 623[推古31] 〜 672[弘文元] ◇斉明・天智朝の官僚。舎人臣・蔵大臣と号する。蘇我倉麻呂(雄当<オマサ>)の子、蘇我馬子(ウマコ)の孫、蘇我常陸娘(ヒタチノイラツメ)・石川大(「艸」冠+「豕」旁+「生」:補助5748〔_〕)娘(オオヌノイラツメ)の父。 _大化改新以後、石川麻呂・連子(ムラジコ)ら兄弟とともに要職を占める。 _ 658[斉明 4.10.]斉明天皇の牟婁温泉に行幸(ギョウコウ)のとき留守司となり、11月有馬皇子(アリマノミコ)に謀反(ムホン)をすすめながら、兵を起して皇子を捕える。 _ 669[天智 8. 1.]筑紫率(ツクシノソツ)。 671[天智10. 1.]左大臣。 _ 672[弘文元. 8.]壬申の乱に近江(大友皇子)方につき、敗れ捕われて子孫らとともに流罪。 (2)倉麻呂(雄正)の子……。 (15)倉麻呂(雄当<オマサ>)の子……。 _蘇我倉山田石川麻呂の項:倉麻呂(雄当<スマサ>)の子. そがのいしかわのまろ【蘇我 石川麻呂】 ⇒蘇我倉山田石川麻呂 そがのいなめ【蘇我 稲目】 生年不詳 〜 570 ◇飛鳥時代の廷臣。蘇我高麗(コマ)の子。用明・崇峻・推古3天皇の外祖父。 _6世紀に大臣(オオオミ)となり、 538(または 552)百済の聖明王より仏像・経典が献上されて仏教が伝来すると、物部尾輿(モノノベノオコシ)らと対立して崇仏を説き、仏像を豊浦の向原(ムクハラ)の家に安置。 _娘の堅塩媛(キタシヒメ)・小姉君(オアネギミ)を欽明天皇の大后・后に、石寸名(イシキナ)を用明天皇の后にし勢力を確立。 _死後、向原に桜井寺(のち向原寺)が建てられる。 そがのいるか【蘇我 入鹿】 生年不詳 〜 645[皇極 4] ◇飛鳥時代の廷臣。蘇我蝦夷(エミシ)の子。舒明天皇没後、古人(フルヒト)王を即位させようとし、聖徳太子の子山背大兄(ヤマシロオオエ)王を殺したが、大化の改新( 645年)に暗殺された。 そがのうまこ【蘇我 馬子】 生年不詳 〜 626[推古34] ◇飛鳥時代の廷臣。蘇我稲目(イナメ)の子、赤兄(アカエ)の祖父。 _稲目の次に大臣(オオオミ)となり、 587年に排仏派の物部守屋(モノノベノモリヤ)を聖徳太子とともに滅ぼし、のち専横をきわめた。それを憎んだ崇峻(スシュン)天皇を 592年に殺した。推古天皇の時は摂政聖徳太子と協調したが、太子の死後また権力を握った。 ◎奈良県高市郡(タカイチグン)明日香村(アスカムラ)島庄(シマノショウ)にある石舞台(イシブタイ)古墳を馬子の墓とする説がある。 そがのえみし【蘇我 蝦夷】 生年不詳 〜 645[皇極 4] ◇飛鳥時代の廷臣。蘇我馬子(ウマコ)の子。馬子の次に大臣(オオオミ)となり、 628年推古天皇が死ぬと舒明天皇を立て、権勢が天皇家を凌ぎ専横をきわめた。 645年に子の蘇我入鹿が暗殺されると家に火をかけて自殺。 そがのくらやまだのいしかわのまろ【蘇我倉山田 石川麻呂】 生年不詳 〜 649(大化 5) ◇孝徳朝の政治家。氏は蘇我倉山田、名は麻呂、蘇我石川麻呂とも呼ぶ。蘇我馬子(ウマコ)の孫、倉麻呂の子、日向(ヒムカ)・連子(ムラジコ)・赤兄(アカエ)の兄。 _宗家の蘇我蝦夷(エミシ)・入鹿(イルカ)らに反目していたため、蘇我一族の分裂を図る中臣鎌足に引き入れられ、娘の遠智娘(オチノイラツメ)を中大兄皇子の妃とするなど皇子と結び、大化改新に参画。大極殿で蘇我入鹿を暗殺する際は三韓の表文を読み上げる役割をする。 _孝徳天皇の即位とともに右大臣に任ぜられる。左大臣阿倍内麻呂の死 649(大化 5. 3.17)の翌月、異母弟蘇我日向の讒言(ザンゲン)を受け、日向が率いる中大兄皇子の軍が来る前に、難波から大和飛鳥の山田寺に逃げ、長子興志が兵を集めるのを制して自刃。その直後に石川麻呂の潔白が証明され、日向は筑紫大宰帥に任じられ左遷。 そがのや ごろう【曾我廼家 五郎】 1877. 9. 6(明治10) 〜 1948.10. 1(昭和23) ◇喜劇俳優・喜劇劇作家。本名は和田久一、筆名は一堺漁人(イッカイギョジン)。大阪堺生れ。 _1904(明治37)曾我廼家十郎とともに喜劇団「曾我廼家」を結成。1913(大正 2)十郎と別れ、渡欧し帰国後に「平民劇団」のち「五郎劇」を組織。 (?)没日、11. 1。 そがのや じゅうろう【曾我廼家 十郎】 1869(明治 2) 〜 1925(大正14) ◇明治・大正期の喜劇俳優喜劇劇作家。本名は大松福松、筆名は和老亭(ワロウテイ)倉三・和郎亭当郎。三重県生れ。 _1904(明治37)曾我廼家五郎とともに喜劇団「曾我廼家」を結成。1913(大正 2)五郎と別れ、東京有楽座に一座を興す。 そげん【祖元】 ⇒無学祖元 そせい【素性】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前期の歌人。俗名は良岑玄利(ヨシミネノハルトシ)、石上(イソノカミ)の良因(リョウイン)院に住み、良因朝臣(ヨシヨリノアソン)とも呼ばれた。三十六歌仙の一人。遍昭(ヘンジョウ)の子。 そせき【疎石】 ⇒夢窓疎石 そどう【素堂】《そだう》 ⇒山口素堂 [1]そとおしのいらつめ【衣通郎姫】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇5世紀中葉の允恭(インギョウ)天皇の妃。衣通姫(ソトオリヒメ)とも呼ぶ。名は藤原之琴節郎姫(フジワラノコトフシノイラツメ)・弟姫。稚渟毛二岐皇子(応神天皇の子)の王女、皇后忍坂大中媛(オサカノオオナカツヒメ)の妹。 _允恭天皇が宮殿の新築祝いの宴を催したとき、皇后は舞いのあと、当時の風習により弟姫を献じる。その容姿の美しさが衣を通して照り輝いたので衣通郎姫と呼ばれる。 _近江国の坂田に母と住まい、天皇の度々の召にも姉の皇后の嫉妬をおそれて参向せず、舎人中臣烏賊使主が使者として赴(オモム)き、ようやく都に上る。 _天皇は皇后に憚(ハバカ)り姫を河内の茅渟宮(ヌチノミヤ)に住まわせ、のち大和の藤原に移る。姫には子がなく、姫の名を後世に伝えるため、諸国に藤原部を定める。 ◆和歌の玉の浦の津島神社に祀られる。 [2]そとおしのいらつめ【衣通郎姫】 ⇒軽大娘皇女 そとおりひめ【衣通姫】《そとほりひめ》 ⇒[1]衣通郎姫 そとむら しろう【外村 史郎】 1891. 6.12(明治24) 〜 1951. 7.12(昭和26) ◇ロシア文学者。本名は馬場哲哉。シベリアに抑留された先で没。 (9)誕生日は1890. 6.14(明治23)。 そね たつぞう【曽根 達蔵】 1852(嘉永 5) 〜 1937(昭和12) ◇建築家。 _東京海上ビル・郵船ビル・慶応大学などを設計。 そねのよしただ【曾禰 好忠(曾禰 善正)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の歌人。善正とも記す。丹後掾(タンゴノジョウ)であったので曾丹・曾丹後とも呼ばれる。 そのいけ きんなる【園池 公功】 1896. 5.20(明治29) 〜 1972. 2.15(昭和47) ◇演出家・演劇評論家。 そのいけ きんゆき【園池 公致】 1886. 4.29(明治19) 〜 1974. 1. 3(昭和49) ◇小説家。公卿(クゲ)の家柄。東京生れ。学習院中退。 _竹尾茂子(武者小路実篤の妻房子の妹)の夫、正親町公和(オオギマチ・キカンズ)の従兄弟。 そのだ もりよし【薗田 守良】 1785(天明 5) 〜 1840(天保11. 6.18) ◇江戸後期の神宮学者。本姓は荒木田、幼名は隠岐麿・守稲(モリイネ)、号は西園主人。内宮禰宜薗田守諸(モリツラ)の子、守彜(モリツネ)(双子)の兄。 そめざき のぶふさ【染崎 延房】 1818(文政元.10.) 〜 1886. 9.27(明治19) ◇幕末・明治初期の戯作者・新聞記者。幼名は八郎のち久兵衛、維新後は延房、別称は為永春笑・狂仙亭春笑・二世為永春水・柳北軒。対馬宗家の藩士、江戸生れ。為永春水の弟子となり春笑と号した。師の死後、春水の号を継いだ。東京下谷で死去。 (5)染崎 延房(そめざき のぶふさ)。生年は1818(文政元)。 (13)染崎 延房(そめさき のぶふさ)。生年は1823(文政 6)。 そめどののおとど【染殿 大臣】 ⇒藤原良房 そめどののきさき【染殿 后】 ⇒藤原明子 そめや すすむ【染谷 進】 1903. 2.12(明治36) 〜 1941. 8. 4(昭和16) ◇歌人。結核により死去。 そら【曽良(曾良)】 ⇒河合曽良