すいこ てんのう【推古 天皇】《すいこ てんわう》 554 〜 628 ◇第33代天皇・日本最初の女帝。名は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)・額田部(ヌカタベ)皇女。欽明天皇の第三皇女、母は蘇我稲目(イナメ)の娘堅塩媛(キタシヒメ)。敏達(ビダツ)天皇の皇后、竹田皇子(タケダノミコ)ら2男5女の母。 _ 576年、皇后となる。 _ 592年、崇峻(スシュン)天皇が蘇我馬子(ウマコ)(推古の兄)に暗殺された後、蘇我氏の出として擁立されて大和国豊浦宮(トユラノミヤ)で即位。後に大和国小墾田宮(オハリダノミヤ)に遷る。 _甥の厩戸皇子(ウマヤドノオウジ)(聖徳太子)を皇太子に立て摂政として、冠位十二階・憲法十七条の発布、国史の編纂、遣随使の派遣、法隆寺の建立、前後4回の新羅征討など多くの事績を残した(飛鳥文化)。 _在位 592〜628、在位36年間。 ◆推古天皇陵は大阪府太子町(河内国磯長山田陵)。方墳、東西61メートル、南北55メートル。 すいた じゅんすけ【吹田 順助】 1883.12.24(明治16) 〜 1963. 7.20(昭和38) ◇ドイツ文学者。号は蘆風(ロフウ)。東京生れ。 _東京帝国大学独文科卒業。 _北海道大学予科・旧制第七高等学校・東京商科大学・中央大学などの教授を歴任。 _著書は1938(昭和13)『近代独逸思潮史』、詩文集1952(昭和27)『葦の曲』、エッセイ『緑野集』・『パンと見世物』など。 ◎小牧健夫(タケオ)(暮潮)・成瀬清(ナルセ・キヨシ)(無極)とともにドイツ文学研究の三羽烏(サンバガラス)と呼ばれた。 すうげんいん【崇源院】 1573 〜 1626(寛永 3) ◇江戸前期の将軍の夫人。幼名は小督御料人のち徳子。浅井長政の3女、母は織田信長の妹お市の方(小谷の方)。豊臣秀吉の側室淀君・京極高次の室常高院の妹。 _1573(天正元. 8.)織田信長に攻められて小谷城で長政が亡くなったとき、母と姉2人と逃れる。 _1582(天正10. 6. 2)信長が本能寺の変で亡くなり、9月に母が柴田勝家と再婚し、母と姉2人と越前国北ノ庄に赴く。1583(天正11. 3.)勝家は越前で挙兵、 4.21近江国賤ヶ岳(シズガタケ)で羽柴(豊臣)秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)に大敗(賤ヶ岳の戦)。 4.24母は居城北ノ庄の城で勝家とともに自殺。この時、娘3人は逃がされ一乗谷に脱出。 _はじめ豊臣秀勝に嫁し、のち徳川秀忠(家康の3男,第2代将軍)に再婚。秀忠との間に家光(第3代将軍)・忠長・和子(東福門院)を生む。 _死後、崇徳院の諡号と従一位が追贈される。 (*)1573(元亀 4,天正元)。 すうでん【崇伝】 1569(永禄12) 〜 1633(寛永10. 1.20) ◇江戸初期の僧侶(臨済宗)。字は以心。賜号は円照本光国師。足利氏の家臣一色秀勝の第2子。 _京都南禅寺の住持として塔頭(タッチュウ)金地院(コンチイン)に住み、金地院崇伝とも呼ばれる。 _1605(慶長10)幕府に用いられて僧録司となり、外国文書を掌る。のち公家・武家をはじめ諸寺諸宗の制度の制定に参与し、黒衣(コクイ)の宰相と呼ばれる。林羅山(ラザン)とともに豊臣家滅亡を策する。 _徳川家康の没後、天海僧正(天台宗)と家康の葬儀の方法や神号をめぐって争い失脚。 _1627(寛永 4)紫衣(シエ)事件の処理をめぐり権勢をふるう。 すえ はるかた【陶 晴賢】《すゑ はるかた》 1521 〜 1555(天文24.10. 1) ◇戦国時代の武将。幼名は五郎、初名は隆房。 _厳島の戦いで毛利元就軍に敗れて自刃。 (*)1521(永正18,大永元) すえかわ ひろし【末川 博】《すゑかは ひろし》 1892(明治25) 〜 1977(昭和52) ◇法学者。山口県生れ。 _京都大学教授。滝川事件で京大を辞職し、のち立命館総長。 _著書は『権利侵害論』など。 すえひろ しげやす【末広 重恭】 ⇒末広鉄腸 すえひろ てっちょう【末広 鉄腸(末廣 鐵腸)】《すゑひろ てつちやう》 1849(嘉永 2. 2.21) 〜 1896. 2. 5(明治29) ◇明治前期の政治家・新聞記者・小説家。本名は重恭(シゲヤス)、幼名は雄三郎、別号は浩斎。伊予宇和島生れ。宇和島藩士。 _15歳で藩校(明倫館)に入り、1869(明治 2)藩校の教授。 _1875(明治 8)「曙新聞」、のち成島柳北の「朝野新聞」に入り、藩閥政治批判の論陣を張り、自由民権運動に参加。馬場辰猪(タツイ)・大石正巳らと独立党を組織。1890(明治23)帝国議会第一回の衆議院議員に当選、1892(明治25)落選、1894(明治27)再び当選。 _頸部癌腫で死去。 _政治活動のかたわら政治小説『二十三年未来記』・『雪中梅』・『花間鶯(カカンオウ)』などを発表。 すえまつ けんちょう【末松 謙澄】 1855(安政 2. 8.20) 〜 1920.10. 5(大正 9) ◇評論家・翻訳家・歌人・政治家。幼名は謙一郎、号は青萍(セイヒョウ)・笹波萍二。豊前国(福岡県)生れ。1871(明治 4)上京、英学を修める。1874(明治 7)福地桜痴(オウチ)に知られて日報社に入社。伊藤博文(ヒロブミ)に才学を認められ官界に入る。 _伊藤博文の娘婿。 (1)没日は10. 5。 (3)没日は10. 6。 (5)没日は10. 6。 (9)没日は10. 5。 (11)没日は10. 6。 (13)没日は10. 6。 すが ただお【菅 忠雄】 1899. 2. 5(明治32) 〜 1942. 7. 9(昭和17) ◇小説家・編集者。 すが たてひこ【菅 楯彦】 1878. 3. 4(明治11) 〜 1963. 9. 4(昭和38) ◇画家。本名は藤太郎。 すが らば【菅 裸馬】 1883.10.25(明治16) 〜 1971. 2.18(昭和46) ◇実業家・俳人。本名は礼之助。秋田県生れ。東京高等商業卒業。原子力産業会議会長。 すが りょうほう【菅 了法】 1857(安政 4. 2.) 〜 1936. 7.26(昭和11) ◇評論家・僧侶(本願寺)。号は桐南。 すがえ ますみ【菅江 真澄】 1754(宝暦 4) 〜 1829(文政12. 7.19) ◇江戸後期の紀行文作者。本名は白井英二(エイジ)・秀雄(ヒデオ)、菅江真澄は晩年の改名。三河国吉田宿近郷(現:豊橋市)生れ。 _1783(天明 3)豊橋近在の郷家を旅立ち、信濃国下伊那郡に入る。白井秀雄と名乗る。翌年、越後を経て鼠ヶ関(現:温海町)・羽黒山(現:羽黒町)・象潟(キサカタ)・矢島・西馬音内(現:羽後町)から柳田(現:湯沢市)に至る。 _津軽(ツガル)・蝦夷(エゾ)地を巡遊。 _1801年以降は秋田領内に住み、命じられて地雑取り調べに当たる。 _1810(文化 7)菅江真澄を名乗る。 (4)田中真麿に国学を学び……。 (6)植田義方(ヨシエ)(1734-1806)に国学を学び……。 (*)1801(寛政13,享和元)。 ◆墓は秋田市寺内大小路の鎌田家の墓域。 _墓碑銘は唯一の弟子、鳥屋長秋(トヤノナガキ)による。 ◎挿絵入りで記された『真澄遊覧記』は秋田県大館市市立中央図書館所蔵、貴重な民俗資料となっている。 _秋田市の秋田県立博物館に1996. 4.(平成 8)菅江真澄資料センターが開設。 すがぬま そうしろう【菅沼 宗四郎】 1884.10. 5(明治17) 〜 1960(昭和35) ◇歌人。 すがぬま ただかぜ【菅沼 貞風】 ⇒菅沼貞風 すがぬま ていふう【菅沼 貞風】 1865(慶応元. 3.10) 〜 1889. 7. 6(明治22) ◇明治時代の経済史家・南洋研究家。幼名は貞一郎。「ただかぜ(貞風)」とも呼ぶ。平戸生れ。 _旧藩主松浦氏の信を得て松浦郡役所に勤務。大蔵省関税局の貿易沿革史編集の資料調査を担当し、『平戸貿易史』を著す。 _南進論者でフィリピン独立運動に関心を示し、1889(明治22)移民に関する調査のためフィリピンに渡り、急病死。 _著書は『大日本商業史』・『新日本図南の夢』など。 すがの けんざん【菅野 兼山】 1680(延宝 8) 〜 1747(延享 4) ◇江戸中期の儒者・闇斎(アンサイ)学者。 _江戸深川に私塾会輔堂を創設。 すがや はんのじょう【菅谷 半之丞】 ⇒菅谷政利 すがや まさとし【菅谷 政利】 1660(万治 3) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、馬廻・郡代、禄高100石。通称は半之丞(ハンノジョウ)、戒名は刃水流剣信士。吉良家の探索中の変名は町人政右衛門(マサエモン)。 _吉良家討ち入りでは裏門隊。伊予国松山藩主松平隠岐守(オキノカミ)の江戸屋敷に預けられ、翌年、加藤斧右衛門(オノエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 すがわら しちく【菅原 師竹】 1863(文久 3. 8.) 〜 1919. 3.24(大正 8) ◇俳人。名は賢五郎、旧姓は伊藤、初期の号は微笑。 すがわら たかし【菅原 卓】 1903. 1.15(明治36) 〜 1970. 5. 3(昭和45) ◇演出家・演劇評論家。東京生れ。慶応義塾大学経済学部卒業。 すがわら ふみとき【菅原 文時】《すがはら ときふみ》 ⇒菅原文時 すがわら みちざね【菅原 道真】《すがはら みちざね》 ⇒菅原道真 すがわらたかすえのむすめ【菅原孝標女】《すがはらたかすゑのむすめ》 ⇒菅原孝標女 すがわらのたかすえのむすめ【菅原孝標女】《すがはらのたかすゑのむすめ》 1008(寛弘 5) 〜 没年不詳 ◇平安中期の日記・物語作者・歌人。父孝標は菅原道真(ミチザネ)の五代の孫。母は藤原倫寧(トモヤス)の娘で、母の兄は歌人の藤原長能(ナガトウ)、母の姉は『蜻蛉(カゲロウ)日記』の作者藤原道綱母(ミチツナノハハ)。継母は高階(タカシナ)成行の娘で、継母の父の弟高階成章(タカシナ・ナリアキラ)は紫式部の娘大弐三位(ダイニサンミ)の夫。 _10歳の時、父とともに任地上総国に下向。13歳で上京。32歳で祐子内親王に仕える。33歳で橘俊通と結婚。夫の死別後、父に従って上総国から帰京して以来の生涯を『更科(サラシナ)日記』に書く。 _『夜の寝覚(ネザメ)』・『浜松中納言物語』や、散逸した『自ら悔ゆる物語』・『朝倉物語』もその作とされる。 ◎『夜の寝覚』は『夜半(ヨワ)の寝覚』とも『寝覚』とも呼ばれる。 すがわらのふみとき【菅原 文時】《すがはらのふみとき》 899(昌泰 2) 〜 981(天元 4) ◇平安中期の公卿・学者・漢詩人。名は「ふんとき」とも、菅三品(カンサンボン)と称される。道真(ミチザネ)の孫、高規の子。 _内記・弁官・式部大輔を経て文章博士(モンジョウハカセ)となり、尾張権守を兼ねる。 _ 954(天暦 8)村上天皇が諸臣に政治上の意見を求めた時、 957(天徳元.12.)『意見封事三箇条(菅原文時意見封事)』を提出。 _家学である文章道にすぐれ、大江朝綱と並ぶ当代の高才で、源為憲・大江匡衡らの文人もその添削を請うた。 _ 981(天元 4)従三位に叙せられる。 (16)高規の子。 (?)高視(タカミ)の子。 すがわらのふんとき【菅原 文時】《すがはらのふみとき》 ⇒菅原文時 すがわらのみちざね【菅原 道真】《すがはらのみちざね》 845(承和12) 〜 903(延喜 3. 2.25) ◇平安前期の学者・政治家。通称は菅公・菅家・菅丞相(カンショウジョウ)。菅原是善(コレヨシ)の子、菅原文時(フミトキ)の祖父。 _ 870(貞観12)方略試(ホウリャクシ)(官吏登用試験)に合格。 877(元慶元)文章博士に任じられる。 886(仁和 2)讃岐守(サヌキノカミ)となり任地に赴(オモム)く。在任中に藤原基経(モトツネ)に意見書を呈示し「阿衡(アコウ)の紛議」の解決に努力し、宇多(ウダ)天皇に信頼される。 890(寛平 2)国司の任期を終え帰京。 _台頭する藤原氏を押えるため、 891(寛平 3)関白基経の死後、直ちに蔵人頭(クロウドノトウ)に抜擢される。 894(寛平 6)遣唐大使に任ぜられながら、派遣中止を進言して廃止となる。 897(寛平 9)若い藤原時平(トキヒラ)が大納言兼左大将となり、道真は権大納言兼右大将となる。しかし同年、彼を引き立てていた宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位。 899(昌泰 2)時平が左大臣になった時、道真も右大臣に任じられ、学者としては吉備真備(キビノマキビ)につぐ異例の出世となる。しかし、翌年には三善清行(キヨユキ)に辞職を勧められている。 _潔癖実直すぎた性格が災いし、 901(延喜元)時平の讒言(ザンゲン)(中傷)により、醍醐天皇を廃して道真の女婿にあたる斎世親王を立てようとしたという嫌疑で、太宰権帥(ダザイノゴンノソツ)(太宰府の長官)に左遷され、罪人同様の生活を送り、その配所で病没。 _その文才は中唐の詩人白居易(ハク・キョイ)に比べられた。 _著書は『菅家文草(カンケブンソウ)』・『菅家後集(コウシュウ)(菅家後草)』・『類聚国史(ルイジュウコクシ)』など。 ◎左遷の際に「東風(コチ)吹かば匂ひおこせよ梅の花/主(アルジ)なしとて春な忘れそ」と歌った梅が、のちに配所に飛んできたという「飛び梅」の伝説がある。 ◎延喜年間( 901〜 923)反道真の関係者が次々急逝し、延長年末に清涼殿に落雷があって死者が出ると、道真の怨霊(オンリョウ)の祟(タタ)りと畏(オソ)れられ、「天満大自在天神(天満威徳天)・火雷天神」として祀(マツ)られる。太宰府には安楽寺(のち太宰府天満宮)が、京都北野の馬場に天神社(のち北野天満宮)が建てられる。 _後世、一般にも晩年の不遇が悼(イタ)まれ、数々の天満宮(テンマングウ)・天神(テンジン)・文道の神として、全国に異例の尊崇を受ける。 _「天満大自在天神」はヒンズー教のシバ神(世界を創造し支配する最高神)で、仏教では白牛に乗る神。 ◆道真忌[旧暦 2.25]。 ◆北野梅花祭[ 2.25]京都市上京区馬喰町の北野神社。 ◆梅まつり[ 2.25〜 3.15]東京都文京区の湯島天神。 ◆菜種御供(ナタネゴク)[ 3.25](月遅れ)大阪府藤井寺市の道明寺天満宮。 すぎ がんあみ【杉 贋阿弥】 1870(明治 3. 3.10) 〜 1917. 5.13(大正 6) ◇演劇評論家。本名は杉諦一郎(テイイチロウ)。備中国生れ。明治法律学校(現:明治大学)中退。 すぎ こうじ【杉 亨二】 1828(文政11.10.10) 〜 1917.12. 4(大正 6) ◇啓蒙学者。統計学の発達に尽力した。次女里子は高山樗牛(チョギュウ)の妻。 すぎ としすけ【杉 敏介】 1872(明治 5. 5.28) 〜 1960. 7. 2(昭和35) ◇教育者(一高の校長)。号は烏山。『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。 すぎうら いさく【杉浦 伊作】 1902. 8.28(明治35) 〜 1953. 5.14(昭和28) ◇詩人。 すぎうら しげたけ【杉浦 重剛】 1855(安政 2. 3. 3) 〜 1924. 2.13(大正13) ◇明治・大正時代の教育家・国粋主義思想家。号は梅窓・天台道士。近江国膳所(ゼゼ)藩儒者重文の次男。 _藩校遵義堂で学び、のち貢進生として大学南校に入学。1876(明治 9)イギリスに留学し、1880(明治13)帰国。 _東京大学予備門長・高等教育会議議員などを歴任。 _三宅雪嶺らの雑誌「日本人」・新聞「日本」の刊行に参加、独自の国粋論を唱道。 _1885(明治18)日本中学校を創立し校長に就任。国学院学監・皇展講究所幹事長・東亜同文書院長などを歴任。1914(大正 3)東宮御学問所御用掛(倫理を担当)。 _東京淀橋の自宅で没。 _著書は『倫理御進講草案』・『日本教育原論』など。 ◎「じゅうごう(重剛)」とも呼ぶ。 すぎうら じゅうごう【杉浦 重剛】《すぎうら ぢゆうがう》 ⇒杉浦重剛 すぎうら しょういちろう【杉浦 正一郎】《すぎうら しやういちらう》 1911. 2. 9(明治44) 〜 1957. 2.23(昭和32) ◇俳人。 すぎうら すいこ【杉浦 翠子】 1891. 5.27(明治24) 〜 1960. 2.16(昭和35) ◇歌人。本名は翠(ミドリ)。川崎生れ。杉浦非水(ヒスイ)の妻。 _女子美術卒業。 (3)誕生日は1891. 5.27(明治24)。 (5)誕生日は1891. 5.27(明治24)。埼玉県生れ。 (9)誕生日は1885. 5.17(明治18)。 (11)誕生日は1885. 5.17(明治18)。 (13)誕生日は1891. 5.27(明治24)。 すぎうら ちうね【杉原 千畝】 1900(明治33) 〜 1986(昭和61) ◇外交官。岐阜県加茂郡(カモグン)八百津町(ヤオツチョウ)生れ。妻は幸子。 _早稲田大学在学中に外務省留学試験に合格。書記生などを経て、1939(昭和14)リトアニア領事代理として首都カウナスに赴任。1940(昭和15)ユダヤ人らがナチス・ドイツの迫害から逃れるために日本の通過ビザ発給を求めて領事館に殺到。千畝は日本政府に3度ビザ発給許可を申請したが、ドイツと同盟関係にあった日本政府は認められなかった。千畝は独自の判断で、約6千人に対してビザを発給。 _1947(昭和22)人員整理で外務省を退官し、貿易会社などに勤務。 _1985(昭和60)イスラエル政府からユダヤ建国に貢献した外国人に与えられる勲章「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受章。 ◎八百津町には町営の杉原千畝記念館がある。 すぎうら ばいたん【杉浦 梅潭】 1826(文政 9) 〜 1900. 5.30(明治33) ◇漢詩人。姓は久須美(クスミ)のち杉浦、字は求之(キュウシ)、号は梅潭。 すぎうら ひすい【杉浦 非水】 1876. 5.15(明治 9) 〜 1965. 8.18(昭和40) ◇商業美術家・図案画家。本名は朝武(ツトム)、旧姓は白石。松山重信町生れ。杉浦翠子(スイコ)の夫。 _東京美術学校で川端玉章・黒田清輝らに学び、1901(明治34)日本画選科卒業。 _雑誌・本の装丁などを手がけ、三越図案部主任となりポスターなどを担当。 _多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)を創始し校長。図案家団体の七人社を結成。 すぎき たかし【杉木 喬】 1899. 1. 5(明治32) 〜 1968. 9.12(昭和43) ◇アメリカ文学者。 すぎさか こうげつ【杉坂 幸月】 1902. 2.18(明治35) 〜 1930.12. 7(昭和 5) ◇小説家。杉阪とも署名する。 すぎた げんぱく【杉田 玄白】 1733(享保18. 9.13) 〜 1817(文化14. 4.17) ◇江戸中期の蘭方医。名は翼、字は子鳳、号は(「壹」偏+「鳥」:補助7637〔_〕)斎(イサイ)・九幸翁。庵号は天真楼・小詩仙堂。若狭国小浜藩医杉田玄甫の子、杉田立卿(リッケイ)の父、杉田伯玄(ハクゲン)の養父。 ◎山脇東洋の刑死体解剖は1754(宝暦 4)。 すぎた つるこ【杉田 鶴子】 1882.12. 6(明治15) 〜 1957. 4.20(昭和32) ◇歌人。本名は「つる」。杉田玄白の子孫で小児科医。 すぎた ひさじょ【杉田 久女】 1890. 5.30(明治23) 〜 1946. 1.21(昭和21) ◇俳人。旧姓は赤堀。鹿児島市生れ。お茶の水高等女学校卒業。1908(明治41)画家杉田宇内と結婚。晩年は精神衰弱が高じ、太宰府九大病院分院で没。 (1)本名は久子。 (3)本名は久女(クメ)。 (5)本名は久子。明治四一年御茶水高女卒。翌年画家杉田宇内と結婚、……。 (9)本名は久子。 (11)本名は久子。 ◆久女忌[ 1.21]。 すぎたに だいすい【杉谷 代水】 1874. 8.21(明治 7) 〜 1915. 4.21(大正 4) ◇詩人・劇作家。本名は虎蔵。 すぎの じゅうへいじ【杉野 十平次】 ⇒杉野次房 すぎの つぎふさ【杉野 次房】 1676(延宝 4) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、札座横目、禄高八両三人扶持。通称は十平次(ジュウヘイジ)、戒名は刃可仁剣信士、吉良家を探索中の変名は杉野九一右衛門(クイチエモン)。 _吉良家討ち入りでは裏門隊、三村次郎左衛門(ジロウザエモン)包常(カネツネ)とともに大槌で裏門を打ち破る。毛利(モウリ)甲斐守の麻布(アザブ)屋敷に預けられ、翌年、榊庄右衛門(サカキ・ショウエモン)の介錯(カイシャク)で切腹。 すぎはら ぜんのすけ【杉原 善之介】 1898. 7.25(明治31) 〜 1944. 3.10(昭和19)? ◇小説家。本名は善之助。東京大空襲で死亡したと伝えられる。 すぎむら そじんかん【杉村 楚人冠】 1872(明治 5. 8.28) 〜 1945.10. 3(昭和20) ◇新聞記者・評論家・随筆家。本名は広太郎、別号は縦横・紀伊縦横生。和歌山県生れ。自修私学校・和歌山中学校・英吉利法律学校を経て1890(明治23)国民英学会卒業。1891(明治24)和歌山新報社に入社。1892(明治25)上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学、かたわら国民新聞社で英文翻訳をし、1896(明治29)卒業。 (1)誕生日は 8.28。 (3)誕生日は 7.25。 (5)誕生日は 8.28。 (9)誕生日は 8.28。 (11)誕生日は 8.28。 (13)誕生日は 7.25。 すぎもと かんいち【杉本 寛一】 1888.10. 1(明治21) 〜 1959. 6.11(昭和34) ◇歌人。 すぎもと はやお【杉本 捷雄】 1905. 1. 1(明治38) 〜 1970.11.17(昭和45) ◇小説家。 すぎもと まさお【椙本 まさを】《すぎもと まさを》 ⇒椙本まさを すぎもと まさを【椙本 まさを】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇小説家。1915(大正 4)結婚して国分と改姓。「青踏」で活躍。 すぎもと りょうきち【杉本 良吉】 1907. 2. 9(明治40) 〜 1939.10.23(昭和14) ◇演出家。本名は吉田好正。筆名は白浜蹴。1931(昭和 6)共産党に入党。1938(昭和13)コミンテルンとの連絡を志して女優岡田嘉子と樺太国境からソ連に入ったが任務を果たせずに死亡。 すぎもり こうじろう【杉森 孝次郎】 1881. 4. 9(明治14) 〜 1968.12. 8(昭和43) ◇評論家・政治学者・社会学者。旧姓は白松(シロマツ)、号は南山。静岡県小笠郡南山村生れ。1906(明治39)早稲田大学卒業。1913〜1919(大正 2〜大正 8)文部省留学生としてドイツ・イギリスに渡る。 すぎやま いってん【杉山 一転】 1877. 5.15(明治10) 〜 1921. 2.24(大正10) ◇俳人。本名は一二。 すぎやま げん【杉山 元】 1880(明治13) 〜 1945(昭和20) ◇元帥・陸軍大将。福岡県生れ。 _1937(昭和12)陸軍大臣。1940(昭和15)参謀総長。1944(昭和19)陸軍大臣。1945(昭和20)第一総軍司令官。 _敗戦に際し夫妻で自殺。 すぎやま けんぎょう【杉山 検校】《すぎやま けんげう》 ⇒杉山和一 すぎやま さんぷう【杉山 杉風】 1647(正保 4) 〜 1732(享保17. 6.13) ◇江戸前期の俳人。通称は藤左衛門また市兵衛、別号は採荼庵(サイダアン)・蓑翁(サオウ)。蕉門十哲の一人。江戸生れ。幕府御用の魚問屋鯉屋(コイヤ)。芭蕉が江戸に来るとすぐ入門し、深川の芭蕉庵を提供する。 すぎやま ひでき【杉山 英樹】 1911.11. 8(明治44) 〜 1946. 4. 1(昭和21) ◇文芸評論家。本名は利一。栃木県生れ。文化学院卒業。 (3)誕生日は 1. 8。 (5)誕生日は11. 8。 (9)誕生日は11. 8。 (11)誕生日は11. 8。 すぎやま へいすけ【杉山 平助】 1895. 6. 1(明治28) 〜 1946.12.21(昭和21) ◇評論家。筆名は氷川烈(ヒカワ・レツ)。大阪生れ。生家は岡山藩士。1911(明治44)慶応大学理財科入学、1913(大正 2)肺患のため中退。 (3)没日は12. 1。 (5)没日は12.21。 (9)没日は12.21。 (11)没日は12.21。 (13)没日は12.21。 すぎやま まこと【杉山 誠】 1907. 5. 1(明治40) 〜 1968.12.30(昭和43) ◇演劇評論家。 すぎやま わいち【杉山 和一】 1610(慶長15) 〜 1694(元禄 7. 5.18) ◇江戸前期の鍼医(ハリイ)。幼名は養慶・信都・信一、通称は杉山検校。伊勢国津藩士杉山権右衛門重遠の子。 _幼くして失明し家を弟に譲り、江戸に出て検校山瀬琢一や入江豊明に鍼術(シンジュツ)を学び、奥義を究める。 _性格が鈍重なためしばしば逐われ、京都に行こうとして江ノ島弁財天にいたり、ここで断食祈願して神の御告げを受けて管鍼(クダバリ)の術を考案、杉山流鍼術を開き名医となる。 _第4代将軍徳川家綱に引見。1685(貞享 2)第5代将綱吉の病を治療し、本所一つ目に宅地を与えられて禄500石を受ける。 _綱吉の命で鍼治療講習所を設け門下を教育。1692(元禄 5)関東総録検校となる。 _著書は杉山流三部書と呼ばれる『療治大概集』・『遺選鍼三要集』・『節要集』など。 ◆墓は東京都墨田区立川1−4−13の弥勒寺。 ◎宅地跡は江島杉山神社(墨田区千歳)となっている。 (2)生年は1613?(慶長18?)。 (4)生年は1610。 (16)生年は1610(慶長15)。[図:杉山検校1][図:杉山検校2]杉山検校の墓(1997年11月6日撮影) 東京都墨田区立川1−4−13 真言宗 萬徳山 弥勒寺 すけひと しんのう【典仁 親王】《すけひと しんわう》 1733(享保18) 〜 1794(寛政 6) ◇江戸後期の皇族。閑院宮第二代。閑院宮直仁(ナオヒト)親王の王子、東山天皇の孫、光格(コウカク)天皇の父。 _1742(寛保 2)中御門天皇の猶子(ユウシ)となり、翌年親王。 _1789(天明 9)光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を奏上しようとし、江戸幕府に妨げられる(尊号事件)。 ◎1884. 3.(明治17)明治天皇も典仁親王に慶光太上天皇の尊号を贈っているが、歴代天皇には数えられない。 すけろく【助六】 ⇒総角助六 すずか つらたね【鈴鹿 連胤】 1795(寛政 7) 〜 1870(明治 3.11.20) ◇江戸後期・幕末の神道家・国学者。幼名は幸松、号は誠斎。隆芳の子、長存の父。代々吉田家家老の家に生れる。 _神祇権少副兼筑前守・吉田神社権預・吉田家家老。1866(慶応 2)従三位。 すずか のぶろ【鈴鹿 野風呂】 1887. 4. 5(明治20) 〜 1971. 3.10(昭和46) ◇俳人。本名は登。京都生れ。第七高等学校を経て京都大学国文科卒業。 (1)本名は登。 (3)本名は勝近。 (5)本名は登。 (9)本名は登。 (11)本名は勝近。 すずき いっぺい【鈴木 一平】 1887(明治20) 〜 1971(昭和46) ◇大修館の創業者。千葉県木更津町生れ。 _小学校を卒業して上京。いろいろな職業を経て、31歳のとき神田錦町に大修館を創立。 _諸橋轍次(モロハシ・テツジ)を2年がかりで口説き落とし、1928(昭和 3)漢和辞典の編纂を開始し、1943. 9.(昭和18)第1回配本、戦争となり被災し中止。戦後、大学在学中の長男と高校在学中の次男を共に退学させ、事業を再開。1955.11.(昭和30)『大漢和辞典』(全13巻)第1巻を刊行、1960(昭和35)完結。 すずき えつ【鈴木 悦】 1886.10.17(明治19) 〜 1933. 9.11(昭和 8) ◇小説家・労働運動家。田村松魚(ショウギョ)の妻俊子と恋愛、米国に渡りあとを追って来た俊子と結婚。日系労働者のための労働運動に身を挺する。 すずき えんろう【鈴木 燕郎】 1888. 9.20(明治21) 〜 1973. 2.16(昭和48) ◇俳人・茶道教師。本名は留次郎。 すずき かそん【鈴木 華邨】 1860(万延元. 1. 2) 〜 1919. 1. 3(大正 8) ◇日本画家。通称は惣太郎、別号は忍青。 すずき かんたろう【鈴木 貫太郎】 1867(慶応 3) 〜 1948(昭和23) ◇明治〜昭和前期の海軍軍人(大将)・政治家。和泉(大阪府)の陣屋生れ。関宿藩(千葉県)代官鈴木由哲の長男、鈴木孝雄の兄。 _1945. 4. 7(昭和20)組閣。 すずき けんろう【鈴木 健郎】 1907. 3. 9(明治40) 〜 1963. 2.24(昭和38) ◇フランス文学者。 すずき こそん【鈴木 鼓村】 1875. 9. 9(明治 8) 〜 1931. 3.12(昭和 6) ◇邦楽家。本名は映雄(テルオ)、土佐絵の号は那智俊宣。 すずき しげたね【鈴木 重胤】 1812(文化 9) 〜 1863(文久 3. 8.15) ◇江戸後期の国学者。姓は穂積、通称は雄三郎のち勝左衛門、号は橿廼家(カシノヤ)・厳橿本、重胤は諱(イミナ)。淡路国津名(ツナ)郡仁井村の庄屋の家に生れる。父は重威。 _父に学問の手ほどきを受け、大坂・神戸で奉公のかたわら学問に励む。1832(天保 3)平田篤胤(アツタネ)に書信で教えを受けるが、面会できないうちに篤胤は亡くなる。1834(天保 5)ころ大国隆正(タカマサ)に入門。江戸に居を構え、越後や出羽などにおもむき学説を広める。しだいに篤胤の学説を批判し、1857(安政 4)篤胤の養子銕胤(カネタネ)らと不和が生じ、翌年平田家から破門。江戸在住中に凶徒に暗殺された。 すずき しげね【鈴木 重嶺】 1814(文化11) 〜 1898.11.26(明治31) ◇歌人。 すずき しこう【鈴木 氏亨】 1885.10. 2(明治18) 〜 1948. 1.15(昭和23) ◇小説家。 すずき じゅうろう【鈴木 十郎】 1896. 4. 8(明治29) 〜 1975. 5. 4(昭和50) ◇歌人・歌舞伎研究家。 すずき しゅんぽ【鈴木 春浦】 1868(明治元. 3. 9) 〜 1927. 4.20(昭和 2) ◇演劇評論家。本名は本次郎、別号は「すの字」・石原防風。 すずき しょうさん【鈴木 正三】 1579(天正 7) 〜 1655(明暦元. 6.25) ◇江戸前期の仮名草子作者。名は重光・重三(シゲミツ)、通称は正三(マサミツ)・九太夫、号は石平道人(セキヘイドウジン)・玄々軒、法号は正三。代々の幕臣で徳川家康・秀忠に仕えたが、1620(元和 6)出家。弟鈴木重成(シゲナリ)が島原の乱で武功を立て天草代官になったので、正三も天草に赴(オモム)きキリシタンを一掃すべく仏寺を建て『破吉利支丹(ハキリシタン)』を著す。 すずき しんたろう【鈴木 信太郎】 1895. 6.17(明治28) 〜 1970. 3. 4(昭和45) ◇フランス文学者。東京生れ。1919(大正 8)東京大学仏文科卒業。 すずき すじゃく【鈴木 朱雀】 1891.12. 7(明治24) 〜 1972. 5. 4(昭和47) ◇画家・挿絵画家。本名は幸太郎。 _野田九浦に師事、川端画学校に学ぶ。1920(大正 9)第2回帝展に初入選。 すずき せいじろう【鈴木 清次郎】 1901. 8.21(明治34) 〜 1960. 2.12(昭和35) ◇小説家。 すずき せんざぶろう【鈴木 泉三郎】 1893. 5.10(明治26) 〜 1924.10. 6(大正13) ◇劇作家。筆名は豊島屋主人・伊豆巳三郎。東京生れ。大倉商業卒業。 すずき ぜんたろう【鈴木 善太郎】 1883. 1.19(明治16) 〜 1950. 5.19(昭和25) ◇劇作家・翻訳家。 (3)生年は1883(明治16),没年は1950(昭和25)。 (9)生年は1884(明治17),没年は1951(昭和26)。 すずき だいせつ【鈴木 大拙】 1870(明治 3.10.18) 〜 1966. 7.12(昭和41) ◇仏教哲学者・禅思想家。本名は貞太郎(テイタロウ)。加賀金沢の前田藩家老本多家の医師了準(良準)の末子。石川専門学校卒業、新制の第四高等中学予科三年に編入、本科一年で家計の都合で中退。英語教師をしたのち、東京専門学校(現:早稲田大学)に学び、東京大学選科に入学。 _鎌倉円覚寺の今北洪川(イマキタ・コウセン)、没後はその弟子釈宗演(シャク・ソウエン)に参禅。1897(明治30)宗演の推薦で渡米。 ◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。 すずき たかお【鈴木 孝雄】 1869(明治 2) 〜 1964(昭和39) ◇明治・大正期の陸軍軍人(大将)。鈴木貫太郎の弟。 すずき たかし【鐸木 孝】 1900. 2.20(明治33) 〜 1967.11. 4(昭和42) ◇歌人。本名は鈴木幸一。 すずき つきひこ【鈴木 月彦】 1825(文政 8) 〜 1892. 3.20(明治25) ◇俳人。本名は穂積勝重、別号は東杵庵四世・宝の屋・柴花園・素学堂・言霊道人。 すずき てんがん【鈴木 天眼】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇明治中期の評論家。本名は力。 すずき としさだ【鈴木 利貞】 1894. 8.23(明治27) 〜 1967.12.23(昭和42) ◇ジャーナリスト。本名は利貞(リテイ)。 すずき とらお【鈴木 虎雄】 1878. 1.18(明治11) 〜 1963. 1.20(昭和38) ◇中国文学者・漢詩人・歌人。号は蘊房・葯房(和歌)・豹軒(漢詩)。 (2)葯房(和歌)。 (3)蘊房(和歌)。 (9)号は豹軒(ヒョウケン)・葯房(ヤクボウ)。 すずき はなみの【鈴木 花蓑】 1881.12. 1(明治14) 〜 1942.11. 6(昭和17) ◇俳人・大審院の書記。本名は喜一郎。愛知県生れ。 (1)誕生日は12. 1。 (3)誕生日は12.、日の記載なし。 (5)誕生日は 8.15。 (9)誕生日は 8.15。 (11)誕生日は 8.15。 すずき はるのぶ【鈴木 春信】 1725(享保10) 〜 1770(明和 7. 6.15) ◇浮世絵師。本姓は穂積、通商は次兵衛、号は長栄軒。 すずき ひこじろう【鈴木 彦次郎】 1898.12.27(明治31) 〜 1975. 7.23(昭和50) ◇小説家。 すずき ひろやす【鈴木 弘恭】 1843(天保14.12.11) 〜 1897. 7.31(明治30) ◇歌人・国文学者。号は十八公舎。 すずき ぶんしろう【鈴木 文史朗】 1890. 3.19(明治23) 〜 1951. 2.23(昭和26) ◇ジャーナリスト・評論家。本名は文四郎。 すずき ぼくし【鈴木 牧之】 1770(明和 7. 1.27) 〜 1842(天保13. 5.15) ◇江戸後期の郷土史家。本名は儀三治。越後国生れ。 すずき まさゆき【鈴木 雅之】 1837(天保 8) 〜 1871(明治 4. 4.21) ◇国学者・歌人。 すずき みえきち【鈴木 三重吉】 1882. 9.29(明治15) 〜 1936. 6.27(昭和11) ◇小説家・童話作家。広島市猿楽町(サネガクチョウ)生れ。 _1891(明治24)広島市本川小学校入学、1896(明治29)広島県立第一中学入学、1901. 9.(明治34)第三高等学校入学、1904. 9.(明治37)東京大学英文科入学、翌年九月に神経衰弱のため休学、1908. 7.(明治41)卒業。 _1918. 7.(大正 7)児童雑誌「赤い鳥」を創刊。 すずき もさぶろう【鈴木 茂三郎】 1893. 2. 7(明治26) 〜 1970. 5. 7(昭和45) ◇政治家。1928(昭和 3)無産大衆党を結成。戦後は日本社会党の発起人、第2代委員長。 すずき もといち【鈴木 元一】 1923(大正12) 〜 1956.12.27(昭和31) ◇国鉄職員・劇作家。事故死。 すずき りきえ【鈴木 力衛】 1911. 5. 1(明治44) 〜 1973. 6.14(昭和48) ◇フランス文学者。 すすきだ かねすけ【薄田 兼相】 ⇒薄田隼人 すすきだ きゅうきん【薄田 泣菫】 1877. 5.19(明治10) 〜 1945.10. 9(昭和20) ◇詩人・随筆家。本名は淳介(ジュンスケ)、号は抱琴坊(ホウキンボウ)泣菫・杏堂(キョウドウ)・無憂樹。岡山県浅口郡連島(ツラジマ)村の農家に生れる。岡山県立中学校を二年で中退、1894(明治27)上京。四十歳ころパーキンソン氏病を発病。 すすきだ けんじ【薄田 研二】 1898. 9.14(明治31) 〜 1972. 5.26(昭和47) ◇俳優。本名は高山徳右衛門。 すすきだ はやと【薄田 隼人】 生年不詳 〜 1615 ◇豊臣秀吉の武将。兼相(カネスケ)。大阪夏の陣で戦死。伝説上の岩見重太郎(ジュウタロウ)のモデル。 (*)1615(慶長20,元和元)。 すだ くにたろう【須田 国太郎】 1891. 6. 6(明治24) 〜 1961.12.16(昭和36) ◇画家。 すだ ていいち【須田 禎一】 1909. 1.21(明治42) 〜 1973. 9.18(昭和48) ◇新聞人・評論家。 すどう ごじょう【数藤 五城】 1871(明治 4.12.24) 〜 1915. 8.21(大正 4) ◇俳人・歌人。本名は斧三郎、旧姓は中村、号は小野三郎(短歌)。 すどう さだのり【角藤 定憲】 1867(慶応 3) 〜 1907. 1.20(明治40) ◇新派俳優。岡山県生れ。 _京都で巡査をしたのち、大阪に出て自由党壮士となる。中江兆民の門に入り、「東雲新聞」の記者となる。兆民のすすめで1888(明治21)「大日本壮士改良演劇会」の一座を組織して大阪新町座で旗揚げ。全国で巡演したが東京では評判とならず、1895(明治28)以降は地方回りのみとなり、不遇のうちに一生を終る。 すどう しげる【須藤 しげる】 1898(明治31) 〜 1946(昭和21) ◇挿絵画家。愛知県豊田市生れ。 _岸田劉生(リュウセイ)に油絵を学び、のち日本画家中村岳陵(ガクリョウ)に師事。「少女の友」・「少女倶楽部」などに挿絵を描く。 すどう しょういち【須藤 鐘一】 1886. 2. 1(明治19) 〜 1956. 3. 9(昭和31) ◇小説家。本名は荘一。 すどう しんう【須藤 滲雨】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇歌人。北原白秋に師事。 すどう てんのう【崇道 天皇】《すだう てんわう》 ⇒早良親王 すどう なんすい【須藤 南翠】 1857(安政 4.11. 3) 〜 1920. 2. 4(大正 9) ◇小説家・新聞記者。幼名は孟、本名は光暉(ミツテル)、別号に土屋南翠・土屋郁之助(イクノスケ)・土屋郁之進・土屋郁・揚外堂主人・古蒼楼・坎(「土」偏+「可」:補助2346〔_〕)山人。伊予国生れ。藩校明倫館に学び、転じて松山師範学校を卒業。妻は矢野竜渓(リュウケイ)の姪小林シズ。 (5)誕生日は1857(安政 4.11. 3)。 (6)「饗庭篁村(アエバ・コウソン)」の項:1858〜1920。 (13)安政五年(1858)一一月伊予宇和島に生まる。 すどうじんけい こうてい【崇道尽敬 皇帝】 ⇒舎人親王 すとく てんのう【崇徳 天皇】《すとく てんわう》 1119(元永 2. 5.28) 〜 1164(長寛 2. 8.26) ◇第75代天皇。名は顕仁(アキヒト)、院号は讃岐院。鳥羽天皇の第1皇子、母は中宮藤原璋子(ショウシ)(待賢門院)。 _白河院のもとで1123(保安 4. 2.19)即位(5歳)。鳥羽上皇によって1141(永治元)3歳の体仁(ナリヒト)親王(近衛天皇,鳥羽天皇の第9皇子,母は美福門院藤原得子<トクシ>)に譲位を強いられる。この結果、鳥羽法皇は本院、崇徳上皇は新院と呼ばれる。 _次の天皇は子の重仁親王の言質を得ていたが、1155(久寿 2.10.)雅仁親王(後白河天皇,鳥羽天皇の第4皇子,母は待賢門院璋子)が即位。 _1156(保元元)鳥羽法皇の死後、直ちに兵を挙げ左大臣藤原頼長とともに後白河天皇を襲ったが(保元の乱)、敗れて讃岐の松山に配流され、同地で没。 _即位:1123(保安 4. 2.19)、退位:1141(永治元.12. 7)。 すのうち とおる【洲之内 徹】 1913. 1.17(大正 2) 〜 1987.10.28(昭和62) ◇小説家。松山生れ。東京美術学校中退。左翼運動で検挙。1938〜1945(昭和13〜昭和20)中国で特務機関員。 すみ おうとう【角 鴎東(鴎:「區」偏+「鳥」:補助7631〔_〕)】 1882. 6.29(明治15) 〜 1965. 4.10(昭和40) ◇歌人。本名は利一(リイチ)。 すみだ ちくれい【角田 竹冷】 ⇒角田竹冷 すみだ ようきち【隅田 葉吉】 1898. 7.24(明治31) 〜 1964. 1. 9(昭和39) ◇歌人。 [1]すみとも きちざえもん【住友 吉左衛門(3代当主)】《すみとも きちざゑもん》 ⇒住友友信 [2]すみとも きちざえもん【住友 吉左衛門(4代当主)】《すみとも きちざゑもん》 ⇒住友友芳 [3]すみとも きちざえもん【住友 吉左衛門(15代当主)】《すみとも きちざゑもん》 ⇒住友友純 すみとも ともいと【住友 友純】 1864 〜 1926(大正15) ◇明治・大正期の実業家。徳大寺公純(キンイト)の子、徳大寺実則(サネノリ)・西園寺公望(キンモチ)の実弟。 _1892(明治25)公卿徳大寺家から住友家に入る(第15代当主)。 _1895. 5.(明治28)住友銀行を創設。 _倉庫業など事業を拡大させ、住友を三井・三菱とならぶ財閥に発展させる。 (*)1864(文久 4,元治元)。 すみとも とものぶ【住友 友信】 1647(正保 4) 〜 1706(宝永 3) ◇江戸初期の銅商・住友第3代当主。第2代当主友以(トモモチ)の子。 ◎吉左衛門と称し、以後代々吉左衛門を襲名。 すみとも とももち【住友 友以】 1607(慶長12) 〜 1662(寛文 2) ◇銅商・住友第2代当主。蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の子、住友政友(マサトモ)の娘婿、第3代当主友信(吉左衛門)の父。 _父理右衛門とともに泉屋を貿易商・両替商・銅山経営に拡大。 すみとも ともよし【住友 友芳】 1670(寛文10) 〜 1719(享保 4) ◇江戸中期の銅商・住友第4代当主。 _1690(元禄 3)別子銅山を発見し採掘権を得て、翌1691(元禄 4)採掘・経営。 _江戸幕府の貨幣鋳造なども営む。 すみとも まさとも【住友 政友】 1585(天正13) 〜 1652(慶安 5) ◇住友初代当主。越前丸岡(現:福井県丸岡町)の武家の二男。姉は蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の妻、娘は蘇我理右衛門(ソガ・リエモン)の子友以の妻。 _12歳のころ京へ上り、涅槃宗(ネハンシュウ)の僧空源(クウゲン)に弟子入りし、空禅(クウゼン)と号し、やがて文殊院の称号を得る。 _幕府の宗教政策により涅槃宗が天台宗に組み入れられると僧籍を離れ、45歳のころ京都の仏光寺烏丸(ブッコウジカラスマ)東入ルで富士屋(フジヤ)の屋号を掲げて書物と薬の店を営み、万病薬の反魂丹(ハンゴンタン)などを販売。 _63歳で嵯峨清凉寺のそばに雙軒庵(ソウケンアン)を建てて隠棲。 ◆墓は京都寺町高辻の永養寺。 すみとも りへえ【住友 理兵衛】 生年調査中 〜 没年調査中 ◇江戸初期の銅商。 _元和年間(1615〜1624)大坂に銅商を開業。 ◎蘇我理右衛門? すみのくら そあん【角倉 素庵】 1571(元亀 2) 〜 1632(寛永 9) ◇江戸初期の貿易商・学者・書家。名は玄之(ハルユキ)のち貞順、通称は与一、号は素庵。角倉了以(リョウイ)の長子。 _父の安南貿易に従事したほか、富士川再疎通・淀川の改修など、幕府の土木・河川の仕事に功績があった。 _藤原惺窩(セイカ)の門人。 _本阿弥光悦(コウエツ)に書を学び、角倉流書風の始祖となる。また光悦とともに嵯峨本(角倉本)を刊行。 ◎能書家で本阿弥光悦(ホンアミ・コウエツ)・松花堂昭乗(ショウカドウ・ショウジョウ)とともに「洛下の三筆」と呼ばれる。 すみのくら りょうい【角倉 了以】《すみのくら れうい》 1554(天文23) 〜 1614(慶長19) ◇安土桃山・江戸初期の豪商・貿易商・土木事業家。名は光好。角倉素庵(ソアン)の父。京都の生れ。 _洛西嵯峨に住む。算数・地理を学ぶ。 _豊臣秀吉に朱印状を得て、1604(慶長 9)ころより安南国に朱印船(角倉船)を派遣して貿易を営み巨利を得る。 _また、1606(慶長11)嵯峨の大堰川(オオイガワ)の疎通に成功、つづいて富士川・天竜川・賀茂川の水路を開き、京都に二条から伏見に達する高瀬川を開削。 すみよし ぐけい【住吉 具慶】 1631(寛永 8) 〜 1705(宝永 2. 4. 4) ◇江戸前期の画僧。名は広澄(ヒロズミ)、通称は内記、法名は具慶。住吉如慶(ジョケイ)の子。京都の人。 _天和年間(1681〜1684)ころ江戸に出て、1685(貞享 2)幕府の奥絵師に任ぜられる。のち法眼に叙せられた。 _代表作は『洛中洛外図巻』(国立博物館)・『都鄙図巻』(奈良興福院)など。 すみよし じょけい【住吉 如慶】 1599(慶長 4) 〜 1670(寛文10. 6.20) ◇江戸前期の大和絵の画僧・住吉派の祖。名は広通(ヒロミチ)、通称は内記、法名は如慶。住吉具慶(グケイ)の父。一説に土佐光吉の子で光則の弟。 _京都に住み、土佐光吉・土佐光則に大和絵の土佐派を学び、光吉の養子となる。 _1662(寛文 2)後西天皇の勅命により住吉姓を名乗り、土佐派から分かれた鎌倉時代の名手住吉慶忍の跡の復興を志し、住吉派を開く。 _幕府の御用絵師を務める。 _作品は『堀河夜討絵巻』・『東照宮縁起』・『多武峯縁起』・『聖徳太子絵伝』・『伊勢物語』など。 すみよし ひろつら【住吉 弘貫】 1793(寛政 5) 〜 1863(文久 3) ◇江戸末期の絵師。名は広定・弘定。住吉広守の孫、住吉広行の次男。 _兄広尚の後を継ぎ、住吉派七代目となる。 すやま けいいち【須山 計一】 1905. 7.17(明治38) 〜 1975. 4.17(昭和50) ◇画家・漫画家。 すやま つとむ【陶山 務】 1895.11.27(明治28) 〜 1974. 9.28(昭和49) ◇哲学者・宗教学者。 すやま とくたろう【陶山 篤太郎】 1895. 4. 4(明治28) 〜 没年不詳 ◇詩人。 すわ さぶろう【諏訪 三郎】 1896.12. 3(明治29) 〜 1974. 6.14(昭和49) ◇小説家・編集者。本名は半沢成二。 すんえ【俊恵】 ⇒俊恵