たあ しんきょう【他阿 真教】《たあ しんけう》 1237(嘉禎 3) 〜 1319(文保 3. 1.28) ◇鎌倉時代の時宗(ジシュウ)の僧・時宗第二祖(遊行派<ユギョウハ>の開祖)・歌人。俗姓は源氏、別名は心阿、法号は真教房蓮阿のち他阿弥陀仏(他阿)。京都の人。 _はじめ浄土宗の僧であったが、1277(建治 3)一遍の門下となり、一遍に従って諸国を遊行。 _1289(正応 2)師の没後も教化事業を継承して宗門をまとめ民衆を教化。兵庫(神戸市)の真光寺(シンコウジ)を大道場にし、京都(下京区)に金光寺(コンコウジ)、藤沢に無量寺など多くの寺院を建立、二祖遊行上人と呼ばれる。 _1303年、相模の当麻金光院に道場を営み、智得に遊行を譲って同寺で死去。 _和讃(ワサン)『往生讃』や『他阿上人法語』など法語・家集がある。 (*)1303(乾元 2,嘉元元)。 ◎『絵詞伝』は前4巻が一遍上人、後6巻が他阿の事績に当てられている。 たいいんくん【大院君】《たいゐんくん》 1820(文政 3) 〜 1898(明治31)「光武 2」 ◇朝鮮李朝末期の政治家。朝鮮読みは「テウオングン」。名は興宣君(「日」冠+「正」:補助3412〔_〕)応(シオウ)。朝鮮王第26代李太王煕(高宗)の父。 _哲宗に子がなく、王室の内紛に乗じて第2子の命福(李太王)を1864年王位につけ、自らは興宣大院君となり執政として実権を掌握。鎖国の強行・キリスト教の弾圧など排外攘夷政策を行う。 _1873.12.(明治 6)閔妃(ビンビ;高宗の妃)一派(開化派)に政権を奪われ失脚。1882. 7.(明治15)軍制を不満とした軍の暴動に乗じ閔派打倒のクーデターを起こし(壬午の変)、 8.26清国軍により中国河北省保定府に拉致幽閉。1885. 9.(明治18)赦免され10月帰国。 _1894(明治27)東学党の乱による日清開戦の直後に日本と結んで政権を取るが三国干渉で間もなく失脚。閔派(事大党)が親露政策を取ったため、1895(明治28)再び日本と結んで乙未(イツビ)政変(閔妃暗殺事件)を起こすがロシアの干渉で失敗。 ◎清国軍に拉致されたのは、清国皇帝が冊封した朝鮮国王を退けたのが皇帝を軽んずる犯罪だとされたため。また、赦免は朝鮮がロシアに接近したため、政敵として牽制する目的であった。 ◎「大院君」は李朝朝鮮国王の生父の尊称。 たいぎ【太祇】 ⇒炭太祇 たいけんもんいん しょうし【待賢門院 璋子】《たいけんもんゐん しやうし》 1101(康和 3) 〜 1145 ◇鳥羽天皇の皇后。名は璋子(ショウシ)、藤原(フジワラノ)璋子とも。権大納言藤原公実の女(ムスメ)、母は藤原隆方の娘光子、崇徳天皇・後白河天皇の母。養母は祇園女御(ギオンノニョウゴ)。 _白河法皇の猶子となり、1117(永久 5)入内。1118年、皇后。1145年、院号宣下。 (*)1118(永久 6,元永元),1124(保安 5,天治元),1145(天養 2,久安元)。 たいこう じょせつ【大巧 如拙】《たいかう じよつせ》 ⇒如拙 たいしょう てんのう【大正 天皇】《たいしやう てんわう》 1879. 8.31(明治12) 〜 1926.12.25(大正15) ◇第123代天皇。名は嘉仁(ヨシヒト)・明宮(ハルノミヤ)。明治天皇の第3皇子、母は柳原光愛の娘愛子(ナルコ)。皇后は貞明(テイメイ)皇后、迪宮裕仁(ミチノミヤ・ヒロヒト)親王(昭和天皇)・秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王・高松宮宣仁(ノブヒト)親王・三笠宮崇仁(タカヒト)親王の父。 _1889(明治22)立太子。1900. 5.10(明治33)九条道孝公爵の娘節子(サダコ)(貞明皇后)と結婚。 _1912. 7.30(明治45)明治天皇の死とともに践祚(センソ)。1915.11.10(大正 4)京都御所で即位の大礼を挙行。 _病弱・脳病により、1921.11.25(大正10)皇太子裕仁親王を摂政に任命。 _葉山御用邸で崩御(ホウギョ)。 _即位:1915.11.10(大正 4)、退位(死去):1926.12.25(大正15)。 ◆陵墓は東京都八王子市長房町の多摩陵、1927. 2. 8(昭和 2)奉葬。 ◎即位の大礼は、1914. 4.11(大正 3)昭憲皇太后の死去のため当初の予定より延期された。 ◎東京都杉並区堀ノ内3丁目にある宗延寺の客殿は大正天皇の御産殿を移築したもの。[図:大正天皇]大正天皇多摩陵・武蔵陵墓地(1998年10月10日撮影) 東京都八王子市長房町 たいや ていりゅう【鯛屋 貞柳】《たひや ていりう》 ⇒永田貞柳 たいら ぼんたろう【平 凡太郎】《たひら ぼんたらう》 1933. 3.10(昭和 8) 〜 2002.10. 4(平成14) ◇コメディアン。本名は平正美(タイラ・マサミ)。 _東洋工業高校卒業。 _旅回り一座に入る。 _1953(昭和28)柳家金語楼に弟子入り。 _肺炎で死去。 たいらのあつもり【平 敦盛】《たひらのあつもり》 1169 〜 1184(寿永 3. 2. 7) ◇平安末期の武将。通称は無官の大夫。平経盛(ツネモリ)の第3子、経正(ツネマサ)・経俊の弟。 _従五位下に叙せられるが、官職がなかった。 _一ノ谷の戦で平氏一族が船で逃れた際、乗り遅れて源義経(ヨシツネ)の部下熊谷直実(クマガイ・ナオザネ)に討たれる。 _弱冠16歳で直実と闘った最期の有様は『源平盛衰記』に有名。 (*)1169(仁安 4,嘉応元)。 たいらのいえさだ【平 家貞】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安末期の武将。家房の子、平貞能(サダヨシ)の父。北伊賀を根拠地とする武士団の長。 _1131年、『平家物語』で有名な「殿上闇討」で功をたてる。 _保元・平治の乱に活躍。 _平家滅亡の際、子の家次・家実らが源氏に対し伊賀三日平氏の乱を起す。 (*)1131(大治 6,天承元) たいらのかげきよ【平 景清】《たひらのかげきよ》 生年不詳 〜 1196(建久 7) ◇平安末期・鎌倉初期の武将。通称は悪七兵衛(アクシチビョウエ)。藤原忠清の子。 _摂津で伯父大日坊を殺し、悪七兵衛と称される。 _1183(寿永 2)平維盛(コレモリ)・知盛(トモモリ)に従い、源義仲(ヨシナカ)・行家と戦う。 _平家一族とともに西走し各地を転戦。平家滅亡後、1195(建久 6)源頼朝(ヨリトモ)に降伏、八田知家(ハッタ・トモイエ)に預けられ断食で命を断つ。 _屋島の戦で美尾谷十郎と接戦、その冑(カブト)の錣(シコロ)を断った逸話は有名。 たいらのかねたか【平 兼隆】 生年不詳 〜 1180(治承 4. 8.) ◇平安末期の武将。通称は山木判官。平和泉守信兼の子。 _父に勘当され伊豆国山木郷に流される。 _1180(治承 4)源頼政(ヨリマサ)の死により伊豆が平時忠(トキタダ)の知行国となり、国守平時兼の目代となる。源頼朝(ヨリトモ)の挙兵の際に緒戦の血祭りに目され、同年8月三島明神の祭礼の日に山木館を急襲され、加藤次景廉・佐々木盛綱らに討たれる。 (2)(名)山木判官。伊豆国山木郷に流されて……。 (16)伊豆国山本郷に配流された.山本判官と称した. たいらのかねもり【平 兼盛】《たひらのかねもり》 生年不詳 〜 990(正暦元.12.28) ◇平安中期の歌人。篤行王の子、一説に赤染衛門(アカゾメ・エモン)の父といわれる。中古三十六歌仙の一。 _越前権守・山城介・大監物・従五位上駿河守を歴任。 _「しのぶれどいろに出にけりわが恋は/ものや思ふと人のとふまで」が有名。 たいらのきよもり【平 清盛】《たひらのきよもり》 1118 〜 1181(治承 5.閏2. 4) ◇平安末期の武将。出家して浄海(ジョウカイ)・静海。平相国・浄海入道・六波羅殿などと呼ばれる。忠盛(タダモリ)の長子、母は祇園女御(ギオンノニョウゴ)(養母)の妹。『平家物語』では、白河院の寵愛を受けた祇園女御が懐妊した後、忠盛に下賜されて清盛が生れたことになっている。 _重盛(シゲモリ)・宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)・重衡(シゲモリ)・盛子(藤原基実の室)の父。安徳天皇の祖父。平経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。 _1153(仁平 3)父忠盛が没し、平氏の棟梁となる。 _1156(保元元. 7.)保元の乱では源義朝(ヨシトモ)とともに後白河天皇方につき勝利する。 _1159(平治元.12.)平治の乱では義朝を撃破、源氏の勢力を中央政界から駆逐し、平氏勃興の機会を得る。 _めざましい躍進をとげ、1167(仁安 2)従一位太政大臣。一門の公卿(クギョウ)16人、殿上人(テンジョウビト)30余名、知行国30余をかぞえる。病をえて辞任し、1168(仁安 3)出家、清蓮のち静海と称する。 _1172(承安 2)娘徳子(トクコ)(建礼門院)を高倉天皇(母は義妹平滋子)の中宮とする _1177年、後白河法皇を含む院近臣らの平氏討滅の謀議が発覚(鹿ヶ谷事件)、清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を停止させ、独裁体制を確立する。1180(治承 4. 2.)高倉天皇が譲位し、徳子が生んだ言仁(トキヒト)親王が安徳天皇として即位。皇室の外戚として勢威を振い、一門こぞって公家・殿上人となり平氏の絶頂に達する。 _同年4月、以仁王(モチヒトオウ)が平氏追討の令旨を発し、南都北嶺や諸国源氏があいついで蜂起、鎮圧できず失意のうちに熱病で死亡。 (*)1118(永久 6,元永元)、1177(安元 3,治承元)。 たいらのくにか【平 国香】《たひらのくにか》 生年不詳 〜 935(承平 5) ◇平安中期の武将。初名は良望。平高望(タカモチ)の子、桓武天皇の玄孫。平貞盛(サダモリ)・繁盛の父。平良文(ヨシフミ)の兄。 _常陸大掾(ヒタチノタイジョウ)のち鎮守府将軍となる。 _ 931年、甥の平将門(マサカド)が国香の弟良兼(ヨシカネ)と争う。 935(承平 5)にいたり国香は良兼に加担し、将門は常陸国石田館を攻め国香を討つ(承平・天慶の乱の発端)。 (*) 931(延長 9,承平元)。 たいらのこれひら【平 惟衡】《たひらのこれひら》 ⇒平維衡 たいらのこれひら【平 維衡(平 惟衡)】《たひらのこれひら》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の武将。惟衡とも書く。平貞盛(サダモリ)の子、国香(クニカ)の孫。 _1006(寛弘 3)伊勢守となり、子孫は伊勢平氏として栄える。 たいらのこれもち【平 維茂】《たひらのこれもち》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の武将。通称は余五将軍。平繁盛(貞盛の弟)の子、国香(クニカ)の孫。平貞盛(サダモリ)の養子(15男に当るので余五と呼ばれる)。 _国香・貞盛・繁盛のあとを継ぎ鎮守府将軍となる。 (2)繁盛((異)兼忠)の子。 たいらのこれもり【平 惟盛】《たひらのこれもり》 ⇒平維盛 たいらのこれもり【平 維盛】《たひらのこれもり》 1158(保元 3) 〜 1184(寿永 3. 3.28) ◇平安末期の武将。惟盛とも書く。通称は桜梅少将・小松中将、法名は浄円。平重盛(シゲモリ)の長子。 _1176(安元 2)後白河法皇50歳の祝賀で「青海波」を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。 _1180(治承 4. 4.)源頼朝(ヨリトモ)の挙兵に際し、追討大将軍となるが、10月富士川の戦で水鳥の羽音に驚き敵軍の来襲と誤り敗走し、平清盛(キヨモリ)の怒りを買う。 _1181年尾張国洲俣川に平重衡(シゲヒラ)・忠度(タダノリ)とともに源行家(ユキイエ)を破り、従二位右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。 _1183(寿永 2)倶利伽羅峠(クリカラトウゲ)では源義仲(ヨシナカ)に「火牛の計」で敗れる(砺波山<トナミヤマ>の戦)。 _のち西走。1184(寿永 3. 3.15)屋島で源氏と対陣中、密かに逃亡。那智の沖に入水。 (2)生年は1157(保元 2)、没年は1184(元暦 1)。 _のち高野山に入り,滝口入道(斎藤時頼)のもとで出家して浄円と号した。'84(元暦 1)3月滝口入道に見守られて那智で入水した。 (4)生年は1160、没年不詳。 _屋島の戦後、高野山に入って僧となったという。 (6)生没年不詳。 _のち平家一族とともに西走。以後不明。 (16)生年は1158(保元 3)、没年は1184(元暦 1)。 _途中で屋島の行宮から逃れて高野山に入り,出家して浄円と号し,まもなく那智の海で入水自殺した. (*)1181(治承 5,養和元)、1184(寿永 3,元暦元)。 たいらのこれよし【平 維良】 生年不詳 〜 1022(治安 2) ◇平安中期の武将。鎮守府将軍として奥州に住む。 _1014(長和 3)上洛し、藤原道長に馬・砂金・絹などを多量に献上(『小右記』)。 たいらのさだもり【平 貞盛】《たひらのさだもり》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の武将。通称は常平太・平将軍。平国香(クニカ)の子。 _ 935(承平 5)父国香がその甥の平将門(マサカド)に殺された時、直ちに京から国に帰り常陸大掾(ヒタチノタイジョウ)を継ぐ。従兄の将門とともに東国を治めようとするが成功せず、叔父良兼(ヨシカネ)とともに将門と戦う。利なく京に帰って朝廷から追討官符を請い受け、再び帰国。 _ 938年、下野の押領使(オウリョウシ)藤原秀郷(ヒデサト)と同盟し、 940(天慶 3. 2.)将門を下総国猿島(サルシマ)に討つ。この功により鎮守府将軍となる。 _のち丹波守・陸奥守を歴任、従四位下に進む。 (2)この功により従五位下右馬助,鎮守府将軍となる。 (4)のち鎮守府将軍に任ぜられ、世に平将軍という。 (16)この功によって従五位上鎮守府将軍に任じられた. (*) 938(承平 8,天慶元) たいらのさだよし【平 貞能】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安末期の武将。通称は肥後入道、法号は以典。平家貞(イエサダ)の子。 _1177年鹿ヶ谷の変の鎮圧、1181年九州平定などに平清盛(キヨモリ)の侍大将として活躍。1183(寿永 2)平氏西走の際、菊池・原田種直・松浦党以下3千騎を率いて上洛、都に留まることを進言するが聞き入れられず、平重盛(シゲモリ)の骨を高野山に改葬して西走。 _一時行方不明であったが、外戚の宇都宮朝綱の許に身をよせ、のち出家して源頼朝(ヨリトモ)に罪を許される。 (*)1177(安元 3,治承元)、1181(治承 5,養和元)。 たいらのしげこ【平 滋子】《たひらのしげこ》 1142 〜 1176(安元 2. 7. 8) ◇平安後期、後白河上皇の女御。院号は建春門院(ケンシュンモンイン)。父は平時信、母は九条顕頼の娘。平時子(平清盛の妻)の妹。高倉天皇の母。 _後白河上皇の妹上西門院に仕え、少弁局と称する。上皇と門院が同じ御所にいたことから、上皇の寵愛をえて後宮に入る。 _1161(永暦 2. 9. 3)憲仁(ノリヒト)(高倉天皇)を出産。1166年、従三位。1167(仁安 2)女御。1168(仁安 3)高倉天皇が即位し、皇太后。翌年、院号宣下があり建春門院。 (*)1142(永治 2,康治元)、1166(永万 2,仁安元)。 たいらのしげひら【平 重衡】《たひらのしげひら》 1156 〜 1185(元暦 2. 6.23) ◇平安末期の武将。平清盛(キヨモリ)の子、母は平時子(トキコ)。重盛(シゲモリ)の異母弟、宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)(建礼門院)の同母弟。 _1180(治承 4. 5.)兄知盛とともに源頼政(ヨリマサ)を宇治に破り、11月頼政に通じた東大寺・興福寺を攻めて焼く。 _1181年尾張国洲俣川に甥の平維盛(コレモリ)とともに源行家(ユキイエ)を破り、従三位左中将となる。 _1183(寿永 2)西走後、備中国水島で源義仲(ヨシナカ)軍の部将高梨高信を討つ。 _翌年、一ノ谷の戦に敗れ、須磨の浦で荘家長らに捕われ鎌倉に送られる。後白河法皇は重衡を人質として平宗盛(ムネモリ)に三種の神器の返還を要求するが拒絶される。 _平家滅亡後、鎌倉に送られ、源頼朝に厚遇される。出家を願うが、南都衆徒の要請で奈良に送られ、木津川で斬首、奈良坂に晒首(サラシクビ)となる。 (2)没年は1185(文治 1)。 _母は平時子。 _洲俣川で源行家を破り……。 (4)没年は1184。 (6)没年は1185。 (16)没年は1185(文治 1. 6.23)。 _源行家を尾張の洲股に破り……。 _母池禅尼が……。 (*)1156(久寿 3,保元元)、1185(元暦 2,文治元)。 たいらのしげもり【平 重盛】《たひらのしげもり》 1137(保延 3) 〜 1179(治承 3. 7.29) ◇平安末期の武将。通称は小松殿・小松内府・灯籠大臣(燈籠大臣)、法号は証空(一説に静蓮)。 _平清盛(キヨモリ)の長子、母は高階(タカシナ)基章の娘。維盛(コレモリ)の父。重衡(シゲヒラ)・宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)(建礼門院)の異母兄。 _1150(久安 6)14歳で蔵人、翌年従五位下、1155(久寿 2)中務少輔。 _保元の乱では父清盛と戦い、1157(保元 2)従五位上権大輔、10月正従五位下左衛門佐、翌年遠江守を兼ねる。 _平治の乱では清盛とともに紀伊に熊野詣の途中であったが、その知らせに接し清盛が西国に走ろうとするのを止めて、ともに帰京し藤原信頼(ノブヨリ)・源義朝(ヨシトモ)の軍を攻める。叔父平頼盛(ヨリモリ)とともに待賢門の信頼を攻め源義平(ヨシヒラ)(悪源太)を破り、六波羅に源軍が迫った隙に重盛は大内裏を占領し源軍を敗走させる。その功により伊予守となる。 _1160年、左馬頭・内蔵頭、1163年、従三位、1165年、正三位参議、1166年、近江権守・左兵衛督・権中務言・春宮大夫を兼ね、1167(仁安 2)従二位権大納言。病気で一時官を辞す。 _1170(嘉応 2. 7.)重衡の子の資盛(スケモリ)が摂政藤原基房(モトフサ)から下馬をしなかったことで辱めを受けたとき(殿下乗合事件)、重衡は清盛の報復を諌めるが、清盛は基房に徹底的報復をする。 _1175年大納言、のち右近衛大将・左近衛大将を歴任し、1177年左近衛大将兼内大臣。六波羅の小松第に屋敷があり、小松内府と呼ばれる。 _1177年鹿ヶ谷(シシガタニ)の変後、清盛が後白河法皇を幽閉しようとした際、「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠ならず」と諌止(カンシ)した話は有名。同年、東山の麓に一つ一つに燈籠をかけた48間の精舎を建て、燈籠大臣と呼ばれる。 _1179(治承 3)病により東山に出家。 (2)生年は1137(保延 3)。証空((異)静蓮)。 _'75(安元 5)大納言となり:安元 5は存在しない。 (4)生年は1138。 (6)生年は1138。 (16)生年は1137(保延 3)。 (*)1160(平治 2,永暦元)、1163(応保 3,長寛元)、1165(長寛 3,永万元)、1166(永万 2,仁安元)、1175(承安 5,安元元)、1177(安元 3,治承元)。 たいらのすけもり【平 資盛】《たひらのすけもり》 1158(保元 3) 〜 1184 ◇平安末期の武将。通称は新三位中将。平重盛(シゲヒラ)の次子、母は藤原親方の娘少輔掌侍。平清盛(キヨモリ)の孫。 _1170(嘉応 2. 7.)路上で摂政藤原基房(モトフサ)の車に行き会ったとき、下馬をしなかったことで基房に辱めを受ける(殿下乗合事件)。重衡は清盛の報復を諌めるが、清盛は基房に徹底的報復をする。 _1184年、一ノ谷の戦で源義経(ヨシツネ)に敗れ、壇ノ浦で入水。 _『建礼門院右京大夫集(ケンレイモンインウキョウノダイブシュウ)』に恋愛と死別が記されている。 (*)1184(寿永 3,元暦元) たいらのたかむね【平 高棟】 804(延暦23) 〜 867(貞観 9) ◇平安時代の公卿。葛原親王の第1子、桓武天皇の孫。高見王の兄。 _ 825(天長 2)平朝臣の姓を賜り臣籍に降下する。 たいらのたかもち【平 高望】《たひらのたかもち》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安前・中期の貴族・桓武平氏の祖。はじめ高望王。高見王の子、桓武天皇の皇子葛原親王(カツラハラシンノウ)の孫。平国香(クニカ)・良文(ヨシフミ)の父、清盛(キヨモリ)の祖父。 _ 889年、民部卿宗章を討滅し、 890(寛平 2)その功により平朝臣の姓を賜り臣籍に降下する。 _常陸大掾(ヒタチノダイジョウ)を経て従五位下上総介(カズサノスケ)に任ぜられ、土着して関東平氏の基礎を築く。 (*) 889(仁和 5,寛平元)。 たいらのただつね【平 忠恒】《たひらのただつね》 ⇒平忠常 たいらのただつね【平 忠常】《たひらのただつね》 967(康保 4) 〜 1031(長元 4. 6. 6) ◇平安中期の武将。忠恒とも書く、法号は常安。忠頼の子、良文(ヨシフミ)の孫、高望(タカモチ)の曾孫。 _上総介(カズサノスケ)・武蔵押領使となる。1028年内乱を起し、上総の国府を陥れ、安房を侵し国守を殺す。朝廷は平直方(ナオカタ)を追討使に任じて送るが成功せず、1030(長元 3)召還。 _直方に代った甲斐守源頼信(ヨリノブ)に、1031(長元 4)戦わずして剃髪し降伏。京都に送られる途中美濃の野上で病死し、首だけが京に送られる。 (2)生年不詳。 (4)生年不詳。 (6)生年は 967。 (16)生年は 967(康保 4)。 (*)1028(万寿 5,長元元)。 たいらのただのり【平 忠度】《たひらのただのり》 1144 〜 1184(寿永 3. 2. 7) ◇平安末期の武将・歌人。平忠盛(タダモリ)の子、母は仙洞御所の女房。清盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)の異母弟。 _1180(治承 4)富士川の戦に従軍。1181年、平重衡(シゲモリ)・維盛(コレモリ)とともに源行家(ユキイエ)を尾張の洲俣川に破る。1183(寿永 2)京に迫った足利義清(ヨシキヨ)を防ぎ、倶利伽羅(クリカラ)谷では源義仲(ヨシナカ)に維盛とともに「火牛の計」で敗れる(砺波山<トナミヤマ>の戦)。 _翌年、一ノ谷の戦で岡部忠澄の主従に討たれ戦死。 _平家西走の際、京都に引き返し、師の藤原俊成(トシナリ)に歌集一巻を託した逸話は有名。 (2)洲俣川の戦……。 (16)洲股川に破り……。 (*)1144(康治 3,天養元)、1181(治承 5,養和元)。 たいらのただまさ【平 忠正】 生年不詳 〜 1156(保元元. 7.30) ◇平安末期の武将。通称は右馬助。平正盛(マサモリ)の子、清盛(キヨモリ)の叔父。 _1156年保元の乱で、崇徳(ストク)上皇の召により源為義(タメヨシ)・源為朝(タメトモ)とともに、後白河天皇方の源義朝(ヨシトモ)・平清盛らと戦い、敗れて伊勢に逃れる。出家し清盛の許に出頭したが、子の長盛・忠綱・政綱らとともに六条河原で斬首。 (*)1156(久寿 3,保元元)。 たいらのただもり【平 忠盛】《たひらのただもり》 1096 〜 1153(仁平 3. 1.15) ◇平安末期の武将。平正盛(マサモリ)の嫡子、清盛(キヨモリ)・教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の父。 _白河上皇・鳥羽上皇の寵を得て累進する。 _1129(大治 4)備前守として山陽・南海道の海賊を追捕し、その組織化に成功。白河院領肥前神崎荘司となり、日宋貿易に関係する。1132年、鳥羽上皇の命により得長寿院千体観堂を造営、その功により但馬守になる。やがて刑部卿(ギョウブキョウ)となり、武人ではじめて内昇殿を許される。1135年、海賊追討使として西海道の海賊の首領日高禅師を捕え、西国に平氏勢力の基礎を築く。 (2)生年は1095(嘉保 2)。 (4)生年は1096。 (6)生年は1096。 (16)生年は1096(永長 1)。 (*)1096(嘉保 3,永長元)、1132(天承 2,長承元)、1135(長承 4,保延元)。 たいらのつねまさ【平 経正】 生年不詳 〜 1184 ◇平安末期の武将・歌人。平経盛(ツネモリ)の嫡子、平経俊・敦盛(アツモリ)の兄。 _幼くして仁和寺の童形(ドウギョウ)として仕える。 _一ノ谷の戦で戦死。 (*)1184(寿永 3,元暦元)。 たいらのつねもり【平 経盛】 1125(天治 2) 〜 1185 ◇平安末期の武将。平忠盛(タダモリ)の子、母は陸奥守源信雅の娘。平経正(ツネマサ)・経俊・敦盛(アツモリ)の父。平清盛(キヨモリ)の異母弟、教盛(ノリモリ)・頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。 (2)'85(文治 1)の壇ノ浦合戦において,「平家物語」によれば経盛・教盛兄弟は,鎧の上に碇を背負い互いに腕を組み合って海中に沈んだという。 (*)1185(元暦 2,文治元)。 たいらのときこ【平 時子】 生年不詳 〜 1185(元暦 2. 3.24) ◇平清盛(キヨモリ)の妻。兵部権大輔平時信の娘、母は藤原家範の娘。平宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・重衡(シゲヒラ)・徳子(トクコ)(建礼門院)の母。平時忠(トキタダ)の妹、滋子(後白河上皇の女御,建春門院)の姉。 _清盛の死後、剃髪。二位に叙せられ、二位の尼と呼ばれる。 _壇ノ浦で孫の安徳天皇を抱き入水。 たいらのときただ【平 時忠】《たひらのときただ》 1127(大治 2) 〜 1186(文治 2. 2.24) ◇平安末期の公卿。通称は平関白。兵部権大輔平時信の子。滋子(後白河天皇の女御)・時子(平清盛の妻)の兄。 _1161年、平教盛(ノリモリ)とともに憲仁親王を皇太子にしようと謀り発覚、1162(応保 2)国家を呪詛し、1169年、藤原成親を讒訴したことにより、出雲に流される。 _1179(治承 3)正二位。1183(寿永 2)権大納言。 _壇ノ浦で捕えられ、能登に流される。 _「この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と言った逸話は有名。 (2)生年は1127(大治 2)、没年は1189(文治 5)。 _平氏全盛期に〈この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし〉といったと伝える。 _平氏滅亡後、源義経に近づいて身の保全をはかったが,源頼朝によって能登に流された。 (4)生年は1130、没年は1189。 _「平氏にあらざれば人にあらず」とうそぶいたことは有名。 _壇ノ浦の戦後、内侍所を奉じて京都に帰り、罪を免れんことを請うたが許されず、能登に流されて没。 (6)生年は1127、没年は1186。 _壇ノ浦の戦で捕えられ,能登に流された。 (16)生年は1127(大治 2)、没年は1186(文治 2. 2.24)。 _平氏滅亡後捕えられて帰洛した.その後、義経に女を進めて身の保全を図ったが,頼朝の厳命により,能登に流され,同地で没した. (*)1161(永暦 2,応保元)、1169(仁安 4,嘉応元)。 たいらのとくこ【平 徳子】《たひらのとくこ》 ⇒建礼門院 たいらのとももり【平 知盛】《たひらのとももり》 1152(仁平 2) 〜 1185(元暦 2. 3.) ◇平安末期の武将。平清盛(キヨモリ)の四男、母は平時子(トキコ)。重盛(シゲモリ)(異母)・宗盛(ムネモリ)(同母)の弟、徳子(トクコ)(建礼門院)・重衡(シゲヒラ)の同母兄。 _1180(治承 4. 5.)弟重衡とともに源頼政(ヨリマサ)を宇治に滅ぼす。1182年源行家(ユキイエ)を美濃に破る。 _一ノ谷・壇ノ浦に戦い、安徳天皇のあとを追い入水。 (4)生年は1552。 _壇ノ浦の戦に船中で叔父教盛と並び坐して自刃。 (6)生年は1551。 _壇ノ浦でも勇戦の末,安徳天皇らを追って自らも入水。 (*)1182(養和 2,寿永元)。 たいらのなおかた【平 直方】《たひらのなほかた》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安中期の武将。平維時の子、維将(コレマサ)の孫。 _平忠盛(タダモリ)の乱を平定できず、1030(長元 3)源頼信(ヨリノブ)に更迭。娘を頼信の子頼義(ヨリヨシ)に進め、鎌倉郷の屋敷を義頼に譲る。 _子聖範・孫時直が東国に土着し、鎌倉幕府の北条氏はその子孫とされる。 たいらののりつね【平 教経】《たひらののりつね》 1160 〜 1185 ◇平安末期の武将。初名は国盛。平教盛(ノリモリ)(平清盛の弟)の子。 _1183(寿永 2)備中水島の合戦で源義仲の軍の足利義清(ヨシキヨ)を破る。1184年、一ノ谷の戦では源義経(ヨシツネ)に敗れる。1185年、屋島の戦で義経に強弓で矢を放つが、佐藤継信(ツグノブ)が義経をかばい戦死。 (2)没年は1185(文治 1)。 _'85(文治 1)壇ノ浦の合戦で源義経を追いつめたが,討ちもらし,源氏の武士2人と組み合って海に落ちた。 (4)没年は1185。 _壇ノ浦では義経を追い、遂に入水(一説、一一八四年一谷で捕殺)。 (6)没年は1185。 _壇ノ浦では源義経を捕えようとして失敗,源氏の武士2人を抱いて入水。一説に1184年一ノ谷の戦に捕えられ処刑ともいう。 (16)没年は1185(文治 1)。 _'85(文治 1)壇ノ浦の戦で義経を捕えようとしたが失敗し,源氏の武士2人を道連れにして入水自殺した. (*)1160(平治 2,永暦元)、1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。 たいらののりもり【平 教盛】《たひらののりもり》 1128(大治 3) 〜 1185 ◇平安末期の武将。通称は門脇(カドワキ)殿(平清盛の六波羅邸の門脇に邸宅を構えた)。平忠盛(タダモリ)の第3子、母は藤原家隆(イエタカ)の娘(待賢門院の女房)。教経(ノリツネ)の父。清盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)の異母弟、頼盛(ヨリモリ)・忠度(タダノリ)の異母兄。 _保元・平治の乱に功をたて正四位下常陸介に至る。 _1161年、平時忠(トキタダ)とともに憲仁親王を皇太子にしようと謀り、発覚して官を奪われる。1168(仁安 3)高倉天皇(憲仁)即位とともに蔵人頭・参議となる。1181年清盛の死後、清盛の子宗盛(ムネモリ)の後見として権中納言となる。 _源(木曾)義仲(ヨシナカ)に敗れ、西走。1183(寿永 2)備中水島に義仲の軍を破り、源行家(ユキイエ)を播磨(ハリマ)室山に破り、一時勢力を回復し一ノ谷に進出するが、壇ノ浦で戦死。 (2)生年は1128(大治 3)。平忠盛の4男。壇ノ浦で弟経盛とともに入水した。 (4)生年は1129。忠盛の第三子。壇ノ浦の戦に知盛と自刃。 (16)生年は1128(大治 3)。忠盛の子。壇ノ浦の戦で没した. (*)1161(永暦 2,応保元)、1181(治承 5,養和元)、1185(元暦 2,文治元)。 たいらのひろつね【平 広常】 ⇒千葉広常 たいらのまさかど【平 将門】《たひらのまさかど》 生年不詳 〜 940(天慶 3. 2.14) ◇平安中期の武将。平良将(マサヨシ)の子、平高望(タカモチ)の孫、平国香(クニカ)の甥。 _初め京都で摂政藤原忠平(タダヒラ)に仕え、検非違使になることを望んだが許されず、憤怒して帰郷、下総(シモウサ)国豊田に住む。 _のち父の遺領をめぐり一族の紛争から、 935(承平 5)伯父の国香(高望の子)とその姻戚源護一族を滅ぼす。源護(マモル)の訴えで京都の検非違使庁に召喚、翌年赦免。国香の弟良兼(ヨシカネ)・国香の子貞盛(サダモリ)に攻められ、これを破る。また常陸(ヒタチ)国司藤原惟幾と争い、争乱は関東一帯に広がり、 939(天慶 2)常陸・下野(シモツケ)・上野(コウズケ)の国府を占領。 _ 939(天慶 2)八幡大菩薩の神託を得たとして、王宮を下総国石井郷猿島(サシマ)(茨城県猿島郡猿島町)に建て、下野・上野・常陸・上総(カズサ)・安房(アワ)・相摸(サガミ)・伊豆・下総の八ヶ国の国司を置き、左大臣・右大臣などをも任命、自らを新皇と称し関東独立国をうち建てる。 _ここにいたって朝廷は藤原忠文(タダフミ)を征東大将軍として下向させたが、東国に到る前に、将門は平貞盛(サダモリ)(国香の子)・源経基(ツネモト)(清和源氏の祖)・下野の豪族藤原秀郷(ヒデサト)らに急襲されて討れる(承平・天慶の乱)。 ◎このころの原始的武士団には強固な主従結合がなく、追討軍の前に家来はすぐに背走し、『将門記』に「天下に未だ将軍、自ら戦ひ死ぬることあらず」と書かれるほどの危機的状況下で、将門は風上に陣取るが風が変り風下となり、風にのった矢で射殺された。しかし、武士の台頭を告げる号砲でもあった。 _死後、各地に将門伝説が生れ、民間で英雄として信仰を集め、神田明神などに祭られる。 (2)良将の子,母は犬飼春枝の娘。(名)相馬小二郎。 (4)父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。伯父国香を殺して……。 (6)父良将は鎮守府将軍。伯父国香をころしたことから……。 (16)鎮守府将軍良将の子.相馬小二郎とも称した.叔父平国香が護に組したのでこれを殺した. (17)父は良持とも良将ともいう。母は犬飼春枝ともいうが、未詳。「滝口小次郎」とも書く史料があるから……。叔父の国香と……。 ◎将門の独立国家では、元号を建てなかった。 (*)承平・天慶(ジョウヘイテンギョウ)の乱は、西国で藤原純友(スミトモ)が起した乱を含む。 たいらのまさこ【平 政子】《たひらのまさこ》 ⇒北条政子 たいらのまさもり【平 正盛】《たひらのまさもり》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安末期の武将。平正衡の子、忠盛(タダモリ)の父、清盛(キヨモリ)の祖父。 _1107(嘉承 2)源義親(ヨシチカ)追討を命ぜられ、翌年これを討ち、伊勢平氏は清和源氏に対抗する勢力となる。 _1113年、南都北嶺の争いから延暦寺の僧徒が神輿を奉じて白河法皇の御所に迫った際、源光国・源為義(タメヨシ)とともに警護にあたる。1119(元永 2)都に賊が横行した際、これを鎮定。 (*)1113(天永 4,永久元)。 たいらのむねもり【平 宗盛】《たひらのむねもり》 1147(久安 3) 〜 1185(元暦 2. 6.21) ◇平安末期の武将。通称は屋島大臣。平清盛(キヨモリ)の子、母は平時子(トキコ)。重盛(シゲモリ)の異母弟、知盛(トモノリ)・徳子(トクコ)(建礼門院)・重衡(シゲヒラ)の同母兄。 _1177年、右大将。1178(治承 2)正二位権大納言。1179(治承 3)官を辞す。同年重盛が没し平氏の総帥となる。 _1180(治承 4)安徳天皇(妹徳子の子)が即位し、外戚となる。1181(治承 5.閏2.)父清盛が没する。翌年、権大納言・内大臣。1183(寿永 2)従一位内大臣。同年、源義仲(ヨシナカ)が京に迫り、一門を率い安徳天皇を奉じて九州太宰府に逃れる。 _のち壇ノ浦で子の清宗らとともに捕われる。鎌倉に送られ、源頼朝(ヨリトモ)に賎(イヤ)しめて讃岐権守平末国と改名させられる。さらに京に送られる途中、近江国篠原で源義経(ヨシツネ)に斬首。 (2)清盛の3男。 (4)清盛の次子。 (6)清盛の三男。 (16)清盛の次男。 (*)1177(安元 3,治承元)。 たいらのもりくに【平 盛国】 1113 〜 1186(文治 2) ◇平安末期の武将。通称は主馬判官(シュメノホウガン)。伊勢平氏平季衡(スエヒラ)の第7子。盛俊(モリトシ)の父。 _保元・平治の乱で活躍。1172(承安 2)出家。1177年、鹿ヶ谷の変に平清盛・重盛に従って活躍。 _平家滅亡後、捕われて鎌倉に送られ、三浦義明(ヨシアキ)(桓武平氏の流)の舎弟岡崎義実(ヨシザネ)に預けられるが、法華経を誦えながら断食で命を断つ。 (2)なお,「吾妻鏡」は,清盛が死んだのは九条河原口の盛国の家であったとしている。 (*)1113(天永 4,永久元)、1177(安元 3,治承元)。 たいらのやすより【平 康頼】《たひらのやすより》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安末期の廷臣。通称は平判官康頼、法号は性照。信濃守頼季の子。 _後白河院の近臣で、1177年、京都東山の鹿ヶ谷(シシガタニ)の山荘で、俊寛(シュンカン)や藤原成親・(少将)成経父子らと平清盛(キヨモリ)を滅ぼそうと謀ったが、源行綱の密告によって謀議が露見する(鹿ヶ谷の変)。同年、薩摩国鬼界島(キカイガシマ)(硫黄島)に流され、翌年春大赦で成経らと召還される。 _流罪になるとき周防で出家、性照と号す。 (*)1177(安元 3,治承元)。 たいらのゆきもり【平 行盛】 生年不詳 〜 1185 ◇平安末期の武将・歌人。平基盛(モトモリ)の子。 _1180(治承 4. 5.)宇治川の戦で初陣。 _藤原定家(サダイエ)に師事し和歌を学び、平氏西走の際、定家に歌集1巻を託す。 _1184年、備前国児島で佐々木盛綱(モリツナ)に敗れ、翌年壇ノ浦で入水。 (*)1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。 たいらのよりつな【平 頼綱】 生年不詳 〜 1293(正応 6. 4.22) ◇鎌倉後期の得宗被官・内管領(ウチカンレイ)。通称は左衛門尉。北条貞時(サダトキ)の乳母(メノト)の夫。 _1284(弘安 7. 4. 4)第8代執権(シッケン)北条時宗(トキムネ)が死去して貞時が執権になると、幕府の有力後家人の安達泰盛(アダチ・ヤスモリ)(貞時の外祖父)との幕政の主導権をめぐる対立から、1285(弘安 8.11.)泰盛の子宗景に謀反(ムホン)の企てがあると中傷して安達泰盛一族を滅ぼす(霜月騒動)。 _事件後、幕府の実権を手にしたが、頼綱の子安房守を将軍にしようとする陰謀から、北条貞時(サダトキ)によって鎌倉経師ヶ谷(キョウジガヤツ)の館を急襲され自害。 たいらのよりもり【平 頼盛】《たひらのよりもり》 1131 〜 1186(文治 2) ◇平安末期の武将。通称は池殿・池大納言(イケノダイナゴン)、法号は重蓮。平忠盛(タダモリ)の第5子、母は池禅尼(イケノゼンニ)。平清盛(キヨモリ)・経盛(ツネモリ)・教盛(ノリモリ)の異母弟、忠度(タダノリ)の異母兄。 _平治の乱の功により正四位下修理大夫。1166年、太宰大弐となり、慣例を破り任地に下向。1180(治承 4)正二位、1183(寿永 2)権大納言となる。源(木曾)義仲(ヨシナカ)の入京による平氏西走の際、後白河法皇を頼り法住寺殿に入り京に残る。 _母が源頼朝(ヨリトモ)を助けたことがあり、1184年、頼朝に招かれて鎌倉に下り、その保護を受け、権大納言に還任し所領も安堵(アンド)される。1185年、平家滅亡とともに東大寺で出家し重蓮と号する。 _なお、平家には小烏丸(コガラスマル)・抜丸の宝刀が伝えられ、清盛が抜丸を、頼盛が小烏丸を譲られる。ために清盛と不仲であったといわれる。 (*)1131(大治 6,天承元)、1166(永万 2,仁安元)、1184(寿永 3,元暦元)、1185(元暦 2,文治元)。 たおか のりお【田岡 典夫】 1908. 9. 1(明治41) 〜 1982. 4. 7(昭和57) ◇小説家。 たおか れいうん【田岡 嶺雲】 1870(明治 3.11.28) 〜 1912. 9. 7(大正元) ◇明治時代の文芸・社会評論家・中国文学者。本名は佐代治(サヨジ)、別号は少湘庵(ショウショウアン)主人・栩々生(ククセイ)・爛腸・夜鬼窟主・金馬門人。高知県生れ。三菱総理事木村久寿弥太(クスヤタ)の実弟。 _1883(明治16)大阪官立中学入学、病気で中退。1889(明治22)上京。水産伝習所卒業。東京大学漢文科選科卒業。 _脊髄病で死去。 (1)誕生日は11.21。 (3)誕生日は11.28。 (5)誕生日は11.28。 (9)誕生日は11.21。 (11)誕生日は11.21。 (13)明治三年高知市外の土佐藩陪臣の家に生まれ、……。 たかおか しんのう【高岳 親王】 ⇒真如親王 たかがき ひとみ【高垣 眸】 1898. 1.20(明治31) 〜 1983. 4. 2(昭和58) ◇児童文学作家。本名は末男、別名は青梅(「目」偏+「斤」:補助なし)二(オウメ・セキジ)。 たかがき まつお【高垣 松雄】 1890.12.13(明治23) 〜 1940. 9.13(昭和15) ◇アメリカ文学者。 たかぎ いちのすけ【高木 市之助】 1888. 2. 5(明治21) 〜 1974.12.23(昭和49) ◇国文学者。 _京城帝国大学の初代国文科教授。時枝誠記(モトキ)を京城大に呼ぶ。 たかぎ そうご【高木 蒼梧】 1888.10.13(明治21) 〜 1970. 7.13(昭和45) ◇俳人・俳諧研究家。本名は錠吉、通称は譲。 たかぎ たく【高木 卓】 1907. 1.18(明治40) 〜 1974.12.28(昭和49) ◇小説家・ドイツ文学者。本名は安藤煕(ヒロシ)。東京生まれ。1930(昭和 5)東京大学独文科卒業。東京大学教養学部教授。母幸(コウ)は幸田露伴(伯父)の妹。 (3)彼の母は幸田露伴の実妹安藤幸(音楽家)で、……。 (5)母幸子は幸田露伴の妹。 (11)母幸子は幸田露伴の妹。 たかぎ ていじ【高木 貞治】 1875. 4.21(明治 8) 〜 1960. 2.28(昭和35) ◇明治〜昭和期の数学者。岐阜県生れ。東京大学卒業。 たかくさき ぼふう【高草木 暮風】 1893. 5.14(明治26) 〜 1965. 6.12(昭和40) ◇歌人・理髪業。本名は正治。 たかくす じゅんじろう【高楠 順次郎】 1866(慶応 2. 5.17) 〜 1945. 6.28(昭和20) ◇インド哲学者・仏教学者。本姓は沢井、号は雪頂。広島県生れ。オックスフォード大学卒業。 _1931(昭和 6)東洋大学学長。 たかくら てる【高倉 輝】 1891. 4.14(明治24) 〜 1986. 4. 2(昭和61) ◇小説家・劇作家・評論家。輝豊を輝に改名、筆名は高倉テルのち「タカクラ・テル」。左翼的な農村文化運動に参加、1933(昭和 8)検挙され転向を経験する。第二次大戦後、日本共産党に入党。 たかくら てんのう【高倉 天皇】《たかくら てんわう》 1161(永暦 2. 9. 3) 〜 1181(治承 5. 1.14) ◇第80代天皇。名は憲仁(ノリヒト)。後白河天皇の第7皇子、母は平滋子(シゲコ)(建春門院)。守仁(モリヒト)皇子(二条天皇)の異母弟。 _1166年、六条天皇(二条天皇の皇子)の皇太子となる。六条天皇が元服しないまま譲位を受けて、1168(仁安 3)8歳で即位。 _1180(治承 4. 2.)退位し、4月安徳天皇が即位。 _父後白河法皇と外祖父平清盛(キヨモリ)の反目の間にあって、天皇は虚位に過ぎなかった。 _即位:1168(仁安 3. 3.20)、退位:1180(治承 4. 2.21)。 (*)1166(永万 2,仁安元)。 たかこ【孝子】 1602(慶長 7) 〜 1674(延宝 2) ◇江戸初期、第三代将軍徳川家光の正室。院号は本理院。前関白鷹司(タカツカサ)信房の娘。 _1623(元和 9)京都から江戸に下り、江戸城西の丸に入る。1625(寛永 2)家光と結婚。 ◆墓は東京都文京区の伝通院。 たかさき まさかぜ【高崎 正風】 1836(天保 7. 7.28) 〜 1912. 2.28(明治45) ◇明治時代の歌人。幼名は左太郎、のち左京・親義。家号は鶴園・蕣(アサガオ)の舎。代々鹿児島藩士。薩摩国(鹿児島県)鹿児島郡川上村生まれ。 _1875(明治 8)侍従番長。1876(明治 9)御歌掛(オウタガカリ)兼任。1886(明治19)式部次長兼御歌掛長。1888(明治21)御歌所(オウタドコロ)の初代所長。1889(明治22)宮中顧問官。1895(明治28)枢密顧問官兼任。 (16)誕生日は1836(天保 7. 3.)。 たかさぶ りゅうたつ【高三 隆達】 1527(大永 7) 〜 1611(慶長16) ◇江戸初期の日蓮僧・近世小歌の祖。 _泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧。 _室町小唄に節付けをし、扇拍子や一節切(ヒトヨギリ)・鼓(ツヅミ)などに合わせて歌い、文禄・慶長(1592〜1615)ころ上方で流行。 たかざわ ただより【高沢 忠順】 1730(享保15) 〜 1799(寛政11) ◇江戸中期の加賀藩士。通称は平次右衛門。 たかしお はいざん【高塩 背山】 1882. 1.30(明治15) 〜 1956. 5.31(昭和31) ◇歌人。本名は正庸。 (9)没日は 5.30。 たかしな えいし【高階 栄子】 生年不詳 〜 1216(建保 4) ◇平安末期・鎌倉初期の女官。通称は丹後局(タンゴノツボネ)・浄土寺二位・丹二品。延暦寺僧の法印澄雲の娘。 _木工頭の平業房に嫁す。業房が後白河法皇の寵臣であったことから宮仕えをし、法皇の寵妃(チョウキ)となる。1179(治承 3)業房が平氏抑圧の密議を謀ったかどで殺される。 _1181(治承 5)覲子内親王を生む。1183(寿永 2)平氏都落ちの後、後鳥羽天皇の即位に尽力。1191(建久 2)覲子内親王が宣陽門院の院号を賜ると、局は従二位となり、後白河院政の陰の実力者として勢力をふるい、関東との折衝にも当り源頼朝も畏怖したという。 _法皇の死後、出家してなお朝廷に隠然たる権力をふるい、1196(建久 7)承仁法親王・土御門通親(ツチミカド・ミチチカ)らと図って、親幕派の関白藤原(九条)兼実一族を退け、前関白藤原基通を擁立する。 たかしな たかかね【高階 隆兼】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉末期の宮廷絵師。 _作品は『春日権現(カスガゴンゲン)験記』。 たかしま かえもん【高島 嘉右衛門】《たかしま かゑもん》 1832(天保 3) 〜 1914(大正 3) ◇実業家・易者。号は呑象(ドンショウ)。常陸国(現:茨城県)の人。 _はじめ実業に従事、横浜で土木・建築の請負に活躍。米人R・P・ブリッジェンスや清水喜助(二代目)と組み、1866(慶応 2)ナマコ壁の西洋建築イギリス仮公使館を完成。京浜間の鉄道敷設にも尽力。木材の買占めや不正取引きで入牢。 _事業を易で占ううち本業以上に占いが大当りし、財界から退いて呑象と号して高島易断の開祖となる。 _著書『高島易断書』。 ◎埋立地の横浜市高島町は彼の名に由来する。 (4)江戸の生れ。 たかしま きゅうほう【高島 九峯】 1846(弘化 3. 5.30) 〜 1927. 2.23(昭和 2) ◇漢詩人。名は張、字は張甫、通称は張輔、号は九峯。 たかしま しゅうはん【高島 秋帆】《たかしま しうはん》 1798(寛政10. 8.15) 〜 1866(慶応 2. 1.14) ◇江戸後期の砲術家。幼名は糾之丞(タダノジョウ)、名は茂敦(モチアツ)、通称は四郎太夫、字は子厚・舜臣(キミオミ)、号は秋帆。長崎生れ。長崎取締役(町年寄)四郎兵衛の子。 _1808(文化 5. 8.)フェートン号事件などの影響を大きく受ける。 _長崎町年寄兼鉄砲方。オランダ人について兵学・砲術を学び、鉄砲・大砲の購入・鋳造に努め、門人に集団教練を実施。 _アヘン戦争に刺激され、洋式砲術採用を幕府に建議。江川英竜(ヒデタツ)(太郎左衛門)の支持を得て、1841(天保12. 5.)松月院を本陣として武州徳丸原(トクマルバラ)(現:高島平)で弟子約100人とともに洋式砲術の調練を試み、大砲射撃を実演。江川らに教授、幕末西洋砲術家に多大の影響を与える。 _一時、鳥居耀蔵(ヨウゾウ)の讒言(ザンゲン)にあい幽閉されるが、1853(嘉永 6. 6.)ペリー来航を機に8月許されて召し出され、1856(安政 3)講武所砲術指南役のち武具奉行格に進む。 _訳書『高島流砲術伝書』がある。 ◎松月院は東京都板橋区赤塚8丁目にある曹洞宗の寺で、秋帆の遺品や「徳丸ヶ原調練図」などが保存されている。 たかしま たかし【高島 高】 1910. 7. 1(明治43) 〜 1955. 5.12(昭和30) ◇詩人。 たかしま べいほう【高嶋 米峰】 1875. 1.15(明治 8) 〜 1949.10.25(昭和24) ◇宗教家(仏教)・教育家・随筆家。 たかす じすけ【高須 治助】 1859(安政 6.11.23) 〜 1909. 3.(明治42) ◇翻訳家。治輔とも書く、別号は墨浦・五湖・五湖散人、旧姓は富岡。 たかす ばいけい【高須 梅渓】 ⇒高須芳次郎 たかす よしじろう【高須 芳次郎】 1880. 4.13(明治13) 〜 1948. 2. 2(昭和23) ◇評論家・水戸学研究家。号は梅渓(バイケイ)。大阪船場生れ。1898(明治31)上京、1905(明治38)早稲田大学英文科卒業。晩年、水戸学を研究し文学博士の学位を得、日本大学教授。戦時下は皇道主義を鼓吹した。 たかすえのむすめ【孝標女】《たかすゑのむすめ》 ⇒菅原孝標女 たかすぎ しんさく【高杉 晋作】 1839(天保10) 〜 1867(慶応 3. 4.14) ◇江戸幕末の尊皇攘夷・討幕の志士。名は春風、通称は晋作・東一・和助、字(アザナ)は暢夫(チョウフ)、号は東行(トウギョウ)、変名は谷梅之助・谷潜蔵。長州藩士。 _19歳で松下村塾に入り久坂玄瑞とともに吉田松陰門下の双璧(ソウヘキ)といわれる。藩校明倫館都講。 _1862(文久 2)藩命で上海に渡り海外状況を視察し、帰国後尊攘運動に参加。1863(文久 3)長州藩の外国船の下関砲撃直後、武備強化のため奇兵隊を編制。翌年、英・仏・米・蘭の四国(ヨンコク)連合艦隊の攻撃(下関事件)では敗れて筑前に亡命したが、藩の正使として和議を結ぶ。 _同年、幕府の長州征伐に降伏謝罪した藩当局に対し挙兵して保守派(恭順党)を倒す。1865年、藩の主導権を握り藩内を改革し藩論を討幕に向かわせる。 _1866(慶応 2)第二次長州征伐で騎兵隊をひきいて九州小倉の幕府軍を撃退。しかし肺を病み、翌年下関で死去。 (*)1865(元治 2,慶応元)。 たかせ ぶんえん【高瀬 文淵】 1864(元治元. 3.10) 〜 1940. 1.26(昭和15) ◇評論家・小説家。本名は黒川安治、筆名は梅月小史・薫梅月。千葉県生れ。千葉中学卒業。 (5)誕生日は 3.10。 (9)誕生日は 1.26。 (11)誕生日は 3.10。 たかだ ぐんべえ【高田 郡兵衛】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸中期の赤穂藩士。江戸給人、200石、新参。槍の達人宝蔵院高田派の祖高田又兵衛の孫。 _藩主浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)の刃傷(ニンジョウ)事件のとき、江戸詰めの堀部安兵衛(ホリベ・ヤスベエ)・奥田孫太夫(マゴダユウ)とともに国許(クニモト)赤穂に向かい、仇討ちのため家老大石良雄(ヨシオ)を説得する。しかし、吉良(キラ)家討ち入り前に脱盟。父方の伯父で幕府御家人の内田三郎右衛門の養子となる。しかし、討ち入り後は三郎右衛門が世間体を憚(ハバカ)り郡兵衛を離縁、その後の消息は不明。 _堀部安兵衛の『武庸筆記』によれば、討ち入りを三郎右衛門に知られ、内密を条件に養子入りしたという。 たかだ さなえ【高田 早苗】 1860(安政 7. 3.14) 〜 1938.12. 4(昭和13) ◇明治〜昭和初期の教育家・政治家。号は半峯。江戸生れ。 _1882(明治15)東京大学卒業。同年、大隈重信(オオクマ・シゲノブ)の東京専門学校(現:早稲田大学)創設に加わる。1890(明治23)衆議院議員。 _大隈の求めで官界に入り、1897(明治30)外務省通商局長、1898(明治31)文部省高等学務局長・専門学務局長。 _退官し、1900(明治33)東京専門学校学監。1915(大正 4)貴族院議員。1916(大正 5)第2次大隈内閣の文相。 _その後、大隈の後を受けて1931(昭和 6)まで早稲田大学総長。 たかた しゅうぞう【高田 集蔵】 1879.10. 1(明治12) 〜 1960.10.10(昭和35) ◇宗教家・思想家。号は竹隣。 たかだ せいこ【高田 せい子】 1895(明治28) 〜 1977(昭和52) ◇昭和期の舞踊家。本姓は中村。高田雅夫の妻。 たかだ たもつ【高田 保】 1895. 3.28(明治28) 〜 1952. 2.20(昭和27) ◇劇作家・演出家・小説家・随筆家。俳号は羊軒。茨城県新治郡土浦町六番地生れ。家は歴代藩主土屋越前守の祐筆をしていた。 _1917(大正 6)早稲田大学英文科卒業。新聞記者となり、演劇運動に参加。 たかた ちょうい【高田 蝶衣】 1886. 1.30(明治19) 〜 1930. 9.23(昭和 5) ◇明治・大正期の俳人。通称は四十平(ヨソヘイ)のち千郷(チサト)、別号は掃(草冠+「擇」)廬。兵庫県生れ。早稲田大学中退。 _1917(大正 6)末、湊川神社の神官。1919(大正 8)秋、病気により退職。 (2)高田 蝶衣(たかだ ちょうい)、誕生日記載なし。 (3)高田 蝶衣(たかた ちょうい)、誕生日は 1.30。 (5)高田 蝶衣(たかだ ちょうい)、誕生日は 1.30。 (9)高田 蝶衣(たかた ちょうい)、誕生日は 1.25(三〇日という説もある)。 (11)高田 蝶衣(たかだ ちょうい)、誕生日は 1.30。 たかだ ともきよ【高田 与清】 1783(天明 3) 〜 1847(弘化 4) ◇江戸後期の国学者。本姓は小山田、一時高田家の養子。号は松屋(マツノヤ)。武蔵の人。 _漢学を古屋昔陽、国学を村田春海に学び、考証学に精通。群書を蒐集し、その書庫を擁書楼と呼ぶ。 _徳川斉昭の知遇を得て水戸の史館に出仕し、『八洲文藻』・『扶桑拾葉集註釈』の編集にたずさわる。 _その他、著書『松屋筆記』、編書『群書捜索目録』など。 たかだ なみきち【高田 浪吉】 1898. 5.27(明治31) 〜 1962. 9.19(昭和37) ◇歌人。小学校を卒業後、家業の下駄塗りに従事しながら作歌を始める。1923(大正12)関東大震災で母と妹二人を失う。 たかだ はんぽう【高田 半峰】 1860(安政 7. 3.14) 〜 1938.12. 3(昭和13) ◇文芸評論家・教育家・政治学者・政治家(改進党)。本名は早苗(サナエ)。東京大学文学部を出て、東京専門学校(現:早稲田大学)の創立に参画。文部大臣・早稲田大学総長。 (3)1860(万延元):誤。 (5)1860(安政 7):正。 (9)1860(安政 7):正。 (11)1860(安政 7):正。 (13)万延元年三月江戸に生まる。 (*)万延元は 3.18より。 たかだ ひろあつ【高田 博厚】 1900(明治33) 〜 1987(昭和62) ◇彫刻家。石川県生れ。 _高村光太郎に学ぶ。 たかだ まさお【高田 雅夫】 1895(明治28) 〜 1923(大正12) ◇大正期の舞踊家。本名は中村輝義。高田せい子の夫。 (2)大正・昭和期の舞踊家。 (6)「江口隆哉(タカヤ)」の項:高田せい子・雅男の門下で……. たかだ またべえ【高田 又兵衛】 1589(天正17) 〜 1671(寛文11) ◇江戸初期の槍術家・高田流槍術の祖。名は吉次、号は宗白。伊賀生れ。美濃の土岐源氏の後裔。 _大坂の陣では豊臣方に属す。その後、江戸で町道場を開く。 たかだ みのる【高田 実】 1871(明治 4) 〜 1916(大正 5) ◇新派俳優。東京出身。通称は「新派の団十郎」。 _大阪で喜多村緑郎らと成美団を組織。 _日露戦争後、東京の本郷座で新派全盛時代を築く。 たかだ やすま【高田 保馬】 1883.12.27(明治16) 〜 1972. 2. 2(昭和47) ◇経済学者・社会学者・歌人。 たかたや かへえ【高田屋 嘉兵衛】《たかたや かへゑ》 1769(明和 6) 〜 1827(文政10. 4.13) ◇江戸後期の海運業者・北海道開拓者。姓は高田。淡路(アワジ)の人。 _一水夫から身を起して兵庫で海運業を営み、酒田・松前の航路を開き北陸・蝦夷(エゾ)交易に活躍し巨利を得る。 _1799(寛政11)・1800(寛政12)と2回幕命を受けた支配勘定近藤重蔵とともに択捉島を探検し、同島に日本国領有の標示を建てる。箱館に支店を設け、漁場17ヶ所を設置。 _1812(文化 9)国後(クナシリ)沖で、ゴローニン(Golovnin)幽囚の報復としてゴローニンの乗船ロシア海軍ジアナ号に捕らえられ、カムチャツカに連行。ロシア語を学び両国の融和を説き、翌年ロシア船長リコルドに伴われ日本に送還。ゴローニンの釈放その他、幕府とロシアとの仲介に尽力。 _その功により幕府蝦夷御用船頭にも任じられる。 (2)たかたやかへえ。 (4)たかたやかへえ。 (6)たかだやかへえ。 たかだや かへえ【高田屋 嘉兵衛】《たかだや かへゑ》 ⇒高田屋嘉兵衛 たかつ くわさぶろう【高津 鍬三郎】《たかつ くはさぶらう》 1864(元治元) 〜 1921.11.23(大正10) ◇国文学者。 たかつ せいどう【高津 正道】《たかつ せいだう》 1893. 4.20(明治26) 〜 1974. 1. 9(昭和49) ◇評論家・政治家。 たかつかさ かねひら【鷹司 兼平】 1228(安貞 2) 〜 1298(永仁 6) ◇鎌倉時代の公卿・鷹司家の祖。法名は覚理、法号は称念院入道前関白。近衛家実の4男、母は藤原忠行の娘。 _内大臣・右大臣・左大臣を経て、1252(建長 4)深草天皇のもとで摂政となり、同年11月太政大臣となるが、翌年辞任。1254(建長 6)関白になるなど、その後幾度か摂政・関白となるが、1288年出家。 (*)1288(弘安11,正応元)。 たかとう じんべえ【高頭 仁兵衛】 1877. 5.20(明治10) 〜 1958. 4. 6(昭和33) ◇登山家。名は式(ショク)、字は義明。日本山岳会第二代会長。 たかの いわさぶろう【高野 岩三郎】《たかの いはさぶらう》 1871(明治 4. 9. 2) 〜 1949. 4. 4(昭和24) ◇大正・昭和期の統計学者・社会思想家。長崎県生れ。高野房太郎(フサタロウ)の弟。東京大学卒業。 _ミュンヘン大学に留学。1903(明治36)東京大学教授。 _1919(大正 8)ILO代表問題で大学を辞職し、同年大原社会問題研究所を設立、没するまで所長を勤める。 _戦後、独自の共和憲法私案を起草。NHK会長・社会党顧問などを歴任。 (16)没日は1949. 4. 5(昭和24)。 たかの すじゅう【高野 素十】 1893. 3. 3(明治26) 〜 1976.10. 4(昭和51) ◇医学博士・俳人。本名は与己(ヨシミ)。茨城県北相馬郡山王村生れ。長岡中学・一高を経て東京大学医科卒業。新潟医科大学教授として法医学を担当。 _高浜虚子に師事。 (1)誕生日は 3. 3。 (3)誕生日は12.21。 (5)誕生日は 3. 3。 (9)誕生日は 3. 3。 (13)誕生日は 3. 3。 ◆素十忌[10. 4]。 たかの たつゆき【高野 辰之】 1876. 4.13(明治 9) 〜 1947. 1.25(昭和22) ◇大正・昭和期の国文学者・演劇学者。号は斑山(ハンザン)。長野県生れ。長野師範学校卒業。 _上田万年に師事。1910(明治43)東京音楽学校教授、大正大学教授。 _著書『日本歌謡史』・『日本演劇史』、編書『日本歌謡集成』など。 たかの ちくいん【高野 竹隠】 1862(文久 2) 〜 1921. 4.10(大正10) ◇漢詩人。名は清雄、別号は白馬山人。 たかの ちょうえい【高野 長英】《たかの ちやうえい》 1804(文化元. 5. 5) 〜 1850(嘉永 3.10.30) ◇江戸後期の蘭学者・蘭医。名は譲のち長英、字は悦三郎、号は瑞皐(ズイコウ)・卿斎・暁夢楼主人・驚夢山人。陸中水沢生れ。後藤実仁の第3子、母は美代(高野氏)。叔父高野玄斎の養子。 _1820(文政 3)17歳で江戸に出て杉田伯元(ハクゲン)(杉田玄白の養子)に学び、翌年蘭医吉田長叔・駒留正見に入門、長英と改名、オランダ内科を学ぶ。 _1824(文政 7)長崎でシーボルトに蘭学を学び、1826(文政 9)ドクトルの称号を授かり、鳴滝塾で翻訳の教授を勤める。1828(文政11)シーボルト事件では門人も災いに遇うが、長英は旅に出ていて熊本に難を避ける。 _養父が没後、養子に家督を継がせ、1831(天保 2)江戸に出て、麹町で町医者を開業、生理学書『西説医原枢要』・『居家備用』など医学書の著訳を行う。 _渡辺崋山(カザン)・小関三英(オゼキ・サンエイ)・鈴木春山(シュンザン)らと尚歯会(ショウシカイ)を組織。 _1836(天保 7)天保の大飢饉の歳、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴える。 _1837(天保 8)米船モリソン号が日本漂流民返還と通商のために浦賀沖に来航し、幕府より砲撃を受ける(モリソン号事件)。長英らは中国で活躍した英国の宣教師R.モリソンが来航するものと誤解し、幕府の態度を非難。1838(天保 9)『戊戌(ボジュツ)夢物語』を著し開港論を唱える。 _1839(天保10)幕府目付鳥居耀蔵(ヨウゾウ)らに、小笠原密航を企てたとして崋山・小関ら洋学者26人が逮捕され(蕃社の獄)、長英は江戸伝馬町に永牢。 _1844(天保15. 6.30)獄舎の失火で脱出、諸国を逃避し、江川英龍(ヒデタツ)(伊豆韮山の代官)・伊達宗城(ムネナリ)・島津斉彬(ナリアキラ)らの庇護(ヒゴ)を受ける。 _再び江戸に入り、高柳柳之助・沢三伯と変名して青山百人町に開業。鉄砲のことなどを講じたことから1850(嘉永 3)幕府に探知され、幕吏に襲われ自刃。 ◎1898(明治31)渡辺崋山とともに正四位が追贈。 (2)母方の伯父高野玄斎の養子。'25長崎に遊学……。'44(弘化 1)放火脱獄して……。 (4)米船モリソン号来航につき……。獄舎の失火に脱出……。 (6)小関(コセキ)三英らと知る……。44年伝馬町の牢が焼失した際放たれて戻らず逃亡して……。 (16)叔父高野玄斎の養子となる.1824(文政 7)さらに長崎にゆき…….'38(天保 9)英船モリソン号が来航し……:誤。'45(弘化 2)年獄舎の火災に乗じて脱走し…….[図:高野長英1][図:高野長英2]高野長英の碑(1998年6月2日撮影) 東京都港区北青山3丁目 善光寺境内 たかの つぎ【鷹野 つぎ】 1890. 8.15(明治23) 〜 1943. 3.19(昭和18) ◇小説家・歌人・随筆家・評論家。本名は次(ツギ)。静岡県浜松市生れ。岸弥助の次女。松島十湖の養女。 _浜松高等女学校卒業。静岡高等女学校研究科を中退。 _1909(明治42)鷹野弥三郎と結婚。 (+)『現代日本文學全集85』  發行所 筑摩書房  昭和32年12月15日印刷  昭和32年12月20日發行 _没年は1942(昭和17)。 たかの ふさたろう【高野 房太郎】《たかの ふさたらう》 1868(明治元.12.24) 〜 1904. 3.12(明治37) ◇明治時代の労働運動家。長崎県生れ。横浜商業卒業。高野岩三郎(イワサブロウ)の兄。 _1886(明治19)渡米、サンフランシスコで苦学する。1890(明治23)城常太郎(ジョウ・ツネタロウ)・沢田半之助らと職工義友会を組織。1896(明治29)帰国し、「ジャパン・アドヴァタイザー」の記者となる。 _1897(明治30)片山潜・城常太郎・沢田半之助らと労働組合期成会を結成。同年、鉄工組合の創立に参加するなど、日本における近代的労働組合運動の先駆者として活躍。 _1899(明治32)労働者消費組合をつくり、消費組合の先駆者ともなる。 _1900(明治33)治安維持法制定により労働組合が後退し、失望して中国に渡り青島<チンタオ>で客死。 (2)職工義友会をつくり……。 _また,'99労働者消費組合である〈共栄社〉をつくり……。 _「城常太郎」の項:'90高野房太郎・沢田半之助らと同地で職工義友会を結成し,'96帰国。 (4)職工義勇会に加わり、AFLのオルグとして帰国。 (6)1886年渡米し在米中城泉太郎・沢田半之助らと職工義勇会を組織。 (16)'90年城泉太郎・沢田半之助らと職工義友会を組織. _'99年,共覚社の創立に尽力した. たかの らんてい【高野 蘭亭】 1704 〜 1757(宝暦 7) ◇江戸中期の漢詩人。名は惟馨、字(アザナ)は子式、別号は東里。江戸の人。 _17歳で失明。 _荻生徂徠の門人で、その詩は服部南郭(ハットリ・ナンカク)と並び称される。 _著書は『蘭亭先生詩集』。 (*)1704(元禄17,宝永元)。 たかはし あわじじょ【高橋 淡路女】 1890. 9.19(明治23) 〜 1955. 3.13(昭和30) ◇俳人。本名は「すみ」、旧号は「すみ女」。 たかはし おでん【高橋 お伝】 1852(嘉永 5) 〜 1879(明治12) ◇明治初期の犯罪者。上州(現:群馬県)前橋生れ。 _夫を毒殺した後、各地で悪事を重ね、1876(明治 9)浅草で古着商を殺害して捕らえられ、1879(明治12)首切り浅右衛門により死刑を執行。 _稀代の毒婦とされ、仮名垣魯文の『高橋阿伝夜叉譚(ヤシャモノガタリ)』、河竹黙阿弥の歌舞伎『綴合於伝仮名書(トジアワセオデンノカナブミ)』のモデル。 (4)生年は1850?。 ◆墓と招魂碑は東京都台東区の谷中霊園。 たかはし かずみ【高橋 和巳】 1931. 8.31(昭和 6) 〜 1971. 5. 3(昭和46) ◇小説家・中国文学者。結腸ガンにより死去。 たかはし きいち【高橋 基一】 1850(嘉永 3) 〜 1897(明治30) ◇明治時代の民権活動家。松江出身。 _「朝野新聞」記者。 たかはし きくたろう【高橋 掬太郎】 1901. 4. 6(明治34) 〜 1970. 4. 9(昭和45) ◇作詞家。 たかはし けいぞう【高橋 圭三】《たかはし けいざう》 1918. 9. 9(大正 7) 〜 2002. 4.11(平成14) ◇NHKアナウンサー・司会者。岩手県花巻市出身。 _高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)、卒業。 _1942(昭和17)NHKに入局。 _1949(昭和24)ラジオのクイズ番組「私は誰でしょう」を司会。「話の泉」、「のど自慢」、1955(昭和30)開始のテレビのクイズ番組「私の秘密」、「紅白歌合戦」など司会。 _1961(昭和36)NHKを退局。 _1962(昭和37)圭三プロダクションを設立してフリーの司会者となり、TBS「輝く日本レコード大賞」、フジテレビ「新春スターかくし芸大会」などの司会に活躍。 _1977(昭和52)自由民主党推薦の無所属で全国区から立候補して参議院議員を1期努める。 _1988(昭和63)勲三等旭日中綬章、受章。 ◎口ぐせは「どうもどうも」。 たかはし けんぞう【高橋 健三】《たかはし けんざう》 1855(安政 2. 9.) 〜 1898. 7.22(明治31) ◇明治時代の官吏・ジャーナリスト。号は自恃居士。江戸生れ。 _大学南校で法律を専攻し、中退。 _1882(明治15)官報局に奉職。1886(明治19)局長。 _1889(明治22)岡倉天心らと日本と東洋美術の専門月刊誌「国華」を創刊。 _1890(明治23)「官報」増刷用にパリに出張してマリノニ輪転機を購入。 _1892(明治25)退官して、官報局で部下であった陸羯南(クガ・カツナン)の「大阪朝日新聞」客員となる。 _1894. 2.(明治27)雑誌「二十六世紀」を創刊。 _1896(明治29)第二次松方正義内閣(松隈内閣)の内閣書記官長となる。同年、雑誌「二十六世紀」の不敬問題で辞職。 ◎「輪転機(rotary press)」は高橋による訳語。 たかはし これきよ【高橋 是清】 1854(嘉永 7. 7.27) 〜 1936. 2.26(昭和11) ◇明治〜昭和期の財政家・政治家。幼名は和喜次。江戸生れ。幕府の御用絵師川村庄右衛門の子、母は北原きん。 _生後直ちに仙台藩士高橋是忠の養子になる。 _1867(慶応 3)藩のアメリカ留学生となる。1869(明治 2)帰国。森有礼(アリノリ)の書生・文部省・農商務省の下級官吏・相場師を経て、1887(明治20)初代特許局長に就任。1889(明治22)銀山開発のためペルーに渡るが失敗する。 _1892(明治25)総裁川田小一郎(カワタ・コイチロウ)に認められ日本銀行に入り、日露戦争の外債募集に成功、13億円を集め元老・重臣らの寵児となる。1899(明治32)日本銀行副総裁。1905(明治38)貴族院議員に勅選。1906(明治39)横浜正金銀行頭取を兼任。1907(明治40)男爵。1911(明治44)日本銀行総裁。 _1913(大正 2)第1次山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、政友会に入党。1918(大正 7)原敬内閣の大蔵大臣。1921(大正10)原首相の暗殺により政友会総裁となり、首相を兼任し、原内閣からの5大学昇格問題で、1922(大正11)総辞職。 _1924(大正13)清浦奎吾(キヨウラ・ケイゴ)内閣が成立すると第2次護憲運動の先頭に加わり総辞職に追い込み、官爵をすてて代議士に初当選、同年6月第1次加藤高明の護憲三派内閣の農商務大臣。1925(大正14)政友会総裁を辞任。 _1927(昭和 2)田中義一内閣の大蔵大臣、金融恐慌を支払猶予令(モラトリアム)で収拾。犬飼毅(五・一五事件で殺害後、首相代行)・斎藤実の大蔵大臣。岡田啓介内閣の大蔵大臣に在任中、二・二六事件で暗殺される。 _金輸出の再禁止・赤字公債の発行など「高橋財政」と呼ばれる軍需インフレ政策を推進する。 _首相在任は1921.11.13(大正10)〜1922. 6.11(大正11)(総辞職)。 (2)1867(慶応 3)藩留学生として渡米,翌年帰国して……。 (6)1867〜1869年米国で苦学し……。 _首相就任は1921年11月13日。 (16)首相就任は1921(大正10)11.12。 ◎東京都港区赤坂7丁目(旧:赤坂区表町)に高橋是清翁記念公園があり、1938(昭和13)嗣子の高橋是賢と記念事業会から旧邸を東京市に寄付したもの。園内に是清の銅像がある。 _暗殺現場となった旧邸は、小金井市の江戸東京たてもの園に移築され現存。 たかはし ごろう【高橋 五郎】 1856(安政 3. 3.20) 〜 1935. 9. 7(昭和10) ◇明治・大正期の語学者・翻訳家・評論家。本名は吾良(ゴロウ)。越後国柏崎生れ。横浜で米人ブラウン牧師に英仏独諸語を学び、聖書翻訳の事業を助ける。1925(大正14)駒沢大学教授。晩年は心霊学にふける。 (2)別号在一居士。 (3)別名存一居士。 (5)号は在一居士(ザイイチコジ)。 (11)別号在一居士。 たかはし しんきち【高橋 新吉】 1901. 1.28(明治34) 〜 1987. 6. 5(昭和62) ◇詩人・美術評論家・仏教研究家。愛媛県八幡浜市生れ。 たかはし すえてる【高橋 季暉】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇大正末期から昭和初期にかけて活躍した農民劇作家。 たかはし たいか【高橋 太華】 1863(文久 3) 〜 没年不詳(昭和) ◇児童文学者・小説家・編集者。本名は七郎。東海散士(トウカイ・サンシ)の『東洋之佳人』の真の執筆者。 たかはし ていじ【高橋 禎二】 1891. 5. 6(明治24) 〜 1953. 3.17(昭和28) ◇ドイツ文学者。 たかはし でいしゅう【高橋 泥舟】《たかはし でいしう》 1835(天保 6) 〜 1903. 2.13(明治36) ◇江戸幕末・明治維新期の幕臣。名は政晃、幼名は謙三郎、字は寛猛、通称は精一、高橋家を継ぐ。槍術の大家山岡静山の弟、妹英子は山岡鉄舟(テッシュウ)の妻。 _槍術の名人として知られ、講武所師範、伊勢守。1863(文久 3)新徴組を率いて上洛。鳥羽伏見の戦後、将軍徳川慶喜(ヨシノブ)に恭順を説き、慶喜の警護に当たる。 _勝海舟(カツ・カイシュウ)・山岡鉄舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。 (2)新徴組を率いて上洛……。 (4)新徴組を統率。 (16)幕府が諸浪士を集めて新撰組を作ると,その長となり……. たかはし てつ【高橋 鉄】 1907.11. 3(明治40) 〜 1971. 5.31(昭和46) ◇小説家・評論家。 たかはし とうこう【高橋 東岡】 ⇒高橋至時 たかはし ひろえ【高橋 広江】 1896.11.15(明治29) 〜 1952. 8.20(昭和27) ◇フランス文学者。 たかはし みずこ【高橋 瑞子】 1852(嘉永 5) 〜 1927. 2.(昭和 2) ◇女医。三河国(現:愛知県)西尾藩士の家の生れ。 _幼くして両親を亡くし、長兄夫婦のもとで厄介者扱いされて育つ。離婚後、産婆院に入門。志望を医者に変え、大阪の病院で修業。 _1884(明治17)荻野吟子らが始めて医術開業試験に受験したことを知り助産婦をしていた前橋から上京、どこの医学校も女性を受け入れず、本郷の済生学舎の門前に三日も立ちつくし塾長に直談判の末、入学の許可を得る。1887. 3.(明治20)女医免許第3号を取得。開業の後、ドイツに留学。 _遺体は遺言により解剖に供された。 たかはし もときち【高橋 元吉】 1893. 3. 6(明治26) 〜 1965. 1.28(昭和40) ◇詩人。没後、郷里の前橋市の利根河畔に詩碑が建立された。 たかはし ゆいち【高橋 由一】 1828(文政11. 2. 5) 〜 1894. 7. 6(明治27) ◇明治初期の洋画家。名は浩、字は子剛、号は藍川。江戸生れ。 _はじめ日本画を学び、幕府の蕃書調所画学局に入り、川上冬崖(トウガイ)に師事。横浜在留のチャールズ・ワーグマンに洋画を学ぶ。 _1873(明治 6)日本橋浜町に画塾天絵楼(テンカイロウ)を開く。 _作品は『鮭』・『花魁』など。 たかはし よしとき【高橋 至時】 1764(明和元.11.) 〜 1804(享和 4. 1. 5) ◇江戸後期の天文学者。名は至時、字は子春、通称は作左衛門、号は東岡(トウコウ)・梅軒。大坂生れ。大坂御定番同心元亮の子、景保の父。 _1795(寛政 7)幕府天文方に抜擢。1797(寛政 9)間重富とともに「寛政暦」を完成。 _伊能忠敬の北陸・蝦夷地測量を指導。 _肺を患い死亡。 _著書は『ラランデ暦書管見』など。 ◆墓は子の景保(玉岡)とともに東京都台東区の東上野6丁目の源空寺。 ◎伊能忠敬(イノウ・タダタカ)の遺言により、忠敬試且桙フ墓の脇に葬られている。 たかはしのむしまろ【高橋 虫麻呂】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇奈良後期時代の万葉歌人。姓(カバネ)は連(ムラジ)。藤原宇合(ウマカイ)の下僚と思われる。 _『万葉集』に収められたほかに『高橋虫麻呂歌集』がある。 たかばたけ かしょう【高畠 華宵】 1888. 4. 6(明治21) 〜 1966. 7.31(昭和41) ◇大正・昭和期の挿絵画家。本名は幸吉、旧号は花宵。愛媛県北宇和郡(宇和島市)生れ。 _京都市立美術工芸学校で学び、14歳のとき大阪の日本画家平井直水の平井塾門下生(内弟子)となる。翌年、京都市立美術工芸学校日本画科に入学するが、家族に無断で中退し関西美術院に転校。送金が途絶え、1907(明治40)上京。 _23歳のとき描いた出世作、津村順天堂の「中将湯(チュウジョウトウ)」の商標は有名。1913(大正 2)「講談倶楽部」に挿絵の執筆を始める。1930(昭和 5)村田社から「華宵便箋」から発売、少女たちに熱狂的支持を受け、皇族の令嬢がお忍びで買いに来たとうわさされる。 _明石愛老園に入園。脳血栓脳軟化症により死去。 (20)本名多吉。 たかばたけ たつしろう【高畠 達四郎】 1895.10. 1(明治28) 〜 1976. 6.26(昭和51) ◇画家。 たかばたけ もとゆき【高畠 素之】 1886. 1. 4(明治19) 〜 1928.12.13(昭和 3) ◇社会学者・国家社会主義者。群馬県生れ。同志社大学中退。 _1918(大正 7)北一輝・大川周明らと老壮会を結成。 _1922(大正11)上杉慎吉と経倫学盟を創立。 _1919〜1924(大正 8〜大正13)マルクスの『資本論』を完訳。 たかばたけ らんせん【高畠 藍泉】 1838(天保 9. 5.12) 〜 1885.11.18(明治18) ◇戯作者。本名は瓶三郎のち求徳(奥坊主時代)・直吉(ナオヨシ)・政(タダス)、号は柳亭種彦(三世)・紫翠山房・甘々坊・一葉舎・転思堂・転々堂鈍々、維新後は画号の藍泉を通称とした。江戸下谷生れ。浅草千束で死去。 (13)(明治)一五年友人知己にすすめられ幕府時代の大戯作家柳亭種彦(二代といわれたが事実は三代)の号をつぎ、……。 たかはま きょし【高浜 虚子(高濱 虚子)】 1874. 2.22(明治 7) 〜 1959. 4. 8(昭和34) ◇俳人・小説家。本名は清(キヨシ)、旧姓は池内(イケノウチ)、高浜は祖母の姓、初号は放子、虚子は子規の命名。伊予松山生れ。長男は高浜年尾、長女真砂子は真下喜太郎(マシタ・キタロウ)の妻、次女は星野立子。池内たけしの叔父。 _1892(明治25)京都第三高等中学入学、1894(明治27)同大学予科解散とともに仙台第二高等学校に転校を命ぜられたが級友河東碧梧桐と共に退学。1898. 9.(明治31)松山の柳原極堂より俳誌「ホトトギス」を継承。 (9)誕生日は(臍の緒書きでは二・二○)の但し書き。 (16)誕生日は2/22。 ◆虚子忌(椿寿忌)[ 4. 8]椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿(チンジュ)居士から。 ◆墓は神奈川県鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。 たかはま ちょうこう【高浜 長江】 生年不詳 〜 1912. 1.29(明治45) ◇詩人。本名は謙三。 たかはま としお【高浜 年尾(高濱 年尾)】 1900.12.16(明治33) 〜 1979.10.26(昭和54) ◇俳人。東京生れ。1924(大正13)小樽高等商業卒業。高浜虚子の長男、星野立子の兄。 たかひと しんのう【幟仁 親王】《たかひと しんわう》 1812(文化 9. 1.) 〜 1886. 1.24(明治19) ◇江戸幕末・明治前期の皇族・第8代有栖川宮。韶仁(ツナヒト)親王の第1王子、熾仁(タルヒト)親王の父。京都生れ。 _1864(元治元. 7.)禁門の変で長州藩との共謀を疑われて処分。1867(慶応 3)召喚。 たかま そうしち【高間 惣七】 1889. 7.25(明治22) 〜 1974. 1.26(昭和49) ◇画家。 たかまつ きろく【高松 喜六】 生年調査中 〜 1713(正徳 3. 8.) ◇内藤新宿の生みの親。名は喜兵衛(キヘエ)。浅草阿部川町の名主。 _甲州街道の最初の宿場が高井戸であったことから、1697(元禄10)仲間4人(市左衛門<イチザエモン>・忠右衛門<チュウエモン>・嘉吉<カキチ>・五兵衛<ゴヘエ>)と内藤家下屋敷の一部に宿場開設を願い出る。翌年許可が下り、開設資金5,600両を上納して営業権を獲得、新宿開発を行い、喜六(キロク)と改名し代々名主となる。 ◆墓は東京都新宿区若葉2丁目の愛染院。 たかまつ とういちろう【高松 棟一郎】 1911. 1. 8(明治44) 〜 1959. 5.26(昭和34) ◇ジャーナリスト。 たかまつ とよじろう【高松 豊治郎】 1872(明治 5.10.21) 〜 1952. 1.20(昭和27) ◇労働演芸家。別号は呑気楼三昧、また豊次郎も用いる。 たかまつ りょううん【高松 凌雲】 1836(天保 7) 〜 1916(大正 5) ◇医師・社会事業家。筑後(現:福岡県)生れ。 _将軍侍医となり、パリ万国博使節団に随行。パリで外科を実習。 _箱館戦争に際し五稜郭で新政府軍と戦いながら、わが国初の赤十字的活動を行う。 _1879(明治12)同愛社を創設するなど、社会事業に専念。 たかまつのみや のぶひと【高松宮 宣仁】 1905(明治38) 〜 1987(昭和62) ◇大正天皇の第3皇子。幼名は光宮(テルノミヤ)。母は貞明(テイメイ)皇后、昭和天皇・秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王の弟、三笠宮崇仁(タカヒト)親王の兄、夫人は喜久子。 _1913(大正 2)高松宮(有栖川宮の旧称)の称号を賜い、有栖川宮家の祭祀を継承。 たかみ しすい【鷹見 思水】 1875.12. 8(明治 8) 〜 1945.11. 3(昭和20) ◇雑誌編集者。本名は久太郎。 たかみ じゅん【高見 順】 1907. 2.18(明治40) 〜 1965. 8.17(昭和40) ◇小説家・詩人・評論家。本名は高間芳雄(ヨシオ)、俳号は水馬。福井県三国町生れ。府立一中・一高を経て1930(昭和 5)東京大学英文科卒業。1933(昭和 8)治安維持法違反の容疑で検挙、転向により半年後、起訴保留で釈放。 _永井荷風の従兄弟(実父が荷風の父永井久一の実弟)、阪本越郎(サカモト・エツロウ)の異母弟。母は高間古代(コヨ)。実父は阪本(「金」偏+「彡」:補助6710〔_〕)之助は当時福井県知事だったが、順の誕生の翌年転任。古代は祖母コトとともに三人で上京し麻布に転居したが、実父と義絶。そのため片親の手で育てられ父に生前に会うことはなかった。 _転向文学から出発し、  知識人の内面の苦悩を描く。 _日本ペンクラブ理事・文芸協会理事。 (3)誕生日は 2.18。本名高間芳雄。 (5)誕生日は 2.18。本名高間芳雄。 (9)誕生日は 1.30、戸籍は二月一八日、前年十二月誕生の説もある。本名は高間義雄、のち芳雄。 (11)誕生日は 2.18。本名高間芳雄(ヨシオ)。 (13)誕生日は二月。本名高間芳雄。 (16)誕生日は 2.18。本名高間芳雄。 ◆荒磯忌(高見順忌)[ 8.17]福井県三国町の文学碑に刻まれた詩『荒磯』から。 _[八月上旬]高見順の会主催。 ◆墓は神奈川県鎌倉市山ノ内の東慶寺。 たかみね じょうきち【高峰 譲吉】《たかみね じやうきち》 1854(嘉永 7.11. 3) 〜 1922. 7.22(大正11) ◇明治時代の薬学者・化学者。金沢生れ。金沢藩医高峰精一の子。 _1879(明治12)工部大学(現:東京大学)卒業。英国グラスゴー大学に留学。帰国後、農商務省に入り、専売特許局次長。 _官を辞して渡米。1901(明治34)アドレナリンの結晶化に成功。1902(明治35)ニューヨークに高峰研究所を設立。1909(明治42)コウジカビから消化促進剤タカジアスターゼの抽出に成功。 _国民科学研究所・三共製薬・高峰発酵素・高峰工業などを設立。 _後年、アメリカに帰化、ニューヨークで没。 たかむこのくろまろ【高向 玄理(高向 黒麻呂)】 生年不詳 〜 654(白雉 5) ◇大化の改新( 645)の功臣(功労者)。帰化人の子孫で高向漢人(アヤヒト)という姓であった。 608年小野妹子(オノノイモコ)に従って留学。大化の改新の際 645(大化元)国博士(クニハカセ)に任ぜられ、僧旻(ミン)と共に八省百官の制を立案。 654(白雉 5)遣唐使となり、長安で死去。 たかむら こううん【高村 光雲】《たかむら くわううん》 1852(嘉永 5. 2.18) 〜 1934.10.10(昭和 9) ◇明治・大正期の彫刻家。はじめ中島光蔵、通称は幸吉。江戸浅草生れ。高村光太郎(コウタロウ)・高村豊周(トヨチカ)の父。 _1863(文久 3)仏師高村東雲に入門。東雲の姉えつの養子となり、光雲と号する。1886(明治19)東京彫工会創立に参加。1887(明治20)皇居造営に装飾彫刻を担当。1889(明治22)東京美術学校創立に際し、彫刻科教授。 _1890(明治23)楠木正成銅像、1892(明治25)西郷隆盛像を制作。 ◎上野公園に西郷隆盛像が、1898.12.(明治31)建立。 たかむら こうたろう【高村 光太郎】《たかむら くわうたらう》 1883. 3.13(明治16) 〜 1956. 4. 2(昭和31) ◇詩人・歌人・彫刻家。本名は光太郎(ミツタロウ)、号は砕雨。東京下谷生れ。東京美術学校卒業。1914(大正 3)長沼智恵子と結婚。 _高村智恵子の夫、高村豊周(トヨチカ)の兄。父高村光雲(コウウン)は木彫家で上野の西郷隆盛像の作者。 (5)没日は 4. 2。 (13)没日は 4. 5。 (16)没日は 4. 2。 ◆光太郎忌(連翹忌)[ 4. 2]高村光太郎記念会の主催で追悼会。連翹(レンギョウ)はアトリエの庭に咲く光太郎が愛した花。 ◆高村祭[ 5.15]岩手県花巻市太田山口の高村光太郎記念館と山荘で。 ◎1962. 9.(昭和37)高村光太郎賞が設定。 たかむら ちえこ【高村 智恵子】 1886. 5.20(明治19) 〜 1938.10. 5(昭和13) ◇洋画家。旧姓は長沼。1914(大正 3)高村光太郎と結婚。1931(昭和 6)ごろから精神分裂症に悩む。 ◎「青鞜(セイトウ)」創刊号の表紙絵の作者は長沼智恵子。 たかむら とよちか【高村 豊周】 1890. 7. 1(明治23) 〜 1972. 6. 2(昭和47) ◇彫金家・歌人。高村光雲(コウウン)の三男、高村光太郎(コウタロウ)の弟。 たかむれ いつえ【高群 逸枝】 1894. 1.18(明治27) 〜 1964. 6. 7(昭和39) ◇詩人・評論家・女性史研究家。父は熊本県の小学校校長。熊本県生れ。熊本師範女子部中退。 _20歳のとき辺地の代用教員になり、間もなく他校の代用教員橋本憲三と恋仲となり、1919(大正 8)結婚。 _1938(昭和13)『母系制の研究』、1953(昭和28)『招婿婚の研究』などを刊行。 (2)本名記載なし。 (3)本名橋本ナツエ。 (5)本名は高橋イツエ。 (9)本名は橋本イツエ。同人誌を通じ橋本憲三と知合い、二五歳(大八)で結婚。 (11)本名は高橋イツエ。 たかもちおう【高望王】 ⇒平高望 たかや しん【高谷 伸】 1896. 5.13(明治29) 〜 1966. 8.23(昭和41) ◇劇作家・演劇評論家。本名は伸吉(ノブヨシ)、画号は仙外。 たかやす くによ【高安 国世】 1913. 8.11(大正 2) 〜 1984. 7.30(昭和59) ◇歌人・ドイツ文学者。高安やす子の子。 たかやす げっこう【高安 月郊】 1869(明治 2. 2.16) 〜 1944. 2.26(昭和19) ◇劇作家・詩人・評論家。本名は三郎、号は愁風吟客。大阪生れ。東京小石川で死去。 たかやす やすこ【高安 やす子】 1883. 8. 1(明治16) 〜 1969. 2. 2(昭和44) ◇歌人。旧姓は清野。高安国世(クニヨ)の母。 たかやなぎ けんじろう【高柳 健次郎】《たかやなぎ けんじらう》 1899(明治32) 〜 1990(平成 2) ◇電子工学者。静岡県生れ。東京高等工業学校(現:東京工業大学)付設教員養成所卒業。浜松高等工業学校助教授。 _1923(大正12)「無線遠視法」(テレビジョン)開発を決意し、翌年研究を開始。1926.12.25(大正15)ブラウン管を用いて、世界で初めて映出に成功(走査線40本、受像は「イ」)。1930. 5.(昭和 5)浜松高工でテレビジョンの天覧。1935(昭和10)米ツヴォルィキン博士よりやや遅れて、アイコノスコープ(カメラ)の試作に成功。1937(昭和12)東京オリンピックのテレビ放送のため、浜松高工からNHKに移る。 _戦後、日本ビクターに入社、1970(昭和45)取締役副社長に就任。文化勲章を受賞。 たかやなぎ しげのぶ【高柳 重信】 1923. 1. 9(大正12) 〜 1983. 7. 8(昭和58) ◇俳人。前号は恵幻子。東京生れ。早稲田大学専門部法科に学ぶ。 たかやま うこん【高山 右近】 1552(天文21) 〜 1615 ◇安土桃山・江戸前期のキリシタン大名・茶人。本名は長房、通称は右近・右祥・右近将監、号は南坊・等伯、洗礼名ドン・ジュスト。摂津国高山の国人高山飛騨守の子。 _1573(天正元)荒木村重と通じて摂津高槻(タカツキ)城を乗っ取る。以後、村重の臣となり城主として織田信長に対抗したが、のち1578(天正 6)信長につき高槻城と教会の保証をとりつける。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、1585(天正13)播磨国明石(アカシ)城主。1587(天正15)キリシタン禁令により明石城を没収される。のち前田利家に招かれ1万5千石。 _1614(慶長19)キリシタン国外追放令により追放され、マニラで没。 (2)?〜1617(?〜元和 1)。 (4)1552〜1615。 (16)1552〜1614(天文21〜慶長19)。 (*)1615(慶長20,元和元)。 たかやま そうぜい【高山 宗砌】 生年不詳 〜 1455(享徳 4. 1.16) ◇室町中期の連歌師。俗名は高山民部少輔(ミンブノショウユウ)時重、高山民部丞(ジョウ)時重とも。 たかやま ちょぎゅう【高山 樗牛】《たかやま ちよぎう》 1871. 2.28(明治 4. 1.10) 〜 1902.12.24(明治35) ◇明治時代の評論家・思想家。本名は林次郎(リンジロウ)、旧姓は斎藤(実父の酒井藩士斎藤親信の兄高山久平の養子)。別号は高斎林良・九皐生(キュウコウセイ)。山形県鶴岡町高畑生れ。斎藤野の人(ノノヒト)の実兄。 _少年時代、養父と共に山形・酒田・福島など転住して、1884(明治17)福島中学に入学。1886(明治19)養父に伴われ上京、本所に住み一時英語学校に学ぶ。1888. 1.(明治21)仙台に赴き第二高等中学に入学、1893. 7.(明治26)同校卒業し東京帝国大学哲学科に学ぶ。在学中、「読売新聞」の懸賞小説に応募して歴史小説『滝口入道』が入選。1894.12.(明治27)帝国文学会が組織され、上田敏・姉崎嘲風らと機関誌「帝国文学」の編集委員になる。1896. 7.(明治29)卒業と同時に第二高等学校(現:東北大学)教授。 _1897.12.(明治30)博文館に入社し、雑誌「太陽」の主幹となる。法学博士杉亨二(スギ・コウジ)の次女里子と結婚。日清戦争後の井上哲次郎の植民地主義・国家主義に傾倒し日本主義を説く。キリスト教や仏教を批判し、内村鑑三・坪内逍遥らと論争。 _次にニーチェの影響を受けて個人主義に転じ、1901(明治34)『美的生活を論ず』で本能満足説を主張。 _晩年は日蓮に傾倒。 _著書は・『時代管見』・『菅公伝』・『釈迦』・『わが袖の記』・『文芸評論』など。 (2)号の記載なし。 (3)号は材斧太。 (5)号は林斧太(ハヤシオノタ)。 (9)号は林斧太。 (11)号は林斧太(オノタ)。 (13)号は林斧太。 (16)号の記載なし。 たかやま つよし【高山 毅】 1911. 8. 1(明治44) 〜 1961.10.28(昭和36) ◇文芸評論家・児童文学評論家。 たかやま ながふさ【高山 長房】 ⇒高山右近 たかやま ひこくろう【高山 彦九郎】《たかやま ひこくらう》 1747(延享 4. 5.) 〜 1793(寛政 5. 6.21) ◇江戸後期の尊皇家。名は正之、字は仲縄。上野国新田郡細谷村の郷士高山貞正の次男、母は剣持しげ。寛政三奇人の一人。 _各地で海防を説き、久留米で幕吏の横暴に憤慨し自刃。 たかやま ようきち【高山 洋吉】 1901. 4.22(明治34) 〜 1975. 9. 7(昭和50) ◇翻訳家・評論家。 たからい きかく【宝井 其角】《たからゐ きかく》 1661(寛文元) 〜 1707(宝永 4. 2.30) ◇江戸前期の俳諧師。姓は榎本(エノモト)のち宝井、通称は八十八(ヤソハチ)・平助・源蔵・源助、別号は螺舎(ラシャ)・宝晋斎(ホウシンサイ)・晋子(シンシ)・渉川(ショウセン)・狂而堂。江戸堀江町生れ。蕉門(ショウモン)の十哲の筆頭。服部嵐雪(ランセツ)とともに古参の高弟で蕉門の桜桃と称された。 (2)姓を宝井ともいう。 (4)本姓竹下(タケモト)、母方の姓は榎本(エノモト)。 (5)榎本(エノモト)氏、のち宝井氏。 (6)初め榎本氏。 (11)榎下(エノモト)氏、のち宝井氏。 ◆其角忌[旧暦 2.30]。[図:其角と去来]其角と去来(芭蕉堂内)(1997年10月21日撮影) 東京都文京区関口2−11−3 関口芭蕉庵の庭内 たからい ばきん【宝井 馬琴(3世)】 1852(嘉永 5) 〜 1928(昭和 3) ◇講談師。 たがわ すいほう【田河 水泡】《たがは すいはう》 1899(明治32) 〜 1989(平成元) ◇漫画家。本名は高見沢仲太郎。東京生れ。 _1931. 1.(昭和 6)「少年倶楽部」新年号から漫画のらくろの連載を開始。 _作品は『のらくろ二等卒』・『のらくろ上等兵』など。 たがわ だいきちろう【田川 大吉郎】 1869(明治 2) 〜 1947(昭和22) ◇明治〜昭和前期の政治家。長崎県生れ。東京専門学校(現:早稲田大学)卒業。 _戦時中は軍部に屈せず、太平洋戦争後は日本社会党に入党、代議士に当選。 たき れんたろう【滝 廉太郎】《たき れんたらう》 1879. 8.24(明治12) 〜 1903. 6.29(明治36) ◇ピアノ奏者・作曲家。東京生れ。 _父の任地大分県竹田などに住む。 _1896(明治29)東京高等師範学校付属音楽学校(のち東京音楽学校専修部)、卒業。 _1901(明治34)『中学唱歌』の作曲募集に『荒城の月』・『箱根八里』などが当選。同年ドイツのライプチヒ王立音楽院に留学したが、感冒にかかり帰国。 _療養中の大分で夭折。 _作品は歌曲集『四季』(二重唱「花」など)、『箱根山』・『雀』・『鳩ぽっぽ』など。 たきい こうさく【滝井 孝作(瀧井 孝作)】《たきゐ かうさく》 1894. 4. 4(明治27) 〜 1984. 1.21(昭和59) ◇大正・昭和期の小説家・俳人。俳号は折柴(セッサイ)。岐阜県高山市生れ。 _作品は『無限抱擁』・『結婚まで』、『折柴句集』・『俳人仲間』など。 (1)没日は 1.21。 (5)没日は11.21。 (13)没日の記載なし。 たきがわ かずます【滝川 一益】《たきがは かずます》 1525(大永 5) 〜 1586(天正14. 9. 9) ◇安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門、号は不干。近江国甲賀郡の生れ。資生の子。 _織田信長に仕え、伊勢長島城主、ついで関東管領として上野厩橋に拠る。 _1582(天正10)天目山麓に武田勝頼(カツヨリ)を包囲し、自刃させる。 _1582(天正10)本能寺の凶報で上洛しようとしたが、この機に上野を併合しようとする北条氏直(ウジナオ)に敗れ長島に帰る。柴田勝家と結び豊臣秀吉に対抗するが、賎ヶ谷合戦後降伏し越前大野に移される。 _1584(天正12)小牧・長久手合戦で徳川家康に敗れ、出家遁世し不干と号する。不遇のうちに越前で没する。 たきがわ まさじろう【滝川 政次郎(瀧川 政次郎)】《たきがは まさじらう》 1897(明治30) 〜 1992(平成 4) ◇法制史家。 ◆墓は東京都世田谷区若林の松陰神社。 たきがわ ゆきとし【滝川 幸辰】 1891. 2.24(明治24) 〜 1962.11.16(昭和37) ◇大正・昭和期の刑法学者。岡山市生れ。 _1915(大正 4)京都帝国大学卒業。1917(大正 6)京都地方裁判所判事を経て、1918(大正 7)京都帝国大学助教授、ドイツ留学の後に1924(大正13)教授。 _1933. 4.(昭和 8)著書『刑法読本』が発禁となり、翌月文部省の指示により休職となる。この結果、大学自治擁護の運動が他大学にも拡がるが、結局免職(滝川事件)。 _1936(昭和11)刑事事件専門の弁護士となる。 _戦後、1946(昭和21)大学に復帰、法学部長を経て、1953〜1957(昭和28〜昭和32)大学総長となる。 _1951(昭和26)法学博士。1953(昭和28)日本学士院会員。 (2)「たきかわ ゆきとき」。 (19)「たきがわじけん(滝川事件)」の項:「ゆきとき」。 (?)「たきがわ ゆきとし」。 たきぐち しゅうぞう【滝口 修造】《たきぐち しうざう》 1903.12. 7(明治36) 〜 1979. 7. 1(昭和54) ◇昭和期の詩人・美術評論家・造形作家。富山県生れ。 _慶応義塾大学で西脇順三郎に学び、在学中から詩作。 _1941(昭和16)共産党シンパとみなされ検挙。 _シュールレアリスムの紹介・評論につとめる。 たきぐち たけし【滝口 武士】 1904. 5.23(明治37) 〜 1982. 5.15(昭和57) ◇詩人。 たきぐち にゅうどう【滝口 入道】《たきぐち にふだう》 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安末期の僧。本名は斎藤時頼。茂頼の子。 _初めは平重盛の臣。 _滝口の武士として禁中に奉仕するうち、中宮建礼門院の雑仕横笛(ヨコブエ)に恋慕する。父に反対されて、嵯峨の往生院に入って剃髪(テイハツ)。 _のち高野山清浄心院で行い澄まし、高僧となって平維盛入水の導師となる。 ◎『平家物語』に現われる。 ◎高山樗牛(チョギュウ)作『滝口入道』がある。 たきざわ えいすけ【滝沢 英輔】 1902. 9. 6(明治35) 〜 1965.11.29(昭和40) ◇映画監督。本名は憲。時代劇を得意とする。 たきざわ しゅうぎょう【滝沢 秋暁】 1875. 3. 3(明治 8) 〜 1957. 2.27(昭和32) ◇詩人・評論家。本名は彦太郎、別号は残星・読不書生。 たきざわ ばきん【滝沢 馬琴】《たきざは ばきん》 1767(明和 4. 6. 9) 〜 1848(嘉永元.11. 6) ◇江戸時代後期の読本(ヨミホン)・黄表紙・草双紙・合巻(ゴウカン)作者。名は興邦(オキクニ)のち解(トク)、幼名は倉蔵、俗称は左七郎・左吉・瑣吉・清右衛門・篁民(コウミン)、号は曲亭馬琴(キョクテイ・バキン)・大栄山人・著作堂主人・蓑笠漁隠(サリツギョイン)・飯台陳人(ハンダイチンジン)・玄同・玄同陳人・(「籟」-「竹」を冠に「鳥」:補助なし)斎(ライサイ)。江戸深川の生れ。父は旗本松平信成家用人。 _父の死後、幼時から武家奉公に出て諸家を転々とする。 _24歳で戯作(ゲサク)を志し、山東京伝に師事。 _1791(寛政 3)大栄山人の名で黄表紙『尽用而二分狂言(ツカイハタシテニブキョヨウゲン)』を発表。 _1793(寛政 5)九段の履物商(ハキモノショウ)伊勢屋の寡婦に入夫し、以後戯作に専心。 _1796(寛政 8)『高尾船字文』以後、次第に読本に力を注ぎ、1803(享和 3)『月氷奇縁』で好評を博す。 _勧善懲悪(カンゼンチョウアク)を標榜しつつ、雅俗折衷(ガゾクセッチュウ)の流麗な文体で、雄大な構想と複雑な筋立ての大作を続々発表。 _晩年、妻子の死没や眼疾に冒されて失明などの中、28年を費やして『南総里見八犬伝(ナンソウサトミハッケンデン)』を完結。 _他の作品は『椿説弓張月(チンセツユミハリヅキ)』・『三七全伝南柯夢』・『俊寛僧都島物語』・『朝夷(アサヒナ)巡島記』・『近世説美少年録』などのほか、日記『馬琴日記』、随筆『燕石雑志』・『玄同放言』、評論『近世物之本江戸作者部類』など。 (2)解(トクル)。 (5)解(トク)。 (6)解(トクル)。 (11)曲亭馬琴(きょくてい ばきん)。姓は滝沢、名は興邦(オキクニ)、のちに解。幼名は倉蔵、のちに左七、左五郎、清右衛門。別号に大栄山人、著作堂主人、蓑笠漁隠(サリュウギョイン)など。 (+)『大辞林 CD−ROM版』 _名は解(トクヲ)。 たきた いさお【田北 衣沙桜】 1888. 3.20(明治21) 〜 1931. 1. 7(昭和 6) ◇俳人・歩兵少佐。本名は功、別号は葦竿子・葦沙雄・葦沙翁。1919(大正 8)シベリアに出征。 たきた ちょいん【滝田 樗陰(瀧田 樗陰,瀧田 樗蔭)】 1882. 6.28(明治15) 〜 1925.10.27(大正14) ◇雑誌編集者。本名は哲太郎。樗蔭とも号する。秋田市生れ。二高を経て東京大学文科に入学、法科に転じ、のち中退。在学中に「中央公論」の記者になる。 たくあん そうほう【沢庵 宗彭】《たくあん そうはう》 1573(天正元.12.) 〜 1645(正保 2.12.11) ◇江戸初期の僧侶(臨済宗)。諱(イミナ)は宗彭(ソウホウ)、道号(ドウゴウ)は沢庵。但馬国の人。父は但馬国出石(イズシ)の山名家に仕えた能登守秋葉綱典。 _10歳で浄土宗の寺院に入り、15歳で宗鏡寺の希先に禅を学ぶ。 _堺(サカイ)の南宗寺の一凍紹滴(イットウショウテキ)の法を嗣ぎ、大徳寺宗弼に参じ、1605(慶長10)大徳寺の第一座(首座)・南宗寺の住持など寺庵に執着しなかった。。 _1627(寛永 4)大徳寺の後継問題(紫衣<シエ>事件)で公家諸法度・寺院法度をめぐり幕府に抗弁書を提出して幕府の怒りを買い、1629(寛永 6)出羽国上山(カミノヤマ)に流され、1632(寛永 9)赦免で京都に帰る。後水尾天皇は国師号を贈ろうとしたが固辞。 _のち徳川家光は武道指南役柳生(ヤギュウ)但馬守宗矩(ムネノリ)の勧めにより、沢庵を江戸に招喚。大徳寺に帰りたいと家光に申し出たところ、家光は1639(寛永16)品川に東海寺を創建、開山として江戸に留めた。 (4)三二年赦されて帰洛し、……。 (6)34年赦免。 ◆墓は東京都品川区北品川3丁目の万松山東海寺大山墓地。 ◎「夢」の一字が遺偈。 _著書『不動智神妙録』は柳生但馬守に対して剣の極意を説いたもの。 ◎山形県上山市には、上山藩主土岐頼行が沢庵のために寄進した草庵「春雨庵」が復元されている。 ◎沢庵漬けは、沢庵和尚の創案とも、「貯え漬け」の転ともいう。[図:沢庵和尚1][図:沢庵和尚2]沢庵和尚の墓(1997年10月11日撮影) 東京都品川区北品川3丁目 東海寺大山墓地