てい かくん【鄭 嘉訓】 1767(明和 4) 〜 1832(天保 3) ◇江戸後期の書家。琉球(現:沖縄県)首里生れ。 _薩摩藩主島津斉興に召されて書道の師をつとめる。 ていが【定雅】 ⇒西村定雅 ていとく【貞徳】 ⇒松永貞徳 ていめい こうごう【貞明 皇后】《ていめい くわうごう》 1884. 6.25(明治17) 〜 1951. 5.17(昭和26) ◇大正天皇の皇后。名は節子(サダコ)。侯爵九条道孝の4女、迪宮裕仁(ミチノミヤ・ヒロヒト)親王(昭和天皇)・秩父宮雍仁(ヤスヒト)親王・高松宮宣仁(ノブヒト)親王・三笠宮崇仁(タカヒト)親王の生母。 _1900. 5.10(明治33)嘉仁(ヨシヒト)親王と婚儀を挙げ、皇太子妃となる。 _1951. 6. 8(昭和26)貞明皇后と追号される。 ◆陵墓は東京都八王子市長房町の多摩東陵。[図:貞明皇后]貞明皇后多摩東陵・武蔵陵墓地(1998年10月10日撮影) 東京都八王子市長房町 てじま せいいち【手島 精一】 1850. 1.11(嘉永 2.11.28) 〜 1918. 1.23(大正 7) ◇明治期の工業教育指導者。 てしま とあん【手島 堵庵】 1718. 6.12(享保 3. 5.13) 〜 1786. 3. 8(天明 6. 2. 9) ◇江戸中期の石門心学者。名は信、字(アザナ)は嘉左衛門、通称は近江屋源右衛門、号は堵庵。京都の商家生れ。「てじま とあん」とも呼ぶ。手島和庵(長男)の父、上河淇水(ウエカワ・キスイ)の養父。 _13歳で父と、18歳で母と死別。 _18歳のとき、石田梅岩(バイガン)に師事。梅岩の死後は門人斎藤全門に教えを受ける。 _44歳で家業を長男に譲り、心学の普及に努め、広く市民教育に尽力し多数の門人を擁するようになる。 _1782(天明 2)京都に明倫舎を建設して舎主となる。また五楽会・修正・時習・恭敝などの講舎も起こす。 _自己批判を中心とする精神修養を説く。 _著書は『前訓』・『知心弁疑』・『会友大旨』・『明徳和賛』など。 (2)誕生日は享保 3. 5. 3。 ◎門下には中沢道二(ドウニ)・布施松翁(フセ・ショウオウ)・上河淇水・薩(「土」偏+「垂」:補助2384〔_〕)(サッタ)徳軒などがいる。 てじま とあん【手島 堵庵】 ⇒手島堵庵 てしろぎ すぐえもん【手代木 直右衛門】 1826. 4.15(文政 9. 3. 9) 〜 1904. 6. 3(明治37) ◇江戸幕末・明治維新期の会津藩士。会津藩士佐々木源八の子、伯父手代木勝富の養子。佐々木只三郎の実兄。 てずか とみお【手塚 富雄】 ⇒手塚富雄 てづか おさむ【手塚 治虫】《てづか をさむ》 1928.11. 3(昭和 3) 〜 1989. 2. 9(平成元) ◇漫画家。本名は手塚治(オサム)。大阪生れ。 _1946(昭和21)「毎日小学生新聞」の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビュー。 _1947(昭和22)大阪大学医学部に入学。 _1959(昭和34)医学博士。 _1962〜1973(昭和37〜昭和48)虫プロ(のち手塚プロダクション)を主宰。 _1963(昭和38)国産初のテレビ・アニメ『鉄腕アトム』を制作。 _1966(昭和41)劇場用アニメ『ジャングル大帝』を制作。 _1967(昭和42)『ジャングル大帝』、ベネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。 _1987(昭和62)朝日賞、受賞。 _作品は1947(昭和22)長編漫画『新宝島』、1951(昭和26)『鉄腕アトム』・『ジャングル大帝』・『リボンの騎士』・1967(昭和42)『火の鳥』・1970(昭和45)『ブラックジャック』・1977. 6.15〜1984.10. 3(昭和52〜昭和59)『手塚治虫漫画全集』(300巻・講談社)・1985(昭和60)『アドルフに告ぐ』など。 てづか とみお【手塚 富雄】 1903.11.29(明治36) 〜 1983. 2.12(昭和58) ◇ドイツ文学者・評論家。 てづか りつぞう【手塚 律蔵】 1822. 7.25(文政 5. 6. 8) 〜 1878.11.29(明治11) ◇江戸幕末・明治前期の蘭・英学者。 てらうち まさたけ【寺内 正毅】 1852. 3.25(嘉永 5.閏2. 5) 〜 1919.11. 3(大正 8) ◇明治・大正の軍人・政治家。陸軍大将・元帥。長州出身。宇田多正輔の三男、母方の寺内勘右衛門の養子。 _大阪兵学寮を経て、1871(明治 4)少尉。以後、陸軍士官学校長・1898(明治31)初代教育総監・参謀本部次長を歴任。 _1902(明治35)第1次桂内閣の陸相。日露戦争をはさんで第1次西園寺内閣・第2次桂内閣まで以後九年間陸相に就任。韓国統監を兼ねて、1910(明治43)日韓併合を強行し、初代朝鮮総督。1916(大正 5)首相、シベリア出兵を断行、米騒動で総辞職。 ◎陸軍大臣のころから頭の格好で「ビリケン」の徒名があったが、組閣すると新聞や雑誌から「非立憲(ビリケン)内閣」と非難された。 てらうち まんじろう【寺内 万次郎】 1890.11.25(明治23) 〜 1963.12.14(昭和38) ◇洋画家。 てらお とおる【寺尾 亨】 1859. 2. 1(安政 5.12.29) 〜 1925. 9.15(大正14) ◇明治・大正期の国際法学者。父は寺尾喜平太、母はアイ。天文学者寺尾寿(ヒサシ)の弟、女優東山千栄子(姪)の養父。 てらお ひさし【寺尾 寿】 1855(安政 2) 〜 1923. 8. 6(大正12) ◇明治・大正期の天文学者。寺尾亨(トオル)の兄。 _1888(明治21)東京天文台の初代台長。東京物理学校(現:東京理科大学)の創立者。 てらお ゆきお【寺尾 幸夫】 1889. 8.30(明治22) 〜 1933. 1. 1(昭和 8) ◇小説家。本名は玉虫孝五郎、号は戯象。 てらおか みねお【寺岡 峰夫】 1909.12.13(明治42) 〜 1943. 1.15(昭和18) ◇評論家。本名は寺尾博。 てらかど せいけん【寺門 静軒】 1796(寛政 8) 〜 1868 ◇江戸幕末の儒学者・随筆家。名は良、字は子温、通称は弥五左衛門。常陸国(現:茨城県)の人。 _山本緑陰に師事。江戸で私塾を開く。 _天保年間に漢文の戯書『江戸繁昌記』を著して幕府の出版取り締まりに触れ江戸を追放。のち剃髪し無用之人と自称して諸国を放浪。越後国(現:新潟県)で『新潟繁昌記』を著す。 てらさか きちえもん【寺坂 吉右衛門】 ⇒寺坂信行 てらさか のぶゆき【寺坂 信行】 1665(寛文 5) 〜 1747(延享 4.10. 6) ◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士吉田忠左衛門兼亮(カネスケ)の足軽弓組、三両二分二人扶持。通称は吉右衛門(キチエモン)、戒名は刃道喜剣信士(高輪泉岳寺<センガクジ>)・遂道退身居士節岩了貞信士(麻布曹渓寺<ソウケイジ>)。 _吉良家討ち入りでは裏門隊。引き揚げ先の泉岳寺前から立ち去り、四十七士中ただ一人生き残る。浅野内匠頭長矩(タクミノカミ・ナガノリ)の未亡人瑤泉院(ヨウゼイイン)と広島の浅野大学長広(ダイガク・ナガヒロ)に事の報告をし、翌年江戸に出て自首したときは同志の多くが切腹した後で、不問に付せられる。 _忠左衛門の娘婿の姫路藩士伊藤十郎太夫に12年間奉公し、のち旗本山内家に仕える。晩年を泉岳寺に近い曹渓寺で過ごす。 _『寺坂信行筆記』を著す。 _『仮名手本忠臣蔵』では「寺岡平右衛門」。 ◎泉岳寺の墓は萱野三平(カヤノ・サンペイ)重実(シゲザネ)の招魂碑とする説もある。 _また討ち入り前に逃亡し、討ち入りは四十六士だったという説もある。 てらさき こうぎょう【寺崎 広業】 1866. 4.10(慶応 2. 2.25) 〜 1919. 2.21(大正 8) ◇明治・大正期の画家。幼名は忠太郎のち広業(ヒロナリ)。羽後国秋田生れ。 てらざき ひろし【寺崎 浩】 1904. 3.22(明治37) 〜 1980.12.10(昭和55) ◇小説家。徳田秋声(シュウセイ)の娘喜代の夫。 (3)生年は1905(明治38)。 (5)生年は1904(明治37)。 (9)生年は1904(明治37)。 (11)生年は1904(明治37)。 てらじま むねのり【寺島 宗則】 1832(天保 3) 〜 1893(明治26) ◇江戸幕末・明治時代の外交官・政治家。薩摩藩出身。 _薩英戦争後、薩摩藩留学生を引率して渡欧。帰国後、蘭法医松木弘庵の名で幕府に仕え開成所教授。 _明治維新後、参与・外国事務掛・神奈川府知事を歴任。外務卿(1873〜1879)として条約改正交渉に当たり、マリア・ルーズ号事件(1872)・千島樺太交換条約(1875)・日朝修好条規(1876)・対米関税自主権回復条約などを担当。 てらだ かなえ【寺田 鼎】 1901. 2. 6(明治34) 〜 1936.12. 7(昭和11) ◇翻訳家。 てらだ とらひこ【寺田 寅彦】 1878.11.28(明治11) 〜 1935.12.31(昭和10) ◇物理学者・随筆家。筆名は吉村冬彦、俳号は藪柑子(ヤブコウジ)・牛頓(ニュウトン)・木螺山人(モクラサンジン)・寅日子(トラヒコ)・照元学人。東京市生れ。東京大学物理学科卒業。 ◆寅彦忌(冬彦忌)[12.31]。 てらの しゅすいろう【寺野 守水老】 1836(天保 7. 6.10) 〜 1907. 4.10(明治40) ◇俳人。本名は宗教、幼名は灌頂、旧姓は青野。 てらやま しゅうじ【寺山 修司】 1936. 1.10(昭和11) 〜 1983. 5. 4(昭和58) ◇歌人・詩人・劇作家。 (1)誕生日は1936. 1.10(昭和11)。 (5)誕生日は1935.12.10(昭和10)。 (9)誕生日は1936. 1.10(昭和11)、ただし実際は1935.12.10(昭和10)出生という。 てらやま せいせん【寺山 星川】 1867(慶応 3. 2.15) 〜 1910. 3. 2(明治43) ◇評論家・新聞記者。本名は啓介、戸籍は啓助。 てるのみや のぶひと【光宮 宣仁】 ⇒高松宮宣仁 てんかい【天海】 1536(天文 5) 〜 1643(寛永20.10. 2) ◇江戸初期の僧侶(天台宗)。号は南光坊、勅諡号は慈眼(ジゲン)大師。会津高田の人。 _11歳で出家し随風と号する。14歳で宇都宮の粉河寺(コガワジ)の皇舜に天台を学ぶ。のち比叡山・園城寺(オンジョウジ)・興福寺などで諸宗について学ぶ。 _1571(元亀 2)織田信長の比叡山焼打ち後、武田信玄の招きで甲州に赴く。世良田の長楽寺(群馬県新田郡)・江戸崎の不動院(茨城県稲敷郡)を経て、1590(天正18)川越の喜多院(キタイン)無量寿寺で豪海(ゴウカイ)に師事し天海と改める。 _1589(天正17)徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画。 _1599(慶長 4)川越喜多院(27世住職)と1613(慶長18)日光山(二荒山)を授けられる。 _家康の没後、崇伝(スウデン)と争って失脚させ、権現(ゴンゲン)号の勅許を乞い久能山(クノウザン)から日光山に改葬、輪王寺(リンノウジ)を建立。 _また秀忠・家光にも信任され、幕政に参与。 _上野忍岡が江戸城の鬼門であることから城の鎮護のため、1624(寛永元)上野東叡山寛永寺を開山。1637(寛永14)から寛永寺に経局を設け、天海版といわれる日本最初の『大蔵経』を刊行(没後の1648年完成)。 _1633(寛永10)川越に仙波東照宮を創建。 (4)一六二五年上野東叡山寛永寺を開山、……。 (6)1624年江戸上野に寛永寺を開山。 (*)1648(正保 5,慶安元)。 ◎家康を唯一神道による「明神」として祀ろうとする崇伝(スウデン)にたいし、天海は山王一実神道による「権現」を主張。秀忠に問われ「豊国大明神をご覧あれ」と答えて決着を得た。 ◎生年や出自には諸説あり、会津の蘆名修理大夫盛高の一族という。また、天海の前半生に謎が多いことから、実は明智光秀であるという俗説もある。 てんじ てんのう【天智 天皇】《てんぢ てんわう》 626[推古34] 〜 671[天智10.12.] ◇第38代天皇。初めは葛城皇子(カズラキノミコ)のち中大江(ナカノオオエ)皇子・開別皇子、諡(オクリナ)は天命開別(アメミコトハルキワケ)。 _舒明(ジョメイ)天皇の第2皇子、母は宝皇女(皇極・斉明<サイメイ>天皇)。間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(オオアマノミコ)(天武天皇)の同母兄。 _皇子には建(タケル)皇子・大友(伊賀)皇子・川島皇子・施基(シキ)皇子ら。 _皇女には大田皇女・(「盧」偏+「鳥」:補助7652〔_〕)野(ウノ)皇女(持統天皇)・御名部皇女・阿陪皇女(元明天皇<ゲンメイ>)・山辺皇女・大江皇女ら。 _ 645(皇極天皇 4. 6.)中臣鎌足(ナカトミノカマタリ)・蘇我倉山田石川麻呂(ソガノクラヤマダノイシカワノマロ)らと謀って蘇我(ソガ)蝦夷(エミシ)・入鹿(イルカ)父子を滅ぼし、軽皇子が即位(孝徳天皇)し中大江は皇太子となり、大化の改新を断行。同年9月、古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)(父は舒明,母は蘇我馬子の娘)が謀反を企らんだとして殺害。 649(大化 5. 3.)蘇我日向(ヒムカ)の讒言により蘇我倉山田石川麻呂を攻めて自殺させ、のち石川麻呂の潔白が証明され日向を筑紫大宰帥に追放。 _ 655[斉明元. 1.]皇極天皇が重祚(チョウソ)、中大江も再び皇太子。 658[斉明 4.11.]有間(アリマ)皇子を蘇我赤兄(アンエ)にそそのかさせ、謀叛の心があるとして処刑。 _ 660[斉明 6]唐と新羅に攻撃を受けた百済に 661[斉明 7]援兵を送る。軍を筑紫に進めた際、途中の朝倉宮で斉明天皇が病没、中大江が称制し全軍の指揮をとる。 663[天智 2. 8.]白村江で敗退し撤兵。 _唐・新羅の来襲に備えて各地に城を造り、 667[天智 6. 3.]宮を飛鳥から近江の大津に移し、 668[天智 7]正式に即位。 _ 671[天智10]長子大友皇子(庶腹)を太政大臣に任じずる。このため大海人皇子(のちの天武天皇)は皇太弟の地位を去る。 _ 668[天智 7]近江令の制定・大学の設置・ 670[天智 9]庚午年籍(コウゴネンジャク)(戸籍)の整備など、中央集権・専制法治国家の基礎を築く。 _即位: 668[天智 7. 1. 3]、退位: 671[天智10.12. 3]。 (2)その皇子女に……(「盧」偏+「鳥」:補助7652〔_〕)野皇女(持統天皇)……。 (4)また葛城(カズラキ)・中大江(ナカツオオエ)。 (11)初め葛城(カツラギ)皇子のち中大江(ナカツオオエ)といった。 (15)生年は 625[推古33]または 626[推古34]。「日本書紀」舒明13年条によれば46歳,「上宮聖徳法王帝説」では47歳. _和風諡号は天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト).名は葛城(カツラギ).中大江は通称. てんじゅいん【天樹院】 ⇒千姫 てんしゅうに【天秀尼】 1609(慶長14) 〜 1645(正保 2) ◇江戸初期の尼僧。豊臣秀頼(ヒデヨリ)の娘、母は成田助直の娘。 _大坂落城の後、徳川家康の上意により鎌倉東慶寺の尼になる。 てんしょういん【天璋院】 1835(天保 6) 〜 1883(明治16) ◇江戸幕末の、第13代将軍徳川家定(イエサダ)の夫人。名は敬姫のち篤姫。島津忠剛の娘、薩摩藩主島津斉彬(ナリアキラ)の養女、近衛忠煕(タダヒロ)の養女。 _第14代将軍徳川家茂(イエモチ)に嫁した和宮(カズノミヤ)(静寛院宮)との不和が伝えられている。 てんずいいん【天瑞院】 1513(永正10) 〜 1592 ◇豊臣秀吉の生母。通称は大政所(オオマンドコロ)。 _織田家の足軽木下弥右衛門に嫁し、瑞竜院日秀(秀吉の姉)と秀吉を生む。弥右衛門の死後、織田家の同朋竹阿弥に再婚、秀長・旭姫(徳川家康の妻)を生む。 _1585(天正13)秀吉の関白就任後、大政所と称される。 (*)1592(天正20,文禄元)。 てんむ てんのう【天武 天皇】《てんむ てんわう》 生年不詳 〜 686(朱鳥元. 9. 9) ◇第40代天皇。諱(イミナ)は大海人皇子(オオアマノミコ)、諡(オクリナ)は天渟中原瀛真人(アマノヌナハラオキノマヒト)天皇。 _舒明(ジョメイ)天皇の第3皇子、母は宝皇女(皇極・斉明<サイメイ>天皇)。中大兄皇子(ナカノオオエノミコ)(天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(孝徳天皇の皇后)の同母弟。 _額田王(ヌカタノオオキミ)(十市皇女の母、のち天智の妃)・胸形君尼子娘(高市皇子<タケチノミコ>の母)を娶り、中大兄の娘(姉)大田皇女(大津皇子<オオツノオウジ>の母)・(妹)(「盧」偏+「鳥」:補助7652〔_〕)野讃良皇女(草壁皇子<クサカベノオウジ>の母、のち持統天皇)を妃とする。 _皇子には草壁・大津・舎人(トネリ)・長・穂積・弓削(ユゲ)・新田部・高市・忍壁・磯城ら。 _皇女には大来・但馬・紀・田形・十市・泊瀬部・多基ら。 _ 668[天智 7]天智天皇が即位のとき、皇太弟となる。 671[天智10]天智が子の大友皇子を太政大臣に任じ、危険を察し出家と称して10月吉野宮へ引退。 _天智天皇が没し、翌 672[弘文元. 6.]壬申(ジンシン)の乱で大友を討ち、 673[天武元. 2.]大和国飛鳥の浄御原宮(キヨミハラノミヤ)で即位。 _新たに八色姓(ヤクサノカバネ)を制定、位階を改定、近江律令を改修する飛鳥浄御原律令の編集を命じ、律令体制を強化確立する。また国史の編修に着手・兵制の整備・鎮護国家のための仏教の奨励などに努める。 _即位: 673[天武元. 2.27]、退位(死亡): 686(朱鳥元. 9. 9)。 (2)没年は 686(朱雀 1)。 _(「盧」偏+「鳥」:補助7652〔_〕)野(ウノ)皇女(持統天皇)をたてて皇后となす。 (4)没年は 686。 (6)没年は 686。 (16)没年は 686(天武15)。 (17)朱鳥元年(六八九)九月九日に亡くなったあと、……。 (*) 686[天武14](朱鳥元)、 689[持統 3]。