う いつ【宇 逸】 1702(元禄15) 〜 1872(明治 5. 7.) ◇江戸幕末の俳人。氏は白水、名は重栄、別号は北筑失明逸人・心聞舎。筑前福岡の人。 うい がいおう【宇井 (「立心」偏+「豈」:補助3045〔_〕)翁】 1702(元禄15) 〜 1759(宝暦 9) ◇江戸中期の漢学者。名は雄真、字は文翼、号は(「立心」偏+「豈」:補助3045〔_〕)翁。朝鮮人金作寿の長男、母は宇井道慶の娘。紀州新宮の人。 _京都の伊藤東涯に学ぶ。 うい はくじゅ【宇井 伯寿】《うゐ はくじゆ》 1882(明治15) 〜 1963(昭和38) ◇インド哲学者・仏教学者。愛知県の出身。 _高楠順次郎に学ぶ。東北大学教授・東京大学教授。 _1953(昭和28)文化勲章を受章。 うい もくさい【宇井 黙斎(宇井 默齋)】 1725(享保10. 4.12) 〜 1781(天明元.11.22) ◇江戸中期の漢学者。本姓は丸子、名は信卿、通称は小一郎、号は黙斎。 うぃりあむ あだむす【ウィリアム・アダムス】 ⇒アダムス うぃりあむ あだむず【ウィリアム・アダムズ】 ⇒アダムス うえ さねたけ【上 真節】 1825(文政 8) 〜 1895. 1.30(明治28) ◇明治前期の雅楽の大家。本姓は狛、初名は近節のち真節。上近興の子。 _1872(明治 5)大伶人。 うえがき ほうりゅう【上柿 芳竜】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸中期の絵師。享保年間(1716〜1736)に活躍。 うえかわ きすい【上河 淇水】《うへかは きすい》 1748(寛延元.11. 9) 〜 1817(文化14.10. 4) ◇江戸後期の心学者。本姓は源、氏は志賀のち上河、名は正揚・義言、字は子鷹、通称は文次・荘兵衛・愿蔵、号は淇水・柿園・東海。近江国御園村の士族志賀盛言の4男。近江国神崎郡今田居生れ。 _京都の手島堵庵(トアン)に心学を学ぶ。20歳のとき堵庵の養子となり分家上河家を継ぐ。義兄手島和庵(堵庵の長男)の没後、1791(寛政 3)明倫舎第三世舎主。 _同じ心学の江戸神田参前舎大島有隣(ウリン)らと対立する。 うえかわ でんいちろう【上川 伝一郎】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸末期の幕臣。通称は伝一郎。 _1856(安政 3)勘定方より下田奉行支配調役。1857(安政 4)小十人組。 うえき うてい【植木 雨鼎】 1786(天明 6) 〜 1838(天保 9) ◇江戸後期の医者・漢学者。名は文剛、字は公賁、通称は簡修。植木遯窩の長男。丹波国氷上郡和田村の人。 _大阪の岡田南涯に学ぶ。 うえき えつ【植木 悦】 生年不詳 〜 1698(元禄11. 2.15) ◇江戸前期の兵学者。幼名は常成、のち長春・悦、通称は由右衛門、号は升安・橘生斎・東林耕人・道可。 _小幡景憲に兵学を学ぶ。1662(寛文 2)津藩主藤堂高久に軍学師として召し抱えられる。1669(寛文 9)高通が分封され伊勢久居藩主となり、従って久居藩士。 うえき えもり【植木 枝盛】《うゑき えもり》 1857(安政 4. 1.20) 〜 1892. 1.23(明治25) ◇政治家・評論家・自由民権運動家。土佐藩下級士族の子。 _立志社に参加。板垣退助らと国会開設に奔走。 _1879(明治12)に刊行した『民権自由論』は平易な口語体である。 うえき かんざん【植木 環山】 1808(文化 5) 〜 1881. 3. 5(明治14) ◇江戸幕末・明治初期の漢学者。名は友風、字は士雲、通称は教之助、号は環山・玉堂・班竹。 うえくさ じんいち【植草 甚一】 1908. 8. 8(明治41) 〜 1979.12. 2(昭和54) ◇エッセイスト・評論家。東京生れ。早稲田大学建築科中退。 うえじま おにつら【上島 鬼貫】 ⇒上島鬼貫 うえすぎ あきさだ【上杉 顕定】 1454(享徳 3) 〜 1510(永正 7) ◇室町後期の武将。幼名は四郎。越後守護上杉相摸守房定の次男、民部大輔越後守護上杉房能(フサヨシ)の兄。山内上杉房顕の養子、[2]上杉憲房の養父。 _1467年、養父の陣没後に関東管領を継ぎ、上野・武蔵・伊豆の守護に就任、新たに上野国平井城を築く。 _顕定が長尾景春を退け長尾忠景を用いたため、1476(文明 8)景春は武蔵国鉢形城によって顕定に叛き、翌年武蔵五十子を攻め顕定は上野に背走。 _1478(文明10)梁田政信の仲介で景春と和睦、景春は剃髪する。古河公方(コガクボウ)足利成氏(シゲウジ)とも和睦する。 _1486(文明18)扇谷上杉定正の重臣太田持資の死後、定正・朝良・後北条氏と対抗。 _1509(永正 6)弟の房能が守護代長尾為景に殺害され、越後に出兵し為景と戦う。翌年高梨政頼が為景を援け、顕定は信越の境長森原で討死。 (2)(名)四郎,民部大輔・相摸守。 (16)民部少輔と称した.長屋為景が…….(*)長尾為景の誤り。 (*)1467(文正 2,応仁元)。 うえすぎ あきふさ【上杉 顕房】 1435(永享 7) 〜 1455 ◇室町前期の武将。名は弾正少弼・修理大夫。扇谷(オウギガヤツ)上杉氏定の子、兄持朝(モチトモ)の養嗣子、真政の父。 _古河公方足利成氏に攻められ、夜瀬で自殺。 (*)1455(享徳 4,康正元)。 うえすぎ あきよし【上杉 顕能】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇南北朝時代の武将。通称は修理亮・民部大輔。上杉重能(シゲヨシ)の子。 _1351(<南>正平 6,<北>観応 2)上杉能憲(ヨシノリ)とともに高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟を摂津国武庫川に襲撃し滅ぼす。能憲(ヨシノリ)は関東管領、顕能は備後守護に補任される。 うえすぎ うじのり【上杉 氏憲】《うへすぎ うぢのり》 生年不詳 〜 1417(応永24. 1.10) ◇室町前期の武将。通称は右衛門佐、法号は禅秀(ゼンシュウ)日山・傑山禅秀。犬懸(イヌカケ)上杉朝定(トモサダ)の子、持房・教朝(ノリトモ)の父。 _1401(応永 8)鎌倉公方足利満兼の命により[1]伊達政宗を討つ。1411(応永18)関東管領となり、鎌倉公方足利持氏を補佐。山内上杉憲基(ノリモト)と争い持氏が憲基を援けたので、1415(応永22)家臣越幡(小幡)の所領没収問題を契機に管領を辞職、代って憲基が就任。 _1416(応永23)持氏の叔父満隆とその養嗣子持仲を奉じて、公方持氏に不満の関東の豪族千葉・岩松・那須・武田氏らを集め反乱(上杉禅秀の乱)。持氏を駿河に、憲基を越後に追い、鎌倉を制圧。幕府が持氏を支援して駿河の今川氏・越後の上杉氏などが出兵。氏憲方の離反が相次ぎ、武蔵国世谷原の合戦に敗北し、翌年鎌倉に攻め込まれ、満隆・持仲らとともに鶴岡八幡宮の雪ノ下の坊で自刃。 (2)「1伊達正宗」の項:1402上杉氏憲らの大軍に……。 (16)1401(応永 8)年関東管領満兼の命によって伊達正宗を討って……. うえすぎ かげかつ【上杉 景勝】《うへすぎ かげかつ》 1555 〜 1623(元和 9. 3. 2) ◇安土桃山・江戸初期の武将。幼名は顕景、通称は喜平次のち弾正少弼・会津中納言。長尾政景(マサカゲ)の次男、母は長尾為景の娘。叔父上杉謙信(ケンシン)の養子。 _父政景の死後、謙信の養子となる。1578(天正 6)養父謙信が没し、同じ謙信の養子で北条氏康の子[2]景虎と争う(御館の乱)。翌年[2]景虎が援けを求めた武田勝頼に東上野の地と黄金1万両の申し出て兵を収めてさせ、[2]景虎を孤立させて滅ぼし、謙信の遺領の越後・加賀・能登・佐渡・越中を支配。織田信長に能登・越中を奪われ、北信濃を侵され、越後には反乱が起こる。 _信長の死後、1583(天正11)豊臣秀吉に仕え、1586(天正14)従四位下左近衛権少将兼弾正大弼、1588(天正16)正四位下参議、秀吉から豊臣・羽柴の称号を許される。1590(天正18)小田原征伐、1592(文禄元)文禄の役に功をたて、1594(文禄 3)従三位中納言に叙任。1597(慶長 2)豊臣氏五大老の一に列し、1598(慶長 3)陸奥国会津120万石を領する。 _1600(慶長 5)関ヶ原の戦に石田三成と結んで徳川家康打倒の兵を挙げるが、敗れて出羽米沢30万石に移封。1614(慶長19.11.)大坂冬の陣、1615(慶長20. 5.)夏の陣には家康に従う。 _1922(大正11)正三位を遺贈。 (*)1555(天文24,弘治元)。 [1]うえすぎ かげとら【上杉 景虎】《うへすぎ かげとら》 ⇒上杉謙信 [2]うえすぎ かげとら【上杉 景虎】《うへすぎ かげとら》 1553(天文22) 〜 1579(天正 7. 3.) ◇戦国時代の武将。幼名は国増丸、のち三郎氏秀。北条氏康の7男、北条氏政の弟。上杉謙信の養子。 _初め父氏康と武田信玄の甲相同盟の人質として信玄の養子となり、武田三郎と称する。1568(永禄11)北条・武田が不和になり小田原に帰還。 _1569(永禄12)越相和睦の人質として上杉謙信の養子となり、謙信の初名景虎を与えられる。長尾政景の娘を娶り、春日山城に居住。 _1568(永禄11)上杉謙信の没後、同じ養子の上杉景勝(長尾政景の子)と相続をめぐり争う(御館の乱)。兄北条氏政を通じて援けを求めた武田勝頼は、景勝より東上野の地と黄金1万両の申し出に兵を収めて帰国。孤立した景虎は1569(永禄12)越後国鮫尾城で自殺。 うえすぎ きよかた【上杉 清方】 生年不詳 〜 1441 ◇室町時代の武将。関東管領執事の越後上杉房方の4子、憲実(ノリザネ)の弟。 _1440(永享12)結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)が鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を迎えて下総国結城城で挙兵。関東管領の兄憲実に従い、翌年落城させ氏朝は自殺。 (*)1441(永享13,嘉吉元)。 うえすぎ きよこ【上杉 清子】 生年不詳 〜 1342 ◇南北朝時代、足利尊氏(タカウジ)・足利直義(タダヨシ)の母。将軍家の母として足利大方殿と称せられる。上杉頼重の娘、[1]上杉憲房の妹、上杉重房(シゲフサ)の孫、足利貞氏の妻。 _従二位で没し、北朝は清子の喪により文殿庭中を停止する。 _清子が将軍家の母となることにより、上杉氏は足利氏の姻戚として鎌倉幕府に勢力を持つにいたる。 (*)1342(<南>興国 3,<北>暦応 5,<北>康永元)。 うえすぎ けんしん【上杉 謙信】《うへすぎ けんしん》 1530(享禄 3. 1.21) 〜 1578(天正 6. 3.13) ◇戦国時代の武将。越後・加賀・能登・佐渡の領主。幼名は虎千代(寅年生れ)、名は長尾景虎のち政虎・輝虎(テルトラ)、出家して謙信・弾正少弼。越後国頸城郡生れ。越後守護代長尾為景(タメカゲ)の次子、母は越後栖吉城主長尾為景の娘虎御前(トラゴゼン)(青岩院<セイガンイン>)。 _1536(天文 5)父為景が没し嗣子の兄晴景が長尾家を継ぎ、虎千代は菩提寺林泉寺の天室光育に預けられる。翌年外敵が領国へ迫ったので古志栃尾城に住み、1543(天文12)中越の黒田一党を討滅して武名を挙げ、病弱の晴景や長尾政景と対立。 _守護上杉定実の仲介により、1548(天文17)兄の養子となって家督を継ぎ、春日山城に入る。関東管領上杉憲政(ノリマサ)、信濃の村上義清(ヨシキヨ)らに援を求められる。義清の旧領回復を名目にしばしば小田原北条氏康(ウジヤス)および武田信玄と川中島で戦う(1553,1555,1557,1561,1564)。一般に「川中島の戦い」と称する戦いは1561(永禄 4. 9.10)の激戦をさす。 _1555(天文24. 7.)川中島で信玄と5ヶ月対陣、今川義元の斡旋で帰国。しかし家臣の分裂反目から突如出家を決意し比叡山に向う。途中、家臣の代表長尾政景の要請により帰国。 _1558年、上杉憲政(ノリマサ)が北条氏康に追われて越後に亡命し、1561(永禄 4)鎌倉鶴岡八幡宮で上杉の家名と関東管領を受領、上杉政虎と改名。同年、小田原の氏康を攻めて敗走。1562(永禄 5)関東管領に就任、将軍足利義輝の偏諱(ヘンキ)を受け輝虎と改名。 _今川義元の没後、1568(永禄11)信玄が同盟(今川・北条・武田)を破り今川氏真(ウジザネ)を攻めたため、北条氏康は上杉に接近、翌1569(永禄12)三男(のち三郎[2]景虎)を養子に入れる。 _1573(元亀 4)信玄が病没し、越中・能登・加賀に進出。翌年、薙髪(テイハツ)して不識庵謙信と号する。将軍足利義昭に応じて、毛利氏と結び、織田信長と対立。1577(天正 5)能登七尾を落城させ、織田軍を加賀国手取川で撃破。信長との決戦を目前に脳溢血で死亡。 ◎駿河(静岡県)の今川氏真と相摸(神奈川県)の北条氏康が武田領へ塩の輸送を止めたとき、謙信にも越後(新潟県)の塩の輸送停止の要請が来たが、「戦いは弓矢で決するもので米塩ではない」と、敵に塩を送った逸話がある。 _軍旗に「毘」の字を入れていた。 (16)'61(永禄 4)……憲政から上杉の姓を与えられ,名を政虎と改め,…….'62(永禄 5)年将軍足利義輝の諱をうけて輝虎と称し,……. (17)鎌倉鶴岡八幡宮で管領職就任式を行ない上杉政虎と改名して帰国した。 (*)1558(弘治 4,永禄元)。 うえすぎ さだざね【上杉 定実】 生年不詳 〜 1550(天文19) ◇戦国時代の武将。通称は兵庫頭。上条上杉房実の子、越後守護職上杉房能(フサヨシ)の養子。 _1507(永正 4)上杉房能の守護代長尾為景は定実を擁立して能房を追放。房能は兄上杉顕定(アキサダ)を頼り脱出の途次、越後国東頸城郡松之山で自害。定実は越後守護職となる。 _のち為景に幽閉、子がなく家は断絶。 うえすぎ さだまさ【上杉 定正(上杉 定政)】《うへすぎ さだまさ》 1443(嘉吉 3) 〜 1493(明応 2.10. 5) ◇室町中期の武将。扇谷(オウギガヤツ)家の第6代当主。名は定政とも、通称は修理大夫。扇谷上杉持朝(モチトモ)の3子。 _父の弟で父の養嗣子でもある上杉顕房(アキフサ)の子、1473(文明 5)真政が敗死し、迎えられて家督を継ぐ。 _初め扇谷家の執事太田道灌(ドウカン)(持資)の補佐を得て兵威をふるう。のち扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定方の讒言(ザンゲン)により、1486(文明18)相摸国大住郡糟谷で道灌を殺し、勢いが衰える。北条早雲(ソウウン)と結び顕定と対抗。 _1493(明応 2)高見原の陣中で病没。 (2)生年は1443(嘉吉 3)。 (4)生年は1442。 (16)生年は1443(嘉吉 3)。 うえすぎ しげさだ【上杉 重定】 1720(享保 5) 〜 1798(寛政10) ◇江戸中期の大名。幼名は勝政、のち第9代将軍徳川家重より偏諱(ヘンキ)を受て重定と改名。上杉吉憲の4男、宗房の弟、上杉治憲(ハルノリ)(鷹山)の養父。 _1746(延享 3)兄宗房のあとを継ぎ、米沢藩主となる。 _1767(明和 4)治憲に藩主を譲る。 うえすぎ しげふさ【上杉 重房】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉時代の武将・上杉氏の祖。左衛門尉藤原清房の次子、上杉頼重の父、上杉清子(キヨコ)の祖父。 _1252(建長 4)鎌倉幕府第6代将軍として宗尊親王が鎌倉に下向するのに従い、武士となって丹波国何鹿郡上杉庄を与えられ、上杉氏を称する。 ◎鎌倉明月院に鎌倉時代作の上杉重房像が伝わる。 うえすぎ しげよし【上杉 重能】《うへすぎ しげよし》 生年不詳 〜 1349(<南>正平 4,<北>貞和 5) ◇南北朝時代の武将。詫間(タクマ)上杉氏の祖。勧修寺別当宮津入道道免の子、母は足利貞氏の妻の妹、上杉顕能(アキヨシ)の父。[1]上杉憲房(ノリフサ)の養子。上杉能憲(ヨシノリ)の養父。 _足利尊氏(タカウジ)に従い、元弘の変には共に京都へ攻め上り、尊氏と共に帰順。尊氏と行動を共にして重用され、伊豆守護職・引付一番頭人となる。 _足利直義(タダヨシ)を支えて室町幕府の政策に参画し、高師直(コウノモロナオ)・師泰(モロヤス)兄弟と対立。直義に勧めて師直の執事職を解くことに成功するが、1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)師直は尊氏に直義の政務停止を迫り、直義派の重能・畠山直宗は越前に配流される。直義は出家(のち鎌倉に下り尊氏により毒殺)。 _同年、刺客八木光勝に江守荘で殺される。 うえすぎ しんきち【上杉 慎吉】《うへすぎ しんきち》 1878. 8.(明治11) 〜 1929. 4. 7(昭和 4) ◇憲法学者。福井県生れ。東京大学法科卒業。 _1906(明治39)ドイツ留学。帰国後、穂積八束(ホヅミ・ヤツカ)のあとを受けて東京大学で憲法学講座を担当、東京大学教授となる。帝国憲法の絶対主義的解釈を行ない、天皇機関説の美濃部達吉と論争する。 _護憲運動に対抗し、1913(大正 2)官僚・保守的学者を集め政党政治を否認する桐花会を結成、東京大学学内では興国同志会・七生会を作り、1922(大正11)高畠素之(モトユキ)らと急進国家主義経倫学盟を興し、右翼団体の指導的地位を占める。 うえすぎ ぜんしゅう【上杉 禅秀】《うへすぎ ぜんしう》 ⇒上杉氏憲 うえすぎ てるとら【上杉 輝虎】 ⇒上杉謙信 うえすぎ ともおき【上杉 朝興】《うへすぎ ともおき》 1488(長享 2) 〜 1537(天文 6) ◇戦国時代の武将。別名は大庭五郎、通称は修理大夫。上杉朝憲の子、朝定(トモサダ)の父、扇谷(オウギガヤツ)上杉朝良(トモヨシ)の養嗣子。 _武蔵国江戸・河越城主を継ぐ。1512(永正 9. 8.)北条早雲(ソウウン)と戦って籠城した三浦義同(ヨシアツ)を救援して早雲と戦い、1516(永正13. 7.)義同・義意(ヨシオキ)父子が三浦半島の新井城に討たれて、義同一族が自殺して敗退。1524(大永 4)北条氏綱と品川で戦って敗れ、江戸城を奪われて河越城に退く。1530(享禄 3)氏綱・氏康父子と多摩川に戦い敗退。その後も江戸城を回復しようとするが果たさず、河越の陣中で没する。 [1]うえすぎ ともさだ【上杉 朝定】《うへすぎ ともさだ》 1320(元応 2) 〜 1352 ◇南北朝時代の武将。丹後守護。重顕の子。 _高師直と争う。 (*)1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。 [2]うえすぎ ともさだ【上杉 朝定】《うへすぎ ともさだ》 1525(大永 5) 〜 1546(天文15. 4.20) ◇戦国時代の武将。幼名は五郎、通称は修理大夫。扇谷(オウギガヤツ)上杉朝興(トモオキ)の子。 _1537(天文 6)父朝興が没して武蔵国河越城主を継ぎ、扇谷上杉家の再興を図る。武蔵国北多摩郡に深大寺を築き、小田原攻めに備える。同年、北条氏綱・氏康(ウジヤス)父子に本拠河越城を攻め落とされ、松山城に退く。1541(天文10)氏綱が没し、扇谷上杉朝政が攻めるが敗退。1545(天文14)古河公方足利晴氏・関東管領山内上杉憲政の援けを得て、8万余騎で福島綱成の率いる3千の河越城を包囲する。翌年、氏康が今川氏親と争っているのに乗じて川越城を攻めたが、 4.20氏康が率いる8千騎の援軍を得て落城寸前に降参を装った夜襲(河越の夜討)に敗れて、混乱の中で戦死。 (2)生年は1525(大永 5)。 (16)生年は1526(大永 6)。 ◎彼の死により扇谷上杉は滅ぶ。 うえすぎ ともふさ【上杉 朝房】 生年不詳 〜 1371(<南>建徳 2,<北>応安 4) ◇南北朝時代の武将。通称は左馬助・弾正少弼。犬懸(イヌカケ)上杉憲藤の子、朝宗の兄で養父。 _鎌倉公方足利基氏・氏満に仕える。上総・信濃・越後守護職。1368〜1370年、上杉能憲(ヨシノリ)とともに関東管領。 (*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)、1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>応安 3)。 うえすぎ ともむね【上杉 朝宗】 1339(<南>延元 4,<北>暦応 2) 〜 1414(応永21) ◇室町前期の武将。幼名は幸若丸。犬懸(イヌカケ)上杉憲藤の子、兄朝房の養嗣子。 _鎌倉公方足利氏満・満兼に仕える。1380(<南>天授 6,<北>康暦 2. 5.)氏満の小山義政征討に上杉憲方(ノリカタ)・木戸範季とともに従軍、翌年平定。1395(応永 2)関東管領・鶴岡の惣奉行。 _1410(応永17)兼満の埋葬の日に帰宅せず、上総国長柄山胎蔵寺に隠退。 うえすぎ ともよし【上杉 朝良】 生年不詳 〜 1518(永正15) ◇室町後期の武将。幼名は五郎、通称は治部少輔、法名は建芳。上杉朝昌の子、上杉定正(サダマサ)の養嗣子、上杉朝興(トモオキ)の養父。 _1494(明応 3)定正が山内上杉顕定(アキサダ)との戦いの陣中で没すると、朝良は武蔵国河越に帰る。今川氏親と結び、顕定と対抗、武蔵国立河原などで敗退。河越・江戸城主として隠退。 うえすぎ なりさだ【上杉 斉定】 1788(天明 8) 〜 1839(天保10) ◇江戸後期の大名。幼名は宮松のち治広。上杉勝(「冫」偏+「煕」:補助1908〔_〕と異:補助なし)の子、上杉斉憲(ナリノリ)の父、上杉治憲(ハルノリ)(鷹山)の孫、伯父上杉治広の養嗣子。 _幼時より祖父鷹山(ヨウザン)のもとで育てられる。1812(文化 9)米沢藩主。1827(文政10)子の斉憲に藩主を譲る。 うえすぎ なりのり【上杉 斉憲】 1820(文政 3) 〜 1889(明治22) ◇江戸幕末・明治維新期の大名。幼名は鶴千代・喜平次のち斉定、諱は斉憲、通称は弾正大弼、号は曦山。上杉斉定(ナリサダ)の子、茂憲(モチノリ)の父。 _1827(文政10)米沢藩主。1853(嘉永 6)洋式精練法により大砲を鋳造。1857(安政 4)洋式小銃を採用、藩兵に洋式操練を行う。1863(文久 3.10.)上洛し京都の警護に当る。 _1868(慶応 4. 5.)会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心となるが、脱落が続き明治政府に降伏。官位・所領を奪われ、茂憲に家督を譲り隠居。 うえすぎ のりあき【上杉 憲顕】 1306 〜 1368(<南>正平23,<北>応安元. 9.19) ◇南北朝時代の武将。山内上杉の祖。通称は民部大輔・越後守・安房守。[1]上杉憲房(ノリフサ)の養嗣子、上杉能憲(ヨシノリ)・憲春(ノリハル)・憲方(ノリカタ)の父。 _1334年、関東廂番。1335(<南>建武 2,<北>建武 2)足利尊氏の挙兵以後、各地を転戦。 _1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)足利基氏(モトウジ)が鎌倉公方として下向、憲顕と高師冬(コウノモロフユ)を執事とする。鎌倉府執事・越後・上野・伊豆の守護職。 _1350年の尊氏と直義(タダヨシ)兄弟の争い(観応の擾乱<ジョウラン>)には直義を援け、基氏に退けられる。高師冬は尊氏方につき、翌年諏訪一族に甲斐国須沢城を攻められ自殺。1352年関東に下った直義を追って尊氏が東下、憲顕は武蔵野合戦で越後に背走。同年、尊氏により直義は毒殺。直義の子直冬を討とうとした尊氏は1358(<南>正平13,<北>延文 3)病没。 _1363(<南>正平18,<北>貞治 2)基氏の要請により憲顕は再び関東に復帰し、執事として務め、基氏の没後もその子氏満を補佐。1368(<南>正平23,<北>応安元)宇都宮氏および武蔵平一揆の乱を平定中に死去。 (*)1306(嘉元 4,徳治元)、1334(<南>元弘 4,<南>建武元,<北>正慶 3,<北>建武元)、1350(<南>正平 5,<北>貞和 6,<北>観応元)、1352(<南>正平 7,<北>観応 3,<北>文和元)。 うえすぎ のりかた【上杉 憲方】 1335(<南>建武 2,<北>建武 2) 〜 1394 ◇南北朝時代の武将。法号は道合。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉能憲(ヨシノリ)・憲春(ノリハル)の弟。 _1379年3月、土岐頼康(トキ・ヨリヤス)の叛乱を討伐するため美濃に出陣するが、中傷と判明し第3代将軍足利義満(ヨシミツ)の命により軍兵を返す。 _同月、鎌倉公方足利氏満(ウジミツ)のため諌死した兄憲春の跡を継いで氏満の執事となる。1380(<南>天授 6,<北>康暦 2. 5.)氏満の小山義政征討に上杉朝宗(トモムネ)・木戸範季とともに従軍、翌年平定。 (*)1379(<南>天授 5,<北>永和 5,<北>康暦元)、1394(明徳 5,応永元)。 うえすぎ のりざね【上杉 憲実】《うへすぎ のりざね》 1411(応永18) 〜 1466(寛正 7. 2. 6) ◇室町前期の武将・関東管領。幼名は孔雀丸のち四郎、通称は安房守、法号は高嶺長棟庵主。越後上杉房方の3子、山内上杉憲基(ノリモト)の養嗣子。上杉清方(キヨカタ)・道悦の兄。上杉憲忠(ノリタダ)・房顕(フサアキ)の父。 _越後上杉家から山内上杉家を継ぐ。1419(応永26)幼少で関東管領に補任。 _僧から還俗した将軍足利義教(ヨシノリ)と、将軍職を望む鎌倉公方足利持氏の不和を調停。1436(永享 8)信濃紛争に対する持氏の出兵を諌止。1438(永享10)持氏の子賢王丸(義久)の元服に際し、憲実は将軍の偏諱(ヘンキ)を請うよう提言するが、持氏は拒否。幕府に重きをなしたとして持氏と不和になり憲実は出奔し領国上野に帰る。幕府はこれを口実に今川範忠(ノリタダ)・小笠原政康に出兵させ憲実を援助(永享(エイキョウ)の乱)。幕命に従い主君の持氏を討伐し、持氏は鎌倉永安寺に軟禁。憲実は持氏を弁護したが、義教が許さなかったため、翌1439(永享11)持氏は鎌倉永安寺で自殺。 _持氏の遺児春王丸・安王丸を迎えて下総国結城城で挙兵した結城氏朝(ウジトモ)を、弟清方とともに平定(結城合戦)。この後、憲実は伊豆国国清寺で出家、幕府からの要請を断り弟道悦・子憲忠を伴い諸国を行脚(アンギャ)。周防大寧寺で没する。 _1439(永享11)足利学校を再興。 (2)生年は1411(応永18)。 (4)生年は1409。 (6)生年は1410。 (16)生年は1411(応永18)。 うえすぎ のりただ【上杉 憲忠】 1433(永享 5) 〜 1454(享徳 3.12.27) ◇室町前期の武将。幼名は龍若丸、通称は右京亮。山内上杉憲実(ノリザネ)の子、上杉房顕(フサアキ)の兄。 _永享の乱・結城合戦の後、父憲実とともに出家し龍忠と称する。 _1446(文安 3)還俗し山内上杉氏の家督を継ぐ。1448(文安 5)関東管領。 _1450(宝徳 2)足利持氏の遺児寿王丸が元服して鎌倉公方足利成氏となり、幕命により成氏と和睦。幕府の公方・管領体制が再建される。 _山内の家宰長尾景仲や扇谷(オウギガヤツ)の家宰太田資清(道灌<ドウカン>の父)らによる内紛が続く。 _憲忠を制圧しようとする成氏と反目し、憲忠は成氏邸で殺される。 ◎関東管領には兄の跡を継いで房顕が就任。 うえすぎ のりとも【上杉 教朝】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇室町前期の武将。通称は治部少輔。上杉氏憲(ウジノリ)(禅秀)の子、持房(モチフサ)の弟。 _1416(応永23)禅秀の乱の翌年父氏憲は自殺するが、兄持房とともに京都に逃れ、僧となる。のち還俗し、1440(永享12)結城合戦では、第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の命で兄持房とともに東海・東山の兵を率いて関東に下向して下総の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)を攻める。翌年、氏朝の首級を持って上洛。 _幕府は古河公方(コガクボウ)足利成氏(シゲウジ)に対抗するため足利政知(堀越公方)を伊豆国堀越に下向させ、政知に伴って伊豆に下着。54歳の時に自害。 うえすぎ のりはる【上杉 憲春】 生年不詳 〜 1379(<南>天授 5,<北>永和 5. 3. 7) ◇南北朝時代の武将。字は高源、通称は左近将監・刑部大輔・大沢院、号は道珍。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉能憲(ヨシノリ)の弟、憲方(ノリカタ)の兄。 _鎌倉公方足利基氏・氏満に仕える。 _1368年、父憲顕とともに武蔵国平一揆を討つ。同年、兄能憲とともに新田義宗・義治の軍を越後・上野に破る。 _氏満が第3代将軍足利義満に叛こうとしたので、諌止するが聞き容れられず、諌書を残し持仏堂で自殺。 (2)1378(天授 4・永和 4)能憲の死により鎌倉府執事。 (16)1364(正平19・貞治 3)年執事となり……. (*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元) [1]うえすぎ のりふさ【上杉 憲房】 生年不詳 〜 1336 ◇鎌倉末期・南北朝時代の武将。通称は兵庫頭・杉谷殿。上杉頼重の子、足利尊氏の母清子の兄。上杉憲顕(ノリアキ)・上杉重能(シゲヨシ)の養父。 _1335(<南>建武 2,<北>建武 2)上野の守護職。11月、尊氏が新田義貞の討伐を始め、翌年1月、新田義貞・北畠顕家の軍が京都に上る。この時、憲房は四条河原合戦で討死、尊氏は九州に背走する。 (*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。 [2]うえすぎ のりふさ【上杉 憲房】 1468(応仁 2) 〜 1526(大永 6) ◇室町時代の武将。幼名は五郎通称は民部大輔、法号は道憲大成竜洞院。周清の子、上杉顕実の弟、上杉顕定(アキサダ)の養子。 _1510(永正 7)養父顕定の没後、上野国平井城で長尾為景・意玄らと対抗する。 _兄顕実を古河に放逐した長尾景長により、1512(永正 9)関東管領として迎えられる。1524(大永 4)江戸城主上杉朝興(トモオキ)が北条氏綱と品川で戦って敗れ、江戸城を奪われて河越城に退くと、兵を起して江戸城を回復。 _平井城で病没。 うえすぎ のりまさ【上杉 憲政】 1523(大永 3) 〜 1579(天正 7. 3.18) ◇戦国時代の武将。幼名は四郎、通称は民部大輔、法号は成怡。[2]上杉憲房の子。 _1530(享禄 3)上野国平井城に居て関東管領となる。 _勢力の回復をはかる扇谷(オウギガヤツ)上杉朝定(トモサダ)・足利晴氏(ハルウジ)(古河公方)とともに、1545(天文14)福島綱成の率いる河越城を大軍で包囲するが、1546. 4.20(天文15)晴氏の夜襲(河越の夜討)で敗北、上野国に落ちのびる。 _1552(天文21)北条氏康に上野国平井城を攻められる。 _1558年、長尾景虎(上杉謙信)をたより越後に亡命。1561(永禄 4)鎌倉鶴岡八幡宮で上杉の家名と関東管領職を[1]景虎に譲り、隠退。 _謙信の死後、ともに謙信の養子上杉景勝・[2]景虎の継嗣争い(御館の乱)に巻きこまれ、誤って殺される。 (2)没年は1579(天正 7)。 (16)没日は1575(天正 3. 3/18)。 _謙信の死後,景勝・景虎の継嗣争いに巻きこまれ,不慮の死をとげた.(*)上杉謙信の没年は1578(天正 6. 3.13)。 (*)1558(弘治 4,永禄元)。 ◎彼の死により、上杉氏の正系は滅亡。 うえすぎ のりもと【上杉 憲基】 1392(<南>元中 9,<北>明徳 3) 〜 1418(応永25) ◇室町前期の武将。通称は右京亮・安房守。山内上杉憲定の子、上杉憲実(ノリザネ)の養父。 _犬懸(イヌカケ)上杉氏憲(禅秀)と争い鎌倉公方足利持氏が憲基を援けたので、1415(応永22)家臣越幡(小幡)の所領没収問題を契機に氏憲は関東管領を辞職、代って憲基が就任。 _1416(応永23)氏憲は持氏の叔父満隆とその養嗣子持仲を奉じて、公方持氏に不満の関東の豪族千葉・岩松・那須・武田氏らを集め反乱(禅秀の乱)。持氏は駿河に逃れ、憲基は鎌倉佐介の家を急襲され極楽寺口から逃れ越後に落ちのびる。幕府が持氏を支援して駿河の今川氏・越後の上杉氏などが出兵。やがて上野・越後の軍勢を率いた弟佐竹義人(義憲)らが鎌倉を回復し、憲基は管領に復する。 うえすぎ はるのり【上杉 治憲】 1751(寛延 4. 7.) 〜 1822(文政 5. 3.11) ◇江戸後期の米沢藩主。号は鷹山(ヨウザン)。日向国高鍋藩主秋月種美の次男、上杉重定(シゲサダ)の養子。 _1760(宝暦10)米沢藩主上杉重定の養子となる。1766(明和 3)元服して従四位下弾正大弼に任じられ、第10代将軍徳川家治の偏諱(ヘンキ)を受けて治憲と称する。 _1767(明和 4)襲封。竹俣当綱(タケマタ・マサツナ)や莅戸善政(ノゾキド・ヨシマサ)を重用して藩の経済を再建。節倹を励行、産業を奨励。学問のため興譲館を、武技修練のため武館を設立。 ◎秋田藩主佐竹義和(ヨシマサ)・白河藩主松平定信とともに江戸時代の名君といわれる。 (2)生年は1751(宝暦1)。(名)幼名直丸,のち勝興と称す。 (4)生年は1746。 (6)生年は1751。 (16)生年は1751(宝暦1. 7/)。幼名は松三郎,のち直松. (*)宝暦元年は10.27から。 うえすぎ ふさあき【上杉 房顕】 1434(永享 6) 〜 1466 ◇室町前期の武将。幼名は四郎、通称は兵部少輔。山内上杉憲実(ノリザネ)の子、上杉憲忠(ノリタダ)の弟。 _関東管領の兄憲忠は、鎌倉公方足利成氏(シゲウジ)と反目し、1454(享徳 3)成氏邸で殺される。兄の跡を継いで房顕が関東管領就任。各地を転戦。武蔵国五十子で陣没。 (*)1466(寛正 7,文正元)。 うえすぎ ふさよし【上杉 房能】 生年不詳 〜 1507(永正 4) ◇室町後期の武将。名は九郎、通称は民部大輔。上杉房定の子、上杉顕定(アキサダ)の弟。上杉定実(サダザネ)の養父。 _1498(明応 7)越後守護職に就任。守護代長尾為景らと反目、1507(永正 4)為景は従兄弟の上条上杉定実を擁立し房能を追放。房能は兄顕定を頼って脱出の途次、越後国東頸城郡松之山で自害。 うえすぎ もちとも【上杉 持朝】 1418(応永25) 〜 1467 ◇室町時代の武将。幼名は竹寿丸のち三郎、通称は弾正少弼・修理大夫、法号は道朝。扇谷(オウギガヤツ)上杉氏定の子、上杉顕房(アキフサ)の兄で養父、上杉持定の弟で養嗣子。 _上杉憲忠の弟房顕を奉じて、1457年、太田道真・道灌父子に命じて武蔵国河越に築城し、足利成氏(古河公方)と戦う。 _扇谷・山内の両上杉家の古老として重んぜられる。 (2)生年は1416(応永23)。(系)上杉(扇谷)氏定の子,兄持定の養嗣子。 (16)生年は1418(応永25)。山内上杉持定の弟,扇谷上杉氏定の養子。 (*)1457(康正 3,長禄元)、1467(文正 2,応仁元)。 うえすぎ もちのり【上杉 茂憲】 1844 〜 1919(大正 8) ◇明治期の沖縄県令。出羽国(山形県)米沢最後の藩主。 _1872(明治 5)ケンブリッジ大学に留学。1882(明治15)第2代沖縄県令。県費留学制度を設け沖縄から東京へ留学生を送る。中央政府に国税の軽減を具申、1883(明治16)件令を解任。奨学金3千円を沖縄に寄付。 _元老院議官。伯爵。 (*)1844(天保15,弘化元)。 うえすぎ もちふさ【上杉 持房】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇室町前期の武将。名は三郎のち持憲、通称は中務少輔、法名は大成常衍。上杉氏憲(ウジノリ)(禅秀)の3男、上杉教朝(ノリトモ)の兄。 _1416(応永23)禅秀の乱の翌年父氏憲は自殺するが、弟教朝とともに京都に逃れ、第4代将軍足利義持(ヨシモチ)の庇護を受ける。1440(永享12)結城合戦では、義持の命で弟教朝とともに東海・東山の兵を率いて関東に下向して下総の結城氏朝(ユウキ・ウジトモ)を攻める。翌年、氏朝の首級を持って上洛。 うえすぎ ようざん【上杉 鷹山】《うへすぎ ようざん》 ⇒上杉治憲 うえすぎ よしのり【上杉 能憲】 1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2) 〜 1378(<南>天授 4,<北>永和 4) ◇南北朝時代の武将。名は三郎、通称は左衛門尉・兵部少輔、法名は道(「言」偏+「煙」-「火」:補助なし)。上杉憲顕(ノリアキ)の子、上杉憲春(ノリハル)・憲方(ノリカタ)の兄。上杉重能(シゲヨシ)の養嗣子。 _1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)高師直(コウノモロナオ)が足利尊氏に迫り養父重能を越前に配流させ、重能は刺客に殺される。能憲は足利直義に属して尊氏・師直らと戦う。1351(<南>正平 6,<北>観応 2)直義軍に播磨で大敗した師直は入道出家して帰洛の途中、能憲により摂津国武庫川で一族15人ともとに謀殺。 _1368〜1370年、上杉朝房(トモフサ)とともに関東管領。 (*)1368(<南>正平23,<北>貞治 7,<北>応安元)、1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>応安 3)。 うえだ あきなり【上田 秋成】《うへだ あきなり》 1734(享保19. 6.25) 〜 1809(文化 6. 6.27) ◇江戸中期の浮世草子・読本作家・国学者・歌人。幼名は仙次郎、通称は東作、号は漁焉(ギョエン)・和訳(ワヤク)太郎・剪枝畸人(センシキジン)・無腸(ムチョウ)・余斎・鶉居(ウズライ)。摂津国曾根崎(ソネザキ)生れ。 _娼家の私生児として生れ、4歳で堂島の紙油商上田家の養子となる。20歳頃より高井几圭に師事し俳諧に遊び、小島重家に勧められて和歌・歌学を修める。賀茂真淵の高弟加藤宇万伎(ウマキ)に国学を学ぶ。 _1770(明和 7)都賀庭鐘に医学を学び、1775(安永 4)大坂で開業。1788(天明 8)医業を廃業。 _晩年は眼をわずらい、窮乏。一人住まいを心配して引き取った羽倉家で死去。 _代表作は『雨月(ウゲツ)物語』など。 ◆秋成忌[旧暦 6.27]。 _墓は京都南禅寺畔の西福寺。 うえだ かずとし【上田 万年(上田 萬年)】《うへだ かずとし》 1867(慶応 3. 1. 7) 〜 1937.10.26(昭和12) ◇明治〜昭和期の言語学者・国語学者。名古屋藩士上田虎之丞・いね子の長男として、江戸大久保の名古屋藩下屋敷で生れる。円地文子(エンチ・フミコ)の実父。 _1885(明治18)帝国大学(現:東大)文学部和漢文学科に入学。1888(明治21)帝国大学文科大学和文学科卒業し、大学院に入学。 _1890. 9.(明治23)ドイツ留学を命ぜられ、1892. 8.(明治25)さらにフランス留学を命ぜられ、1894. 6.(明治27)帰国。同年7月東京大学教授。1901. 6.(明治34)文部省専門学務局長・1902. 4.(明治35)国語調査委員会主任委員を兼任。1912. 3.(明治45)東京帝国大学文科大学学長。 _1919. 6.(大正 8)神宮皇学館長・国学院大学長。 _1908. 3.(明治41)帝国学士院会員・貴族院議員。 _古代日本語のハ行音がP音とする「P音考」を発表。 ◎「国語は国民の精神的血液」と主張。 うえだ けんきち【植田 謙吉】 1875(明治 8) 〜 1962(昭和37) ◇大正・昭和期の陸軍軍人・大将。大阪生れ。 _1939(昭和14)ノモンハン事件で部下の参謀に引きずられ戦闘を拡大し、責任を取らされ事件途中で予備役に編入。 うえだ しげき【上田 茂樹】 1899(明治32) 〜 1932(昭和 7) ◇大正・昭和期の社会運動家。 _1922(大正11)第1次共産党に入党。 _1932(昭和 7)街頭で検挙され、以後消息不明。特高警察によって虐殺されたとされる。 うえだ じゅぞう【上田 寿蔵】 1886. 3.11(明治19) 〜 1968.11.27(昭和43) ◇大正・昭和期の美学者・美術史家。京都大学卒業。京都生れ。 _京都大学助手・講師、1922(大正11)助教授。1925(大正14)欧州に留学。1927(昭和 2)九州大学教授。1929(昭和 4)京都大学教授、1946(昭和21)退職。 (2)没年は1973(昭和48)。 うえだ すすむ【上田 進】 1907.10.24(明治40) 〜 1947. 2.24(昭和22) ◇翻訳家・評論家。本名は尾崎義一。 うえだ せいじ【植田 清次】 1902(明治35) 〜 1963(昭和38) ◇昭和期の哲学者。早稲田大学卒業。兵庫県生れ。 うえだ たもつ【上田 保】 1906. 1.19(明治39) 〜 1973. 4.11(昭和48) ◇評論家・翻訳家。上田敏雄(トシオ)の弟。 うえだ ちょうしゅう【上田 聴秋】 1852(嘉永 5. 2.24) 〜 1932. 1.17(昭和 7) ◇俳人。本名は肇、号は不識庵。 うえだ ていじろう【上田 貞次郎】 1879(明治12) 〜 1940(昭和15) ◇大正・昭和期の経済学者。東京出身。 _1902(明治35)東京高等商業学校(現:一橋大学)卒業。イギリス・ドイツに留学。1905(明治38)母校に奉職、1920(大正 9)母校が東京商科大学となり、1936(昭和11)東京商科大学学長。 _1937(昭和12)学士院会員。 (2)1937(昭和12)学長となる。 (6)36年学長。 うえだ としお【上田 敏雄】 1900. 7.21(明治33) 〜 1982. 3.30(昭和57) ◇詩人。上田保(タモツ)の兄。 うえだ のうふ【上田 農夫】《うへだ のうふ》 1852(嘉永 5) 〜 1895(明治28) ◇明治前期、岩手県の民権活動家。岩手県人。 _「岩手日々新聞」理事。 うえだ ひろし【上田 広】 1905. 6.18(明治38) 〜 1966. 2.27(昭和41) ◇小説家。本名は浜田昇。千葉県生れ。鉄道省教習所機械科卒業。 _国鉄勤務。1937(昭和12)日華事変勃発し七月に応召、中国戦線を転戦しながら小説を執筆、1939(昭和14)帰還。 _太平洋戦争開始後、昭和軍報道班員としてバターン半島攻略に従軍。戦後はわずかしか作品を発表していない。 ◎火野葦平(アシヘイ)・日比野士朗とともにいわゆる「兵隊作家」。 (1)誕生日は 6. 1、本名は浜田昇。 (3)誕生日は 6. 1、本名は浜田昇。 (5)誕生日は 6.18、本名は浜田(「日」冠+「舛」:補助3431〔_〕)(ノボル)。 (8)誕生日は 6.18、本名は浜田昇。 (11)誕生日は 6.18、本名は浜田(「日」冠+「舛」:補助3431〔_〕)。 うえだ びん【上田 敏】《うへだ びん》 1874.10.30(明治 7) 〜 1916. 7. 9(大正 5) ◇欧州文学者・評論家・翻訳家・詩人・小説家。号は柳村。父は乙骨亘(オツコツ・ワタル)。東京市京橋区築地生れ。 _静岡尋常中学、東京英語学校、第一高等中学校を経て、1897. 7.(明治30)東京帝国大学文科大学英文科卒業。 _東京高等師範学校教授・東京帝国大学講師・京都帝国大学教授。尿毒症で死去。 _代表作は訳詩集『海潮音』(1905<明治38>刊)・自伝的小説『うずまき』(1910<明治43>「国民新聞」連載)など。 うえだ ぼく【上田 穆】 1902. 5.16(明治35) 〜 1974. 4. 4(昭和49) ◇歌人。本名は行夫。 うえだ よしえ【植田 義方】 1734(享保19) 〜 1806(文化 3) ◇江戸中期の国学者。賀茂真淵の親戚で門下。 うえの しゅんすけ【上野 俊介】 1912.10. 5(大正元) 〜 1946. 2.22(昭和21) ◇小説家。 うえの たけお【上野 壮夫】 1905. 6. 2(明治38) 〜 1979. 6. 5(昭和54) ◇詩人・小説家。 うえの としのじょう【上野 俊之丞】《うへの としのじよう》 1791(寛政 3) 〜 1852(嘉永 5. 8.17) ◇江戸後期の科学者。名は常足、号は英乗。上野彦馬(ヒコマ)の父。長崎銀屋町の人。 _蘭学を学び、砲術・測量術を修得。焔硝製錬所をつくり、各藩の硝石御用達となる。 _1841(天保12)頃、長崎でオランダ人から日本で初めて写真術を修得。1848(嘉永元)日本で初めてカメラを輸入、薩摩藩主島津斉興に贈る。 ◎俊之丞が薩摩藩主島津斉彬を撮影した銀板写真は、日本人による現存する最古の写真。 (2)生年は1791(寛政 3)、没年は1852(嘉永 5)。 _1841(天保12)写真器を輸入,薩摩藩主島津斉興に贈った。 (4)生年は1790、没年は1851。 (16)生年は1791(寛政 3)、没日は1852(嘉永 5. 8.17)。 _1831(天保 2)年には早くも写真機を輸入して……. うえの なおてる【上野 直昭】 1882.11.11(明治15) 〜 1973. 4.11(昭和48) ◇美学者。 うえの ひこま【上野 彦馬】 1838(天保 9. 8.27) 〜 1904. 5.22(明治37) ◇江戸幕末・明治期の写真家。号は季渓。上野俊之丞(トシノジョウ)の子。肥前国長崎の人。 _15歳で豊後国日田の広瀬淡窓に入門。長崎で通詞名村八右衛門に蘭後を学ぶ。 _オランダ軍医ポンペの舎密試験所に入り化学・写真を学ぶ。堀江鍬次郎とともに蘭書をたよりに湿板写真技術を修得。1860年、江戸に出て、藩主らを撮影。 _1862(文久 2.11.)日本最初の写真館上野撮影局を長崎に開き、坂本竜馬・高杉晋作・伊藤博文などを撮影。1874(明治 7)フランス金星観測隊の依頼を受けて金比羅山で金星の太陽通過の天体写真を撮影。1877(明治10)西南戦争には官軍の写真師として従軍。 ◎1862(文久 2)春、下岡蓮杖(レンジョウ)も横浜で開業。 (*)1860(安政 7,万延元)。 うえの ひでのぶ【上野 英信】 1923. 8. 7(大正12) 〜 1987.11.21(昭和62) ◇作家。本名は鋭之進。山口県生れ。1947(昭和22)京都大学支那文学科卒業。 うえの ようこ【上野 葉子】 1886(明治19) 〜 1927(昭和 2) ◇評論家・小説家。本名は稲葉ちづ。 うえのやま きよつぐ【上野山 清貢】 1889. 6. 9(明治22) 〜 1960. 1. 1(昭和35) ◇画家。素木(シラキ)しづの夫。 うえはら さんせん【上原 三川】 1866(慶応 2. 8. 8) 〜 1907. 6.25(明治40) ◇俳人。名は良三郎。 うえはら びん【上原 敏】《うへはら びん》 1908. 8.26(明治41) 〜 1944. 7.29(昭和19) ◇昭和前期の流行歌手。秋田県大館市大町生れ。 _ヒット曲は『妻恋道中』・『裏町人生』など。 うえはら まさき【上原 真佐喜(二世)】 1903.12.10(明治36) 〜 1996. 5.11(平成 8) ◇山田流箏曲家。本名は林兎喜子(トキコ)。上原真佐喜(初世)の娘、林家の養女。 _1970(昭和45)重要無形文化財保持者に認定。 _1983(昭和58)芸術院会員。 うえはら ゆうさく【上原 勇作】《うへはら ゆうさく》 1856(安政 3.11. 9) 〜 1933.11. 8(昭和 8) ◇陸軍軍人・元帥。山県有朋没後の薩摩の陸軍重鎮。陸軍士官学校旧3期卒業。 _1879(明治12)工兵少尉。1881〜1883(明治14〜明治16)フランスに留学。陸軍士官学校・陸軍大学校の教官。日清戦争では第1軍参謀。日露戦争では第4軍参謀長。戦後、師団長。 _1911. 8.(明治44)第2次西園寺公望(サイオンジ・キンモチ)内閣の陸軍大臣となり、2個師団増設を強硬に主張し単独辞職。内閣は後任の陸軍大臣を得られず、12月総辞職(大正政変の発端)。 _1914(大正 3)教育総監。1915(大正 4)大将。1921(大正10)子爵・元帥。1923(大正12)参謀総長。 (16)1912年第2次西園寺の陸相.(*)第2次西園寺内閣は1911. 8.30組閣、同年12.21に総辞職。 うえはら ろくしろう【上原 六四郎】《えへはら ろくしらう》 1848 〜 1913(大正 2) ◇明治の音楽理論家・尺八家・工作教育者。号は虚洞(キョドウ)。江戸生れ。 _開成学校に学ぶ。 _陸軍士官学校・音楽取調掛・東京音楽学校・高等師範学校などの教官を歴任。 _尺八家二世古童(コドウ)(竹翁)の門人で、尺八の名手。邦楽の音階を研究し、点符式記譜法を創案。 _著書は『俗楽旋律考』。 (*)1848(弘化 5,嘉永元)。 うえまつ ありのぶ【植松 有信】 1758(宝暦 8) 〜 1813(文化10. 6.20) ◇江戸後期の国学者。通称は忠兵衛。尾張名古屋生れ。植松茂岳(シゲオカ)の養父。 うえまつ ひさき【植松 寿樹】 1890. 2.16(明治23) 〜 1964. 3.26(昭和39) ◇歌人。東京生れ。慶応義塾大学理財科卒業。 うえむら しょうえん【上村 松園】《うへむら しようゑん》 1875(明治 8) 〜 1949. 8.27(昭和24) ◇明治〜昭和期の女流日本画家。名は常子。上田松篁(ショウコウ)の母。京都市祇園生れ。京都府画学校卒業。 _1889(明治22)鈴木松年のち幸野楳嶺(コウノ・バイレイ)に師事、楳嶺の没後に竹内栖鳳(セイホウ)に師事、四条派の技法を学ぶ。 _1890(明治23)15歳で第3回内国勧業博覧会で『四季美人図』が一等褒状を受ける。1942(昭和17)芸術院会員。1948(昭和23)女性で初めて文化勲章を受章。 (?)本名は津禰(ツネ)。 ◎鏑木清方(カブラギ・キヨカタ)と並び近代美人画の代表。 うえむら たい【植村 諦】 1903. 8. 6(明治36) 〜 1959. 7. 1(昭和34) ◇昭和期の詩人。本名は諦聞(タイモン)。奈良県吉野生れ。 _1923(大正12)仏教専門学校卒業。小学校教員をしながら詩作。水平社運動に参加して教職を追われる。1935(昭和10)検挙され入獄。 _脳溢血により死去。 (1)生年は1903(明治36)。 (2)生年は1903(明治36)。 (3)生年は1903(明治36)。 (5)生年は1904(明治37)。 (8)生年は1903(明治36)。 (11)生年は1904(明治37)。 (13)生年は1903(明治36)。 うえむら ばいけん【上村 売剣】 1866(慶応 2.11.19) 〜 1946. 5. 7(昭和21) ◇漢詩人。本名は才六、別号は詩命楼主人。 うえむら まさひさ【植村 正久】《うゑむら まさひさ》 1857(安政 4.12. 1) 〜 1925. 1. 8(大正14) ◇明治・大正期のキリスト教牧師・評論家。幼名は道太郎、号・筆名は謙堂・謙堂魚叟・雲井春香・山岐玄・山辺好文・飯田覚士・桔梗生・咀真生。旗本植村祷十郎の長男。上総(カズサ)国武謝田村生れ。 _一時帰農。横浜の神学校ブラウン塾に学び、1873(明治 6)洗礼を受け、東京一致神学校を卒業。 _1880(明治13)下谷一致教会牧師。1887(明治20)東京麹町に一番町教会(のち富士見町教会)を創立。1901〜1902(明治34〜明治35)海老名弾正(エビナ・ダンジョウ)と福音主義の理解をめぐり論争。1904(明治37)日本のキリスト教を外国ミッションから独立するため、東京神学社を創立、校長。 _日露戦争では内村鑑三の非戦論を批判し、自衛戦争を説く(海老名弾正は積極的に肯定)。『旧約聖書』を翻訳。 (1)生年は1857(安政 4)、没日は 1.12。 (2)生年は1858(安政 5)。(生)江戸。 (3)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。 (4)生年は1857。 (5)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。 (6)生年は1858(安政 5)。 (8)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。 (11)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。 (13)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。 (16)生年は1857(安政 4)、没日は 1. 8。東京の人。 うえわき すすむ【上脇 進】 1899.12.23(明治32) 〜 1952. 3.31(昭和37) ◇ロシア文学者。旧姓は木原、母の弟の養子になる。 うおずみ せつろ【魚住 折蘆】 1883. 1.27(明治16) 〜 1910.12. 9(明治43) ◇評論家。本名は影雄。兵庫県生れ。東京大学哲学科卒業。 うがき かずしげ【宇垣 一成】 1868(慶応 4. 6.) 〜 1956. 4.30(昭和31) ◇陸軍軍人・政治家。岡山県出身。陸軍士官学校1期・陸軍大学校卒業。 _参謀本部員・ドイツ駐在武官陸軍省軍務局軍事課長。1913(大正 2)山本権兵衛内閣の軍部大臣現役武官制の廃止に反対し、一時左遷。参謀本部総務部長・教育総監部本部長・陸軍次官を歴任。 _1924(大正13)清浦奎吾(ケイゴ)・同年第1〜2次加藤高明・1926(大正15)第1次若槻礼次郎内閣の陸軍大臣。この間、4個師団を廃止(宇垣軍縮)・軍の近代化に力を入れ、軍部の反感を得る。1927. 4.(昭和 2)朝鮮総督代理。1929(昭和 4)浜口雄幸(オサチ)内閣の陸軍大臣。 _陸軍中堅将校が対米協調外交・ロンドン軍縮会議調印の浜口内閣を倒し、宇垣内閣を出現させようとクーデタを計画するが、1931. 3.(昭和 6)計画不備と宇垣のためらいで未発(三月事件)。民政党の安達謙蔵らが浜口の後に宇垣を総理にしようしていることを知ったためという。ここでも軍部の信望を失い、次の若槻礼次郎内閣では陸軍大臣を南次郎に譲り退役。 _同年6月、朝鮮総督。満州事変では関東軍を支持。朝鮮に軍需工場を育成。1937. 2.(昭和12)広田弘毅(コウキ)内閣総辞職の後、組閣の命を受けるが軍部の反対で失敗、6月近衛文麿(フミマロ)が組閣。1938(昭和13)近衛内閣の外務兼拓務大臣、対中国和平工作に効果を上げられず、興亜院設置に反対し辞職。 _太平洋戦争後、公職追放され、1952(昭和27)解除。1953(昭和28)全国区最高得票数で参議院議員に当選。 うきた いっけい【浮田 一(「艸」冠+「惠」:補助5740〔_〕)】 1795(寛政 7) 〜 1859(安政 6) ◇江戸末期の画家。「宇喜多」とも。名は公信のち可為、通称は内蔵允。京都の人。秀家七世の孫。 _古土佐風の絵を田中訥言(トツゲン)に学ぶ。 _1853(嘉永 6)ペリー来航の際、『神風夷艦を覆す図』を描き、幕府を批判。尊攘派志士としてしばしば朝廷に献策、1858(安政 5)安政の大獄で子の可成とともに捕われ、出獄後まもなく死去。 _『婚怪草紙』では和宮(カズノミヤ)降嫁を狐の嫁入りに託して風刺。 うきた かずたみ【浮田 和民】 1859(安政 6.12.27) 〜 1945(昭和20) ◇明治・大正期の政治学者・歴史家。幼名は栗田亀雄。熊本バンドの一人。 (2)浮田 和民(うきた かずたみ)。1859〜1945(安政 6〜昭和20)。 (8)浮田 和民(うきた かずたみ)、誕生日は1859(安政 6.12.28)、没日は1946.10.28(昭和21)。 (?)浮田 和民(うきた かずみ)。 うきた なおいえ【宇喜多 直家】 1530(享禄 3) 〜 1582(天正10. 1. 9) ◇戦国時代の武将。姓は三宅、通称は和泉守、号は涼雲星友。興家の子、宇喜多能家(ヨシイエ)の孫、宇喜多秀家の父。 _1534(天文 3)祖父能家が浦上宗景(ムネカゲ)に攻められて自殺したとき、父興家とともに備後の鞆に隠れる。 _1543(天文12)旧主浦上氏に仕え、主家のため功を挙げる。1561(永禄 4)主君で宿敵宗景を讃岐に放逐し、備前を制圧。1569(永禄12)毛利氏に対抗、美作を収める。1574(天正 2)毛利氏と結び、宗景と戦う。 _1579(天正 7)羽柴秀吉に降り、毛利氏と抗戦中、備前岡山城で病没。 (2)生年は1529(享禄 2)、没年は1581(天正 9)。 (16)生年は1530(享禄 3)、没年は1582(天正10)。 うきた ひでいえ【宇喜多 秀家】《うきた ひでいへ》 1573 〜 1655(明暦元.11.20) ◇安土桃山時代の武将。「浮田」とも。幼名は八郎、初名は氏家。宇喜多直家(ナオイエ)の子。 _父直家の死後、1582(天正10)対毛利戦に従事する羽柴(豊臣)秀吉の推挙により織田信長から家督を許される。秀吉に養われ、偏諱(ヘンキ)を受けて秀家と改名、美作国を領する。 _1585(天正13)四国攻略に参加、左近衛中将。1586(天正14)九州征討。1587(天正15)参議。1590(天正18)小田原の役。1594(文禄 3)文禄の役に参加、権中納言。1597(慶長 2)五大老に列し、慶長の役の進攻軍を統括。備前岡山城主57万石。 _秀吉の没後、1600(慶長 5)関ヶ原では石田三成らに推されて西軍(大坂方)の謀主、敗れて薩摩に逃れる。1603(慶長 8)島津忠恒・前田両氏の嘆願を得て上洛し、死一等を減ぜられ駿河国久能山に幽閉。1606(慶長11)八丈島に配流され在島49年で死去。 (*)1573(元亀 4,天正元)。 ◎秀家の子孫は、1870(明治 3)内地帰還を許され、前田家をたより開墾中の平尾下屋敷に寄留、秀家の墓を東光寺(板橋区)に安置した。 うきた よしいえ【宇喜多 能家】 生年不詳 〜 1534(天文 3) ◇室町後期の武将。通称は和泉守、号は玄仲常玖。宇喜多久家の子、高秀四世の孫。宇喜田興家の父、直家(ナオイエ)の祖父。 _備前守護代浦上則宗・村宗に仕える。守護職赤松義村と主家浦上氏の争いに活躍し、則宗の信任を得て、備前国砥石城を守る。 _1531(享禄 4)村宗の没後、村宗の子政宗・宗景が争い、宗景に疎んじられて攻められ、自害。 うざき ろじょう【鵜崎 鷺城】 1873.11. 1(明治 6) 〜 1934.10.28(昭和 9) ◇新聞記者・評論家。本名は熊吉。 うさみ さだみつ【宇佐美 定満】 生年不詳 〜 1564(永禄 7) ◇戦国時代の武将。孝忠の子。琵琶島城主・駿河守。 _もと越後国上条上杉氏(柏崎)の重臣で長尾為景(タメカゲ)に抗し上杉氏の再興を図るが失敗。 _のち長尾景虎(カゲトラ)(上杉謙信)に従属。景虎の意を受け、1550(天文19)策をもって魚沼郡(ウオヌマグン)上田坂戸城の長尾政景(マサカゲ)を挙兵させ、1551(天文20)政景の降伏により景虎・政景の連携がなり、政景は景虎の姉を娶る。 _1564(永禄 7)政景と野尻池に舟遊びを催し、舟が転覆して共に水死。 ◎定満・長尾政景の死は、景虎の密命による政景の謀殺ともいわれている。 うさみ しんすい【宇佐美 (「潛」の「日」を「鬲」に替える:補助4127〔_〕)水】 1710(宝永 7. 1.23) 〜 1776(安永 5. 8. 9) ◇江戸中期の儒学者(古学派)。名は恵、字は子迪(シテキ)、通称は恵助。上総(カズサ)国夷隅郡の豪農の子。 _17歳で江戸に出て、荻生徂徠(オギュウ・ソライ)に師事。師の没後は板倉帆丘・太宰春台・服部南郭らについて経学を学ぶ。一時、片山兼山(ケンザン)を養子にする。のち出雲松平氏の松江藩儒となり藩政に関与。 うさみ まこと【宇佐美 洵】 1901(明治34) 〜 1983(昭和58) ◇昭和期の財界人。慶応義塾大学卒業。山形県生れ。 _三菱銀行に入り、1950(昭和25)取締役、1961(昭和36)頭取。 _1964〜1969(昭和39〜昭和44)日本銀行総裁。 _日本私学振興財団会長。 うざわ してい【鵜沢 四丁】 1869(明治 2. 2. 9) 〜 1944. 1. 1(昭和19) ◇俳人。本名は芳松。 うしお みどり【潮 みどり】 1897. 6.12(明治30) 〜 1927.10.13(昭和 2) ◇歌人。本名は桐子、旧姓は太田。長谷川銀作の妻、若山喜志子(キシコ)の妹、若山牧水の義妹。 うしおだ たかのり【潮田 高教】 1669(寛文 9) 〜 1703(元禄16. 2. 4) ◇江戸中期の赤穂浪士。譜代の赤穂藩士、郡奉行・国絵図奉行、禄高200石。通称は又之丞(マタノジョウ)、戒名は刃窓空剣信士。妻「ゆう」は大石内蔵助(クラノスケ)良雄の叔父小山源五右衛門(ゲンゴエモン)の娘。 _討ち入りでは裏門隊。本懐を遂げて泉岳寺に引き揚げるとき、吉良上野介(コウズケノスケ)義央の首級を槍の先に掲げ持つ。江戸高輪の細川家に預けられ、翌年、一宮源四郎の介錯(カイシャク)で切腹。 うしおだ またのじょう【潮田 又之丞】 ⇒潮田高教 うじはら だいさく【氏原 大作】 1905. 3.20(明治38) 〜 1956.12.31(昭和31) ◇児童文学者。本名は阜(トオル)。 うすい きのすけ【臼井 喜之介】 1913. 4.15(大正 2) 〜 1974. 2.22(昭和49) ◇詩人。本名は喜之助。 うすい たいよく【臼井 大翼】 1885. 2.28(明治18) 〜 1947. 4.23(昭和22) ◇歌人。旧姓は千松。千葉県海上郡浦賀村生れ。1913(大正 2)東京大学法科卒業。1942(昭和17)日本縫糸統制会社社長。 (13)臼井 大翼(うすい だいよく)。誕生日は 2.18。 うすい よしみ【臼井 吉見】 1905. 6.17(明治38) 〜 1987. 7.12(昭和62) ◇文芸評論家。長野県南安曇(ミナミアズミ)郡三田村、現在の堀金村生れ。松本高等学校を経て、1929(昭和 4)東京大学国文科卒業。 うすいのさだみつ【碓井 貞光】《うすゐのさだみつ》 955(天暦 9) 〜 1021 ◇平安中期の武人。源頼光の四天王の一。 (4)生年は 954(天暦 8)。 (*)1021(寛仁 5,治安元) うすだ あろう【臼田 亜浪】 1879. 2. 1(明治12) 〜 1951.11.11(昭和26) ◇大正・昭和期の俳人。本名は卯一郎(ウイチロウ)、旧号は石楠花(シャクナゲ)・石楠堂書屋人・北山南水楼。その居を石楠書屋と称する。長野県北佐久郡小諸町生れ。 _工手学校、明治法律学校(現:明治大学)、和仏法律学校などに苦学して学び、1904(明治37)法政大学を卒業。1915(大正 4)大須賀乙字(オオスガ・オツジ)と俳誌「石楠」を創刊、主宰。 (13)没日は10.23。 うすだ ざんうん【薄田 斬雲】 1877. 1.27(明治10) 〜 1956. 3.27(昭和31) ◇小説家・ジャーナリスト。本名は貞敬。 うだ てんのう【宇多 天皇】《うだ てんわう》 867(貞観 9. 5.) 〜 931(承平元. 7.19) ◇第59代天皇。名は定省(サダミ)、号は亭子院(テイジノイン)、諡は宇多院。第58代光孝天皇の第7皇子、母は皇后班子。是忠親王・是貞親王の弟。敦仁皇子(第60代醍醐天皇)・敦実(アツミ)親王の父。 _ 884(元慶 8)源朝臣の姓を賜る。 887(仁和 3. 8.)父光孝天皇が急病死し、関白藤原基経(モトツネ)の推薦により、即日親王に任じられ皇太子となり、11月即位。即位の直後、基経への詔書に用いられた「阿衡(アコウ)の任」の理解で紛議、天皇が詔勅を直し(阿衡の紛議)、実権は藤原氏にあった。基経の娘温子が入内。 _ 890(寛平 2.12.14)基経の関白退位後、摂政・関白を置かず、 891(寛平 3)基経の没後、藤原氏の専権を抑えて親政を図り、菅原道真(ミチザネ)・平季長らを起用、政治の刷新に努める(寛平の治)。 _ 897(寛平 9)醍醐(ダイゴ)天皇に譲位後、 899(昌泰 2)仁和寺(ニンナジ)で出家し、初めて法皇の称を用い寛平法皇という。 _やがて基経の子藤原時平(トキヒラ)が権力を握り、 902(延喜 2. 1.)道真を大宰権師に左遷。 904(延喜 4)仁和寺に移り亭子院と称する。 _ 909(延喜 9)時平が没し、弟藤原忠平(タダヒラ)と醍醐天皇・宇多法皇の三者一体の政治を行う(延喜の治)。 _即位: 887(仁和 3.11.17)、退位: 897(寛平 9. 7. 3)。 ◎第1皇子(第60代醍醐天皇)が即位の際、宇多法皇が与えた訓戒を『寛平御遺誡(カンピョウノゴユイカイ)』という。 _宇多天皇の第9皇子敦実親王を祖とする源氏を宇多源氏と呼ぶ。 (2)光孝天皇の皇子,母は班子女王。(名)……空理・金剛覚。 _「斑子女王(ハンシ・ニョオウ)」の項:光孝天皇の女御。 (4)光孝天皇の第一七皇子。 (6)光孝天皇の第7皇子。 (16)光孝天皇の第7子。法名を空現金剛覚…….母は皇后班子. うだか しんいち【宇高 伸一】 1886. 6.25(明治19) 〜 1943. 3.10(昭和18) ◇小説家。本名は信一、旧姓は佐藤。 うたがわ くにさだ【歌川 国貞】《うたがは くにさだ》 1786(天明 6) 〜 1864 ◇江戸末期の浮世絵師。名は角田庄蔵、号は一雄斎・五渡亭・一陽斎豊国二世。 _[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)に浮世絵を学び、国貞と称する。1844年、豊国を襲名。 _猪首・猫背の独特な姿態で描く。 ◎豊国二世と自称したが実は三世であった。 (*)1844(天保15,弘化元)、1864(文久 4,元治元)。 うたがわ くになお【歌川 国直】 1793(寛政 5) 〜 1854 ◇江戸後期の浮世絵師。俗称は吉川鯛蔵、号は一斎・一楊斎・浮世庵。信濃の人。 _[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。役者絵・美人画の禁止で風景画を描く。 (*)1854(嘉永 7,安政元)。 [1]うたがわ くにひさ【歌川 国久(初世)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇江戸後期の浮世絵師。 _[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。 [2]うたがわ くにひさ【歌川 国久(二世)】 ◇明治期の浮世絵師。本姓は勝田久太郎、号は陽斎・一雲斎・ 〜 立蝶楼。 うたがわ くにまさ【歌川 国政】 1773(安永 2) 〜 1810(文化 7) ◇江戸後期の浮世絵師。俗称は佐藤甚助、号は一寿斎。会津の人。 _初め紺屋の職人。[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)に認められ、入門。 うたがわ くにまつ【歌川 国松】 1855(安政 2) 〜 1944(昭和19) ◇浮世絵師。初名は一龍斎豊重のち福動国松、晩年は玩舟と号す。明治初期の風俗画・錦絵や新聞挿絵などを描く。 うたがわ くによし【歌川 国芳】 1797(寛政 9) 〜 1861(文久元. 3. 5) ◇江戸末期の浮世絵師。本名は井草孫三郎、通称は孫三郎、号は一勇斎・朝桜楼・採芳舎。「武者絵の国芳」と呼ばれる。京染屋柳屋吉右衛門の子、井草家の嗣子。 _[1]歌川(一陽斎)豊国(初世)の門人。 _光や風を感じさせる洋風表現を取り入れた。 (2)(生)江戸日本橋本銀町1丁目。 (6)江戸神田の生まれ。 (16)江戸神田の京染屋に生まれ……. _代表作「東京名所・するが台」:『東都名所』の誤。 うだがわ げんしん【宇田川 玄真】《うだがは げんしん》 ⇒宇田川榛斎 うだがわ げんずい【宇田川 玄随】《うだがは げんずい》 1755(宝暦 5) 〜 1797(寛政 9.12.18) ◇江戸中期の蘭医。名は晋、字は明卿、号は槐園(カイエン)・東海。美作国津山藩医宇田川道記の長男。江戸生れ。 _玄随が幼少のため弟子潜が養子となり、玄随はその養子となる。25歳のとき桂川甫周(カツラガワ・ホシュウ)ついで杉田玄白・前野良沢(リョウタク)らに蘭方医学を学ぶ。 _甫周の勧めでオランダの Jchannes de Gorterの内科書の翻訳のため白河藩士石井恒右衛門に蘭語を学び、苦心の末、1793(寛政 5)『西説内科選要』を刊行。 _死後、宇田川榛斎(シンサイ)(玄真)が跡を継ぐ。 (2)没年は1797(寛政 9)。 (4)没年は1797。 (6)没年は1797/98。 (16)没日は1797(寛政 9.12.18)。 うだがわ しんさい【宇田川 榛斎】《うだがは しんさい》 1769(明和 6) 〜 1834(天保 5.12. 4) ◇江戸後期の蘭医。名は(「王」偏+「燐」-「火」:補助4453〔_〕)、字は玄真(ゲンシン)、号は榛斎。安岡四郎右衛門の子、宇田川榕庵(ヨウアン)の養父。伊勢の人。 _江戸に出て宇田川玄随(ゲンズイ)・大槻玄沢に蘭学を学ぶ。玄沢の推挙で杉田玄白の養子となるが、放蕩のため離縁。 _1797(寛政 9)玄随の没後、迎えられて跡を継ぐ。1813(文化10)幕府天文台の訳員となりショメールの百科全書を訳出。養父玄随の『西説内科選要』を増訂。 (2)生年は1769(明和 6)、没年は1834(天保 5)。 (4)生年は1769、没年は1834。 (6)生年は1769、没年は1834/35。 (16)生年は1768(明和 5)、没日は1834(天保 5.12/ 4)。 [1]うたがわ とよくに【歌川 豊国(初世)】《うたがは とよくに》 1769(明和 6) 〜 1825. 2.24(文政 8. 1. 7) ◇江戸末期の浮世絵師。本名は倉橋熊吉(クラハシ・クマキチ)、号は一陽斎。江戸芝明神前の木彫人形師の子。 _歌川豊春(トヨハル)に学ぶ。初め美人画を、のち役者絵を描く。芝居絵の豊国、美人画の豊広として知られる。 _山東京伝・式亭三馬・滝沢馬琴の挿絵も多い。 [2]うたがわ とよくに【歌川 豊国(二世)】《うたがは とよくに》 1777(安永 6) 〜 1835(天保 6) ◇浮世絵師。初名は豊重、号は一竜斎。[1]初世歌川豊国の養子。 [3]うたがわ とよくに【歌川 豊国(二世,三世)】《うたがは とよくに》 ⇒歌川国貞 うたがわ とよはる【歌川 豊春】《うたがは とよはる》 1735(享保20) 〜 1814(文化11. 1.12) ◇江戸中期・末期の浮世絵師。名は昌樹、俗称は但馬屋庄次郎のち新右衛門、号は一竜斎。生国は但馬国豊岡とも豊後国臼杵ともいう。歌川派の祖。 _京都で狩野派の宮廷御用絵師鶴沢探鯨(タンゲイ)に学び、江戸に出て鳥山石燕に師事。江戸芝宇田川町に住み、歌川姓を名乗る。 _中国の版画や洋書の挿絵から透視遠近法を学んだ風景画「浮絵(ウキエ)」を得意とする。 うたがわ とよひろ【歌川 豊広】《うたがは とよひろ》 1773(安永 2) 〜 1828(文政11) ◇江戸後期の浮世絵師。俗称は岡島藤次郎、号は一柳斎。 _歌川豊春の門人で、芝居絵の豊国、美人画の豊広として知られる。 うたがわ ひろしげ【歌川 広重(初代)】《うたがは ひろしげ》 ⇒安藤広重 うたがわ ひろしげ【歌川 広重(3代)】《うたがは ひろしげ》 1842(天保13) 〜 1894(明治27) ◇明治前期の錦絵師。 _2代広重が去ったのち、初代広重の養女の入婿となり、事実上3代目となる。 うだがわ ぶんかい【宇田川 文海】《うだがは ぶんかい》 1848(嘉永元. 2.24) 〜 1930. 1. 6(昭和 5) ◇小説家・新聞記者。別名は鳥山棄三(ステゾウ)・鳥山捨三、別号は金蘭・除々庵(ジョジョアン)主人・半痴。鳥山は母方の姓。江戸本郷の道具屋伊勢屋(イセヤ)市兵衛の三男に生れる。 (2)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。(名)鳥山捨蔵,号を半痴居士。 (5)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。 (11)宇田川 文海(うたがわ ぶんかい)。 (13)宇田川 文海(うだがわ ぶんかい)。 うだがわ ようあん【宇田川 榕庵】《うだがは ようあん》 1798(寛政10) 〜 1846(弘化 3. 6.22) ◇江戸幕末の蘭医。名は榕。美濃国大垣藩医江沢養樹の子、宇田川榛斎(シンサイ)の養子。飯沼慾斎(ヨクサイ)の子興斎の養父。美作国津山藩医。 _馬場佐十郎に蘭学を学ぶ。江戸参府のシーボルトに西洋学術について質疑する。1826(文政 9)幕府天文台で蘭書(ショメールの百科全書)を翻訳に参加。シーボルトから譲られた植物書を独力で判読し、1833(天保 4)『植学啓原』を著す。1837(天保 8)蘭書に基づいて日本最初の化学書『舎密開宗(セイミカイソウ)』を著す。 (2)「宇田川榛斎」の項に「大垣藩医の子江沢榕菴を養子とした。」とある。 うちがさき さくさぶろう【内ヶ崎 作三郎】 1877. 4. 3(明治10) 〜 1947. 2. 4(昭和22) ◇評論家・政治家。 うちこ ないしんのう【有智子 内親王】《うちこ ないしんわう》 807(大同 2) 〜 847(承和14) ◇平安前期の漢詩人・嵯峨(サガ)天皇の皇女。 _ 810(弘仁元)嵯峨天皇の即位の際、最初の賀茂斎院となり、 831(天長 8)退居。 _漢詩文に堪能で、「本朝女中無双之秀才」といわれる。 _作品は『後日本後紀』・『経国集』に所収され、春日山荘の詩が有名。 うちだ いわお【内田 巌】 1900. 2.15(明治33) 〜 1953. 7.17(昭和28) ◇画家。内田魯庵(ロアン)の長男。 うちだ えんこ【内田 遠湖】 1854(安政元.11. 7) 〜 1944.12.23(昭和19) ◇儒学者。本名は周平、字は仲準、別号は遠湖釣者・帆影子。 うちだ ぎんぞう【内田 銀蔵】《うちだ ぎんざう》 1872(明治 5. 1.25) 〜 1919. 7.22(大正 8) ◇明治・大正期の経済史学者。東京の出身。東京大学国史科卒業。 _1902(明治35)文学博士。1903〜1906(明治36〜明治39)英仏独に留学。帰国後、京都大学教授。 _国史学に史料考証による西洋史学の方法を取り入れる。 (2)1899(明治32)東大講師,日本経済史を講ず。 (16)1896(明治29)東大講師としてわが国ではじめて日本経済史の講義を担当……。 うちだ こうさい【内田 康哉】《うちだ かうさい》 1865(慶応元. 8.) 〜 1936. 3.12(昭和11) ◇明治〜昭和初期の外交官・政治家。熊本藩士松井玄真の子。東京大学法科卒業。 _外務省に入り、米・英在勤、のち中国公使館一等書記官。第4次伊藤博文内閣の外務次官。中国公使ついでオーストリア大使兼スイス公使・アメリカ大使。 _1911(明治44)第2次西園寺公望(キンモチ)内閣の外務大臣となり、日米条約改正の任に当る。ロシア大使に赴任しロシア革命に遭遇。1918(大正 7)原敬(タカシ)・1921(大正10)高橋是清(コレキヨ)・1922(大正11)加藤友三郎内閣の外務大臣、加藤の死去後臨時首相。1925(大正14)枢密顧問官、パリ不戦条約に全権として調印し、その批准をめぐり違憲問題となり、1929(昭和 4)引責辞任。1930(昭和 5)勅選貴族院議員。1931(昭和 6)南満州鉄道総裁となり、満州事変勃発後は関東軍に協力。1932(昭和 7)斎藤実(マコト)内閣の外務大臣となり、「日本は焦土と化すとも満州を守る」と演説し満州国承認・国際連盟脱退など、「焦土外交」と評される強硬外交をとる。 うちだ せいのすけ【内田 清之助】 1884.12. 1(明治17) 〜 1975. 4.28(昭和50) ◇明治〜昭和期の鳥類学者・随筆家。東京生れ。東京大学卒業。 _東京大学講師・農林省林野局鳥獣調査室長・日本鳥類学会名誉会長・日本動物園協会顧問。 うちだ でんいち【内田 伝一】 1896.11. 1(明治29) 〜 没年不詳 ◇フランス文学者。 うちだ とむ【内田 吐夢】 1898. 4.26(明治31) 〜 1970. 8. 7(昭和45) ◇大正・昭和期の映画監督。本名は常次郎。岡山市生れ。 _中学校卒業後、俳優として大正活映に入る。のち日活監督。1945(昭和20)満州映画に入る。 _太平洋戦争後、中華人民共和国の映画製作に協力し、1953(昭和28)帰国。のち東映で活躍。 うちだ ひゃっけん【内田 百間(間:「門」構+「月」:補助なし)】 1889. 5.29(明治22) 〜 1971. 4.20(昭和46) ◇明治〜昭和期の小説家・随筆家。本名は栄造、別号は百鬼園(ヒャッキエン)・流石・廬橘子。岡山県古京町(フルギョウチョウ)に酒造家の一人息子として生れる。 _岡山第一中学校・第六高等学校を経て、1914(大正 3)東京大学独文科卒業。 _夏目漱石に師事。 _作品は1922(大正11)短編集『冥途』など。 ◆百間忌(百鬼園忌・木蓮忌)[ 4.20]。百鬼園は「借金」の語呂合せ、木蓮は東京中野区金剛寺の句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」から。 (2)(生)岡山県。 (6)岡山市生まれ。 うちだ ぼじょう【内田 暮情】 1881. 8.(明治14) 〜 1945. 9.(昭和20) ◇陸軍軍医・俳人。本名は璞。終戦後大連で客死。 うちだ まこと【内田 誠】 1893. 3.10(明治26) 〜 1955. 8.13(昭和30) ◇随筆家。俳号は水中亭東京。 うちだ りょうへい【内田 良平】《うちだ りやうへい》 1874(明治 7) 〜 1937(昭和12) ◇明治〜昭和期の右翼愛国運動家。玄洋社の元老内田良五郎の子、平岡浩太郎の甥。福岡県の人。 _国家主義的な右翼団体の玄洋社に学ぶ。1894(明治27)東学党応援ため天佑侠に参加し朝鮮に渡る。日露戦争後の三国干渉に憤慨し、ウラジオストクに渡りシベリアを横断。1898(明治31)宮崎滔天(トウテン)の紹介で孫文に会う。1901(明治34)玄洋社の幹部頭山満(トウヤマ・ミツル)を顧問として黒龍会を創立。1903(明治36)対露同志会に参加。1905(明治38)孫文・黄興らの中国革命同盟会の結成を斡旋。日韓併合の裏面に活躍。合併後、小川平吉・宮崎滔天らと有隣会を組織。1925(大正14)加藤高明首相の暗殺未遂事件で入獄。1931(昭和 6)黒龍会大阪支部を中心に大日本生産党を組織、総裁となり満蒙独立運動を推進。 (2)玄洋社幹部内田良五郎の3男……。 (6)玄洋社の元老内田良五郎の二男。 うちだ ろあん【内田 魯庵】 1868(慶応 4.閏4. 5) 〜 1929. 6.29(昭和 4) ◇明治期の評論家・翻訳家・小説家・随筆家。本名は貢、幼名は貢太郎、号は不知庵(フチアン)・藤阿弥(トウアミ)・三文字舎金平(サンモンジヤキンピラ)・三文字屋金平・柏木衛門。江戸下谷(シタヤ)車坂(クルマザカ)六軒町(ロッケンチョウ)生れ。内田巌(イワオ)の父。伯母は井上勤(ツトム)の妻。 _東京専門学校英語部・東京大学予備門など、いづれも中退。 _『女学雑誌』・『国民之友』などで文芸評論に活躍。 _ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『復活』・『イワンの馬鹿』などを翻訳し、日本に紹介。 _1901(明治34)丸善に入る。 (1)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名は貢。 (2)生年は1868(明治1)。(名)本名貢。 (3)誕生日は1868(慶応 4. 4. 5)。 (4)生年は1868。名は貢。 (5)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。 (6)生年は1868。本名貢(ミツグ)。 (8)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名は貢(ミツギ)。 (11)誕生日は1868(慶応 4.閏4. 5)。本名内田貢(ミツギ)。 (16)誕生日は1868(明治1. 4/ 5)。本名は貢,……. うちむら かんぞう【内村 鑑三】《うちむら かんざう》 1861(万延 2. 2.13) 〜 1930. 3.28(昭和 5) ◇明治〜昭和初期の宗教家(キリスト教)・評論家。上野国高崎の藩士内村金之丞の子として江戸小石川の江戸邸(ヤシキ)に生れる。 _札幌農学校(現:北海道大学)入学。在学中にクラーク(William Smith Clark)の感化でキリスト教に入信。1881(明治14)卒業。 _1882(明治15)札幌独立基督教会を創設。1884(明治17)渡米しアマースト大学に入学、1887(明治20)卒業、さらにハートフォード神学校に学び、1888(明治21)帰国。 _1891(明治24)信仰上の立場から教育勅語に対する敬礼を拒否(不敬事件)、第一高等中学校講師の職を追われ、以来著述に専念。 _1897(明治30)万朝報社に招かれ「万朝報」英文欄記者。1898(明治31)「東京独立雑誌」を創刊。1901(明治34)足尾銅山鉱毒事件では「鉱毒地巡礼記」を連載し社会正義を主張。1903(明治36)日露戦争では自衛戦争を説く植村正久に対し、非戦論を唱え幸徳秋水(コウトク・シュウスイ)・堺利彦らとともに万朝報社を退社。 _1900〜1930(明治33〜昭和 5)月刊誌「聖書之研究」を創刊、教会的キリスト教に対して聖書に基づく無教会主義を唱える。 _著書1893(明治26)『基督信徒の慰め』・1893(明治26)『求安録』・1895(明治28)英文『余は如何にして基督信徒となりし乎(How I become a Christian)』など。 ◎日本(Japan)とイエス(Jesus)の「二つのJ」に仕えることを念願とする。 ◎門弟は塚本虎二・矢内原忠雄(ヤナイハラ・タダオ)など。 うちむら なおや【内村 直也】 1909(明治42) 〜 1989. 7.29(平成元) ◇劇作家。 うちやま かんぞう【内山 完造】《うちやま くわんざう》 1885. 1.11(明治18) 〜 1959. 9.20(昭和34) ◇文筆家・書店主。 _1917(大正 6)上海の日本人租界地である虹口に書店を開く。 (3)大正六〜二二、上海で内山書店を経営。「二二」は昭和か(?)。 (8)大正六年上海に書店を開き敗戦まで経営。 うちやま けんじ【内山 賢次】 1889. 9.20(明治22) 〜 1972.12.28(昭和47) ◇翻訳家。 うつの けん【宇都野 研】 1877.11.14(明治10) 〜 1938. 4. 3(昭和13) ◇医者・歌人。本名は研(キワム)。愛知県生れ。東京大学医科卒業。小児科病院を経営。 うつのみや うじつな【宇都宮 氏綱】 1326 〜 1370 ◇南北朝時代の武将。宇都宮公綱(キンツナ)の長男。 (*)1326(正中 3,嘉暦元)、1370(<南>正平25,<南>建徳元,<北>応安 3)。 うつのみや かげつな【宇都宮 景綱】 1235 〜 1298(永仁 6) ◇鎌倉後期の武将。宇都宮泰綱の子、母は平朝時の娘。 (*)1235(文暦 2,嘉禎元)。 うつのみや きんつな【宇都宮 公綱】 1301(正安 3) 〜 1356 ◇南北朝時代の武将。宇都宮貞綱の子、宇都宮氏綱の父。 (2)「うつのみや きみつな」。 (16)「うつのみやきんつな」。 (*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。 うつのみや くにつな【宇都宮 国綱】 1568(永禄11) 〜 1607(慶長12) ◇安土桃山時代の武将。宇都宮広綱の子、母は佐竹義昭の娘。 うつのみや たかふさ【宇都宮 隆房】 1329 〜 1359(<南>正平14,<北>延文 4) ◇南北朝時代の武将。宇都宮頼房の子。 (*)1329(嘉暦 4,元徳元)。 うつのみや のぶふさ【宇都宮 信房】 1116(永久 4) 〜 1195(建久 6) ◇平安末期・鎌倉前期の武将。宇都宮宗房の子。 うつのみや よりつな【宇都宮 頼綱】 1172(承安 2) 〜 1259 ◇鎌倉前期・中期の武将・歌人。宇都宮成綱の子。北条時政の娘婿。小山政光の養子。 (*)1259(正嘉 3,正元元)。 うつみ げつじょう【内海 月杖】 1872(明治 5. 3.27) 〜 1935.12. 5(昭和10) ◇国文学者・歌人。本名は弘蔵(コウゾウ)。神奈川県大山町生れ。1898(明治31)東京帝国大学国文科卒業。1911(明治44)明治大学に野球部を創設。 (5)誕生日は 3.27、没日は12. 5。 (8)誕生日は 3.23、没日は12. 7。 (11)誕生日は 3.27、没日は12. 5。 うつみ ほうまつ【内海 泡沫】 1884. 8.30(明治17) 〜 1968. 6.14(昭和43) ◇詩人。本名は信之。 うてい えんば【烏亭 焉馬】 1743(寛保 3) 〜 1822(文政 5) ◇江戸後期の狂歌師・戯作者。本名は中村英祝、通称は和泉屋和助、別号は立川焉馬・談洲楼。 _江戸本所の大工棟梁。 _歌舞伎に造詣が深く、また落咄(オトシバナシ)を自作自演し、落語中興の祖といわれる。 _著書は『花江都歌舞妓年代記』・洒落本『客者評判記』・浄瑠璃『碁太平記白石噺』など。 (4)本名、中村利貞。 (25)本名、中村英祝。 うどの しねい【鵜殿 士寧】 1710(宝永 7) 〜 1774(安永 3.10.22) ◇江戸中期の漢学(古学)者。名は孟一、字は子寧、通称は左膳、号は本荘。江戸生れ。 _旗本両御番の御小姓組、千石。初め朱子学を学び、荻生徂徠(ソライ)の説を慕い服部南郭(ナンカク)に古文辞学・修辞学を修める。 (2)邸が本荘(本所)にあったので人呼んで本荘先生。 うながみ ずいおう【海上 随鴎(鴎:「區」偏+「鳥」:補助7631〔_〕)】 ⇒稲村三伯 うながみ たねひら【海上 胤平】 1829(文政12.12.30) 〜 1916. 3.29(大正 5) ◇歌人。通称は六郎、号は椎園(シイゾノ)。下総(シモウサ)国海上郡三上村生れ。 _剣道を千葉周作に学んで諸国武者修業に出、和歌山にとどまって加納諸平(モロヒラ)について国学を修める。 _明治維新後は山形地方裁判所判事補。御歌所寄人。 (16)没日は 4. 2。 うの えんくう【宇野 円空】《うの ゑんくう》 1885(明治18) 〜 1949(昭和24) ◇大正・昭和期の宗教学者。京都の人。 _1910(明治43)東京大学を卒業後、京都大学で宗教学を学ぶ。東京大学文学部講師・助教授・教授。 うの こうじ【宇野 浩二】《うの かうじ》 1891. 7.26(明治24) 〜 1961. 9.21(昭和36) ◇小説家。本名は格次郎。福岡市湊町生れ。幼く父を失い少年時代を大阪市で送る。早稲田大学英文科を中退。 _初め童話や少女小説を書く。 _作品は1919(大正 8)『蔵の中』・評伝『芥川龍之介』など。 ◆宇野浩二忌[ 9.21]。 うの こうぞう【宇野 弘蔵】《うの こうざう》 1899(明治32) 〜 1977(昭和52) ◇昭和期の経済学者。岡山県生れ。 _東京大学教授。 うの しろう【宇野 四郎】 1893. 4.12(明治26) 〜 1931. 2.10(昭和 6) ◇演出家・小説家・劇作家。筆名は伊豆四郎・坂下一六。 うの めいか【宇野 明霞】 1698(元禄11. 5.20) 〜 1745(延享 2. 4.17) ◇江戸中期の漢学(古学)者。名は鼎、字は士新、通称は三平、号は明霞。父宇野安治の子、宇野士朗の兄。京の人。 _父の運漕業を継がず、弟とともに荻生徂徠の学に没頭。のち向井滄洲・大潮禅師(元皓)に師事。弟は徂徠に師事。 _一生妻妾をおかず、諸侯の招きにも応じなかった。 うぶかた としろう【生方 敏郎】 1882. 8.24(明治15) 〜 1969. 8. 6(昭和44) ◇随筆家・評論家。群馬県利根郡沼田町生れ。明治学院普通部から早稲田大学英文科に入学、1906(明治39)卒業。 (13)誕生日は 7.24。 うまやどのおうじ【厩戸 皇子(廐戸 皇子)】《うまやどのわうじ》 ⇒聖徳太子 うめ けんじろう【梅 謙次郎】《うめ げんじらう》 1860(万延元. 6. 7) 〜 1910. 8.26(明治43) ◇明治時代の法学者。松江藩(島根県)出身。 _東京外国語学校(現:東京外国語大学)・司法省法律学校に学ぶ。1884〜1890(明治17〜明治23)文部省から派遣されてリヨン大学・ベルリン大学に留学。帰国後、東京大学教授となり没するまで在任。法制局長官・内閣恩給局長・文部省総務長官・和仏法律学校(現:法政大学)総理などを歴任。旧民法公布にあたりボアソナード案を支持し即時施行を主張、穂積八束(ホヅミ・ヤツカ)らと民法典論争を展開する。1905(明治38)法典調査委員となり、民法は穂積陳重(ノブシゲ)・富井政章と、商法は田部芳・岡野敬次郎と起草に携わり、明治立法史上に大きな功績を残す。1906(明治39)韓国総督府の法律顧問となり、京城<ソウル>で病死。 (2)1885〜1890(明治18〜明治23)仏・独に留学。 (16)1884〜1890(明治17〜明治23)文部省から派遣されて,……。 [1]うめがたに とうたろう【梅ヶ谷 藤太郎(初代)】《うめがたに とうたらう》 1845(弘化 2) 〜 1928(昭和 3) ◇明治期の力士。本名は小江藤太郎。[2]梅ヶ谷藤太郎(二代)の養父。紙梳業小江藤右衛門の次男。筑前国(福岡県)朝倉郡杷木(ハギ)町梅ヶ谷の人。 _1866(慶応 2. 1.)入幕。1863(文久 3)大坂で初土俵。1870(明治 3)大関。 _同年12月上京して玉垣部屋に入門。1874(明治 7)入幕。1883(明治16)春場所、大関。1884. 2.(明治17)横綱。 _1885(明治18)引退、年寄雷(イカヅチ)権太夫を名乗る。1889(明治22)大日本相撲協会の設立とともに取締役。1909(明治42)両国国技館を建設。 (2)生年は1845(弘化 2)。15代横綱。 (4)生年は1841。横綱第一二世。 (6)生年は1845。1884年15代横綱。 [2]うめがたに とうたろう【梅ヶ谷 藤太郎(二代)】《うめがたに とうたらう》 1878(明治11) 〜 1927(昭和 2) ◇明治・大正期の力士。本名は押田音松。売菓業押田喜平の4男。[1]梅ヶ谷藤太郎(初代)の養子。富山の出身。 _1891(明治24)雷(初代梅ヶ谷)の養子となり入門。1892(明治25)夏場所で初土俵。1898(明治31)入幕。1902(明治35)梅ヶ谷を襲名。1903(明治36)常陸山とともに第20代横綱。 _1915(大正 4)夏場所後、引退。 (2)20代横綱。'03横綱となる。 (4)横綱第一七世。明治三七年横綱。 (6)1903年常陸(ヒタチ)山とともに20代横綱となり……。 うめざき はるお【梅崎 春生】 1915. 2.15(大正 4) 〜 1965. 7.19(昭和40) ◇昭和後期の小説家。福岡市簀子町生れ。小説家梅崎光生(ミツオ)の実弟。 _1939(昭和14)処女作『風宴』を発表後、戦後まで召集。 _1940(昭和15)東京大学国文科卒業。 うめざわ わけん【梅沢 和軒】 1871(明治 4. 9.16) 〜 1931. 1. 4(昭和 6) ◇国文学者・美術評論家。本名は精一。 うめだ うんぴん【梅田 雲浜】 1815(文化12. 6. 7) 〜 1859(安政 6. 9.14) ◇江戸幕末の志士・儒者(朱子学派)。名は定明(サダアキラ)、初名は義賢、通称は源次郎、号は雲浜・湖南・東塢。若狭国小浜藩士矢部岩十郎義比(ヨシチカ)の次子、祖父の生家梅田を継ぐ。 _藩校順造館で学び、のち同藩の儒者山口管山に崎門(山崎闇斎)学を修める。のち近江国大津の上原立斎に学び、大津に湖南塾を開く。1843(天保14)京都木屋二条に移り、立斎の長女しんと結婚。森田節斎(セッサイ)・梁川星巌(ヤナガワ・セイガン)らと交わる。国事建言で、1852(嘉永 5)幕府の忌諱に触れ追放。兵庫で長州の同志とロシア艦襲撃や大老井伊直弼排斥を企てる。青蓮院宮に入説し、戊午の密勅降下の一因となる。 _安政の大獄の際、1858(安政 5. 9.)第一に捕われ、12月江戸に檻送。小倉藩邸に預けられるが、翌年脚気(カッケ)により病死。 _1891(明治24)正四位を遺贈。 ◆墓は京都市東山区の正法寺。 うめだ かん【梅田 寛】 1897. 2.13(明治30) 〜 1969. 1. 9(昭和44) ◇ロシア文学者。本名は寛三郎。 うめだ はるお【梅田 晴夫】 1920. 8.12(大正 9) 〜 1980.12.21(昭和55) ◇劇作家。本名は晃(アキラ)。東京生れ。慶応義塾大学仏文科卒業。 うめただ みょうじゅ【埋忠 明寿】《うめただ みやうじゆ》 1556(弘治 2) 〜 1631(寛永 8. 5.18) ◇桃山〜江戸初期の刀工・鐔工(タンコウ)。氏は橘、名は重吉・宗吉、通称は彦次郎、法号は鶴峯明寿。埋忠家の祖。 _足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀次に仕える。 _京都西陣に住み、真鍮の鐔(ツバ)に金銀銅などで象嵌(ゾウガン)を、刀身に彫刻を施した新刀の名刀を作る。 (2)生年は1558(永禄1)。 (4)生年は1556。 (6)生年は1558。 (16)生年は1556(弘治 2)。 ◎金家(カネイエ)・信家(ノブイエ)とともに鐔の三作と称せられる。 うめづ よしじろう【梅津 美治郎】《うめづ よしぢらう》 1882(明治15) 〜 1949(昭和24) ◇陸軍軍人。大分県出身。 _陸軍大学卒業。陸軍省総務部長・華北駐屯軍司令官。天津の日本租界(ソカイ)で親日派の新聞社社長が暗殺されたのを口実に、1935. 6.(昭和10)国民政府に梅津・何応欽(カ・オウキン)協定を押し付け、日本の華北支配を強める。 _1936(昭和11)二・二六事件後、寺内寿一陸軍大臣のもとで陸軍次官として軍の実権を握る。関東軍司令官兼駐満大使・参謀総長。 _太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑となり、病死。 ◎梅津の後に陸軍次官に就任したのは東条英機。 うめつじ のりきよ【梅辻 規清】 1798(寛政10) 〜 1861(文久元. 7.21) ◇江戸幕末の神道家。賀茂規清とも。京都賀茂社の社人。 _烏伝(ウテン)神道を創始。幕府を非難したため八丈島に流されて同島で死亡。 うめはら すえじ【梅原 末治】 1893(明治26) 〜 1983(昭和58) ◇大正・昭和期の東洋考古学者。大阪府生れ。同志社普通学校卒業。 _京都大学考古学研究室助手を経て、1939(昭和14)京都大学教授。京都大学名誉教授。 うめはら ほくめい【梅原 北明】 1901. 1.15(明治34) 〜 1946. 4. 5(昭和21) ◇編集者・翻訳家。本名は貞康(サダヤス)、別号は談奇館主人・吾妻大陸。豊山市生れ。早稲田大学英文科中退。 _性文献の翻訳と刊行、変名を多用。作家江戸川乱歩・画家竹中英太郎・編集者本位田準一らとともに昭和初期のエログロ時代を作る。 (2)1899〜1946(明治32〜昭和21)。没日記載なし。 (3)生年は1899(明治32)、没日は 5. 5。 (5)生年は1901(明治34)、没日は 4. 5。 (8)生年は1901(明治34)、没日は 4. 5。 (11)生年は1899(明治32)、没日は 5. 5。 うめはら りゅうざぶろう【梅原 竜三郎(梅原 龍三郎)】《うめはら りゆうざぶらう》 1888. 3. 9(明治21) 〜 1986(昭和61) ◇大正・昭和期の洋画家。初名は良三郎。京都生れ。 _関西美術院に入り、伊藤快彦・浅井忠(チュウ)に師事、同校卒業。浅井の没後、1908(明治41)渡仏しアカデミー・ジュリアンに入学、翌年ルノアールを訪ねる。 _1913(大正 2)帰国し、1914(大正 3)二科会創立に参加、1918(大正 7)退会。1922(大正11)春陽会創立に参加。1926(大正15)国画創作協会に第2部(洋画)が創設され会員となり、1928(昭和 3)第1部(日本画)解散後は国画会と改称し主宰者となる。1935(昭和10)帝国美術院会員。1937(昭和12)帝国芸術院会員。1944(昭和19)帝室技芸員。 _1944〜1950(昭和19〜昭和25)東京芸術大学教授。1952(昭和27)文化勲章を受章。 (2)'52文化勲章受章。 (6)52年文化勲章。 (16)1952(昭和35)年文化勲章受賞.(*)年号に誤。 うめぼり こくが【梅暮里 谷峨】 1750(寛延 3) 〜 1821(文政 4. 9. 3) ◇江戸後期の洒落本・読本作者。本名は反町(ソリマチ)三郎助のち与左衛門、号は蕣亭(シュンテイ)・遊里山人。上総(カズサ)国久留里(クルリ)藩士で、江戸本所埋堀の藩邸に住む。 うめもと かつみ【梅本 克己】 1912. 3.26(明治45) 〜 1974. 1.14(昭和49) ◇哲学者。 うめわか まんざぶろう【梅若 万三郎】《うめわか まんざぶらう》 1868(明治元.11.) 〜 1946.12.16(昭和21) ◇明治〜昭和期の能楽師(観世流シテ方)。[1]梅若実(ミノル)(初世)の長男、[2]梅若実(二世)(六郎)の兄、観世華雪(カセツ)の義兄。 _父[1]梅若実に養子があったため、11歳で梅若長左衛門家を継ぐ(十二世)。1920(大正 9)弟六郎・華雪らとともに梅若流を興し、初代宗家となるが、1933(昭和 8)弟六郎に家元を譲り、観世流に復帰。 _1937(昭和12)芸術院会員。1946(昭和21)文化勲章を受章。 [1]うめわか みのる【梅若 実(初世)】 1828(文政11) 〜 1909(明治42) ◇明治期の能楽師。幼名は亀次郎のち六之丞・六郎・実。江戸上野寛永寺御用達の鯨井平左衛門の子。梅若万三郎・[2]梅若実(二世)(六郎)の父。 _1839(天保10)梅若家を相続、六之丞と改名。のち通名六郎を襲名。1872(明治 5)観世流分家鉄之丞の弟に家督を譲り、実と称する。 _宝生九郎・桜間左陣馬とともに明治三名人の一人。 [2]うめわか みのる【梅若 実(二世)】 1878(明治11) 〜 1959(昭和34) ◇能楽師。初名は竹世のち六郎・景昭。[1]梅若実(ミノル)(初世)の次子、梅若万三郎の弟。 _1920(大正 9)兄万三郎とともに観世流を脱退、梅若流を興す。1933(昭和 8)万三郎・義弟華雪が観世流に復帰後も、梅若流を継いで二世となり梅若流を守る。 _1954(昭和29)子の梅若六郎一門とともに観世流に復帰。 うめわか ろくろう【梅若 六郎】《うめわか ろくらう》 ⇒[2]梅若実 うらがみ きょくどう【浦上 玉堂】《うらがみ ぎよくだう》 1745(延享 2) 〜 1820(文政 3. 9. 4) ◇江戸後期の南画家。姓は紀、名は弼、字は君輔、通称は兵右衛門、玉堂琴士と称する。浦上春琴(シュンキン)・秋琴の父。 _岡山池田藩の支藩備中国鴨方(カモガタ)藩士の家に生れる。自由な文人生活に憧れ、1793(寛政 5)藩を致仕し、2子を伴い七弦琴と絵を楽しみながら諸国を放浪。 _作品は『凍雲篩雪図(トウウンシセツズ)』、著書は『玉堂琴譜』など。 _晩年は京都に留まり、岡田米山人・田能村竹田らと親交。 (2)1794(寛政 6)ころ,但馬国城崎温泉に遊行中,家を養子にまかせて春琴・秋琴の2子をともない瓢然と脱藩。原因は寛政異学の禁をはばかった故といわれる。 (4)備中鴨方藩に仕えたが、致仕して……。 (6)1794年2子を抱いて脱藩……。 (16)1793(寛政 5)年任を退き……. _古琴を得て銘に玉堂とあったことから,自ら玉堂琴士と称したと伝えられている. うらかみ ごさぶろう【浦上 后三郎】 1897.12. 1(明治30) 〜 1962.12. 7(昭和37) ◇ドイツ文学者・小説家。本名は五三郎。 うらがみ しゅんきん【浦上 春琴】 1779(安永 8) 〜 1846(弘化 3) ◇江戸後期の南画家。名は選、字は伯挙、別号は睡庵・文鏡亭。浦上玉堂の子、秋琴の兄。 うらがみ のりむね【浦上 則宗】 1429 〜 1502(文亀 2) ◇室町時代の武将。浦上昌勝の子、浦上行景の4代の孫。 (*)1429(正長 2,永享元)。 うらがみ むねかげ【浦上 宗景】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇戦国時代の武将。幼名は与二郎、通称は帯刀左衛門。浦上村宗の次男、浦上政宗の弟。 _父村宗の死後、1534(天文 3)家臣宇喜多能家(ヨシイエ)を疎んじ、攻めて自害させる。隠れていた能家の孫宇喜多直家(ナオイエ)が1543(天文12)仕官、主家のため功を挙げる。1561(永禄 4)直家に備前を放逐され、讃岐に走る。1574(天正 2)毛利氏と結んだ直家と戦う。 うらがみ むらむね【浦上 村宗】 生年不詳 〜 1531(享禄 4) ◇戦国時代の武将。浦上宗則の子、浦上則宗の孫。 うらた ながたみ【浦田 長民】 1840(天保11. 3. 1) 〜 1893.10.26(明治26) ◇明治時代の神道家。字は穀夫(コクフ)、号は改亭。伊勢国度会(ワタライ)郡宇治生れ。 うらべ かねかた【卜部 兼方(卜部 懐賢)】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉中期の神道家。懐賢とも書き、「やすかた」とも訓(ヨ)む。卜部兼文(カナフミ)の子。 _父兼文の研究を基に『釈日本紀』を著す。 うらべ かねとも【卜部 兼倶】 ⇒吉田兼倶 うらべ かねぶみ【卜部 兼文】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉中期の国学者。兼頼の子、卜部兼方(カネタカ)の父。 _平野神社の祀官。1269(文永 6)神祇権大副。 _兼文の研究を基に子の兼方が『釈日本紀』を著す。 うらべ かねよし【卜部 兼好】 ⇒吉田兼好 うらべ けんこう【卜部 兼好】 ⇒吉田兼好 うらべ やすかた【卜部 懐賢】 ⇒卜部兼方 うらべのすえたけ【卜部 季武】《うらべのすゑたけ》 949(天暦 3) 〜 1022(治安 2) ◇平安中期の武人。通称は六郎、勘解由(カゲユ)。源頼光の四天王の一。酒顛童子(シュテンドウジ)討伐で有名。 (4)生年は 950。 うらまつ さみたろう【浦松 佐美太郎】 1901.10. 1(明治34) 〜 1981.12.23(昭和56) ◇評論家・登山家。東京生れ。東京商大卒業。 うらまつ しげこ【裏松 重子】 ⇒日野重子 うりう いわ【瓜生 岩】《うりふ いは》 1829(文政12. 2.25) 〜 1897. 4.19(明治30) ◇婦人社会事業家。福島県喜多方の人。 _代々の油商の家に生れ、幼く父を失い若松の叔母に預けられる。17歳のとき呉服商佐瀬茂助に嫁ぐが死別。 _明治維新後、藩校日新館を再興し会津藩子女の教育に尽力。1872(明治 5)上京し深川の救養会所の救貧事業を実地研修。帰郷して窮民救済事業に着手。堕胎を矯風(キョウフウ)し、1889(明治22)貧民孤児救済のため福島救育所を設立。喜多方に産婆研究所、1893(明治26)福島育児院・済生病院を創設。1894(明治27)宮内大臣土方久元婦人とともに瓜生会を設立、慈善事業に尽す。 (2)'87福島救育所を設立した。 (16)1889(明治22)年貧民孤児救済のために福島救育所を設立……. うりう そときち【瓜生 外吉】《うりふ そときち》 1857(安政 4) 〜 1937(昭和12) ◇明治〜昭和初期の海軍軍人(大将)。石川県の人。 _海軍兵学寮卒業。1875〜1881(明治 8〜明治14)米国アナポリス海軍兵学校に留学。帰国後、海兵教官・摂津・海門・扶桑の各分隊長。1887(明治20)参謀本部海軍部第2課長。1892〜1896(明治25〜明治29)フランス大使館付。秋津洲・扶桑・松島・八島の各艦長・軍令部第1局長。 _第2艦隊司令官・竹敷要港部司令官として、1904. 2. 8(明治37)、朝鮮の仁川(ジンセン)沖でいわゆる瓜生艦隊を率いてロシア戦艦2隻を撃破。同年 2.10、ロシアに宣戦布告(日露戦争)。 _日露戦争後、佐世保・横須賀鎮守府の各長官。1922(大正11)勅選貴族院議員。 うりう たくぞう【瓜生 卓造】 1919. 1. 6(大正 8) 〜 1982. 6. 1(昭和57) ◇小説家。兵庫県生れ。早稲田大学政経学部卒業。 (5)生年は1919(大正 8)。 (8)生年は1920(大正 9)。 (11)生年は1919(大正 8)。 うりう たもつ【瓜生 保】《うりふ たもつ》 生年不詳 〜 1337(<南>延元 2,<北>建武 4. 1.11) ◇南北朝時代の武将。越前杣山城主。 _1335(<南>建武 2,<北>建武 2)中先代の乱に北条氏に応じて挙兵した名越時兼を加賀国大聖寺で滅ぼす。1336年、新田義貞が金崎城に拠ると、初め足利方の包囲軍に属し足利高経(タカツネ)・高師泰(コウノモロヤス)らとともに金崎城を攻める。しかし、南朝に応じ弟源琳・義鑑ら一族が義貞の甥脇屋義治(ワキヤ・ヨシハル)を擁して杣山城で挙兵すると高経の軍と戦う。1337(<南>延元 2,<北>建武 4)義治とともに金崎城救援の途中、今川頼貞と戦い討死。 (*)1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。 うりゅう ……【瓜生 ……】《うりふ ……》 うるしやま またしろう【漆山 又四郎】 1873. 1. 6(明治 6) 〜 1948. 8. 5(昭和23) ◇漢学者・国文学者・書誌学者。号は天童。 うんけい【運慶】 生年不詳 〜 1223(貞応 2) ◇鎌倉中期の仏師。康慶(コウケイ)の子、湛慶(タンケイ)の父。 うんこく とうえき【雲谷 等益】 1591(天正19) 〜 1644 ◇江戸前期の画家。名は元直。雲谷等顔(トウガン)の次男。周防国山口生れ。 _1618(元和 4)父等顔の跡を継ぎ毛利家に仕える。雪舟四世を称する。 (*)1644(寛永21,正保元)。 うんこく とうがん【雲谷 等顔】 1547(天文16) 〜 1618(元和 4. 5. 3) ◇安土桃山時代の画家。名は治兵・直治。肥前国能古見城主原豊後守直家の子、雲谷等益(トウエキ)の父。雲谷派の祖。 _はじめ狩野派を学び、雪舟の画風を慕い広島城主毛利輝元に仕え、お抱え絵師となる。周防国山口の雪舟の遺址雲谷庵を継いで雲谷を姓とし雪舟三世と称する。雪舟五代を称する長谷川等伯(トウハク)との争いに勝つ。 うんしょう いっけい【雲章 一慶】 1386(<南>元中 3,<北>至徳 3) 〜 1462(寛正 3) ◇室町後期の僧侶(臨済宗)。名は一慶、号は雲章・流芳・玉渚、諡は弘宗禅師。一条経嗣(ツネツグ)の子、一条兼良(カネヨシ)の兄。京都生れ。 (2)一条経嗣の子,一条兼良の兄。 (16)九条経嗣の子.(*)誤。 うんしょう りっし【雲照 律師】《うんせう りつし》 1827(文政10) 〜 1909(明治42) ◇真言宗の僧。俗姓は渡辺。出雲(島根県)の人。仁和寺(ニンナジ)門跡(モンゼキ)。 _高野山に入り、高野の女人解禁・廃仏毀釈に反対。真言宗の統一に努め、真言律の復興を唱える。東京で十善会を主宰し、青年・婦人教育に尽力。東京に目白僧園を、那須野に雲照寺を創建。 うんな なぴー【恩納 なべ】 ⇒恩納なべ うんの じゅうざ【海野 十三】 1897.12.26(明治30) 〜 1949. 5.17(昭和24) ◇昭和期の小説家。本名は佐野昌一、別号は丘丘十郎(オカ・オカジュウロウ)。徳島市生れ。早稲田大学理工科卒業。逓信省電気試験場に勤めるかたわら推理小説を書く。結核により死去。 (2)海野 十三(うんの じゅうざ)。(学)早大電気工学科。 (3)海野 十三(うんの じゅうざ)。 (5)海野 十三(うんの じゅうぞう)。 (8)海野 十三(うんの じゅうざ)。 (11)海野 十三(うんの じゅうざ)。 (12)海野 十三(うんの じゅうざ)。 うんの しょうみん【海野 勝(「王」偏+「民」:補助4374〔_〕)】 1844(天保15. 5.15) 〜 1915.10.18(大正 4) ◇明治期の彫金家。幼名は竹次郎、のち弥五郎、号は芳州・藻脱軒。海野伝右衛門の子。水戸の人。 _萩谷勝平・叔父の海野美盛(初代)に学ぶ。1873(明治 6)東京に出て彫金業を営み、雁金守親に師事。1876(明治 9)廃刀令で装剣金具の製作を断念、家具装飾・携帯品の彫金技術をみがく。 _1877(明治10)第1回内国勧業博覧会に出品、受賞。1890(明治23)第3回内国勧業博覧会に「蘭陵王」で妙技一等賞を獲得。 _1890(明治23)東京美術学校に勤め、1891(明治24)東京美術学校教授。1892(明治25)帝室技芸員。 (2)1868(明治1)上京し……。 (6)1873年東京に出る。 えんのうばそく【役 優婆塞】 ⇒役行者