[1]じうん【慈雲】 1274(文永11) 〜 1345 ◇鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧・国泰寺派の始祖。諱(イミナ)は妙意、勅号は清泉禅師。勅諡は慧日聖光国師。信濃の人。 _五智山で出家し、越中に東松寺を創建。寺は後醍醐天皇から国泰寺の号を授けられ、勅願所となった。 (*)1345(<南>興国 6,<北>康永 4,<北>貞和元)。 [2]じうん【慈雲】 1718(享保 3) 〜 1804(文化元.12.22) ◇江戸中期の真言宗の学僧。俗姓は上月、名は飲光(オンコウ)、字は慈雲、号は葛城山人・百不知童子。尊称は慈雲尊者(ソンジャ)・慈雲律師・葛城尊者など。大坂の人。上月安範(コウヅキ・ヤスヒラ)の子。 _13歳で出家。伊藤東涯の門に学ぶ。師貞紀から両部神道を伝授される。顕・密両教の教義・戒律・梵学に精通し、釈迦在世時代の法を興そうとして正法律(ショウボウリツ)(戒律の復興)を唱えた。 _晩年、河内の葛城山高貴寺に住して神儒仏三教への造詣をふまえ密教・悉曇(シッタン)を学び、両部神道を刷新した神道論を展開。のちに雲伝神道・葛城神道と呼ばれた。 _著書は悉曇を研究した『梵学津梁(ボンガクシンリョウ)』千巻や民衆教化の『十善法語』12巻・『人となる道』、『南海寄帰伝解纜鈔』などがある。 (4)大坂の人。 (6)大阪の人。 (25)讃岐(香川県)高松の人. (26)享保三年大阪に生まれた。 じうん【似雲】 1673 〜 1753(宝暦 3) ◇江戸中期の歌僧。初めは如雲、別号は虚空庵など。安芸(アキ)の人。 _武者小路実陰に師事。西行に私淑し、諸国を行脚。 _著書は『磯の浪』や歌日記『年並草』など。 (*)1673(寛文13,延宝元)。 ◎「今西行」と呼ばれた。 じえ だいし【慈恵 大師(慈慧 大師)】《じゑ だいし》 ⇒良源 じえん【慈円】《じゑん》 1155(久寿 2. 4.15) 〜 1225(嘉禄元. 9.25) ◇平安末期・鎌倉前期の天台宗の高僧・歌人・史論家。諡は慈鎮。関白藤原忠通(タダミチ)の末子、関白九条兼実(カネザネ)・道円・兼房は同母兄、関白基実・基房は異母兄。 _11歳のとき比叡山延暦寺の青蓮院門跡に入り、覚快法親王について修学。13歳で剃髪(テイハツ)して道快といい、16歳で法眼(ホウゲン)。27歳のとき覚快法親王が他界し、法印に叙されて慈円と改名。 _1192(建久 3)38歳で兄関白兼実の力で天台座主(ザス)の職につき、1196(建久 7)兼実が失脚し慈円も座主を辞任。後鳥羽上皇が院政を始めると九条家も復権して、1201年再度天台座主に再任、60歳までに四度座主となる。1203(建仁 3)大僧正。1208(承元 2)摂津の四天王寺別当。 _墓所は滋賀県大津市比叡山。 _家集『拾玉集』・史論『愚管抄』を著す。 (*)1201(正治 3,建仁元)。 ◎『愚管抄』は日本最初の史論。 じきぎょう みろく【食行 身禄】 1671(寛文11. 1.17) 〜 1733(享保18. 7.13) ◇江戸中期の富士講の指導者。油商。俗名は伊藤伊兵衛。伊勢国一志(イチシ)郡の農民の子。 _13歳で江戸に出て呉服屋で働く。同郷者の勧めで富士講に入り1687(貞享 4)食行の行名を受ける。 _1717(享保 2)富士講6世の行者となり、1722(享保 7)から食行の下に身禄を加えて名乗る。 _富士講の呪術・祈祷中心の行法を排除し、処世訓と生業の勧めを含む体系的な教義を整えた。 (26)享保十八年七月十三日(一説に十七日または十八日)富士山にて没、享年六十三歳。 ◎当時、光清(コウセイ)派富士講が加持祈祷を中心としていた。 じきん【慈訓】 691[持統 5] 〜 777(宝亀 8) ◇奈良時代の僧侶(華厳宗)。 _ 740(天平12)新羅僧審祥(シンジョウ)(華厳宗の開祖)から良弁(ロウベン)らとともに華厳を学ぶ。 _ 757年興福寺別当。 (*) 757(天平勝宝 9,天平宝字元)。 じっぺんしゃ いっく【十返舎 一九】 1765(明和 2) 〜 1831(天保 2. 8. 7) ◇江戸後期の戯作者・洒落本・黄表紙・滑稽本・合巻(ゴウカン)本作者。本名は重田貞一(シゲタ・サダカズ)、通称は与七、幼名は市九、別号は酔斎・十偏舎・十偏斎。駿河国府中の人。 _はじめ江戸に出て武家に仕え、のち大坂に移り近松余七と号して浄瑠璃作者となるが成功せず。1793(寛政 5)江戸に戻り本屋蔦屋重三郎に寄宿、処女作の黄表紙『心学時計草』・洒落本などを書く。 _作品は『東海道中膝栗毛』・『江之島土産』など。 ◎式亭三馬(シキテイ・サンバ)とともに滑稽本の二大作家と称される。 ◎原稿料のみで生計を立てた最初の人といわれている。 (4)一七九四年江戸に出て……。 (5)酔斎・十偏舎・十偏斎とも。 (6)別号十遍舎,……。 (25)一七九三年(寛政五)江戸に出て……。 しのぶ じょけん【信夫 恕軒】 1835(天保 6. 5.) 〜 1910.12.11(明治43) ◇漢学者。名は粲、字は文則、別号は天倪居士。 じへん【慈遍】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇鎌倉末期の天台宗の僧侶・神道家。吉田(卜部)兼顕(ウラベ・カネアキ)の子で、徒然草の作者兼好の兄(一説に弟)。 _幼く延暦寺に入り、天台教学を修める。 _度会常昌(ワタライ・ツネヨシ)の影響を受け、伊勢・両部(リョウブ)・山王(サンノウ)神道に通じ皇道思想を唱える。後醍醐天皇の信任厚く、南朝方の知識人の一人。 _『旧事本紀玄義(クジホンギゲンギ)』など多くの神道書を著した。 しみずのじろちょう【清水 次郎長】《しみづのじろちやう》 1820. 2.14(文政 3. 1. 1) 〜 1893. 6.12(明治26) ◇幕末〜明治初期の侠客(キョウカク)。本名は山本長五郎(チョウゴロウ)、通称は清水次郎長。 _駿州(駿河)清水港の船頭の子で、米問屋山本次郎八の養子となり略して次郎長。 _博徒となって東海地方を縄張りとし、甲州黒駒の勝蔵・伊勢桑名の安濃徳(アノウトク)ら博徒との抗争は有名。 _明治維新後、東海道総督判事伏谷又左衛門によって名字・帯刀を許され、東海道探索方の任にあたる。 _のち富士山裾野の開墾に尽力。 じゃくれん【寂蓮】 1139(保延 5)頃 〜 1202(建仁 2. 7.20) ◇鎌倉前期の歌人。俗名は藤原定長(サダナガ)。父は藤原俊成(トシナリ)の弟(兄とも)醍醐寺阿闍梨(アジャリ)俊海。1150(久安 6)年ころに俊成の養子となる。 じゅういちや ぎさぶろう【十一谷 義三郎】《じふいちや ぎさぶらう》 1897.10.14(明治30) 〜 1937. 4. 2(昭和12) ◇小説家。神戸市元町生れ。 _十一歳で父を失い家僕となる。 _神戸第一中学校・第三高等学校を経て東京大学英文学科に入学、1922(大正11)卒業。 _結核により死去。 _『文芸時代』に参加。 _知的な文体で知られる新感覚派の一人。代表作は『唐人お吉』 (1928)・『時の敗者』など。 しゅんじゅうあん じゅんいち【春秋庵 準一】 1881. 1.20(明治14) 〜 1966. 2.22(昭和41) ◇俳人。本姓は三森。春秋庵幹雄(ミキオ)の長男。 じゅんとく てんのう【順徳 天皇】《じゆんとく てんわう》 1197(建久 8. 9.10) 〜 1242(仁治 3. 9.13) ◇鎌倉前期の第84代の天皇。名は守成(モリヒラ)、通称は順徳院・佐渡院。父は後鳥羽天皇(第3皇子)、母は修明門院。 _1210(承元 4)後鳥羽上皇の意向により兄土御門(ツチミカド)天皇より受禅し即位。1221(承久 3)4歳の第4皇子の仲恭(チュウキョウ)天皇に譲位。同年五月、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討滅を図った「承久(ジョウキュウ)の変」に加わり、北条義時を中心とする幕府軍に大敗しする。 _後鳥羽上皇は隠岐(オキ)に、順徳上皇は佐渡に流され、仲恭天皇は在位七〇余日で堀河天皇に譲位。在島22年、佐渡で没。 _在位、1210(承元 4)〜1221(承久 3)。 (2)名は守成(モリヒラ)。 (4)名は守成(モリナリ)。 (5)名は守成(モリヒラ)。 (6)名は守成(モリナリ)。 (11)名は守成(モリヒラ)。 (19)名は守成(モリナリ)。 じゅんとくいん【順徳院】 ⇒順徳天皇 じゅんな てんのう【淳和 天皇】《じゆんわ てんわう》 786(延暦 5) 〜 840(承和 7) ◇第53代天皇。名は大伴、通称は西院帝(サイインノミカド)。桓武天皇の第7皇子、母は藤原旅子。 _嵯峨天皇の皇太弟となり、 823(弘仁14)譲位を受けて即位、 833(天長10)仁明天皇に譲位。 _ 827(天長 4)『経国集』を良岑(ヨシミネ)安世に編纂させる。 _在位、 823(弘仁14)〜 833(天長10)。 (2)桓武天皇の第3皇子。 (19)桓武天皇の第七皇子。 じゅんにょ【准如】 1577(天正 5) 〜 1630(寛永 7) ◇浄土真宗本願寺派本願寺12世。諱(イミナ)は光昭。顕如の第4子。 _1592年、11世顕如(ケンニョ)が没して長子教如(キョウニョ)が本願寺12世を継いだが、1593(文禄 2. 9.)豊臣秀吉の命で准如がこれに代った。 _1602(慶長 7)徳川家康の命で教如が東本願寺を建て、本願寺は東西に分裂した。 (*)1592(天正20,文禄元)。 じゅんにん てんのう【淳仁 天皇】《じゆんにん てんわう》 733(天平 5) 〜 765 ◇第47代天皇。名は大炊(オオイ)、通称は廃帝・淡路廃帝・淡路親王・淡路公。舎人(トネリ)親王の第7王子、母は当麻山背。池田王・船王の兄弟。 _藤原仲麻呂に擁立されて即位(親王は仲麻呂の子真従の未亡人粟田諸姉を妻としていた)。 _ 764(天平宝字 8. 9.)仲麻呂が叛乱を起こし斬首、翌月廃位、淡路国に配流。 _ 765年、再び捕えられ、翌日没。 _在位、 758(天平宝字 2)〜 764(天平宝字 8)。 (*) 765(天平宝字 9,天平神護元)。 じょう さもん【城 左門】 1904. 6.10(明治37) 〜 1967.11.27(昭和51) ◇詩人・小説家。本名は稲並(イナミ)昌幸、小説の筆名は城昌幸。東京生れ。岩谷書店編集長、「詩学」を発行。 (1)誕生日は 6.10。 (3)誕生日は 6. 1。 (13)誕生日は 6.10。 じょう まさゆき【城 昌幸】 1904. 6.10(明治37) 〜 1976.11.27(昭和51) ◇詩人・小説家。本名は稲並(イナミ)昌幸、詩人の筆名は城左門。東京神田生れ。 _京華中学校卒業。日本大学芸術科中退。 _戦後は雑誌「宝石」の経営に参画、岩谷書店(現:宝石社)社長。 じょうあ しんかん【浄阿 真観】《じやうあ しんくわん》 1276(建治 2) 〜 1341(<南>興国 2,<北>暦応 4) ◇鎌倉末期〜南北朝初期の時宗(ジシュウ)の僧・四条派の開祖。号は浄阿。上総(カズサ)の人。 _律宗の忍性(ニンショウ)に戒律を学び、のち紀州由良の興国寺の覚心に禅を学ぶ。 _1300(正安 2)他阿真教(タア・シンキョウ)の教化を受けて時宗に帰依。 _1309(延慶 2)京都に上り、祇陀林寺に住む。 _1311年、後伏見天皇の女御広義門院の出産の時、呪符を奉り効験があって上人号が許される。 (*)1311(延慶 4,応長元)。 じょうけい【貞慶】 1155(久寿 2) 〜 1212(建暦 2) ◇鎌倉時代の法相宗(ホッソウシュウ)の中興の僧侶。名は解脱(ゲダツ)。 _戒律復興に努め、法然の浄土宗を批判。 じょうじんあじゃりのはは【成尋阿闍梨母】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇平安後期の歌人。1930(昭和 5)宮内庁所蔵の写本によりはじめて紹介される。 じょうそう【丈草】《じやうさう》 ⇒内藤丈草 じょうとうもんいん【上東門院】 ⇒藤原彰子 じょうの さいぎく【条野 採菊】 1832(天保 3. 9. 1) 〜 1902. 1.24(明治35) ◇戯作者・新聞記者。本名は桑野伝平、別称は山々亭有人(サンサンテイアリンド)・採菊散人・朧月亭。江戸生れ。「やまと新聞」社長。鏑木清方(カブラギ・キヨカタ)の父。 (9)本名は条野伝平。 (13)採菊 山人(さいぎく さんじん)。本名条野伝平。没日は1901.12.(明治34)。 (+)中公文庫『明治世相百話』  昭和58年 7月10日発行  著者:山本笑月,中央公論社 _採菊又山々斎有人と号し、鏑木清方画伯の厳君。 じょうべん【浄弁】《じやうべん》 生年不詳 〜 1356 ◇南北朝の天台宗の僧・歌人。蘆の葉の浄弁とも呼ばれる。慶運(ケイウン)の父。 _頓阿(トンア)・慶運・吉田兼好(ヨシダ・ケンコウ)とともに「和歌四天王」と呼ばれる。 (*)1356(<南>正平11,<北>文和 5,<北>延文元)。 じょけい【如慶】 ⇒住吉如慶 じょせつ【如拙】 生年不詳 〜 没年不詳 ◇室町前期の画僧。如雪・如説とも記される。 _応永年間(1394〜1428)ころの京都相国寺(ショウコクジ)の禅僧で、経歴は不詳で九州の人という。 _宋の画風を取り入れた、日本の水墨画初期の開拓者で、その画統は周文(シュウブン)さらに雪舟(セッシュウ)と受け継がれた。 _4代将軍義持(1386〜1428)の支持を受けて活躍。 _唯一の確かな作品は、義持の求めで描かれた妙心寺退蔵院蔵『瓢鮎図(ヒョウネンズ)』で、当時の著名な禅僧31名の賛がある。 ◎臨済宗の僧絶海中津(ゼッカイ・チュウシン)(1336〜1405)から「大巧如拙(タイコウ・ジョセツ)」の号を与えられている。 じょん まんじろう【ジョン 万次郎】《じよん まんじらう》 ⇒中浜万次郎 しらいし じつぞう【白石 実三(白石 實三)】 1886.11.11(明治19) 〜 1937.12. 2(昭和12) ◇小説家・随筆家。群馬県生れ。早稲田大学英文科卒業後、同校法科・東京外語学校露語科に学ぶ。田山花袋の門下で武蔵野研究家として知られる。妻は森田思軒の娘下子。 じんざい きよし【神西 清】 1903.11.15(明治36) 〜 1957. 3.11(昭和32) ◇小説家・翻訳家・評論家。東京牛込(ウシゴメ)生れ。府立第四中学校を経て第一高等学校理科中退。東京外語学校露語科に転学、1928(昭和 3)卒業。舌ガンにより死去。 じんぼ こうたろう【神保 光太郎】 1905(明治38) 〜 1990(平成 2) ◇昭和期の詩人・ドイツ文学者。山形県生れ。京都大学卒業。 _太平洋戦争中、占領したシンガポール(昭南市)の昭南日本学園の校長。 ずしょ ひろさと【調所 広郷】 1776(安永 5) 〜 1848(嘉永元.12.18) ◇江戸後期の薩摩藩の家老。初名は良八、のち友治・笑悦、通称は笑左衛門(ショウザエモン)。鹿児島城下生れ。川崎主右衛門の次男。 _調所清悦の養子となり、友治と改名。 _1790(寛政 2)表坊主。 _1798(寛政10)前藩主島津重豪(シゲヒデ)の奥坊主となり、笑悦と改名。寵愛(チョウアイ)を受けて累進(ルイシン)し、茶道頭・小納戸頭・町奉行を経て、1825(文政 8)御側用人(オソバヨウニン)家老格となる。 _1827(文政10)藩主斉興(ナリオキ)に信任されて藩財政の改革を命ぜられ、藩の天保改革の中心として尽力。藩債の棚上げ、ナタネ・薬種などの国産の奨励と黒砂糖の藩専売、琉球を利用した中国との密貿易などにより財政を再建。 _改革の功により1833(天保 4)家老となり、開明派の島津斉彬(ナリアキラ)と対立。 _密貿易が幕府に露見して、責任を負って江戸藩桜田邸で服毒自殺。 ◎藩債の棚上げでは、1835(天保 6)藩債500万両の無利子250年賦償還を江戸・大坂・京都の御用商人に強制。国許の藩債は貸主を士分に取立てとして元利とも破棄させた。 _天保末期には藩庫備蓄金50万両・諸営繕費用200万両余に達し、幕末に雄藩として活躍する財政基盤を築いた。 ぜあみ【世阿弥(世阿彌)】 1364(貞治 3)頃 〜 1444(文安元)頃 ◇室町前期の能役者・能作者。幼名は藤若(フジワカ)のち元服して三郎元清(モトキヨ)、秦(ハダ)氏を称した、芸名は世阿弥陀仏(ゼアミダブツ)、世阿弥・世阿は略称。老後出家し、至翁善芳。観阿弥清次(カンアミ・キヨツグ)の子、金春禅竹(コンパル・ゼンチク)は娘婿。 _父観阿弥とともに猿楽を将軍足利義満(ヨシミツ)にみとめられ、その後援を受ける。父の死後、観世太夫となり一座を経営。足利義持は田楽の増阿弥を後援する。 _1428(応永35)義持の後を継ぎ将軍になった足利義教(僧義円)は世阿弥の甥の三郎元重(音阿弥)を積極的に支援。1433(永享 5)元重が観世大夫になり、世阿弥が元重を応援しなかったことで義教の怒りにふれ、1434(永享 6)世阿弥七一歳で佐渡に流される。 (4)世阿弥・是阿弥。生年は1364?、没年は1443。 (5)秦(ハダ)氏を称した。 (6)生年は1363、没年は1443。 (11)秦(ハタ)氏を称した。 (17)生没年不詳。 ◆世阿弥忌[旧暦 8. 8]。大和の曹洞宗補巌寺に享年81歳、忌日八月八日が伝えられている。 ぜんあみ【善阿弥】 生年不詳 〜 1380(<南>天授 6,<北>康暦 2)ころ ◇室町時代の庭師。河原者(カワラモノ)の出。 _8代将軍足利義政の寵愛(チョウアイ)を受けた同朋衆(ドウボウシュウ)の一人。 ◎銀閣寺の造園は善阿弥一族の手になるとも言われている。 ぜんざい あんえいき【善哉 庵永機】 1822(文政 5) 〜 1893(明治26) ◇幕末の俳人。『芭蕉全集』を編集。 ぜんらん【善鸞】 生年不祥 〜 没年不祥 ◇鎌倉時代の真宗の僧。親鸞と恵信尼(エシンニ)との長男、覚信尼の兄。号は慈信房。 _東国から京都に帰った親鸞一家はやがて分散したが、覚信尼とともに父のもとに残る。 _建長初年(1250年ごろ)東国の門弟たちが在地支配者から弾圧を受けたため親鸞の名代として関東に派遣される。しかし、有力弟子を幕府に訴えるなど支配者側に与(クミ)するようになる。さらに、ある夜自分だけが親鸞から本当の法門を授かったとしたことから、1256(建長 8)異義のため親鸞より義絶される。 ぞるげ【ゾルゲ】 1895.10. 4(明治28) 〜 1944.11. 7(昭和19) ◇ソ連諜報員。リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)。アゼルバイジャン・バター生れ、父はドイツ人、母はロシア人。 _3歳のとき、ドイツ・ベルリンへ移る。ハンブルク大学卒業。第一次世界大戦に従軍し負傷。除隊後、独立社会民主党に入党。1919(大正 8)ドイツ共産党に入党し、ローザ・ルクセンブルクの出版物の担当に従事。1924(大正13)モスクワに派遣され、ソビエト共産党のコミンテルン本部に所属し、マルクス・レーニン研究所で著作活動に従事。さらにコミンテルン諜報機関員として赤軍第4本部に編入され情報活動に従事。 _中国情勢が急変したため、1930(昭和 5)中国に派遣。アグネス・スメドレー女史を通じて朝日新聞社の上海(シャンハイ)特派員尾崎秀実(ホツミ)と接触。 _1933(昭和 8)モスクワに帰還。日本派遣の指令が出て、同年9月「フランクフルター・ツァイトング(Frankfurter Zeitung)」紙などの記者として来日。尾崎秀実や画家宮城与徳らと情報組織を確立し、政治経済外交軍事などの情報収集。ドイツ・ナチ党に偽装入党し、ドイツ大使館の信頼を得てオットー大使の私設情報担当として活動。 _太平洋戦争直前、1941.10.15(昭和16)日本政府の機密などをソ連に通報した疑いで満鉄嘱託尾崎が検挙、同月18日ゾルゲも検挙、総勢35名が逮捕される(ゾルゲ事件)。 _1944(昭和19)尾崎とともに死刑。 ◎遺体は戦後、日本人の愛人石井花子(〜2000. 7. 4)によって東京都府中市の多磨墓地に埋葬された。 _1964(昭和39)ソビエト連邦英雄称号が贈られる。