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「うるさい日本の私、それから」 中島義道 洋泉社 1998年刊 / エッセイ・哲学 |
まず「うるさい日本の私」を未読の方にひとことで紹介すると、
たとえば警察署や消防署の広報車、選挙カー、防災無線を使った放送、あるいは竿竹屋・ちりがみ交換、
「エスカレーターにお乗りの際は足元にお気をつけください小さいお子様をお連れの方はかならず手をつないでからお乗りください」
「駆け込み乗車は大変危険ですのでお止めください」云々といったおせっかい放送、
果てはトラックの「バックしますバックします」の声まで、様々な音公害に出会うたびにその発信源に赴き、
一刻も早くやめさせようとする中島の抗争の記録、というかんじ。
(全然「ひとこと」になってないが、興味のある方はぜひお読みください。新潮文庫です)
そして、本書はこの闘争のその後に書かれたもので、続きというより「深化」したものになっている。
前作では、どんなに分かりきったことでもいちいち注意されたい人、それで安心する人たちの幼稚さ・甘えを徹底的に批判していたのだが、
本書を読むと、どうやら筆者はそれをあきらめてしまったように見えるし、中島の音に対する苦しみはなんだかさらに悪化しているようだ。
ここでは自身を一種の障害者とみなして、「分音」を提案している。
(分音:たとえば銀行などのATMも、音の出るものと出ないものを並べて、利用者が選べるようにして欲しい、など。
それは無理だろう、とも言っているが)
しかし、読み始めてすぐ、もっと大きな問題に気づくだろう。
わたしが本書で一番グサッと来たのはこうした言葉だ。
マジョリティ(多数派)の感受性から微妙にだが決定的にずれてしまった者は、もう救われないのだろうか?
諦めるほかないのあろうか?
平均的感受性を持つものだけが、この社会で快適に生きることが許されるのだろうか?
そうでないものは、共同体から排除されるか、そうされたくないために、時々刻々全身に突き刺さる苦痛を呑み込み、
叫び声さえあげることができないのだろうか?(5p)
音はこうして人を狂気に至らせる。
音自身の苦痛よりも、むしろ自分の苦痛を誰も理解してくれないという絶望感がその人の人格を壊してゆく(68p)
構内に放送が響き渡る駅の利用を避け、数駅分歩いたり、
うるさいCDショップ、幼稚園、バーゲン中の店などから逃れるために、ぐるっと遠回りして帰宅したり。
毎日こうしたことが続くわけだから、“精神が壊れる”という表現は決して大げさではないと想像がつく。
そこに追い討ちをかけるのが、彼に浴びせられる「いやあ。なかなか頭の痛いことをお書きになっていて、
われわれとしても反省すべきことが多いですなあ。ハッハッハ」(33p)といった『世間語』である。
これに比べたら、竿竹屋に「てめえ威張るなよ!とっとと消えろ!」と怒鳴られる方が数倍マシだ。
竿竹屋は自分で自分の言葉に責任を取っているし、自分の身体の中心から湧き上がる本物の言葉を吐いている分誠実だからだ。
私は――もう賢明な読者ならおわかりのように――私に賛成してくれることよりむしろ正面から「応じてくれる」態度をこそ望んでいるのだ(100p)
終盤、中島の考察は、日本人の「音に対する意識」そのものに向かう。
たとえば虫の声に聞きほれる→風鈴の音を楽しむ→夕方、小学校の校庭で流れるドボルザークの「新世界より」や「下校の時間になりました〜」といった放送に情緒を感じるといった流れから、
日本人は「自然と共存」なんかしていない、自然と人工の境のない環境にもともと何の違和感もなく住んでいたのである、と指摘する。
これは日本家屋の材質(木と紙。防音効果はほとんどない)とも関連し、
「借景」という言葉もあるように、日本人がすすんで窓を開けて桜を見たり雪を眺めたりして、内と外との境を積極的になくそうとして暮らしてきたということも原因の一つだ、という展開は実に腑に落ちる。
そういう意味で「桂離宮と秋葉原は対極的な思想にあるのではない」(151p)。
量販店から流れる大音量の音楽や呼び込みの声を、祭りの人の賑わいや花火の音、盆踊りの太鼓と同じように、虫の声と同じように、
すんなり受け入れてしまうのが日本人の特徴だ。
前作は「お上に命令されたり、おせっかいされたりしないと不安になる日本人」を徹底的に批判する内容だった(と思う)が、
この『それから』はさらに数段、絶望的になっている。
大多数の日本人に宿る“音への寛容さ”を痛感し、しかしそれをいいとも悪いとも言わず、
一方「私は『客観的によい』音環境を求めているのではなく、『私にとってよい』音環境を求めている」(186P)とし、
マジョリティと同じように、せめて10分の1でもいいから快適な生活を送りたい、と叫んでいる。
この社会が、自分の身体から溢れる言葉で話すことをよしとせず、
自分の置かれた「立場」からものをしゃべる人間が「大人」と認識されている限り、
中島はずっと傷つき続けるだろう。
胸が痛い。でもわたしのこんな感想も、中島にとってはおためごかしでしかないのだろう。(2004.05.15)
■参考 「ひとを<嫌う>ということ」中島義道
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