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【 雑 記 】

<語らず、歌え>



ローカル局で毎日、ドラマ「顔」をやっていた。
今日が最終回だったんだけど、
出てくる人物がやたら「語る」んだよね。
「一番見たくないものは自分の『顔』だと思うんです」とか、「西島さんは一人しかいません。今目の前にいるあなただけです」とか。
ま、台詞間違っていると思うけど。

このドラマに限らず、小説作品でも、
最近、登場人物がやたら内面を語っちゃうものが目についてしょうがない。どうでしょう。

“人生哲学”とか“出会い”とか、え〜っと、つまり、すんごい「自分」を語っちゃうんだよね。
この俺ってどう?あたしの生きかたってどう?って。
そういう作品って、作り手の未熟さがぷーんと臭ってきて、ちょっとげんなりしてしまうだけどな。


今、たまたま松本清張を読んでるから余計そう思うのかな。


さっき言った「一番見たくないものは自分の『顔』だ」なんて言葉は、ストレートに出さずに、話の展開なんかで視聴者に感じさせるべき勘所なわけでしょう。
(そのセンスに賛同はできないけど、まあ、それはともかく)
そういう「テーマ」をズバリ登場人物に語らせちゃうのは、作り手の敗北宣言ととれるけど、いや、作る方はそう思ってないよね。む〜。

それに比べると、清張作品の登場人物は語らないね。
「人生の縮図」って言葉があるけど、
読者は、浮世からちょっと離れたところに立って人間界を見る、みたいな感覚がある。
そこで人が生きていくことの悲哀や苦悩、おろかさや切なさがじーんと染みてきたりする。
一方、「語っちゃう」系の作品は、見る側に主人公と一体化することを要求しているのかも。
よく言えば体感型?
悪く言うと「まあまあ、お前「主人公」じゃないから。落ち着け」ってところか。

つまりこれは好みの問題なのかな?わたしがひねくれすぎだと。

んー。そうなのかもしれない。


いや、やっぱ違うと思う。(2004.04.19)

■追記
「未熟さ」にことさら反応し、それを忌み嫌うって、自分の未熟さの表れだってことに気づいたわ。ははは。