上 先生と私


  序章

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。
 私が先生と知り合になったのは熊本である。その時私はまだ若々しい書生であった。先生はある高校に入って二年目という化学教師だった。何かの縁であったのだろうか、先生は私の担任となった。先生はわりと若く、かれの顔を見る限り何もかもが平凡だった。ただ眼鏡だけが違った。それは百円ショップの匂いを漂わせ、不屈な生気をみなぎらせていた。
私は、県内屈指の進学校に入学したはいいものの、入ってからは部活にのめり込み、勉強などには全く見向きもしなかった。そして気がつけば もっともまずいクラス、と職員に噂される二の七という処におしやられていた、というありがちなk高生のひとりであった。
私は当時、勉学に関してはほとんど諦めており、半ばやけくそにもなっていた。そんなときに先生と出会ったのである。自分としてはその様な心情から何かしら元気のある、溌剌とした人に会いたかったのだが、先生は違った。私の彼の第一印象は「死にはしないか」であった。それほど先生は肉体的かつ、精神的に疲れきった表情をしていたのだ。
 実際授業も、ホームルームも何かしら悟ったような口振りで、力のないものであった。それ故に授業中に睡眠学習を試みる者は絶えず、また反感を持つ女生徒も少なくなかった。
 しかし、いつしか私は先生に惹かれていったのである。というのも、私と先生との間にこんな出来事があったからなのだ。


2へ