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はろーべいべーハローベイベー比翼の鳥心、成長の機会擬似世界の代償香りとフェロモン知覚=世界高原Jazzあるシステム「愛」するということ(煩悶)探求ロジカルコミュニケーションのススメ人の世界運命「「愛」ある関係」「コトバのちから」
・・・

・・・

9999年99月99日




0000年00月00日

コトバのちから

「コトバ」は音(振動)で相手に伝わる。
振動は相手の脳に電気信号として届く。
電気信号として受け取った情報を、頭の中のデータベースに照合して意味付けする。
そして、ある理解を生む。
理解は、さらに思考と感情を生み、それは「コトバ」として発せられる。

「コトバ」というもの自体には、大きな意味などない。
それは振動であり、太鼓の音のようなものだろう。
真に意味あるものは、「コトバ」を理解する側の頭であり、蓄積された経験と知識と論理などである。
だからと言って、「コトバ」を軽んじられない。「コトバ」は実体である。「外」である。表裏一体の関係にあり、切り離すことはできない。
だから、コトバだけを注視するような論理は本質を見ていないし、内面だけを語ることも無駄なことだろうと思う。

かつて、“神”は確かに存在し、それは決して容易に口の端にあげてはならない存在だ。口にすれば、それは実体となり、体感となり、そして、具現する。

2004年02月18日

「「愛」ある関係」

誰か「愛」することは簡単だ。
でも、誰かと「愛ある関係」を持つことは、とてもとても簡単じゃない。

人は共鳴する生き物。
「怒り」には「怒り」を、「悲しみ」には「悲しみ」を、そして、「愛」には「愛」を。
だから、人は好きといわれた相手を好きになる。別に不思議なことじゃないし、否定することもない。ノーマルだよ。
でも、それで人を「愛」し、「愛」を返すことはできても、それだけじゃ「愛する関係」にはなれないもの。
人を「愛」することは自分主体。誰にも“人を愛すること”を妨げることも、強制することもできないんだ。
「愛ある関係」は共感的。互いに互いを好いていても、それが共鳴していなければ意味はない。
だから、「愛」で相手の「愛」を共鳴させることができないと。
だから、「愛」にはパワーがいる。
生半な気持ちの力じゃ動かない。
人を「愛」するには、何を置いても相手を「愛」する力があれば良い。勿論、相手と共鳴する心も大事です。
だから、もしどちらか一方、「愛」することと「愛を返す」ことの、どちらか一方しかできていないなら、「愛ある関係」とは呼べない。
一方的に愛だけ求めていても、それは寂しいエゴ。
一方的に愛だけ与えていても、それは悲しいエゴ。


2003年12月17日

運命

「君は運命の人だ!」
「ええ、私もそう思います」
「だから、結婚しよう」
 という言葉が日常、通用します。
 この“運命”とは、どういうものなのでしょうか?

−運命的な出会い
−運命の悪戯
−運命の一瞬

 運命とは、そうと定められていた出来事・事象のこと。
 こうなると決まって変えることのできないもの、と認識されています。(だから、運命を変えることが物語となるのです)
 では、運命とは何によって予定されているのでしょうか?
 その予定する主体は一体誰なのでしょうか?

 運命を決めるのは「神」です。唯一絶対なる最高神が、人間達の歴史を決めている。神に人間は到底及ばないし、神に意見することだって出来ない。
 何故か。
 どうして人は、自分達の頭で作り出した「神」という存在に、そんなことを委託するのか。
 理由として考えられるのは「納得」するためでしょう。
 自然界にある全てのものには理由があります。ですが、それを全て人が理解しようとすると、途轍もない労力と莫大な時間を使います。目に見えないものを理解し、無限にある原因を追究する。
 そんなこと、普通の人間は出来ません。
 でも、人は“不条理”なことをいくつも経験します。
「大切な者の死」「突然の事故」「自分では解決できない問題」「出会い」など、どうしても理由付けをしても納得できない。
 自分の経験と知識を超えたところの出来事を納得するために、人は「運命」という原因を作り出しました。
 元々、人間には為し得ない部分を担当していたのが「神」ですから、それは容易に行える。
 つまり、オカルト(科学的に拾えない部分)です。
 二人の出会いは偶然の産物でしょう。でも偶然にも多くの原因が存在します。ここで出会った偶然から始まり、遡れば地球が生まれた偶然まで。
 それを全部把握するのは面倒だ。だから、「運命」でいいじゃないか。ああ、非常に楽ですね?
 だから、出来事に「運命」と意味付けをしているのは人間です。自然にある全ての物質に予め定められている意味なんて無いんです。
 自然界にあるのは「作用」「反作用」の連続だけです。
 「原因」→「結果」と結びつく永遠の連鎖作用です。
 その一部分を切り抜いて理解しようとするのが人間で、それを理解できない時には「運命」というオカルトで納得しようとします。
 それは人間が作り出した知恵の結晶です。
 だから、「運命」を軽んじてはツマラナイ。もっと愉しんで使っていこうじゃないですか。
 結局のところ、「運命」というものは自然の巨大な流れの中にある、とてもとてもピュアでパワーを持った“出来事”を理解する手段なのです。

2003年12月12日

人の世界(初稿)

「世界」は一つでしょうか?

“地球”は二つはありません。物質として「ひとつきり」です。
(昔、ドラえもんのお話の中に“太陽の向こうからを回っている第二の地球がある”という回があったのをおぼろげに覚えてますが)
 通常、物質というものは、全てユニークな存在です。同じ物質はありません。

その物質は誰かから観察されると、そこに「存在」することになります。難しい論を立てるつもりはありませんが、誰かが観測しないとモノとして意味と価値が付与されず、結果として「世界に存在しない」ということになります。
待て、自分が見なくたってモノは消えたりしないだろう?何を寝ぼけたことを言っているんだ、
・・・という意見が聞こえてきそうです。
でも、誰とも関係しないような誰にも影響を全く及ぼさないものが、世界に存在している、というのは概念として不確実なことではないでしょうか。それは「無い」に等しいと言っても問題はない。

もし仮にそうなら、「自分」は知らないけど、「誰か他人」がそれを確認した場合、それは「誰か他人」の中では存在することになるでしょう。でも、「自分」の世界には存在しません。その人から、「あった!」という話を聞いても、それは「自分」の中では架空の物語と同等なはずです。
何もそのモノが存在した確証が無い。その「誰か他人」を信じるのでしょうか?

つまり、世界は一つだけのはずなのに、物質が“あったり”“なかったり”不安定です。
それは「物質」の価値付け意味付けをしているのが無数に存在するからでしょう。
人は「意味の無いもの」「興味の無いもの」を見逃すこと認識しないことがあるでしょう?見ているはずなのに記憶に残らない。道に落ちている全てのものを覚えていますか?それはその人の中では存在していても存在していなくても同じなのです。
でも、別の人からすると、それはなくてはならないものかも知れない。同じ焼き芋でも、男性と女性では明らかに価値が違う。

これを大前提とします。

つまり、「世界というものは確実に一つしかないものではなく、人の数だけ無数に存在するような意味と価値を総合したもの」と。

 人は、「自分が見ている世界」を「全ての人が見ている世界」と同じだと思っているのでしょうか?
 「好き嫌い」は誰にでもあるでしょう。「趣味の違い」「考え方の違い」というものもあるでしょう。このように、根本的に日常の中でも他人と自分の差異というものを認識することはできます。
 そして、そんなときの人の反応はこうです。
「お前はどうしてトマトを嫌いなんだ?おかしいんじゃないの?」とか、「鉄道が趣味?どうしてあんなものが好きなんだ?暗いなぁ!」とか。差異は平気で認めているのに、自分と違うものを理解できないと平気で切り捨て中傷しようとする。
 他人の世界を支配したいのか、何も考えていないのか。

 何故このように思うのか。人は「世界」を見る時に、一度自分の価値観を通してから見ることしかできません。
 自分以外の何者にもなれず、自分でしか世界を見ることはできないのです。例えば演じているからといって、自分の価値観からは逃げられないでしょう。
   つまり、「世界+自分=自分の世界観」です。それは、他人の世界(他人を構成する全て)を見る時にも同じことが言えます。
「他人の世界」を100%、その人が見ている世界通りに理解することはできません。
 他人の世界を見ているのは自分である限り、理解しようとするときに、全て自分の価値観で置き換えてしか納得することはできません。そこで納得できない変換できないものは「理解」できないものとして、「自分の世界」には存在できないのです。
 つまり、どうしたって他人と自分は完全一致なんてできないのです。
(物質がユニークであるので)

 なら、人はどこまで行っても分かり合えないのか?
 そんなことはありません。
 極論は嫌いですし、一元論二元論も嫌いです。
 絶対にこうだ!とか、こうじゃないなら、こうだ!というのも好きじゃない。そんなに単純なものじゃないでしょう。
 分かり合えます。解ろうとする努力を惜しまないことです。100%に限りなく近づく努力は可能でしょう。だから、全ての人と分かり合える可能性があるのです。
 それを阻害しているのは、「自分の世界」です。

 まず、「世界」は「自分の価値観」で見ていることを知覚します。
 つまり、自分以外の人も全員がそれぞれの価値を元に世界を持っているということです。
 すると「世界」は自分の考えているような単純なものではなく、無限の広がりを見せます。複雑に事象同士が影響し合い絡み合っています。
 これができない人は、要するに“視野”が狭い人です。
 自分の世界を見るので精一杯(または他に無関心)で世界という空間の広がりを認知できません。頭でっかちであり、「自分の世界」の論理を他人に押し付けようとします。我侭で傲慢です。
 自分の価値観以外の存在の排除、多様性への苛立ち、他への無理解と無配慮。その他多くの弊害を生み出します。

 次に、他人の世界を理解する時にも「自分の世界」の論理経験をもとにしていることを認識します.
 相手のことを推測する。断定はしてはいけません。自分がこうだから、きっと相手もそうだ、というのは可笑しいですよね?
 これを気をつけることにより、思い込みや勘違いを防ぐことができます。相手の言葉を自分の言葉で解釈するので、相手の言いたいことが100%伝わっていないと知覚します。
 案外できていません。人は「言葉」が通じると「理解」まで通じると思い込む人がいます。「言葉」というものは、大抵の場合は相手に自分の本当に言いたい事の半分も伝わっていないのです。
 何を言っても解ってくれない!と不満を口にしている人の不満すら、周りには伝わっていないのです。
 だから、他人の考えを解った振りをしない、「言葉」を信頼し過ぎないことを忘れない。
 これができない人は、人の話を理解しているつもりでも相互理解齟齬を起こしている、そして、それに気付かない。
 自分の意見を押し付けたり、被害妄想を起こしたり、邪推、余計なお世話など様々にコミュニケーションの阻害が良い例です。
 そして、そうしたことを認識することも前提となります。

 簡単だと思いますか?貴方は、日常、どれくらい実践できていますか?頭でわかっているのと身体で実行しているのは違います。納得できていても、できないなら解っていないのと何ら変わりませんから。
 
 これらのことは、何に役に立つのか。
 それは人に対する「理解」と「和」の創造です。
 この前提があって初めて、人は他人を「理解」することができます(解った振りではなく)。逆にこれができていない人は、いつまで経っても一人です。
 日記の方で例として書きました都市の話で言うならば、流通を禁止して自分の世界からは一歩の出ない状態です。
 不健康ですね。

 都市と都市は姉妹都市を提携し、交流し、理解に努め、互いにより良い発展を遂げられるように考える。それには自都市の閉鎖した論理ではなく、より全に向かって広がりを持った論理を持たなくてはなりません。
 違うものを違うと排除するのではなく!
 むしろ、違うものと違うものは違いを理解して内包し変化するくらいの寛容さが大事なのではありませんか?
 固執する自分というものは、案外柔軟です。人間は適応能力に優れていますから、どんな変化にも対応できます。
 そんな素晴らしい能力を、決して「停滞した論理」で阻害してはいけないと、私は思います。


2003年12月11日

ロジカルコミュニケーションのススメ

「ロジカル・コミュニケーション」とは、

ある目的(ビジネス目的)を達成するために、相手との合意形成を行う活動、

である。

日常のコミュニケーションとは異なり、相性の合わない相手でも折り合いを付け、合意を目指さなくてはなりません。
友人関係なら嫌なら付き合いを拒否すればよいですが、取引相手ではそういうわけには参りません。
そこで、ロジカルシンキングにより効率と信頼を勝ち取ることが求められてくるわけです。
なかなか頭では当たり前と解っていても、実践することは困難ですね。曖昧さを美徳とするような文化が多少なりとも心のどこかにある限り・・・・。


対人関係にはいくつか種類があります。大きくわけ、上に対するもの、下に対するもの、そして、横に対する関係です。
まず、上に対する関係では、以下の項目に注意するべきです。
1.まず互いを認めること。良い上司であることを求めるなら、まず自分が良い部下になる。自分の価値を認めて欲しいなら、まず上司のあるがままの価値を認めること。
2.上司と部下の関係は「大人と子供」の関係では無い。対等な大人同士の関係である。下には下の、上には上の役割がある。相互依存の関係であることを忘れないこと。
3.上を動かせないものは、下も動かせない。上司を動かすことの方が部下を動かすことよりも比較的楽である。上司すら動かせないでは部下は尚無理である。
4.自分の問題や責任は上司が荷っている。そして、上司の問題や悩みは自分の問題であり、責任であることを認識すること。
5.上司に理想像を求めてはいけない。理想のパートナーを目指すこと。上司を貶しても良いことは一つもない。
6.自分の評価は達成した成果だけでは決まらない。自分の存在自体がチームにとってプラスかマイナスかと誤らずに認識すること。
7.上司が間違った判断をしないよう情報を提供するのは部下の役目である。正しい情報とアドバイスを行うこと。上司に誤った判断をさせてはいけない。
8.上司に提案するときは3度まで行う。
9.上司からは責任感があり、全体を優先する人であると思われること。
以上が対上司関係を良好なものとする重要な認識である。

次に同僚・横の関係について見ていく。
1.全てのメンバーが公平な負荷であること。
2.チームワークを乱すものがいたら、改善か追放を判断する。放置しない。
3.仕事は全てのメンバーが関わり、誰が責任者であるか確実にする。
4.仕事は必ず一人に任せず、できない時に備え、予めフォローできる人を配する。
5.仕事の分担は、その仕事を好む人を優先的に配し、それができない場合は公平に割り当てる。
6.全体の事情と自分の立場を考えて、自分の「責任」を確りと把握する。
7.役割は必ず自らが買って出ること。できない場合はリーダーが決める。
8.緊急事態の時は、役割を超えて率先して協力しあうこと。
9.報告・連絡・相談はリアルタイムに行えばければいけない。
10.チームワークは、目的を達成するために何よりも大事な要素である。

【折衝に臨む際の心がけ】
 相手を打倒しようとしてはいけない。
 こちらが勝利、あちらも勝利することが原則である。
 ともに勝てない場合、その関係は一度きりのものとなる。

 ロジカルコミュニケーションでは、
「価値観の対立」を認識することが前提である。
状況認識・立場・相性・考え方・方法論など、色々な要素で相手と自分には価値観に差異が生じる。
 対話の際には、その違い(対立)を両立に変える必要がある。
 その方法には、二つあり、「ディフェンス型」「オフェンス型」である。
 ディフェンス型とは、小さい要請から始めて、徐々に要請を大きくしていくことで合意形成を促す。
 オフェンス型とは、大きい要請から始めて、徐々に要請を小さくしていくことで合意形成を促す。

【コミュニケーションスキルの基本】
 リスニング能力が大切である。
 ・パッシブ・リスニング(受動的)
 ・アクティブ・リスニング(能動的)

【パッシブ・リスニングとは】
 質問に対する回答を受けとめ、相手に対する共感性を表す。
 話の内容を整理・確認することで対話をリードする。
具体的には
a.あいづち・・・「はい」「うん」「そうですね」等
b.繰り返し・・・相手の言葉を繰り返す。
c.まとめ・・・相手の言葉を一度まとめる。
d.共感・・・共感の言葉で反応する。
e.促し・・・相手の発言の先を求める。
f.話題転換
g.言い換え・・・相手のネガティブな言い方をポジティブに言い換える

【アクティブ・リスニングとは】
相手に質問をして、会話を誘導する方法。
・謙虚に質問をする。
・相手の話を絶対に遮らない。
・回答に困る問いはしない。
・客観的な事実で質問をする。
・誘導尋問をしない(答えを操作しない)
・一度に沢山の質問をしない。

具体的な流れは、
 1.状況を聞く(状況の確認)
 2.問題を聞く(問題・不満・苦情の確認)
 3.影響を聞く(問題がもたらす影響の確認)
 4.対策を聞く(相手から問題に対する対策の確認)

 ここでわかるように、全部質問です。
 質問攻めにならないようにアクティブとパッシブを組み合わせてください。
 こんな感じです。

2003年11月29日

探求

・・・
愛とは、目に見えるだけのモノじゃない・・・
愛とは、誰も始めから分っているものじゃない・・・
愛とは、求めれば必ず返ってくるようなモノじゃない・・・
愛とは、与えれば必ず返ってくるようなモノじゃない・・・
愛とは、見えていたとしても、いつでも見えるモノじゃない・・・
愛とは、自分の満足のために得ようと思うものじゃない・・・
愛とは、一人善がりな空想じゃない・・・
愛とは、決して時間と共に消えていくものじゃない・・・
愛とは・・・・

真に一つの愛なんて存在しない
そもそも愛という概念だって、今の世の人の常識に依存している
なら、不変的な愛はあるのか
人の価値観、感情は時代により常に変質していく
生や死の概念すら変わる_
ならば、愛の概念も変わっていくのだろうか
本質的なところでは、絶えず変わらずに在り続けているのだろうか
人がそれを様々な方向から認識しているに過ぎないのだろうか
ならば、愛の真理を求める上で社会性に捕われてはいけない
狩猟民族が獲物を取ってくる行為や家族を護る行為は愛に起因するものであるにしても、愛そのものではない.
誰かを愛して大切に思い、一生を添い遂げることも・・・
ならば、問おう。
愛の真理などを解くことの意味を。
自らの生きる世界にそぐわないかも知れない真理などを求める意義を。
人はどうして、その奥にある真理を欲し、得られずに絶望するのか。
手の届く愛から生まれた幸せを、どうして「愛」してやれないのか。

人の心の中にある「愛」する本能。
人は「愛」から生まれた代換の愛に慣れ過ぎたのか。
語り尽くされた愛は「愛」へと人を導く意味を失ったのか・・・。
だが、きっとあるはずだ。
愛は「愛」へと昇華できる。
そう信じて。

2003年11月20日

「愛」するということ(煩悶)

人はどうして愛することを望むんだろう。愛が無いと寂しいと思い、愛が無いと悲しくなるのは何故だ。人は他人との関わりの中で自分を認識し、自我を形成する。だから他人と愛を持って接するのか。ならば、友でも良いのか。友と愛を置換できるのか。置き換え可能なら、二つも言葉は要らぬ。意味に違いがあるからこそ使い分ける。
友とは影響を与えてくる「他人」。親友とは、それを親しくしたもの。友情とは、友との間に共有関係と感情が生まれた状態。影響とは、社会的に反応し合う結果としての事象と感情の発起、関係性。それは、主に「客観的現象」としての状態説明なのだろうか。
だから、寂しいという感情を満たすためなら友でも事足りるか。ただ、友とは他人である。どこまで行っても如何に親しくなろうとも。他人。

愛。
多く人が語り検証し実証し理解し悩み見失い問い惑い疑い喜び謳い失くす。これほどまでに探求されてきて尚、真理には行き着かない。
否、真理は確実にあり、それが見えないだけである。
存在として認識されている以上、真理は決然として在るのである。無いと思うことは盲目的信仰だ。
愛を無いと思う人は、愛について否定することはできない。愛が無いとも語れない。愛は無いのだ。認識できないものを考えることはできない。認識した時点でそれは存在する。
愛という行動原理はどこにある。
どうすれば愛するという行動が行える。
愛すると思って行う行動は、それを愛のある行動とはいえない。模倣すべき理由は真に愛では無いからだ。愛だと信じられている行動は愛の下位属性である感情を満たすだけの行為に過ぎない。
そもそも愛に形などない。概念だ。
愛とは何だろう・・・(続く)

2003年11月14日

たびWebシステム

「たびWeb」というシステムがある。
パソコン(端末)を使って国内旅行海外旅行旅館の予約などをオンラインで行うことができるシステムだ。今でこそ当たり前にあるオンライン予約システムだが、前身は1988年から受け継がれているシステムから端を発している。
私はこのシステムの開発を行っていた。
否、今も関わりはある。

「たびWeb」システムを使用しているのは、JTBの提携販売店だけである。提携販売店というのは、JTBと販売店契約を結んでいる他社旅行会社や旅行代理店である。この提携販売店はJTBの旅行商品を扱うことができる。この旅行商品を提供する代わりに、中間マージンを取るわけである。こういった旅行代理店を通じて、皆様も知らないうちに利用しているかもしれない。

JTBの旅行商品には、ご存知の方も多いかも知れないが、国内旅行のエースJTB、海外旅行のルックJTB、そしてJTBと契約している国内旅館ホテルの部屋、販売委託されているディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンなどのチケットがある。

昔は、旅行代理店に足を運び、旅行に行きたいと相談すると、パンフレットなどを見せて貰って宿やプランを選別する。そして、これと決めてからお店はJTBに在庫の確認を行う。もちろん、在庫が無いなら旅行はできない。
その確認の手段は、電話かFAXだった。いちいち電話で在庫の有無を中央センターに確認する。そして、予約の申し込みはFAXにて執り行う。すると、どうしても手間が掛かったり、タイムラグが発生したりする。それでは業務効率が悪くなるだろう。

そこで、オンラインシステムが開発されることとなる。
随時端末(当時はインターネットがないので専用回線を引いていた)を使って在庫の確認ができ、そこで予約まで行える。便利で画期的なオンライン予約照会システム「たびネット」が誕生したのである。

だが、問題点はある。
専用線というのは非常にコストがかかり、また端末の設置スペースが足りないお店も沢山あった。また、「何故JTBの端末を入れなくてはいけないんだ」という他旅行会社の意地もあった。そう言った「たびネット」から漏れたお店は、引き続き電話とFAXが主流だった。

安価で場所を取らないオンラインシステムの登場を待つことになる。

1995年。
世の中に「インターネット革命」の嵐が吹き荒れる。

どこもかしこもインターネットインターネット、という風潮は旅行業界にも訪れた。各社はインターネットを使った情報戦略を展開し、インターネットは大きな情報源となりつつあった。
インターネット回線は普及し、パソコンも安価になり、そして社会に普及していくことになる。

そこに目を付けて、JTBは安価版の「たびネット」を開発する。
「たびWeb」である。たびWebは専用線の代わりにインターネット回線を使用し、配線設置費用を軽減し、専用端末の代わりに既にお店が所持しているパソコンで利用できるアプリケーションを開発することで設置スペースの問題を解消、また簡単にインストールできる利便性を売り文句に他旅行会社の重い腰を上げさせる。
こうして、「たびネット」から漏れた提携販売店は「たびWeb」が導入された。

「たびWeb」はJava言語で開発されています。
Javaとは「プラットフォームを選ばない」「どこででも使える」という利点があります。windowsでもunixでも使える(マルチプラットフォーム)。元々は家電向けの組込機器用のプログラミング言語です。
家電には様々な種類があります。その全てで稼動できるように設計されました。インターネットも同様に、利用する端末が何か確定しているものではありません。その異機種混在が共通点となり、Javaはインターネット時代を担うプログラミング言語として注目されました。

さて。
そんなJavaテクノロジを採用して作られた「たびWeb」が稼動したのは2000年。今から3年前です。
時代は流れ、技術も日進月歩の発展を遂げた今、システムは古くなりつつありました。ちょうど利用率も低下し、改修を行う必要が出たときに、「どうせなら新しいものを」作ることになります。

それが現在の「たびWeb」システムです。
2002年2月に開発がスタートととなり、当時では新しい技術「Struts」というフレームワークが採用されました。構造はサーバサイドJavaアプリケーションで、サーバはUnixです。

アプリケーションサーバにはApacheを使用、サーブレット/JSPにはTomactを使用しております。
サーバサイドアプリケーションとは何か。
今までの「たびWeb」は提携販売店にプログラムをインストールしてました。これにより如何にJavaを使おうとも提携販売店のパソコンが遅ければ処理も遅くなってしまいます。そういった点の改修要望として出されていたために、新しいたびwebでは処理を行うプログラムをホストサーバに設置することにしました。
そして、クライアント(提携販売店)はIE(Webブラウザ)を使ってシステムを利用するWebアプリケーションの形式を採用しました。
これにより、提携販売店はブラウザのみあればシステムを利用できる簡便性とPCのスペックに捕われない安定性を手にすることができたのです。

まあ、簡単に言えばそんなシステムです。

2003年11月12日

Jazz

「Jazz」
生まれて23年間、一度足りとも意識したことはなかった。
意識し始めたのは3年程前である。
だから、Jazzについて何か語ろうとしても、基づいているものは経験ではなく、付け焼刃の知識でしかないのだ。
Jazzをネイティブに体感してきた人々からすると、自分はまだ幼稚園入園時の体感しか持ち得ていないことになるだろう。
だから、Jazzを身近に感じたことはないし、近しいと思ったことも、懐かしさを感じたこともない。
特別に不思議なことではない。

私が彼女と付き合い始めたのは約4年弱前。
季節はクリスマス。
切欠は演奏会だった。
それ以前から知り合ってはいたが、契機はそれだった。
彼女と付き合ってからJazzは無意識の音楽から意識下にやってきた。

すると不思議なことに、
今までは環境の一部でしかなかったJazzが、ありありと存在感を持って私に歌い掛けてくるようになった。
彼女がJazz演奏のサークルに入った手前、公然と嗜好していると言うのは、矢張り憚ってしまうのだが、Jazzはとても興味深い。良い音楽だ。
だが、残念なことに音の「Jazz」だけでは、それの持つ深味を識るには至らない。
それでは不十分だ。
Jazzの背景にあるものは、3年程度齧っただけでは、到底掴み切れるものじゃぁない。
否、それは学ぶものじゃなく、体感するものなのだろう。
自分はそれを知りたくて、トランペットを買ってはみたものの、吹く暇と気力が足りず、以来仕舞いっ放しだ。
今では彼女に、その体たらくを苛まれている。
そのことも良くわかる。楽器に対して非常に失礼千万なやつだ。
だが仕方ない。
私はそう判じた。
ただの言い訳に過ぎないのだが、私には恐らくは荷が重かったのだろう。一つの音楽を極めること、その世界に入ることは並大抵の覚悟ではできない。
片手間にやるくらいなら、Jazz消費者になった方が賢明だと思う。
分に合っているというのか。
だから、自分はJazzを表現する側には一生立てない、かも知れない。

ところで、Jazzは人の声に近いという。
私はJazzを聞くにつけて、悲しい気分になることがある。
それはJazzの背景を垣間見たからなのだろうか・・・。
音は人の声であり、叫びとなって届く。
歌い上げる演歌の熱唱のように、それは言葉の意味を超えた響きとなって人に届くように・・・。


2003年10月末日

高原

時間はゆったりと流れている―
風が心地好く頬を撫ぜ、草原を渡り、山の麓へと続く
日差しは優しく、眩し過ぎず、そしてポカポカと身体を包む
身体の下から緑のツンとする匂い、風に乗ってくる山の息吹、お日様の香り、全てがとても涼やかに、私を浅い眠りへと誘う
静かな大気
風鳴りが時折、小鳥の囀りと共にやってくる
牛と山羊が草をはみながら、友を呼ぶ声
静かな大地
さわさわと、草原を走る風の音

ああ、ブルガリアに生きたい。
限り無い自然に抱かれて・・・・・・

ヨーグルト食べ放題。

海よりも山が、夏の高原が好きです。
考えるだけでも愉しい気分になります。
ばかみたいに暑いのではなく、避暑地のそれ。
湿度もそこそこで自然の風が涼風。
小川とかあっても良いですね。



2003年10月29日

知覚=世界

物事を認識すること、それは即ち世界を識ること。
知覚して初めて、「モノ」は存在として立ち現れる。
誰からも知覚されない存在は、存在として成り得ない。
誰からも認識されていない存在は、存在しないことと同義である。

自分が自分として世界に存在している証明を、何に求めるのか。
曰く、「友人」である(引用元、作家Kのメール)

確かに他者と自分との差異だとか、
自分と他者を別けている何かを知覚することにより、
自分をより鮮明に浮き立たせ、そして、他人に
写る自分を認識して自らを識る。
それはすなわち、自己の発現を見、自らの考えを客体として
みることで、自己を屹立とさせるだろう。

曰く、友であり「音楽」である、と(引用元、Jazz演奏家M)
音楽。つまり、自分が行うことのできる表現。
自己の中にあるモノを音楽という方法(出力)によって発現し、
その結果や過程を持って、自分を自分足らしめている。
それは意志であり、主張であり、そして誇りや自信などにより
自己の際立たせであり、それによる他者との干渉と注目である。
前者の「友」という要素を補完する上での手段なのであろう。

「友」と無関係の他者との間には隔たりがある。
無関係というように関係がないため、自分を客体として写しとして見ることが困難である。打てば響かねば意味がない。
絶えず外部に対して意志を発し、そして、認識することにより、自己を読み取る。


2003年10月28日

香りとフェロモン

昨日、彼女が薦めた香水?を買った。
昔していた香水が切れてしまったので、吉祥寺の丸井に行ったついでに買ったのだ。
人から発せられる匂いというのは「フェロモン」「体臭」「家の匂い」「服の匂い」と様々ある。
体臭とフェロモンとは似て非なるものだが、同類のものだろう。
そのうちのフェロモンとは、人と人が惹きつけ合うために、必要不可欠なものである。
だから、香水により擬似フェロモンに騙されてはいけない。
諸兄諸姉の皆様、その人の持つ本来の匂いで相手を判断するようにしよう。
それが本当にDNAが求めている相手なのだから。
(フェロモンとは種の保存の上で必要不可欠な遺伝子配列識別機能なのだ!だから、フェロモンが受付ない=良い相手ではない)
ちなみに、私と彼女の場合、互いに無着時の匂いが快いので問題無い、というわけである。

ちなみに、薦められた香水は「LiveJazz」

ジャズ好きの彼女のセレクトだ。


2003年10月27日

擬似世界の代償

ガラスの向こうの世界は、
 ここの世界とは違うものなんだよ。
だから、君は向こうにはいけない。
 もし―
  君が向こうの世界に移ったら、
   この世界の君は消えてしまうだろう。
消えてしまったら、私は寂しいし、悲しい。

夢の世界。
 それを人は空想と呼び、夢想と言い、妄想と蔑む。
だが、人はそれを求め、
 夢と現は境界線を失う。
  恰も現実の如く振舞う擬似世界<ヴァーチャル>。
現で失いかけた繋がりを求めて、
 見失った夢と希望と期待を求めて・・・

人は二つの世界に生きることはできない。
 何故なら属性が違うんだから。
もし君がこちらに絶望しても、決して夢に堕ちてはいけない。
 君の本当の帰る場所は、こちらにあるはずなのだから。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

今、擬似世界が非常に現実に近づいている。
だが一枚のフィルターを通した擬似世界は「現実」ではない。
もちろん、そんなことは当たり前の認識だ。

だけど、少年期には当たり前とは言い切れるだろうか?
少年の頃、貴方も貴女も感じただろう。
アニメの世界が現実にあるのかも知れないと夢を見ただろう。

それが、ただの観察なら良い。
見るだけだ。あると想像するだけなら、ないと思い知れば良い。
だが、体験だとどうだろう?
それは記憶となり、記憶は蓄積されて経験となる。
たとえば、非常に現実的な夢は現実と錯覚する。
(幽霊やUFO遭遇体験の多くはそうであるように)

擬似世界で別の自分を演じた時、その「自分」は自分では
ないことを認識できるのは、本当に自分を認識した人だけだ。
自己の形成の不十分な少年期には、それを保障することはできない。
自分が何なのかを認識する妨げにもなりかねない。
自分を見つけられないと・・・待っている将来は絶望的なものだ。

少年犯罪が多くなった昨今。
そんなことも背景の一つになったりはしないか。

AVを見て性犯罪を犯すもの。
ゲームをやって殺人を犯すもの。
引きこもり。
等々。

人は別の形態への進化を始めようとしているのだろうか?

2003年10月23日

心、成長の機会

生きていると、どうしても引くに引けない頑張りどころ、という場面が幾度か出てくるわけです。
いくら平和に安泰に安穏と順調に生きていてもです。
その時に、逃げずに立ち向かわないと、真剣に考え抜き最良の選択肢を取れないと、成長しないんだよね。

正念場、と書いたけど、つまりは戦わないといけない時です。
こういう時は、自分の力が足りない、または苦手とするものに向かう時です。

心がどうしても挫けて、
弱気が気持ちを支配して、
現実逃避に走ってしまいそうになる。
安穏と生きていければ、良いと考える。

だけど、
心に気合を入れて立ち向かわないといけない。
たとえ、理解してくれる人がそばにいなくても。
無条件で支えてくれる人など、そうはいないのだから。
今はただ、唯一微かに見え始めた光に向かって、
進まなくてはいけない、と思う。


この精神的試練は高校生の頃以来ですね。
やっぱり一人で戦わないといけないのだろうか。

2003年10月22日

比翼の鳥

【原語】中国での、想像上の鳥。雌雄が各々つばさと目を一つずつもち、つねに雌雄一体となって飛ぶという鳥。男女の仲の深いこと、愛情がこまやかなことをたとえていう。羽を交(かわ)せる鳥。比翼。

世の中には運命の相手がどこかにいるという。
その相手に巡り逢えて、そして一生を添い遂げられれば、それは幸せなことなのだろう。
比翼の鳥のように、絶えず傍にいて、そして相手の翼となり、相手の目となり、空を飛ぶ。
片方が死ぬと、もう片方は生きていくことはできないで、死ぬ。
一蓮托生。
運命共同体。
果たして・・・。
羽が一枚しかないから、鳥は2匹いないと生きられないのか。
2匹が常に一緒にいたがために、鳥の羽は不要なため1枚が落ちたのか。

もしかしたら、前者なのかも知れない。
そうすると、決して美談でも何でもなくなる。
いや、敢えて後者ということにしておこう。

結局は結果論であって、過程論ではないのだから意味はない。実在の鳥でもないし。
そうすると、何か理由があって生まれた物語なのだろう。
神話とはそういうものだ。
意味の無い神話説話は存在しないのだから。

出所が中国なのだから、きっと儒教思想とかそう言った類のものなのだと思う。
じゃあ、やっぱり仲良くないとだめ、ってことで羽が一個しかない。
ファイナルアンサー?

2003年10月17日

ハローベイベー


―自分って何なんだろう―
―自分が今いる居場所ってどこなんだろう―

そんなことを、ふと思うならば、
「自分」がどこかに迷い込んでしまっている。
助け出したいと思っていても、どこにいるのか分からない。

わずかな焦りと、
 ぽっかりとした空虚がそこにはあるだろう。

『世界から切り離された』絶望に包まれて、
 自分の存在など無くても良いと決めつけて・・・
  君は、悲しみと諦めの夜に眠るとしたら、
 もう一度目を開けてごらん。

 なくなったんじゃない。
 ただ見えなくなっていただけで、
 確かに君はそこに存在して、
 かすかな光で瞬いているから。


 せめて、君だけでも、その光に気づいてあげれば、
  もう一度、世界を照らす明かりになれると、
   僕はいつまでも信じている。


ずっと・・・。



2003年10月15日

はろーべいべー

愛は、人が人たる所以である。
愛は、基本構成要素である。
愛は、エネルギーであり、生きる力の根源。
愛は、遍く大気に溢れ、それは生きている人総てに等しく享受される。
愛は、欠乏すれば人を鬼と為し、人を人ではなくする。
だが、愛は失われたものではなく、愛を受ければまた人と成る。

愛を受け、それを身の内にため込み、自らの楽しみにし、
 また気付かずに、産み作り出さずにあれば愛は意味を失せ、
 愛は「場」から減じる。

愛とは、人が人に意思を伝える手段である。
愛が満たされた空間では人は言葉を介さずとも、愛が言葉を補完する。
愛が減じた空間、その存在が認知できないような事象同士は、  互いの理解により多くの言葉と経験を労するように。
愛とは相対な価値ではありえず、本質的な意味は変わることはない。
愛を比べることは無意味で、
 それは愛によってモタラサレる価値への欲求にすぎない。

愛とは何か。

いわゆる「恋愛」状態にある男女間には「愛」が少ないことはけして稀なことではないのかもしれない。



誰か・・・示して欲しい
 小さな光でもいい・・・
愛が歪められた世界で
 偽物の愛が溢れているこの世界で
  「愛」に満たされた、その場所を・・・・・・・・・

2003年10月8日