胎動
目が覚めたとき、部屋の空気にはなつかしい匂いが混じっていた。最初、良彦はあれっと不思議に思った。その匂いを思い出すのに少し時間がかかったのはその甘い思い出ををさえぎる心の扉があったからだ。それは味噌汁の匂いだった。妹が台所でつくっているのだろう。それは毎日習慣的に匂ってくるものではなかったが、一年に二度か三度というほど珍しいものでもなかった。それをなつかしく、というより胸が苦しくなるほどいとしく思うのは、それが母の思い出につながっていたからだ。あの頃、味噌汁の匂いは、毎日習慣的に匂ってきた。
「あ、起こしちゃったかな」妹は、明るい笑顔で台所に立っていた。彼女は生来陽気な性格であるが、時々、陰りが見えるときもあった。しかし、それを表には出さないようにしていた。といっても妹のことであるし、良彦には分かった。そういうときでもなるべく普通の態度で接するようにした。「どうしたんだ。元気がないじゃないか」とか「大丈夫か。元気出せよ」とかいう言葉は、良彦は口にしたことがない。彼らは二人で頑張って生きてきたのである。ぎりぎりに、苦しさを歯を食いしばってやってきて、しかし、そんなことを口に出したら自分たちが惨めになって、この平穏が崩れてしまうのではないかという恐ろしさもあったのである。
彼らの両親は、良彦が中学一年の秋に死んだ。北海道へ旅行に行ったときに、トンネルの岩盤が崩れて、バスもろとも生き埋めになったのである。その旅行は、良彦と妹のマリヤが小遣いをためて、両親にプレゼントしたものだった。父も母も、中学卒業で、器用に生きていくタイプの人間ではなかったので、彼らが働いている工場でも、工場主の都合の良いように使われていた。その内情を兄妹は知らなかったけれど、そんな働きづめの両親に一度はゆっくりとした時間を持ってもらいたくて、北海道一周旅行をプレゼントしたのである。
両親の死を知ったとき、二人は、泣いた。周りの人がこのまま彼らは狂い死んで行くのではないかと思うほど、泣いた。兄妹は、絶望的に悲しかった。神を、呪った。悲しみの涙よりも、怒りの涙が優った。
両親をなくした彼らを引き取ったのは母方の伯母だった。ずっと独身で暮らしてきた伯母は喜んで彼らを引き取り、最初はうまくいっていたのだがいつの頃からか、伯母とマリヤの関係が険悪になった。たしかに伯母は良彦に対しては文句を言うこともなく接したのだがどちらかといえば性格が内にこもりがちになるマリヤに対しては感情をあらわにして叱ることが多くなった。食事の手伝いとか掃除とかマリヤは自分たちを引き取ってくれた伯母に対して感謝の気持ちを強く持っていたので、一生懸命努力して報いようとしたのだが、伯母の目からは何かにつけて怠けているようにしか見えなかったようで、ついには殴ったりもするようになったのである。良彦と伯母はうまくやっていたし、要らぬことを言って兄を心配させるのはマリヤにはいちばんつらいことでもあったので、ずっと我慢したのであるが、マリヤの様子がこの頃おかしいと思い始めた良彦の言葉に、耐えていた思いがあふれて激しく泣いてしまった。涙はあふれて、止まらない。
「伯母さんだろう?悪かったよ。前から僕は気付いてたんだけど、黙ってたんだ。だって伯母さんを怒らせてしまったら僕たちは行くところがなくなっちゃうし、僕にはどうにも出来ないと思ってた。でもそれは僕が逃げてたんだと思う。ごめんな。僕はマリヤが好きだし、これ以上マリヤを悲しませられない」
良彦は決心して伯母に事情を話した。伯母は「恩も忘れて生意気だねえ、あんたたちは犬猫にも劣るよ、死んだ妹もわがままし放題で好き勝手に生きたけど、あんたらもその『血』だね」とののしった。良彦は今まで見たことのない伯母の剣幕と形相に、やっぱりここを出ることにしてよかったと思った。
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男は、良彦のPを強く握って「痛いか」と言った。良彦は下着を口に押し込まれていたので、喋ることが出来ない。
「ここ何年かの間に少年が数人失踪した、って聞いたことないか?」良彦は首を振った。
「そうか、知らないのか。残念だな。知ってたらそいつらがどうやって殺されたか、教えてやろうと思ってたのに」
良彦は男の「殺す」と言う言葉に、ビクッと反応した。
「へへ、怖いか。今、ここもビクッとふるえたぜ」男は良彦のPを執拗に、いじった。
「いろんなこと、やったぜ。きんたまをな、握りつぶしたりな。握力検査するときみたいに、力いれて握りつぶすんだ。叫び声さえ出せずに失神する。ションベン、垂れ流しだぜ。それでもまだ死なないんだ。俺は、刃物を使うのは、嫌いでね、俺は俺の筋力で確実に、殺す。スカッとするぜ。気持ちよくって、いきそうになっちまう」
男は興奮してよだれをたらして喋りながら、睾丸を強くもんで、良彦がうっと強く呻くのを楽しんだり、尿道を指で開いて、その鮮やかに赤い肉に、爪を立てたりもした。
「へへへ、怖くても、勃つんだな」
男は臭い息を吐きながら、下卑た笑いを、浮かべた。たしかに、裸にされ、縄で縛られて、男にいたぶられても、良彦の性器は、勃起していた。それは快感であってはならない筈だった。しかし今まで味わったことのない恐怖心が背骨の奥のほうから疼き、それが、快感に似たものに、変わった。快感に似たもの。それは、良彦の性器を勃たせた。それははじめて味わう快感以上のものだったかもしれない。もしかしたらこのまま殺されてしまうかもしれないという絶望はずっと続いていたが、次第に快楽の血が脳髄を麻痺させているようだった。良彦の亀頭の先からわきたつように、先走りの液が、糸を引きつつ、したたり落ちた。男は、それが秘薬であるかのように、舌で、なめた。なめて、良彦の顔を見上げ、「うまい」と言った。そして、にやりと笑った。良彦は、自分が殺されてしまうことを、確信した。
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男の名前は深沢健一。昭和30年6月21日、早春のホタルイカと、日本でも蜃気楼が出る場所として有名な富山県の魚津市というところで生まれた。母の名は静子、父は健介。二人は富山の生まれではなく、大阪の粟井興業に勤めていた関係で、この地に来た。彼らは、「アワイ・パチンコ」のホール係をやっていた。今でこそパチンコ・ホールというのも健全に組織化されて、社員数も多くなっているが、その頃は、差別化されていて、そこに勤めるというのも、特別な人に限られていた。静子は集団就職で働いていた紡績工場に嫌気がさして粟井興業に入ったのだったが、健介は学生の頃から素行が悪く、殺人事件こそ犯さなかったものの、それに近い犯罪に何度か手を染めて、少年鑑別所に入っていたこともある。