シリーズ教育の挑戦 教育再定義への試み
鶴見 俊輔 岩波書店


 本書は「鶴見 俊輔」という人物を通して、教育とは何かを探る本である。彼は出版年に77歳であるが、経験を隠すことなく、その事実を一つ一つ丁寧に内面化をしている。彼の生き様というのを軸にして、教育を再定義しているのである。


 著者はどのような見解を持っているか?それは、自らが母親との関係の中で学んだ教育、人との関わりの中で学べた教育、国家と教育に大別される。著者の教育とは、


「教育は、それぞれの文化の中で生き方をつたえるこころみである。それは、あたらしく生まれてくるものにとっては、まえからくらしている仲間をまねることからはじまる。しかし、もっとよく見れば、まねることの基礎に、それを可能にする、自分のはたらきがある。・・・省略・・・。教えようとおとながこころみるときに、相手の失敗、抵抗、逸脱などから、自分の生き方への思いなおしのいとぐちを見つけることがある。それが教育が連続する過程であるということであり、教える−教えられるという相互的な過程であるということだ。・・・省略・・・生き方の中にあるものとして死に方を強引にひっくるめてしまい、死に方をも学ぶことであり、くずれてゆく過程でもあると言いたい。
 私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても教育はおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらか変わる。」P45


 生き方をつたえるこころみというのは、著者にとって葬式に立ち会うこと、近所の人とつき合うこと、仕事をすることなど、様々な生きていく上で必要なことを学ばせるということに等しい。その学びの場として、学校というものが真にふさわしいのだろうか?性教育として、学校にて教えることは本当に正しいのだろうか?なぜなら、学校という場(離れれば何とでもなるが)において異性不純交遊は禁じられている。にも関わらず、なぜ性教育が行えるのか?ここに学校の矛盾がある。著者は鬱病からの立ち直りに何が重要な役割を演じたのかを次のように記述している。


「さわることが、教育の中心にある。私にとっても、二度目の鬱病があらわれたときに私は三つのことをした。一つは、うまれた家を手ぶらで出てそこにもどらないこと。もうひとつは、精神病院に入ること。三つ目は、精神病院を出てから下宿ずまいをすること。その三つ目の決断から、四つ目の偶然力が派生した。その家にうまれたばかりの女の子がいて、彼女との毎日の出会いが、私にうまれかわりをうながしたことがある。・・・省略・・・性交をふくめて、さわることは教育の一部分である。このことと小学校からとりくめるといい。」P204〜205


 つまり、個人が自由に他者から学ぶことを重んじる姿勢が大切だという。では、国家と教育との関係はどうすればいいのだろうか?端的に表すと逸脱者を認められることが大切であるという。


「自分たちの所属する国家の政策に対する不服従は、困難をともなう。しかしこのことがなければ、戦争への手控えは事実上、ありえない。学校内と学校外とを問わず、この教育をなされる必要がある。それが日本国の文部省によって公認され、教室で教えられる日を待つことはない。この戦争はよくないとひとりが判断すれば、ひとりは離脱する。そのことがまず生徒個人の心にあらわれるようでありたい。」(P167)
「なぜ人を殺してはいけないかと、まっすぐに子どもが言ってきたら、私はどうするか。
 自分で決断する他ない。私は、自分を殺しに来るものがいたら(自分の子どもが私を殺しに来る以外は)逃げる。彼を殺そうとはしない。そのために自分が殺されるとしたら、自分の問題の解き方としては、成功と思う。
 ・・・省略・・・
 しかし、根本的に、なぜ人を殺してはいけないか。
 それは、自分で考えてえらぶ他ない。君が人を殺したいと思ったら、殺したあとどうなるかと考えてみて、それが自分の不利な結果をもたらすとして、それを受けいれる覚悟はできているか、と反論しよう。覚悟ができているならば、なるべく、そういう君とはつきあわない。他の人にも、君を警戒するようにすすめるつもりだ。」P172
「殺人はいけないか。自殺はいけないか。この問題について、科学による答はない。」P174


 同様に国家のための殺人、自殺も国家は答えを与えてくれるのだろうか。そんなことはないはずである。結局、戦場に立ったときに行動を選ぶのは自分自身で、そこで生きるために何を為すべきかを第一に考えるはずである。


 現代は高度にシステム化されてしまい、我々も逸脱することに対する恐怖というのは昔にくらべて大きくなってしまったんではないかと思う。しかし、著者の日米開戦以前からの経験に裏付けられた逸脱の勧めを読むと私は少し勇気づけられたように思う。


 本書は教育の「再定義」というタイトルである。だから、当然現実の社会のここを改造すべきであるという提言をしているわけではない。教育というものをこのように考えればいいのではないか?というエッセンスを提示しているに過ぎない。だからこそ、伝えられるものがあることを私は初めて感じた。

かかし

2003年04月25日 書

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